コトバ、ハガユシ。

何の取り柄もない残念大学生、今日もコトバがもどかしい。

Everyday、過注釈

ドライ・コミュニケーションとウェット・コミュニケーション

今回のトピックは「ドライ・コミュニケーション」と「ウェット・コミュニケーション」という一対の概念です。

皆さんの周りにこんな人はいませんか?

「額面通り」に言葉を解釈し、不正確な発言にいちいち引っ掛かるタイプの人。

何気なく言った言葉を「言質」のように捉え、後々の関係の中で引き合いに出してくる人。

語弊を恐れるあまり「注釈」が多くなり過ぎて会話がなかなか進まない人。

もしかしたら読者の皆さん自身の中にもそのような自覚がある方がおられるのではないでしょうか。

そのようなスタイルのコミュニケーションを「ドライ・コミュニケーション(Dry Communication)」と呼びたいと思います。

 

〔定義・性質〕ドライ・コミュニケーション

=字義通りに言葉を解釈することを旨としたコミュニケーション。

同時に、その場の会話における発言を以後の関係にも持ち込む言質主義や、正確を期すあまり言葉数が増え発言が冗長になってしまう過注釈が観察されることが多い。

 

ちなみに僕は根っからのドライ・コミュニケーション型の人間(Dry Communicator)であり、周囲からは「論理厨」「定義厨」などと言われることも多いです。厳密性志向の言葉への眼差しがそのまま日常の言語運用に表れているというのが実感です。誠実であることとはすなわちドライ・コミュニケーターであることだとすら思っています。つまり、「言外の真意を恣意的に『察する』ことは、気を遣っているようで実際には現実の相手を直視せずに自分の中の相手像を押し付けることだ」と考えているのです。僕自身は、相手が言いたげなことを態度や気質から察するのはそれほど苦手ではないです。ただ、その度に相手を「決めつけ」てしまうことが強迫的に怖いのです。

 

ドライ・コミュニケーションの対立概念として「ウェット・コミュニケーション(Wet Communication)」を想定することができるでしょう。対比的な言い回しをするなら、「ドライ・コミュニケーション=文言優位の言語運用」、「ウェット・コミュニケーション=文脈優位の言語運用」と言うこともできます。

 

ウェット・コミュニケーション型の人(Wet Communicator)は、ドライ・コミュニケーション型の人との付き合いにおいて苛立ちを覚える場面が多いと思います。

たとえば、ドライ・コミュニケーション型の人が、語弊が無いよう心から相手を気遣って「君のことを悪く言うつもりは無いんだけど」と前置きしたとします。相手もドライ・コミュニケーターであれば「(なるほど、悪く言うつもりは無いんだな)」と素直に受け取ることができるでしょう。しかし、相手がウェット・コミュニケーターだと「(敢えてそんなこと言うってことは悪く言われるんだろうなあ、怖いなあ)」と受け取られてしまうことが多いようです。不用な警戒を解くために言った言葉なのに却って身構えさせてしまう、そんな捩れが起こってしまうのです。

「発せられた言葉自体に敬意を払ってそこに真意を見出そうとする人」と「敢えて言葉そのものを軽視し、より重大なものを言外に見出そうとする人」との会話が、何の工夫も無しにスムーズに行くはずもありません。

 

ここまで「ドライ/ウェット」という二分法に従って話を進めてきましたが、実際には誰もが両方の性質を兼ね備えているのではないかと思います。言葉のオモテとウラを同時に考慮しながら話しているはずです。しかし、個々人の言語観や美学によって、あるいは会議や恋愛など各場面によって、いずれかの立場を意識的に選択することもあるでしょう。そのような場合に、ドライ・コミュニケーターとウェット・コミュニケーターとの間に行き違いが生じてしまうのです。

 

「付き合う」って何?

