くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「青春18×2 君へと続く道」「鬼平犯科帳 決闘」

青春18×2 君へと続く道」

一級品の出来栄えではないけれど、清原果耶の実力を目の当たりにするキュンキュンのラブストーリーでした。岩井俊二の「LOVE  LETTER」をキーワードにしているだけあって、あちこちにそれらしいシーンがあるけれど、シンプルで、やや懐かしい物語ながら素直に涙ぐんでしまいました。良かったなあ。監督は藤井道人

 

会社の役員会議でしょうか、主人公ジミーが会社から追い出されるくだりから映画は幕を開ける。どうやらジミーはゲームソフトの開発をしてきて成功したらしい。何もかも失ったジミーは18年前もらった一通の手紙を見て日本へ行くことにする。そして映画は18年前、ジミーが大学受験の頃に戻る。

 

台南に暮らすジミーは大学受験を終え、徹夜でゲームをしていてバイト先のカラオケ店にいくのが遅れてしまう。店長らに怒られたものの、アットホームなカラオケ店だった。流行っていないカラオケ店なので庭でバスケットで遊んでいたジミーは、一人の日本人の女性が訪ねてきたのに遭遇する。訪ねてきたのは日本から一人旅できたアミだった。アミは旅先で財布を無くしてしまい、バイトさせて欲しいと頼んでくる。ここの店長は神戸からここへ移ってきた人で日本語を話せるのだった。

 

アミがバイトを始めると、彼女目当てに客が押し寄せ、カラオケ店は大繁盛し始める。彼女の歓迎会が催され、アミは旅の目的として、自分にしか描けない絵を描くためだと旅のスケッチを見せる。それを見たジミーはカラオケ店の壁のダサい絵を描き直してもらおうと提案する。やがてアミは壁の絵を描き始める。そんなアミにジミーは次第に惹かれ始める。歓迎会の帰り、ジミーは自分の大好きな夜景の見える展望台へバイクに二人乗りで連れていく。

 

ジミーはアミに交際を申し込むべく「LOVE LETTER」の映画に誘うが、映画に感動しすぎてタイミングを逃してしまう。現代のジミーはアミの故郷福島県只見を目指して列車に乗る。そこで幸次という若者と知り合い、途中下車して、雪景色の中に「LOVE LETTER」を思い出し映画について聞かせる。

 

18年前のある日、アミはそろそろ帰国すると言い出す。ジミーは落ち込んでしまうが、父の励ましもあり、気を取り直し、アミが見たがっていたランタン祭りに誘い出す。そしてそこで手を握り、アミは抱擁を返す。現代のジミーは列車の終点の駅について、深夜ネットカフェに立ち寄るが、そこで由紀子と出会う。そして、たまたま見たポスターからこの地にもあるランタン祭りに行くことにする。18年前のアミと出かけたランタン祭りの夜と交錯する。

 

その後ジミーは一路只見へ向かう。そして地元の人の案内でアミの実家へやってきたジミーはアミの母裕子に会う。そこで、アミが残した台湾でのスケッチブックを手渡される。アミは心臓病で余命いくばくもない中で台湾へ旅行に来ていたのだ。そして次はブラジルへという中亡くなった。そして、18年前にアミが帰国してからが、スケッチブックを見直すジミーの姿に被り、二人の物語としてフラッシュバックと共に描かれていく。その後、ジミーは日本を後にし、新たな旅立ちを決意して映画は終わっていく。

 

ベタなストーリーと言えばそれまでだが、岩井俊二の「LOVE LETTER」へのオマージュ満載で描かれるオーソドックスなラブストーリーは、真っ直ぐに心に染み込んでくる感動を生んでくれます。シンプルこそベストという典型的な映画でとっても良かった。

 

鬼平犯科帳 決闘」

古き良き時代劇を堪能させてくれる面白さだった。池波正太郎の原作がいいのだろうが、芸達者な役者陣を揃え、オーソドックスな台詞回しと間合い、そして勧善懲悪な展開の中に、人間味あふれるドラマの機微が散りばめられた脚本がとっても素晴らしく、特に前半は秀逸。後半から終盤、若干もたつくのが残念ですが、それぞれのキャラクターも立っているし、本当に楽しめました。監督は山下智彦

 

