The sun rises again.

フィクション

どうでもいいことだった

考えうることは全て尽くした。

専門的なことがわからないというから、業務時間外に勉強会をやった。やったというと恩着せがましいが、こちらとすれば特に利益のない行為であるのでそう思うのもしかたが無い。興味が出るように、ひとつひとつステップを作って学びと好奇心を刺激するように仕向けた。結局なにも出来るようにはならなかった。メモは取っていなかった。

わからぬことがあるというから教えて上げる。調べ方がわかっていないようだから、調べ方についても教えてあげる。メモは取っていなかった。

このあたりで何らかの違和感に気づく。そう、彼は一見僕の話を聞いているようだが「全く持って聞いていない」のだ。正確には日本語として理解していない。僕の話した内容の中で彼の知っていることだけを抽出した別の何かを作り上げて、それであっていますかと問うてくるのだ。別に問うのはいいだろうしかし、君はいま問う番ではない。聞く番だというのに。聞くにしたって1回相手の話を聞いてから理解し、咀嚼したうえで話すべきだろう。まあそういう思考にはならぬのだろう。相手は自分の話を、常に聞いてくれると、何の疑いなしに思っているのだから。幸せなものである。

すべてはこの疑いなしに自分は認められるという意識に基づいている。新しい知識も、自分にはよくわからないからやらない。話も自分がわからぬことはそれ異常理解しようとせず、自分が知っている範囲でそれっぽいことを言っているだけ。そして大概は彼の世界には無い概念を僕は話している為、彼の世界の言葉ではそれは表現できず、支離滅裂となる。

僕の過去に照らして言うと、この手の意識というのはなんらかの壁に阻まれて崩壊するものだ。

たとえば勉強。僕は数学でこれにこてんぱんにやられている。算数が下手に出来たから、似たようなものとして分類されている数学が出来ないことがわからなかった。わからないことはわかるがどうやって良いのかわからない。完全に自分の意識の外側で論理が進んでいてどうしようもない感覚。

例えば野球。ある程度上手だったとはいえ、プロになるような人と比べるとお話しにならないし、そういうレベルまで行かなくても県単位では無敵みたいな人が各学年に一人ぐらいはいる。そういう人と相対する時、僕は僕の外側で論理が回っているのを感じる。どうしようもない感覚。

そういうとき、僕は僕が知っていることを一旦放置して現状をすべて受け入れることが大切だということを知っている。まずは自分がどういう状態に置かれているのかを直視してそこから始めなくては、何も始まらない。

翻って彼であるが、かれはそういう経験がなかったのだろうか。上手くひらりひらりとその場限りのハッタリで今まできてしまったのだろうか。メモを取らないすなわちログをとらないというのも、過去に向き合う気持がないからだろうか。

それは僕にはわからないことだが、まあどうでもいいことだ。

トリック

アマゾンプライムで適当な映画を見ながらご飯を食べるという生活をここ数ヶ月送っている。最近はトリックが追加されたのでよく見る。小学校か中学校時代の記憶の通りの若い仲間由紀恵阿部寛をみて懐かしさを感じると同時にこのドラマが良くできていることに気がつく。

おちゃらけのパートと真剣なパートがうまく混在している。本当によくできている。

一般に、というか僕も今回見直すまで思っていたことなのだが、トリックはおふざけがメインのドラマであると思われている。確かに仲間由紀恵が演じる山田の貧乳の下りや、矢部謙三のズラなどなど笑いを誘うような要素は劇中に幾度となく登場する。

このおふざけ自体はそれ自体はさして面白いとは思わない。単体で取り上げれば。しかしこのドラマは上記のおふざけと同時に、真面目なドラマも遂行される。大抵の話は超能力があると言って人々を騙している自称超能力者に対して、山田がそのトリックを暴いていくという仕組みになっている。ここでその超能力者がただの悪いやつならば特になんともないのだが、大抵の話においてその超能力者も何らかの力学によって超能力をやらなくてはならない状況に追い込まれている。

