降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

周辺視野のリアリティ

以前にこういう体験をした。

 

夜勤帰りにネットカフェに寄り、マンガを読んでいたが寝落ちした。目が覚めたとき、ここがどこであるか、なぜ自分がここにいるのかもわからない状態が少しの間続いた。

 

目の前の光景と記憶がつながらない。やがてそれがだんだんとつながってくる。そうだ、ここはネットカフェで自分は夜勤帰りに寄ったのだったと。変わりばえなく飽きた「現実」が戻ってきた。

 

このときは単に覚醒状態が落ちていただけでまあ面白い経験ではあったが何ということもないと思っていた。しかしあとでだんだんとこの経験の意味を振り返るようになった。

 

解放や世界との一体性とはこの状態のことではないかと思うようになった。高揚感や幸福感など別にないが、そもそも状況すらわからないため、何かをせねばという強迫もない。

 

解放や世界との一体性はそれを「獲得」したときに大きな喜びが生まれるようにイメージしていたが、それは圧迫されていたことがなくなった瞬間の一時的な喜びであり、継続的に幸せでたまらないとか、高揚した状態が続くのではないのだろうと思われた。

 

解放や一体性は、それ自体として感じられるのではなく、ただ拘束や分離感がなくなっただけの当たり前のものとしてあるのだろう。たとえば手首に輪ゴムをきつめにはめて辛くなったとする。その輪ゴムをとったときには解放感や喜びがある。

 

が、時間が過ぎれば別にそれは何ということでもない当たり前のことであって、殊更に有難がったり喜び続けていることでもなくなるように。それで幸せになるのならば手首に輪ゴムだけでなく、あらかじめあらゆる場所に苦痛があることを想定してそれがないことを喜び続けたらいいとなりそうだが、それは端的にいびつだ。

 

ここがどこであるかもわからない状態のとき、ここがどこかを把握しようとする感覚はあったが、言葉はなかった。言葉以前の意識状態にいた。言葉が立ち上がる前の状態においては既に解放されており、どこに行く必要もなく、何をやる必要もない。

 

整体の稽古では、様々なやり方で身体集注という状態をつくることをするのだけれど、身体集中の状態にはいったときは言葉による思考があまりできないような状態になる。ああだこうだと思考に翻弄されたり、あれをしなければならない、これをしなければならないというような思いが入るような隙間がなくなる。

 

整体の稽古でなくても、たとえば両手を前に出して、右手は正方形を描くように動かし、左手は円を描くように動かすということをやってみるならば、身体集注の状態は感じられると思う。わざわざ思考で右手はこうで左手はこうと細かに意識していられない。むしろ意識と手の動きの粘着を切り離すことができると、右と左が別々に動かせる。そして思考を生む意識は極少化され、気づいているが考えられない状態が続く。

 

この状態は不自由というよりは、せいせいしていて、いらないことを考えなくていいすっきりした状態だ。常にこの状態であればいいのにと思うが、意識のメモリーを使い尽くしてないとおこらない。ずっと何かをし続けていなければ言葉が戻り、また自分は言葉と思考の支配下におかれ、制圧されてしまう。

 

要は言葉の問題なのだ。人間は言葉を使っているのではなく、言葉に乗っ取られて支配されているのが実態だろう。身体集注の状態や感覚が動きだす状態のときは一時的にその支配が弱まる。だからしばらく生きていくのならそれにあたっては、言葉による自身の制圧状態をいかに最小化するか、制圧状態をいかに無効化するすべを知るかが抑圧への対抗手段として重要になってくるだろう。

 

が、あくまでそれもなかなか死にきれないから多分「しばらく生きていく」だろうという想定に対しての緩和策なのであって、別にそれをしたから根本的なことが変わるわけでもないし、そうしなければいけないと強迫的になることでもない。意味はないのだ。意味は言葉から生まれる。言葉がない世界に意味はない。そして人間は言葉が立ち上がる前に既に生きている。

 

言葉が立ち上がってしまえば全ては言葉の意味の世界に回収されてしまうのだが、言葉が立ち上がる前の状態、一時的に言葉による制圧がなくなっている状態のときには既に本来の状態が回復していると僕は考える。本来の状態はそんな多幸感に満ちたようなものではなく、言葉の規定によってもたらされている拘束や分離がただないだけの「当たり前」の状態であり、達成し到達するゴールのような状態でもないのだ。

 

そしてその「当たり前」の状態をイメージするにあたっては、焦点が絞られた視野と周辺視野との対比を並べるとわかりやすいように思えた。日常生活において、現実を把握するためにほぼ常に何かに焦点をあてている。

 

この視覚の焦点とは何かを考えてみた。思いいたったところから先にいうならば、焦点をあてることは、絶え間なく変化し切り取れない世界を止まった記憶の世界に切り替えることであり、時間を止めることであるように思える。

 

たとえば目の端に本が置かれているが見える。その本に対して何かをしようと思えば、本に視線の焦点をあてる。だがこのときに目の焦点は本とは別のとこにあてながら、一方で本のタイトルが見えるぐらいのところに自分が移動したり、あるいは本を移動させる。目の焦点は本とは別のところに固定しておくなら、本のタイトルは見えているが言葉を読めない状態に気づく。

 

本のタイトルを読むには、過去の記憶をたどるか、あるいは瞬間的にであれ焦点をうつさないといけない。焦点が周辺視野にとどめられたままであれば、文字を読むことはできない。周辺視野は言葉以前の状態がどのようなものであるかをイメージするのに適しているだろう思えるところだ。

 

見えるけれど、意味をなさない領域。どんなものが周辺視野に映ったとしてもそれをはっきりと意識するためには、焦点をあてなければいけないはずだ。目の端に危険そうな生物が見えたとする。しかしそれだけでは意味をなさない。何かの予感として感覚されたとしても、焦点をあてて具体化されなければ、対象ははっきりとしない。

 

そして対象をはっきりさせるということは、既に記憶されたものにつなげることなのではないかと思う。つまり焦点をあてることは過去の記憶を現在に投影することなのであり、リアリティが過去の世界に切り替えられることなのではないかと思える。まだ言葉を獲得していない子どもでも怖いもの嫌なものは記憶し反応するはずだ。自動的に記憶と繋がるのだ。焦点をあてることは見え方だけの話ではなく、現在を記憶の世界に変換する精神的な切り替えを行っているのだと考えた。

 

一方、周辺視野においては見えていてもはっきり対象化することはできない。言葉を読むこともできないし思考することもできない。何かと何かを意味で分けることはできない。そのために周辺視野は言葉から解放された領域であり、言葉による制圧と記憶の世界への閉じ込められているところから解放された状態なのだ。しかし、言葉がないのでその「解放」の意味もわからず確かなものとして実感できない。

 

自意識ではっきりと理解でき、実感できるものでないと事実ではないと信じて譲らないならば、これにはなんの価値もない。しかし、生きる苦しみの非常に多くの部分は言葉によって成立している自意識のその完結した牢獄に閉じ込められていることにある。そこでは自分が落ち着ける確かな価値を獲得しなければいたたまれない、絶え間ない意味の強迫にさらされ、さらにはこの苦しみを抜けるためにはこの自意識である自分が変わらなければいけないという強迫まで付け加えられてしまっている。

 