若き日の長谷川平蔵は本庄鬼と呼ばれるほど無頼の徒だった。彼があるヤクザもののところに殴り込みに行くところからジャンプカットして現在の鬼平となった平蔵の姿で火付盗賊改で乗り込むところへ移って映画は幕を開ける。夜、闇夜を走る一人働の九平はこの日も一軒の蔵に忍び込み小判を手にしていた。そこへ、網切りの甚五郎の一味が押し入り、主人ら家族を皆殺しにして蔵に押し入ってくる。そしてその様子を九平は目撃する。

 

長谷川平蔵の邸宅にかつての知り合いの娘で一時盗人をしていたおまさがやってきて犬=密偵にして欲しいという。しかし平蔵は足を洗ったおまさを犬にすることは承知しなかった。たまたま平蔵は勧められて芋酒を振る舞う店に立ち寄った際、一人の遊女おりんと知り合う。さらに芋酒の店の主人は九平だったが、平蔵は知る由もなかった。九平は密かに帰る平蔵をつけるが、平蔵に気づかれたので身を隠してしまう。

 

平蔵は、九平が先日の押し入り強盗の何かを知っていると踏んで探し始めるが、おまさが九平のことを探す代わりに犬にしてもらうことを提案する。実はおまさは九平のことを知っていた。九平は押し入り強盗を目撃した際、引き込み女を目撃、それはおりんだった。さらに主人を殺した甚五郎はその血で鬼平の文字を床に刻んでいた。おまさと九平は甚五郎のアジトを突き止めるが逆に捕まってしまう。二人は窮地を逃れるため仲間になりたいと申し出る。おまさはそこでおりんと言葉を交わすが、おりんが平蔵への憎しみはすでにないと告白したのを甚五郎に聞かれ殺されてしまう。甚五郎は執拗に平蔵を憎んでいた。

 

甚五郎は、次に押し入る店を段取りし始め、おまさは平蔵に連絡するべく九平に手紙を託す。そしておまさが引き込み女として準備するが、情報を聞いた平蔵ら火付盗賊改が甚五郎らを取り囲む。甚五郎はおまさや九平が裏切り者と知ったが、その場は逃げてしまい平蔵は甚五郎を取り逃す。

 

おまさは甚五郎の次のアジトを探すために自ら囮になって捕まり、九平に平蔵にアジトを連絡させる。平蔵はおまさを助けるべく単身乗り込みおまさを助けるがまたも甚五郎は逃げてしまう。甚五郎は平蔵が若き日に惚れていたおりくに手傷を負わせた男の息子で、若き日に平蔵はおりくの敵討ちにその男を殺した。これが冒頭の殴り込みシーンである。

 

しばらくして、平蔵のところに、旧知の京極備前守から使者が来て、料亭での会食に誘われる。平蔵が家を空けると知った妻の久栄は、おまさを自宅に呼んで一緒に夕食を食べようということにする。ところが、久栄から平蔵が行った料亭の名前を聞いたおまさは、甚五郎のアジトで見た絵図面にその料亭の名があったことを思い出す。その頃平蔵は招かれた料亭で甚五郎と対峙していた。甚五郎の罠だったのだ。

 

平蔵は刀を預け座敷に入った上、弓に狙われて窮地に立つ。そして必死の応戦をしているところへなんとか火付盗賊改の面々が駆けつける。竹藪に逃げた平蔵を追って甚五郎が襲いかかるが、おまさの機転もあり、平蔵は甚五郎を倒す。晴れておまさは平蔵に密偵となることが許され映画は終わっていく。

 

往時の時代劇ほどのスケールの大きさこそ見られないし、久世龍がいた頃の殺陣アクションの華麗さこそないものの、しっかりとした間合いと映像で見せる骨太のオーソドックスな時代劇の風格が十分出ていた作品でした。

映画感想「水深ゼロメートルから」「ミセス・クルナスvs.ジョージ・W・ブッシュ」

「水深ゼロメートルから」

高校演劇の映画化なのですが空間を広げすぎた演出が、女子高生の細かい心の機微を表現する原作の意図を散漫にしてしまった気がします。決して悪い作品ではないし、不思議な感動を見せてくれるように思えるのですが、砂だらけのプールという空間が主人公の女生徒たちへの気持ちに集中出来ない結果になったのはちょっと残念です。監督は山下敦弘