絶対死なない老人ホームでは、お父さんを殺そうとしたことを隠蔽するために人を生き返らせるという超能力者を演じていた。そして最後はその能力を信じていた、すなわち息子を信じていた父が自殺を図り「生き返らえせてくれ」と懇願するも、自分には能力がない詐欺師なんですよ、と言って終幕となる。ここにはなんの面白みもない。あるのは、息子を信じてやまない父は息子によって二度殺される、という純粋な気持ちが裏切られていく悲しみだ。

このようなやるせなさがトリックには詰まっている。とくに序盤のシリーズにおいて顕著だ。*1これは想像だが単なるおちゃらけではそれ以上でもそれ以下でもない駄作になってしまうことを憂慮した結果、真面目の中にバカを入れるという実験を行ったのではないだろうか。

いや成り立ちからいうと逆なのかもしれない。どんな真面目な(とここでは便宜的に言う)ドラマでも登場人物の抜けた部分、愛嬌のある部分を表現する部分は存在する。それは視聴者と登場人物との距離感を縮めて感情移入をしやすくする、という狙いがあると思う。そこの部分をとても極端にして、もはやお笑いのレベルにしてしまったのがこの作品なのではないだろうか。

温度感の違いがお互いに面白みを高めている、そんな構造があるように感じられた。

 

なんか気づいたら 1000 字ぐらいの評論になっていることに今気がついた。いろいろ書いたけれどとりあえず面白いのでみるのが吉。

*1:反対に終盤のシリーズではおちゃらけ一辺倒になっていてこのあたりのメリハリが無くなっており面白みに欠けると筆者は考えている。

節分

特にやることも無い土曜日だったので、なんとなく京都に行った。ついてもやることが無いので適当に前田珈琲で珈琲を飲み、ブラブラと烏丸から市役所の方へと歩く。自分の知らない店ができていたりまたなくなっていたりする。古い街だがちょっとづつ変わっていることがわかる。

そしてそこかしこで節分にまつわる何かをやっていることに気がつく。そういえばそんな行事があったなあということを思い出す。本当に小さい頃、たぶん幼稚園に行く前とかなので5歳前後だったと記憶しているが、うちの親父が鬼の仮面をし濃い抹茶色のパジャマに動物の毛っぽいジャケットを着て鬼として帰宅して僕に「おにはそと」をやらせるというささやかなイベントがあった。

小さい子供からすると突然わけのわからない格好をして、鬼の面を被ったやつが家に来るので、とても怖い。僕は意気地があるわけでも無いので、覚えたての「おにはそと」をやる様な余裕はなく、母曰くその場に座り込み大泣きしたという。(その後この恐怖イベントは僕ら兄妹全員が体験することになる)

大人からすると、炒り豆を食べ場合によっては恵方巻きを食べるものでしかないけれど、子供にとっては生きるか死ぬか必死だ。そして初めは必死でも何度も何度も繰り返されるとなんとなくその構造がわかってきて、そうして慣れていく。でもなれるためには最初頑張ってそして駄目になって泣いちゃうかもしれないけれどその必死なプロセスはとても大事な用に思われる。その本気は本質であり、人が生きるということはそういうことだ。

今日もどこかで泣いちゃう子供が沢山いるんだろうなと思うと、頑張れって思う。

I can cry

今日はリモートで仕事をしていて、お昼ぐらいになってちょっと眠くなったのでお昼ごはんを食べる代わりに昼寝をした。13:00時ぐらいから大体二時間ぐらいだったと思う。気づくと僕はベットの上で自分でもびっくりするぐらい泣いた。何故泣いたのか全く思い出せない。多分夢で何かを見たんだと思うけれど、夢の中で泣いて起きた、とかではなく起きて意識がある状態になった後、とんでもなく悲しくなり、それがおさえきれなくなって泣いたのだった。

