桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

雑誌『ムー』に書評を載せていただきました

「世界の謎と不思議に挑戦する」を看板に掲げる雑誌『ムー』(2021年11月号)に、拙著『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』の書評が掲載されました。

 

 

ムー 2021年11月号 [雑誌]

ムー 2021年11月号 [雑誌]

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著者は神社の始まりとして、それらよりもさらに大きな「日本列島の大地の歴史」を措定する。そしてそのためのタイムスケールとして、とりあえず「10万年前」という超古代史が提示されているから驚く。(中略)

 

それにしても10万年とは、いささかハッタリの効かせすぎと思われるかもしれぬ。何しろ10万年前といえば、その担い手がいわゆる人類、ホモサピエンスではなかった可能性さえ否定できないのだ。だが実際、出雲の砂原遺跡は、10万年以上前のものと推定されているのである。

 

「国譲り神話」の核となる記憶が、超古代の急激な気候変動による土地の広範な水没にあった、という著者の推論には、文字通り興奮を禁じ得ない。最新の考古学の成果と古代の浪漫とが華やかに融合する、まさに極上の一冊だ。

 

 

 

学生だった何十年前から、とても気になっていた『ムー』さんに、褒めていただいたようで、奇妙なうれしさです。

 

『ムー』というと、超能力とか宇宙人の記事という印象が強いかもしれませんが、大本教など異端めいた神道とか、いわゆる古史古伝とよばれる非正統の史書についての記事も看板メニューのひとつです。月刊『歴史読本』が休刊(廃刊?)したため、この手のすこし妖しげな歴史記事は、紙媒体では『ムー』くらいでしか読めなくなってしまいました。

 

今や、老舗雑誌の風格も漂う『ムー』さんには、まだまだ頑張っていただきたいと思います。

 

 

 

 

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7000万年前の巨大カルデラの跡に鎮座する琵琶湖東岸の神社

近江商人の歴史を取材する必要があって、滋賀県近江鉄道沿線を歩きまわったばかりです。余った時間を利用して、近江商人の大量輩出地として知られる東近江市に鎮座する太郎坊・阿賀(あが)神社に参詣してきました。阿賀神社の鎮座する山は、日本列島の誕生よりはるかに古い7000万年前に「湖東カルデラ」を出現させた超巨大噴火の痕跡地なのです。

 

 東近江市の周辺の平野部は、古来、蒲生野と呼ばれた草原地帯で、皇族、貴族の狩猟地でもありました。

万葉集のなかでも有名な

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

という歌の舞台が蒲生野です。

若き日の雄略天皇がライバルの皇子を狩猟に誘って、殺してしまった古代史の舞台でもあります。

その蒲生野の平原に鋭角的にそびえる山が、太郎坊山(赤神山)です。

 

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平野のなかに唐突にこんなかたちの岩山がある理由は、火山噴火にともなう溶岩が固結した火山岩の一種「流紋岩」で形成された山だからです。非常に硬い岩なので、風雨にさらされても風化して、崩れることなく山の形でのこっているのです。

 

気象庁はこの1万年以内(おおむね縄文時代以降)に噴火したかどうかを目安として、要警戒の活火山か活火山でない火山(いわゆる休火山、死火山)かを判定し公表しています。太郎坊山を出現させた火山は、中生代白亜紀の7000万年に噴火したのですから、完全なる死火山であり、もはや噴火した火口の痕跡さえ見えません。

 

ただ、7000万年に噴火のときの溶岩は、流紋岩という火山岩として、太郎坊山をはじめとして、滋賀県南東部に偏在しています。琵琶湖の東岸地域なので、「湖東流紋岩」と命名されています。

日本地質学会はすべての都道府県について、地質的な特色を象徴する「県の石」を選定していますが、滋賀県の「県の石」はこの湖東流紋岩です。

「湖東流紋岩」は巨大な円を描くように分布しており、それによって太古の巨大噴火の痕跡が推計されています。それが「湖東カルデラ」です。

 

近江鉄道太郎坊宮前という駅があり、列車から下りると、標高340メートルの特徴的な岩山が目に飛び込んできます。

巨岩を祭祀の対象とするイワクラは全国各地にありますが、当地ではこの岩山そのものがご神体なのだと思います。全国でも最大クラスの巨大なイワクラです。

 

