いじめられていたワタシから、いじめられているキミへ

もうすっかり昔話ですが、ワタシは小学4年生のときに転校した学校になじめず、それから小学校卒業までいじめられたことがあります。

今にして思えば、いじめの内容は取るに足らないくらい些細なことでした。でも、一つ一つの「行為」は些細なものだとしても、「いじめられること」そして「いじめられ続けること」がどれほど辛いかは、体験しているキミならきっと判ってくれると思います。

当時のワタシは、毎日自殺することばかり考えていました。「いつ死のう」「どうやって死のう」「死んだらどうなるかな」・・・結局死なずに生きていますから、今いじめに悩んでいるキミよりも少しは「ましな」状況だったのかもしれません。

「子どもたちが自殺しないように、命の重さを教えなければならない」という声も聞かれます。でもね、命の重さを学んだとしても、それでイジメの状況が変わらないのなら、何の解決にもなりません。

ワタシはキミの3倍以上の人生を生きてきた中で、いろいろな人と触れてきました。人生が順調に行っているとき、たかだか10万円くらいのお金に命をかける人はあまりいないと思います。しかしサラ金の多重債務に追いつめられたある30代の人は、明日返済する5万円がどうしても工面できない、死にたい、と本気で思っていました。精神的に追いつめられたときって、そういう気持ちにもなることもあるんですよね。

「いじめが原因で自殺します」と文部科学大臣に手紙を送った人、頭いいよね。ワタシにはそこまでの知恵はなかったな。この警告が、豊島区での差出人探しに終始することなく、日本中のすべての人に「うちの子供もあの子のように追いつめられているのではないか?」「うちのクラスにも同じような子がいるんじゃないか?」と、「自分の事」として受け止めてほしいと心から願います。

さて、いじめで辛い日々をおくっているキミへのアドバイス=我慢しちゃだめ。自殺なんてもってのほか。これ以上、自分を痛めつける必要なんてない。逃げよう。学校へ行くのをやめよう。声を上げよう。「いじめられる方に原因がある」なんて嘘だ。キミは悪くない。声を上げれば力になってくれる人が必ずいます。キミの周りには見当たらない?もしそうだとしたら、ワタシに連絡をくれればできる限りのことをするよ。約束します。

小中学生のころ、自分の学校・自分のクラス・自分の友人たちがワタシにとっての「世界」そのものでした。その「世界」でまわりの人からいじめられるということは、自分の人生を全否定されているように感じました。でも大人になって気づくのは、世の中はもっともっと広いということ。そして、自分にも世の中の役に立てる力があり、人に愛され感謝される価値があって、それを発揮できる場所がある、ということ。そんな価値あるキミの人生を、いじめをするような奴らの犠牲にしてはいけません。

犬は友達、猫は恋人?

Figaro japon 2005年10月20日号の車内吊り広告を見ていると「犬は友達、猫は恋人。」という特集の見出しが目に入った。
http://www.hankyu-com.co.jp/FIGARO/

えっ、逆じゃないの?「犬は恋人(というより「家族」の方がぴったりくるかな)、猫は友達」でしょ?と思ってふと気がついた。

「ひょっとして、男と女で感じ方が違うの?」

すべての男性とは言わないが、自分を含め私の周りの男性の多くは、「犬は飼い主に従属するもの、家族のような存在」「猫は飼い主にあまり従属せず、独立した存在」という印象を持っている。

飼い主が女性だったとして犬・猫の態度がそれほど違うとは思えないから、違いは飼い主の側の見方・受け止め方ということになる。

女性の「友人観」「恋人観」を理解する手がかりとなりそうだ。

日航機墜落事故20年に寄せて

日航機が御巣鷹山に墜落して20年。先日来、テレビなどでいろいろな報道がなされている。特に目につくのが「相変わらず日航機のトラブルが多い。日航は何をやっているのか」という論調である。

テレビではめったに取り上げられないが、あの事故以来、日航の社員有志が、毎年この墜落忌の前に休暇を取って御巣鷹山に登り、墜落忌に遺族たちが登りやすいよう、草刈りなどをしている。私の知人で日航で整備関係の仕事をされている方も、あの事故から毎年登っている。

私は、それが社員全員ではないとしても、そのような人達がいる組織が、組織ぐるみで手を抜いたり、いい加減な仕事をできるわけがないと思う。

論理的な根拠はなく、どちらかといえば直感に過ぎないが、航空機やスペースシャトルなど、極めて多くの要素が互いに関係し合うシステムにおいて、その複雑さがある限度を超えると、個々の要素が持つ不確定性を従来のやり方ではコントロールしきれなくなるのではないか。