生粋のドライ・コミュニケーターである僕と、ウェット・コミュニケーション型の人との恋愛は、往々にして失敗します。失敗してきました。

 

皆さんは「恋人」をどのように定義しているでしょうか。「相互に無限の自己開示を行える関係」だとか「排他的な肉体関係」、あるいは「『2人の未来』を志向する関係」等、様々な意見を聞いてきました。一般論として言える「付き合う(恋人関係になる)」の定義は無いに等しいのです。

 

僕は正体不明の「付き合う」という語で契約を結ぶことに強い違和感を抱きます。なので、「付き合う」前には必ず「『付き合う』とは何か?」という話を相手の方とするようにしています。合意形 成の前提として意味内容をはっきりさせておくのは当然だと思っています。これは過注釈傾向や言質主義の一つの形態であり、明らかなドライ・コミュニケーター的態度だと言えるでしょう。ウェット・コミュニケーション型の相手にとってはこれが大変鬱陶しいらしい。その議論を乗り越えて互いが納得する結論に至り交際がスタートしても、潜在的な摩擦は様々な場面で表面化します。ドライ・コミュニケーターによるウェット・コミュニケーションの「糾弾」、ウェット・コミュニケーターによるドライ・コミュニケーションの「軽視」。時にそれは「モラル・ハラスメント」と言っても差し支え無いような危機的状況になります。お互いが当然だと思っていることが正面からぶつかり合い、規範の押し付け合いに至ってしまうのです。

 

(参考記事:モラハラ考 - コトバ、ハガユシ。

 

衝突をいかにして回避するか

そのような「ドライ/ウェット」の衝突は回避できるのでしょうか。

根本的な美学の食い違いなので、こうすれば必ず回避できるという方法はありません。

しかし、「自らの立場を明確に意識し、俯瞰して相対化すること」によって摩擦はかなり軽減できるのではないかと考えます。

自分の言語観や美意識を絶対化している限り、自分と違うスタンスの相手は劣っているように見えてしまいます。逆に、それを明確に自覚して相対化することで、相手への理解を育てることができるはずです。

 

これはもっと一般的に言えることでしょう。誰もが異なる価値観を持っています。自分の価値観を捉え直し、できる限り言語化して人に伝えやすくすること。相手の価値観に共感できなくても理解に努め、敬意を払うこと。そうすれば拒否反応を起こさずに、より多くの人と深い関係を築いていけるものと思っています。

 

久々の更新。今回も結構な長文になってしまいました。読者の方によっては、過注釈まみれの冗長な文章として映るかもしれません。

最後までお読みいただいた読者の皆様、本当にありがとうございました。

モラハラ考

「モラル・ハラスメント」

2015年に高橋ジョージ三船美佳夫妻(当時)の協議離婚騒動が取り沙汰されて以来、「モラル・ハラスメント」という語が頻繁に聞かれるようになりました。

 

夫婦やカップルだけでなく、親子間や上司・部下間などの人間関係においてもしばしばモラル・ハラスメントの存在が指摘されます。暴言や暗黙の脅迫などによって相手を精神的に追い詰める、そのような権威的・攻撃的な言動モラハラと呼ばれているのです。

 

この「モラル・ハラスメント」という言葉は、すでに広く一般に用いられてきた「セクシュアル・ハラスメント(=性的嫌がらせ)」や「アルコール・ハラスメント(=飲酒強制や昏倒者放置など酒の場での嫌がらせ)」といった用語に比べて明確な定義付けが困難です。意味内容が曖昧なバズワードとして言葉だけが一人歩きしているのが現状ではないでしょうか。

その原因として、「モラル(moral)」という語の両義性が指摘できると思います。

両義性というのは

①「moral/精神的」=「精神性に関する」

②「moral/道徳的」=「道徳的に正しい」

という2つの解釈が可能だということです。順に見ていきます。

 

「精神性に関するハラスメント」という側面

まず、「moral」という形容詞の「精神的な・精神性に関する」という意味に注目してモラル・ハラスメントを捉えてみようと思います。

このとき、モラル・ハラスメントはフィジカルなハラスメントに対置される概念として規定されます。いわゆる「心の暴力、言葉の暴力」のことです。

なお、アルコール・ハラスメントは英語では「alchohol-related harassment」と呼ばれます。

アルハラは「アルコールに関する嫌がらせ」、セクハラは「性別に関する嫌がらせ」、同様にモラハラは「精神性に関する嫌がらせ」なのです。

この限りでは、「メンタル・ハラスメント」「サイコロジカル・ハラスメント」などという呼び名も妥当するはずです。「モラル・ハラスメント」という命名にはもう一段上の必然性があるかのように思われるのです。

 

「道徳的に正しいハラスメント」という側面…?