駅のすぐ近くにある鳥居から参道がはじまり、歩いて10分くらいで、山への登り口に到着します。急勾配の石段を20分くらいのぼりつづけると、山の中腹に「湖東流紋岩」の小山のような露頭があり、人間がひとり通れるくらいの縦長の亀裂ができています。5メートルくらいのトンネルを出たところに阿賀神社の本殿がありました。

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私が参詣した日は全国的な猛暑がつづいている時期だったので、暑さに苦しみながらのミニ登山になってしまったのですが、「湖東流紋岩」の裂け目のトンネルのなかは、驚くほどひんやりとしており、たえず風が吹き抜けていることに感激しました。

ザラついた感触の「湖東流紋岩」を手でなでまわし、7000万年前の巨大噴火を実感しながらのジオパーク的参詣を満喫できます。

 

神社の本殿のそばに、東近江市教育委員会が設置したパネルがあり、「湖東カルデラ」と「湖東流紋岩」について説明されています。

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カルデラの外輪山が、この地図の点線で描かれた輪ですが、三重の輪になっています。

これはそれぞれ違った時期に、3つの巨大噴火が起きて、カルデラの地形を生じたのだと考えられています。

 

もっとも外側の輪は、琵琶湖西岸の比良山地におよび、この推計が正しければ、世界的にも有数の規模である阿蘇山の外輪山に匹敵する巨大カルデラ滋賀県に存在していることになります。あまりにも遠い時代の火山活動なので、外輪山の形状をほとんどとどめていない、幻の巨大カルデラではあるのですが。

 

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神社で配布されている「太郎坊・阿賀神社由緒記」によると、神社の創始時期は1400年前というので、奈良時代よりもさらに古い時期ということになります。

もちろん、それよりも前から、空を突き刺すような巨大な岩山への崇拝はあったに違いありません。

『日本の神々 神社と聖地』(山城、近江)によると、中世には神仏混交し、さらに熊野修験の影響をつよく受けたということです。

阿賀神社が正式名称になるのは、神仏分離が進められた明治時代初頭のころで、それまでは太郎坊宮として知られていました。

修験道の聖地ではおなじみの天狗信仰の山でもあり、当地の太郎坊の弟が二郎坊で鞍馬の山にいるという話になっています。

 

それにしても、7000万年前の火山活動の名残が、今も神社として私たちの時代に継承されているというのは驚くべきことです。

アジアの大陸の東端が断裂して、日本列島の原形ができたのが1500万年くらい前のことだとされています。7000万年前の白亜紀中生代ですから、恐竜の時代のいちばん最後の方ということになります。

 

阿賀神社の鎮座する岩山がこのように鋭角的な形状をしているのは、この山を形作っている流紋岩という火山岩が、流動性の乏しい(つまり粘性の強い)溶岩でできた岩であるからです。

鉱物としての分類のうえでは、二酸化ケイ素(SiO₂)を豊富にふくむのが流紋岩で、それとは反対に二酸化ケイ素の乏しい岩石が玄武岩です。

 

玄武岩質の溶岩は流動性が大きい(つまり粘性が弱い)ので、洪水のような溶岩流となって市街地を襲うような事態が出現します。ハワイの火山がこのタイプです。日本では伊豆大島の噴火で、あと寸前で市街地に溶岩が到達するということがありました。

 

日本の火山の多くは、二酸化ケイ素を豊富にふくんだ溶岩を噴出するので、太郎坊・阿賀神社の鎮座する山のような立体的な岩石を作り出します。

 

熊野の聖地である那智の滝の背後をなす巨岩、熊野三山のひとつ熊野速玉大社の奥宮とされる神倉神社の巨岩はいずれも、二酸化ケイ素に富んだ岩石です。

 

遠い時代から日本列島の住民は、不思議な形状をした巨岩を祭祀の対象としてきました。その背景には、二酸化ケイ素の豊富な溶岩を産み出す日本の火山の存在があったということを、『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』(2021年8月刊行、双葉社)という本で書いています。

 

日本列島の火山や鉱物から神社の歴史を考える「神社の地質学」のような一面をもたせた本ですので、鉱物マニアや「ブラタモリ」のファンの方々にも手に取っていただければと思って、本の宣伝目的ではありますが、本に書けなかった阿賀神社について「番外編」として紹介してみました。

 

 

 

なぜ、10万年前を視野に入れて、「出雲」について考える必要があるのか?

