青春を摂取する
私は甘酸っぱい青春というものを体験したことがない。
同性の友達は多くいつもワイワイガヤガヤとしていたのだが、どうも異性の前に行くとそのワイワイガヤガヤは心の中に引っ込んでしまう。
理由は何であったろうか。
昔の小さな私に問いかけると自信がないからなんだと白状した。
子供の時分の自信などくだらないことでしか形成されないではないか。
そんなもののせいで薄ら暗い青春時代を送ってしまったのか。
そう今となっては嘆くがよく考えてみると子供はかっこよさが命。
カッコよさ=自信であった。かっこよさとは顔がいいだとか、運動が出来るだとかだ。
庭で土いじりをしていた私にはカッコ良さなど微塵も手に入らないものである。
そんな土と虫としか触れ合いがなかった私に、人との触れ合いをどうしろと言っても難しい話であろう。
じゃあ時を戻したら私は青春を謳歌できるのか。
じっくりと想像してみたが想像の中の私は相も変わらず土をいじっていた。
どれだけ土が好きなんだ私は。困った子だ。
想像の中の私にそんなに土ばっかりいじっていたら、楽しい青春は送れないぞと脅しても先のことは知らない。とむかつくことをいう始末だ。
なんて頑固な子だ成長した姿を見てみたい。
私はもうあきらめた。こんなことをしても無駄なのだ。もしなんてことはこの世には存在しないし、人は生まれながら進むべき大きな道は決まっていて、小さな道を違ったところで性分などは変わらないのだ。きっとそうだ。
人にはそれぞれ役割があって、割合があってキラキラしないやつがいるからキラキラするやつが目立つのだ。みんなキラキラしていたら夜空は明るくて何も見えないだろう。キラキラしている奴らはすべからく私に感謝すべきなのだ。
君はキラキラかい?
キラキラだと思うなら夜空が移った水面で自分をよく見てみるといい。
金メッキがはがれているから。
君の道を見誤ってはいけない。キラキラを追いかけて進んでいくとどこかでキラキラに追いつけなくなる。追いつけなくなった時に足元を見るときっと君の道は見えなくなっている。キラキラに目がくらんだんだ。迷っているんだったらそっと自分の足元を見てみるといいきっと君の道がまた見えてくる。
人間が鳥になれないようにキラキラじゃないやつがキラキラになることはできないんだ。
そんなあきらめがついてしまった青春も終わりかけの私が、それを手に取ったのは至極合理的な選択だったのかもしれない。前述を参考にすればそれがまさに私の道だったのだ。
小説はいい。私ではない誰かキラキラした人のもしが見れる。漫画もいい。誰もがうらやむようなもしを集めるだけ集めている宝箱のようじゃないか。
私は物語の中では自由にもしになれた。
金魚の姫様と運命を描いたり、妻の心の診察が出来ない精神科医になってみたり、自分の膵臓を憎らしく思ったり、世界を救ってみたり、親父を探してみたり、エジプトに行ってみたり、炎を体にまとってみたり。
みんなキラキラだ。現実では背伸びしたって届きやしないのにこの中では簡単に手に取ることが出来る。
私のような奴はそのキラキラを摂取しなくてはならないのだ。そうやってキラキラを摂取すると私たちはさらに光を失って鈍く、黒く輝くのだ。
勘違いしないでほしいのは私は卑屈になっているわけではない。キラキラしている奴らに自慢しているのだ。どうだ私は黒いだろ渋いだろお前たちは何だそのキンキらはダサいじゃないかと。これが私の味なのだ。個性なのだ。ただキラキラしている奴らには出せない素晴らしいものなのだ。
だから私は今までよりも黒く輝くために青春をウィダーインゼリーのようにチュウチュウとすっているのだ。
その温かくないとても冷えた青春を。
言霊と呪いについて考えてみた
皆さんは言霊を信じますか?
因みに言霊とは文字通り言葉に何かしらの力が宿るというもので、その力を呪いに使ったり、除霊に使ったりとなかなかに便利そうなオカルティックパワーのことです。
私はあるんじゃないかと思っています。
流石にオカルトが好きな私でも言葉だけで除霊とかはできないと思いますけど、呪いは言葉だけでも十分にかけられると思います。
この科学の時代にオカルトなんてもってのほかだと思うかもしれませんが、これに関してはオカルトではないと思っています。
「3時のおやつだ!」と聞いて皆さんはどう思われますか?