続いて、「moral」という形容詞の「道徳的な・道徳的に正しい」という意味に着目したいと思います。「精神性に関する」のように単に問題の所属領域をいうのではなく、「正義/悪」という価値判断を含んだ意味合いです。

この意味において「モラル・ハラスメント」は一際悪質なものになります。

人間関係における精神的な追い詰めは往々にして、「俺が稼いだ金で建てた家なんだからいつでも追い出してやる」「あなたのために私はここまでやっているのだから言うことを聞きなさい」「友達の頼みなら5万ぐらいはした金だろ、頼むよ、貸してくれよ」など、「正論」を伴って為されるものです。論理的には反駁しがたい正論によって見かけ上の道徳性を振りかざし、相手を「悪者」にして逃げ場を奪うのです。

ヴァイオリニスト・高嶋ちさ子の教育論コラムが炎上したのはまだ記憶に新しいところですが、2人の息子のDSを破壊して泣かせた彼女の言い分はまさしくモラル・ハラスメントの論理です。

 

「自分で働いたお金で買ったゲーム機を自分で壊す気持ち、あなたに分かるの?あなたはゲームが一生できないことを嘆くより、ママからもう二度と信用されないということを心配しなさい!」

 

「(見かけ上)道徳的に正しいハラスメント」は、一見すれば倫理性が論理的裏付けによって担保されているように思われるのです。加害者は「正しいのは自分」、被害者も「正しいのはあなた」、そして周囲も「正しいのはあの人(加害者)」と錯覚してしまえば、関係は簡単に固定化・恒常化してしまいます。

 

親や恋人、教師や上司が、「相手への愛」を理由に攻撃を加えることがあります。「相手を愛しているがゆえ」という見せかけの献身や自己犠牲は、その裏腹にモラル・ハラスメントの危険を孕みます。フロムのいう「好意的サディズム」に他なりません。相手を自分より劣ったものと考える限り、その好意は相手への尊重を含まない迷惑千万な押し付けにしかならないのです。

 

最も質が悪いのは、加害者が無自覚である点です。時には真のモラハラ加害者があたかも何かしらの被害者であるかのように立ち現れてくることすらあります。「自分は被害者だ」、これほど相手に危害を加える上で好都合な大義名分はありません。そして真の被害者は、「自分こそが悪者だ」「自分は相手よりも劣る」といった自責の念のうちに、相手に反駁する気概さえも封じ込められてしまうのです。

 

潜在的加害者

このようにモラハラは無意識下で関係を蝕むことが多いといえます。自分がモラハラ加害者・被害者であると自覚することが、モラハラ脱出の唯一の糸口です。

あなたの周りにこんな人はいませんか?

「議論で相手を打ち負かし常に上位に立とうとする」人。「論破厨」。

「何かにつけて恩着せがましく、しかも『ありがとう』と言われるまで納得しない」人。

「責任を人に転嫁する」人。「自分は悪くない、お前が悪い」と言って憚らない人。

これらの条件に当てはまる人は、周囲に対して、とりわけ家族や恋人に対して、モラル・ハラスメントを働く可能性が潜在的に高いといえるでしょう。典型的な「質の悪いインテリ」ですね。

 

そして、こういう人も加害者になる危険性が高いといえます。

「コンプレックスが強い半面、自己顕示欲が強い」人。

「自分のことを愛しているか/大切に思っているかとしきりに訊く」人。

「猜疑心が強く、束縛傾向がある」人。

劣等感・欠損感の強い人は貪欲に自分を高めようとする一方、それでも満たされない承認欲求を何とか消化しようと、自分よりも劣る人間を手の届くところに置こうとします。

一向に満たされない「感謝されたさ」「謝罪されたさ」「尊重されたさ」「優先されたさ」「愛されたさ」「尊敬されたさ」。

このコンプレックスを直視することができなければ、無自覚のうちにその燻りは「感謝させたさ」「謝罪させたさ」「尊重させたさ」「優先させたさ」「愛されたさ」「尊敬させたさ」というサディズムに変換されてしまうのです。

 