最近、『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』(双葉社)という本を出したのですが、私がいちばん訴えたかったのは、

 

出雲が日本最古の聖地である謎は、出雲の10万年の歴史のなかで考える必要がある

 

というテーマです。

 

友人や知り合いにできたての本を郵送したり、手渡したりしているのですが、中身を読んでもらう前に、タイトルに疑問が集まってしまいました。

 

歴史に関心のない同居人には、「10万年前の世界に人類はいたの?」なんて言われて、絶句ですが、それはそれで結構です。

私にとって問題なのは、それなりの歴史の知識をもっている知人に、「10万年史って何?」と変な顔をされてしまったことです。日本列島で最古の旧石器時代の遺跡は4万年前くらい、したがって、日本列島の歴史は4万年くらいであるはず──というわけです。

 

本を読む前の人に、タイトルだけで何かを伝えるというのは難しいです。

 

タイトルについての反省と弁明を兼ねて、なぜ、出雲をはじめとする聖地について考えるとき、10万年前を視野に入れる必要があるのか──そのエッセンスを書いてみます。

(おことわり  noteに同じ内容の文章を載せています)

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出雲大社の参道にある大鳥居




出雲市にある10万年前の砂原遺跡

 

教科書などに出ている定説的な日本史では、4万年くらい前の旧石器時代から日本列島での人びとの営みは始まるという話になっています。

 

あの有名な旧石器ねつ造事件のあと、日本の歴史は絶対確実な4万年前の旧石器時代から考えればいいという風潮が学界のみならず、マスコミふくめて世の中全体に定着してしまったようで、日本列島における人類の歴史の起源を探る研究はすっかり低調になっていました。

 

ところが、2009年、島根県出雲市で12万年前とされる地層から石器が見つかり、「国内最古の石器」であると発表されたのです。出雲大社から南西13キロの海岸近くにある砂原遺跡です。

 

旧石器ねつ造事件をひきおこしたのは「神の手」を持つと称されたアマチュア考古学者でしたが、砂原遺跡の発見は、松藤和人教授(当時)をリーダーとする同志社大学の調査団による発掘成果とあって、新聞、テレビでかなり大きなニュースとして報道されました。

 

年代についてはその後、修正されていますが、今も日本国内では最古の年代が提示されています。

ただ問題は、ほんとうに人間が作った石器であるかどうかについて、学界での合意がなされておらず、教科書や一般的な歴史書では、「日本列島の歴史は4万年」という保守的な定説が今も幅をきかせています。

 

10万年前とされる砂原遺跡が発見された出雲市は、最古の神社とも言われる出雲大社の鎮座地であり、出雲神話の舞台となる土地です。

 

最古の遺跡と最古とされる神社が、同じ出雲市内にあるのは、単なる地理的な偶然ということもありえます。

 

しかし、砂原遺跡のニュースを知った当初から、私はどうしても偶然の一致とは思えませんでした。

 

もし、偶然の地理的一致でないとすれば、いかなる理由によって、旧石器時代の遺跡と出雲大社出雲神話がむすびつくのか。

 

それを知りたくて、データを集め始めたことが、『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』という本を書くことになる、そもそもの発端でした。

 

こうした資料集めは、最初から犯人を決めてかかる「見込み捜査」のようなものです。

自分にとって都合のいい情報は過大評価し、そうではない情報には目をつぶるということになりがちです。

 

この本にそうした傾向があることは、自分ながら認めないわけにはいきません。

 

それはそれとして、調査結果を申し上げるならば、10万年前の砂原遺跡と出雲大社出雲神話がむすびつく有力な「物的証拠」を見つけたと、私は確信しています。

 

それは、出雲の古代史をあざやかに彩っている「玉髄(ぎょくずい)」という石の存在です。

 

玉髄──出雲を象徴する美しい石

 

鉱物界の重鎮、松原聰博士の『日本の鉱物』というフィールドワーク用のミニ図鑑が手元にあるので、関連項目を見てみました。

 

石英」という大きな項目のなかに「玉髄」があり、玉髄の一種として「メノウ」が出ています。玉髄とメノウの区別は微妙であり、説明する人によって異なるので、ここでは玉髄・メノウと総称しておきます。

 

玉髄という名称が示しているとおり、「玉」になる美石であり、質の良いメノウには、宝石としての価値があります。

 