泣いて自分が一番驚いた。なんで自分は泣いているのだろう。よくわからないけれどとても悲しい。その感覚は事実だった。

恐ろしいのはこんな衝撃的なことなのに、夜になってスーパーに買い物に行き晩ごはんに鶏肉を胸かモモかどっちにしようか悩んでいる時に「そういえば今日なにかとても大事なことが起こった気がする」と思って思い出すまで、今日泣いたことすら忘れていたということだ。人間の記憶は、とても適当。

月曜日の休日

起きると既に17:00を回っていた。三連休の最終日。本当はもうちょっと早く起きてどこかに出かけようかなとか思っていたはずなのに、気づけばもう一日が終わろうとしていた。ちょっと罪悪感。

これにはわけがあって、というのも今日は本当は朝5時ごろに一度めが醒めていたのだった。珈琲を入れてパソコンをつけて音楽を掛ける。そこまではいつもの朝と同じだ。然しその瞬間にこのまま今日を初めてしまっても良いのだろうか、という問が頭に浮かんだ。僕はもう十分に休みを取れているのだろうか、このまま起きて何らかの活動をして自分に負荷がかからないだろうか。そう自問してみた時はっきりと「はい」と応えることが出来なかった。むしろどこか頭の奥底に疲れを感じていることに、その時おきてからはじめて自覚した。起きた時には特に何も感じていなかったのに。この感覚を無視して起きていると僕の体はゆるやかに壊れてしまうような、そんな気分になり二度寝を敢行した。

一度起きてしまうと二度目ねることはなかなか難しい。特に今日なんかは本気で起きてしまっているので余計に厳しい。そこで先の違和感をたどるように思考していると、いつの間に眠ってしまい、起きれば17:00だった。多分疲れていたのだと思う。

起きてからは昨日途中まで読んでいた森見登美彦の「熱帯」を最後まで読む。熱帯は小説とはどのように生まれるのか、またその本質とはなんなのか、について小説を用いて語っている本のようであった。著者森見氏の小説を書くことへの気持とか葛藤が良く伝わってきて、読み応え抜群である。一方で読む人を選ぶことも間違いない、というのも作中で出てくる話の筋をすべて回収しているとは言えないためである。悪いようにいうと投げっぱなしになっていると捉えることも出来なくはない。しかしそれを含め、僕はこの小説が良い小説だと思った。良い物は良いのである。

その後自分の本棚から本を紹介する、ということをやっていくつか本を紹介した。誰かに本をすすめる、という場面になるとダラダラと読んできた僕の読書歴、と一部の積み本からなる本棚がむくむくと立ち上がってくる。すすめることが出来るような本はどれか。変に政治的でもなく、あまりに暗くもないが、読むととても示唆的であり、僕が薦めることにある種価値が有るような本、それは即ち僕が勧めずともたどり着けるような本ではないが、本質的に良い物を持っているいわばちょっと埋もれた宝石のような存在である。それらを本棚から再び探り出し何が良いのかをまとめる作業は僕の読んできた本を振り返る上でとても良い経験になった。定期的に自分自身に対して同じことをやっておくと、その時々での僕の考え方とかがわかって面白いなと感じた。

明日は火曜日、平日である。お仕事をせねばならない。僕は明日も本を読んでいたいな、と思った。

仕事のモチベーションについて

年末は地元に帰ってゆっくりしていた。特に生産的なことをするまでもなく。コーヒーを飲みながら適当に論文を読んだり、新しい本を読んだりしていたが、それは生活時間の僅かな時間であって殆どの間は酒を飲んでぼんやりと過ごしていた。ぼんやりとしていたので一週間ちょっとがすぐ終わった。美味しいものを食べてお酒を飲む、そのタイミングではある程度満たされているがしかしそれ以上でもそれ以下でもない。

大阪に帰ってきて仕事が始まった。会社に行っていつもどおりに業務をする。自分に振られたレビューを見てレビューしたり、わからないことがあったらそれを聞いて教えたり。そういえば新しい事業をやるなんてことの話を聞いたりしていたかもしれない。それらは会社にとってはとても大切なことであって、それをやる意味もわかるのだけれどどうにもやっていて楽しいと思えない。なんと言うか消化試合である。

