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「自動記述」とは何か

はじめに

 本論では、アンドレ・ブルトンが提唱・実践した自動記述とは何か、について述べていく。第一章第一節では、ブルトン自身による自動記述の定義を確認し、ブルトンが自動記述を発案するに至った経緯、ダダイズムからの影響や、自動記述の前身と呼べるシュルレアリスト達の遊戯である「優美な屍骸」、及びそれらに通底する美意識について述べ、第二節ではフロイト自由連想法とはどのようなものかを概観し、続く第三節ではフロイト自由連想法ブルトンがどのように受容し、自動記述の技法へと発展させていったかを見ていく。第二章では、自動記述とはどのようなものであるか、どのような特質を持っているかを、フィリップ・スーポーとの共著『磁場』における自動記述のはたらきや、自動記述の内容と速度との関係を検証することで明らかにしていく。そして第三章では、自動記述の技法の実践による初めての成果物である『溶ける魚』における自動記述の用いられ方をテクストをもとに分析する。

 

第一章 自動記述の成り立ち

第一節 自動記述の定義、自動記述前史

 ブルトン1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムとは、以下のように定義される。

 「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを実現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんなきづかいからもはなれた思考の書きとり(1)」

 そしてこの思考の書き取りのための具体的な方法として、自動記述は考案された。ブルトン自身の言葉を借りればそれは、「被験者の批判的精神がそれに対してどんな判断もくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言(『宣言』p.46)である。言い換えれば、夢と覚醒状態との中間の、きわめて受動的な状態に自身を置き、そこで浮かぶイメージを志向よりも速く口述もしくは記述することである。理性や道徳から離れた夢や狂気の状態に身を置くことで、そこで立ち現れてくる無意識を、自動記述は写し取ることができるとされている(2)。

 

 シュルレアリスムがダダの影響を受けて始まったように、初期のシュルレアリスムの主要な技法の一つである自動記述もまた、ダダの技法から多大な影響を受けている。ブルトンの自動記述のアイデアは、ダダの創始者であるトリスタン・ツァラの「帽子のなかの言葉」が着想のきっかけの一つとなっていると思われる。これはツァラが考案したダダ的な詩を作るための方法であり、その内容は次のとおりである。

 「新聞を手にしたまえ。鋏を手にしたまえ。その新聞から諸君の詩に与えようと思う長さの記事を選びたまえ。その記事を切り抜きたまえ。しかるのちその記事を構成する単語のひとつひとつを切り離し、袋の中へ入れたまえ。静かに振りたまえ。しかるのちそれぞれの切れ端を一つずつとりだしたまえ。それらを袋からとりだした順番で丹念に書きとりたまえ。詩は諸君に似るであろう。かくして諸君は、まだ俗衆には知られていないが、無限に個性のある、そして魅力的な感受性をもった作家になっているのだ(3)」

 「ダダイスムの詩を作るには」と題されているこの作詩法は、その手順から「帽子の中の言葉」と呼ばれている。新聞中のある記事を単語ごとにバラバラに切り取り、それを袋や帽子の中に入れて振り、そこから無作為に取り出した言葉を順番に並べていく、というこの方法は、詩を作る際に、すべてを偶然性に委ね、主体性を全く介在させないことによって、言語を意味から引き離すことが目的であった。「ダダはなにも意味しない(4)」という1918年にツァラによって発表された『ダダ宣言』の中の言葉からも読み取れるように、ツァラの、ダダイスムの目的は、あらゆるものを攻撃し、それらから意味をすっかり剥奪してしまうことであった。このような、「帽子の中の言葉」によって作られた詩は、次のようなものである。

 「──価格それらはきのう適当だったそれから絵/夢を評価すること眼球の時代/華やかに何を歌おう福音書ジャンルが暗くなる/集まる栄光想像することかれはいう宿命色たちの権力…(5)」

 このように、「帽子の中の言葉」によって作られる言葉は、脈絡がなく、文法の面からみても破綻しているものが多く出来上がり、その大半はとても詩と呼び得る代物ではなかった。そのような方法をあえてとることによって、ツァラは言語をあらゆるコードから引き離し、その意味性を無化することを試みたのである。

 また、これとよく似たもので、初期のシュルレアリスト達が集まって興じていた、「優美な屍骸」と呼ばれる遊戯がある。その内容は、「数人の人があつまって、一枚の紙を順繰りに渡しあい、各人がその紙のうえに一つの語、あるいは一本の線をかく。こうして最後に、一連の奇怪な文章だとか、およそ現実からかけ離れたデッサンが得られる(6)」というものであった。(『宣言』、p.37)。

 

第二節 フロイト自由連想法について

 また、ブルトンの自動記述の着想減の一つとして、フロイト自由連想法が挙げられる。ブルトンフロイトとの関係性が最も端的に表されているのが、ブルトン自身による以下の記述である。

 「そのころ私はまだフロイトに没頭していたし、彼の診断方法に親しみ、戦争中にはそれを患者に適用してみる機会もすこしばかりあったので、そこでは患者から得ることをもとめられているものを、つまり、できるだけ早口に語られる独り言を、自分自身から得ようと決心したのだった。すなわち、被験者の批判的精神がそれに対してどんな判断をくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言をである(『宣言』、p.40)」 ここで彼の言うフロイトの診断方法とは、それに続く記述の内容からして、自由連想法であるに違いない。ブルトンは、第一次世界大戦で従軍していた時期に、フロイトの理論に没頭しており、患者に対して実際に自由連想法を実践してみる機会があったようである。 フロイト自由連想法を始めて間もない頃に書かれたのが『あるヒステリー分析の断片(ドーラ)』であり、この治療は1900年の10月から同年の12月末まで続けられ、1905年に、それを報告した論文が発表されている。この治療の中で、フロイトはヒステリー症状の問題を解決するためには、夢の分析と並行して、自由連想法を用いたとされている。しかし、フロイトはこのドーラに関する論文のまえがきにおいて、「私自身が意図して持ち込んだ不完全さがある。すなわち、解釈作業は患者が思いついたことおよび報告したことに基づいて行われえたが、原則としてその作業の叙述はせず、その結果だけを記述した。したがって分析作業の技法は、夢に関する箇所を除けば、いくつかほんのわずかの箇所でしか明かされていない(8)」と書いてある通り、自由連想法がどのような作業であるのか、そしてまたその結果をどのように解釈するのか、という技法の詳細についてはあまり明らかにされていない。そこでまず、この症例報告の論文において、フロイトがドーラから、自由連想法を用いて引き出した結果であると思われる部分を抜粋し、自由連想法とはいかなるものかについて考察する。

 そもそも自由連想法とは、ある言葉(刺激語)が与えられた際に、心に浮かぶままの自由な考えを連想していく発想法であり、以下ではフロイトが被験者(ドーラ)に自由連想法を用いた結果引き出されたものであると思われる部分を列挙し、分析を進めていく。

 たとえば、母親という刺激語に対してなされたドーラの連想は、次のようなものである。

 「では話します。最近父が母とけんかをしたのです。母が夜、ダイニングに鍵をかけてしまうので。つまり、兄の部屋にはちゃんとした出口がなく、ダイニングを通らないと部屋から出られないのです。父は、兄が夜のあいだそんなふうに閉じ込められることになってはいけないと言うのです。父の言葉では、『そんなことをしてはだめだ。夜のあいだに外に出なければならないことが起こるかもしれないじゃないか』というわけです(『ドーラ』p.79)

 「母は装飾品が大好きで、父からたくさんもらっていました。(中略)わたしも前は大好きでした。しかし病気になってから装飾品を身に着けることはなくなりました。──四年前(夢を見る一年前)のことですが、父と母がある装飾品のことで派手にけんかになったことがありました。母には特にこれがほしいというものがあったのです。滴の形の真珠の耳飾りです、しかし父はそれを好まず、滴の耳飾りではなく、ブレスレットを母に渡しました。母はひどく腹を立て、父にこう言ったのです。『ほしいなんて言っていないものにそんなにたくさんのお金を遣うなんて。ほかの女の人にでもあげたらよかったのよ』って(『ドーラ』p.80)」

 「(フロイトに「わたしだったら喜んでもらっておくのに」と考えたかと問われて)わかりません。そもそもどうして母が夢に現れたのかわかりません。当時、母はLniいなかったですし(『ドーラ』p.79)」

 「ドーラが母親との同一化に固執し続けている様子から、わたしは思わず、『あなたも性病にかかっているのではありませんか』と質問しそうになってしまった。そして今や、わたしはドーラから聞いて知ったのだが、自分にはカタル(白色帯化)がある、その始まりがいつだったかは想い出せない、とのことであった(『ドーラ』p.95)」

 「清潔に保たれるべき性器はすでに、カタルによって汚れてしまっている。この点ではちなみに、母親もドーラと同じである。ドーラは、母の清潔好きはこの汚れに対する反動であると理解しているようであった(『ドーラ』p.115)」

 「前日の晩、身内の集まりののち、父親はドーラにコニャックをもってきてほしいと頼んだ。『コニャックを飲まないと眠れないからね』と父親が言ったという。彼女は母親に食品棚の鍵を求めたが、母親はおしゃべりに夢中で返事をしなかった。そしてついにドーラは、我慢できずにつぎのように言い放ってしまった。『お母さん、私はさっきからもう百回もカギはどこでしょうかって聞いているのよ』実際には、彼女はもちろん、だいたい五回繰り返しただけだった(『ドーラ』p.124)。」

 このように、フロイトが患者に自由連想法を用いるのは、刺激語を投げかけ、そこから導き出される連想を引き出す場合と、患者の夢についての解釈を深めるために、夢のある場面について質問し、そこから連想を広げさせる場合があることがわかる。そして次節では、ブルトンがこのフロイト自由連想法をもとに、自動記述を発明するに至った道筋を考察していく。

 

第三節 ブルトンフロイト

 フロイト自由連想法に刺激を得たブルトンは、その自由連想法を患者に対してではなく、自分自身に対して用いてみようと考えたのであるが、そこに至るまでの転換点となったのが、以下に引用する体験である。

 「ある晩のこと、眠りにつくまえに、私は、一語としておきかえることができないほどはっきりと発音され、しかしなおあらゆる音声から切りはなされた、一つのかなり奇妙な文句を感じ取ったのである。その文句は、意識の認める限りそのころ私とかかわりあっていたもろもろの出来事の痕跡をとどめることなく到来したもので、しつこく思われた文句、あえていえば、窓ガラスをたたくような文句であった。私はいそいでその概念をとらえ、先へすすもうという気になっていたとき、それらの有機的な性格にひきつけられたのだった。じっさいこの文句にはおどろかされた。あいにくこんにちまで覚えてはいないけれども、なにか、『窓でふたつに切られた男がいる』といったような文句だった(『宣言』p.37-38)」

「私はかなりめずらしい型のイメージを相手にしているのだとさとり、さっそくそれを自分の詩作の素材に組み入れることばかり考えた。こうして信頼をよせたとたん、さらにそのあとをうけて、なかなかとぎれることのない一連の文句がつづいてきた。それらも、ほとんどまえのものにおとらず私をおどろかせ、なにか無償のものちう印象のもとに私を置き去りにしたので、それまで自分に対してふるっていた支配力などはむなしいものに思われ、私はもはや、自分のなかでおこなわれている際限のない争いに終止符をうつことだけしか考えなくなった(『宣言』p.39-40)」

 ブルトンは、ほとんど無意識的に、ある連続した文句を書き上げたこのような体験を回想しながら、それを彼がかつて慣れ親しんだフロイトの方法と結び付けて自身の詩作に生かそうと試みたことが、無意識に心に浮かんだ単語をつなげていく自動記述という技法の発明へとつながっていくのである。次節では、実際にこの着想がいかにして自動記述の方法論へと結実していったのか、そして自動記述と自由連想法とはどのような相違があるのかをみていく。

 

第四節 フロイト自由連想法ブルトンの自動記述

 ブルトンは、前節で挙げた思いがけない文句がひとりでにやってくる体験ののちに、それを意識的に再現することができる方法を模索するようになった。「自分の注意力を、たったひとりで眠りにつくまぎわに、あらかじめ限定された何かを発見できないようなかたちで精神に感じ取られてくる、多かれ少なかれ断片的な、いくつかの文句の上にそそぐ(『宣言』p.34)」ようになっていたのである。

 そしてブルトンは、「シュルレアリスム魔術の秘訣(『宣言』p.53)、「シュルレアリスム作文、または下書きにして仕上げ(『宣言』p.53)として、つまり自動記述の具体的な実践のための手引きとして、次のような制作方法を挙げている。

 「できるだけ精神の自己集中に適した場所におちついてから、なにか書くものをもってこさせたまえ。できるだけ受身の、つまり受容力のある状態に身をおきたまえ。(中略)あらかじめ主題など考えずに、記憶にとどめたり読みかえしたくなったりできないほどすばやく書きたまえ。最初の文句はひとりでにやってくるだろう(『宣言』p.53-54)」

 つまりブルトンは、かつては眠りにつく間際に不意に訪れた文句を、できるだけ集中できる環境で、意識を受動的な状態におき、記憶や反省が介入する隙のないほどすばやく書くという方法でもって、再びとらえようとしたのである。また、これをフロイトの理論と結び付けるのならば、この「ひとりでにやってくる」最初の文句こそが、フロイト自由連想法における刺激語の役割を果たすと考えられる。しかし、フロイト自由連想法と、ブルトンの自動記述とでは、両者の目的のあいだに大きな違いがあることを確認しておきたい。フロイトは、第一章でみたように、自由連想法を、夢や無意識の解釈のための素材をより多く引き出すための臨床技法として用いているのに対して、ブルトンの自動記述では、意識されないほどすばやい連想それ自体が目的となっている。

 「私は語というものを、それが周囲にうけいれる空間のゆえに、つまり私が口にしていないほかの無数の語との接触のゆえに、どこまでもいつくしみはじめていた(『宣言』p.35)

 「接近する二つの現実の関係が遠く、しかも適切であればあるほど、イメージはいっそう強まり──いっそう感動の力と詩的現実性をもつようになるだろう(『宣言』p.37)」

 以上の記述からもわかるように、ブルトンの関心は、語と語との関係性や、第一節でみたように、かけ離れたイメージが結びつくことによって生じる美しさにあるのである。

 また、ブルトンは自動記述によって生まれる文章が、完全に無意識的なものではありえないことに対しても自覚的であったことは、「私たちの意識的思考とは無縁な、ひたすら表にあらわれることだけをもとめる文句が、刻々と生まれてくる。あとにつづく文句の件について、態度をきめることはかなりむずかしい。最初の文句を書きとめたという事実がごくわずかでも知覚をひきこむことを認めるなら、あとからやってくる文句はおそらく、私たちの意識的活動とそれ以外の活動との性質を同時に帯びることになるからだ(『宣言』p.54)」という記述からもわかる。そして、この意識的な活動と無意識的な活動が混じり合わざるを得ない。「まさにそうした点にこそ、シュルレアリスム遊戯の興味のもっとも大きな部分が存するのである(『宣言』p54.)としていることから、ブルトンの提唱する自動記述は、完全に純粋な無意識の記述それ自体を追及していたわけではないことがわかる。それでは、ブルトンが自動記述に見出していた意義とはどのようなものなのか、を次章で詳しく述べていく。

 

第二章 自動記述の特徴

第一節 自動記述の特質

 ブルトンが自動記述を初めて実際に用いて完成させたのが、フィリップ・スーポーとの共著である『磁場(1920年)』である。なぜ、ブルトンは単独で書き上げるのではなく、スーポーとの共著という形をとったのか。朝吹亮二によると、「共同執筆は自動記述の特質と分かちがたく結びついていた(9)」のである。なぜなら、自動記述による理性や道徳などのあらゆる配慮の外で行われる心の自動現象の書き取りは、「書き取っている者の主体性は否定、ないしは無化(10)」するからである。そしてブルトンは、当時から自動記述が持つこの意識的主体を排除するという特質に目をつけており、さらに共同執筆という形をとることで、個人の主観や想像力の限界を超えた詩を生み出そうと試みたのである。また、この作品において、どの個所をブルトンが書き、どの個所が共著者のスーポーの手によるものであるのかを、一切明示しておらず、このことにより、ブルトンは近代以降に支配的であった作品の作家主義を否定するとともに、作品やそこに書かれた言葉に匿名性を持たせることに成功している。

 また、自動記述が持つもう一つの特質として、言葉の自動性を挙げることができる。「最初の文句はひとりでやってくるだろう。事実そのとおりで、私たちの意識的思考とは無縁な、ひたすら表にあらわれることだけを求める文句が、刻々と生まれてくる(『宣言』p.54)」のである。前述したように、ブルトンは自動記述によって、純粋な無意識の声がそのまま完璧に書きとられるとは考えておらず、彼はむしろ、自動記述によってもたらされる「私たちの心をうばっている流出の絶対的持続(『宣言』p.54)」を、言い換えれば、自動記述によって無意識から書き取られた最初の一句が、その後に続く文章全体の調整を決定するという特質に心を奪われていた。自動記述は、純粋な無意識の書き取りのためというよりは、そのような記述の自動性の可能性を実験するために用いられたのである。

 このように、『磁場』におけるブルトンの狙いは、一つは自動記述を用いることによって、言葉を個人性から離れた匿名的なものとして扱うことであり、そしてもう一つは自動記述によって生じた特殊な語の組み合わせにけん引されて、そのあとの言葉が続いていく、その言葉の自動性を強調することなのである(11) 。

 