玉髄・メノウ系の石は、弥生時代古墳時代を中心として、勾玉、管玉など玉作りの材料として珍重されました。

 

玉髄・メノウはものすごく珍しい石というほどではありませんが、硬さによって、埋蔵量によって、さらには美観によって、日本列島で最大の玉髄・メノウ系の石の産地が出雲地方にあります。

 

島根県松江市玉湯町にある花仙山です。

 

花仙山のふもとには、古墳時代以降、国内最大規模の玉作り産地があり、その跡地は史跡公園となり、博物館ができています。

花仙山というよりも、有名な温泉観光地である玉造温泉のある場所といった方がわかりやすいと思います。

 

出雲大社の歴史のなかで言えば、世襲制出雲大社宮司が代替わりをするとき、新しく宮司になる人が、潔斎をする場所が玉造温泉だったといわれています。

 

出雲大社宮司家は、古代的領主を継承する出雲国造でもあり、全国の国造のうち出雲国造だけが、新しく就任するとき、天皇に拝謁するしきたりになっていました。

 

そのとき、新任する出雲大社宮司は、出雲産の三色の玉(「赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚」延喜式に記録)を献上し、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)を天皇にむかって詠み上げました。祝詞のようなものです。

 

「白玉のように髪が白くなるまで長生きをなされ、赤玉のように顔色がすぐれ、青玉のようなみずみずしい姿で世を治めてください」

と、天皇の御代の長久であることを言祝ぐのです。

 

延喜式の原文を一部、仮名で表記すると、

「白玉の大御白髪まし、赤玉の御あからびまし、青玉の水江玉の行相に、明御神と大八嶋國しろしめす天皇命の手長大御世を……」というところです。

 

出雲の花仙山でとれる玉髄・メノウは、このように天皇の歴史と強くむすびついており、「三種の神器」のひとつ、八尺瓊勾玉も当地でつくられたという有力な説があります。

 

そしてもうひとつ、民俗学や神話学の一部の学者がかねてより指摘していることですが、出雲大社の祭神であるオオクニヌシには、「玉の神」という一面をもっています。

 

出雲の信仰において、「玉」は重要なアイテムなのです。

 

 

旧石器時代から現代まで続く「石」の歴史

 

古代王権と直結した玉作り産地だった花仙山の歴史には、さらなる前史があります。縄文時代、それよりも古い旧石器時代の遺跡が多く存在しており、「花仙山北麓遺跡群」とも称されているのです。

 

出雲の玉作り産地は、縄文、旧石器時代の遺跡と重なっているのです。

なぜでしょうか。

 

花仙山の玉髄・メノウは、とても硬いので、鋭利な石器をつくるのに適していたのです。

 

玉髄・メノウ系の石器は、出雲地方を中心として、山陰、山陽地方に広く分布していることがわかっています。石器材料の原産地は花仙山です。

「花仙山北麓遺跡群」は全国的にも注目されている有名遺跡なのですが、その理由は、湧別技法として知られる北海道、東北地方に特有の石器が数多く見つかっているからです。

 

湧別技法の存在によって、東北など北方から移住した旧石器人の集団が当地を拠点としていたらしいという話になっています。

 

旧石器時代、東北から出雲へ移住した人たちがいたなんて、何だかすごい説だと思うのですが、こちらについては学界の定説になりつつあるようです。

 

ここまで読んでいただいた方は、すでにお察しかと思いますが、10万年前の砂原遺跡で見つかった石器(石器と認めていない学者もいるのですが)の多くは、玉髄で作られた石器なのです。

砂原遺跡のある海岸エリアに玉髄の産地はありませんから、花仙山のほうの石だと考えられています。

 

砂原遺跡の第一発見者は、出雲市在住の自然地理学者、成瀬敏郎氏なのですが、成瀬氏は最初に見つけた石器を「蜂蜜色した玉髄」と表現しています。

 

今回、砂原遺跡の発掘跡地を、出雲市在住の成瀬氏に案内していただいたのですが、最初に見つけた玉髄の石器は、同志社大学で保管されているそうで、写真撮影はできませんでした。

 

 

 

 

旧石器時代縄文時代の石器というと、黒曜石、サヌカイトなどの黒色、頁岩など灰色、茶色系の石が一般的ですが、玉髄の石器は、色鮮やかです。

 

