自分が敵

久々に、自分が過剰に意識しているわけでもない純粋な他人の悪意を感じた。

今更そんな些細なことでガタガタ不満を垂れる年端ではないので、だからどうということもない。嫌われているかもと思い続けるよりは潔く距離を置かれて幸福なのかもしれないなと思う。

 

最近の私は全快することもないまま、心のどこかがいつも冷たくなったままで、必死にそれを無視して生きている。楽しいときでもふと目線が合うと悲しい気持ちになり表現し難い焦燥にかられる。誰が悪いというわけでもなく、わたしの根本にある病原がわたしの幸福を許さないというような風で。

そんな状態だからか、かんがえてもどうしようもない悪意を味が無くなったガムのように美味しくもないのに噛み続ける。

みんながみんな自分を好きになってくれるわけではないと理解しているけれど、嫌われるのはまだ慣れていなくて、自分の憂鬱を取り出すのが容易になってしまうから悲しい。

 

根本は状態に対する怒りなんだと思うけれど、わたしはどうにも怒るのが苦手だから、いつまでも発散することができない悲しみが優位になる。

愚痴を溢す時に、まるで相談相手が悪いことをしたかのように再度怒りを持ってくる人がいるけれど、そういう人に憧れる。怒るってエネルギーが必要だけれど、そのぶん冷めるのも早い。悲しむのは穏やかだからこそずっとずっと心を蝕む。

 

悲しむときによく自尊心という言葉を思い出すけれど、いつか誰かに言われたように自尊心は高いのかもしれない。でもそれは自分で自分を尊ぶというよりも、わたしが好きな人たちが認めてくれている自分を認めるという行為に近い。他者と切り離された自分は価値がなくて、だからこそ急な悪意に容易に傷付いてしまう。

みんなが好きな私は守られるべきだけど、私単体では自分を大切に思う気持ちも生まれない。

自己の評価の際にはどこまでも他者が介在していて、何もない自分自身を認めてあげることは難しい。特別秀でた能力もないのだから。

だからわたしを嫌う人はきっとわたしと同じ気持ちだと思う。内向的で、機転が効かなくて、いつも周りの顔色を伺うような自信の無い姿を見て、なんとなく苛立つんだと思う。気持ちがわかるから、わたしに悪意を向ける人を100%非難できない。

 

他人の悪意を真摯に受け止めながらも、結局は自分の1番の敵は自分だなと思う。

わたしに悪意を剥き出しにする人よりもわたしのことを知っていて、それでもなお自分のことを好きじゃないから。1番の敵は自分なんだと思う。

 

「世界中が敵になっても…」みたいに言うけど、みんながみんな敵になることはないし、味方になることもない。

 

 

 

 

哀れとは

 

※映画「哀れなるものたち」の感想です。ネタバレ要素を含むので見たくない人は注意してください。

 

私が憧れるかっこかわいいお姉さんがストーリーでこの映画の試写会に行ったというのがきっかけで、わたしも見てみたいなと思った。

「感動」、「全世界が泣いた」、「奇跡の物語」と謳われるような映画は脅迫めいた押し付けを感じるから進んでみようとは思えないし、アベンジャーズとかジブリとか多くの人が一般教養かのように話すような作品は普通に馴染めないと落ち込むので敢えて避けてしまうところがある。以前好意を抱いて、相手からも好意を抱かれていた人に誘われて少女漫画原作の映画を見に行ったことがあるけど、話の内容よりも尿意に襲われて初めて上映中に離席したことを強く記憶している。

そんな難儀な性格の私が見ても許されそうだと思うのが、こういう薄暗い内容の作品。サブカル趣味と言われると非常に嫌な気持ちになるけれど、普通の(明るく健常に生きている)人は見なさそうなものが好きというのは事実だと思う。

 

「哀れなるものたち」の良いところは主人公・ベラの眉毛が凛々しいところ。わたしは眉毛に人並みならぬ情熱をかける人間なので、こういった意志ある眉毛は、女性の強さが目に見えて良い。いつか大学の講義の中で「不況なときは女性がなんとかせねばと踏ん張り我を出していくから太眉が流行する」というような話をしていたような気がする。わたしの目論見通り、ベラは風に吹かれず雨にも負けない人間性で自分の正義を持っているひとだった。

育ての親であるゴッド博士は親に実験体として育てられ、親と同様に娘であるベラを実験体として見ていた。それでも親とは違って情が湧いて、ベラの反抗に対して最終的には受け入れの姿勢をとった。

ベラの母親は夫の支配から心を病んでベラを愛することすら叶わず命を絶ったけれど、ベラは母親とは違って誰に支配されることもなく自分で選択して道を切り拓いた。

血の繋がりは消えはしないけれど、人間を形成するのは後天的なものが大きいのかもしれない。人は何かしら貧しいところや欠点があって哀れなるものかもしれないけれど、そうであったとしても、自分を上向かせるのは自分自身なんだ。

そう思わせてくれる作品だった。

 

内容はもちろんだけれど、衣装や世界観も可愛くて、隅々まで見惚れちゃった。

ベラの服がパフスリーブで統一されていたのも良かったし、他の女性たちは伝統的なドレスを着ているのにベラだけシースルーでちょっとヘンテコな衣装だったりするのも面白かった。

思ったことバーーーーーって書いたから支離滅裂だけど、配信開始されたらまたみたいなと思う作品でした!

多分世の中筋肉

 

ずっと買い逃していた、デザート用の小さいスプーンを買った。すぐ無くなるようなお店じゃないからいつでも買えるのにいつも忘れるから、買えたことでちょっと偉いじゃんって自分の背中を押せた気がする。

帰ってきたら一緒に飲みたい緑茶も買った。季節限定のものだから、少し時期はずれになってしまっているかもしれないけれど、きっと鼻に残るゆずの香りがいいねと言ってくれると思う。

大して寂しくない、日々充実している、と思っているものの、実際寂しいのかもしれないな。家にじっといるだけで、帰ってくるまでに買い足したいもの、綺麗にしなきゃいけないものとかをグルグル考えてしまう。考えが止まらなくてグルグル回っていたような日々だったから、最近は強制的に思考を止められて良かったのかもしれない。

 

久しぶりに、学生時代すきだった女性向けの漫画を少し読んだ。こんなに相手のために献身的になれるなんて素敵だなと思いながら、少し心がトキメクのを感じた。日々の活力ってこういう心の動きのことをいうんだろうと閃いた。

今言ったみたいに少女漫画を見てキュンとするのでもいいし、アイドルやアーティストのライブに行ってドキドキするのでも、言ってしまえば試験に向かって日々高まる学力を感じながら軽快に筆を動かすのでも、朝淹れたコーヒーが奇跡的に美味しく淹れられて小さくガッツポーズするのでも。自分の中でパズルのピースがハマったときのような気持ちを作り出せれば、なんかちょっと忙しくても、なんか良い日々のような気がするんじゃないか。

そんなことを思った深夜2時。深夜考えたことは大抵碌でもないけれど、漫画の登場人物が閃いたときに頭上に現れるのは電球だったりするし、そうなると夜が更けていた方が明かりを感じるから、碌でもなくても大発見だと思う。

 

実際物事はうまくいっていないし、堂々と休める週末の気分と謝りながら掴んだ休みの日の気分は雲泥の差だってことはここ1か月弱でしっかり学んだ。

今週は何とかなる!という意識は月曜の朝にかかっていて、そんな熱い思いがわたしを暖かく柔らかい世界に閉じ込めようと重くのしかかる。頑張ろうと思って早すぎるくらい早く温めた布団は、寒さも和らいだ昼頃までわたしの温度を保っている。そんなんじゃダメだ。重い身体が恨めしいけれど、実際そこまで余分な肉が付いていないわたしの手足は平均より軽い身体のはずだ。自分の心に、自分の身体が負けている。学生時代運動部に入っていれば、わたしの人生少しは布団にいる時間が短かったのかもしれない。或いは、読書を辞め、蓮葉になれば…。

 

朝を楽しく迎えるためには、充実した昨日を用意することが大事だと推察している。だから一度躓いてしまったら、起き上がるための相応の筋力が必要だ。

まずはしっかり寝て、食べて、遊ぶ。

 

マインド

帰ってくるまでにはもっと可愛くなっていよう。帰ってくるまでには、もっと部屋をきれいにしておこう。帰ってくるまでには、もっと、もっとと考えているうちに、自分の理想がどんどん高くなって、自分ではできない位になっていて、できないことが悲しくて、その場で立ち止まって泣き続けるしかなかった。

 

どんどん冬が本番になって、貰ったダウンを下ろす季節になった。なんとなくダウンは年を越してからじゃないと着てはいけない気がしている。新年からニュースは憂鬱なものばかりで、不安定な心がより不安定になる。テレビがないから気を紛らわすことだって簡単だと思ったけれど、日々眺めているSNSでは娯楽の合間を縫って悲しいニュースが流れてくる。

海外の番号から携帯に着信が入っていた海外になんて何も用事がないと思ったけれど、もしかしたら南極にいる夫からの連絡かなと頭によぎった。折り返すのも面倒なので連絡は返さなかった。ちょっと経っておかあさんから「夫から留守電が入っていた」という旨の連絡を受けた。私の推理は合っていたみたいだった。本当は脳裏で夫に何かあったんじゃないかと考えていたけれど、そうじゃなかったみたいで安心した。