第二節 自動記述と速度の関係

 前章で述べたように、主体性を介在させることなく詩を作るための方法である「帽子の中の言葉」や、「優美な屍骸」のほかに、眠る間際に不意に奇妙な文句がひとりでにやってくるという個人的な体験がブルトンに啓示を与え、自動記述の技法を編み出していく契機となった。模索の途中で、当時フロイトに傾倒していたブルトンは、フロイトが編み出した自由連想法を自分自身に施してみるというアイデアを思いつく。自由連想法は、ヒステリー神経症治療のための臨床実験の一環としてフロイトが行っていた技法であり、ある刺激語から連想される言葉を、患者に自由に岩瀬、それらの関連や、反応速度などから、ヒステリーの原因となっている出来事や心的外傷を浮かび上がらせ、治療を施すというものであった。自由連想法によって得ることができる言葉は、無意識の領域と何らかの接点を持つ、と考えられていたのである。そしてブルトンはこの方法を患者に行うのではなく、自身に向けて用いてみることによって、自分の無意識から言葉を引き出すことが可能になるのではないかと考え、それが先ほど述べた体験、眠りにつく前の奇妙な文句の到来の体験と結びつき、それが自動記述という詩作方法として結実したのである。

 そして自動記述の技法のまとまった形での初めての実践が、フィリップ・スーポーとの共著『磁場(1920)』であり、この作品では自動記述の行われる速度が、かなり意識的に問題とされている。具体的に言えば次の5種類の速度があらかじめ設定されていた。

 「(1)速度V(非常に速い)

  (2)速度V'(Vの三分の一程度、それでもひとがたとえば子ども時代の想い出を語るときのふつうの速度の二倍」

  (3)速度V’’(Vよりはるかに速い。最大の速度)

  (4)速度V’’’(VとV’’の中間)

  (5)速度V’’’’(最初はVとV'''の中間、最後はVとV’’の中間)(12)」

 自動記述の際の平均的な速度として設定されている速度VはV'の三倍であるとされているため、単純計算して、ひとが幼少期の想い出を語るときのふつうの速度の六倍ほどの速度であったことがわかる。また、一番速いとされるV''は、それよりもはるかに速い速度として設定されている。そして、平均的な速度である速度Vで書かれた自動記述の例として、『磁場』に収められている「柵」という作品が挙げられる。

 「『ぼくらの周囲にあるさまざまな感情的な事物が、いつもの場所にないことに、ぼくはすぐ気がついたよ。』

 『べつの秩序をつくりだす必要があるのさ。嵐の真最中に、決裂の合図みたいに木の葉が裏返しになる。これにはちょっと感動するね(12)』」

 また、同じく『磁場』所収の「ヤドカリは語る・II」は、最大の速度である速度V''によってえがかれている。

「無色のガスは停められている

二千三百個の遠慮

みなもとの雪

微笑は許可される

水夫たちの約束を与えてはいけない

極のライオン

海 海 自然の砂

貧乏な親類たちのおうむ

大洋の別荘地

夕方の七時

怒りの国々の夜

財政 海の塩

もはや夏の美しい手しか見えない

瀕死の者たちのシガレット(13)」

 このように、自動記述のスピードが上がっていくにつれて、文の構造は単純になり、前後の関連がなく、切れ切れのイメージが次々に立ち現れるような様相を呈していくことがわかる。このような自動記述のテキストは、他社に伝えるべきどんな直接的なメッセージも持っていないという点においては、ツァラによるダダイスムの一連の試みと合致するかもしれないが、ツァラの目的が、言語の持つ意味の放棄、もしくは言語そのものの破壊に向かっていたのに対して、ブルトンの自動記述は、「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り(『宣言』p.46)」であり、無意識の思考の書き取りなのである。思考というものは、意味を前提とするものであるから、ブルトンは、ツァラが目指したように、言語から意味を取り除き、破壊を目的とはしておらず、新しい詩を作るための方法として彼らの技法を取り入れた点で、両者の立場は異なっている。

第三章 『溶ける魚」における自動記述

  前章までに述べた通り、ツァラの考案した詩作法「帽子の中の言葉」、そしてシュルリアリストたちが興じた「優美な屍骸」をふまえて、それを自身の体験や、フロイトの無意識の理論と結び付けて生み出されたのが自動記述であった。そしてそれを支えるのは無意識の領域への無条件の信頼と、優れたイメージとは二つのかけはなれた現実の結びつきによって生じるという美意識であった。スーポーとの共著『磁場』では自動記述の速度が重要視されており、ブルトンは自動記述のスピードを上げること、そしてスーポーという他者との共作の形をとることで、主体の消失した言語の実現を目指し、言語の自律性や匿名性の可能性を探る実験を推し進めたのであるが、ブルトンひとりの自動記述によって書かれた小話集『溶ける魚(1924年)』において、自動記述はどのような展開を見せているか。『溶ける魚』はブルトンが単独の自動記述によって書き上げた初めての作品集であり、有名な『シュルレアリスム宣言』はもともとこの作品集のための序文として書かれた。この作品集のなかでの最初の一篇である「溶ける魚1」を例にとって、自動記述がどのように用いられているかを分析する。

 『溶ける魚』の冒頭を飾るこの一篇は、「意味のない城がひとつ、地表をうろついて(『宣言』p.87)いる場面から始まる。ここで表れている城のモチーフは、ブルトンが好んで用いるものであるが、これは『宣言』においてマシュー・グレゴリー・ルイスの恐怖小説『マンク(1796年)』を、その不可思議さにおいて絶賛している(『宣言』p.27)ことからもわかるように、ブルトンの生来のゴシック趣味の反映であると考えられる。また、ブルトンが、シュルレアリストたちのたまり場となっていた自身の家を、城と呼んでいた事実も一考に値する(『宣言』p.30-32)。そして、意味のない、という修飾語から、ダダを連想するのも不自然ではないだろう。そしてそこに、「幽霊が忍び足ではいってくる(『宣言』p.88)のである。この幽霊というモチーフは、ブルトンがたびたび言及しているイメージである。例えば、次のような記述がある。「この言葉(誰とつきあっているか)は、それが意味するよりもはるかに多くのことを語っており、生きながらにして私に幽霊の役割を演じさせる(14)」。このつきあうという語(hanter)には、「つきまとう」あるいは「とりつく」といった意味もあるため、それによってブルトンは幽霊のイメージを連想したものだと思われる(15)。そこからさらに彼は「幽霊」に対する言及をつづけ、「私が『幽霊』なるものについて思いえがく姿は、その外見においても、また幽霊が、時間的な、あるいは空間的な或る種の偶然性に、まったく盲目的に従ってしまうという点においても、それ自体の持つ因習的な面からして、私には何よりもまず、永遠に続くに相違ない或る苦悩の、完結したイメージとしての価値をもっている(16)」とある。つまり、ブルトンにとっての幽霊とは、「永遠に続くに相違ない或る苦悩の、完結したイメージ」であり、ブルトンは現実の生活において、「幽霊の役割を演じさせ」られていると感じているのである。先ほどの「忍び足ではいっ」てきた幽霊は、ブルトン自身を暗示するものであり、彼が「自分のためにこの心やわらいだ国(『宣言』p.88)」、つまりダダを思わせる無意味な城に迷い込む場面から、シュルレアリスムの最初の作品集が始まるという点から、この城は、今まさに生まれつつあるシュルレアリスムの姿と二重写しとなっていると考えられる。

 つづいて、「城の窓辺で、ひとりの女が歌っている(『宣言』p.88)」のを見つけるのだが、先ほどの幽霊が、「あたりに上天気をつくりすぎている」ために、この女の姿をはっきりと見ることができずにいる。すると、「とつぜん夜がやってきて」、場面は突然転換する。この後も、場面が著しく転換する際には、常にその直前に女が登場する。女の存在によって、「私」はあるイメージから次のイメージへと引っ張られていく。後年のブルトンの小説でもそうであるように、ここでも女性が彼のインスピレーションの源泉となっていることが窺える。それどころか、「眠っているときにこそ、彼女は本当に私のものになるのだ、私は彼女の夢のなかへ盗人のように忍び込み、そして、まるで王冠を失うかのように、彼女をほんとうに失ってしまう(『宣言』p.92-93)」という記述から、ここでは、女は無意識の象徴としてえがかれている、と推測することができる。このことは、「私が野生の木の実や、じゅうぶんに陽光をうけた漿果をもちかえってプレゼントすると、彼女の両手のなかで、それはとてつもない宝石になる(『宣言』p.93)」という箇所からも読み取ることができる。眠っているときにのみ、本当に私のものとなり、昼間の光を浴びた漿果がその両手の中でとてつもない宝石に変化し、いずれは失ってしまう彼女とは、夢というかたちで立ち現れてくる無意識の特徴と類似点がある。

 終盤に差し掛かると、「時をへたいまでは、もうはっきりとは見えてこない、これはちょうど、私の生の劇場と私自身とのあいだに、ひとつの滝がかかっているかのようで(『宣言』p.92)であると言い、このひとつの滝によって隔てられた生の劇場とブルトン自身を再び結び付けるためには、「いまいちど寝室の茂みのなかで戦慄をめざめさせ、昼の窓のなかで小川と小川をむすびあわせなければならない(『宣言』p.93)」のである。両者を結びつけるのが「寝室の茂みのなか」であることや、冒頭において、突然夜がやってくることによってめまぐるしいイメージの変転が展開していったことを考え合わせると、ブルトンの意識と無意識を結び付け、全的な生を取り戻すための鍵は、眠り=夢であることがわかる。

 まとめると、城とは生まれつつあるシュルレアリスムであり、幽霊とは現実世界におけるブルトン自身の姿の投影であり、女は無意識の象徴である。そしてブルトンと女=無意識を結びつけるものは、夜や寝室の茂み、すなわち眠りや夢なのである。

 ここまでが。「溶ける魚1」における城や幽霊、女等の主要なモチーフの分析であるが、つづいて、この作品に立ち現れるさまざまな動物・植物のイメージについて分析したい。

 「溶ける魚1」の中には、実に多種多様な動植物や無機物が登場する。例えば、「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた(『宣言』p.87)」「海の鳥たちが笑う(『宣言』p.87)」「枯れた楡と緑あざやかなキササギだけが、野生の星々のミルクのなだれのなかで溜息をつく(『宣言』p.88)」「ゴンドラ魚が、両手で目かくしをしながら、真珠だかドレスだかをもとめて通り過ぎる(『宣言』p.88)」のような描写が挙げられるが、これらについて共通している特徴は、ここに登場する事物のほとんどが、擬人法で描かれている点である。これらは比喩の一種であるというよりはむしろ、自動記述による事物の変容の様子の記述であるととらえるべきである。つまり、「通常は描写されるにとどまる事物が、記述の中で、むしろ主体となり、発話したり、行動したりしている(17)」のである。

 また、自動記述について述べる際に、しばしば問題とされるのが「私」の位置や主体性のあり方の問題であるが、この「溶ける魚1」において、「私」はどのように描かれているのだろうか。「私はこの城の鉄格子門で呼び鈴をならしていた(『宣言』p.89)」という箇所で、「私」は唐突に登場する。この城の呼び鈴を鳴らしている私は、当然のことながら、城のなかへと入ろうとしているのであるが、前に述べたように。ブルトンにとって、城はシュルレアリスム自体と強く結びついた語であることを考えると、ここから、「私」は自動記述の現場へと入っていくのだということが読み取れる。そこから「私」は、小間使いたちと話をしたあと、城の内部へと入っていく。そしてさまざまなイメージが展開されていくのだが、「私」はその城の回廊の中で、「私は私で、いちぶの隙もない燕尾服のなかにどうにか身をうずめて、以来、もうそこから脱け出られないありさま(『宣言』p.91)」にまで陥ってしまう。前出の「時をへたいまでは、もうはっきりとは見えてこない、これはちょうど、私の生の劇場と私自身とのあいだに、ひとつの滝がかかっているかのようで、しかも、私はその劇場の立役者ではない(『宣言』p.92)」という箇所とも同様に、この作品において「私」は自ら主体的に行動するということをほとんどしない。そして私が身動きを取れずにいる間に、事物があたかも人間のように生き生きと活動しているのである。「溶ける魚1」におけるこのような「私」のあり方は、自身を徹底的に受動的な状態におくことによって始めることができる自動記述の性質に、そしてその自動記述の技法によって綴られた小話集『溶ける魚』の初めの一篇に、とても似つかわしいもののように思える。

 

おわりに

 初期のシュルレアリスムの目的は、ブルトンは夢の復権や、無意識の発見であるとブルトンは述べている。また、自動記述によって紡がれた『溶ける魚』において、通常では客観的に描写されるにとどまる事物が行為する主体となって発話をしたり行動する様子が描かれているという特徴や、自動記述がもたらす言語の自律性や匿名性は、固定した言葉の意味や特権的なイメージの転倒させる試みであったと考えられる。後年のブルトントロツキー共産主義者たちに急速に接近し、政治色が強くなりすぎたためにシュルレアリスム運動は瓦解していったとされているが、ブルトンにとってのシュルレアリスム運動は、一貫してある種の階級闘争であったのではないか。現実と夢、主体と客体、人間と動植物や鉱物等、様々なものの間の関係を、自動記述や、オブジェ、デペイズマンなどという技法によって揺さぶりをかけ、変化させようと試みていたのではないだろうか。

注 

(1)アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』、岩波書店、1992年、p.46、以下本書の引用は『宣言』と略記し、本文中にページ数を示す

(2)イヴ・デュプレシス著、稲田三吉訳『シュールレアリスム白水社、1963年、p.55-56

(3)トリスタン・ツァラ著、浜田明訳『トリスタン・ツァラの仕事I──批評』視聴者、1988年、p.27-28

(4)同書、p.15

(5)塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』筑摩書房、2003年、p.214

(6)前掲書、イヴ・デュプレシス、p.53

(7)同書、p.54

(8)ジークムント・フロイト著、渡邊俊之他三名訳『フロイト全集6』岩波書店、2009年、p.10、以下本書の引用は『ドーラ』と略記し、本文中にページ数を示す。

(9)朝吹亮二アンドレ・ブルトンの詩的世界』、慶応義塾大学法学研究所、2015年、p.4

(10)同書p.4

(11)同書p.50

(12)前掲書、塚原史、p.203

(13)同書、p.204

(14)アンドレ・ブルトン著、稲田三吉訳『ナジャ』現代思潮社、1962年、p.5-6

(15)巌谷國士著『シュルレアリスムと芸術』、河出書房、1976年、p.24

(16)前掲書、『ナジャ』、p.6

(17)前掲書、朝吹亮二、p.59

『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』のAmazonレビューについて

 2017年に思潮社から出されている、塚本史/後藤美和子訳『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』は、現在Amazonのカスタマーレビューで満点の星5.0の評価が付けられている。と言っても投稿されているレビューは1件だけで、その内容を見ていると、詩集に対する感想であるとはとても思えない、場違いで奇妙なものであった。以下に全文引用してみよう。

 

YAMAHAのMOXF6で楽曲を完成させて、
このレコーダーに録音しています。
使いやすいです。
最後の段階で、イコライザーが調節できますが、
lowとhighの二つしかありません。
ですが、それはキーボード側で楽曲を作るときに
調整すればいい話です。
レコーダーのイコライザーは最終調整として十分です。

価格も安く満足しています。

実は買ってまもなくして、
インプットの片側の音量が小さくなるトラブルがありました。
それはツマミを上か下に押せば(回すのではなく)一時的に直りましたが、
毎回そうするのも大変なので、二台目を買いました。

音量が小さくなった原因はわかりません。
全然乱暴に使っていなかったのですが。
ただ他の人のコメントには、そういうことは書いてないので、本当に
偶発的な故障だったのでしょう。

ダダ・シュルレアリスム新訳詩集 | 塚原 史, 後藤 美和子 |本 | 通販 | Amazon より

 

  このレビューを逐語的に、字義通りに読むならば、商品名は明記されてはいないものの、自分で作曲した曲を録音するための機械の使用感を率直に述べた文章であろう。簡易的な機能だけを備えたレコーダーに対して、不具合に見舞われ同じものを買い直しているのにも関わらず、安価であったため満足していると書き、商品の評価は満点の星5つである。一見したところ、これはとても『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』に対するレビューであるという風には見えない。おそらく投稿者がレビューをする商品を間違えたか、Amazon側の何らかのシステムの乱れによって別の商品のレビューがこのページに反映されているのだろう。

 だが、本当にそうだろうか。このレビューは本当に、単なる手違いによって誤って投稿されたものなのか。いくら安物であるとはいえ、買ったばかりですぐに支障をきたすような商品に、満点をつけるだろうか。投稿者は「全然乱暴に使っていなかった」とはっきり述べており、故障の原因が使用の仕方ではなく商品の方にあると意識している。それにも関わらず星5つは不自然ではないだろうか。実はこれは誤って投稿されたレコーダーの評価なのではなくて、投稿者は明確な意図を持って、この詩集に対してこのレビューを投稿したのではないか。

 以下、考察を進める前に、『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』(2017年)に収められている、ダダやシュルレアリスムの詩がどのようなものであったのか、簡単に確認してみよう。ダダもシュルレアリスムも共に、後年になって美術史家によって便宜的に名付けられた様式概念によって初めて括られるものではなく、当事者によって名付けられた、自覚的な芸術運動であった。

 ダダは1916年にチューリッヒの文芸カフェ、キャヴァレー・ヴォルテールにたむろする若者たちによって始められたが、このグループで中心的な役割を果たすことになったトリスタン・ツァラが、1918年にダダの行動原理や目的意識を表明する『ダダ宣言1918』を発表した。「宣言を発表するには、A・B・Cに拠って1・2・3を電撃しなければならない(1)」というゴツゴツした書き出しで始まるこの宣言は、その文中の「ダダは何も意味しない」というフレーズがスローガンとして流布したことからもわかる通り、無意味なフレーズの羅列などを通して、「言語の意味作用を破壊することをめざした(2)」ものであった。

 シュルレアリスム運動の創始者であり、理論的な指導者であるアンドレ・ブルトンは、1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムに明確な定義を与えている。彼の定義を全文引用する。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。(3)」つまり、シュルレアリスムは、例えば自動記述など、ある特殊な口述、記述、その他の方法を用いることで、無意識の領域を表現することを目指す芸術運動であった。後年のシュルレアリスム運動は共産主義に接近し空中分解していったとされることが多いが、無意識という回路を経由することで、語と語の間、イメージとイメージの間にある階級的な繋がりを飛び越え、新たに結び合わせることを目指したという点で、その始めから階級闘争的な性格を持ったものであったと考えられる。

 以上はごく簡単な素描ではあるが、ダダとシュルレアリスムは、2つの世界大戦の間の、混迷を極めた近代ヨーロッパにおいて勃興した理念的な芸術運動であり、前者では無意味による意味の破壊、後者では無意識の表現による価値の転倒が目指された。さて、これらの前提を踏まえて、最初のレビューを見直してみよう。果たしてこれは、本当に単純なミスの産物なのか?

 詩集に対して何ら関係のない精密機械のレビューをつけること、これは明らかに無意味である。しかしその無意味なレビューを付けられているのが、他ならぬ『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』であるという点が、事態を複雑にしている。トリスタン・ツァラの言葉を思い出してみよう。「ダダは何も意味しない」。このレビューは、この詩集の内容について何一つ述べていない。その意味で当然このレビューは無意味である。何も意味しないことを志向したダダの詩が収められた本書に対して、何らの実効的な意味を持たないレビューを投稿することは、ダダの実践に他ならないのではないか?

 つまり、このレビューはひょっとすると手違いではなく、この詩集を何度も読み返し深く感化された投稿者が、意図的にダダの技法を実践しているのかもしれないという可能性が、否定しきれずに残る。無意味なレビューを投稿しているという理由だけで、これがダダ的な実践であると断定するのは早計に過ぎるかもしれない。だがしかし、それだけではないのである。このレビューは、単純にダダの真似事をしているだけではなく、シュルレアリスムの技法の一つである「デペイズマン」の実践であるという風にも読み取ることができる。巖谷國士は『シュルレアリスムとは何か』の中で、デペイズマンに対して以下のような説明をしている。

「デペイズマン(dépaysement)」はいま日本語としても一部で使われていますが、動詞ならば「デペイゼ( dépayser)」──この場合の「デ( dé)」は分離・剥奪をあらわす接頭語で、「ペイ(pay)」は「国、故郷」ですから、ある国から引きはなして他の国へ追放するというのがもとの意味で、要するに、本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所にないものを出会わせて異和を生じさせることをいいます

巖谷國士シュルレアリスムとは何か』、2002年、筑摩書房、p.84

 デペイズマンの典型的な例として、マルセル・デュシャンの『泉』がよく挙げられる。男性用の小便器を泉に見立て、美術展に出品した作品であるが、これは芸術品を展示する美術館という場所に便器を持ち込むことで異和を生じさせたものである。同時にこの作品は作者とは何か、芸術とは何か、という18世紀の「芸術」概念の誕生以来、前提として素朴に信奉されてきた神話を揺るがす根源的な問いをもたらしたものでもあるが、本筋からは逸れるためここでは割愛する。

 互いに隔たった現実のイメージが接近するとき、「両者の関係が遠く、しかも適切であるほど、イメージはいっそう強まり、いっそう感動の力と詩的現実性をもつようになるだろう(4)」というピエール・ルヴェルディの言葉を、ブルトンは共感を込めて引用している。また、デペイズマンの効果をよく引き出した例として、ロートレアモンの『マルドロールの歌』の第六歌の中の一節、「そしてなによりも、ミシンとコウモリ傘との、解剖台のうえでの偶然の出合いのように、彼は美しい!(5)」が挙げられることも多い。

 さて、問題にしていたレビューは、詩集に対する感想とは到底思えないものであったが、これらの概念を踏まえて見直してみると、どうであろうか。詩集のレビューに、廉価なレコーダーの使用感を詳細に述べたものを投稿する。当該のレコーダーの商品ページに掲載されるべき文章が、『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』の感想として投稿されている。これは紛れもなく「本来の環境から別のところへ移す」ことで異和を生じさせる「デペイズマン」の技法である。『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』の商品ページに、シュルレアリスムのデペイズマンの技法を駆使し、ダダ的な意味の破壊を試みたレビューが投稿されるのが、はたして偶然なのだろうか。

 ここで敢えて、偶然ではなく確固たる意志を持ってこのレビューは投稿された、という仮定に立ってもう一度読み直してみると、この文章は言外の意味を浮かび上がらせてくるのではないか。「YAMAHAのMOXF6で楽曲を完成させて、/このレコーダーに録音しています」。MOFX6とはシンセサイザーなのだろう。文脈からして、「このレコーダー」が『ダダ・シュルレアリスム新訳詩集』を表しているのは明らかである。詩集がレコーダーであるとはどのような意味であるか?おそらく、詩集の中の言葉が、投稿者の心中にあるメロディを喚び起こすのだろう。だから詩集の同じページを開くたびに、投稿者は常に同じ旋律に出会うのだ。電源も要らず、時の流れにも耐えるこのレコーダーは「使いやすい」と彼は言う。続く文章は難解である。「最後の段階で、イコライザーが調節できますが、/lowとhighの二つしかありません」。しかし丁寧に読み解いていけば、次第に意味が明らかになってくる。まずイコライザーとは、周波数の特性を補正する装置であり、音を平らに均すためのものである。当然、レコーダーというのは詩集のことであるのでこのイコライザーも比喩として読まなければならない。イコライザーにlowとhighの2つしかないというのがこのレコーダー(詩集)の特徴であるが、これは極端から極端へと振れやすく、無意味による意味の破壊を追求した果てについには自己破壊にまで至ることがあらかじめ宿命付けられていたダダの特性を隠喩的に表現したものであると思われる。続いて、「ですが、それはキーボード側で楽曲を作るときに
調整すればいい話」であるとして、欠点とはみなしていない。ここが重要である。彼は、ダダがその始めから胚胎していた致命的な欠点を鋭く指摘しながらも、それは「キーボード側(投稿者)」で調整すればいい、と受け止めている。つまり、彼はダダが形骸化した、とうに死に絶えた運動であるとは考えていない。適切な調整さえすれば、今日でも十分に通用するものであるというふうに捉えていることが伺える。事実、彼はこのレビューをダダ的な実践として投稿しているのであるから、彼の思想と行動は直接的に結びつき、一貫している。「実は買ってまもなくして、/インプットの片側の音量が小さくなるトラブルがありました。/それはツマミを上か下に押せば(回すのではなく)一時的に直りましたが、/毎回そうするのも大変なので、二台目を買いました」は、一見複雑なように見えるが、インプットの片側の音量が小さくなるというのは、詩を読んでも鮮烈なイメージや詩的な興奮がもはや主体の側に沸き起こらなくなったという意味であり、終始支離滅裂で、その意味では一本調子とも言えるダダイズムの詩に、彼は読み始めてすぐに退屈を覚え始めたのではないか。「ツマミを上か下に押す」でのツマミは、レコーダー(詩集)についているものであろう。詩集のツマミを上か下に押すとはどういうことであろうか。わざわざ(回すのではなく)という但し書きがついている。これは推測に過ぎないかもしれないが、ツマミを上か下に押す、とは詩作品を読む際に上下の一部を指で隠す、ということではないだろうか。全体を一息に読もうとすると支離滅裂で、上滑りしてしまうが、語を前後の文脈から切り離して眺めてみると、アクロバティックな比喩や、奇天烈な造語に、修辞上の面白さを感じるようになる(「一時的に直る」)のだろう。そして「二台目を買いました」というのは、投稿者の関心が次第にダダの後に続いたシュルレアリスムの詩の方に移っていったことを示している。そして最終連では「音量が小さくなった原因はわかりません。/全然乱暴に使っていなかったのですが。/ただ他の人のコメントには、そういうことは書いてないので、本当に/偶発的な故障だったのでしょう」という言葉で締められている。ここで注目すべきは三行目の「他の人のコメントには、そういうことは書いてない」という記述である。この記事を書いている2021年6月28日現在、この詩集に投稿されているレビューはこの1件だけである。他の人のコメントはどこにも見当たらない。ここで作者はこの詩集が大きな反響を呼んでいないことをユーモラスに皮肉っているのであり、自身でダダ・シュルレアリスム的な実践をしながら、ダダやシュルレアリスムを単なる過去の一時期の芸術運動として片付けがちな私達を挑発しているのである。彼はダダやシュルレアリスムの終焉をあくまで「偶発的な故障」であったと解釈し、このレビューを投稿することでダダやシュルレアリスムの実践を現代に蘇らせようとしている。詩集の発売から3年後の2020年までの間に、彼は幾度もこの詩集を読み返し、ダダやシュルレアリスムの技法を学び、自身の血肉としながら、活発な議論を呼ばない現状を憂い、奮起し、自らこれらの技法を踏まえた生きた実践をしてみせることで、我々を挑発し、破壊的な運動へと誘っているのである。事実、このレビューはAmazonの商品レビューというフラットな言説空間に異和をもたらし、印象的な裂け目を形成している。その破れ目からダダイストたちの立てる嬌声・騒音が聞こえてくるようである。いま、彼によって先鞭はつけられた。シュルレアリスムは死んでいないと信じるすべての人々は、彼に続くべきである。

 

 

(1)トリスタン・ツァラ著、浜田明訳『トリスタン・ツァラの仕事I───批評』、1988年、思潮社、p.14

(2)塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』、2003年、筑摩書房、p.87

(3)アンドレ・ブルトン著、巖谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』1992年、岩波書店、p.46

(4)同書、p.37

(5)ロートレアモン著、前川嘉男訳『マルドロールの歌』、1991年、集英社、p.262

受胎告知の名画④ 読書をするマリアの図像の起源と発展

notre-musique.hatenadiary.jp

 

 受胎告知の絵画は、ルネサンス期において最も多くの作例が描かれましたが、その際、必ずと言っていいほど、マリアは本を手にしているか、読書中であるか、書見台や机に置かれた本が描き込まれています。第一回目の記事で見たように、東方における伝統では、受胎告知の場面でのマリアは糸紡ぎをしている姿で描かれるのが主流でしたが、ルネサンス期の西欧においては、読書をするマリアの姿が好んで取り上げられました。今回の記事では、その読書をするマリアの図像の起源と、その発展の歴史についてまとめました。

 

 

ロベール・カンパンの《メロード祭壇画》中央パネルにおける書物の意味

 読書をするマリアを描いた受胎告知画の代表作として、15世紀フランドルの画家、ロベルト・カンパンによる祭壇画の中央パネルが挙げられる。この作品においては、マリアはまだ大天使ガブリエルの来訪に気が付かずに、木のベンチに腰掛けて読書に耽っている。また画面上にはもう一冊、丸テーブルの上に開かれたままの本が描かれている。そして、同じテーブルの上、読みかけであろう本のすぐ脇には、かすかな煙の立ち昇る、火の消えたばかりの蝋燭があり、それとは対照的に、画面右手の暖炉の上にある燭台の上には、真新しい蝋燭が準備されている。このことから、高階秀爾の解説によると、「マリアが読むのを止めたテーブルの上の本が旧約の世界を象徴し、現在読んでいる本が新約の世界を表すと解釈すべき」であり、「イエス・キリストの登場とともに、律法(旧約)の時代が終わり、新たに恩寵(新約)の時代が始まるというのは、キリスト教歴史館の基本的構造であり」、「受胎告知は、まさしく転換のときに位置するものだから(1)」であるとされている。救世主イエス・キリストの誕生を告げる受胎告知の場面において、マリアはそれまで読んでいた旧約聖書から新約聖書に目を移し、旧約聖書の教えを表す机上の蝋燭はたった今役割を終え、今度は新たに恩寵の教えを表す蝋燭に火が灯されることを暗示している。

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ロベール・カンパン《メロード祭壇画》、1425−28年頃、ニューヨーク、The Cloisters所蔵、

 このように、受胎告知の場面における読書をするマリアの図像は、ルネサンス期に至って、多様な象徴的な意味を含むまでに発展したが、受胎告知のエピソードの典拠であるルカによる福音書では、聖母マリアと大天使ガブリエルによる会話が簡潔に描かれているだけであり、具体的な場面設定や情景描写はなされず、ガブリエルの訪問時にマリアは読書をしていたという記述も見当たらない。それでは、ルネサンス期に一般的な、読書をするマリアの図像はいつ頃から描かれるようになったのか?その図像は何に由来するのか?何の本を読んでいるのか?その図像はどのように発展したのか?マリアの読書は、絵を見る人々にとって、何を意味しているのか?と、様々な疑問が浮かぶ。以下では、読書をするマリアを巡る国内外の研究を紐解きながら、その図像的な起源や、その発展の歴史を追っていく。

読書をするマリアの図像表現

邦語文献における記載

 読書をするマリアの図像表現について、矢代幸雄は著書『受胎告知』(1927年に出たものの復刊)の中で次のように述べている。「あまりに単純にして通俗な家庭女の仕事と混同されやすい糸紡ぎが、神の子を受胎する大神秘の瞬間、苟も将来の聖母ともあろうものの仕事として、荘厳さが足りないと感じられたのは、キリスト教が古伝説を正直に守る原始信仰からぬけて、一般民衆にもっと有力な厳飾を以て働きかけ始めてから、間もないことであっ」て、「アトス修道院の画式を遵守する義務のなかったローマ教会に於いては、十二世紀の初めにすでにマリアが糸紡ぎをしていたとする代りに、本を読んでいた、と主張した。本とは言うまでもなく聖書である」。そして、中世末期の一般的な信仰の動向をよく表したものとして、熱烈に聖母を信仰したクレルヴォーの聖ベルナール(1090−1153年)の次の記述を挙げている。「──マリアは聖書を開いて読んでいる。読みかけたところは預言者イザヤの書第七章第十四節。『視よおとめ孕みて子を産まん、その名をインマヌエルと称うべし…‥』マリアこの句を読みて、謙遜の心のうちに、かかることが言われ得る女は如何に幸福であろう、と思いめぐらす。ちょうどその刹那、大天使ガブリエル入り来り、彼女に聖書の言葉の実現を与えた──(2)」。

 また、鹿島卯女監修の『受胎告知』の中の、高階秀爾の解説によると、「『糸紡ぎ』のモティーフが持つ『日常的』性格に対し、いっそう『知的』な解釈を好んだ西欧世界では、カロリンガ朝美術以来、『糸紡ぎ』のような『手仕事』よりも『読書』のモチーフが有力となり、中世後期からルネッサンスにかけては、本を読んでいる(ないしは本を手に持っている)マリアが圧倒的に多くなる(3)」とされ、多くの作例を指摘できるようになるのは12,13世紀以降であり、「中世末期から後の時代になると、マリアはほとんどつねに、本を手にしているか、書見台、ないしは机の上の本とともに描き出されるようになる」。そしてこのモティーフの普及には、ヨハンネス・デ・カプリウスの『キリストの生涯についての省察録』の影響が大きいが、マリアと本の結びつきの伝統は、それよりも以前から存在していて、その場合は、「本は、智慧、ないしは学芸を象徴する。中世の神学者たち、例えばアルベルトゥス・マグヌスやシャルトルのティエリー等にとっては、マリアは単に信仰深い娘であるばかりでなく、七つの自由学芸に習熟した学問の女王であった。というのは、その七つの自由学芸において誰よりも優れたマリアであればこそ、聖霊の七つの恵みを与えられ、したがって、神の母として選ばれるにふさわしい存在だからである。(4)」と説明されている。

 上記のように、矢代幸雄の著書では、中世末期の12世紀頃にはすでに読書をするマリアのモチーフが一般的であったとされており、高階秀爾の記述はそれよりも詳しく、具体的な作例は挙げられていないが、8−10世紀のカロリング朝の時代にすでに読書をするマリアのモチーフが有力になっていると述べており、その理由として、本は智慧や学芸を象徴し、七つの自由学芸に秀でたマリアこそ、神の母として選ばれるにふさわしい存在であったと考えられていた、と説明している。それでは、読書をするマリアの表現は結局のところいつから存在していたのか、また、共観福音書中には該当する記述が見られない、学問に秀でたマリアというイメージはどのようにして形成されたのか、という疑問は残る。

Laura Saetveit Milesによる研究

 Laura Saetveit Milesによる2014年の論文、”The Origins and Development of the Virgin Mary's Book at the Annunciation”(Speculum Vol. 89, No. 3 ,2014, pp. 632-669)によると、東方では、受胎告知の場面に具体的な肉付けをするさいに主に参照されたのは、外典ヤコブの原福音書』であったが、西方にあっては、同じく外典である偽マタイによる福音書や、マリアによる福音書が、その中で描かれる理想化されたマリアの姿によって人々の心を惹きつけ、民衆の間での聖母マリア信仰の高まりと相まって、より好まれた(5)。

 読書をするマリアの図像の源泉は、遠く偽マタイによる福音書(紀元6−9世紀頃成立?)の記述の中にある。そこでは、マリアは他の誰よりも律法に通じており、謙虚で、ダビデの歌を優雅に歌い、惜しみなく寄付をし、純粋であり、あらゆる美徳において優れていた、と礼賛されている。ここにおいて、マリアは「禁欲的な信仰生活を送る処女の模範」として理想化されている。しかし、あらゆる美徳において優れており、聖書にも通じていたとされる、この偽マタイの福音書による記述も、それ自体発明であったというより、より古い伝統を踏まえたものであるという可能性が指摘されている(6)。

 それよりも以前に、四世紀のミラノの司教アンブロジウス(Ambrose of Milan,337-97年頃)が、読書とマリアを強く結びつけている。彼は説教の中でマリアを指して、「彼女は身体だけではなく精神においても純潔である。心は謙虚であり、話すときには厳粛で、慎重さを備え、言葉を慎み、最も熱心に読書に励んだ」と言っている。また、彼は受胎告知の場面に関して、彼女は奥まった部屋で独り読書に勤しんでいた、と描写している。さらに、387年頃に書かれたルカによる福音書への注解の中で、彼女が読んでいる本は、彼女の役割を暗示するところの、イザヤ書イエス・キリストの到来を予言する箇所であると言っている。その箇所とはイザヤ書第七章第十四節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(新共同訳、以下、聖書の訳文は新共同訳からの引用)」という部分であり、この読んでいる書物がイザヤ書であったという解釈は、 マタイ1.21−23の記述「『(前略)マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。』/この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」を受けている。(7)

 このアンブロジウスのルカによる福音書への注釈は、後の中世の聖書解釈の伝統に大きな影響を与えたが、とりわけアンブロジウスの解釈を踏襲したイギリスのベネディクト派の修道士ベーダ(The Venerable Bede,672-735頃)によって、この考えはイギリスに浸透していった。ベーダのルカによる福音書への注釈には、アンブロジウスのものから更に踏み込んだ解釈が加えられており、そこでは、マリアはイザヤ書の一節をすでに読んでいたが、どのようにしてそれが実現されるのかは知らなかった。だからこそ、大天使ガブリエルからの告知を聞いたマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか?」という問いを発したのだと言われている。つまり、この問いかけはマリアの動揺のみならず、彼女の深い旧約理解をも示しており、ここにおいて、マリアは新約聖書を理解するために、どのように旧約聖書を読めばいいのか、を示す模範としての役割を持つようになる(8)。

 カロリング朝の時代(751−987年)に入って、いわゆるカロリング・ルネサンスによる教会の変革と宗教生活の刷新が図られ、自由学芸やラテン語の学習が奨励されるようになった。それには聖書のテキストを過たず読み、解釈をすることで、異端を退ける狙いが含まれていた。そしてこれらの改革の動きは当然美術や文化の面にも深く影響を与えることとなり、造形表現の領域においてもイメージの刷新が図られることとなる。

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brunswick-casket,860-870年頃、herzog anton ulrich museum

 ドイツ中部の都市ブラウンシュヴァイクの小箱(brunswick casket)の象牙浮彫(860−870年頃)において、左手に糸巻き棒を持ちながら、右手に開いた本を手にした聖母マリアの姿が描かれていて、右手の親指は開いた本のページの間に添えられているが、本のページには何も書かれておらず、マリアが読んでいたのが何の本であったかはわからない。マリアは天蓋のついた玉座に座し、その左側には十字の杖を持った大天使ガブリエルが居る。また、文学表現の分野では、otfrid von weissenburgの、863−871年の間に作られた、キリストの生涯を歌った長編詩の冒頭、受胎告知の場面を描いた部分で、彼女は本を読んでいたとされている。しかしここで彼女が読んでいたのは、かつてアンブロジウスが主張したようにイザヤ書ではなく、詩篇であり、声に出して読んでいたとされている。このオットフリードの解釈は、前述した偽マタイによる福音書の中の、マリアはダビデの歌を誰よりも優雅に歌った、という記述と響き合うものである。これらの読書をするマリアの表現について、文学作品によるものが先か、図像による表現が先か、という問題は、どちらの立場においても推測の域を出ず、定かではないが、これら9世紀の浮彫や詩の作例は、読書をする聖母マリアのイメージの広がりを示している(9)。

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MS 49598; 963-984; The Benedictional of St Æthelwold; England, S.; ff.5v

 そしてカロリング・ルネサンスによる教育的・宗教的な改革の成果は海を越えてイギリスにも波及し、10世紀のイギリスでは読書をするマリアの図像が確認されている。その代表的な例がThe Benedictional of St Æthelwold(アゼルウォルドの祝祷書)である。10世紀の初めごろに生まれた、聖アゼルウォルド(St Æthelwold)は963年から984年の死まで、ウィンチェスターの主教を努めた人物で、その以前にはアヴィニョン修道院で修行をしており、その頃大陸のカロリング・ルネサンスの影響を受けたとされている。そしてこの装飾写本は、彼の祈祷用に製作されたものであり、イギリス国内で最初の、そして西欧において、読書をするマリアの挿絵を描いた最初期の作例であると見られ、以後のイギリスにおいて、中心的な参照元となった。ここでもマリアは豪奢な天蓋付きの玉座に座し、左手に糸巻き棒を、右手に開いた本を手にしている。ブラウンシュヴァイクの作例と同様に、ここでも描かれた本は白紙であり、このときマリアが読んでいるのがイザヤ書であるのか、詩篇であるのか、という問題は留保されている。また、この図像の影響を受けた作例として代表的なものに、ブローニュの壮麗な装飾写本(boulougne gospels)が挙げられている(10)。

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ms. 0011, f. 011v,10世紀末、Boulougne Gospels

  同じく10世紀末の作例として、現在のドイツに当たる、フルダの典礼書がある。ここではマリアは屋外と思われる空間で両手を広げて立っており、彼女の左側には大きな書見台に置かれた書物がある。大天使ガブリエルは右側に位置し、右手を掲げて彼女に挨拶をしている。これらの図像はブラウンシュヴァイクのものともイギリスのものとも大きく異なっており、フルダの作例は前述した二者とは異なった図像的な伝統を反映したものであると思われるが、ともあれ、ここでも従来の糸紡ぎの図像から、読書をするマリアへの移り変わりが示されている(11)。

 

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フルダの典礼書、975−990年頃、göttingen state and university library,Cod.MS theol.431,fol,30r

  そしてフランスでは、シャルトルとクリュニーがマリア信仰において中心的な役割を果たした。シャルトルのフュルベール(fulbert of chartles,952頃-1028年)は、1006年から1028年に没するまでの間、シャルトルの主教を務め、受胎告知の場面に関する高名な説教によって、同地のマリア崇拝の高揚に大きな役割を果たしたとされる。その同時代人であるクリュニーのオディロ( odilo of cluny,962頃−1048年)は、994年にクリュニーの僧院長に就任したのち、修道院文化の改革に乗り出し、偽マタイの福音書以来の伝統である、修道生活の模範としてのマリアを称揚した。彼の受胎告知に関する説教の中では、マリアが読んでいた本は、創世記49.10「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。/ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」、民数記24.17「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。/彼は仰いでいる。しかし、間近にではない。/ひとつの星がヤコブから進み出る。/ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂きを砕く。」、イザヤ書7.14「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」および11.1「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」の記述と結び付けられている。ここでも、新約聖書の出来事を理解するために旧約聖書を読むことの重要性が強調されている(12)。

 フュルベールは僧侶も俗人も混ざった集会で説教をしたが、オディロは学識のある聖職者を相手に説教をしたとされている。前述の装飾写本も、基本的には聖職者の個人の祈祷用に製作されたものであり、ブラウンシュヴァイクの作例も、その装飾の豪奢さから高位の聖職者か宗教的な儀式のために製作されたものと見られており、上記の作例は基本的には聖職者たちの目にしか触れないものであったが、11世紀リヨンのSaint-Martin d'Ainayの石柱などに代表されるように、教会の彫刻や建築装飾に読書をするマリアの姿が現れると、そのイメージは修道院の垣根を越えて広く民衆に行き渡っていくことなる。そして11世紀の末から、この読書をするマリアのモチーフはヨーロッパ中で急増していくが、その背景にはいわゆる12世紀ルネサンスとマリア崇拝の発展、女性の宗教生活の拡大、書き言葉がラテン語から自国語へと移り変わっていく動きと並行した識字率の向上などが原因として挙げられる。第一回でも挙げた、12世紀中頃に製作されたシャルトル大聖堂の彫刻は、かつての装飾写本が一部の聖職者のみがアクセスできるものであったのに対し、教会を訪れるすべての人が見ることができるものであり、読書をするマリアの図像の広がりはますます加速していくこととなる(13)。

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シャルトル大聖堂、12世紀中頃

まとめ

 そして民衆のマリア信仰の高まりが、マリアを人々の信仰生活の模範とみなす伝統と連動し、それによってマリアが知性においても優れていたことが強調されるようになり、この理想化が推し進められ広がった結果、詩や造形表現において、神学的な象徴であるとともに、祈祷者の模範としての意味も込めて、読書をするマリアの姿が描かれるようになったのである(14)。簡単にまとめると、マリアと本を結びつける考え方は、4世紀のアンブロジウスにすでにあらわれているが、カロリング・ルネサンスの影響を受けた9世紀のヨーロッパで本を持ったマリアの作例が目立ち始め、11世紀頃から教会建築の装飾部分にも読書をするマリアの姿が描かれることで広く民衆の目にも触れるようになり、12世紀に至ってマリア信仰の高まりと共に爆発的な広がりを見せる。そして12世紀以降の作例においては受胎告知の場面では本が描かれることが一般的になり、13世紀末頃のピエトロ・カヴァリーニによる作例を皮切りに、ジョットやマルティーニ、ドゥッチョを始めとして、読書をするマリアの図像の作例はイタリアにおいても数え切れないほどになっていく。

 

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 参考文献

(1)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.136−137

(2)矢代幸雄『受胎告知』新潮社、1973年、p.74−75

(3)前掲書、鹿島卯女監修、p.103 

(4)同書、135−136p

(5) Laura Saetveit Milesによる2014年の論文、”The Origins and Development of the Virgin Mary's Book at the Annunciation”,Speculum Vol. 89, No. 3 (JULY 2014), pp. 636−637

(6)同上、pp.639

(7)同上、pp.639−640

(8)同上、pp.641

(9)同上、pp.643-647

(10)同上、pp.648-650

(11)同上、pp.651-652

(12)同上、pp.653-654

(13)同上、pp.654-659

(14)祈祷者の模範としてのマリアの役割については、Ann van Dijk”The Angelic Salutation in Early Byzantine and Medieval Annunciation Imagery”,The Art Bulletin Vol. 81, No. 3 (Sep., 1999), pp. 420-436が参考になる

フラ・アンジェリコの生涯と受胎告知画、受胎告知の名画③

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 前回に続いて、今回はフィリッポ・リッピと並んで「受胎告知の画家」とも称される、画家であり敬虔な修道僧でもあったフラ・アンジェリコの生涯と受胎告知画を見ていきます。15世紀イタリアの画家の中でも、ボッティチェリやフィリッポ・リッピと共に、日本でも広く親しまれている一人です。「天使のような」画家としばしば形容されるように、敬虔な信仰心に裏打ちされた、天国的な明るさに満たされた美しい画面は観るものを魅了して止みません。

 

フラ・アンジェリコの生涯

フラ・アンジェリコの生い立ち

 フラ・アンジェリコ(Fra Angelico,1400年頃〜1455年)は、フィレンツェを中心に中部イタリアで活躍した画家。フラ・アンジェリコという名は、「天使のような修道士」を意味する、彼の死後に人文主義者らによって与えられて広く流布した呼称で、本名はグイド・ディ・ピエトロである。フィレンツェ郊外の小村ムジェッロに生まれ、彼の名が登場する最初期のものである1417年の文書によると、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂付近に住み、カマードリ会士の画家ロレンツォ・モナコを擁した同附属修道院の細密画写本工房に出入りする画家として、篤信の在俗市民からなる「バーリの聖ニコロ信徒会」に入会している(1)。このことから、おそらく初めのうちはロレンツォ・モナコ周辺で装飾写本制作を学び、絵の修業をしたと考えられている。ロレンツォ・モナコ(Lorenzo Monaco,1370年頃-1425年頃)は写本画家として出発し、華麗な色彩と装飾的な線、ルネサンス期の自然主義的な傾向を見事に調和させた、国際ゴシック様式を最もよく体現する画家であると称されている(2)。翌1418年には、フィレンツェのサント・ステファノ・アル・ポンテ聖堂ゲラルディーニ礼拝堂祭壇画(現存せず)の代金が彼に支払われたという記録が存在することから、修道士となる以前から、彼が祭壇画を受注するほど前途有望な画家として仕事をしていたことがわかる(3)。その後彼は在俗信徒会の集会に通ううちに、ドメニコ会戒律厳守派の存在を知り強く惹かれるようになり、1419-22年までのいずれかの時期、彼は兄弟ベネデットと共にフィレンツェ北東、フィエーゾレにあったドメニコ会戒律厳守派の拠点、サン・ドメニコ修道院に自発的に入り、修道僧となる。以後生涯に渡って敬虔で模範的な修道士として過ごした彼は「フラ・ジョヴァンニ」と呼ばれ、在俗時に培った絵画の技能をドメニコ会厳修派の活動に捧げることになった(4)。以降、美術史上に燦然と輝く傑作として名高いサン・マルコ修道院のフレスコ装飾に代表されるように、彼はドミニコ会と関係の深い聖堂の壁画や祭壇画の注文などを主に手掛け、多数の傑作を残した。

 

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ロレンツォ・モナコ《聖母戴冠》、1388-1390、The Courtauld Gallery, ロンドン

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知(ミサ典書558番、第33紙背面)》、1430年頃、サン・マルコ美術館
ドミニコ会戒律厳守派との深い関係

 画家であり、同時に敬虔な修道僧であったフラ・アンジェリコの画業は、上述したように、彼が所属していたドミニコ会の「戒律厳守派(オッセルヴァンティ)」と深い繋がりがある。少し回り道にはなるが、ここでドミニコ会が成立・発展し、その中の改革派であった戒律厳守派が発足し、後に活動の場を広げていく歴史をざっと振り返る(5)。

 中世を通じて発展した修道院の大隆盛と、土地所有による教会権力の拡大は、やがて世俗化の傾向を孕み、その反動として、フランシスコ会ドミニコ会に代表されるように、教会財産の放棄と信者の喜捨による清貧の生活を主張する托鉢修道会を多数生み出した。両者は13世紀以降、イタリア各地の都市部に進出し、市民に開かれた付属聖堂をもつ都市型の修道院を建設し、説教による布教と貧民救済の活動を積極的に展開するようになるが、やがてローマ教会の中に取り込まれて、体制化していった。正統的で厳密な神学研究と異端追求の拠点となることで、急速に権威化していったドミニコ修道会を改革するために、ジョヴァンニ・ドミニチが「戒律厳守派(オッセルヴァンティ)」を立ち上げ、各地の修道院を転々としたあと、1418年にフィエーゾレのサン・ドメニコ修道院に拠点を置いた。上述したようにフラ・アンジェリコが同派に加入したのは1419-22年頃であり、彼が早い時期からこの厳修派の存在を知っていたことが伺われる。

 1434年に大銀行家のコジモ・デ・メディチフィレンツェの政権を奪取し都市の支配者となると、同市内のサン・マルコ修道院が厳修派の拠点であるサン・ドメニコ修道院フィレンツェ市内における分院として置かれ、1438年からコジモの全面的な資金援助の下に、サン・マルコ修道院と同付属聖堂の改修増築工事が始まる。

 ドミニコ会出身であり、メディチ家との交流も深い教皇エウゲニウス4世(在位1431-47年)の即位以降、1446年にはドミニチの後継者で厳修派の指導者となっていたアントニーノ・ピエロッツィが、同教皇によってフィレンツェ大司教に任じられたことによく表れているように、それまで少数派であったドミニコ修道会の戒律厳守派は教皇の庇護の下に急速に力を増し、同修道会の中心的勢力へとなっていったが、フラ・アンジェリコが画家として盛んな活動を広げる時期はこれと一致している。この時期のフラ・アンジェリコの画業については、以下で順を追って見ていく。

  

フラ・アンジェリコの画業

 師であるとされているロレンツォ・モナコの影響か、豊かに装飾的で優美な線を特徴とする国際ゴシック様式から出発しながら、1420年代末から次第にマザッチョやドナテルロの革新的な表現を吸収しつつ、各地のドメニコ会聖堂を中心に数多くの祭壇画を手掛け、マザッチョの没後1430-40年代のフィレンツェ画壇を担う主要な画家の一人となっていく。

 彼が画家としての頭角を表していく1420年代の主要作品として、サン・ドメニコ修道院付属聖堂の主祭壇画、(1424-25年頃、フィエーゾレ、サン・ドメニコ修道院美術館)、《サン・ピエトロ・マルティー修道院祭壇画》(1428-29年ごろ、サン・マルコ美術館)、現在プラド美術館に所蔵されている《受胎告知》(1426年頃)が挙げられる。