 

8月を目前にした高校のプール、そこに砂が溜まっていて一人の女子高生ミクが何やらイヤホンをつけてプールの底で踊り始めるところから映画は幕を開ける。そこへもう一人チヅルがやってきて空っぽのプールで泳ぎ始める。ミクはヤマモト先生の指示で補習としてプールの砂の掃除をすることになっていた。そこへミクと同じく補習を受けるココロがやってくる。

 

チヅルは補習をする必要はないが、泳ぐ真似をしている。彼女は水泳部だが男子水泳部はインターハイに出かけている。ミクは間も無く行われる阿波踊りに男踊りを披露する予定だが、かすかに悩んでいた。チヅルは野球部のエースクスノキのことが好きらしい。しかし、野球部が練習しているためにその砂埃がプールに飛んできているのだった。

 

ココロはメイクが好きでそれを咎められて今回の補習になったようである。映画はココロ、ミク、チヅルの三人の会話で淡々と進んでいくが、中盤、元水泳部キャプテンのユイも参加することになる。ココロは途中で生理だからとトイレにはけ、ミクは飲み物を買ってくるとその場を離れるが、そこで野球部のマネージャーをしているレイカと出会う。レイカの話ではチヅルも野球部マネージャーを志望したが面接で落ちたらしかった。

 

飲み物を買った帰り、ミクはユイに会う。ユイはプールでチヅルに、自分より遅いことを責められ落ち込んでいた。ユイはチヅルが凄いと呟き、自分は特に好きでもなく水泳部にいるのだと告白する。ヤマモト先生が途中で作業状況を見にくるが、ベンチで横になっているココロと言い争いになりつい感情的になってしまうものの、直前で冷静になって戻っていく。

 

8月にプールの改修作業があり、それを知ってプールに入らなくてもいいようにヤマモト先生はこの日補習を決めたらしい。チヅルはどうやらクスノキに競泳で負けたことが気になっているらしい。男であること女であることにこだわるミクやココロとも言い争う。チヅルは集めた砂を持って、宣戦布告だ!と叫んで校庭のマウンドに砂をぶち撒けて帰ってくる。まもなくして雨が降り出す。ココロが慌てて屋根の下に隠れるが、意を決したようにミクが阿波踊りを踊り出して映画は終わる。

 

まさに舞台劇という様相なのですが、ちょっと空間を広げすぎた感じで、広いプール、校庭、中庭と移るカメラ、クローズアップを控えほとんどフルショットで捉える主人公たちの姿が、あまりに繊細な彼女たちの心を捉えきれなかった感じがします。いい作品なのは分かるのですが、原作の味を百パーセント映像に昇華できなかった感じでした。

 

「ミセス・クルナスvs.ジョージ・W・ブッシュ

実話を元にした作品なのですが、映画としてのストーリー構成は無視して、淡々と出来事を羅列する造りなので、次第に退屈になってくる。しかし、主演のラビエ・クルナスを、ひたすら悲壮感で覆った描写をせず、能天気なくらいに明るく描いた演出はうまいと思える映画でした。監督はアンドレアス・ドレーゼン。

 

2001年、いつものようにラビエは息子のムラートを部屋に起こしにいくところから映画は幕を開ける。ところがムラートの姿はなく、どうやら友人と出かけたらしい。しかし、いつまでも戻らないので警察に相談したりモスクに行ったりしたら、どうやら海外へ向かったらしいとわかり、まもなくしてキューバにあるグアンタナモアメリカ軍の収容所に拘束されたことがわかる。

 

ラビエは息子を取り戻すべく画策するも埒があかず、たまたま電話帳で見つけたドッケという人権弁護士に強引に会いに行って懇願、ドッケもラビエの苦境を察知して、無償で仕事を受けることにする。ラビエはドッケのアドバイスアメリカのブッシュ大統領を相手にアメリカ合衆国最高裁判所で訴訟を起こすことにする。

 

そして、周囲や関係団体の力もあり、勝訴するが、政治的な駆け引きの中、ドイツがムラートの帰国を拒否する。しかし、まもなくしてドイツ首相が変わり、考え方が正反対になって急転換、無事ムラートは帰国するがすでに5年以上の月日が経っていた。ムラートの妻は離婚し、ムラートは戻ってきたが複雑な思いを抱くことになり映画は幕を閉じる。