オレンジ色、朱色など、赤系統の石が目立ちますが、青色、緑色系統の石器もあります。

 

出雲大社に隣接する島根県立古代出雲歴史博物館でも、玉髄の石器を見ることができます。

とても美しい色合いの石器です。

 

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花仙山は高さ200メートルくらいの目立たない山ですが、1500万年前の火山のあったところで、安山岩の溶岩で覆われています。

玉髄やメノウは、安山岩の亀裂に、マグマの残液がたまって鉱物化したと説明されています。

 

1500万年前というのは、地質年代でいえば、新生代第三紀の中新世で、日本列島の原形らしきものが大陸の東端から切断されて間もないころです。

 

日本列島誕生のころの火山活動が、出雲の地に美しい石をもたらしているのは、なんとも不思議な感じがします。

 

そのようにして形成された玉髄を、10万年前の人びとが石器づくりの素材としていたらしいというのです。

 

出雲が日本最古の聖地である謎は、出雲の10万年の歴史のなかで考える必要がある。

 

私がそう考える根拠は、花仙山の玉髄・メノウの有用性と美しさにあります。

今も出雲大社門前町で売られている勾玉などの商品は、花仙山のメノウで作られているので、出雲における「石」の歴史は現在進行形で続いているといえます。

 

『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』というタイトルに込めた私の思いとは、おおよそそんなところなのですが、これだけ長い説明を必要とするということそのものが、タイトルとしての弱点を証明しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

 

砂原遺跡については、ウィキペディアにひととおりの説明が出ています。

発掘成果についての学術的な調査報告書が刊行されていますが、調査団の中心メンバーである松藤和人氏と成瀬敏郎氏による『旧石器が語る「砂原遺跡」:遥かなる人類の足跡をもとめて』(ハーベスト出版、二〇一四年)という一般書も出ています。

 

旧石器時代の東北から出雲への移民活動や花仙山の玉髄石器については、旧石器時代を専門とする考古学者、稲田孝司氏による『遊動する旧石器人』(岩波書店、二〇〇一一年)で解説されています。

古代出雲のキーワード「玉髄」という石について

私、蒲池明弘の新刊『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』が8月20日双葉社より刊行されます。今回のブログでは、本のほうには十分に書き込めなかった鉱物ネタを紹介します。

 

玉髄の石器、メノウの勾玉

前回、話題にした島根県のアマチュア考古学者、恩田清氏の収集物を再調査した報告書のタイトルは、

『出雲地方における玉髄・瑪瑙製石器の研究:恩田清氏採集資料と島根県出土の玉髄・瑪瑙製石器』(島根県教育委員会古代文化センター、二〇〇四年)です。

 

「玉髄・瑪瑙(メノウ)製石器」が意味するところは、玉髄の石器とメノウの石器ということではなく、玉髄とメノウの分類があいまいなので、このような表記になっているのだと思います。

 

関東、関西の博物館で、玉髄の石器を見る機会は少ないと思うのですが、中国地方では黒曜石、サヌカイトとともに、ポピュラーな石器です。

その中心は山陰の出雲地方です。

 

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出雲大社に隣接する県立博物館の展示物ですが、左端が黒曜石で、それ以外が玉髄の石器です。

 

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こちらは、小松市立博物館の展示ですが、似たような石ですが、「碧玉」という表示になっています。

 

碧玉は、勾玉、管玉など、弥生時代古墳時代にさかんだった玉作りの最重要素材です。

碧玉の採れる地域はかぎられており、四大産地が知られています。

新潟県佐渡島、石川県小松市兵庫県豊岡市、そして出雲地方、現在の地名では島根県松江市玉湯町です。

 

つまり、玉髄という鉱物は、旧石器時代は石器の素材であり、その後、玉作りの素材としても大いに利用されています。

 

その玉髄の国内最大級産地が、出雲にありました。

島根県松江市玉湯町にある花仙山というところです。

 

古代出雲のキーワードは「玉髄」である──というのは、こうした理由によります。

 

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出雲産の碧玉とメノウを使った勾玉です。

 

メノウ、碧玉、玉髄の違いとは?