アドラーと加藤

以上に述べたようなことは、「人は鬱ぎ込みたくて鬱ぎ込み、怒りたくて怒るのである」と説くアルフレッド=アドラーの心理学に通じるところがあるように思われます。もちろん僕の分析ではコンプレックスとそれに対する防衛機制というフロイト的な前提を置いているので純アドラー的な理論だとは言えませんが、それでもアドラーの警句は褪せることなく教訓を与えます。

社会学者の加藤諦三は「自分が幸せであって初めて相手を幸せにすることができる。『相手の幸せのために』という欺瞞は相手を隷属させるための手段に過ぎない」と言います。

 

なぜこの記事を書いたか

昨日、ある親しい方と激しい喧嘩をしました。僕は人目も憚らず叫んで暴れ狂い、僕が落ち着いたころには今度は相手の方がふっ切れたように怒りを露わにしたのです。なおその内実は、原因がほぼ100%僕にあるという全く分の無い争いでした。

その喧嘩を反省するうちに、僕はこれまでその人にしてきた仕打ちの愚かさと、自分の誤った信念に気がついたのです。他ならぬ僕自身、その人にずっとモラル・ハラスメントを働いていたのです。おそらく他の何人かにも同様の危害を加えていることでしょう。

「お前が言っていることは論理的には間違っている」「定義が曖昧で話にならない」「約束を破った奴の言うことなんか聞いてやる義理は無い」「理由はどうあれ嘘ついたんだろ?謝れよ」…こんな言動の連続でした。そもそも「お前」という呼び方をすること自体モラハラと呼べるでしょう。

そ して僕が抱いていた誤った信念、それは「論理的であれば必ず合道徳的であり、思いやりは完璧な論理を必要かつ十分な条件とする」というものでした。僕が執着しつづけていたこの大原則が破綻したのです。いやむしろ、破綻していたことに気付いたという方が適切でしょうか。「冷たい正論」の存在に、今更ながら気付かされたのです。

僕はその人との関係を今後も続けていきたい一心で、このようなラディカルで自己否定的な総括を行い、脱皮を図っているのです。

 

大切な人を、自分の道具にしないこと。

この教訓を杖として、新たな自分へと歩を進めようと思います。

長い長い自分語りになってしまいましたが、ここまでお付き合いくださった読者の皆様、ありがとうございました。

『語弊学』、ことばの量的限界と質的限界。

本記事ではことばの限界を整理して共有することで無用な争いを避けようという僕の立場、

語弊学」を僭越ながら紹介させていただきたいと思います。長文になりますがお読みいただけると嬉しいです。

 

通じ合えなさ、言い尽くせなさ

こんな経験はありませんか?

時間をかけて伝えたはずのことが先方に伝わっていなくて、イライラ……

文章の内容が何通りにも解釈できる、何が言いたいか分からずイライラ……

会議で長々と発言を続ける人にイライラ……

自分を責めているのか、一般論の範疇で単に助言をくれているのか分からずイライラ……

 

これは、ことばそのものが持つ根本的・構造的な限界によるものであることがほとんどです。

ここではその限界について僕が考えることをお話ししてみます。

明確な区別が出来るわけではないですが、説明の便宜のために以下では「量的限界」と「質的限界」に大別して類型を提示したいと思います。

 

量的限界

小学校の先生がクラスの児童にこんなことを言うことがあります。

「いま配ったプリントをお家に帰って『お母さん』に渡してくださいね」

当然、父子家庭の子もいれば、主にお婆さんが面倒を見ている家庭もあるでしょうし、親族と暮らさず福祉施設やお寺に住んでいる子がいるかもしれません。

「保護者=母親」と決まりきった認識をしている先生は今どきいないでしょうが、それでも上述のセリフはしばしば聞かれると思います。

『お母さん』の代わりに『保護者』『お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、施設の人、あるいはその他、自分の面倒を主に見てくれている人』などと言っても、小学一年生には伝わらないでしょう。

情報の厳密さやポリティカルコレクトネスを捨ててでも、大意が伝わることを重視して妥協しているのです。もどかしい。

(実際には『お母さん』ではなく『お家の人』という表現が選択されることもありますが、これも情報の正確性や伝わりやすさの点から言えば、折衷のバリエーションと言えるでしょう。)

 

