同志の遺物を追いかけて

最近韓国のweb漫画にハマった。

その作品は既に完結済みで、終盤に差し掛かるあたりまでは一日二話無料で読めてそれ以降は課金必須…というシステムだった。読み始めた当初は内容うんぬんよりも翻訳の不自然さに気を取られてあまり入り込めなかったが、ある話数を境に爆発的に話が面白くなった。毎日続きを読めるのが楽しみだった。一日二話無料というのは一話読むとその12時間後に次の話が開放されるという意味なのだが、その漫画を定期的に読んでいるうちに時計を見ずともそろそろ12時間経ったな、ということが分かるようになった。生活の一部になっていた。

新しい話を読む度にツイッターで感想を吐き出して、胸に渦巻く``この漫画最高‘‘という気持ちを宥めていた。

というのは表向きの建前で、私は、一つのものにハマっているこのかけがえのない瞬間を切り取って永久保存したい!という欲望、それとこのツイートが私と同じく絶賛ハマってる人の目に留まればいいのにという願望から、自らの思いを吐露するツイートを繰り返していた。

国内の作品でないためか、その作品についてツイートしている日本語使用者はあまり多くなかった。ヒット数は片手で数えられるくらいのものだった。検索の仕方が悪いのかなと色々思い着く言葉で調べてみても、やっぱり検索結果は惨憺たるものだった。ここは現実と異なるパラレルワールドなのかと疑った。

ネット上の現実に私はたいそう傷ついたが、もちろんただ傷ついただけではなかった。なんてったってヒットしたツイートがわずかながらでもあったから。私はそれらのツイートを何度も読み返して噛み締めた。何度も読み返したのは検索する度トップに出てくるからである。そのどれも、ものすごく熱量のあるツイートという訳ではなかったが話題にしている時点で私は彼女(あるいは彼)を勝手に同志だとみなした。

そして一人も漏れなくホーム画面へ飛んだ。直近のツイートを漁った。一人も漏れなく私の知らない作品の話をしていた。

当然だ。完結済みの漫画の話をいつまでもするのはよっぽど熱を上げているファンだけだし人の興味は移り変わる。そもそも件の作品の話をしてたのはどのアカウントも半年以上前のことだ。今話題に挙げられていなくても何も不思議ではない。

それでもやっぱり寂しかった。今この作品を好きな人間は日本で私しかいないのだろうかというちっぽけな孤独を味わった。

文章にはその人自身の「今」が強く反映されていると思う。その証拠と言ってはなんだが私は一年以上前の自分が書いた文章を直視出来ない。文体から現在の自分とのテンションやノリの違いが感じられて読みながら恥ずかしくなってくる。これは私が書いたものではないと全力で否定したくなる。一年前とは体の細胞も入れ替わってるのだからしょうがないと最近は開き直るようにしているが、とにかく人は変わってしまう。

殊ツイートとなるとその瞬間のその人の思想を切り取った鮮度の良さは抜群だが持続性のある個の顕れではないことはしばしばあるだろう。つまり私が探し当てたツイートは発言者の今とは全く異なる思いから紡ぎだされたものであり、もはや遺物の域に達しているのだ。その遺物をよすがに寂しさを乗り越えようとしたこと自体にまた違う寂しさが募るが前向きに生きたいものだ。今はまだ存在さえ知らなくても、いつか新たに例の漫画にハマる人が出るかもしれない。気に入って気に入って他人の感想まで知りたくなった末に私の萌え語りツイートを発見してホーム画面も覗いてみるかもしれない。その時私が糧となれるか、遺物として見られることになるかはまだ分からない。