おなかが減ってきたり、ほほえましく思ったり、仕事をちょっと切り上げて休憩するかなんて思うかもしれません。
「三時のおやつだ!」に反応して皆さんの行動が変わったのなら、言霊に影響されたと言えます。
え、そんなものが?と思われるかもしれませんが、オカルトの正体などそんなもので片付けられるのです。
結局何が言いたいのかというと言霊とは言葉の意味に作用されただけのことです。
なので言葉で呪いをかけるなんてものは簡単なのは理解していただけると思います。
具体的に言うと毎日毎日対象者に言葉をかけてあげればいいのです「お前って本当に使えないよね。」と。
気の強い人には効きませんが、気の弱い人には効果覿面!1か月もすれば職場から姿を消してしまうでしょう。
幼少期のトラウマも言霊によっておこることは多いそうです。
私は最近思うんです。悪い言霊を使う人が増えたなって。
まあ恐らく顕在化しただけで昔から多かったんでしょうけど。
特に多いのはクレーマーでしょうか。
何の罪もないバイトに罵詈雑言を浴びせる人、自分が神様のように上からものをいう人。
ストレスが溜まっているのはわかります。きっとああやって人に攻撃する人はほかの人に攻撃されているのでしょう。
でもだからと言って人に攻撃をしていい理由にはなりません。
攻撃の連鎖が続いていくと最終的には人に当たれない心根の優しい人にたどり着き、その人に強いストレスを与える結果となる。その負の連鎖が呪いなのでしょう。
因果応報とは言いますが人間今が大事。人に平気で攻撃する人間が来世では地獄に落ちるといえども、攻撃された人はそんなことで気は収まらないでしょう。
結局優しい人や正しい人、弱い人が損をするようなことはあってほしくないことです。
負の連鎖を始めないように皆さんも“言葉”には気を配ってください。
“言葉”は人を変える力があるのです。
なんだか宗教的な話になってしまいましたが、言葉の力については様々な形で研究されていて、今回私が取りあげたような言葉が他人に与える影響のほかにも、言葉に発することで自分に作用する言葉の力もあります。
興味がある方はこの記事でも読んでみると面白いかもしれません。
皆さんも心に余裕をもって人に接してください。
余裕がないときは少し人から離れてみましょう。
決して他人に当たらないように心がけて下さい。
友達だと思ってたのにという現象
あなたは友人と同じ気持ちなのでしょうか?
あなたは友達と思っている人は果たしてあなたのことを友達だと思っているのでしょうか。
こんなデータがあります。
お互いに友達だと思っている人はこんなにも少ないとは驚きです。
これはその人の友達のハードルの高さなど、性格にもよるところだと思いますが“友達だと思っていたのに”ということは結構なことであるということだということです。
さて、このような“友達だと思っていたのに”という現象はなぜ起こるのでしょうか。
これは思うに友達の価値の違いなのかと思います。
例えば彼女がいないA君と、彼女がいるB君の場合どちらの方が友達の価値は大きいでしょうか。
遊ぶときや買い物に行くときに友達だけでなく、彼女という選択肢が出来るので必然的に友達の価値が下がってしまうと考えることが出来ます。
そのためA君とB君が友達だった場合A君が遊ぼうとした場合、B君と遊びにくくなってしまいます。
なのでA君が今まで通りの時間遊びたいとすると、新たな友人C君と遊ぶ必要が出てくると考えています。
そうするとA君がC君と遊ぶ時間が増え、B君と遊ぶ時間が少なくなっていきます。
しばらく経って彼女と別れたB君がA君と遊ぼうとすると「今日はC君と遊ぶんだ。」といわれてしまう。そうするとB君は“友達だと思っていたのに”となるわけです。
これはたとえB君の中でA君の価値が変わっていなかったとしても、A君の中でB君の価値がC君より劣ってしまったために起こった現象なのかと考えています。
このような現象は姿かたちを変え、多くの友人関係を崩してきたのではないでしょうか。
今回は彼女でしたが、趣味、金、場所そういった綻びによって、対等に近かったはずの友人関係が崩れてしまうというのは往々にしてあることでしょう。
皆さんも自分の価値が相手から見てどの程度で、それは唯一無二のものなのか、それとも変わりがきくものなのかよく認識しておいた方が良いです。