 

鉱物マニア界の重鎮、松原聰博士の『日本の鉱物』というフィールドワーク用のミニ図鑑が手元にあるので、関連項目をみてみました。

石英という大きな項目のなかに玉髄があり、玉髄の一種としてメノウが出ています。

この図鑑によると、微細な石英がつくりだした緻密な塊が玉髄であり、メノウの分類上の目安は縞模様のあるなしだと書かれています。

ところが、出雲の玉作り業者は、赤系統で透明感のあるものを赤メノウ、青系統では濃い緑色で光沢のあるものを碧玉あるいは青メノウと呼んでいます。

 

碧玉は漢字のうえでは緑色の玉という意味ですが、鉱物学の用語としては、赤色、黄色のメノウに似た石もふくむジャスパー(jasper)の訳語になっています。

小松市立博物館の碧玉も赤系統の色です。

 

考古学、鉱物学、玉作りの業者などそれぞれの立場や地域によって用語に込める意味がすこしずつ違うので、玉髄、メノウ、碧玉という用語の区別はやや混乱しています。

 

というか、取材・執筆を進めるなかで大いに混乱してしまったのは私自身という話なのですが……。

という次第で、なにか良い参考書はないかと探しました。

 

玉髄、メノウ、碧玉の関係について、最も詳細に解説しているのがこの雑誌でした。 

 『ミネラ』は、鉱物、美石のコレクターが読むようなマニア向けの雑誌ですが、「メノウとその仲間たち」という特集が組まれています。

 

写真が豊富なので、玉髄、メノウ系の石の全体像がなんとなくですが把握できました。

 

玉髄もメノウも碧玉も微細な石英結晶の集合体である。だから、これらを言葉で明確に区別できるような定義をすることは、実はたいへん難しい。

強いて言えば、碧玉は玉髄やメノウよりも不純物を多く含み、不透明な潜晶質石英である。

逆に玉髄やメノウは半透明、すなわち透明感がある、といったところだろう。

(久世基文氏による解説)

 

玉髄という用語の由来

「玉髄」という言葉は、「玉髄製の石器」のようなかたちで考古学の論文に出ていますが、一般国民における知名度はきわめて低いと思います。

「黒曜石の石器」「サヌカイトの石器」のほうが比較にならないほど有名です。

 

玉髄は明治以降、鉱物学のうえでカルセドニーという種類の石の訳語になっていますが、江戸時代の石のコレクターである木内石亭の著作『雲根志(うんこんし)』にも記載されているので、言葉としては古いようです。

 

現在の鉱物学用語である「玉髄」と木内石亭の記す「玉髄」が、同じ意味内容をもつことはないとしても、かなり重複している印象があります。

 

木内石亭の玉髄も、玉作りの素材となる石との関係がポイントになっているからです。

 

『雲根志』は、珍しい石、美しい石についての百科事典めいた内容ですが、「玉髄」という項目が立てられています。

 

玉髄

玉髄は玉のある所の山中、玉のいわやにあり。玉の精、髄膏のごとくに垂れ、凝り、堅くして玉と化す。形、氷柱のごとし。故に種色あり。(中略)

 

 

木内石亭は、自分のコレクションにある玉髄についても、「赤きもの長さ五寸、青きもの三寸、その余長さ二寸ばかり」と紹介しています。

 

木内石亭は通称で、本名は重暁。

石亭とは、石の屋敷の意味になりますが、木内石亭は全国を歩いて集めた膨大な石のコレクションを、自宅に展示して、希望する愛好家は閲覧することができたそうです。

 

というわけで、木内石亭の自宅は、日本で最初の鉱物系博物館であるともいわれています。

石の博物館でもある木内石亭の自宅は、「石亭」と呼ばれる当時の有名スポットであり、それがいつしか本人の号に転じたそうです。

 

江戸時代に書かれた『東海道名所図会』は東海道に沿ったエリアの寺社仏閣や土地ごとの名所を紹介する観光ガイドブックのような本ですが、その巻二に、「石亭」として、木内石亭の私設博物館のことが紹介されています。

当時としては、話題のスポットだったのでしょうか。

 

東海道名所図会』によると、コレクションの全体は二〇〇〇点、

石は神代の勾玉をはじめ、我国諸州の産、人の国の産、奇石、化石、天狗の爪、水入りの紫水晶まで、あるは台に飾り、又は小箱に入て……

 

と展示内容も紹介されています。

 

東海道名所図会』は、国立国会図書館のサイトで読むことができます。

 

該当箇所はこちらのリンクです。

 

東海道名所図会. 上冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション