ななめのせかい

日常をあるく

近くの本屋さんが閉店する

タイトル通りだけど、近くの本屋さんが閉店する。

 

よく遊びに行く繁華街の入り口にある、ビル全体が店舗の大きい本屋さん。入口は絵本コーナーがあるので娘も吸い寄せられる、家族でお気に入りの本屋さん。

 

こんな ご時世だから、いつ潰れてもおかしくない。

他にいくつかあった書店も、閉店、移転、規模縮小の憂き目にあっている。

自分もネット書店で本を買うことも、電子書籍を買うこともある。

でも、本屋は本屋の魅力があって好きな場所だから、できるだけ足を運んでいた。

だからやはり、寂しい。

 

今日は1人で寄っていろんなフロアを回ってみた。

 

前の日記に書いた、ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を買ったのもここだったな。一階の、話題の本のコーナーに置かれていたっけ。

 

二階では、アダム・グラントの「GIVE&TAKE」を、検索機で何度も探して買ったな。

与える人、奪う人の概念で他者を見るのは、マネジメントに役立った。管下スタッフがそれぞれどういう特徴を持っていて、ギバーなのか、テイカーなのか、それともその中間、マッチャーなのか、考えた。そしてそれぞれがどういうモチベーションで仕事をするか?を考えてみた。

 

もちろんその枠組みだけに囚われてしまうのは良くないけど、一つの考え方としてはとても役に立った。

 

地下では数えきれないほど、漫画を買った。一番最後に買ったのはなんだろう?

ゴールデンカムイ」の最新刊かな?

休みの日にジャンププラスのアプリで「彼方のアストラ」を一気読みして、その後本屋に走って全巻をまとめ買いしたな。夫にも読ませたいし、これは紙で読み返すのもいいと思って。

 

そして絵本コーナー。娘が生まれた頃からお世話になりました。

娘が行くと必ず遊ぶ、魚つりのおもちゃ。座って読めるいす。

「パンダたいそう」や「よるくま」、あと小学館の図鑑シリーズも買った。重いけど、家まで近いからいいかと思って買ったら、娘が自分で持ちたがって、かかえて帰った。

本だけじゃなくて、おもちゃも買ったね。

ビーズをつなげて作るネックレス、1年以上前に買ったけど、今でも娘のお気に入り。

 

本屋さんのなかをうろうろしていると、そんな思い出がたくさん湧いてくる。

本を買いに行くだけじゃなくて、その場で体験すること、選ぶこと、考えを巡らせながら売り場を歩き回ること、未知の本に出会わせてくれること。

本屋さんがあって良かったと、心から思う。

 

ふと、イラストレーターの方が閉店に寄せて描いたと思われるポスターと掲示された文章が目に入った。お気に入りの場所が、何時間も過ごしたこの場所が無くなるのは悲しいと書いてあり、私だけじゃなくてみんなそうなんだよなあと感じる。

 

配布ポスターを一枚もらい、最後の買い物をした。

色々見ながら何にしようかなあと考えて買ったのは、前に何かの記事で見て読みたいと思っていた、全米ミリオンセラーの小説「ザリガニの鳴くところ」。あと大好きなマムアンちゃんの本。(マムアンちゃん、リビングにポスターも貼ってある。かわいい…)

 

f:id:konakanako:20200529153346j:image

 

 

その場所がなくなっても、この本たちから本屋さんのことを思い出すようになるのかな。

 

感傷的になりすぎかもしれないけど、感謝の気持ちを込めて。

今までありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

透明ガラスに映るちいちゃな手形

子供は夏、いつでもプールに入りたがる。

これは子供ができて初めて知ったことだ。

(個人差はあると思うけど)

 

娘はアレルギー体質なので、普段はアレルギー反応が出ないよう食事や触れるものに気をつけている。ところが、、今日の昼、こちらが想定していないことで肌からアレルゲンを吸収したらしく、症状が出てしまった。幸い症状は重くなかったので、原因になった物質を除去しようと、湯船でシャワーを浴びせて拭き取った。

 

どうやら、それがとても楽しかったようで、症状が落ち着いて買い物に行ったあと、夕方帰宅したら「お風呂、お水でちゃぷちゃぷする!」と言い出した。

 

夕方でもうちょっと涼しすぎやしないかと思ったけど、今日はアレルギーの症状も出てしまったし、その後も買い物に付き合ってくれたので、要望にはお応えしたい。というわけで、湯沸かしをかなり低めの37度に設定して湯を入れ始めた。湯が沸くまでの間に軽く夕飯を済ませて、スタンバイOK!