少しでも対等じゃないと思った人は少しでも手を打つことをお勧めいたします。
最近“友達だと思ってたのに”という現象にあった私からお送りいたしました。
美味しいって何だろうか
この間都内にラーメンを食べに行きました。
私はラーメンが好きでいろいろなところへラーメンを食べに行きます。
特に全国でおいしいと評判の有名店によく足を運びます。
今回も例に漏れず結構有名なお店に行きました。
そこは塩ラーメンをメインにしているお店で多くの賞を取っていて、ネットでの評価もかなり良いお店でした。
これだけのお店ならさぞかしおいしいんだろうと私はワクワクしながら待っていました。
そうして私のところに来たラーメンはとても透明感があるきれいなスープで、具の色のバランスがとても良い洒落た感じのラーメンでした。
期待に胸を膨らませてまず一口スープを啜ってみた。
そうしたら私が感じたのは「うまい」じゃなくて「うすい」でした。
そんなはずはない。これだけ有名な店だ。私の勘違いだ。と思いもう一口啜ってみてもやっぱりスープは薄かった。
下の方から掬ってみても味は変わりませんでした。
しかし、ラーメンは総合評価。麺がとてもおいしいのかと思って気を取り直して麺を啜ってみたものの、ちょっとした塩味と麺に絡まる油しか私には伝わってはこなかったんです。
自分の舌にはそこそこ自信があった私が食べ終わった後にした行動は仲間探しでした。
自分のようにおいしくないと感じた人が実は多かったのではないか。そんな一縷の望みにかけてネットの評判を読み漁ってみたが、だれもかれも素晴らしいラーメンの一点張りで、あんまりおいしくないなんて言っている人はそんなにいませんでした。
そうなってくると悪かったのは私の舌ということに他ならないわけです。
だが本当にそれでいいのか。ほかのラーメンのうまさの違いはわかっていたのに今更舌がばかになるということがあるのだろうか。
そうして、自分の舌を信じた愚か者の私は結局おいしいとは何だろうかと考え始めました。
調べてみたところラーメンには無化調か否かというものがあるらしい。
無化調とは化学調味料を使用していないラーメンのことを言って、私が今回食べたラーメンも無化調でした。
無化調ラーメンについて調べてみると、無化調はおいしくない、ラーメンをおいしくするには化学調味料は必要とする話が散見できました。
よく考えてみると現代の食事のほとんどに化学調味料は使われています。
コンビニの弁当や、スーパーのお惣菜、外食チェーンの料理、果ては家で作る味噌汁にも化学調味料を使っている場合がほとんどでしょう。
そして、果汁が1%ぐらいしか入っていない炭酸飲料をおいしいと感じて飲む。
無化調を正義とするならこのような紛い物はすべて悪となってしまいます。
しかし、これらのものがまずかったら売れるはずもなく、どれもこれもとてもおいしいのです。それが作られたまやかしの味だとしても。
話を戻しましょう。私が食べたラーメンはおいしかったのかそれは私の中では否だった。そう言った結論になります。
勘違いしないでほしいのはこれは私の好みの問題というわけではないということです。
これは私がおいしいと知覚できなかったからおいしくなかったといえます。
つまり、認知の問題だと考えています。
認知は様々な要因によって引き起こされます。
食べものに関する認知で一番わかりやすいのは「芸能人格付けチェック」だと思います。
人間は様々な要因を総合して評価するので、目が見えない状態で物を食べたときに正確に評価するというのは非常に難しいことです。
さらに、おいしいと言われて食べれば自然とおいしく感じますし、体裁を気にすればおいしいと言わざるを得ないこともしばしばでしょう。
結局人間はそういった認知による影響を多大に受けています。
よって、認知できなければないものと同義のように、おいしく感じなければおいしくないのは道理ということになります。
そう考えると私は情報に流されない優秀な自己を持っているということになるのかもしれません。
ということで今回は私のグルメな馬鹿舌について屁理屈を並べたことをお許しくださいアーメン。
人を機械のようにもっといたわるべきだと聞いて思うところ
人間だって機械のように労わるべきだというとてもよい文章がこちらになります pic.twitter.com/XZ2r6cbYwN
— あるふ (@alfredplpl) 2017年2月6日