万が一、夫が観測中に亡くなったとしたら、私はどうすればいいんだろう。普通に働いている人みたいに会社を飛び出して、駆けつけるという風にはうまくいかないだろうし、仮に電車で1時間程度揺られればそこに辿り着けるとしても、物質としてきれいに遺されているのだろうか。仮に物質がない状態で亡くなったと言われても、わたしはそれを理解できるのだろうか。

戻ってくるまでに片付けようと思ったダンボールとか、戻ってくるまでに買い替えようと思ったシーツとか、全て行き場がなくなってしまうんじゃないか。1人でも生きていける想定で借りられた家だからすぐ生活に困窮するという事は無いけれど、地図がない状態で雪原を歩くようなことを私は1人でできるのだろうか。

 

本当に甘ったれた人間だと思うけれど、これまでの人生は親に守られて生きてきたし、親と不仲になってもその時々適当な人の愛を受けてなんとなくヌクヌク守られた気になっていた。実際に困るような事は何もなかったし、困ったとしてもしょうがないなぁと言って解決してくれる人がいた。多分それは私が幼かったからということもあるし、女の子だったからということもある。でも、もう充分歳を重ねてしまったし、女性という括りの方が相応しいようになってしまった。自分の2本の足で歩いて行かなければならない。

夫とは同じ方向へ歩くけれど、夫にわたしの何もかも全てを背負ってもらうわけではない。大変なときは肩を借りることもあるかもしれないけれど、私が肩を貸すときだってあると思う。

それでも結局這ってでも、自分で自分が進むべき方へ進むべきだ。

1人でも生きていけるように、自分のために、今何をすべきかを考えたい。

お姫様ではなかった

 

結婚は墓場だ、というような言説を聞いて、そもそも期待もしていないからそこまで絶望するものでもないと考えていた。

今思えば絶望したくないから期待していないふりをしていた。本当はお姫様扱いが良かったし、唯一の存在が良かった。嘘でも私の前ではそんな素振りでいてほしかった。

この言い振りからわかるように、そんなこと全くなかったのだけど。

 

好みの芸能人は?と訊いてイマイチ具体例を出さないから、可愛いの感性に乏しいと思っていた。そんな感性の中で唯一私が引っ掛かったのだと思っていた。不器用な愛情表現も、一般的な感性とズレているから上手く実行できないだけだと思っていた。

実際はそんなわけもなく、私にかわいい女の話をしないだけで、かわいいものはかわいいし、私は唯一ではなかった。

 

昔好きだった人が、わたしのことを弄んでいたのに、まるできちんと好意があるような素振りをしていた。多分他に同様の待遇をしていた女の子はたくさんいたんだろうと思う。特別カッコいい容姿ではないけど、一般的には評価されるようなスペックだった。

わたしは多分結構その人が好きで、優しい嘘を吐かれたのをあまり責められないでいた。だからこそ、他の女の子がいるなら正直に言って遊びだって言ってくれたらよかったのに、と思わないでもなかった。嘘で唯一だと言うから悲しんだのだと思う。

 

そんなことを思い出した。

 

彼は浮気したんでもないんだからというような言葉を吐くけれど、わたしにトラウマがあるからか、多分そういうことに過敏で、酷く絶望してしまった。お風呂に浸かって気持ちよくなっているときにいきなりひとに殴られるみたいな。決め打ちした後にそんなこと言うんだ、と思った。「そんなの後出しだ」と私が酷く怒ってどうしようもなくなっていることに関して、そちらもそのような嫉妬のような束縛を今更強いるのは後出しすぎるというようなことを言われた。わたしの本質的な陰湿な粘着部分を嫌っているようだった。そんな人間がわたしの文章を読んでわかったような気になっていたんだと思うと、自分の言葉の価値の無さを感じた。結局人間外側の綺麗に包装された部分しか見ていないのかもしれない。

自分が編み物をするみたいに綴っていたあれもこれも、みんな彼が嫌っているような感情で出来ているのに。

 

普通の感性を持っているなら、もっともっと私をお姫様扱いしてくれてもよかったのに、それをしないってことは、本当にわたしを好きじゃないんだね?

