ムンバイでサッカーをやるということ(2)

 気が付けば、ムンバイ(インド)の日本人駐在員を中心に活動するサッカーチーム「Bombay Japan」のメンバーも50名程になりました。
 ムンバイに進出している日系企業の数は約100社で、1社当たりの駐在員数は平均で3名??。そう考えると50名というのは、結構な比率ですね。

 以前何気なく書いた記事から私にコンタクトして下さって、一緒にプレーした方も10名を越えました。改めて、インターネットってすごいと思っています。

 サッカーボールを通して汗をかいて、ムンバイ生活に関する大事な情報を交換して、たまには一緒にお酒も飲んでという仲間が増えるのは心強いです。

 最近は、日曜日の朝8時~10時にフットサルをやっています。

 メンバーの構成は中学生から50代の方までで、幅が広いです。サッカーはムンバイに来てから初めてやったという方も一定数いますし、一度だけではなく定期的に参加する方が多いのもBombay Japanの特徴だと言えます。中には、20年ぶりにサッカーを再開したという人もいます。みんなが思い思いに気持ちよく汗を流しています。

 一回の練習には、20数名が参加されているので賑やかな日曜日の朝を迎えています。午前中に終わるので、せっかくの休日を長く使えるのも魅力です。

ボンベイ ジャパンで一緒にサッカーして汗を流したい方、募集中です!
 ご興味ある方はボンベイ ジャパンのHPよりご連絡ください。

 通常は、マンチェスターユナイテッドサッカースクールの人工芝グランドで、モンスーンの時期は屋内フットサル場でボールを蹴っています。


    ↑↑マンチェスターユナイテッドサッカースクールのグランドで↑↑


    ↑↑米国チームとの対戦↑↑

 仕事してても、買物してても、街を歩いてても、車に乗っても、電車に乗っても、飛行機に乗っても、外食に行っても、カフェに行っても、家に居ても、何かと刺激の多い街 ムンバイ。
 私のような凡人は、五感でストレスを感じると言っても過言ではない環境です。

 でもそのお蔭でこの街では、ちょっとした笑顔や気遣いが心に染みます。ちょっとした事でもありがとうと思えるようになったのは良い点かも。

 そんなストレスの多いムンバイでの生活に少しでも彩りを添えて、明日からの仕事に気持ちよく取り組めるように、心をリフレッシュできるような場があれば素敵ですよね。
 Bombay Japanが、ムンバイに住むスポーツ好きな日本人たちのオアシスになれば良いなと思っています。
 あっ、定期的に参加してくれているインド人もいました。


    ↑↑インド人チームとの対戦↑↑

 私もムンバイに赴任して気が付けばもうすぐ2年になります。赴任当初しばらくは、生活基盤の立ち上げ、現地での仕事の進め方やインド感覚を養うのに費やしました。
 3か月も過ぎると少しずつ慣れ始めるのと同時に、言いようのない疲労感と攻撃的な思考になる自分を覚えました。
 今思うと、この環境に支配されて生まれたストレスに由来していたのだろうと思います。当時は自分では気づきませんでしたが。そう言えば、眠りも今より浅かったです。

 日本では当たり前だった「腹の底から笑う」「体を動かして汗をかく」という機会が、ムンバイ生活当初はなくなっていました。正直なところ、全然腹の底から笑えていませんでした。体を動かす為にジムに行っても、何故かつまらなくて、気が晴れませんでした。
 この両者は、とても大事だったのですね。あるのと、ないのとでは人生が変わります。

 今は一緒に汗をかいて、笑える仲間がたくさんいるので幸せです。そのサイクルに入ると、仕事面も上手く回るようになる事も体験しました(で、油断するとまた行き詰るわけですが)。

 Bombay Japanに廻りあえた事には、心底感謝しています。チームを立ち上げてくれた先輩方にも大感謝です。

 最近、ふと思い出す一言があります。二十歳の時、高専サッカー部を卒業する時に顧問の山崎先生から私に頂いた言葉。「これからは、楽しむサッカーを!」と。私の5年間の部活での言動を踏まえてのお言葉だと思っています。