 なお、《サン・ドメニコ聖堂祭壇画》は、1501年頃に補修され画家ロレンツォ・ディ・クレディによって建築背景と風景が描き加えられ、ルネサンス風の祭壇画へと変えられた。この時期のフラ・アンジェリコはギベルティからの強い影響を指摘されている他、丸く膨らんだ頬と巻毛を持つ幼兒キリストの描写と、玉座を囲む天使たちの描写などは、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの《クアラテージ家多翼祭壇画》に学んだとされている(6)。

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フラ・アンジェリコ《サン・ドメニコ聖堂祭壇画》、1424-25年頃

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ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ《クアラテージ家多翼祭壇画》、1425年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

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フラ・アンジェリコ《サン・ピエトロ・マルティー修道院祭壇画》1428-29年、サン・マルコ美術館

 《サン・ドメニコ聖堂祭壇画》から《サン・ピエトロ・マルティー修道院祭壇画》に至る数年間の間に、次第にファブリアーノよりはむしろマザッチョの影響が大きくなり、1430年頃の作とされる聖母子像では、三次元的な空間表現や、立体的な人体表現や陰影法への画家の関心の高まりが表れている。また、1431年頃には花の咲き誇る美しい緑の中で天使たちが輪になって踊る至福に満ちた天国の描写で知られる、有名な《最後の審判》を手掛けている。このパネルが通常の形と異なっているのは、荘厳ミサの際に司祭が用いる椅子の上端部分の形をとっているからだという(7)。

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フラ・アンジェリコ《聖母子》1430年頃、サン・マルコ美術館

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マザッチョとマソリーノの共作《聖アンナと聖母子》、1424−25年、ウフィツィ美術館

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フラ・アンジェリコ最後の審判》、1431年頃、サン・マルコ美術館

 

 以降、1430年代を通じて活発に活動し、フィレンツェの裕福な銀行家であり、1433年にはフィレンツェ共和国の実権を握り、ライバルであるコジモ・デ・メディチを追放するまでに至る権力者パッラ・ストロッツィから依頼された、サンタ・トリニタ聖堂内のストロッツィ家の礼拝堂を飾る祭壇画を1432年に完成させている。これは祭壇画としては珍しい「十字架降架」を主題とした大作であり、明るく鮮やかな色彩を用いながら、伝統的な金地の背景ではなく、雲の浮かぶ青空とトスカーナの丘をバックに、より晴朗な雰囲気に満ちた画面を作り出すことに成功している。ここでは遠景の色調を弱めて描くことによって遠近感を出す空気遠近法を使って、一貫した空間を描き出している。

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フラ・アンジェリコ《十字架降架(サンタ・トリニタ祭壇画)》、1432年、サン・マルコ美術館

 1432-33年頃には近隣のコルトーナのドメニコ会厳修派の聖堂の以来を受けて《受胎告知》を手掛け、1433年頃には彫刻家ロレンツォ・ギベルティの設計素描に基づいて《リナイウォーリの祭壇》(1433年頃、コルトーナ司教美術館)を制作した。この祭壇画の注文主はフィレンツェの亜麻織物業組合であったが、これもまた、サン・ドメニコ修道士の遠戚からの委嘱である(8)。また、1434−5年頃、サン・ドメニコ聖堂のための三番目(一番目は《聖母子と聖人達、》二番目は《受胎告知》)の祭壇画《聖母戴冠》(1434-35年ごろ、ルーブル美術館)を制作している(9)。この作品は大きな評判を呼び、画家のもとに同主題の注文が相次ぎ、フラ・アンジェリコは他にも何点かの聖母戴冠図を残している。ジョルジョ・ヴァザーリは、この聖母戴冠図を指して、「この画家の全作品を通観しても、ここでは自己の特色をもっともいかんなく発揮し、ありとあらゆる技巧をつくして自己をのり越えて」おり、眺めているうちに「信じがたいほどの優しい感情が湧いて」きて、「この場にいる聖人聖女は、優しく甘美な様子で、生き生きとしているばかりでなく、作品全体の色調が、あたかもそこに描かれている天使あるいは聖人の一人の筆になるかに見え」るほどで、「これらの魂に肉体を与えるならば、このような表現以外なかった」とまで絶賛している(10)。

 

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フラ・アンジェリコ《リッナイウォーリ祭壇画》、1433−35年、サン・マルコ美術館

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フラ・アンジェリコ《聖母戴冠》1434−35年、ルーブル美術館

 そして1434年、フィレンツェから追放されてから一年後にコジモ・デ・メディチは帰国に成功し、パッラ・ストロッツィとその支持者達を追放し実権を握ると、サン・ロレンツォ聖堂のメディチ家の礼拝堂を飾るための祭壇画をフラ・アンジェリコに依頼する。こうして1434年頃に製作されたのが《アンナレーナ祭壇画》である。それまでの多翼祭壇画では、ひとつのパネルに聖人を一人ずつ描くのが通例だったが、この作品では聖母子と聖人達がひとつのパネルの中で一緒に描かれている。各聖人が独立して描かれるのではなく、一つの画面の中で互いに会話を交わしているかのように描かれたものは「聖会話」と呼ばれるが、フラ・アンジェリコのこの作品が、イタリア絵画における「聖会話」の最初期の作例であるとも言われている(11)。

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フラ・アンジェリコ《アンナレーナ祭壇画》、1434年頃、サン・マルコ美術館

 この時期のフラ・アンジェリコは、先行する国際ゴシック様式の画家達から、ロレンツォ・モナコの厳格で神秘主義的な調子、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの装飾的で優美なきらびやかさ、ギベルティ風の柔和で繊細な情感を受け継ぎ、それに加えて、先進的なマザッチョの量感のある陰影描写や透視図法による遠近法の技法など、人体や事物の自然主義的な描写を積極的に取り入れながら、彼の画風を形成していき、それは1438年以降の、彼の代表的な作品群である、サン・マルコ修道院のフレスコ装飾事業に結実していくこととなる。

 

サン・マルコ修道院フレスコ装飾以降の画業

 コジモ・デ・メディチは1434年にフィレンツェに帰還してから二年後の1436年、教皇エウゲニウス四世の認可を受けて、当時ほとんど廃墟と化していたサン・マルコ修道院をシルヴェストロ会から買い取り、これをサン・ドメニコ修道院フィレンツェ市内における分院として、ドミニコ会の戒律厳守派に委譲した。そして1438年から、コジモ・デ・メディチ(1389-1464年)の全面的な経済援助のもと、サン・マルコ修道院と同付属聖堂の建設工事が始まる。この改修増築工事の設計監督はメディチ邸の設計を担当したミケロッツォ・ディ・バルトロメオ・ミケロッツィが登用された。

 着工後、フラ・アンジェリコはまず、新聖堂の主祭壇のために《サン・マルコ祭壇画》(1438-41年、サン・マルコ美術館)を制作した。アンナレーナ祭壇画と同様、ここでも「聖会話」方式の構図を採用しているが、画面の左側、聖母の足元に跪いてこちらを向いているのは聖コスマスであり、彼はコジモ・デ・メディチ守護聖人である。

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フラ・アンジェリコ《サン・マルコ祭壇画》、1438−1432年頃、サン・マルコ美術館

 次いで1441年前後から修道院建築内のフレスコ装飾に着手し、中断を挟みながらも1450年頃にはすべて完成したものとされている。現存するものだけでも大小合わせて計54点あり、修道院内の50室ほどのドルミトリオ(僧房)の全室に絵画装飾を施すというこの大事業は、当然1人の画家がこの膨大な点数の作品をこれだけの短期間で仕上げるのは不可能であり、どこからどこまでをフラ・アンジェリコ本人の筆に拠るとするかについては様々な説があるが、メディチ家お気に入りの画家の一人であるベノッツォ・ゴッツォリなど、3-4名の助手が集められ、フラ・アンジェリコの構想や下絵から、彼の厳格な指揮の下に複数人で制作が進められたとされている(12)。1443年には聖堂聖献式が執行され、2年後の45年、サン・マルコ修道院はサン・ドメニコ修道院分院から昇格して独立していることから、修道院フレスコ装飾の大部分は、この頃に完成したとされているが、一部のフレスコ装飾や、部分的な建築工事は1452年までつづけられている。

 サン・マルコ修道院内の僧房は在俗信徒用、修練士用、修道士用の部屋にそれぞれ分かれており、在俗信徒用の部屋には、「最後の晩餐」などの物語的要素の強い主題が、そして修練士用の部屋には必ず、イエス・キリストの受難に思いを馳せるための磔刑像が描かれている(13)。これらのフレスコ装飾の中で、とりわけ有名なのが、一階の回廊沿いにある参事会室に描かれた大作《十字架上のキリストと聖人たち》や、修道士たちの部屋に向かう階段を上がった廊下と、修道士の個室の一つに描かれた二点の《受胎告知画》、二階の廊下にある《影の聖母》である。この内二点の受胎告知画については後述する。

 《十字架上のキリストと聖人たち》では十字架にかけられたイエス・キリスト、気絶する聖母マリア福音書記者聖ヨハネの他にも、コジモ・デ・メディチ守護聖人である聖コスマスや、ドミニコ会創始者ドミニクス、『神学大全』を著した同会の神学者トマス・アクィナス、殉教者聖ペトルスなど、様々な時代の、ドミニコ会にゆかりのある聖人たちが大勢登場している。そして画面の下部に並ぶ丸枠の中には、ドミニコ会の修道士たちの肖像が描き込まれている。

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フラ・アンジェリコ《十字架上のキリストと聖人たち》、1438−43年、サン・マルコ美術館

 《影の聖母》は、この絵が位置する廊下に入る光に実際に照らされていると思われるほど、壁に映じる柱や柱頭の影の出来栄えが素晴しかったのでこの呼称が定着したと言われている。この作品で印象的な白い壁を描くに際に、フラ・アンジェリコは伝統的なフレスコ画の技法とは異なる石灰乳の技法を使うことで、よりいっそう明るい白を表現することができたと言われている(14)。このフラ・アンジェリコに特有の白色は、僧房内の他のフレスコ画、《キリストの変容》、《嘲弄されるキリスト》、《キリストの磔刑》などでも効果的に用いられている。国際ゴシック様式的な、金地の背景にウルトラマリンなどの高価な顔料をふんだんに使った豪奢な画面ではなく、白を最大限に活用し、質素で瞑想的な美しさを持つこれらの絵画装飾は、修道士達が厳格な戒律を守り禁欲的な祈祷生活を送る修道院の目的にも適っていると言えるだろう。

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フラ・アンジェリコ《影の聖母》、1449−50年頃、サン・マルコ美術館

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フラ・アンジェリコ《キリストの変容》、《嘲弄されるキリスト》、《キリストの磔刑》、1440−42年頃、サン・マルコ美術館

 

 サン・マルコ修道院内のフレスコ装飾事業は、1445年頃までには大部分が完成していたようで、1445年の後半、フラ・アンジェリコ教皇エウゲニウス4世の招聘によりローマに赴き、ラテラノ宮内「秘跡の間」のキリスト伝を題材にしたフレスコ画を手掛けたとされるが、16世紀にサン・ピエトロ大聖堂をはじめとして、ヴァティカンの建物全体が建て直されたため、これらの作品は現存しない(15)。1447年のエウゲニウス四世の死後、前教皇の支持者であった新教皇ニコラウス5世(在位14447-55)のもと、彼は一時オルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂の天井画《最後の審判》の制作に取り掛かるが、途中でローマに呼び戻され未完成に終わった。同天井画は半世紀の後にルカ・シニョレッリに引き継がれ、無事に完成した。

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サン・ブリツィオ礼拝堂天井画、大部分はルカ・シニョレッリによるもの

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サン・ブリツィオ礼拝堂天井画のうち、フラ・アンジェリコが手掛けた部分、1447年

 ローマに戻ってきたフラ・アンジェリコは、ニコラウス5世のために、教皇の書斎(現存しない)と、個人礼拝堂であるニッコリーナ礼拝堂のフレスコ装飾《聖ステファノ伝、聖ラウレンティヌス伝》(1447-49年、ローマ、ヴァチカン美術館)を手掛けた。画家の豊かな色彩感覚を遺憾なく発揮しつつ、を古代ローマや中世を彷彿とさせる荘厳な建築物や細部装飾を散りばめ、透視図法を駆使した遠近法と彫塑性のある人物表現を用いて、初期キリスト教時代のふたりの聖人の生涯を描いたこれらの作品群は、フラ・アンジェリコの作品中で最もルネサンス的な特徴を備えた壮大な大作であると言える。

  そして1450年頃に、フィレンツェに戻ったフラ・アンジェリコは、サン・マルコ修道院のフレスコ装飾を締めくくる最後の画面として、前述の《影の聖母子》を完成させた。

 

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ニッコリーナ礼拝堂のフレスコ装飾、それぞれ東側の壁、北側の壁、西側の壁、天井画、1447−49年

 1450年以降の主要作品としては、フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の銀聖器収納棚の扉を飾る板絵装飾が挙げられる。フラ・アンジェリコの最大の援助者であったメディチ家のピエロ・デ・メディチの要望に応じて製作されたもので、最後の晩餐やゲッセマネの祈りなど、キリストの生涯を中心に、新約聖書旧約聖書の場面を予型論的に対応させた32の画面を描いた。

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フラ・アンジェリコ《銀器収納棚》、1451−52年頃

 1453年頃から、ドメニコ会のフアン・デ・トルケマダ枢機卿の招聘に応じて、再びローマに滞在することとなる。そして前述したサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂に滞在し、同聖堂祭壇画(現存せず)を制作後、同修道院の回廊フレスコ装飾に着手したらしい。だが1455年2月18日、同聖堂の修道士たちに看取られながら息を引き取った(16)。フラ・アンジェリコ墓所は現在も同聖堂内に置かれている。そして彼の墓碑銘は、今では失われてしまっているが、人文学者ロレンツォ・ヴァッラ(1406−57年)によって次のように刻まれていた。「諸画家たちの模範であり、栄光と誉れたるフィレンツェ人ジョヴァンニここに納めらる。信仰篤き人、聖ドメニコ聖教団の兄弟であり、自らも神の真なる下僕なりき。弟子たちはかくも偉大な師の死を嘆く。彼のごとき画業を、誰が他の画業に見出さんや?彼が祖国と教団は傑出せる画家の死を悼む。かの技に及ぶ者はなかりき。(17)」

 彼の死後、15世紀後半から、彼には「フラ・アンジェリコ(天使的修道士)」という通称が与えられたが、これは人文学者クリストーフォロ・ランディーノの『ダンテ神曲注解』(1481年)に初めて登場して以来、広く流布した。また、ドメニコ会修道士の同胞であるジョヴァンニ・ダ・コレッラの聖母を賞賛する詩『テオトコン』(1468年)のなかでこの画家に言及し、「天使的画家(angelicus pietor)」と称賛していた(18)。彼は終生、画家としての評判や世俗的な成功よりも、神への服従を望み、絵画を通じて神の教えを広めることに奉仕した敬虔な修道僧であり、その優れた人柄について、ヴァザーリは次のように述べている。「フラ・ジョヴァンニは、人間味あふれる節度ある性格で、清らかな生活を送っていたため、俗世の罠にはまらなかった。自分のような仕事に従事するならば、静かな憂いのない生活を送るべきだとも、キリストにまつわる話を描くなら、いつもキリストの近くにいなくてはならないとも、繰り返し言っていた」。そして「噂では、画筆をとる前にかならず祈りの言葉を唱え」、「キリストの処刑図を描くときは、涙がつねに彼の頬をぬらしていた(19) 」という。そして1982年、ローマ法王庁によって正式に福者に列せられている。

 敬虔な信仰と神への純粋な愛が通底している彼の作品は、鮮やかな色彩感覚と、遠近法や陰影法などの同時代の最新の技法を取り入れた確かな技術に支えられて、メルヘンチックなまでに理想化された天上の輝き、浄福な美に満ちた天国の世界を、地上に現出させることに成功している。フラ・アンジェリコの明るく甘美な作品は、今なお根強い人気がある。

 

 

フラ・アンジェリコの受胎告知画

 以下では、フラ・アンジェリコが手掛けた受胎告知画7点を、時代順に見ていく。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知と東方三博士の礼拝》1424年、サン・マルコ美術館

 まず、1424年頃に描かれたとされ、彼の比較的初期の作品に当たる、受胎告知と東方三博士の礼拝を描いた祭壇画を見てみる。画面は上下に分割され、上部では受胎告知が、下部では東方三博士の礼拝の場面が描かれているが、両方ともキリストの誕生にまつわるエピソードである点で共通している。装飾的な金地の背景の上に、人物たちは量感的というよりもむしろほっそりとして優美な、国際ゴシック様式的な筆致で描かれている。尖頭アーチ型の額縁に合わせて、聖母マリアと大天使ガブリエルは互いに頭を垂れ、半円形型の構図を形作っており、そしてアーチの頂点部分には、聖母マリアの方へ身を乗り出して聖霊の鳩を遣わす父なる神の姿が、鮮やかなウルトラマリンで描かれている。また、聖母と天使の間には、聖母マリアの純潔を象徴する、花瓶に活けた白百合が置かれている。また、最初の記事で述べたように受胎告知の場面においては、天使のお告げを聞いたマリアの、戸惑いや驚き、疑問や問いかけ、受容と祈りなど、さまざま心の動きが描かれているが、敬虔な修道士であったフラ・アンジェリコが描くマリアは、すべて胸の前で手を交差し、神のお告げを遜って受け入れる姿勢を示している。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1426年頃、プラド美術館