「(相互に依存し合う)部分部分を最適化しても、それを合わせた全体が最適にはならない」というTOCの考え方は、ここにおいてもブレークスルー/パラダイムシフトの一つの可能性となるように感じる。

追求すべきは「責任」か、「原因」か

NHK教育テレビ ETV特集「ドアに潜む危険 〜畑村洋太郎の危険学入門〜」
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2005/0430.html

「安全の死角をなくすために何ができるのか――」。失敗学の創始者である畑村洋太郎工学院大学教授を中心に、ドアメーカーの技術者、ビルの管理者、医師や法律家たちが「ドア・プロジェクト」を組織し行動し始めた。

 番組では、このプロジェクトの実験や討議を通じて、ドアで事故が起きることに無頓着な日本の技術的・社会的な背景を明らかにする。また独自の取材を通じて、子供や老人などの弱者が犠牲となる「不慮の事故」がいっこうに減らない日本独特の構造と、事故防止の方策を示してゆく。

番組の冒頭で「警察は事件の責任を追及するが、それでは本当の原因が判らず、同じ問題が別の形で再発しかねない」との畑村教授の言葉が印象的だった。

また、子供の死亡原因の第1位は「不慮の事故」である、との言葉に驚いた。同じ過ちが繰り返されている、という。また、一人の死亡事故の陰には数万の小さなけががあるという。

追求すべきは「責任」か、「原因」か。

「責任」の追求は往々にして、本当の「原因」の追求の妨げとなる。

日本社会の閉塞感 努力しているのに結果が伴わない

JR宝塚線脱線事故をきっかけに、運転士に対する運行時刻厳守のプレッシャーや、ミスに対する人格攻撃まがいの「指導」が話題になっている。

TV東京「ガイアの夜明け」で、中小のトラック物流企業の現状が紹介されていた。運賃低迷、高速通行料を出してもらえない、燃費向上のためわざわざ日本海側の一般道を利用、戻りの荷物が空だと赤字になるため荷物が決まるまで何日もパーキングで寝泊まり・・・

おかしい。みんなそれぞれ、自分に与えられた役割を精一杯やっているにもかかわらず、全体としてよい方向に進まないのはどうしてだろう?

TOC(制約条件の理論)を学んでいると、組織全体の中でゴールのさらなる達成を「制約」しているものは1つ(あるいはきわめて少ない数)しかないという。そして生産性向上・効率アップの努力をその「制約条件」に集中することと、それ以外のところには「制約条件」を効果的に活用するための余裕・余剰すら必要である。

言い換えれば、「制約条件」でないところでいくら効率アップを追求しても、成果は得られないばかりかかえって「制約条件」の活用を阻害して、得られるべき成果を失ってしまうことになる。

つまり、全体を部分部分に分けて、その部分ごとに「最適化」をしても、全体を最適化したことにはならない。

一人一人がよかれと思って精一杯努力しても、全体としては良い結果が出ないということ。

日本はアメリカ型の競争社会・成果主義社会を目指すのではなく、一人一人の努力が報われる新しい社会を築いてゆくための手がかりが TOC にはあると思う。

「経験しなきゃわからない」と「教育」

数十年生きてきた中で「経験しなきゃわからない」という言葉は実感を持って正しいと思える。

一方で、「経験しなきゃわからないでは困る」こともたくさんある。ある戦争体験者が「戦争の愚かさを『経験しなければわからない』ではいけない。経験しなくとも理解できるような平和学習をぜひやってほしい」とおっしゃっていた。

また、初めて手術をする脳外科医に「どうぞ練習してください」と自分の頭を差し出す人もいないであろう。

「どちらが正しい」なんて不毛な議論をする気はない。どちらも極端と言うものだろう。

大事なのは、「教育」とはできる限り「経験しなくてもわかる」に近くあるべきだ、ということ。

これまでの学校教育における「何のために学ぶのかわからない」「丸暗記だけで応用がきかない」という反省は、「経験しなくてもわかる」状態からほど遠い、ということであろう。

その反省に立った「ゆとり教育」で、自分で考える力を養おうとしていたはずだったのに、今は世の中を挙げて「ゆとり教育批判」である。その批判の根拠の多くは「学力が低下した」というもの。

ひょっとして、以前と同じ「知識の量」で計っていませんか? 目的を変更したのなら、評価方法もふさわしく変更しなければならない。

眞鍋さんありがとう

眞鍋かをりのここだけの話釈明のみの記事ですが」を読ませていたきました。

うまく言えませんが、どうしても伝えたいことがあったからトラックバックさせてもらいます。「本音で書いてくれてありがとう!」

きっと多くの人が「自分もがんばろう」って勇気づけられたと思います。

人に自分の弱いところをさらしながらも、人のせいにしたり、人を頼ったりせずに生きてゆくことは、本当に強い人にしかできないことです。