 

淡々と描く物語は、ある意味面白いのですが、いかんせん、映像作品としての仕上がりにまとまり切らず、作品としては普通の仕上がりだったように思います。

映画感想「裸の町」(久松静児監督版)「悪は存在しない」

「裸の町」

機関銃のような台詞回しからコメディのように始まる映画なのですが、みるみる悲惨な状況に物語が転がっていく様がなんとも破綻したような映画。それでも決して駄作に仕上がっていないところはさすがと言えば流石なのは、登場人物が隅から隅まで名優が演じていることだろうか。杉村春子浪花千栄子がさらりと登場する贅沢さは呆気にとられる映画だった。しかし、制作された1957年を彷彿とさせる一本でした。監督は久松静児

 

東京の街並みを俯瞰で捉えるカメラにタイトルが被り、今にも潰れそうなレコード店へシーンが移ると、機関銃のような早口で喋りまくる森繁久弥扮する高利貸しの増山のカットになって映画は幕を開ける。店の主人富久はレコードマニアというだけで商才が全くなく、人の保証人になったりする気の良さもあってこの店は借金まみれだった。同じく高利貸しの榊原が取り立てにやってくるが増山が巧みに煙に巻いて追い返してしまう。

 

実は増山も富久に金を貸していたがなんとか榊原の先手を打って富久から金を取ろうと考えていた。そして、富久ら家族を夜逃げさせて店の権利金を巧みに騙し取ることに成功する。増山は、家の押し入れに現金を隠して日々悦に浸っていた。そんな夫に嫌気が刺し始める妻さくだった。富久の妻喜代はしっかり者だったが富久が増山の口車に乗せられたのを知り、富久に嫌気をさしてしまう。

 

富久と喜代はいく当てもなく彷徨い、旅館を転々とし、やがて喜代は別れる決心をして汽車に乗ろうとする。そんな頃、増山の女房さくは、兄の勧めで投資銀行に金を預けることにし押し入れの増山の現金を預けるが、その会社は榊原が仕組んだ詐欺の会社だった。まんまと金を取られた増山は榊原のところに殴り込み、あわやしめ殺そうとしてしまう。てっきり殺したと思った増山はに逃げる算段をするが、榊原は無事だった。

 

増山は一文無しになり、投資会社の軒先に家族共々座り込んでしまう。富久らは唯一残ったコレクションのレコードを持って街に戻り、それを売って夜店を始めることにして映画は幕を閉じる。

 

前半の色合いが後半につれて大きく変化してしまう点で一貫性が崩れた作品ではあるけれど、これだけの役者を揃えて、予想外のキャラクターを描いていく面白さはまさに映画黄金期の一本という映画でした。

 

「悪は存在しない」

微に入り細に入った脚本の凄さには頭が下がるが、果たして意図して書いたのか天性の才能が成したものかはわからない。シュールなラストシーンで締めくくる映像芸術的なエンディングはさすがと言えば流石ながら、ではもう一度見たいかというとそれは躊躇してしまう。でも抜きん出た一本であることに相違ない傑作だった。監督は濱口竜介

 

長野県水挽町の森の中、一人の少女花が空を仰いでいる場面から映画は幕を開ける。山小屋で薪を割る父の巧は、都会からこの地に来て便利屋のような仕事をしている。近くのうどん屋の水を汲みに河瀬へ行き水を汲んでいるが、花を学童へ迎えにいく時間に遅れ慌てて車で向かうが花はすでに一人で帰っていた。途中追いついた巧は花と一緒に森を歩き、雉の羽を拾う。

 

その羽を地元の区長をしている先生にプレゼントして喜ばれる。この地に都会の芸能事務所がコロナ禍の補助金目当てでグランピング施設を作る話があり、この日住民への説明会が行われた。会社側から担当の高橋と薫がやってくる。しかし、会社側の一方的な計画に住民は懸念を示す。高橋らが帰り際、区長の老人が、巧と親しくした方がいいからとアドバイスする。その際花は、自分で見つけた雉の羽を渡すが、一人でうろつかないようにと区長に言われる。

 