 1426年頃の作とされ、現在はプラド美術館に所蔵されている《受胎告知》は、三次元的な空間表現、緻密な自然観察に基づく細かな草花の描写、衣服の襞の処理などに、自然主義的な描写が見られるようになっている。また、画面の左に楽園を追放されるアダムとイヴの姿が描かれている点も、特徴的である。旧約聖書の『創世記』では、エデンの園で暮らしていた最初の人類アダムとイヴが、邪悪な蛇に唆されて禁じられていた知恵の実を食べて神の怒りを買い、楽園の外へと追放されるエピソードが語られており、これによって人類は原罪を背負うこととなったとされている。そして、受胎告知は人間の罪を贖い、救済をもたらす救世主イエス・キリストの誕生を予告するものであり、この作品では、人間の罪への堕落とその救済が同一画面で表されていることになる。画面左上の太陽から聖霊の鳩が発せられており、父なる神は建物の装飾部分の円形画の中に表されているが、これは父なる神を画中に描くことにより画面が超自然的な調子を帯びてしまうことを避けるための画家の工夫であろう。楽園に咲き誇る草花の美しい描写と、聖母や天使の衣服に特に顕著な、きらびやかな色遣いが印象的なこの作品は、大きな評判を呼び、以後フラ・アンジェリコのもとには受胎告知画の制作依頼が殺到することとなる。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1432-34年、コルトーナ司教美術館

 コルトーナの《受胎告知》(1432-33年頃、コルトーナ司教美術館)は、ドメニコ会厳修派系列の聖堂のために製作された。こちらの作品でも、アダムとイヴの楽園追放の場面が挿入されているが、前の作品よりも後景に退いて、受胎告知の場面により力点が置かれているが、消失点が左側に置かれているため、観者の視線は自然と楽園追放の場面へも向けられるようになっている。金色や真紅、深い青など高価な顔料をふんだんに使った、豪奢な画面が目を惹く、美しい作品である。とりわけ大天使ガブリエルが身に纏う、金色の装飾が散りばめられた赤い衣と、繊細な色調の変化を見せる金色の翼の対比が素晴らしい。全体の構図や象徴的な表現は前作と重なる部分も多いが、ここでは聖霊の鳩は円形画の装飾の中の父なる神から聖母の頭上に向かって飛んでいる。また、シモーネ・マルティーニやヤン・ファン・エイクの受胎告知画にも見られるように、大天使ガブリエルの口から発せられる告知の言葉が金文字で描かれている。そして、それに対する聖母マリアの返事は、上下逆さまに書かれており、これは天上に居る神が読みやすいように、天に向かって書かれているのだと言われている。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1430年代

 1430年代に描かれたとされるもう一つの受胎告知画も、全体の構図は以前の作と共通しているが、アングルが異なり、消失点は中央付近に置かれ、より安定した印象をもたらしている。アーチによって画面は2つに分割され、受胎告知が行われる様を、実際に建物の外から目の当たりにしているような構図となっている。特徴的なのは壁や床に埋め込まれた石の描写で、光を受けて星雲のように輝く様子が、画面の神秘的な雰囲気を高めている。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1442-43年、サン・マルコ美術館

 サン・マルコ修道院に描かれた有名な二点の《受胎告知》画のうちの一つで、修道士たちの部屋に向かう階段を上がった廊下に置かれており、絵の下には「入りて処女の像を前にするとき、天使祝詞を唱えることを忘れぬよう心せよ」「御機嫌よう、おお慈愛の母にして聖三位一体のおわす高貴なる住処よ」という2つの銘文が掲げられている(20)。修道院に住む人々が毎日目にする場所に置かれたこの絵画は、美しく描かれた神秘的な出来事を通じて、観る者が聖母を賛美し、神への信仰心を高めることを目的としていた。ルネサンス様式とゴシック様式とが見事に調和して共存している建築物の、コリント式の柱は以前よりもずっと重量感をもって、どっしりと描かれており、よりいっそう現実的な三次元空間を描出することに成功している。画面左の天国的な明るさを持つ緑が印象的な庭は塀で囲まれており、これはマリアの処女性を暗示するものと解釈される旧約聖書雅歌の「閉ざされた庭」という表現を踏まえたものである。塀の向こうの風景描写も見事で、空気遠近法によって、遠くの木々がややぼやかされて描かれている。また、明るい画面の中で七色に輝く大天使ガブリエルの翼が特徴的である。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1440-42年、サン・マルコ美術館

 サン・マルコ修道院内に描かれたもう一つの受胎告知画は、誰もが目にする廊下にではなく、二階の修道士用の僧房の個室内に描かれたものである。修道士の個人の瞑想のために描かれたものであるため、余分な装飾を廃し、木の椅子が置かれているだけの簡素質朴な室内描写、静謐で敬虔な雰囲気が印象的である。画面左手に佇む聖者は殉教者聖ペテロであるとされている。すらりとした大天使ガブリエルの立ち姿、恭しく服従の意を示す聖母マリアと、それに呼応するかのように描かれたヴォールトとアーチの織りなすリズム感が素晴らしい。サン・マルコ修道院のフレスコ装飾に特徴的な明るい白色で満たされた画面は、清貧を旨とするドミニコ修道会の信念をよく反映しており、地上的な華やぎや現世的な肉の喜びを離れて、純粋で揺るぎのない神への信仰と、精神的な天上の美しさを強く感じさせる。フラ・アンジェリコの深い宗教感情と画家としての確かな技巧が結びついた、受胎告知画の傑作である。

 

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》1451-52年、サン・マルコ美術館

 1451−52年頃、フラ・アンジェリコの晩年に描かれたこの《受胎告知》は、ピエロ・デ・メディチの依頼で制作した銀聖器収納棚の板絵装飾の一部である。これまでの作例と比較して、構図が大きく異なっている。画面中央、聖母と大天使の間には、開かれた戸があり、並木に沿って奥まで続いているが、突き当りの扉は固く閉ざされていることから、これも「閉ざされた庭」の類型表現であることがわかる。晩年のフラ・アンジェリコの画風を反映して、従来の軽く明るい描線と比べて、厳しい造形表現が見られる。

 

 思いの外長くなってしまいましたが、以上で受胎告知の名画・フラ・アンジェリコ編を終わります。最後まで読んで下さってありがとうございます。次回は今度こそルネサンス期の受胎告知の名画の紹介を予定しております。お楽しみに。

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参考文献

 (1)喜多村明里「フラ・アンジェリコとサン・マルコ修道院──信仰と祈祷瞑想における画像の効用」、関根秀一編集『イタリア・ルネサンス美術論──プロト・ルネサンス美術からバロック美術へ』所収、株式会社東京堂出版、2000年、p.71

(2)石鍋真澄監修、『ルネサンス美術館』、小学館、2008年、464p

(3)ヌヴィル・ローレ著、森田義之訳、『フラ・アンジェリコ──天使が描いた「光の絵画」』、創元社、2013年、p.16 

(4)前掲書、喜多村明里、p.71

(5)この章の記述の大部分は前掲書、ヌヴィル・ローレ、p2-4に拠っている

(6)ジョン・ポープ=ヘネシー著、喜多村明里訳、『フラ・アンジェリコ』東京書籍株式会社、1995年、p.10

(7)同書、p.12

(8)前掲書、喜多村明里p.72

(9)前掲書、ヌヴィル・ローレ、p.47

(10)ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川祐弘訳、『ルネサンス画人伝』、白水社、1982年、83−84p

(11)前掲書、ヌヴィル・ローレ、p.53

(12)前掲書、ジョン・ポープ=ヘネシー、p.29

(13)前掲書、ヌヴィル・ローレ、p.65-67

(14)同書、p.79

(15)同書、p.86

(16)前掲書、喜多村明里、p.73

(17)前掲書、ジョン・ポープ=ヘネシー、p.4

(18)前掲書、喜多村明里、p.83 

(19)、前掲書、ヴァザーリ、p.88

(20)前掲書、喜多村明里、p.82

フィリッポ・リッピの生涯と受胎告知画、受胎告知の名画②


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 前回の記事の続きです。今回からは具体的な作品を見ていきながら、受胎告知に見られる図像の特徴を見ていきます。受胎告知の絵画はルネサンス期に全盛期を迎え、中でもフィリッポ・リッピとフラ・アンジェリコは、多くの受胎告知画を残しました。この二人は点数が多いので、それぞれ独立した記事で扱うこととします。今回はフィリッポ・リッピ編です。

 

 

フィリッポ・リッピの生涯

 フィリッポ・リッピ(Filippo Li[ppi,1406-1469)は、15世紀前半の初期ルネサンスフィレンツェ派を代表する画家のひとり。フィレンツェパドヴァ、プラート、スポレートで活躍した。本名はフィリッポ・ディ・トンマーゾ・ディ・リッピ。1406年にフィレンツェに生まれ、幼くして孤児となり、8歳の時に同地の修道会であるのカルメル会に入会、1421年には修道士となる誓願を立て、カルミネ修道院の修道僧となる。絵画の師は不詳であるが、一説によるとロレンツォ・モナコであるとも言われている(1)。1430年に、修道院の文書にはじめて画家として、また兄はオルガン奏者として出てくるという(2)。

 最初期の作品である、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂回廊の壁画《カルメル会の会則の認可》(1432年ごろ)は、画面に激しい損傷を被っているものの、マザッチョの大胆な立体表現からの影響を色濃く反映しており、また素朴で民衆的な趣を残している。この作品から、1420年代当時同市のブランカッチ礼拝堂で壁画制作を行っていたマザッチョにリッピが私淑していたことが伺われる(3)。かのヴァザーリの『ルネサンス画人伝』においても、学問に背を向け、本に悪戯書きばかりしていた少年時代に、マザッチョの描いた壁画の素晴らしさに打たれ、毎日のようにそこに気晴らしに通い、絵の練習を積み、器用さの点でも技量の面でもずば抜けた才覚を示し、「マザッチョの霊がフラ・フィリッポの体内にのりうつったのだという噂が立った」という印象的なエピソードが紹介されている(4)。

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フィリッポ・リッピ《カルメル会の会則の認可》、1432年頃

 1434年にパドヴァに滞在し、そこでフランドル絵画と接触したと言われている。以降、最初の重要な作品である《タルクィニアの聖母》(1437年)においては、マザッチョからの影響から脱し、繊細で甘美かつ明快な輪郭線と、フィレンツェ的な立体的な量感表現とを結びつける独自の様式を確立し始める。1438年のドメニコ・ヴェネツィアーノの有名な書簡では、フラ・アンジェリコと並ぶ画家として言及されているという(5)。

 また、同じく初期の代表作に、複雑な構成と装飾的な要素が調和した、《バルバドーリ祭壇画》(1437-39年)がある。アウグスティヌス会サント・スピリト聖堂のバルバドーリ家の礼拝堂のための祭壇画として制作れた。中央に立つ聖母子、それを囲む天使たちと二人の聖人を、現実的で連続的な一つの画面に収める構成から、リッピの画風の発展が認められる。貝殻のような壁龕のモチーフは、リッピが好んだモチーフで、直弟子であるボッティチェリにも受け継がれている。初期に見られた生硬さは消え、詩情のある柔和な人間描写は、フラ・アンジェリコからの影響があるとされている。

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フィリッポ・リッピ《タルクィニアの聖母》(1437年)

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フィリッポ・リッピ《バルバドーリ祭壇画》、1437-39年

 《タルクィニアの聖母》《バルバドーリ祭壇画》において確立された様式は、40年代に更なる洗練を加え、41年から47年にかけて、フィレンツェのサンタンブロージオ聖堂のために描かれた大作《聖母の戴冠》に結実していく。またこの時期、1442年にフィレンツェ近郊レニャイアのサン・クィリコ教区の主任司祭兼修道院長に就任している。独特の情緒性を備えた独自の表現を獲得したリッピは、その後《聖母子と聖アンナの生涯》、プラート大聖堂の壁画連作、《聖母子と二人の天使》などの名作を手掛けた。広がる風景を見晴らす窓から入る、柔らかい光に包まれて聖母子と二人の天使が描かれている。俯き、手を合わせる聖母の繊細で優美な表情の美しさ、静謐さを湛えるくすんだ色彩、こちらを向いた天使の茶目っ気のある仕草が印象的なこの作品は、フィリッポ・リッピの最後の自筆作品の一つであるとされている。また、1452年から12年以上もの歳月をかけて完成されたプラート大聖堂の壁画は、国際ゴシック様式的な背景に聖ヨハネや聖ステファノの物語が異時同図法によって劇的に描かれており、一般にリッピの最高傑作と言われている。また、晩年のリッピは敬虔な雰囲気の美しいキリスト降誕画をいくつも残している。1459年頃の作品はコジモ・デ・メディチの注文によって描かれ、メディチ邸の礼拝堂に置かれた。花の咲き誇る深い森の中で、静かに聖母が幼兒キリストを礼拝する、幻想的な詩情に溢れた美しい作品である。

 

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フィリッポ・リッピ《聖母戴冠》1441-47年

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フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》1450-65年頃?、ウフィツィ美術館

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フィリッポ・リッピ《キリストの降誕》、1459年頃


 

フィリッポ・リッピにまつわる有名なエピソードだが、1456年にサンタ・マルゲリータ修道院の礼拝堂付司祭として同修道院の大型祭壇画の制作に取り掛かるが、製作中修道女ルクレツィア・ブーティと恋仲になり、自宅に連れ去る駆け落ち事件を起こしている。匿名による告発により糾弾されたが、画家としての才能を評価したコジモ・デ・メディチをはじめとするメディチ家の人々の執り成しのおかげで、聖職禄の剥奪だけで済み、ルクレツィアとの同居は許されたという。そしてこの二人の息子が、後に同じく画家となるフィリッピーノ・リッピである。(6)

 またルクレツィアは、プラート大聖堂の壁画《ヘロデの饗宴》のサロメのモデルであるとする説もあるが、リッピはこのサロメを、踊るニンフなどの古代彫刻を元に描いたとも言われている。賑やかで華やかな饗宴において、憂いげに目を伏せ、白い衣装で優雅に舞うサロメと、洗礼者ヨハネの生首を捧げる凄惨さの対比が見事。

 1466年、息子フィリッピーノと共にスポレートに赴き、スポレート大聖堂の壁画「聖母伝」の制作に取り組むが、1469年にその途中で同地に没した。リッピの死後、彼の弟子であるフラ・ディアマンテが師の工房を引き継ぎ、フィリッピーノの後継人となった。そして未完の作品はフラ・ディアマンテが率いる工房と息子フィリッピーノの手によって完成された。

 

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フィリッポ・リッピ《聖ヨハネの殉教とヘロデの饗宴》、1452-64年

 フィリッポ・リッピの画風は、その最初期にあってはマザッチョの強い影響下にあったが、後にフランドル絵画やフラ・アンジェリコ、ドナテッロの彫刻やルカ・デッラ・ロッビアの影響を受けながら、フィレンツェらしい量感表現を維持しながらも、国際ゴシック様式から受け継いだ優美な輪郭線や、流麗でリズミカルな線描によって人物を呼応させる独特の情緒性を帯びた表現を獲得し、直弟子であるボッティチェリや、息子フィリッピーノ・リッピ他、15世紀の画家のみならず、19世紀のラファエロ前派の画家たちにも影響を与えたとされている。

 フィリッポ・リッピは自由奔放な性格であったようで、明るく快活な人々との交際を好み、たいへんな女好きであったという。ヴァザーリの記述によれば、コジモ・デ・メディチが彼に仕事を依頼した際、仕事を放り出して外へ遊びに出ることがないようにと、彼を室内に閉じ込めたところ、2日も経つと我慢がならず、鋏でシーツを切り裂き、それでロープを作って窓から下へ降り、数日間遊蕩に耽って帰らなかったという奇天烈なエピソードがある(7)。尤も、冗談好きでしばしば誇張も含まれるヴァザーリの伝記によるものなので、そのまま真に受けるわけにはいかないが、なんとも微笑ましいエピソードである。

 

 

フィリッポ・リッピの《受胎告知》

 フィリッポ・リッピは、同じく画家であり僧侶でもあったフラ・アンジェリコと並んで、生涯を通じて多数の受胎告知画を手掛けており、その総数は少なくとも10展以上であると言われている。以下では、彼の残した受胎告知画のうち6つをを、年代を追って順に見ていく。

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》1437-39年

 初期の傑作《タルクィニアの聖母》《バルバドーリ祭壇画》と同時期に製作されたリッピによる《受胎告知》。イオニア式の列柱によって分割された空間が特徴的。こうした古代的なモチーフの使用から、文芸復興期の古代研究への情熱が感じられる。聖母のマントの青と裏地の金の対比が鮮やかである。大天使ガブリエルは純潔を示す白百合の花を持ち、聖母に向けて頭を垂れている。聖母は壁際に立ち、背後の壁に彼女を覆うような影が映っており、聖霊を表す鳩は右耳に向かって飛んでいる。前回述べたように、ここでは聖母マリアモーセの幕屋と重ね合わせる予型論的解釈や、『ヤコブの原福音書』に見られる御言葉による受胎の発想の図像化であると思われる。聖母は静かに目を伏せ、戸惑い、羞じらいながらもこの御目出度いお告げを受け入れているように見える。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1443年

