雑多メモ

このブログは私のメモ書きにしようと思う。

交流などを目的とせず、のんびりとやってゆけたらと思う。

 

愛着障害」この言葉は、カウンセラーの先生から教えていただいた言葉である。

これは私の相方が不安定な性格であり、どうやらこれに該当するようであるといった具合であった。

相方は幼少の頃の話をしないし、その問題に触れようとしない。相方にとっての家族は「祖母」ただ一人であるということだ。相方は言う「私にとっての家族は祖母だけだった」これに相方の抱える悲しみを汲み取ることはできないだろうか。

全てをさらけ出すことが「愛」ではないだろう。

聞き出して共有することも「愛」とは違うだろう。

 

相方が「語りたい」と思った時に私が隣にいられたらとは思う。

私はワガママな人間だから「助けたい」という気持ちはない。

私がしたいからする。

もし私が「救ってあげたい」と思うようになったら、私は相方から離れる予定だ。

なぜか?「救ってあげたい」は「愛」を使ったエゴになる。それは「私の望む姿で完治してほしい」と願っているように私は考える。

それは相方にとって、単純な悪意よりとんでもない凶器になる。

悪意は悪意と認識できる、ゆえ対処できる。

しかし「私への愛」を語る相手にはたして反撃などできようか。

いや、できない。

 

私は「私への愛」を語り「私の為」といって、行動を制限されていた。

頑張ることは当然であり(それが私の心身に悪影響を与えていたとしても)

結果をだしたら更に上を目指すよう求められていた。

泣いてはいけない。(泣くぐらいなら、もっとやれるだろう)

笑ってはいけない。(ヘラヘラするな。調子に乗るな。もっと努力しろ)

幼い頃「愛」はどうやら何か提供しないと与えられないようだぞと認識した。

結果できあがったのが、自己否定ばかりする大人である。「愛」に飢えた、ひどく悲しい存在の私がいた。

 

このブログは相方と私のメモ書きである。