 

いつものお風呂は「ママがいい!」と叫ぶのだけれど、

プール様式のお風呂は「パパと入る!」と言う。

 

普段はなぜかパパは一緒に入浴することを断られる場合もあるので、大喜びで一緒にプール風呂に入る夫。

 

時刻は18時ちょっと過ぎで、そんな時間にひとりで過ごせるのは有り難い。食事の片付けをして、ソファに寝そべって、昨日買った本を読むことにした。(ブレイディみかこさんの、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。英国人と結婚し英国に住む著者と、地域の最底辺中学校に通う中学生の息子さんの、ノンフィクション・エッセイ。まだ三分の一ほどだけど、とても面白い。)

 

我が家はソファの横が大きい窓になっているんだけど、横になって本を読み始めて、ふと窓に目をやると、ソファからちょっと上あたりに、曇ったような模様が見えた。楕円が数個点々と連なっていたので、気になって近づいて目を凝らしたら、指紋が見えた。娘の手の跡だ。

角度を変えてよく見るとちょっとホラーなんじゃないかばりに、手の跡が見える。

ソファに立ってジャンプをするのが好きな娘。

遠くに見える海を、双眼鏡で眺めるのが好きな娘。

ここから手をついて、何かを見ていたのかな、と考えた。

 

なんだか不思議なもので、3年と少し前にはこの世に存在していなかったはずなのに、今は確かにその存在の足跡が、家にも、他の場所にも、たくさんあるなあ、と思いはじめた。

 

ビジネス本や雑貨を並べていたIKEAの棚は今はおもちゃと絵本をぎっしり詰めても足りないくらいだし(無造作に横にはみ出ている)、部屋に写真を飾ったこともなかったけど、今は娘が生まれた時からのお気に入りの写真が壁に整列している。

 

仕事をしている時間はもちろん顔を合わせていないけれど、家にいるときはずっと私にひっついて、ゴミを捨てに行くにも、どこに行くにもついてくる。どんどんどんどん、大きくなって、昨日できなかったことが今日できて、少しずつ、私の手から離れていっている。

 

ちいさな曇った手形は拭き取ったら消えるだろうし、窓からしたらただの汚れだし消したほうがいいんだけれど、何てことないこの手形すらも、いつか、ちいちゃかった娘をなつかしく思うものになるのかもしれないなぁ、と薄ぼんやり考えていた。

そしたら、何だか少し目の奥にこみあげるものがあった。

 

二度と戻らない毎日。残してくれる足跡は大事に、でも、その足跡だけを見て、大事な今を見失わないように。手を離した未来をしっかり応援できる存在でありたい。

 

…などと思って窓の汚れを拭いていたら、「ママ出たよー!」の声が聞こえてきて、結局本はあまり読めずじまいでした。 

 

愛しく悲しいインスタレーション。

昔の日記を読んだら、2014年にトリエンナーレの記事を書いていた。

 

2019年は愛知のトリエンナーレに行こうと思っていたが、色々取り沙汰されているので行かないかもしれない。(今取り沙汰されているものが見たい・もしくは見たくないとかは何も無い。ただフラットに、芸術として括られているものたちを見に行きたかった。だから、なんだか「何らかの先入観を持ってその場所に行く」のも嫌だし、「話題になったあの場所へ行く」みたいなのも何だかなあ、と思うので、行かないかもと言っている。

 

基本的には色々なものをあまり先入観を持たないで楽しみたいと思う。ゲームも同じで、攻略本は見ない。「ああ、あそこにアイテムあってあれはもうこの機会しか回収できないんだよー!」と言われても、初めてのことを体験して楽しむやりかたの方が自分は好きだ。

 

なので、先日行った新国立劇場のボルタンスキー展のことを書こうと思う。

ボルタンスキーはフランスの作家で、彼の回顧録としての展示が開催されていた。ご存命なので、来日して講演会もやったようだ。

私は全く予備知識が無い状態で行った。なので、これから書くことは的はずれなこともきっとあるだろう。けれど、私の感想なので、正直に書いておく。

 

結論から言うと、面白かった。

 

好きか嫌いかで言うと、あまり好きではないとは思う。

直接的な、死に関する表現がすごく多かった。わざわざ婉曲的にしないのは意味があるんだろうし、作家の性格が出るような気がした。自分が制作を続ける生活の様子もずっとビデオで取り続けて、それも作品にしているくらいなので、自分=作品が本当に近いんだなあ、とぼんやり感じた。

 

一番良いなと思ったのは映像作品。

定点カメラで動かない映像なんだけど、ずっと音が鳴っている。

映像は、真っ白な風景に無数の棒が立っている映像。棒の先になにかがぶら下がって揺れていて、よく見るとそれが風鈴なのがわかる。確かに、音も「チリリリリン」といった感じの音だ。その音だけじゃなくて、ずっとゴオオオ、とうなるような音もしていて、これは強い風に風鈴が吹かれているんだなあ、とわかる。じっと見ていると、真っ白なんだけど、うっすら後ろの方に、でこぼこした薄いグレーの線が見える。あ、あれは稜線だ、と気づく。