 その時は、あまり意味がわからなかったけど最近なんとなくわかるような気がします。つまり、サッカーの原点は楽しさなのだと。そしてそれは、一人よりは二人、二人よりはたくさんで輪をつくると更に楽しくなるのだと。輪に加わって初めてわかるものがあるのかな。W杯が世界最大の祭典というのは一つの証左か。
 孤独な時間を活かすためにも、今の私にとっては大事な瞬間。

 インドに赴任する前に「ストレス解消法を持って行く事が大事だ」という話を数回聞いていましたがその時は、あまり意識していませんでした。でも、大事なんですね。ストレス耐性を上げるだけでなく、ストレス解消法を持っておくことは。今では仕事して、叱って、怒って、笑えるインド人同僚にも出会えました。

 ムンバイの風が私に色んな事を運んでくれています。インドが私に色んなことを教えてくれています。サッカーが私に色んな事を気付かせてくれています。そんな生活も悪くないです。家族が恋しいけど(笑)。

 ということで、今週末もドリブルしてきます。

ブラジルW杯の代表メンバー発表を通して、勇ましさについて思うこと。

 「よかった。選ばれている。」メンバーリストを見て最初に思った率直な気持ちです。大迫が名を連ねていたから。そう思うには理由がは、これまでの一連のプロセスにあります。

 2012年の夏、日本がロンドン五輪でベスト4の実績を残した事はまだ記憶にあたらしいですが、そのチームの中心選手として目されていた大迫が選考から漏れた事も当然最近の事でした。それまでチームの中心として奮闘し、結果も残してきたのにまさかの落選。これで落胆しない人はいないと思います。それでも、その後の鹿島アントラーズでの活躍は周知の通りでした。心中は当人以外は知る由もありませんが、少なくともピッチで結果を出し続けた事は素晴らしいと思えました。

 その結果として掴んだ東アジアカップ(2013年7月)でのフル代表初選出。ザックの期待に応えるゴールも見事に決めました。その記憶がさめる間もない2013年11月、W杯へ向けた強化試合のベルギーでの国際親善試合のメンバーとしても当然のように召集されました。オランダ戦でもゴールを決める事で一気に代表のFWスタメン候補に名を連ねるまでになりました。その後も鹿島アントラーズで安定した結果を出し続けていました。代表のFWとして柿谷と並んで最も近い位置を確保したといえる状況でした。ブラジルW杯メンバー入りに頭一つ抜け出したと言えます。

 そんな最中、海外移籍の話がメディアを通しても具体的に耳にするようになりました。W杯イヤーに移籍をすることは、代表入りを目指す選手にとっては大きなリスクを伴います。ましてや所属クラブでも代表でも結果を出しているのであればコンディションのつくり方も含めて移籍しない判断をする選手が大多数です。しかも、大迫はついこの間、ロンドン五輪で「サプライズ落選」を身を持って経験しています。本人も海外移籍するか熟慮すると言っていたのはその辺りの事も踏まえてなのだろうと思いました。

 自ら選択肢をつくり、そして熟慮の結果、2014年1月にドイツへの移籍を決めて1860ミュンヘンの一員となりました。この決断はものすごく、ものすごく勇気のいる事だったと思います。W杯に出るだけではなく、そこでゴールを決める為にこれまでの環境ではなく、新しい環境に身を投じるという決断です。

 おそらくは、世界を相手にした時に自分が何を磨くべきかを見据えた上での判断だったのだろうと思います。そしてここでも結果を出して、2部とはいえ、ドイツのプロリーグでMVPとベストイレブンという快挙まで成し遂げました。そのままW杯メンバー予想の中では、必ずと言ってよいほど名を連ねていました。

 メンバー発表当日、大迫の選出が妥当だった感がありました。ここで妥当だと思わせたところに凄味を覚えます。前述のタイミングで海外移籍を決断してそこで、確実に結果を出して掴んだブラジルW杯の日の丸ユニフォーム。この勇気ある決断に心から拍手を送ります。本当にすごい。
 大逆転劇は、観衆を沸かせてくれます。一方で逆境に置かれる前にタイムテーブルをしっかりと作って一歩一歩着実に進める事は、派手さがありません。でもこの地味な事を着実にやってのけるのはプロフェッショナルだと思います。強い。本番でもぜひ結果を残して欲しいです。