会社に帰った高橋らはコンサル会社のアドバイザーや社長に住民の意見を届けて、この事業は辞めるべきだと言うが、社長らは補助金を貰わないと会社が危ういのだからもう一度巧に会いに行けと指示する。高橋らは仕方なく巧のもとへ向かうが、途中の車の中で、こんな会社は辞めようかというような話をする。

 

巧のところにきた高橋らは、巧の薪割りを経験し、うどん屋のへ水を運ぶのを手伝い、しばらくここにとどまることを決めるが、巧が花の迎えにまた遅れ、花は一人森に入って行方不明になる。巧ら地元住民が探すも見つからず、巧と高橋はグランピング予定地の草原で手負の鹿と対峙する花を見る。しかしそれは一瞬の幻覚だったらしく、巧はこれ以上ここに関わるなと言わんばかりに高橋を気絶させ、花の倒れている所へ駆け寄る。花は鹿に襲われたらしく鼻血を出して死んでいた(多分、死んでいたと思う)。巧は花を抱き上げ夜の森を駆け抜ける視点で映画は終わる。

 

音楽が先にあり、そのイメージ映像として後付けされた物語による作品だが、バカな芸能事務所の社長にせよ、利益主義のコンサル会社のの社員にせよ、そのどこにも悪というものは存在しない。都会から来たという巧は普通にタバコを吸うし、おそらく、地元住民ならやらないSUVに乗って、しかも水は手で運んでいる。地元民なら一輪車等の何かを使うはずだが、そんなさりげない脚本が実によくできている。しかし、それがかえって濱口竜介神話と言う偶像的な感想を生んでしまうと本来の彼の良さが失われそうでちょっと危惧してしまう。そんな映画だった。

 

映画感想「システム・クラッシャー」「彼女たちの舞台」(4Kリマスター版)

「システム・クラッシャー」

面白い作りを予感させるオープニングだったが、同じシーンの繰り返しと登場人物の立ち位置が見えないなんともまとまりのない脚本が勿体無い映画だった。結局、大人が悪いのか、母親が悪いのか、主人公の少女が異常なのかその拠り所が見えてこない。やたらサイケデリックなタイトルと、主人公が常にピンクを身につけている意味も分かりづらく、小道具やエピソードがラストになんの意味も見せてこないのは意図的なのか未完成なのか、ちょっと未熟さが見える映画でした。監督はノラ・フィングシャイト

 

主人公ベニーが施設でなぜか暴れている。9歳の彼女は幼い頃に父親にオムツを顔に押し付けられたりした虐待のトラウマで顔を触られると狂ったようになり、手がつけられなくなった母親はベニーを施設に任せてしまう。ベニー自身は母親の元に帰りたいが、結局、一時保護施設や病院に保護される日々を過ごしていた。

 

そんな時、非暴力トレーナーのミヒャはベニーを学校まで付き添う仕事に就く。周囲の人たちが手に負えない姿を見たミヒャは、三週間一対一で山小屋に隔離する方法を提案する。次第にミヒャに心が動いていたベニーは大喜びで山小屋生活を始めるが、何かにつけて問題が起こる。牛乳をもらいに行った牛舎で、番犬を忌み嫌ったり、夜中におねしょしてミヒャのベッドに潜り込んだりする。

 

ミヒャは次第にベニーに親近感を持ち始め、規則違反と分かりながら自宅に一晩預かってしまう。やがて施設に戻ったベニーだが、信頼する児童福祉職員のバフィアはかつて保護してもらったジョバンナの家庭にしばらくとどまれるようにする。しかし、結局そこで一緒に暮らしていた少女がついに顔を触ったことでベニーは騒ぎを起こしてしまう。母は、夫と別れたので、ベニーを引き取ると言うのだが、結局、それも直前で反故にしてしまいベニーは泣き叫ぶ。

 

バフィアはケニアの施設での療養を提案するが、ベニーは拒否し、勝手に施設を抜け出してミヒャの家にやってくる。ミヒャの妻はついベニーを泊めてやるが、翌朝、ミヒャの幼い息子を抱いて部屋に閉じこもってしまう。なんとか息子を取り戻したが、ベニーは一人森に走り去る。ミヒャにも手に負えない状況になっていた。ベニーは夢の中でこれまでの様々を思い出す。

 