消化試合に思えるのは僕がしっている範囲内でしかことが進まないからであるということに、最近気がついた。気がついたきっかけは宮台氏の本にあった「もうわかっている感」というワードに有るように思う。このワード自体は、宮台氏の分析を読んだ若者がそれに関する事象を自分が体験してもそれを既に知っているがゆえに「ああもう知ってるな」というふうなメタ的な認知にいたり、何も知識がない状態で体験するのとは待ったことなった認識なってしまうことを指している。それがもうわかっている感という言葉に繋がる。

それと僕の感覚は微妙に違うけれど、自分がわからないことに触れる機会が今の環境にはあまりにも少ないために、すべてが自分のコントロール下に置かれてしまっているように思えることが多い。そのために生活一般にハリが無い。全部わかっていること、自分の認知出来ることの範囲内でしかない。僕の生きているモチベーションになることは、自分がこれを知りたいやりたい、ということを必死にやることが多かった。それは大学にいる時に一人でプログラムに熱中したり、本を沢山読んでみたり、大学院にいる時には機械学習を頑張って身につけて使えるようにしたり、研究のための論文を読んだり。

それらは僕が知らない世界を自分のものにしたいという気持からだった。自分が知りたいなって思うことがあって、それをがむしゃらにやって一つづつものにする。そうやって少しづつでも知ることが増えていくことが楽しかったのだった。

翻って現状の環境はどうだろうか。

やっているのは受託のシステム開発であって、それは「特定の要件を満たすシステムを、いかに短期間である機能を実装しお客さんに提供するか」が目的であって、知らないことわからないことをやることが目的ではない。要求によっては新しいことを学ぶ必要が有る場合もあるだろうがそれは全体のうちの一部に過ぎない。要は今出来ることの切り売りになる。

こういう会社であっても新任で入ってきた人にとっては学びはあるだろう。それは会社で培っているノウハウだったりを吸収する必要があり、それによってその人のスキルが上がるからである。その間その人は学ぶことが会社にとってもその人個人にとっても目的が一致する。が然しそれを達成してしまった後はその人は何を目標に仕事をするのだろうか。仕事の効率化をすすめること自体に面白さを持つことが出来る人やものを作ること自体に面白さを感じる人ならば、その立場でも楽しいだろう。

一方で学び自体に面白さを感じている人は? まさにそれが僕なのだけれど、どうにもモチベーションになるものがない。要件定義とか頑張ってみる?とか思うけれどそれは別に面白い仕事ではなく仕事をするためにしようがなくやる必要があるフェーズであって極めることに面白さは正直感じないしやっていても楽しくはない。コーディングは?コーディング自体が楽しい時もあるが別にそれ自体に面白さを感じることはない。新しいアルゴリズムとかを論文等で読んでそれを実装する、というような何かしらの背後の目的が達成したいがゆえに、その方法としてコーディングするのは楽しいが。

そうやっていろいろ考えていると、僕は受託会社でシステム開発をすることに楽しさを感じることは難しいような気がしてきた。

それよりはあるアルゴリズムを改良することが会社の利益になるから、機械学習なり何なりを実装する、といった既存の枠組みには無いロジックを実装していくような立場であったり、会社として特定のサービスを運用していて、その改良を提案して実装していくような物自体を良くすることが第一義でその実現方法としてコーディングが有るような立場のほうが良いのかもしれない。後者は受託開発の会社ではなかなか発生することがない、それは「受託開発では言われたことを短時間で仕上げて利益率を上げること」が目的関数であり良い物を作ることは二の次であるからだ。

この良い物を作ることが二の次になっていることも僕のやる気を阻害する一員なのかもしれない。せっかく作るのであれば良い物を作りたい、というおそらくものづくりをする人にある根源的な欲求を満たしづらいのだ。

やはり、適当に作っておしまい、を大量に繰り返すことに抵抗がある。自分が作ったものが役に立たないのは、それで以下にお金が稼げたとしてもやっぱりやるせない。