『パイド・パイパー 自由への越境』 ネビル・シュート

 

第二次世界大戦のさ中。ドイツ軍は、ヨーロッパを侵攻中だ。
その春五月、理由あって深い憂鬱に囚われていた七十代のハワードは、自分を取り戻すために、釣り旅行を計画して、フランスのジュラ県の田舎町シドートンに向かったのだ。
けれども、六月、結局、滞在を中断して、イギリスに帰る決心をするが、それは、パリがドイツ軍の手に陥ちた日だった。


この想像を越える困難な帰国の旅の話は、後日、ロンドンのクラブで「私」がハワード本人から聞いたことだった。
「どうやって帰っていらしたんです」との「私」の質問に「あらかた、歩いて戻りました」とハワード。
しかも、一人ではなかった。旅先で知り合った国際連盟職員の夫妻に、幼い二人の子どもを、連れて帰ってもらえないか、と頼まれたのだった。
リューマチ持ちの70代の老人が、好奇心旺盛な子どもを伴って旅をするのは平時だって大変なこと。事実、とんでもない旅になってしまったのだ。


タイトルの「パイド・パイパー」というのは、ハーメルンの笛吹き男のことだそうだ。笛の音に誘われた子どもたちを伴って、村を出て行った笛吹き男。
タイトルの意味は、読んでいるうちに明らかになってくる。ハワードたちには道々、のっぴきならない事情を持った子どもたちが、ひとり、ひとり、と加わるのである。
ハワードは、子どもを喜ばせるためにハシバミの小枝で笛を作ってやる。この笛が、パイドパイパーの名前に繋がるようだ。


子連れで旅することを最初は躊躇したハワードが、後になればなるほど、積極的に子の責任を受け入れるようになる。当初より老人が若々しく見えてくるのも、彼の責任感のせいだろうか。
そこでそういうことを言っては困る、やっては困る、ということに限って必ずやらかす子どもに、子どもとはこういうものと、忍耐強くつきあうハワードに畏れ入る。
戦時ゆえ、だろうか。出会う名もなき人びとの心ばかりの親切に心動かされる反面、名もなき人びとの悪意も同じくらい心に残る。


計画は何度も頓挫し、次々にルートを変え、その都度、もうダメなんじゃないかとハラハラした。が、この話は帰国したハワード自ら「私」に話したことなのだ、と思い直した。


道中、露わになったのは、彼の(それぞれの事情で今は遠いところにいる)わが子たちに対する、揺るがない信頼だ。わが子たちへの信頼が、旅する老人を励ましているようにも思えた。希望という言葉に代えて。