寒さで眠ってしまったベニーは保護され、ケニアの施設に行くことが決まる。空港でバフィアに見送られ入管していくベニーだが、通関で突然逃げ出し、テラスから飛び出して映画は終わる。

 

結局、三週間の山小屋のエピソードはなんだったのか、バフィアやジョバンナ、ミヒャとの関係、母親の存在感などがどれも曖昧で描き切れず、やたら暴れるベニーの行動を繰り返し繰り返し描くだけの流れになっているのがどうにも物語が見えてこない結果になった。面白いリズム感を持っているような演出だったがストーリーテリングが今ひとつという作品でした。

 

「彼女たちの舞台」

正直なところ、お話がつかめなかった。劇中劇とリアルタイムの出来事が交錯するのだが、人物名が把握できず、展開が読めないままにラストシーンを迎えた映画でした。監督はジャック・リヴェット

 

一人の女性アンナがある入り口に入るとそこは舞台で、彼女はこれから演じる役をいきなり演じ始め、演出のコンスタンスが指示する場面に移って映画は幕を開ける。古い屋敷を学校にした演劇学校に通うアンナ、クロード、ジョイス、ルシア、セシルは一緒に暮らし舞台の稽古に通っている。

 

ある日、展覧会に行ったアンナは帰り道、男に襲われかかり一人の男に助けられる。その男はアンナを送る途上で同じ演劇学校のセシルが、恋人のことで危険な目に遭いそうだと告げる。不審に思ったアンナがジョイスに尋ねてみると彼女もその男から同じような話を聞いたことがわかる。舞台の稽古は進むがセシルは稽古に身が入らない風だった。

 

例の男が屋敷の周りをうろつき何かを探しているのか四人の女性を誘惑するようになってくる。そんな時、セシルの恋人のリュカが逮捕されるニュースが流れる。そして屋敷を彷徨いていた男はトマという司法警官だとわかる。トマはリュカがセシルに渡した重要書類が入った金庫の鍵を手に入れようとしていたのだが、たまたまセシルが暖炉に隠した鍵を見つけたルシアは、鍵をセーヌ川に捨ててしまったと告白する。

 

それでもトマは執拗に四人に鍵のありかを問い詰めてくる。四人はトマの存在が疎ましくなり、ルシアは酒に薬を入れてトマを殺そうとするが見破られ、隠していた鍵を奪われる。しかし、出て行こうとするトマをジョイスが殴り殺してしまう。翌日、稽古場に刑事が来てコンスタンスを連行していく。どうやらコンスタンスは、逃亡したリュカを匿っていたらしい。演出がいなくなった後もアンナたちは芝居の稽古を続けて行って映画は終わる。

 

というお話だったと思いますが、なんで彼女たちが執拗にセシルを庇うのか、なぜトマはそこまでこだわるのか、ミステリーというジャンルの作品だと紹介されているが、全体に謎解きの緊張感は全くなく、と言って女性たちの確執が描かれているわけでもなく、人物名がはっきり区別できないままに物語が展開し、なんとも把握しづらい映画だった。

映画感想「人間の境界」「かくも長き不在」(4Kリマスター版)

「人間の境界」

緊張感と悲壮感が全編を多い尽くす力作。圧倒的な映像表現で2時間半余り全く気を抜くことなく見入ってしまうが、描かれる物語はあまりにも厳しすぎて、こういう現実があることに打ちのめされてしまいます。監督はアグニエシュカ・ホランド

 

森を俯瞰で捉える映像から映画は幕を開ける。トルコ航空の飛行機の中、シリアからベラルーシに向かうバシールら家族は、ベラルーシを通過してポーランドに亡命しようとしていた。機内で同じくベラルーシを通ってEUを目指すライラと一緒になる。やがて空港についたライラは迎えのバスに乗ろうとするが、方向が同じだからとバシールらも乗り込むことになる。

 

バスはポーランド国境に差し掛かり国境警備隊に停められてそのまま鉄条網の外へ送り出される。そこはポーランドだった。バシールら家族、レイラらはポーランドの森の中を彷徨うが、迎えを呼ぶためのスマホの電源が切れてしまい、とりあえず道路へ出ようとする。ところがようやく道路に出たがそこでポーランド国境警備隊のトラックに乗せられ再び鉄条網からベラルーシへ送り返されてしまう。

