エフェクターに眠る音
年をとるとどうも、自分の中の常識とか、生きてきて解ったことが当たり前のようになってくるのでいけない。知識をひけらかして満足するようになるのもいいんだけど、ね。僕らの周りを生きる普通の人はきっとダニーハサウェイのLiveを知らないだろうし、アル・ディメオラなんて一生知らずに生きていくのだろう。だけど、僕の周りの人も似たようなことを思ってる。物事の専門性。専門に深くかかわるのはとても良いことだけどそこだけに耽美してはいけないと思う。ニーチェやデカルトを知らない人を、そのことで馬鹿にしてもその人は僕の知らないことを知ってるだろうからきっと、結局同じことなのだろう。お互い20数年生きてきてるわけなのだから、知識の多寡に問わずやはり人間を尊重しないといけないと、そう思った。
僕の知り合いが言っていた。「人間なんて挨拶と金の勘定ができれば大丈夫だ!」と。結局、いろんなことを勉強しても、どんなに知識が身についても、どんなに頭が良くなっても、何ができてもこれはとても大事なことだと思う。そう考えると、知識を身につけることは一体何になるんだ?とか思っちゃうけど、まあこれは自己満足ということで。眠い。
敢えて
勉強してるといつも「自分は馬鹿なんじゃないか」と思う瞬間と「自分は天才なんじゃないか」と思う瞬間がある。こういう謙虚と自信が上手く釣り合う状態になって安定した勉強が出来るんじゃない?とか経済学めいた事を思った。けれども、そういった安定状態は結果的に僕がある瞬間から歩いてきた人生を総括したときにそう思えるだけであって現実は必ずどっちか極端に偏ってる。物凄く極端な例でアレだけど受験した時を考えると高三から浪人の期間が「馬鹿を認識する」期間だとしたら大学に合格した瞬間をバランス状態として大学に合格以降を「俺ってスゲーんじゃ!」とした時、この7年という期間(受験期二年+大学在学期五年という内訳。なんで在学期が五年なんだとかは聞かないでください)のうちバランス期はどう多く見積もっても一ヶ月ほど。そうするとやはり大半の時期はどちらかに偏ってる事が多い。つまりここでバランスというモノは本当に一瞬しか維持できないモノなんだと解る。バランスは確かに理想なんだけど実際問題は維持できない。だから左なり右なりに傾いた状態が人間の大半を彩ってると思えば別に多少なりとも極端だろうが良いんだ!と思える。「バランスが大事だよ!」とかよく言われた事に納得しながらも「んな簡単にバランス取れたら苦労しねーよ!HEHEHE」とか思ってた。けど、僕も知り合いに対して「バランスだよ!バランス」とか長嶋英語の如くつぶやいていることに酷く矛盾を感じていたから、まあこんな感じに考えときゃいいんじゃないのとか思った。
親
最近は母親と歓談するとそれが口論になることが多くてうんざり。24年間暮らしてきて解ったのはお互いが全く逆のモノで構成されていて、考え方そのものが合わないということだ。よく考えてみると父親は毎年欠かさず不倫をしてて、それに対して母親はそれを容認しながらも気味の悪いほど「私は捨てられたくないの!私を見てよ!」みたいな態度や行動をとる。過剰で、時々怖くなることがある。僕はそれを年に一回は発生するギャグみたいなイベントとして捉えていたけど、ギャグとして捉えられるようになったのはここ5年以内だ。それ以前、僕はその行動をどう思っていたのだろう。全く思い出せないけど凄く嫌だったんだろうな。そりゃそうだ、そんなことが起こって良いという人間がいるもんか。
母は僕をよくパチンコに連れて行った。僕はそれがとても嫌で嫌で仕方がなかった。あまり玉でゲームなんかを取ってもらったけどそれでどうかなる問題でもない。彼女はきっと覚えてないだろうけど、日差しが強く目まぐるしいほど暑い夏の日僕はパチンコ屋の駐車場の前で放置された記憶がある。田舎のパチンコ屋だったので入室を拒否された僕は記憶が定かではないけど車の中か外で待っていた。どのみち物凄く熱くて喉がからからで、僕はなんでこんな目にあわないといけないんだろうと考えていたのを良く覚えている。
父親と一緒にキャッチボールしたとか、遊んで貰った覚えは全くない。きっと少しはあるんだろうけど、それは僕にとって余程印象の薄いことだったんじゃないか。母は過剰なほど過保護に僕を育てた。自立する機会も何度か失われたしどちらにしろ親がそれを許さなかった。自分の息子を愛しすぎるが故に結婚をしたら今までの時間が全て失われ、そして裏切られたと思うだろう。最近でも「結婚を境に親と子どもは他人になる」と発言したのは僕にとってやはりショックだったのかもしれない。
生きてきた年数が多い方が偉い、とかおまえの言っていることは全て理屈だ、ん十年生きている私の考えの方が正しいに決まっているとかとか私は良い人間と主張する割に猛烈に他人の悪口を僕の見てる前でいう矛盾だとか。僕は親のことは嫌いじゃない。けれど、今はもう疲れすぎていて、必要以外の会話はしたくない。こういうのを「親の気持ち子知らず」というんだろうな。でも、幾ら血が繋がっていたとしても別の人なんだから解るわけもない。
テレビに関してつらつらと。
うちの親がみのもんた系の番組や二十うん時間TVに対して真に感銘を受けているのを見ると大変苛立つのは何故なんだろう。「感動の安売り」とか「偽善」を許容できないのは、やっぱり僕が狭量な人間であることの証左なのか。
ドラマも殆ど見ない。こういう連載モノとか物語モノってネタバレとかしても何とも思わない人間なのでいきなり結末を知りたがる。例えば単行本でも最終巻から引き出せる情報を類推してそこに至る過程を想像することが多い。まあ、当然想像と現実が一致することは殆どないんだけど、それじゃあ僕はなんのためにこれをやっているのか?そういう自己分析を行ってみるとそれはたぶん予定調和を求めてるからだ。きっと。
TVを見ない僕が朝クソ早く起きて日テレをつけたらなんか視聴者の批判のはがきを読んで自己批判する番組をやってた。重箱の隅をつつくようなどうでもいい言いがかりから実に言葉に対して真摯な人が真摯な批判(当然の如く極わずか)してたりとなかなか面白かったと思う。他の放送局もやってるのかな。
眠りすぎて頭が痛い
表題の通り、眠りすぎ。
眠りすぎといえば、寿町の事を最近よく思い出す。以前、横浜近辺を散歩していたときに迷い込んだ所で、みなとみらい・ランドマーク・元町・中華街と華やかな場所が目立つ場所にぽつんと日雇い労働者の町。仕事もないおじさん達が道ばたで寝てるのをみて、絶望が渦巻く町だなあと漠然と感じたのを覚えてる。そんなおじさん達を麻薬の売人とかが蝕んでたりして、さらに悪循環になってるんだけどまあそんなことを思い出すということは僕の最近の生活にも思う節があるからだろうな。長い休みは僕を堕落させる。いっそのこと、長い休みなど要らない。夏休み・冬休みなんて不要!とか思っちゃう。やっぱり適度に何かに帰属していてある程度の強制を与えられた方が楽だなあ。そう考えると、浪人したときとかよくもまあ真面目に勉強していたものだと真剣に思う。もう少しストイックにならないといけないなあ。