「人も機械のように労わるべきだ。」
とても心に刺さる言葉です。
確かに言われるまで気が付かなかった。
どんな丈夫なもの、いいものでもメンテナンスを怠るとダメになってしまう。
私は革製品が好きでいろいろな革製品を持っているのですが、この革製品が少々厄介で定期的に栄養補給をしてやらないとすぐ表面がカサカサして、ひび割れが出来てしまう。
しかし、これを怠らずにやってやると革製品は10年でも20年でも持つ。
そのメンテナンスが面倒だと思う人もいるかもしれないが、手塩にかけた分だけそれに愛着がわくもので、オイルを塗りこんで丹精込めて磨いた直後の革の輝きと滑らかさを見ると、なんだかそれが自分に笑いかけてくるような、心が通じるような感覚を味わうことが出来ます。
それはものがしゃべったり、意思を持つわけではなく、自分が手間をかけた自分の心や思いと対峙しているのだと思います。つまり、自分の行いが自分に返ってくるということだと思います。
きっとこれは人同士でもあることで自分が手塩をかけて育てた部下には愛情が湧くものです。
そして、人の場合はその愛情に報いようとしてくれるし、返すように自分も部下が出来ると同じように親身になる。
こういった良い連鎖というのを起こしていくとどんどん世の中よくなっていくような気がします。
人に対して、物に対してぞんざいに扱えば負が溜まる。その溜まった負は繰り返され、綻びになる。そう言った連鎖がつながれば世の中悪くなる。
その結果が今のくすぶった日本ということかもしれません。
こういったことは綻びが生まれてからでないとわからないものです。
高くて大切にしようと思っていたもの、自分が大切だと思う人に気が付かないうちにぞんざいな扱いをしてしまう。
そして、綻びが生まれて初めて自分の扱いの悪さに気が付く。
私は良い連鎖を起こしていきたい。悪い連鎖は自分で断ち切りたい。しかし、自分で受け止めれば必ず綻びとなるので、悪い連鎖を起こそうとする上司に気持ちよく返してやりたいものです。
恵方巻ノルマについて思うところ
今コンビニの恵方巻ノルマについて話題になっていますね。
コンビニは契約店長の過酷さについて度々話題になっていましたので、恵方巻にノルマがあっても何ら不思議ではありません。
寧ろ契約店長のあり様から考えると明るみに出てないだけで、もっとほかの問題もあるかもしれません。
さて、このようなノルマ制はコンビニだけの問題ではありません。
昔私がアルバイトをしていた飲食店でもノルマはありました。
その飲食店の場合、ノルマの他に同チェーン他店舗との売り上げを競うというものがありました。
ノルマもさることながら他店舗に後れを取っていると、上から言われるそうです。
なので、キャンペーン商品などの時期になると、社員の方々のご飯はそればかりになります。
上からの評価が出世に大きく関係しますし、出世すれば店舗で忙しく働くということもなくなるので頑張るそうです。
気の毒に思った私やほかのバイトの人たちもたびたびキャンペーン商品を買っていました。
こういった外食チェーンの社員の方々の仕事は過酷そのものでした。
最近はアルバイトが減ってどこも人員不足です。
私がいたそのバイト先も例外ではなく、いつも人が足りないという状況でした。
そのような状況下で足りない人員の埋め合わせをするのは社員、特に店長の役目でした。
店長は5時間眠れればいい方で、土日祝日は16時間ほど働いていました。
そして、シフトじゃない日でも書類などをまとめたりするのにほとんどお店に来ていました。
そんな状況だと本来残業時間がたくさんつくのですが、あんまり残業がつくと上に怒られるので店長自ら自分が働いた時間を消していました。
このような末端の人々に上の無能を押し付けるような状況は本当に我慢なりません。
店舗で恵方巻が売れないのはマーケティングの問題、バイトが増えないのも時給や待遇の問題で必ずしも店舗ごとの問題ではありません。
私がバイト時代にすごく不思議に感じていたのは本部の人が、店舗の店長に「頑張って売り上げを上げろ。」というんですね。でも店舗ごとの努力なんてものは微々たるものです。
あとで話しをきいてみると店舗ごとの努力は顧客満足度を上げるぐらいしかないそうです。
確かに少しは売り上げに貢献することかもしれませんが、それだけで大きく売り上げが変わるとは到底思えません。