ぐちゃぐちゃした頭の中で凝固した考えが本当に破滅的で悲しかったけれど、わたしの悪い頭ではそうやって自分を納得させるしかなかった。

 

自分を1番好きでいるのは自分、余裕ができたくらいの気持ちで人を愛したい。自分のためにもひとのためにも。

 

いつか死ぬ

急いで、やり残したこと、やってなかったこと、やり忘れていたこと、やりたかったこと、やってみたことをやらないと。

最近の私は何となく焦っている。

実際にタスクが重なっているというのもそうだし、年齢的に、先が短いような気がしている。

数年前に何気なく発した「30には死んでると思う」という言葉が本当ならば、残り1/6を惜しまず使い切らなくてはならない。本当に30に死ぬわけでもないし、余命宣告されたわけでもない。でも割とこういう何気ない言葉こそ本当になってしまう気がする。

 

中高のころから研究者を養いたいと話していたらしく(あまり覚えがないのだけど中学の友人が言っていたから中高あたりに発生した思想であると思われる)、ついこの間、それが叶ってしまったことに驚きを隠せない。

勉強しても1番行きたかった大学には届かなかったし、好きな人とは上手くいかないのが常であったし、是非とも達成したい望みがそう溢れているわけでもない。そんな中で何気なく発した望みが叶ってしまった。死ぬんだろうなと思った。

 

わたしのおじいちゃんは66歳で亡くなり、父は55歳で亡くなった。弟は44歳で亡くなるのでは?と噂になったが、その呪いが私に降り掛かる可能性だって無くはない。

死んでもわたしの財産を相続する人間がいると思うと、まあいいか、と思える部分もあるのだけれど、だからといって笑顔で首を捧げられるほど人生生き尽くしたわけでもない。

 

この歳になって、死後の世界を考えてみたりすることがあるのだけど、みんなが言う虹の橋とか、天国とか極楽浄土とか、そんなものは一切思い浮かばない。死んだ後って何も無いんじゃないか。仮に魂の行き着くところがあったとしても、宇宙空間というか、4次元というか、そんな感じの無機質でどうしようもない世界なんじゃないか。

学生の頃に憧れていた人と再会できるわけでもない。喧嘩別れしてそのままだった人と仲直りできるわけでもない。ただ漂うだけ。

 

それだったら今出来ることをしないといけないな、と思う。会いたい人に会って、楽しいことをしたい。学べることを学び尽くして、自分を深めていきたい。人に声をかけるとか、勉強をするとかは、私にとって割と腰が重いことなのだけど、結局それを得たいから、手を伸ばすことができるのかもしれない。いつか死んでも、やり尽くしたからまあいっかって思えるように。

 

そのために文章を上手く書けるようにならなきゃなって、かれこれ何年言ってるだろう。

19歳の当時よりも、少しはまともになったかな。

 

いつまでもあなたはわたしの天使

初めて会った時がどんな風だったか、昔すぎて覚えていないけれど、会う前から天使のような小悪魔のような、人を魅了する何かを感じていた。

仲良くなりたいと思うのも烏滸がましいような雰囲気を、当時も、今も、感じている。人の好意をそのままの意味だけで受け取るような能天気さはなかったし、寧ろその奥の「しなきゃいけない」展開を予測してヒラリとかわしてしまうような警戒心があるように感じる。

何かひとつでも言葉を間違えてしまうと、一瞬でわたしを嫌いになるんだろうな。そう思わせるような、思い切りのいい、悪く言えば諦め早い、繊細な子なんだろうと思っている。

これはわたしが仲良くなりたいと過剰に思いすぎた結果の妄想かもしれないし、ある種当たってる部分もあるのかもしれない。

一緒にいても底がわからないから、他の人と違って未知で、憧れる。

 

仲良くなりたいから、共通の話題を増やしたいと努力したこともある。それでも全然わからなくて、自分が平凡で、ある意味恵まれた人間なんだと感じる。一緒になりたいのになれないのが悔しいと思う。

2人だけの秘密的な、時が経ったら忘れてしまうような悪事も、あなたは忘れてしまってもいいけど、わたしだけは覚えている。

 

普通は不謹慎な話題なのに、良かったねと一緒に笑ってくれたのが嬉しい。

昔からそうだよね、とわたしのことを話してくれたのも嬉しい。

わたしのためにわざわざプレゼントを考えてくれていたのも嬉しいし、久しぶりに会ったのにわたしの幸せを祝ってくれるのも嬉しい。

わたしのことを過去に置いていかないでくれたのが、本当に嬉しい。

 

他人から友達への境界線は非常に曖昧なのに、友達から他人への境界線は案外明確で、ひとはシビアに切ったり切られたりしている。

わたしはいつまであなたの中で生きていられるのだろう。多分いい大人になってしまったわたしたちは、いつのまにか疎遠になって他人になってしまうんだろう。いつかがいつなのかはわからないけれど。

多分わたしはあなたを一生境界線の外になんて出さないから、飽きたり、気が向いたら、いつでも昔みたいに会いたいな。

 

お互いに手を振った後、いつも真っ直ぐ前を向いて、決して後ろを振り向かないで歩く、後ろ姿を見るのが好きだ。あなたは振り向かないのに、わたしは後ろを眺め続けるチグハグさが好きだ。

今日もまた昔と同じように、小さくなっていく背中を眺めて、楽しかった時間を反芻する。

しゃんと伸びた背中が見えなくなる頃、やっとわたしは動き出す。