だがそうではないのだ。本来の状態は達成しなくても既にある。自意識としての自分が変わればいいのではなく、自意識としての自分が後ろにひいた状態が本来の状態なのだ。それは周辺視野の感覚として感じられる。焦点をあてることで過去の記憶が現在に投影される切り替えがおこるが、そこで受け取ったものを「現実」や「真実」だとしてしまい、その「現実」のなかで救われようとするのがそもそも本末転倒なのだ。

 

言葉以前の領域である周辺視野のリアリティにある何でもなさ、意味のなさ、当たり前さにしがみついて「幸せ」を獲得することはできない。獲得は救いのない意味の領域。獲得ではなく世界観の切り換えの問題なのだ。

エッツ『わたしとあそんで』 話の場と探究すること

自分が呼びかける側のときの話の場は「自分にとって必要な感覚やプロセスが動く」ことと「場にいるほかの人のプロセスが動く」ことが重なるように枠組みをきめています。

 

そのようにすると、早々に疲れたり、または場で何をやっているのかがわからなくなって場自体が虚ろになっていくということが避けやすいと思います。

 

話をしはじめて、自分がうまく説明できなかったと思ったり、自分自身で話していることのわけがわからなくなったりすると恥ずかしいと思ったり、ちゃんとした内容を話さなければいけないと思うかもしれません。しかしそれが上手にできる人の話が面白いかというと必ずしもそうではありません。

 

インプロ(即興演劇)の指導者である今井純さんは、即興を面白くやろうとする必要はないし、どうするかをあらかじめ考えてやる必要もないと言われていたように思います。それよりもその状況におこっていること、相手のやったことに「影響を受ける」重要性が指摘されていました。「影響を受けた」応答をすることで自分も思いもよらぬ展開が生まれたり、面白さを狙わなくても見ている人が十分に満足できる「おもむき」がでるそうです。

 

ronso.co.jp

 

それを僕なりに解釈して話の場に重ねると、自分を話し上手と認識している人のほうがやりがちなことかもしれませんが、自分の完全なコントロール下にある話などは別に求められていないのです。

 

朗読などする際にも自分が自分の読んでいるその状況に直面していわば「影響を受け」、自分が受動者として体験させられると、結果的に聞いている人に「伝わる」と聞きます。

 

話は、感じていることをリアルタイムで探りながら、できるかぎりそれにあう言葉にするようになぞりながら、とつとつで、まとまりもなくでいいのです。その人のなかで動いているもの、どこに行こうとしているのか自分でもまだわからないことをなぞるのです。

 

そのときに「おもむき」はあります。その人のなかで動いているものが周りの人たちのなかのものを動かします。これは感情についてのことだけをいっているのではなく、そこで知的な洞察もおこります。

 

動くものが伝わりそれぞれの動きにつながること。そのつながった動きは単なる刺激に対する一時的反応のようなものではなく、それぞれの人がそれまでも動かしてきたものの「続き」を導きます。

 

もし自分を沢山の植物の種子が埋まった土人形だとすると、外からやってきた動くものが自分に伝わることで、まだ種のままだったものが発芽をはじめ、あるいは芽の段階で時間が止まっていたものがその続きの時間を得て姿を変えはじめます。

 

種を発芽させるもの、あるいは止まっていた変化のプロセスを動かしていくもの。止まっていたものに、続きの動きを与えてくれるものを「時間」というならば、自分が話の場でしたいことは、それぞれの「時間」をもう一度見つけることです。「時間」をみつけ、それに応答することは、あくせくと自分で考えたり計画したりすることであるよりも、ゆだねることに近いです。

 

探究的であること、動いているもの、感じているものをよりフィットする言葉でなぞろうとしているときに、いつもの自分はどちらかというと後ろにひいています。自分が「主体的」でありながら同時に一方で自分が後ろにひいている状態があります。

 

本来的に「主体的」なときは実は受動的なのだと思います。動いているのは実は自分ではなく、プロセスそのものだからです。

 

マリー・ホール・エッツの「わたしと遊んで」という絵本では、池の生きものたちに自分のペースで関わろうとする女の子が生きものたちをすくませたり、追い払ったりしてしまいます。女の子は生きものたちに遊んでもらえず悲しみますが、じっとしていると生きものたちは向こうからそれぞれなりの関わりをしにきてくれました。

 

www.fukuinkan.co.jp

 

このような「主体性」の感覚が伝わるでしょうか。自分の知っている自分、自分の知っている関わりかたではないもの、そこに自分が開かれる面白さがあります。探究的であるとは、いつもの自分が一旦ひいている状態なのです。探究的であることは、できあがった自分ではなく、プロセスである自分を動かすことです。

 

「当事者研究」批判と自分が「当事者研究の会」をしていたことについて

4年前から2年間ほど「当事者研究」の会を主催していました。今回その時に参加していたメンバーからその責任と自分の言動について指摘を受けました。当時、べてるの家や「当事者研究」についてはその価値を多くの人に知ってもらいたいと思っており、ブログやSNSなどでも肯定的に紹介していました。

 

しかし、べてるの家や「当事者研究」について知っていたことといえば、ネットや書籍などで発信されている情報だけだったといえます。5年前にべてぶくろで性暴力被害と「当事者研究」による被害隠蔽の働きかけがおこったことも知りませんでした。

 

自分の投稿や紹介からべてるの家や「当事者研究」にアクセスし、そこでハラスメント的な経験を受けたということは聞いていませんが、そのようなことがおこらないとはいえませんし、聞いていないだけで実際にはいる可能性もあります。自分もまたべてるの家や「当事者研究」の問題に加担した一人であり、責任があります。

 

また自分の「当事者研究」批判によって、自分自身が開いていた「当事者研究の会」において、その人はいいと思っていた経験が否定されたと思われることなど、当時の参加者にとって批判には加害性があるのではとも指摘されました。

 


当事者研究」参加者がそこで回復的な経験をすること、その人自身が大切に思える体験をしたことはその人にとって尊いことであり、それを否定するつもりは全くありません。

 

これは「当事者研究」を鉤括弧にいれて表記するようになったこととも関連します。括弧にいれているのは、「当事者研究」と呼ばれるようになったものが、本来もっているはずだった理念や実践しようとしていたことがあったのではないか、そして今の「当事者研究」は少なくともそのようなものではないのではないかという批判の意味をこめています。

 

括弧にいれること、そして批判をすることは「当事者研究」と呼ばれるものがもっていたかもしれない本質的なエッセンスを受け継ぐことはできるのではないかという思いがあるからです。

 

もうそれを「当事者研究」と呼ぶことはしないにせよ、「当事者研究」的なものは本来どのようにあったらよかったのか、またどうしたら本来的に目指されたものとしてあれるのかを考え、見出していくことが、本来的な当事者研究に対する自分なりの敬意であり、同時に自分のやったことに対する向き合いであると考えています。敬意をもつからこそ、現在の展開や歪みを批判しています。実践の場自体の価値を否定しているわけではありません。

 

べてぶくろが告発後に世間に向けた反省アピールを行い、それで「火消し」ができたと踏めば後はそこで言っていたこともやらずに事件への向き合いを放棄していること、「当事者研究」がリーダーたちに私物化されて、企業に売られ、上から提供される自己理解ツール、本末転倒の管理ツールみたいなものにもなろうとしている今、当時は自覚的ではなかった様々な問題を認識しています。