このもどかしさを説明するのが、ことばの「量的限界」です。

・話すことを許された時間、スピード

・文章を書くことが許されたスペース

・使用が許された語彙の幅

こういったものがことばの量的な限界として挙げられます。

共通する性質としては、「許された範囲に収まるように、発信者が妥協してことばを削らなければならない」ということです。

スピード、分量、語彙。こちらを立てればこちらが立たずという葛藤。

なるべく正確でなるべく理解しやすい情報伝達を目指しても、目指すからこそ、何かを諦めなければいけません。

 

会議や電話が長引けば当然フラストレーションが溜まります。人の時間は有限なのです。

また、哲学書を小学生でも分かる語彙で書こうと思うと厳密さが損なわれますし、分量も膨大になります。逆に一般市民向けの講演で高度な専門用語を用いても理解は困難になり、かえって情報伝達の効率は下がるでしょう。

そもそも人間が集中して話を聞くことができる時間は限られていますし、聞き取れる・読み取れるスピードというのも大きな個人差こそあれ限度があります。

心理的、物理的あるいは生理的な量的限界に従わなければ、情報の伝達はままなりません。

 

冗長と晦渋との間を調停しなければいけない。「ことばのコストパフォーマンス」の要請は切実なものなのです。専門家同士のやり取りに専門用語が頻出するのも、簡潔な警句が人口に膾炙するのも、このためなのです。

どうすれば最も効率よく伝えることができるか。話し手・書き手は、受け手の処理能力に応じた取捨選択を迫られるのです。

 

質的限界

ことばの限界というのは、コストパフォーマンスの問題だけではありません。

より根本的な次元で、意味内容を共有することそのものの難しさというのが常に付きまといます。

これがことばの「質的限界」です。

 

ある言語を外国語に置き換える「翻訳」という営みはいかにして可能なのでしょうか。

ある言語が有する概念を、その言語の外側にいる人は理解することができるのでしょうか。

「猫」と「cat」あるいは「chat」は同じ概念なのでしょうか。

同じなのか異なるのかを確認することはできるのでしょうか。

 

これは複数の言語間においてのみ起こる問題ではありません。

同じ日本語話者同士でも、各人が各人なりの意味内容を前提してことばを使っています。

いわば「わたし語」と「あなた語」、人の数だけ言語があるようなものなのです。

 

ことばの定義を共有しようとことばを使うと、またそのことばの意味を定義しなければなりません。

前記事ではことばの定義の不可能性の一例として「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」に言及しました。

辞書が持つ2つの「循環参照性」 - コトバ、ハガユシ。

ことばの意味内容を共有しようとしても、そこには構造的な困難が横たわっているのです。

 

「わたし語」と「あなた語」との間の、乗り越えられない壁。

意味内容が共有されていない、というより共有されているかすら分からない、そんなことばを用いながら、僕たちは何となく通じ合っているつもりになっているのです。

 

ことばの定義だけでなく、解釈のルールも個人によって様々です。

なるべく字義通りに解釈しようとする人もいれば、メタメッセージを見出そうとする人もいます。

論理に忠実な解釈を常に行おうとする人もいれば、整合性よりも語感を手掛かりに意味を拾おうとする人もいます。

それぞれの意味内容があり、それぞれの解釈の原理があるのです。

すれ違いが起こってしまうのも致し方ないと言えるでしょう。

 

限界を知って

これまで述べてきたような限界があるからといって、ことばに依存した生活を続けてきた僕たちが急にことばを捨て去ることはできません。

ことばの有用性というのは、無視できないほど大きいのです。

 

確かにことばには限界があります。

しかし、量的・質的な限界を理解しているだけでも、日常で起こるすれ違いの多くは避けられるのではないでしょうか。僕は実際の体験からそのように思うのです。

 

スピーチで長々と話す人にイライラすることがあると思います。

難解な専門用語を多用する人にイライラすることもあるかと思います。

しかし、折衝困難な複数の量的限界を知れば、その中で話し手がいかに葛藤しているのかを察することができて、寛容に耳を傾けることができるようになります。

 

「約束したじゃないか」「いやしていない」という水掛け論もしばしば見られます。

しかし、定義の共有の難しさを理解することで、そもそも曖昧な約束は避けようという態度をとることもできます。

 

