文章を書くこと

わたしはもともと文章を書き続けて来たタイプではない。

 

断然、文章は読むものだった。他人の文章を読んで感じ入ったり、自分にはない考えや価値観を知れるのが好きだった。

 

こんな物語が作れたら、こんなふうに感情を表現できたら、こうやって考えを整理して文章にできたら、、といつも思っていた。

 

学校の国語はかなり得意な方で、教科書に載っている文章を読んだり、受験勉強で評論や小説を読むのは好きだったが、作文は幼い頃から苦手だった。

 

思ったことを言葉にするのが苦手というよりは、自分が何を思っているかがよくわからなかった気がする。

 

素直で疑うことをしない子どもだったので、「これはこういうものだ」とそのままを受け取り、そこから特別思うことがなければ書くこともなかった。

 

こうして書くと、あまり頭を使わない子だったように見えるけど、考えるときももちろんあった。むしろ、自分の頭の中だけなら色んなことを考えていた。

 

その考えも、人に話したり文章にして残したりといういわゆるアウトプットをあまりして来なかったので、自分の中だけに留まり具体的な言葉は消え、印象だけが心に残るようになった。まさに引っ込み思案をこじらせていた。

 

人に話したりしなかったのは、その時はあまり意識していなかったが、やっぱり周囲の人にどう思われるかを気にして生きてきたからだと思う。

 

教員の両親に育てられ、どちらかと言えば恵まれた家庭で不自由なく育ったが、両親の言うことには逆らえずに生きてきた。

 

もうあまり叱られた記憶も薄いが(嫌な記憶は忘れようとしてきた)、両親は叱るとき「こうでしょう?!パパ/ママの言うこと間違ってる?!」という言葉を使った。

 

こう言われるたび、両親の言うことが正しく、自分の考えは間違っているのだと感じてきた。

 

怒られたときは一人で自分の部屋にこもり、声にならない気持ちを押し殺し涙で流して消そうとした。

 

そうして怒られたことも間違っていた自分の考えも嫌な記憶として忘れようとしてきたので、口に出したかった自分の言葉は胸にしまわれたまま、悲しく沈んでいき、いつしか言葉の形ではなくなり、ただのもやもやとした印象だけが静かに溜まっていった。

 

朝目が覚めて、嫌なことの細かな部分はすっかり忘れてしまっているものの、なんとなく悲しく重たい印象だけが心に残っている、そんな感覚だった。

 

もちろん、要因は一つではないけれど、言葉にすることの困難も、周囲の目を気にする自分の自信のなさもこうして出来上がっていったように思う。

 

わたしの両親は教員だったことから正しいことを教えようとする傾向が特に強かったため自分の気持ちが言えなかったが、今の時代このように親に対して自分の思いを言葉にできなかった人はたくさんいるのではないか。

 

最近は反抗期がない人も多い。わたしにも反抗期と言える時期が殆どなかった。強いて言えば当時の習い事をやめたいと何度も何度も言っていたくらいだ。

 

反抗期は自我形成の流れの中で、親から自立しようとする自然なことだと聞いたことがある。自分の意思をぶつけるその行為は、ある意味、本音をぶつけても大丈夫という無意識の自信があるのだと思う。

 

これまで「良い子」できた人、反抗期がなかった人、自分の思いを親に言えなかった人は世の中にきっと多いだろう。

 

書店には「言葉にできる力をつけよう」「語彙力を高めよう」という主旨の本が大量にあるが、前述のように過ごしてきた言葉にできない人たちに足りないのは言語化のテクニックでも語彙でもなく、自分の考えを聞いて受け止めてもらうことだ。

 

正しいこと、みんなと同じことばかり意識して、自分でも自分が何を思っているのか、何を感じているのかわからなくなるくらいもやもやとした印象になってしまったものを、それは紛れもなくあなたの中に生まれたもので無視していいものなんかじゃないよと受け入れて、ゆっくり少しずつ言葉にしてあげることが必要だと思う。

 


この話は決して両親に対して恨んでいるとか両親が悪いといったことを言いたいのではない。

両親にとってわたしはようやく授かった子どもで、愛情を込めて大切に育ててくれた。

 

わたしが言いたいことは、親という最も自分に近い存在に自分の思いを受け入れられ認めてもらうことが、言葉にする力や自信を持つことにつながるということだ。

 

そして、親から離れたとき、今度は自分が自分の思いをしっかりすくいとって言葉にしてあげることが大切だ。

 

わたしはまだまだ自分にしっかり向き合わないと言葉が出てこないけれど、それでも考え出すとどんどん文章が作られていくので、自分はこんなことを思っていたんだと我ながら驚くことがある。

 

文章という目に見える形にして初めて、自分の思いがわかったような、そんな感覚さえ覚えるのだ。

 

自分の思いを言葉にする。
それは自分の頭や心に生まれた印象を形にすること。

形にできれば、誰かに伝えられる。

自分にも、伝えたい人にも。

 

これを読んだ「良い子」なあなたにも、自分の思いをちょっと気にかけて言葉にしてみたら、とささやきたい。

 

それを自分でも、大切な人でも伝えてみたら、自分の心にあったものが少しすっきりして、抱きしめてあげたくなるかもしれない。

はじまり

何ごとも「何事も初めが肝心」とか「終わり良ければ全て良し」とか言うけれど、自分が好きに表現しようとしたときに一番大事なのは自分の感覚だ。

 

いま、私はようやくこのブログの一記事目を書き始めた。このタイミングは私のタイミングだった。

 

実際のところ、ブログの開設自体は結構前になる。私は変なところでこだわりが強いタイプで、ブログを書いていきたいなと思ってからブログの名前、最初の記事、どういう内容の順で記事を更新していくかを時間をかけて考えてしまっていた。

 

そして気になったことはすぐ調べたり、あとで読もうととっておきがちだったために頭でっかちにもなった。書きたいことや情報はたまるけど、それを載せる場の設定が決まりきっていないことで載せられずブログを書き始めるまでにずいぶん時間が経った。

 

そしてこのタイミングで書いている。特別これだ!というブログ名が浮かんだわけでも、最初の記事に書くべき内容ができたわけでもないのだけど、「書くか」と思ったので書いた。

 

悩んだって結局そんなものだったりする。それが私のタイミングだった。

 

自分が「やろう」と思ったときにやればいいし、それは自分の意思で動いたことだから納得感や実感を感じられる。

 

わたしのブログの「はじまり」も、「こういうことを書こう」と思ってから書き始めたのではなく、書いてみたらこういうものになった。

 

これにいい悪いはない。なぜならこれは今のわたしが等身大で書いたものなんだ。

 

このブログがどういうものかやブログ名についてはまた別に書くことにするけれど、真面目に考え過ぎて必要以上に動きが遅くなったり、更新量ばかり追い求めて納得のいく文章が書けないことのないようにやっていきたい。

 

わたしの頭や心に引っかかったり浮かんだりしたものをここに書くことで、それを受けたあなたのなかに何か動きが生まれたら嬉しい。

 

書きかけの、はじまり。