 

上記の問題に加えるなら、それはマジョリティ属性の高いものにも「当事者研究」が活用されるようになるとき、そこでおこる「回復」は、結局は多数派社会の不均衡の補完の効果をもつことであり、「当事者研究」が自身が所属する社会環境や「コミュニティ」の歪みを問えず、「当事者研究」の実践によってその価値観が追認、強化され個々人に押しつけられる問題などです。

 

「当事者」とは何なのか、なぜ「当事者」カテゴリーを用いないとマイノリティは発言や思考を社会に相手にされないのか、場で作用する権力性、「リーダー」たちにイニシアチブを奪われてしまわない実践とは何か、問題がおこった時、業界や関係者が沈黙し、被害者が孤立し社会的に消されていく問題、マジョリティ性の高いものによる「回復」の場所が自己完結に終わり、結果として不均衡な社会構造の補完となること、コミュニティや社会環境自体の歪みに向き合えるようになることなど、考えなければいけない課題、こえていくべき課題は数多くあります。

 

これらのことは、被害者の方が数多くの負担や新たに生まれるであろう二次加害を引き受け、それでもべてぶくろ性暴力事件を告発してくれたことで、ようやく気づかせてもらえたことです。それまでの間ずっと、「当事者研究」をふくめ、べてるの家が生み出した理念や実践を批判的にも検討することを怠っていたことを反省します。そしてあらためて、本来的に「当事者研究」が向かうべきところがどこだったのか、現状の問題がどこからきているのか、どのように個々人が奪われた「主体」を回復していくことができるのかを考え続けていきます。

カッコウと人間 存在としての加害性と簒奪性

先日の投稿でフェミニズムの歴史で繰り返されていたマジョリティによる運動の簒奪と「当事者研究」の問題点および今後おこりうるだろう展開を重ねた。


運動を多数派側や力を持つ側のものに変質させていくことは、もちろん意図的なものもあるだろうが、全く無自覚で自動的なものも少なくないように思う。この自覚のなさは、自分は何も悪いことをやるつもりはないから、とやってしまったたことを免罪し、態度をあらためるつもりはないという開き直りの理由にもされる。

 

人間が自分にとってより都合のいい環境を構成していくことは、自覚以前のところからはじまるものであり、自覚の有無は何の言い訳にも現状改善にもならない。

 

「本能的」とも感じられるこのような自動的傾向は、カッコウの生態を連想させる。よく知られているように、カッコウは他の鳥の巣に卵を生む。生まれた卵は、周りの卵より先に孵化して元の鳥の卵を巣の外に押しだす。そしてヒナは自分を別の種の親に育てさせるのだ。

 

マジョリティによるマイノリティの運動の簒奪と言ったときに、そこでおこっていることは単に内実を奪うだけにとどまっていない。カッコウが自身のヒナを養育せず、自分を別種の鳥に育てさせて繁殖するように、マイノリティの資源をさらに使いながら自分たち多数派のポジションをより確固たるものにする。

 

マイノリティのためのいい運動だというイメージを使いながら、その名声や支援を自分たち多数派に吸収する。マイノリティの運動というかたちを取りながら実質は多数派のエンパワメントがされると、マイノリティは二重に封じ込められてしまう。

 

ある運動がマイノリティが権利を獲得していく運動として「ある」のに、実質は多数派のエンパワメントが行われるならば、むしろ「ない」ほうがマシなのだ。

 

「ない」ならば引き続き異議を申し立てられるのに、社会的に認知されている団体や運動ができたために、社会から吹く応援の追い風はその団体にいくわけだし、世間は自分が動かなくてもその団体がやればいいと思って動くのをやめてしまう。その意味で異議申し立てをはじめたころよりも封じこめられて動きが止められてしまうのだ。

 

こういうことを人間はごく自然に、意識すらせずやる。だから自覚の有無は関係がない。悪いことをするつもりはなかったとか、いいことをやったつもりというのは何の免罪にもならない。自覚のなさを理由にした開き直りや被害者ぶりはさらに悪質だ。

 

人はカッコウと同じだ。人間が自覚的になれるというのは現実に向き合うのを避ける欺瞞のためのものだろう。人間は自覚なく自動的に加害と簒奪を行う。そういう存在なのだ。その実態を直視し、その人間観に移行しなければ環境問題も何もすすまないだろう。

 

生まれたときから何もどうしようとか思わなくても、プランを立てなくても自然な感覚にしたがって周りの卵を押しのけて巣から落とせる。自分が落としたのが別の鳥の卵だとさえ知らないかもしれない。餌をくれる鳥が別種の鳥かどうかすら知らなくても問題ない。

 

カッコウは他国で搾取されたものが提供されて生活が事足りるこの社会の人そのものでもある。どういう経緯のもとで自分に必要なものがきているのか知らなくてもいい。周りの人と同じく自分に必要なものが提供されるのは当たり前であり、何も気にしない。加えて恥ずかしげもなく自己責任論が唱えられるような環境を作っているところが人間がカッコウをこえるところだろう。

 

存在の無自覚な加害性およびごく自然に他者から簒奪する自己中心性を前提にしなければ、人間はそのままたちの悪い加害者であり、簒奪者であるのだ。

 

当事者研究」においてマジョリティ属性のより高い人やグループは、カッコウのように、自分たちの必要をみたし、悪気なく自覚もなく周りにあった卵を巣の外に押し出すだろう。それが自覚以前のカッコウの「本能」なのだから。当人の「自覚」の有無や「つもり」など真に受けていてはいけない。実態と引き合わすことをしないで、そぶりや言動などの「擬態」をそのまま真に受けてはいけない。それらの仕草は生まれもった武器なのだから。

 

自身の存在としての加害性、自覚のない簒奪を前提にし、抑圧されている外部に実態をともなった応答すること抜きにするならば、実際的には向き合いは永久に先送りにされる。昔話では弱った鬼を助けて恩返しされることもあるが、元気を取り戻した鬼に食べられるような話もある。身もふたもないが、人間一般はどちらかというと後者なのだ。自身の「鬼」性から目をそむけるなら、その人はそのままで人を食べる鬼になっている。実態として何をしているのか、何をしたのかをよくみて確かめることなく、表面的なそぶりや言動を真に受けてはいけない。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』 フェミニズムの歴史に感じる「当事者研究」の既視感

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』。1、2章あたりからもう既視感にみちている。現社会環境のシステムそのものが変わらなければならないとするマイノリティのラディカルな立場は、部分的な改良で良しとする白人中産階級などマイノリティ内マジョリティの立場に乗っ取られていく。

 

www.bookcellar.jp

 

『階級とフェミニズム』のダイアナ・プレスの批判は「女性は、他の女性を支配し搾取しているあり方ーセクシュアリティや階級や人種を通してーと対決する闘いによってのみ「シスター」になりうる」というもの。

 

内面化された性差別に向き合うこと抜きに、そして自分だけでなく他の女性の抑圧と対決する闘いを抜きに、「シスター」になることはできない。しかし実際には運動に参加して利益だけを奪って抑圧者側になるものが運動の力を奪っていく。

 