 高校サッカー選手権の決勝の国立で魅せてくれたプレーでは鳥肌が立ちました。ブラジルではどんなプレーを、ゴールを魅せてくれるのか。心底楽しみです。

 大迫勇也選手。勇気が溢れる選択をしたその挑戦に、言葉では表せない励ましをもらっている人はきっと多いはず。私を含めて。

薩摩藩・島津家に伝わる(らしい)話しを思い起こします。
「薩摩の教え」-男の順序-
 1:何かに挑戦し、成功した者
 2:何かに挑戦し、失敗した者
 3:自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
 4:何もしなかった者
 5:何もせず、批判だけしている者
(注:以前Webで調べてみましたが出所がよくわかりませんでした。これは、人力検索の方が強そう。。)

挑戦とは、自ら選択肢をつくり決断し、実行することなのだろうと思います。
W杯シーズンに入るからか、刺激が強くて多すぎて眠れない日々が続きそうです。

ムンバイでサッカーをやるということ(1)

 ムンバイ(インド)に来て気がつけば半年が過ぎました。
この地でサッカーをする事を出国前から諦めていましたが、ムンバイでもサッカーはできました。何事も、最初から諦めてはダメですね・・・。

 今は、ムンバイ駐在している日本人が集うチーム「Bombey Japan」でプレーしています。土曜日もしくは日曜日の朝に、ゆるく練習しています。朝の練習(遊び?)だと午後を有意義に使えるので気に入っています。チームとしては年一回の大会、通称:ムンバイワールドカップに出場して、その後の飲み会を楽しむ事を目的として活動しています。まあ、ムンバイに住む日本人の交流の場の一つですね。年齢層も20代から40代と幅広く、未経験者も経験者も十分に楽しめるチームです。

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 驚いた事にムンバイ(インド)にも、フットサル場が幾つかあります。

 近郊だけでも、R-City MallMega MallInorbit Mallの3か所のショッピングセンター内に設置されていますし、屋内フットサル場のThe Arenaというところが先日オープンしています。屋内なので、ムンバイの大敵であるモンスーン(大雨の時期)でも快適に汗をかけます。
 先日も、我々のような外国人が多く住むPowaiのHiranandaniにKICKというフットサル場がオープンしました。2面とっていて、各々が5対5用と6対6用のコートサイズでした。数回使った限りでは、管理人が毎朝遅刻してきたので運営面には難アリですが、設備は立派です。
 いずれのコートも週末ともなると予約で埋まる事が多いですし、この数か月でも予約が取り難くなってきています。この流れが緩やかにでも続けば、インドでも今後はサッカー人口が増えてくるかもしれません。

 インドでスポーツというと、断トツでクリケットが人気で、猫も杓子もクリケットです。車で少し走ると空き地でクリケットやっている姿はよくみます。その一方でサッカーをやっているのは富裕層と呼ばれるカテゴリに入る人たちの一部のようです。スパイクはまだまだ、高価なようです。同じ品質であれば日本で購入する方が安価。

 この週末も、近所の広場でインド人に交じってプレーさせてもらいました。
 

 2か月ほどインド人とプレーするとルールとプレーのスタイルが大体わかってきました。ルールに関して日本でやっていた時との大きな違いは、下記の3点です。

 FIFAの定める世界標準のルールでは、故意でなくプレーに大きく影響がでない場合は、手にあたってもハンドのファウルはとらないですよね。また、前述の運用だとリスタートのボールがまともに蹴られず、サッカー全体の質が下がりますし、DFが簡単にゴールラインにボールを逃がすのでこれもサッカーの全体の質を下げてしまいます。でも、これがローカルルールです。