 43年の《受胎告知》では、より手の込んだ複雑な画面構成となっている。古代風の建築の内部で、書見台に載せた本を眺めるマリアのもとに、大天使ガブリエルが跪いて現れる。ガブリエルは、画面左のもうひとりの天使と共にお決まりの白百合を手に持っている。背中の羽が大きく、より写実的な表現となっている。画面左上には上位の天使である智天使(ケルビム)に囲まれた父なる神が描かれており、かざした手からマリアの胸部に向かって光線が発せられている。建物の小アーチによって画面は3つに分割されており、左にガブリエル、中央が聖霊、右にマリアが配置されている。後景に描かれた中庭の門は閉ざされており、マリアの純潔を象徴する「閉ざされた庭」の表現が踏襲されている。聖母の表情は黙して自問しているようにも、受け入れているようにも見える。凛としたマリアの立ち姿は、顔から肩にかけての曲線が素晴らしく、優美さだけでなく威厳も兼ね備えている。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》1445年

 メディチ銀行の支配人として財を成したマルテッリ家の礼拝堂の祭壇画として、1445年に描かれた《受胎告知》は、おそらく彼の受胎告知画の中で最も有名なものだろう。以前よりも人間化された、感情的な表現が目立つ。跪きマリアを見上げる大天使ガブリエルの表情は、美しい女性に言い寄る好色な青年のように見えてしまうほどである。聖母マリアは驚きに身をひねりながらも、落ち着きを失わず、天使に向かって「なぜそのようなことがありえましょうか」と問いかけているように見える。聖母の顔立ちも以前の作品と比べると、市井の少女のような素朴さがある。あまり目立たないが、画面左の二人の天使の頭上あたりに聖霊の鳩が飛んでいる。この二人の天使の存在については十分な説明がなされていないが、観者の視線を惹くための工夫であると言われている。これは私見だが、後景に見える赤い建物と、薄い赤色の天使の羽、左の天使が腰に巻いた赤い布や、大天使の衣装が、画面の中央からガブリエルに向けて螺旋状のリズミカルな視線の動きを作り出している。そしてそのガブリエルの視線の先に居るのが告知を受けた聖母マリアであり、観者の視線は自然と消失点に向かった後に、神の天上の愛を表す赤色に導かれて、再び聖母の方へ向かうように巧みに構成されている。また、聖霊の鳩も、ガブリエルの視線も聖母の腹部に向けられており、聖霊が聖母の子宮に入り込むことによって受胎することが暗示されている。中庭の建物の遠近法による処理が見事。そして画面の前景に、くり抜かれた床にすっぽりと収まった、水の入ったフラスコが描かれているが、これはマリアの象徴であるとされる。(8)

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1445-50年

 こちらの作品では珍しく、聖母マリアが左に、ガブリエルが右に配置されている。画面左手に天蓋のついた大きな寝台が見える。この寝台という舞台設定もまた、象徴的な意味を持っており、「旧約聖書詩篇第19歌に歌われている旭日を寝室から出て来る花婿に譬えた比喩に対する注釈として、中世の神学者たちは、この花婿、すなわち朝の太陽こそはキリストにほかならず、結婚の寝室はそのキリストの母、すなわちマリアにほかならないと説いた(9)」からである。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1448-50年

 ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある、半月形構図(ルネット)の美しい作品。フラ・アンジェリコのような、柔らかく豊かな色彩が素晴らしい。向き合って互いに首を垂れて挨拶を交わす二人の人物の姿勢が、半月形の構図を形作っている。そのよく調和した流麗な線描が美しい。半月形構図の受胎告知画は、15世紀イタリアにおいて一般的であったが、それは「同時代に盛んであった聖母崇拝の本尊画が、円形構図を原則としたことと相伴っている(10)」と言われている。半月形構図の受胎告知画がよく描かれた理由としては、挨拶する二人の人物の輪郭が自ずと要請する形態であることに加えて、ジョットのものに代表されるように、受胎告知画は教会の内陣や礼拝堂の凱聖門に描かれる習わしであり、その場所の制限から自然に生まれたものであると矢代幸雄氏は指摘している。また、この絵では、上部の神の御手から、台風の目の進路図のように重なり合う円がマリアの腹部に向かって描かれているところが面白い。

 

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》、1467-69年

 リッピの晩年の作である《受胎告知》。背景の木々や空の色は、国際ゴシック様式の色使いを思わせる。前作と同様、マリアが室内に、ガブリエルが室外に配置されている。雲の上の主なる神から出る光線が、建物の小窓を通してマリアに到達する図像は、クリヴェッリの《受胎告知》を連想させる。驚きに身をひねりながらも、顔は大天使の方へ向け、沈思黙考するマリアの輪郭線の素晴らしさ、迷いが伺える手の動作に表れている微妙な心理の動き、画面全体のくすんだ色調に、リッピの情緒的で感傷的な、洗練された画風がよく出ている。

 

次回

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参考文献

(1)石鍋真澄監修、『ルネサンス美術館』、小学館、2008年、465p

(2)ルートヴィヒ・H・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳、『イタリア・ルネッサンス1400〜1460』、新潮社、1975年、p.301

(3)T・バーギン・J・スピーク編、別宮定徳訳、『ルネサンス百科事典』、株式会社原書房、1995年、p.567

(4)ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川祐弘他訳、『ルネサンス画人伝』、白水社、1982年

(5)前掲書、石鍋真澄監修、465p

(6)小佐野重利・アレッサンドロ・チェッキ責任編集、『ボッティチェリ展図録』朝日出版社、2016年p.67

(7)前掲書、ヴァザーリ、p.95

(8)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.137-8

(9)同書、p.146

(10)矢代幸雄著『受胎告知』、1973年、新潮社、p.143

受胎告知の名画・導入編

 西洋美術の歴史を紐解くと、その時代毎に人気のあった主題が見えてくる。受胎告知は、主にルネサンス期のイタリアを中心に広く流行した主題で、レオナルド・ダ・ヴィンチボッティチェリ、フラ・アンジェリコやフィリッポ・リッピなど、枚挙に暇がないほど多くの画家が輝かしい名作を残している。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》



 今回は、受胎告知とはそもそも何なのか、画面に描かれたモチーフにはどんな象徴的な意味が託されているのか、また受胎告知の図像表現は時代や地域によってどのように変化したのか、受胎告知が起こった場所はどこで、時間帯はいつ頃なのか。受胎告知の概要や、様々な疑問点についてまとめてみた。ちなみにキリスト生誕の9ヶ月前、3月25日が受胎告知の祝日と定められており、ルネサンス期のフィレンツェではこの日が一年の始まりとされていた。今回は受胎告知の名画を楽しむための導入記事として、受胎告知の概要とその出典、受胎告知の場面に現れる象徴表現、図像の起源聖母マリアの身振り、に絞って解説する。

 

受胎告知の概要

 受胎告知とは何か。それは、一言で言えば大天使ガブリエルが聖母マリアのもとに舞い降りて、イエス・キリストの誕生を予告する場面である。この受胎告知の物語は、実は共観福音書中に具体的な記述は少ないが、ルカによる福音書1章26−38節が主な典拠となっている。

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に上から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

新共同訳『聖書』、日本聖書協会、2014年

 この短い記述から、画家たちは想像を膨らませ、当時流布していた外典や聖人伝説、説教をもとに具体的な肉付けをして、様々なバリエーションを生み出すに至った。受胎告知の物語には、天上の神秘と地上的な存在との出逢い、聖母マリアの驚きや畏れ、戸惑い、受容の繊細な心の動きがあり、ドラマがある。この静謐で情感に富んだ、神秘的な物語は、多くの人々の心を捉え、数多くの素晴らしい作品が描かれてきた。数ある外典の中で、とりわけ画家たちの想像力の源泉となったものに、二世紀の半ばに成立し、聖母マリアの生涯を描いた『ヤコブの原福音書』がある。ちなみにこの原福音書というのは、福音書の元になったという意味ではなく、福音書よりも時系列的に前の出来事を描いたという意味である。

 外典である『ヤコブの原福音書』では、共観福音書と比べて、マリアの生涯が詳細に語られている。それによると、マリアはダビデの部族の出で、主の神殿の垂幕を織る八人の乙女のうちの一人に選ばれ、くじによって真紫と真紅の布を織ることに決められる。そして11章1-3節において、マリアに対する天使の告知の様子が次のように描かれる。

  さて彼女は水がめを持って水汲みに出ました。するとどうでしょう、声があって言いました。「よろこべ、恵まれし女よ、主汝とともに在す。汝は女の中で祝福されしもの」。彼女はどこから声がするのかと右左を見まわしました。そして怖くなって家へ帰り、水がめを置き、紫布をとって自分の席につき、織りつづけました。

 するとほうら、主の御使いが彼女の前に立って言いました。「恐れるな、マリアよ。あなたは万物の主の前に恵みを得た。あなたは彼の言葉によってみごもる。」彼女はそれを聞いて疑い、心に思いました。「私は主なる生ける神のゆえにみごもり、しかもみんなと同じような子を産むのかしら」。

 すると主の御使いが言いました。「そうではない。マリアよ。なぜなら、主の大能があなたを覆う。だからあなたから生まれる聖なる子は至高者ととなえられる。だからその名をイエスと名づけなさい。彼のその民を罪から救う」。そこでマリアは言いました。「御覧下さい。主の端女が主の前におります。あなたのおっしゃる通りになりますように」。

荒井献他訳、『新約聖書外典』「ヤコブ福音書」、1997年、講談社

 ルカによる福音書になく、新たに付け加えられたエピソードとして独特な点は、マリアに糸紡ぎの仕事があてがわれているのと、井戸端での声による告知である。糸紡ぎと水汲みは、古代や中世を通じて一般的な女性の仕事とされており、この挿話は人々がマリアに対して親しみやすさを覚える効果を与えたと思われる。この糸紡ぎや水汲みをするマリアの図像は西欧ではあまり広まらず、東方のイコンや、ビザンティン美術にその例が見つけられる。また、ルカによる福音書では「主があなたを覆う」とのみ記されていた処女懐胎の方法について、ここでは主の御言葉によって身籠ると明記されている。受胎告知画において、聖霊を表す鳩が、マリアの耳に向かって飛んでいく表現が見られるが、『ヤコブの原福音書』の記述を受けたものだろうと思われる。また、上記の「いと高き方の力があなたを包む」、「主の大能があなたを覆う」という表現は、旧約聖書出エジプト記』のモーセが神のための幕屋を設えた際の、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」という記述を踏まえたものであり、マリアの懐胎と幕屋を覆う主の栄光が予型論(タイポロジー)的解釈によって結び付けられていると言われている。このことから、受胎告知の絵画に於いて、マリアの影が彼女を覆うようにして描かれている例もある(1)。

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水汲みをするマリア、14世紀初頭、タペスリー、レックリングハウゼン、イコン美術館

 上記以外の、その他の典拠としては、中世に於いて最もよく読まれた書物のひとつであり、諸々の聖人画の図像的根拠を与えたことでも知られる、ヤコポ・ダ・ヴォラジーネによる『黄金伝説』や、フランチェスコ派の修道士ヨハンネス・デ・カウリプスによる『キリストの生涯についての省察録』が挙げられる。特に『省察録』において、二人の登場人物の動作や表情、マリアの心の動きなどについて詳細に説明されており、中世の後期以降、画家たちに具体的なイメージを与え、より人間的で感情的に活き活きとした表現にインスピレーションを与えたと言われている。14−16世紀のイタリアにおいては、上述した『ヤコブの原福音書』よりも、これらの著作が身近であり、よく参照されたと言われている。

 また、受胎告知の絵画の発展には、美術史的な様式の変化に加えて、神学上の教義に関する論争や、公会議での決定、民衆の間でのマリア信仰の高まりなど、様々な要因が大きく関わっている。

 

受胎告知画に見られる象徴表現

 受胎告知の登場人物は、当然ながら、大天使ガブリエルと聖母マリアの二人である。識字率が今よりもうんと低かった時代には、宗教的な主題を描いた絵画は、「目で見る聖書」として捉えられていた。ゆえに、描かれている人物が聖母マリアであり、大天使ガブリエルであることがひと目でわかるように、画面に象徴的なモチーフを描き込んだり、アトリビュートとなる持ち物を人物に持たせる手法が一般的であった。

 聖母マリアの服装は、通常青いマントに、赤い衣装で描かれる。「青は天の真実を、赤は天上の愛を表す色」であるとされている(2)。また聖母マリアの純潔の象徴として、しばしば白い百合が描かれる、他にも、赤い薔薇や青いおだまきが描かれることがあり、前者は愛情、後者は悲しみの象徴である。受胎告知の場面で、マリアが何をしていたのか、について、東方では『ヤコブの原福音書』の、神殿を飾る垂幕を織るために糸紡ぎをしていた、という記述から、糸巻きを持った姿で描かれることがあるが、西欧美術ではあまり広まっていない。代わりに、マリアは読書をしている姿で、開かれた本や書見台と共に描かれることが多い。読書するマリアの図像の作例はカロリンガ朝時代にまで遡ることが可能だが、一般的になるのは12,13世紀以降のことである(3)。

 また、聖母に捧げる連祷の中に、「精神の壺」「光輝ある壺」という言い回しがあるように、水差しや壺なども、聖母の象徴としてしばしば描かれる。また、マリアの処女性を強調するものとして、「閉ざされた庭」「閉ざされた扉」が描かれることもある。「閉ざされた庭」は旧約聖書の雅歌に由来し、「閉ざされた扉」は同じく旧約聖書エゼキエル書の預言が典拠となっている。

 受胎告知の際に、大天使ガブリエルが手に持つものとしては、杖、笏、オリーブの小枝、棕櫚の葉、白百合の花が挙げられる。杖の先には権威を示す金の球や、十字架をつける場合がある。

 また、よく似た主題として、聖母の死の告知があるが、大天使ガブリエルの持ち物が異なっている。マリアの死の告知の伝説の内容は、キリストの磔刑後、使徒ヨハネと共に暮らしているうちに、白い衣を着た天使が現れ、彼女の死を告げる、というものである。キリストの昇天後、マリアは尼になったという伝承が中世にあり、それを受けて尼僧の姿で聖母を描くこともある。

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ジャン・フーケ、《死の告知》

 また、天使の持ち物によっても、受胎告知と死の告知の場面を区別することができる。死の告知の天使は、棕櫚の枝を手にしており、これは「常に天国へ凱旋する死の勝利をあらわして、殉教者に持たせる習慣(4)」になっている。とはいえ、棕櫚の枝は古代ローマの時代から勝利者の象徴として用いられており、通常の受胎告知画においてもガブリエルが手にしている場合もある。しかし、死の告知の場面での棕櫚の枝は、『葉は暁の煌めきを持った』という言い伝えがあり、棕櫚の葉に金泥が用いられたり、星が飛び出ているような場合などは、ほとんど死の告知の場面であると見てよいとされる。また、天使が聖母に燃える蝋燭を手渡していることもあるが、これは「古来死人に蝋燭を握らせるイタリアの習慣に照らし合わせて、間違いなく死の告知と考えてよい」とされている(5)。

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フィリッポ・リッピ《聖母の死の告知と使徒の到着》



受胎告知の図像の起源と発展

 受胎告知の絵画は、ルネサンス期に最もよく描かれたが、その図像の起源はもっと古いものである。受胎告知を描いた最古の作例として、異論もあるが、紀元2世紀のものとされる、ローマの聖プリスチルラの墓所(Catacomb of Priscilla)の図像が挙げられる。翼のない人物が座った女性の前に立って、手をかざしている。左側の椅子に深く腰掛けた人物が聖母マリアで、右側に立って祝福を授けるような身振りを示しているのが大天使ガブリエルであるとされる。しかし、この図像が描かれたのが神の母としてのマリアの地位、及び聖母子像が教会に認可されるエフェソス公会議(431年)前であるため、この絵を巡る議論は紛糾している。(6)

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聖プリスチルラの墓所、2世紀


 こちらは四世紀にカッパドキアの教父によって書かれたとされる、ナジアンゾスのグレゴリウスの説教の写本の挿絵で、画面左上部分に受胎告知の場面が描かれているが、場面は屋外に設定されていて、ここでは告知を受けた聖母マリアは椅子から立ち上がり、大天使ガブリエルに応答している。このように、マリアの椅子の背後に、観念的な建物が描かれる背景描写は、のちの時代にもしばしば見られる表現である。

 

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Homilies of Gregory the Theologian gr. 510, f 19、4世紀頃

 

 エフェソス公会議の直後に聖母マリアを記念して建設された、 サンタ・マリア・マジョーレ聖堂の内陣アーチにモザイクで描かれた受胎告知。432-40年 。舞台は屋外に設定されている。画面中央で荘厳な様子で玉座に腰掛けていて、聖母の神聖さが強調されており、頭には神の子の母であることを示す頭髪飾りをつけている。また、糸を紡ぐマリアの図像を継承しており、緋色の毛糸を入れた籠が傍らにある。天から聖霊の鳩の背景に朱く染まる空が神秘的。

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サンタ・マリア・マジョーレ聖堂のモザイク、432−40年

 同じく5世紀頃の作例で、現在ミラノの大聖堂付属美術館にある象牙浮彫では、湧き水から水を汲み取ろうとしているマリアのもとに、大天使ガブリエルが舞い降りてきた場面が描かれている。初期の受胎告知の図像においては、マリアは椅子に腰掛けているか、あるいは立って告知を受けているかのどちらかである場合が多いが、この作例のように、水汲みの仕事の真っ最中で、立膝をつき、身を捻って驚きを顕にするマリアの姿勢は珍しく、印象的である。

 

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水汲みをするマリア、5世紀頃、ミラノ大聖堂付属美術館

 

 こちらは6世紀のビザンティン美術の作例である、マクシミアヌス司教座の象牙浮彫。現在はラヴェンナのエピスコパーレ美術館に所蔵されている。聖母は糸巻きを、天使は杖を手にしている。また、簡潔にではあるがマリアを囲むようにして建物が描きこまれており、マリアが室内で糸紡ぎをしていたことが示されている。ルネサンス期の受胎告知の作例では、通常聖母マリアが画面右に、大天使ガブリエルが画面左に配置されているが、ここでは逆になっている。聖プリスチルラの墓所も同様であった。いつ頃から、なぜ、それぞれの位置関係が逆になったのか。右がおめでたい位置とされているから、鑑賞者の視線は左から右に流れるため、左に告知をする天使を、右にそれを受ける聖母を置いたほうが視線の流れに適う自然な構図であるから、など、様々な説があるが、いずれも定説とはなっていない。

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マクシミアヌス司教座の象牙浮彫、6世紀、エピスコパーレ美術館



 8世紀頃に、シリアで製作されたと言われる、絹布に描かれた受胎告知。ここでも聖母が左に、天使が右に配置されている。聖母は装飾された椅子に腰掛け、落ち着いた様子で天使の告知に応答している。赤い絹地の背景からは、具体的な舞台設定は読み取れないが、この受胎告知の場面を囲む円形の花模様は、春の到来の爽やかさにも似た、救世主の到来を告げる新しい知らせを祝いでいるようである。

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絹布に描かれた受胎告知、8世紀、シリア?