人種差別という現実があるなかで、白人中心社会を維持したい白人男性が白人女性の平等を熱心に認めはじめるのは自然な流れ。職場での男女平等を最優先する改良主義フェミニストはラディカルな理想を押しのけてしまった。

 

「経済的に恵まれた白人女性たちは、現在の社会構造のなかで経済力を手にするやいなや、革命的なヴィジョンについて考えることすらやめてしまった。」
「皮肉なことに、革命的なフェミニズムのヴィジョンがもっとも受け入れられ、取り上げられたのは、大学などアカデミックな世界でだった。」

 

フェミニズムの本来的な理念は、インテリで高等教育を受け、物質的にも恵まれた人たちに受け継がれ、「そうした理論が一般大衆に届くことはほとんどなかった。」人々は、進歩的なヴィジョンから紡ぎ出されたメッセージを拒絶するのではなく、そもそもそれがどんなものであるかを知らない。

 

アカデミア外の人たちの場では、ラディカルなフェミニズムの理念は、自分たちの状況さえ良くなれば事足れりとする改良主義に乗っ取られる。自分たちだけよければいい偽りのフェミニズム。相対的なマジョリティがマイノリティの運動の名実を奪っていく。アカデミアは外の人たちとは乖離している。

 

女性たちが痛みを打ち明け、制度化された性差別に気づき、その横暴に立ち向かう力を得る場所、会話と対話の場としてコンシャスネス・レイジングがあった。それらは大抵は誰かの家で開かれた。フェミニズムの思想は、当初は職場の同僚や友達のような小さなグループのなかで伝えられた。

 

ところがそれが「印刷された理論となってより多くの人の目や耳に届くようになった。そうなると小さなグループは解体していった。女性学が正規の学問として認められるようになると、フェミニズムの考え方や理論について知る別の場ができるようになった。」

 

個人的にここらへんが問題の肝のところだと思う。人格のある人と人のやりとりしてあった運動が、人と人を離れた理論になっていくところ。大衆を一斉に教育したり啓発すればいいと考えるとこうなることは止められない。生きものとしての人が取り除かれ、相手するのが紙や純粋な理論。

 

どんな理念であれ、大衆管理とか大衆啓蒙とか人を一括りにして一斉に扱おうとすることが根本的な間違いであると思う。それは実際的には効率的でもなんでもない。人が変わるのに必要な経験が奪われてしまうのだ。

 

具体的な人間同士の営みが取り戻されなければいけない。頭だけで人は変わると当時は思われていたのだろう。身体性の無視。そのために用意された場所ではなく、ゲリラ的なちいさな集まりに戻る。非効率な、人と人の直接的なやりとりに戻る。

 

アカデミアの理論なりは、ちいさな集まり、個々の変革の場がアカデミア外の人に取り戻されて、はじめて届いていくだろう。

 

さて、女性学が大学で確立するとコンシャスネス・レイジングも大学の教室で行われるようになった。かつては「専業主婦」や「サービス業の女性」や「バリバリのキャリアウーマン」も入り混じっていたが、大学は階級的特権をもつ者だけの集まりになった。

 

マスコミは多様な人たちのなかから「中産階級の女性たち」をピックアップして報道し、彼女たちがフェミニズムを代表する者として祭りあげられた。また相対的マジョリティによる運動の乗っ取りだ。それがマスコミ含め社会全体からなされていく。

 

女性学は正規の学問として確立されたが、その代償として女性学確立の先鞭をつけた女性たちは失職した。彼女たちは大学院に入り直すものもいたが、そうしない者もいた。

 

「大学に一片の幻想も持っていなかったうえに」女性学を支えていたラディカルな思想が改良主義的なリベラリズムに取ってかわられてしまったことに不満を持ち、怒ってもいたからだ。

 

マジョリティの制度にのる際に、思想は薄められ、マジョリティのものにスライドされていく。女性学が学問の制度に組み入れられた結果、仕事が生まれ、キャリア欲しさや上昇志向にかられてフェミニズムの立場を採用する人が生まれる。

 

これらは本当に大きな仕組みに載せていくということの誤りそのものだと思う。たとえ載せるにしてもその代替物を用意しておかなければいけない。しかし実際には代替物を用意してもそれらは主流にはなりえず、不可視化され消えていくだろう。改良主義そのものがフェミニズムのようになってしまうだろう。

 

ところで、コンシャスネス・レイジングの場所はそもそも抑圧構造を自覚し、社会を変えていく運動が前提として存在したことが強調されている。それは単なる癒しの場ではなかった。単なる癒しの場とは結局抑圧的な社会構造の補完の場にすぎないのだ。

 

フェミニズム運動の誕生と相前後して作られた男性グループは、えてして、性差別や男性支配の問題を取り上げようとしなかった。」

 

「家父長制主義を批判し男性支配に抵抗するのを目標とするのではなく、自分の傷を癒すセラピーのような場になることが多かった。こうした間違いを、これからのフェミニズム運動はおかしてはならない。」と書かれている。

 

「シスター」になるためには他の女性の抑圧に対して闘わなければいけないと指摘されたように、自分と異なる被抑圧者の解放を目指すのでなければ、癒された人はそのまま抑圧構造に加担して平等の理想を忘れてしまう。

 

これらが既視感。全く同じことが「当事者研究」界隈におこっていくだろう。地に根づいたもの、実際の人と人の間で行われていたものが、人々から乖離したものとなる。高度な理論はアカデミア外には届かなくなる。新自由主義に資する部分だけが切り取られ、それが「当事者研究」だと言われるようになる。

 

企業に売られはじめた「当事者研究」だがそれが進めばより元々の文脈から離れてツール化していくだろう。マジョリティ属性をもつものが自分たちの癒しの場を作ることが隆盛しはじめる。

 

精神障害と抑圧的医療というような、不器用で見栄えが悪く社会を根本的に批判するような要素がより少ないスマートな「当事者研究」がもてはやされ主流になる。「当事者研究」という名前と実態がマジョリティに奪われる。

 

マジョリティ属性が強いほど、自分の状況さえ改善すればそれで満足し、社会の抑圧構造を補完し加担する側になる。

 

当事者研究」で仕事が生まれ、理念とは乖離した階級上昇的な動機でそこに入りこむ人たちがのさばるだろう。

 

コンシャスネス・レイジングの遷移で気づかれたように「当事者研究」にも必要なのは現社会環境がそもそも不均衡をもつことを認め、そこに向き合うという前提であり文脈。それがないと結局今の社会環境なりコミュニティの価値観への従属を暗黙に承認した場になる。その暗黙の承認自体がかなりの毒なのだ。

 

当事者研究」に対して自覚的であるならば、自分たちが関わる「当事者研究」は実質どのような(見えない)文脈にのっているだろうかということを曖昧なままとどめず、明確にする必要がある。

 

べてるの家はそこで生涯を終えることができるようなコミュニティだ。そこで行われる「当事者研究」ではべてるの家という強い圧をもつ文脈に適合するかたちでの自己像が作られるだろう。

 

一つのコミュニティの文脈に強く影響されることの危険は、カルト組織だけでなく、カオスラやグロー、そしてまだハラスメントが告発されていない福祉系、啓発系、教育系などの組織においても認識される必要がある。権力の強い代表なり上司が圧迫的に自身の信条を周りに強制していくような組織においては「常識感覚」は簡単に歪む。成員たちがそのリアリティに侵食され呑み込まれる。