 上記のルールだったので、ムンバイ(インド)でプレーを始めた当初は戸惑いました。今でも違和感はあります。そこから学んでいる事は、

  • 大多数の中でごく少数だけの見解だと、例えそれが世界公式のルールブックに載っている事でも一切、聞き入れられない。
  • 全員が認識しているルールの中でプレーして結果を出すしかない。
  • グラウンドが未整備でぼこぼこで石が多くてイレギュラーだらけで滑りやすくても、そこでプレーする以外にない。

 ・・・これって、インドに来てビジネスで遭遇しているのと全く同じ。驚いています。
 ふと、人口に目を向けてみました。インド人口の12億人というと、それだけで日本の10倍。世界の人口(68億人)比でみても20%弱がインド人です。この比率から日本人の考えがどれだけマイノリティ(少数派)なのかが改めて分かります。

 世界共通のルールブックがあっても、ローカルルールは存在する。国際大会もしくは公式大会でなければ、ローカルルールが当然のように適用になるし、それが嫌ならプレーさせてもらえない。それは困る。そう考えると、取る選択肢は自明でそのルールを自分が受け入れて仲間に入れてもらう事。

 ともあれ、サッカーができるだけで幸せです。やっぱり、汗をかけるっていいですね。明日もドリブルしてきます。

※続編も書いてみました。こちらからどうぞ。

2013年への抱負

 初めて日本以外の国で年を越しました。ムンバイは暑く、日中は半袖です。また年末年始の休みに相当するのは、1月1日の「New Year」のみです。そのせいか、今回は私の中に年越しをした感覚が一切ないです。

 一方でインド人からするとしっかりと年越しをしている感覚なのでしょうか・・・と思っているとムンバイに住む人の多くは4月が年の変わり目らしく、西暦を意識していないようでした。ここに自分は育ってきた風土に大きな影響を受けていたことを実感します。
 
 新しい年を迎えて気持ちを新たにすることは、すごく大事で意義があることだと思うけれど、「普段の一日」で年越しを体感するのも悪くないですね。ということで、今回は無意識にはできないので意識して2012年を振り返り、2013年を見据えようと思います。

●2012年に目を戻すと
私にとっての2012年は、節目の年となりました。まず、娘が生まれたこと。
この質の喜びは初めてです。そして、父親になったこと。娘を抱きその1か月後に単身で赴任しました。Skypeで娘の顔を眺めて、声をかけて、反応するのを日々楽しんでいます。これがもし10年前だと特にインドのインフラ事情で全く違ったやりとりになっていたことでしょう。
国際電話するのも一苦労、10分で目が飛び出るような請求額の時代の話を聞くと、今の時代に赴任できて良かったと思います。

次に、インドに渡ったことです。
赴任前の数か月は、言葉では言い表せない感覚になっていました。
わくわく感と恐怖感が共存し、時に恐怖感に自分が支配されたこともあります。その時は決まって、「泣こかい 飛ぼかい 泣こよかひっ飛べ」と故郷の教えを自分に言い聞かせました。
赴任に際しての家族の理解と応援に心底感謝しています。
またチームの仲間が励まして背中を押して盛大に送り出してくれた事も私の大きな支えになりました。
ありがたいです。

ちょっと脱線しますが自分で自分を褒めたいのは、インドでまだ大きく体調を崩していない事です。
インド経験者に聞くと最初の1ヶ月目か2ヶ月目でこらえきれない腹痛と発熱に襲われるケースが大半のようです。
それを回避するべく自己管理に努めましたが今のところは大丈夫です。
体調を崩すのは時間の問題かもしれませんが気負わずに自己管理していこうと思います。

●2013年の抱負
さて、2013年をどう過ごすか。間違いなく私の分岐点になる年です。
キーワードは、「挑戦」です。気持ちと考えを下記の3点に整理しました。
今年に限った事ではないですが、何事もやるべきことを地道に実行していくことが最大の近道だと信じて前に進みます。

<家族>
家族が安心して暮らせるように、そして幸せを感じられるように離れていてもできることをやります。
親として、夫として今やるべきことを直視してやり方を工夫します。そして息子として、孝行できるうちに孝行します。