「そんな意味で言ったんじゃない」と苛立つことも多々あるでしょう。

しかし、ことばの解釈の多様性を理解することで「そう取れる言い方だったが、言わんとしたのはそうではなく、~」という相手に寄り添った換言へと前向きに歩を進めることができます。

 

無用な争いの根本的な原因を考えることで、「すれ違い」から「歩み寄り」に舵を切ることができるようになるのではないでしょうか。

ことばの限界とそこから生じる人々の葛藤や齟齬を整理することで、ことばとの理想的な向き合い方を模索する。いわばことばの「交通整理」。

このような立場を「語弊学」と呼び、これから突き詰めていきたいと思います。

語弊学、よろしくお願いします。お見苦しい長文、お読みいただきありがとうございました。

辞書が持つ2つの「循環参照性」

循環参照

Aという語の定義にAという語が用いられている──。

Pの根拠がQであり、Qの根拠がPである──。

このような、「根っこの無い論理構造」を「循環参照」といいます。

登場する文脈に応じて、「循環定義」「循環論法」などとも呼ばれます。

 

皆さんが小学校からお使いであろう国語辞典。

未知の言葉に出会うたび、「意識高い系小学生ワロス」との誹りも物ともせず、

ボロボロになるまで引きまくったことでしょう。いや、むしろ周囲から引かれまくったことでしょう。

しかし皆さんの“魂の教祖”こと国語辞典には構造的な問題があるのです。

 

2つの循環参照性

構造的な問題、それは2つの循環参照性です。

①語義の定義が循環的である。

②「正しい日本語」の根拠。通俗的用法と辞書的用法が相互に依存している。

1つずつ説明していきます。

 

語義の定義の循環

まず1つ目。

今のところ、すべての国語辞典では、語義の定義において循環参照が起こっています。

今回はコトバンクで提供されている大辞林第三版から例をお借りして説明します。

例えば……

 

【政治】

① 統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。 ② 国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。広義には,諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整することにもいう。

【為政者】

政治を行う人。為政家。

 

「こらこらこら~~!!」「待て待て~~い!!」「てやんでいっ!こちとら江戸っこでい!!」とお思いでしょう。お気持ちはよく分かります。

政治=為政者が民に施す施策

為政者=政治を行う人

政治=「政治を行う人」が民に施す施策

→為政者=「『政治を行う人』が民に施す施策」を行う人

→→……

こういうことですよね。

まあ「施す施策」という表現も気になりますが。

 

政治という言葉の意味が分からず調べてみると為政者という言葉が。これも知らない語…

そんな人にとって辞書は極めて無力です。

母語なら予備知識で多少は分かるかもしれませんが、外国語を学習する際には大きな壁になります。英英辞典や仏仏辞典を使うと実感できると思います。
 

実際、すべての語を網羅的に定義しようとすれば、必ず循環参照は発生します。

論理学においては「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」として知られている現象です。

インテリパンチ!!!好感度が485下がった!!!

 

「正しい日本語」論争

2つ目の問題はよりスケールが大きいもの。

正しい日本語を規定するのは、辞書なのか、それとも慣用なのか。

 

辞書の定義は実際に言葉が使われている例文を採取してまとめたものです。

 

しかし実際に言葉を使う場面では、言葉の正しさは辞書に規定されることがよくあります。

(そもそも辞書はそのためにあるんでしたね。忘れていました。)

 

まさに辞書の定義と実際の慣用とは相互に参照しあう関係にあるわけです。

辞書の定義と慣用がズレた場合、修正されるべきはどちらなのでしょうか……?

 

辞書の心もとなさ

このように、辞書というものはほとんど基盤を持たない建築物のようなものなのです。

構造上の欠陥であり、解消できればそれがいちばん良いのですが、

ひとまずは言葉の拠り所の無さ、不安定さというものを理解しておくことが望ましいでしょう。

言葉の使い方に起因する行き違いの根底にこのような不安定さがあることを分かっていれば、

自分と相手との「かみ合わなさ」を俯瞰し、整理することが可能になるかと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤りや不明瞭な点がございましたら、コメントを残していただけると幸いです。

「握りこぶし」は重言か?