 

ではいわゆる「コミュニティ」や組織に属していなければ安全なのかというとまるでそうではない。なぜなら「生きづらさ」というものは具体的な特定の困難をさすのではなく、社会の構造的な歪みに由来するものだからだ。つまり現社会環境がその人にとっての「コミュニティ」であるわけで、だからこそ生きづらさがでるわけだが、現社会環境の実質の価値観である自立、自己責任、能力主義、性差別、ルッキズムなどに影響された自己像が作られるだろう。そこにおかれている社会的文脈の影響なしに作られる自己像など存在しない。

 

当事者研究」の理念や実践によって少なくない人に「回復」がおこることは間違いないだろう。それを問題化しているのではない。指摘しているのは、その「当事者研究」が実態としてどのような社会的文脈をもっているのか、どのような社会的文脈におかれているのかによって、「当事者研究」を実践する個々人は無自覚にすでに敷かれている社会的文脈に適合するかたちで自己像を更新するという問題だ。

 

それに無自覚だとどうなるか。かつてコンシャスネス・レイジングの場でおこったことと同じことがおこる。つまり、マジョリティ属性がより高い人が自分の問題だけ気にしなくてよくなるまで「回復」し、社会構造の歪みはもう問わなくなる。そのような場では、社会構造の歪みによって苦しめられている人たちが社会の価値観を明に暗にもう一度押しつけられる場になるだろう。

 

現社会の構造自体が問題なのであり、それを変える必要がある。そして自分だけが気にしなくてよくなればいいのではなく、他の人の抑圧状況を変える必要がある。この文脈、この前提が抜けた場で「回復」するのは、既に恵まれておりマジョリティ属性がより高い人たちなのだ。そしてこの文脈と前提がない場所は、結局は生きづらさを作り出している原因である現社会構造を実質として追認しているために、場自体が回復的でないという根本的な問題を抱える。

 

当事者研究」は個人と周りの社会との関係を対象にするものだと思う。しかし、社会自体を問うことはない。これが問題なのだ。その場所でおこる「回復」はあるバイクが時速30kmしか出せないようなリミッターをかけられているような「回復」だ。自分なりに時速30kmまで回復するまではいいだろう。しかしまだ「回復」していく必要があるのに、それ以上いけないという停滞がおこってしまう。

 

社会を同時に問わなければいけない。社会を問わなければ、その社会やコミュニティの価値観は前提のままで自己像が更新される。よりマイノリティ属性が高い人は、それでは救われない。問題は個人の内面にあるのではなく、社会構造にあるのだから。

 

自分たちの属性や問題に関わる歴史をたどり、どのような関連する実践が社会で行われてきたのか。それを自ら確かめていくことで世界の見え方、社会の見え方は変わっていくだろう。この見え方が変わることが重要なのだ。回復とは自分が更新されていくことであり、自分の見え方感じ方を変えていく学びなのだと理解する必要がある。「回復」だけを求めても「回復」しない。

 

当事者研究」という自己理解と共有のツールは社会環境を問わない。しかし、この社会環境とは何かを自分自身の目で確認していかないと本当に自分が納得する状態は見えてこず、くぐもった「回復」にとどまってしまう。自分が、競争で勝っている「普通の人たち」のおさがりを生きているように感じられる。社会環境から内面化された価値観でしかものを見れないからだ。

 

当事者研究」が社会環境を問わないことには、危機意識を持つ必要がある。何も言わないというあり方で、事なかれというあり方で、社会の抑圧的な価値観は「当事者研究」の場で再承認される。その危険性に自覚的である必要がある。そして自分が納得いく状態に近づいていくためには「当事者研究」だけでは不十分であるということが気づかれる必要がある。自分が停滞しているのは「当事者研究」の不足ではない。

 

自身の社会環境を変えていく力を自覚すること。世間に誇れるような「成果」は何一つ必要はない。自分なりのちいさな学びの場をつくること、そして社会を問うていくこと。それが内面化された価値観を変えていく。そして自己欺瞞の牢獄から出るためには、自分だけでなく別の抑圧されている人たちも救われる社会構造をイメージし、そこに向かっていくことが必要だ。過去におこったことから学び、同じことを繰り返さないことが重要だ。

 

 

「時間」について 整体の稽古と2/13トークイベント「コロナ禍を歩く」から 

整体の稽古とトークイベント「コロナ禍で歩く」から「時間」について考える。

 

peraichi.com

 


野口整体では息というときにさすものは単に肺呼吸のことではなくて、いわば体にいきわたる「時間」の流れのことであるようにも受けとれた。

 

冷たい水をわざとちびちびと飲むことで体にいきわたる感覚。呼吸を最小限にしながら息苦しくならない稽古。先に砲丸投げの室伏さんが新聞紙を片手だけで新聞紙を丸める動画が出ていて、そのことでコロナ禍での運動がしにくい環境でも「運動になる」と言っていたのを思い出した。室伏さんも当時よく野口整体の稽古にこられていたとのことで、その「エクササイズ」も野口整体由来だったとのこと。

 

質そのものとしての「時間」。周りのものに影響を与え、共に動かすものとしての「時間」。そういうプロセスそのものとしての「時間」が本来の時間なのではないかと考えている。

 

時間とプロセスとしての「時間」については1年ほど前によく考えていたのだが、いわゆる一般的な時間とは生きているもののプロセスとは切り離された一定の、それゆえにプロセスの伴わない空虚な間隙だ。一方、プロセスそのものであり、実際に周りに影響を与えていくものが時計が出現する前は時間であったのだと思う。

 

時間の話とまるで関係ないようだが、意識として立ち上がっているものが人間の変化のプロセスを止めることに気づいた。意識的なものをなるべく後ろに退かせた状態があると、人間に変化のプロセスが動きだす。それは自意識が知っているようなものではない自律的な変化のプロセスだ。

 

整体ではまさに意識で強制的に止められている体のプロセスとしての「時間」を動かすために、意識のコントロールを積極的に停止させるものが「型」としていくつも確立されていた。

 

日本語では一緒くただが、少なくとも意識には気づいている領域という意味であるawarenessとしての意識と強制的に体を動かしたり思考したりするものとしての意識があり、その二つは全く別物として考える必要があるだろう。

 

前者は自分とは何であるかというような自意識がない状態であり、起きていても身体的な集注をしているとき、海を眺めてぼーっとしているときなどはこの状態にある。自意識としての自分は立ち上がっていない。そして「我」にかえったときに、「時間を忘れて」いたと表現される。そこでは長かったり短かったりするような、幅としての時間、空虚な一定の間隔としての時間はない。そして実はこの状態にあるときに本来の自分であるという感覚がある。自分の「時間」は動いている。

 

一方で自意識としての自分が立ち上がっているとき、自分を忘れて集注できないとき、時間は止まっていると感じられる。「やらなければいけないこと」や「こうあらねばならないこと」の強迫にはさらされるが、同時に退屈であり、苦痛であり、いたたまれない。本来の状態ではないからだろう。

 