 また、ビザンティン様式を受け継いだカロリング朝・オットー朝時代の美術における受胎告知の作例として、1015年頃に制作された、ドイツのヒルデスハイム聖堂の扉部分のブロンズ彫刻が挙げられる。アダムの創造からキリストの昇天まで、聖書からの様々なエピソードが描かれているが、左の8つのパネルが旧約聖書を、右の8つのパネルが新約聖書を題材としている。受胎告知の場面が描かれているのは、右側の8つのパネル、右側の一番下の区画である。また左右のパネルは、旧約聖書の出来事は新約聖書の出来事と対応するものであるとするタイポロジーの考えに従ってそれぞれ対応している。受胎告知の隣りにあるのは、カインがアベルを殺害する場面であるが、正しい者アベルの死は、後のキリストの十字架の上での死を予見していると考えられていた(7)。

 互いに頭を垂れるマリアとガブリエルの動きはややぎこちないが、カインとアベルのパネルに顕著なように、力強く荒々しい造形表現には眼を見張るものがある。

 

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ヒルデスハイム聖堂のブロンズ扉、1015年

 また、同時期の作例として、1065年頃に製作されたとされている、ケルンのSt. Maria im Kapitolの木製扉がある。左上の受胎告知に始まり、エジプトへの逃避やキリストの洗礼など、キリストの生涯における主要な事件が描かれている。描かれた人物のくちばしのように尖った鼻は、同時代のドイツ美術に典型的な表現であるとされている(8)。

 この受胎告知の場面においては、大天使もマリアも立った姿勢で描かれている。隣に描かれているのはおそらくエリザベツ訪問の場面であろう。頭身の低い木彫りの人物像からは、質朴な温かみが感じられる。

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ケルンの聖堂St. Maria im Kapitolの木製扉、1065年頃

 

12世紀中頃のシャルトル大聖堂の彫像が、ロマネスク期からゴシック期への過渡期にあたる作例として挙げられる。下方から見上げることを考慮してか、顔が大きく造形されており、デフォルメされているみたいで可愛い。ちなみに同聖堂のステンドグラスにも受胎告知の場面が描かれている。私的な印象では、この頃から大天使ガブリエルが左に、聖母マリアが右に配置される例が多くなってくる。

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シャルトル大聖堂

 アルルにあるサン・トロフィーム教会の東側にある、1190年頃の作とされる彫像では、マリアはどっしりと腰掛けてながら、右手をかざして天使の告知に応答している。
ここでも少年のように描かれた大天使ガブリエルが左に、マリアは右に位置している。ロマネスク期の写本や彫刻において、受胎告知のマリアは立った姿勢でも座った姿勢でも描かれることがあるが、両者の違いに重要な意味はないと言われている(9)。

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サン・トロフィーム聖堂、アルル、1190年頃

12世紀末、シナイのイコン。ねじれた身体や、うねるような衣服の襞の表現が特徴的。ここでも抽象的で神秘的な背景と、聖母が座る豪華な玉座の後ろに観念的に描かれた建物が見られる。

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シナイのイコン

 13世紀にフランスで描かれた写本の挿絵においても、井戸で水汲みをしている最中に最初の告知の声を聞くマリア、家で糸紡ぎをしている際に告知を受けるマリアの姿が描かれている。マリアの家がテントのように描かれたいたり、大天使ガブリエルが今まさにマリアの方へ飛来している動的な姿で描かれている点が興味深い(10)。

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Fol. 117v. Vatican La Rochelle Bible、1215

 

 

1230−55年頃の作で、ゴシック期の受胎告知の作例を代表するランス大聖堂のもの。ゴシック期に特徴的な垂直方向に引き伸ばされたようなすらりとした人体表現が見られる。にこやかに微笑みかける大天使ガブリエルと、平静な心でそれを受け入れる聖母の穏やかな表情が良い。

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ランス大聖堂

 同じくゴシック期の作例である、アミアン大聖堂入り口の受胎告知。聖母マリアが本を抱えている点が注目される。大天使ガブリエルの明るく晴れ晴れとした表情が印象的。聖母マリアの静かな表情や、衣服の襞の処理の仕方に、ゴシック的な優美さが感じられる。

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アミアン大聖堂の受胎告知、13世紀、 photo by Eusebius (Guillaume Piolle).

 

 東方においては、『ヤコブの原福音書』に基づく、糸紡ぎや水汲みをするマリアの図像が広く流布していたが、イタリアにおいてはそのような図像は多くない。それでは、受胎告知の場面で、聖母は何をしていたのかというと、読書をしている姿で描かれていることが多く、一般に、マリアが手にしている書物は救世主の到来を予言したイザヤ書であると言われている。この本を手に持つマリアの、イタリアにおける初期の代表的な作例として挙げられるのが、ピエトロ・カヴァリーニの作品(1296−1300年)である。聖母マリアは画面右側で玉座に座し、大きく翼を翻した大天使ガブリエルとの間に、瓶に活けられた百合の花があり、空には父なる神の顔が描かれ、光線とともに聖霊の鳩が発せられている。後のイタリア絵画に見られる受胎告知の表現の原型がすでに出揃っている。

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ピエトロ・カヴァリーニ《受胎告知》、1296−1300、ローマ




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ジョット《受胎告知》

 


 1306年頃に描かれた、ジョットの受胎告知。アーチを挟んで向かい合うようにして聖母とガブリエルが互いに恭しく跪いている。糸巻棒に替えて本を胸にいだき、聖母の前には書見台が置かれている。また、以前の作例に見られるような、観念的な建物や抽象的な背景に代わって、カーテンの引かれた、遠近法を用いて描かれた現実的な室内が舞台として設定されている点が革新的である。フィレンツェらしい立体的な量感のある人体表現が見られる。

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シモーネ・マルティーニ《受胎告知》



 シエナの画家シモーネ・マルティーニによる作品で、受胎告知が独立した祭壇画の主題として扱われた最初の作例であると言われている。1333年。金地の背景に、国際ゴシック様式の優美な曲線がよく調和している。大きく弓なりに身を攀じるマリアの形姿や不安げな表情には、驚きや戸惑いの感情が強く表れている。大天使の口から、告知の言葉が文字で描かれているのが特徴的で、同様の表現はフラ・アンジェリコや、ファン・アイクの作品にも受け継がれている。また、ここでガブリエルが白百合の花ではなくオリーブの小枝を手にしているのは、白百合がライバル都市フィレンツェ守護聖人洗練者聖ヨハネの象徴とされているため、対抗意識がそうさせたとも言われている。このマルティーニの作品以降、ルネサンス期にかけて、受胎告知を描いた名画が数多く生み出されることになる。


受胎告知の身振り

 『ルカによる福音書』において、受胎告知を受けた聖母マリアの揺れ動く心情が簡潔に描写されている。「神の御使いガブリエルの最初の言葉に、マリアは一瞬『戸惑い』を覚えるが、それはすぐに『どうして、そのようなことがありえましょうか』という『疑問』に変わり、天使に『問いただし』て、道理を理解した後は、みずからへりくだって謙虚にこれを『受け入れ』、ついには神のお告げが自分の身に『成りますように』と祈るという次第である」(11)。

 つまり、受胎告知の場面で、マリアが取る身振りには、上記の戸惑いや驚き、疑問や問いかけ、受容と祈りのいずれかの意味が込められている。上述したマルティーニの作品においては、戸惑いや驚きが前面に出ており、またより露骨な例としては、同じくシエナの画家のアンブロージョ・ロレンゼッティの下書きがある。そこではマリアは突然の闖入者から逃げ去るように身を大きくひねり、激しい動揺により崩れ落ちんばかりである。

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アンブロージョ・ロレンゼッティ

  それとは対照的に、敬虔に御言葉を受け入れ、その成就を祈るようなポーズをとっているのが、フラ・アンジェリコによる、サン・マルコ修道院の僧房にある作品である。装飾を廃した簡素な室内で、胸の前で両手を交差させ、恭しく天使の方を見上げている。この敬虔で静謐な画面を眺めていると、自ずと神秘的な瞑想に誘われる。

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フラ・アンジェリコ《受胎告知》

また、フラ・アンジェリコと同様に僧侶で画家であったが敬虔なアンジェリコとは対照的な好色な生涯を送ったフィリッポ・リッピも、多くの受胎告知画を残しているが、1445年の作品が、「問いかけ」の身振りを示す好例であると思われる。「問いかけ」は「驚き」や「受容」に比べて、身振りで表現するのが難しいと思われるが、この作品における聖母マリアは、驚きに軽く身をひねりながらも、穏やかな表情で、ガブリエルの方へ手をかざす仕草によって、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と冷静に問いかけているように見える。

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フィリッポ・リッピ《受胎告知》

 受胎告知の絵画はルネサンス期を中心に世界中で製作されており、その作例は膨大な量になる。あまり長くなるとページが重くなってしまうので、今回はここで一区切りにして、続きは後の機会に書きます。次回以降のテーマとしては、
受胎告知と遠近法

受胎告知の場所と日時

受胎告知の名画

バロック以降の受胎告知画

等を予定しています。肝心のルネサンス期の名画の作品解説がほとんどできていないので次回以降にご期待ください。

notre-musique.hatenadiary.jp

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参考文献

(1)岡田温司・池上英洋著『レオナルド・ダ・ヴィンチと受胎告知』、2007年

平凡社、p.18

(2)鹿島卯女監修、高階秀爾・生田圓著『受胎告知』、1977年、鹿島出版会、p.135

(3)同書、p.135

(4)矢代幸雄著『受胎告知』、1973年、新潮社、p.35

(5)同書、p.37
(6)渡邊健治著、『受胎告知の図像学』、1965年、共立女子大学短期大学部、p.6

(7)https://en.wikipedia.org/wiki/Bernward_Doors#Iconography

(8)https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/m/master/zunk_ge/zunk_ge6/03doors1.html

(9)David.M.Robb,The Iconography of Annunciation of Fourteenth and Fifteenth Centuries,,The Art Bulletin Vol.18,No4,Dec,1936,pp.482

(10)同上、pp.481

(11)前掲書、岡田温司・池上英洋、p.83

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MIHOシネマの記事の構成

 MIHOシネマさんの記事の多くは、単体作品のあらすじ紹介が主です。記事の構成は統一されており、まず作品情報(監督、制作年、上映時間、ジャンル、キャスト)があり、その次にその作品を視聴できる動画配信サービスが参照できます。続いて登場人物・キャストの紹介があるのですが、この部分が素晴らしい。出演しているキャストを単純に羅列しただけではなく、登場人物名とキャスト名が並列して表記されている点が便利です。映画を観ていて気になった俳優さんがいても、マイナーな俳優さんであったりすると、よほど俳優の名前に詳しくない限り、どのキャラクターが誰なのかわからないこともありますが、MIHOシネマを見れば迷うことはありません。

 続いて、作品のネタバレ込みのあらすじが詳細に描かれるのですが、映画のラストのオチまでは知りたくはない、冒頭だけ読んでどのような雰囲気の映画なのか掴みたい、という方も居ると思います。その点にも配慮がなされていて、あらすじは起・承・転・結に合わせて4つの項目に分かれています。なので、ネタバレが嫌な人は起の部分だけ、一度観た映画のあらすじを振り返りたい人は結までしっかり読む、という風に、目的に合わせて自由に読むことができます。

総数8000記事を越える豊富なラインナップ

 さて、上記のように痒いところに手が届く詳細な映画情報がひと目でわかる点が魅力の「MIHOシネマ」ですが、次に取り上げられている映画のラインナップの傾向をざっくりと見ていきたいと思います。トップページに飛んでまず目を引くのが、「上映中のおすすめ映画」「今月公開のおすすめ映画」「公開予定のおすすめ映画」のページです。新作映画情報に特に力を入れているサイトであることがわかります。そしてそれぞれ見てみると、新作の公開情報だけでなく、過去の名作のリバイバル上映の情報まで載っています。取り扱われているのは新作だけというわけではなく、最近公開された入れ替わりもののホラー映画『ザ・スイッチ』から、第一回アカデミー賞作品賞受賞作品である、1927年制作のモノクロのサイレント映画つばさ』など、往年の名作を紹介した記事もしっかりあります。

痒いところに手が届く検索機能

 また、「MIHOシネマ」の優れた点として、検索機能が充実している点が挙げられます。映画のタイトルから検索できることは勿論、動画配信サービス別、俳優別、ジャンル別、映画賞・映画祭別に細かく調べることが可能です。とりわけ映画賞別の検索が優れており、アカデミー賞ゴールデングローブ賞などの有名な映画賞だけでなく、最低映画賞とも呼ばれるゴールデンラジー賞や、ホラー映画の登竜門、”ミッドナイト・マッドネス”で知られる北米最大規模のトロント国際映画祭など、日本では少しマイナーな映画賞・映画祭の受賞作も一覧で見ることができます。また、それぞれの賞の概要や歴史、特徴などが簡潔にまとめられているので、知らなかった映画賞の知識を仕入れることもできるようになっています。ブルーリボン賞って名前はよく耳にするけど、実際どんな賞なのかよく知らない、などという方におすすめです。

ジャンル別おすすめ映画がわかる

 ある気に入った作品があり、それと類似した作品を色々知りたい、という方に特におすすめなのが、「映画ジャンル別おすすめランキング」の記事です。「MIHOシネマ」ではアクションやファンタジー、サスペンスやホラーなど、オーソドックスなわかりやすいジャンル分けがされていますが、その中で目を惹くのが「フィルム・ノワール映画」の項目です。フィルム・ノワールとは、1940年代に流行したアメリカの犯罪映画に対してフランスの映画批評化がつけた名称で、ドイツ表現主義的な強烈な光と影の対比や、男を破滅に追い込むほどの魅力を備えたファム・ファタール(魔性の女)の存在、真っ逆さまに転落していく悲劇的な展開などが特徴です。この項目では、通常フィルム・ノワールと目される40年代アメリカの犯罪映画だけではなく、フィルム・ノワールの香りを感じさせる犯罪映画全般を広く取り扱っているところに面白みがあります。例えば1997年の『L.A.コンフィデンシャル』は、犯罪小説の名手ジェイムズ・エルロイの原作で、由緒正しきフィルム・ノワールの伝統を直接継承した作品ですが、そのようなものだけでなく、中島哲也監督の『渇き』などもフィルム・ノワールに分類されているのが興味深いです。確かに言われてみれば破滅的な展開や、周囲を巻き込み狂わせていく小松菜奈の狂気じみた魅力など、フィルム・ノワール作品に見られる特徴を兼ね備えた作品です。

 また、上述した「映画ジャンル別おすすめランキング」では、かなり細かいジャンル分けがなされており、より好みに即した、求めているものにぴったりの映画が探せるようになっています。例えばアクション映画の項を見ると、ざっくりとしたアクション映画のおすすめランキングだけでなく、「バイクアクション映画のおすすめランキング12選」というランキングまで存在します。「私、バイクアクションが好きなんだけど、面白い映画ないかな〜」などというニッチな需要をしっかり満たせるランキング記事が存在するのは、「MIHOシネマ」の極めて優れた点であるように思います。上記以外でも、ファンタジー映画の項目が、「ファンタジー映画」と「ダークファンタジー映画」に分かれていたり、ホラー映画に至っては、「ホラー映画」「スリラー映画」「パニック映画」「スプラッター映画」「ゾンビ映画」と、5つも項目が設けられており、さらにそれらを細分化したバラエティ豊かなランキング記事が存在します。このようなマニアックなランキングの数々は、眺めているだけで心躍ります。

 

おわりに

 以上、暮らしに彩り、映画が身近になる映画情報サイト「MIHOシネマ」の紹介でした。多角的な切り口、詳細な映画情報、痒いところに手が届く検索機能が魅力的なサイトです。何の気なしに眺めているだけで、いつしかサイト内のリンクを辿り、気がつけば観たい作品が大量に増えていること間違いなしです。ちなみに個人的におすすめの記事は「モンスターパニック映画のおすすめランキング10選」です。『トレマーズ』や『ザ・グリード』、『アナコンダ』等の定番作品がきっちり押さえられています。ポップコーンとコーラと一緒に、何も考えずに楽しく観ることができるモンスターパニック映画を楽しもう!

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