重言リダンダンシー

馬から落馬する」「頭痛が痛い」などという表現が、正しくない言葉遣いの例としてしばしば取り沙汰されます。

English language also has a variety of different examples of redundancy, too, such as "at nine a.m. in the morning," "Can you repeat it again?" and etc. みたいな感じですね。

このような「近接箇所に意味内容が重複する語を配した言明」を、「重言」と呼ぶことがあります。「近接箇所に配する」というのは、一文のうちに、特に直接の主述関係や修飾関係にあるひとまとまりの語群中に含むことを指しています。

 

今回は「一見すると重言のようにも思われるが、実際には重言だと咎められることなく用いられる表現」について、「握りこぶし」を具体例として取り上げながら考えたいと思います。

 

「握り」、「こぶし」

「握りこぶし」という言葉は、ごく普通に用いられます。もちろん、「拳」イコール「固く握った手」です。「握る」と「拳」は完全に意味が重複しているのにもかかわらず、この言い回しに違和感を持つ人は少ないでしょう。

Googleで【握りこぶし 重言】と検索しても、これを指摘している記事は見つかりません。

 

なぜでしょう???考えてみました。

 

いざ考えてみれば、「馬から落馬する」と「馬から落ちる」は同じことを言おうとしているのに対して、「拳」と「握りこぶし」ってそもそも意味が違いませんか?

 

「拳」というと、暴力性・攻撃性が示唆されるのに対し、

「握りこぶし」というと、そこからの暴力・攻撃を想像しにくい。

……というのが、僕が納得できる仮説です。

 

というのも、「拳→殴る」などという連想は成り立ちますが、

「握りこぶし→殴る」などという連想は成り立ちにくいからです。

 

「拳」は「殴る」「打つ」等の行為の手段として、動作の起点となることができます。

それに対し、「握りこぶし」はすでに「握る」という動作の終点なので、他の行為の手段として使う場面を想像するのが難しいのでしょう。

このような違いから、「握りこぶし」という語は「拳」と区別される独特の意味合いを持つ語としての地位を与えられているのだと僕は考えています。実際「握りこぶし」という表現は怒りや悔しさといった感情を噛み締めるような文脈で用いられることが多いのではないでしょうか。

 

また、「握り拳」ではなく「握りこぶし」と平仮名で表記していることによって暴力性が和らいでいるのではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

確かに「にぎりこぶし」<「握りこぶし」<「握り拳」の順で暴力的な趣きは増すと思いますが、僕にとって最も据わりが良い表記が「握りこぶし」でした。今回は暫定的にこの表記を採用しているに過ぎず、「握り拳」としても持論に変化はありません。

ただ、「握り拳」よりも「握りこぶし」の方が据わりが良いと感じるのも、やはり暗示される非攻撃的な語感を反映してのことでしょう。非攻撃的な「ニギリコブシ」を表記するにあたって攻撃性を示唆する「拳」という字を用いるのには抵抗があるということです。

 

日本語において重言が忌避・許容されるのはどのような場合か

僕の仮説が正しければ、「握りこぶし」は「拳」とは別のニュアンスを持っています。それに応じて使用される場面も異なります。

重言を指摘するにはその代替となる非重複的な表現を脳内で想定する必要がありますが、このようにニュアンスが違うならば余分に見えた部分もそのニュアンスを表すのに不可欠だったのだと分かるはずです。

 

重言が忌避されるのはなぜでしょうか。その理由は「長くなる割に新たな意味合いが付加されることがない」から、つまりコスパが悪い」からに他ならないでしょう。

逆に、少し重複的な言葉を足すことでかえって効率的に別のニュアンスを表現することができるならばそれはコスパの良い」表現として、正当な言葉遣いという地位を得ることができるのです。

……というのが結論でした。

 

(ちなみに「ずつうがいたい」と「あたまがいたい」は音数と意味が同じですが、「ずつうがいたい」には違和感があります。これは、音声よりも文字に対する指向性の方が強い日本語において、聞き取りの際に「無意識の漢字変換」のような現象が脳内で起こっていると考えれば経験的に納得できると思います。)

 

最近疑問に思ったことをスッキリ説明できる仮説に思い至ったのでこんな文章を書いてみました。感覚重視で話したので共感できない方 は読んでいて退屈かもしれません。独善的な文章なのは自覚していますが、僕と同じような感覚を持つ方にとっては腑に落ちる説明になっているのではないでしょうか。

「言葉のコストパフォーマンス」については、「言語表現の量的制約」という概念を持ち込んで場を改めて論じたいと思います。

いない人、いますか?