また引き受けるにはあまりにつらすぎる体験をした人が「時間が止まった」苦痛を持つことは知られている。押し寄せてくるプロセスとしての「時間」が破壊的な水準にまで高まっているからであり、体の生きるための自動的な強制停止であるだろう。こうなると自分が引き受けられる非常にわずかな「時間」を日々ちょっとずつ動かしていくしか回復していく方法がない。

 

しかしこれは今までの自分を成り立たせなくし、新しい自分として大きく更新される過程でもある。逆に「受難」のようなことにあわないと記憶容量やアプリはいっぱいあって付け加えられてもいくがOS自体はアップデートしてないPCみたいになってしまう。

 

(「幸せ」の不幸とでも言えばいいのか。子孫に美田を残すなとか、可愛い子に旅させよ的な。今の自分を成り立たせなくする、他者としての世界に遭遇しないと人間は自己疎外からも抜けられない。)

 

話がそれたが、何かに集注できておらず、自意識が前面に出ていて、自分が何であるかというようなことが終始確認されるような、「時間」が止まったアイドリング中の状態はなぜおこっているのか。

 

今の自分の理解は、気づいている状態としての意識、awarenessとしての、気づきの領域としての意識ではなく、言葉が作り出す意識がそのような状態をもたらすのだろうということ。

 

自分自身で立ち上げているという自覚なく、言葉が作りだす意識(言葉で思考する意識と言ってもいいだろうが。)は自動的に立ち上がっており、そこでは自分も人も序列づけられ、自分自身の価値の高低を常に気にしなければいけない状態になる。魔法の鏡に毎度毎度自分が世界一美しいかどうかを問い続ける白雪姫の王女は言葉が作り出した意識(言葉の鏡に映し出されるものを本当だと信じてしまう)にとらわれてしまう、言葉を持った人間一般の悲劇をあらわしているのであって、あの王女だけが特別愚かなのではない。

 

加えて、その意識によって肉体としての体の水準でも時間が止まってしまう。体や精神は本来一体であり自律的なのであって、その自律性のもとにしか動かない(心臓が意識で命令しても動かず勝手に動いているように。)。

 

たとえば体が無数のちいさなブロックで構成されているとイメージする。個々のブロックは、イソップ物語の毎度川に落ちることを覚えたロバのように、一旦学習した動きを何度でも繰り返す傾向をもつ。昔に刷り込まれた動きが今は合わないものになっていても繰り返す。これも海綿を積まれて落ちると重くなるにもかかわらず川に落ちて荷物を軽くしようとするロバと同様だ。すると、体のある部分は1年前の動きを繰り返す傾向をもち、別の部分は10年前の動きを繰り返すということになる。このバラバラの状態はそれが向き合わざるを得ない状態になるまで無意識に沈んでいる。

 

無秩序でバラバラな習慣の塊として体があり、それらが更新される機会は動くプロセスを停止させる意識の自動的な制圧、無自覚な制圧によってより奪われてしまっている。
稽古では、この習慣化した動きを更新するためにまず普段通りの動かしかたができなくなる「型」に入って、その後普段の動力源ではない、体全体がつながった状態でおこる自律的な動きをもって動くことを体験する。(教育者大村はまが普段使ってそれで済ませている言葉をあえて使わないで別の言葉で表現しようとすることの重要性を述べていたことを思い出した。)そのようにして何十年も前のままのことを繰り返していたその部分は体全体とのつながりをとりもどし、更新される。

 

なぜ言葉から作りだされた意識は「時間を止める」ものなのか。書きながら思い至ったことは、「時間を止める」ということの実態は過去の再現ではないかということだ。一度覚えたこと、与えられた刺激をきっかけに、その時の状態を再現すること。そればかりが繰り返されていれば結果的に状態は更新されず、「時間は止まって」いる。

 

自分とはどういうものかを考える自意識は、言葉によって作りだされている。言葉は既知のものと深く結びついており、というか、既知の記憶そのものなのだが、古い習慣を想起させる。自分とはどういうものかと考える意識が立ち上がるたびに、連関的に古い記憶が繋げられ、過去の動きがまた再現される。自分というリアリティとその制圧性は相当に強く、再現された過去は更新に向かう自意識にとって未知で微細な動きを無視し抑圧してしまう。

 

もともと身体と精神と共に存在する変化していくプロセス、更新していく自律性を強制停止しているのは他ならぬ自意識としての自分であって、考える主体、コントロールする主体としての近代的個人像そのものが変化や更新を停滞させている要因だといえるだろう。

 

言葉によって作りだされた意識には時系列があり、時間は過去から未来へと流れる。1秒1分1時間というプロセスをともなわない空虚で変わらない間隔こそ基準であり真実であると思える。しかし実際の人間の心や精神のありようとそれらは乖離している。

 

精神に時間などない。何十年前におこったことでもそれが昨日おこったことのように感じられることもあるし、大昔におこったことを納得するために後の生が捧げられる。時系列とはあえてそういう見方をすればそういうふうにもリアリティを感じられるというようなものだろう。だから物心以前の状態や自意識が消える状態のときは時系列も時間の概念も消えている。

 

今の自分が関心をもっていることは、言葉が作りだした意識が認識する時間ではなく、プロセスそのもの、自分の周りや自分に触れたものに影響を伝播させていく質そのものとしての「時間」だ。

 

今日視聴させてもらったトークイベント「コロナ禍で歩く」ではそのような質としての時間、伝播し引き起こすものとしての「時間」の話題が豊富に出ていた。

 

今書いたことをもう一度整理しながらイベントで記憶に残ったことを考えてみる。
意識には二つの意識があると述べた。一つ目はただ気づいていて判断や序列づけなどがまだなく、自分がなんであるかというようなことも後ろにひいているawarenessとして意識。もう一つは言葉によって作りだされる意識。後者の意識は変化のプロセスとしての「時間」を止めるものとしてある。

 

整体の稽古では、個々のブロック(あるいは小さいパーツ)としてつながりが絶たれ、ここのブロックが無秩序に過去の動きをそのまま再現してしまう状態を更新していく。その方法は、まず自意識の制圧状態を「型」によって成り立たせなくして、体全体のつながりを回復させた状態でおこる自律的な動きを呼び出すというものだった。

 

精神や心だけでなく、肉体としての体自体も言葉が作りだす意識によって制圧状態、強制停止状態にあり、過去の状態が更新されにくい状態になっている。そしてそこから自律的なものを導き出すやり方も、まず自意識の制圧状態を打ち消すという手順をとる。これは精神的の変容がおこる場でも同じ手順だといえるだろう。まずその人にとって強迫的なものを打ち消す環境設定があるところで、自律的な変容への動きや求めがおこっていく。

 

1秒1分という数えられる時間の感覚があるとき、思考する自意識、言葉によって作りだされた意識が立ち上がっており、自分は「やるべきこと」や「あるべき姿」への強迫にさらされており、自律的な「時間」、プロセスとしての時間は後ろにひいている。その時間は止まった時間なので、強迫にさらされながら同時に退屈であり、飽き飽きとした苦しみももたらされる。

 

何か集注できること、一瞬であれ時間感覚が忘れられる状態に入っているときは、自分という意識や時間感覚、そして強迫的なものが後ろにひいており、むしろ本来のプロセスとしての自分が動いている。止まった時間としての自分ではなく、プロセスとしての変化する自分が存在している。

 