 

つまりは雪山に風鈴が立っていて、それが猛風に吹かれ続けている映像だった。

 

なにもない真っ白の風景で、無数の風鈴が鳴らされて音が無数に鳴り続けているのは、何だかずっと見ていられるくらい良いものだな、と思った。

 

あと、クジラの鳴き音をまねる鉄製の道具を海岸に設置した映像も良かった。これはなぜか見ている間ずっと、手塚治虫の「三つ目がとおる」の写楽くんが作る機械を思い出させた。

 

逆に好きじゃないかもと思ったのは、単純なモニュメントや写真を使ったもの。組み合わされた写真、しかも新聞の死亡記事欄から取ってきた写真、が薄い電灯で照らされていて、いかにもモニュメントという感じのものだった。

 

なんで好きじゃないのか?と思うと、私自身が考える余地が、その作品の中にあまり無かったからなのかもしれない、と思い当たった。

 

ゲームでも初めて出会う体験を大事にしていたように、作品にもなにかの体験や感情を起こさせることを望んでいるのかなと思う。

 

あくまで私の中では、現代芸術、とくにインスタレーションは、「芸術」ではなくて「エンタテイメント」として消費している感覚が強い。何を芸術とするかとか、広義で見れば芸術もエンタテイメントも同じカテゴリに包括されるとか、あるかもしれないけれど、少なくとも自分の中での分類はそうなっている。

じっと鑑賞して考えを馳せるものというより、体験して楽しむもの。

最近は仕事も忙しくて気持ちの余裕もなかったので、「エンタテイメント」としての芸術を、現代芸術を消化して、楽しくすっきりしたかったのかなと思う。だから結論としても面白かった、と言える。少し迷ったけど、隣でやっていたクリムト展は選ばなかった。それもなんとなくその理論で自分の中では説明がついた。そういう気づきが自分の中で合ったのも、今回の展示を見に行って得たもので、やはり行ってよかったと思う。

 

帰りは六本木で、海南鶏飯と肉骨茶(バクテー)を食べた。

海南鶏飯も肉骨茶も大好きなんです。海南鶏飯は2つお店があって、行かなかったほうのお店もすごく評判が良いようだったので、また行きたい。

 

つれづれなるままに書いてみた日記でした。

(写真は今回の新国立劇場展示のために作られた作品らしいです。電脳世界っぽくてよい。) 

f:id:konakanako:20190613112337j:plain

ではまた。

 

こなかなこ

 

 

 

横浜トリエンナーレ

先週、横浜トリエンナーレに行った

 
 
3年に一度の現代美術の祭典
10年程前から可能な限り行っています
 
私は芸術家じゃないし芸術に造形が深いわけではないので
その道に命を捧げている人たちにえらそうなことは言えないけれど
 
1800円のチケット代分だけの感想は言ってもいいかなと思う。
 
現代美術って、見てわかりやすくすごくキレイとか美しいってわけでないから
難しいなと思うんだけど
あっ!と思わせるようなすごく素敵なものより、本当にアイデア勝負だなーと思わせるもののほうが多かったな
 
でもその中で、心臓をギュっとされるくらいの強い衝動を与えられたものがひとつ
 
それが大阪西成区、あいりん地区の釜ヶ崎芸術大学の展示だった
 
日雇い労働者の町、路上生活者の町と言われるあいりん地区
そこで生活する人々が集まって、詩を書いたり絵を書いたり、歌を歌ったり能をやったり、そんなことができる交流センターが、釜ヶ崎芸術大学らしい
 
そこに書かれている書道の文字や
詩に書かれているひとつひとつの言葉
見ているだけでなぜか涙が出てきた
 
同情などでは決してなく
ただただ 生と死の狭間での悩みや自身の境遇、過去へ思いをはせる様子に
とても衝撃を受けた
 
f:id:konakanako:20141016121726j:plain
f:id:konakanako:20141016121745j:plain
 
誰も 望んでその境遇に陥った人はいない
どこでそうなったのか?
これからどこに行くのか?
どうやって生きていくのか?
そんな思いに満ち溢れているようだった
 
美術館の中のほんの一展示ではあったものの一時間ほどその場にいて
じっくり読み込んでしまって
他の展示を見て周っても、いつまでも
心はそこに戻って考えてしまった
 
 
芸術とは何なのか?
定義も答えもわからないけど
 
ただ、命の慟哭を芸術と言うのなら
あの美術館の中で一番の芸術だった