そして、顧客満足度に必要な提供の速さやサービスの向上は店舗の社員やバイトを酷使して得られるもので、本部の人が努力するわけではない。
なんだか熱を入れるところが違うんじゃないか。
恐らくほかの外食チェーンも似たような状況であることは想像できます。
もう現在は色々なものが飽和状態になっていて、ほかに差をつけようとするとどうでもよい、本質ではないところに気をかけてしまう。
このままでは掃除機のときみたいに革新的なものが登場すると一気に今までのものが終わってしまうんではないでしょうか。
もう少し危機感を持ってほしい。というより自分たちの置かれている状況をきちんと理解してほしい。
最近どこでも言われていますが、日本の過剰なサービスは絶対に自分たちの首を絞める結果になる。
クレーマーとかももっと穏やかに生きましょうよ。
臆病者ほどよく吠える。あなたは何におびえているんですか。
クレームという攻撃に使われたエネルギーは必ずどこかに残る。
その場でクレーマーにそのエネルギーを返せればよいのですがそうもいかない。
必ずクレームを浴びせられた人の体にそのダメージが残る。
それが積み重なって人は死んでいく。
クレームで殺されたといっても過言ではないかもしれません。
もうほんとクレーマーなんてものはお客でもなんでもないわけですから、あんまりうるさいときは実力行使でぶん殴ってもいい気がします。
結局ああいうタイプは痛い目見ないとわからないでしょうから。
本当にみんなもっと寛容に生きましょうよ。
今は待ち時間がたくさんあったってスマホがある。
赤ちゃんがうるさかったらイヤホンでもすればいい。
月並みですが自分たちが行き過ぎたサービスを受け取るとき、ほかのだれかが行き過ぎたサービスを提供している。
何事にも犠牲はつきものですが本当にそれでいいんでしょうか。
趣味の今後について考える
皆さんの趣味は何ですか?
私はいわゆる多趣味でいろいろなことを浅く広く趣味としています。
ゲーム、読書、食べ歩き、音楽鑑賞、アニメ、漫画、ファッション、ブログの執筆等々。
私の娯楽はこの多くの趣味たちを好きな時にする。詰まる所やりたいことをやりたいときにするということです。
私の趣味の例を見てわかる通り近年の趣味は多種多様です。
これはネットの普及が大きく関係していると思います。
理由としてはどんな珍しい趣味だとしても趣味を共有できる人、理解してくれる人が必要です。
それはそういった人がいないと趣味に対するモチベーションが低下して長続きしないためです。
なので簡単に自分の趣味を共有したり、理解者を探すことが出来るネットの普及で今まで趣味足りえなかったものが趣味として成立できているのだと思います。
このサイトを見てみるとたくさんの趣味があって面白いです。
この趣味の多様化によって趣味を仕事にできる例も多くなっています。
例えばニコニコ動画で昔流行っていた「歌ってみた」はそこから人気が出て、メジャーデビューする例もちらほらありました。
私が好きな堀江貴文さんも著書の「99%の会社はいらない」で「これからは遊びの達人が仕事になる。」とおっしゃっています。
内容としては趣味でやっていたことのインストラクターとして仕事に転換が出来るということでした。
確かにどんな趣味でも熱を入れている趣味の場合、仕事まではいかなくてもその経験と知識が多くの価値を生みます。
私の趣味を例にとると好きな小説を紹介するなどがあり、私としては簡単にできますがあまり小説に詳しくない人からすれば十分に価値があります。
これらからわかるのはどんなことでも突き詰めれば価値を生み出すことが出来るということですね。
そして、価値があればビジネスになる。
私としてはこの趣味関連の新しいビジネスとして出てきてほしいのは、自分に合った小説を読書履歴などから内容を踏まえて紹介してくれるAIがほしいです。
そうすれば自分お好みのものを探す手間が省けて、趣味が合う人との対話などに時間を多く割くことが出来るようになります。
趣味や娯楽は人間が生きている限りは恐らくなくならないでしょう。
つまりAIの発展やベーシックインカムの導入でも趣味や娯楽の業界は成長し続けるでしょう。
なので今のうちに出版業界などの株を買っておくといいことがあるかもしれません。
私のオススメの小説など知りたかったらコメントいただければ幸いです。