このとき、いわゆる時間感覚は無く、時系列といったものも存在しない。精神や心にとって時系列など存在しない。

 

肉体としての体が無数のちいさなブロックで構成され、そのブロックがそれぞれバラバラな過去に刷り込まれた状態で存在しているように、精神や心と呼ばれるものも同じようにバラバラに反応するブロックが無秩序に組み合わさっている状態として存在しているとみなすと、精神や心の止まった時間(つまり止まったプロセス)を再び動かし、古いものを消していく際に具体的な対処を考える手がかりになる。

 

言葉が作り出した意識が「時間を止める」働きになるのは、言葉がそもそも記憶であり、ある動きが刷り込まれた時点を再現するためではないかと思われた。過去の状態が繰り返し再現されるとき、更新に向けて動く契機をうかがっているプロセスがそのたびにひっこんでしまう。

 

言葉をもち、それを統合する自分という自意識があることは、本来であれば消えて流れていく古い記憶が繰り返し再現されることでいつまでも保持されやすいのではないか。
しかし言葉が過去の記憶や状態を自動的に再現することは、悪いところばかりではないようだ。十分に消化できていない経験にあえて焦点をあてそのプロセス(時間)をすすめることができる。

 

たとえば、昔テレビ番組であったが、ルー大柴にそっくりだった祖父が亡くなり、懐いていた孫が何年も祖父を思い出して泣くという状態にあった。ルー大柴が派遣されて祖父のように孫とやりとりしたところ、孫にとっては未消化のものを消化する十分な経験になったようだ。(ついでに言えば孫の母(故人の娘・故人とは最後まで距離があった。)と祖母(故人の妻)にとっても「故人」との再会が大きなカタルシスをもたらしたようだった。)

 

未消化なまま残っている経験は精神や身体に負の影響を与えるが、それを消化していく際には未消化なままの経験に「続き」を与えてあげる必要があるようだ。その未消化な経験が残ってしまったその当時のリアリティを焦点化し、ピンポイントで再現するきっかけとなるものを用意する際に言葉は有効だ。(もともと言葉がもたらす意識のせいでこういう「止まった時間」の問題が出てくるのだから毒をもって毒を制するようなものであるけれど。)

 

トークイベント「コロナ禍で歩く」では、精神に沈んでいる未消化な経験がその経験と関係がある地を偶然歩くことになったときに浮かび上がり、自分にとって必要な「続き」が経験されたと思われる話がされていた。

 

心というものが無数の小さな記憶のブロックがごちゃ混ぜに組みあげられたようなものであるとき、自分一人では意識下に沈んでいるその個々のブロックに焦点をあてることは難しい。自分は自分の習慣化にあるためいつも同じブロックにしか光があたらず、その他のブロックは未経験でもそのままになっている。

 

(自分自身でそこにアプローチしようとするよりも、環境や他者による偶然の働きかけによって、未消化な経験として残っているブロックのリアリティが彷彿され、消化のプロセスが動きだすことのほうが実際には多いだろう。)

 

ある物語が自分の時間を動かすということがあるだろう。未消化のまま残っている経験は、それをもう一度彷彿させるリアリティがなければおさめられ消えていくプロセスがはじまらない。物語はある特定の心のブロックの「時間」を動かすリアリティを提供する。その意味で物語とは外部化された「時間」だといえるだろう。

 

時間感覚があるときの意識は自意識としての自分が前面に出ており、自分のなかで動こうとしている変化更新のプロセス、消化のプロセスは後ろにひいている。が、そのような意思的主体としての自分が前面に出ていても、物語を読んでいるうちに自分という意識は後ろにひき、動く機会を待っていたプロセスが動きはじめるときがある。意思的主体としての自分、自意識としての自分は直接的には自分のプロセスを動かせないが、自分が後ろにひいた状態になるきっかけを自分に与えることはできる。自意識が自分に対してできることは間接的なことだ。

 

またサードプレイスや街角、玄関口、待合ベンチ、縁側など、境界的な場所においては自意識の自動的な制圧状態はゆるやかになって自律的なものが動きやすくなる。だからこそ多くの人が境界的な場所を求めるわけだが、これも言葉の影響が自覚する以上に精神や心の状態を支配していることを表している。自意識は言葉でできているのだ。だから内と外の間のような意味と意味の間が必要であり、体も精神や心も自覚以前の段階から意味に制圧されている。それゆえ自分のプロセスがどこに動き出そうとしているのかさえ、境界的な空間に身をおいて動きだすものを確認しなければ知ることも感じることもできないだろう。

 

整体の稽古で、手だと感じるところと手首だと感じるところの境界を探るというものがあった。対象とは逆の手で手刀をつくり、トントンと対象の手を打ちながら感覚の変化を確認する。そしてその境界が確認できたらそこに意識をおいて手を動かしてみる。すると体全体がつながった本来的な動きが経験され、それまでの習慣が上書き更新される。

 

境界に意識をおくことで意識は自動的な制圧力を失う。その制圧力が強くかかっているうちは、自律的なものが出てこない。稽古ではまずその意識による自動的な制圧状態を解除してしばらく再制圧できないようにする。そして本来的で自律的な状態をよびおこし、その状態を体験する。そしてここで体験された感覚が再現できるようになる。

 

このように未消化なままいびつに固まっているものを動かして変えていくときは、まずそれが固まったときにあったリアリティを喚起させ、その場所やそこでおこっている動きを気づきの領域にいれる。プロセスには一応それ自体で自意識を後ろにひかせて体験に引き込む力もあるのだが、意識の自動的な制圧力はかなり強いので、意味と意味の間に意識をおき、その制圧力を無化することが必要になる場合のほうが多いだろう。
そもそも言葉がもたらす意味がプロセスとしての「時間」を止めているのだが、言葉はピンポイントであるリアリティに焦点をあてることもできるので、リアリティの呼びおこしには有用だ。トークイベントのなかで、相手の人が何かをしていたその日は、自分の誕生日だったということが語られた。

 

「誕生日」という特別なリアリティを喚起させた状態においては、感じられること、思い浮かぶこと、体験のされかたが変わる。近代的個人のイメージからは自分という単一の人格や感性があるかのように錯覚してしまうが、実際にはどのようなリアリティが喚起されているか、自分がどんな状態にいるのかによって、思考も感性も体験も変わる。言葉はあるリアリティを喚起して、普段の自動的な制圧状態では体験できないことを体験し、動かないプロセスを動かす焦点をつくることができる。

 

ひとまとまりに統一された人格や自分などは実際にはない。ごちゃ混ぜの記憶をその場しのぎで体裁をつけたものを「仮に」自分とか人格だとかということにしているだけなのだ。あるのは秩序なく組み合わされた個々の無数の記憶のブロックだ。ならば自分の苦しい状態を別の状態に移行させようとするならば、この実態にあわせたアプローチが必要だ。

 

自分というものが自覚される止まった時間と自分が後ろにひいた生きて動いている「時間」があり、後者を生かすために自動的な意識の制圧状態が成り立たない状態になるよう設定する。意識的主体である自分が後ろにひいて消えるように自ら画策する。その結果、人は世界に開かれ、他者に開かれ、体験に開かれる。

 