いない人は、いない。

ある文芸サークルのLINEにこんな一文が見られたとします。

「今日の16時から例会やります~!!製本前ラストです。

一応全員そろうのが理想なんだけど…帰省とかで今日いない人いますか?」

何の変哲もない文章です。

しかし、「いない人がいる」という文は一見矛盾しているようにも見えます。

一方「いない人がいない」というのも、一見すれば自明です。あえて聞くまでもなく、いない人はいない。

ではこの質問がナンセンスなものではなくきちんと意味を成すのはなぜでしょうか。

今回はこの文を手がかりに言葉の暗黙の多義性について考察したいと思います。

 

隠れた多義性

日本語には「おはようございます」という朝の挨拶があります。

この「おはようございます」ですが、実際には様々な意味合いで用いられています。

  1. 朝だれかに会ったときに「おはようございます」
  2. いま起きたばかりの人に「おはようございます」
  3. その日会うのが初めての人に「おはようございます」

一部の飲食店や芸能界などでは、出勤時に「おはようございます」というのが通例となっている場合もあるようですね。

元々は1.の意味で使われていたこの挨拶も、

「朝→起床(2.)」「朝→その日初めて顔を合わせる(3.)」というように意味の幅を広げ、今では多義的に用いられているのです。

 

「結婚(婚姻)」という言葉も多義的です。

たとえば「婚姻の届出の成立要件説/効力要件説」という法学上の2つの立場があります。

婚姻届を提出してはじめて「結婚」が成立したものとするか、

婚姻届の提出がなくても「結婚」は成立し得るが、法律上の効力は婚姻届を提出しないと発生しないとするか。そういう2つの見解があるのです。

また、結婚の成立時期だけでなく、結婚の意味内容も多様なのです。

財産の共有、貞操の相互独占、家系の交差、などなど、民法に見られるだけでも実に多様な意味内容を含む語なのです。

民法は結婚の定義を明記せず、それでいて様々な法的意義をそこに認めているのです。

社会通念としても、事実婚(内縁)、別居婚同性婚などを結婚と認めるかについては意見が分かれそうです。

小泉花陽ちんは俺氏の嫁ですぞ、ンフーッ!!」みたいなことを言う人もいますが、これについても見方は様々でしょう。なんて優しい世界。

 

ほとんどの言葉は多義的です。

僕たちは言葉の多義性を巧みに利用しながらコミュニケーションを円滑に進め、

しかし往々にしてその多義性に翻弄されてしまうのです。

 

「いない」の2つの意味

「いない人いますか?」という最初の文に戻りましょう。

どうも、「いない」という語には3つぐらいの意味があり、その意味を僕たちは暗黙のうちに使い分けているようなのです。

  1. 物理的に、その場に居合わせていない。不在である。(「レジに誰もいない。」)
  2. 概念として、カテゴリー上存在しない。(「チーターより速く走れる人なんていない。」)
  3. 死んでしまって、もう生存していない。(「愛した母は、もういない。」)

3.は、「愛した母は、私のそばにはもういない」という1.のニュアンスと、「私には母と呼べる人がもはやいない」という2.のニュアンスが含まれています。母が生きていたころを思い返して、しかしもはや「そのような人」はどこにも存在しないのだ、という感傷であり、1.と2.の境目に死が横たわっているのです。

さて、「いない人いますか?」ですが、

最初の「いない人」は1.の意味合いで、「サークルが開かれる場に居合わせていない人」を表しています。

後ろの「いますか?(いるかいないか)」は2.の意味合いで、「サークルのメンバーにそのような人が含まれているか」ということを言っています。

 

一見ナンセンスであるかのような「いない人いますか?」という文は、そのような「いる/いない」の暗黙の多義性によって意味をなしているのです。

 

くだらないことのように思われるかもしれません。

しかしこのような暗黙の多義性を意識できれば、言葉の意味のズレから起こる無闇なすれ違いを避けることもできますし、自分の文章が正しく伝わるかのチェックにも役立ちます。

 

最後までお付き合いくださりありがとうございました。