<健康>
最も意識するべきは、過度なストレスをため込まないだと思っています。そのために、食事と運動と睡眠の適量を心がけ、質を上げるようにします。
インドでの食事は、味付けが濃く、量が非常に多いです。また、珈琲や紅茶には必ずと言ってよいほど大量の砂糖が入ります。
そして私にとっては、辛い料理に甘いデザートが出ます。
アウトプットを気にするのであればインプットが大事なので口にするものには、気を付けます。

運動面は、最近ジムに通えるようになった事もあり、毎週1日は運動できる環境になりました。
サッカーするかジムでエクササイズするかです。
汗をかくことは、私にとってはストレスをためないために必要な事だということをつくづく実感しています。体を動かすと気持ちいいです。
睡眠に関しては、眠りが浅いと感じる日が続くことがあるので、もう少し工夫をして質を上げたいと思います。

<仕事>
何と言っても、「使い尽くせない資本」をつくることです。この一年はインドにどっぷりと浸かります。
ムンバイでの生活も5か月目が始まると、良くも悪くも今まで見えてこなかった事が見え始めています。
少しずつ表面がはがれていく感触です。
インド駐在○年の経験と言っても、私がどのような姿勢で過ごすかのでその「経験値」は大きく異なります。
2012年での4か月間は、ただひたすら走っただけでした。今年は経験値を上げる事を意識して取り組もうと思います。

現在は過去、未来はこれからつくるもの。成功するまで諦めないという強い意志で2013年を走ります。

皆様、今年もよろしくお願いいたします。

入学式にて

 今年度の上期に、大学院大学の科目履修生になることにしました。と言っても、1科目だけなのですが。今日は、入学式にオブザーバーとして参加しました。北尾学長のあいさつでは、入学者(全員が社会人)に対して下記の3点が述べられました。すべて、論語を引き合いに出されていましたが、私の記憶にはまだ論語では残りませんでした。残念ながら。これから論語を勉強する中で、ピンとくるようになれば、それはそれで嬉しいことだと思っています。
 さて、3点とは、

  1. 決意を継続することが大事だ。
  2. 限りある時間を意識して意義深く使うこと。
  3. 自分の事を知り、世の中の役に立つ人材になること。

でした。

 社会人大学院生はめちゃめちゃ、ハードです。仕事も家庭もある方がほとんど。それでも、学ぶことを決意したのであればそれは、絶対に続けなければならないと。当たり前のことですが、修了後も続けて意味が出てくるのでしょうね。私は、単科生なのでその点では別な部分で「継続」を意識しようと思いました。

 時間に対する考え方については、とにかく無駄をしないという意識。食べる・眠るという事に関してもとことん時間を意識する。睡眠時間を短くするには、密度を上げることが必要なので、どうすればそれが実現できるか。無駄な娯楽を持たない、無駄な読書をしない、無駄な宴をしない。その分を何に充てるのかを考えた上で日々のスケジューリング。
 汝自身を知るというのは、知を超えて命であるとのお話。難しかったです。

 その後に、一人の教授からもお話があり、「責任感」についてピンと来たのでログを残します。
 責任を持つことは当たり前だけれども、自分自身に責任を持てない者が他人に対して責任を持てるはずがないと。つまり、自分で決めた学問と仕事との両立のために眠たいとか言ってレポートを出さないなんて責任感がなさすぎると。そこを超えなさいと。

 この場でここまで言える人をすごいと思いました。何のためにやるのか、そこがブレてしまうと、極限を感じた時に、自分に負けてしまうという事だろう。自分で言い続けてきたことが現実に目の前に到来した時にどうするか。

 懇親会場の温度分布も面白かったです。情熱のサーモグラフが見えればおもしろいのにと思いました。
この出会いの中で、2012年度がスタートしました。「乗り越える。」と決意。

泣こかい 飛ぼかい 泣こよかひっ飛べ

 夢に届くまで、跳べるだろうか?跳べないかもしれない。でも、迷って泣くぐらいなら跳んでしまおう。の意(たぶん)。
まさにそう思う今日この頃。私も、跳んでしまおうと決めました。