そこには時系列はなく、過去は存在しない。過去は現在に加わってふくらみのある現在そのものとなっている。小さかった時の自分も大きくなった自分も亡くなった人もそこでは同時に存在している。何も失われておらず、いなくなってもいない。失われたと思われたものはもう一度光をあてられるまでただ精神の底にいてずっと待っているだけなのだ。

 

自分という意識が立ち上がっているときには見えないものがあり、動きださないものがある。図と地を同時に見れないように、対象を意識的に把握しようとするとき、地は消えてしまう。地を見ようとすると今度は地を図としてとらえるので、図は地になって地はいつまでも見えない。

 

自意識は地の真実を求めているのだが、自意識であるために図しか見えないジレンマがある。図しか真実でないとされることに精神は違和を覚え、苦痛を感じる。

 

認識における地と図の関係は、アニメ「君の名は」でもあったように、時をあつかう物語で繰り返し表現される。「あのこと」が「事実」であることと、自分という自意識の世界を並存させることは決してできない。どちらかが失われるか、成り立たなくなれなければいけない。眠りかけのアリスでなければ幻想の国にはいけない。

 

未消化だった経験を消化していくとき、故人や小さいころの自分などもはや「実在」しないものとのやりとりもおこる。しかしそれらを「実在」するとしてしまうと自意識の世界は成り立たなくなる。

 

意識には図しか認識できない。しかし、たとえられたものとしては、そのままでは現実として受け取れないものの実在性を感じることはできるのだ。心にとってのリアリティを提供することで「時間」は動きはじめる。

「負」を受けいれるために 「内面」の問題化から構造の問題化へ

心はなかなかに負を受け入れられない。負を内面において受け入れることは、社会的に謝罪することだったり、罰を引き受けること、公的な場において自分の振る舞いを統制することとはまた別のことだ。根本的な問題の改善には社会的な「責任」の全うと内面における受け入れの両方が必要だろう。


物語のなかで悪いことをするのは狼や狐のようなものだったりする。が、物語で書かれていることは人間のことであるので、それが狼だろうが狐だろうが非生物であろうが関係なく、人間のリアリティについて書かれている。

 

物語は人間のリアリティを人間の心が受け入られる次元にして経験させ、自身への受け入れを可能にする媒体でもある。そこで受け入れがたいリアリティは非人間が代わりにやることになる。

 

赤ずきんのおばあさんを食べる狼は人間なのだ。だがおばあさんを食べる人間などを心は自分として受け入れることができない。それは自分ではないと否定してしまう。だがその否定は、自分から否定的な経験を乖離させたまま維持することにつながっている。

 

自分から否定的に思われたリアリティを乖離させる代償は実は大きい。そのリアリティに関わることは意識できなくなり、結果として、何かの契機にそのリアリティを自分自身が再現してしまう。

 

「問題」は未解決なままで維持保存されていて、意識的には無感覚になっているが、精神はその維持負担を吐き出し、動かそうとしているように思われる。それは否定的なリアリティを自身のものとして受け入れようとする自動的な「回復」への動きともいえるが、これは自覚や統制のきかないものとなり、犯罪や暴力、ハラスメント行為になりうる。

 

負とは醜さでもある。自分の負を受け入れる人は美しいと思われるかもしれないが、単純にそれが個人の思い切りとか努力とか勇気とか潔さみたいなものでできるとは思えない。ある醜さを受け入れるためには、その醜さをも包みこむ肯定性(実際には否定性の打ち消しということになるだろう。否定性を受け入れず肯定性で目隠ししようとすることは結果として差別的価値観の獲得にもつながるだろうから。)が必要になってくる。自分の価値がその醜さによって失われない限りにおいて、その人は自分の負を、つまり醜さを受け入れるだろうと思う。

 

その前提を抜きに、ただその人の行為に対して醜さを受け入れよということは、単にその人の心の壁を厚くさせ、結果的に古い自分の維持を強めてしまう。北風が旅人の服を剥ぎ取れなかったように。

 

繰り返すがこれは内面の話であり、間違いをした人は被害者に対して社会存在としての「責任」を果たす必要がある。ただ対外的にその「責任」をはたしたとしても、内面の変化が伴わなければ加害者は自分のほうが被害者だといつまでも思い続けるわけだ。
いくつかの場を通して、差別や明確な差別には至らなくても人を辱めるマイクロアグレッションを内面の問題に帰することが、大きな反発と抵抗、自動的な話題の逸らし、焦点ずらしなどを派生させるように思われた。

 

(意図的にそういうことをやる人はいるわけだが、本人はそのつもりでなくても、自動的にそういうことがおこっているとみるほうがおそらくこの問題における場の停滞状況を抜けていくにあたって、実際的な設定やアプローチを考えることに寄与するだろう。)

 

人は自分の醜さを受け入れることが難しい。差別的価値観を内面の問題とすると差別価値観と醜さは直結する。これによって余計に強固に、かつ自動的に自分を守ってしまう。差別的価値観を環境から減じていきたいのに、それを取り扱おうとするとかえって強固な反発や無感覚の壁が作られてしまうジレンマがある。

 

万人向けではないが(そもそも万人向けするものなどそれ自体欺瞞に取り込まれており、現状を改善ではなく維持補完するものだろうけれど。)このジレンマを抜けていこうとするとき、菊地夏野さんと酒井隆史さんの対談は大きなヒントになった。

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この対談においては、資本主義がエッセンシャルワーク(医療、介護、教育などたとえコロナ禍においても止めることができない「社会的再生産」を担う仕事。一方金儲けのための、なくてもいい仕事はブルシット・ジョブと呼ばれる。)を犠牲にし、搾取することで成り立っていると喝破されている。

 

そしてこの本質に向き合わない限り、破綻に向かう社会を止めることができず、現存する差別に向きあっていくこともできないとされる。たとえば男女差別の解放が政府があげた「女性の活躍」に歪められるように。

 

(「女性の活躍」は実際には現存の社会構造の不均衡(女性やマイノリティがエッセンシャルワークを無償や低賃金で担う。)の改善に向かうものではなく、エッセンシャルワークに加えて金儲けもできる超人としての「女性」イメージをあげて、エッセンシャルワークをこれまでと同様に「女性」やマイノリティに負担させようとする目くらましでしかない。)

 

おいしい思いができる「金儲け」はエッセンシャルワークを誰かに過度に負担させることによって成り立っている。資本主義自体が差別を前提にし、差別を求めているといえるだろう。

 

それであれば、差別を個人の内面の道徳やモラルの問題にするのではなく、資本主義をささえるために構造化された規範、搾取する人と搾取される人を固定化する階級形成のための規範ととらえることができるのではないかと思う。

 

そしてそこにおいては、マイノリティとそれを抑圧する無自覚で特権的なマジョリティという人的な対立、個人の内面における対立ではなく、搾取のための階級形成を規範を構造の問題として共に明らかにしていくという共通の方向性が見出されるのではないかと思えた。

 

共に搾取のための構造に組み込まれ、規範を内面化させられた疎外者として、環境と自身を回復させていくという共通の方向性をもつ。このことによって差別的価値観と自身の醜さとが直結させることを避けながら、共に構造の不均衡を知っていき、実際的には差別的価値観を減じていくということがすすめられるのではないか。

 

まずは関心ある有志と実験的なスモールグループ(ワーキンググループ)で試行していきたいと思う。