 今回は、跳ぶことに躊躇する自分に驚きました。家族の事を考えるとは言え、それを差し引いてもいつの間にか年をとってしまったのか?とも思いました。
「能力を未来進行形で捉える。」という事を10年前に教わりました。つまり、今の自分の能力をもってできる、できないを判断することはたやすい。大事なことは自分の能力の進化を予測して、選択肢をつくりそれらを選ぶということ。

 10年前は、「自分の能力が無限大だと思え」と類似語だと思っていました。でも、違いますよね。無限の可能性を信じて愚直に邁進するのは良い事ということでしょうか。その教えの意味が最近、なんとなく分かってきたような気がします。30歳をこえて、良い意味でも、悪い意味でも自分の今の能力を20代の頃よりは客観的にはみられるようになりました。大したことはない能力です。なので、どうするか。できない事に目を向けても仕方がない。夢に届くために絶対に、出来るようにならなければならないのであれば、やるしかない。必要ないのであれば、やらない。それだけなんだと思う。その上で、無限の可能性を追求する。

「現在は過去、未来はこれからつくるもの。」
これまでの積み重ねの結果が今の自分であり、今の自分の環境です。何を積み重ねてきたのかなと思うと、がむしゃらにやってみた事だけ。どこに行こうとしているのかをもう一度考えて、地に足をつけてもう一度走ろうと思います。今から積み重ねることが未来そのものです。
「何を積み重ねるのか?」 と 「夢は何ですか?」が言葉にできないまでも、自分のなかで繋がらなければ、すっきりしない。

自分の能力を未来進行形でとらえよう。泣こよかひっ跳ぶ。跳ぶ。

会葬いただいた方へ

10月10日が父の命日となりました。56歳でした。
この一週間はあっという間であり、また長い長い時間でした。
多くの方々に送り出していただけた父は幸せだったと思います。家族は、ゆっくりとですが、本当にゆっくりとですが、着実に今までと違う新しい日常に向かっています。
告別式で、自分が遺族代表の挨拶をすることがあるなんて、夢にも思っていませんでした。
通夜にお越しいただいた方には、伝えられなかったので記します。

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遺族を代表し、一言ご挨拶を申し上げます。
本日は、ご多忙のところ父義彦の為に遠路ご会葬いただき、厚く御礼を申し上げます。
生前もそして本日も皆様をはじめ、多くの方に囲まれて父は本当に幸せだったと思います。

父は、とても厳しくて、怖くて、そして、とても優しい親でした。
また、寡黙でもありました。
私が父親に遊んでもらいたい年頃の時に、父が四畳半の部屋にこもっていたことがあります。
普段は休みの日に色々なところに連れて行ってくれていました。
その日も遊んでもらいたい一心で、襖を開けました。

すると、父が建築の製図用の机の前で、勉強していた光景がありました。
すぐ母に、「今日は邪魔をしては駄目だよ。」といわれ、一瞬で襖を閉められました。
今思うと、建築士の国家試験の勉強をしていたのでしょう。

父は私たち子供に「勉強せんか」と言ったことが一度もありません。
その代わりに、
「自分が成りたい仕事をいつでもできるように準備はしておいた方が良い。選択肢を増やせよ。」
とたまに、言っていました。
私は本当にサッカーばかりしていましたが、節目では父の言葉をふと、思い出しました。
文字通り、背中で語ってくれていた父でした。

また、父の癌が発覚してからは、闘病が始まったときから息を引き取るまで
文句も言わず、弱音を吐くこともなく、無理にでも笑顔でいようとしてくれました。
不安もあったろうに、痛かっただろうに、本当に、強かったです。

最近、父に心配なことは無いか聞くと、「何も心配していない。」の一言でした。
誰もが、心配事が無いはずは、ないと思います。
でも、残される者の事を思い、そう、言ってのけました。
心の大きさを、懐の広さを改めて感じました。
そして私は、父に安心してもらえるようにしようと決めました。

このような父に対して、生前寄せられた皆様のご厚情に対し、心より御礼申し上げます。
私どもは未熟ではありますが、故人の教えを守り精進していく所存です。
皆様方には、故人と同様お付き合いをいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。

本日は、まことにありがとうございました。

 長男 邦彦
2011年10月12日

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