 

ベラルーシポーランドの国境を行ったり来たりさせられ、その度にそれぞれの国境警備隊に暴行されたりする。ポーランド国境警備隊のヤンは、妻が妊娠していて間も無く出産だった。正式な家に移るまでの仮住まいには時々難民が入り込んで汚したりするので辟易としていた。しかし、任務で難民をベラルーシに送り返すことには疑問を持っていた。ポーランド政府も難民はベラルーシに送り返すべしという通達を国境警備隊に伝えたりし、さらにEUもそんな扱いに目を瞑る状態だった。ヤンは難民を横暴に扱う際に彼らを擁護する運動家に動画を撮られたりし、次第に精神的に参ってくる。

 

ここに国境付近に住まいする精神科医のユリヤは、ある夜、近くの森の沼地からの助けの声に気がつく。行ってみると、何度目かのベラルーシポーランドとの国境の行き来の中で脱走したレイラとバシールの息子だった。息子は沼地に引き込まれて亡くなってしまうがレイラは病院へ搬送できた。その際、難民救助の活動家アミーナらと知り合う。ユリヤは難民救助活動に参加することにし、アミーナらとピンポイントで場所を知らせてくる難民を救出するようになる。

 

ユリヤは地元の知り合いを巻き込んで新たな難民を救出するが、友人からは協力できないと言われたりもする。バシールの家族は何度目かのベラルーシポーランドの行き来の中でようやくポーランドに落ち着くことができた。2022年、ポーランドウクライナの国境で続々と移民していく難民たちの姿を描いて映画は幕を閉じる。

 

実際に難民だった家族や支援活動家の経験を持つ俳優を起用した緊迫感あふれる展開、さらに、照明だけで照らされた森の風景など映像表現も見事で、悲壮な現実を確実に訴えてくる迫力に圧倒されてしまいます。映像作品としては一級品ながら、いかんせんあまりに過酷な現実の姿は見終わってぐったりと疲労感に包まれてしまいました。

 

「かくも長き不在」

名作というのはこういう映画を言うのでしょうね。ストーリー構成のうまさ、場面転換のテンポ、クライマックスの盛り上がりからラストへの絵作りの巧みさにどんどん引き込まれてしまいます。アリダ・ヴァリの迫真の演技もさることながら、映画というフィクションの妙味というのを堪能させてくれる映画でした。良かった。監督はアンリ・コルピ

 

パリ祭で賑やかなパリの街、飛行機が空を飛び去り、たくさんの軍人のパレード、そして花火からメインタイトルに移って映画は幕を開ける。パリの一角のカフェ、この店の主人テレーズが手際よく仕事をこなし、常連客がいつものメニューと会話で賑やかである。テレーズの恋人のピエールは彼女とバカンスを彼女の故郷シュリュで過ごそうと誘う。

 

そんなテレーズは二週間前から店の前を通る一人の男が気になっていた。いつも鼻歌でオペラ「セビリヤの理髪師」を歌いながら通る浮浪者だが、かつての夫に似ている気がしていた。テレーズの夫アルベールは1944年ゲシュタポに捕まり、それ以来行方不明だった。やがてバカンスが始まり店の客も途絶えたある日、テレーズは従業員のマルティーヌに浮浪者に声をかけて連れてくるように頼む。

 

浮浪者はテレーズの店に来てマルティーヌが相手をし、浮浪者が記憶を無くしていること、かつてオペラ歌手だったかもしれないなど話すにつけ、店の裏にいたテレーズはこの浮浪者が夫のアルベールだと確信する。そして彼の後をつけ、セーヌ川のほとりの彼の小屋にやってくる。

 

男は雑誌や新聞の写真を切り抜き、朝は古紙の回収を仕事にしているということだった。テレーズは客がいなくなった店のジュークボックスにオペラのレコードを入れ、浮浪者を招くようになる。故郷からアルベールの母アリスや義理の弟を呼んで会わせるが、母でさえも浮浪者がアルベールだと確信できないと答え帰っていく。

 

諦め切れないテレーズはピエールの申し出も断り、浮浪者を夕食に誘う。そして、男のこれまでを一つづつ聞き出そうとするが、男は結婚していたことも、テレーズのことも思い出すことはなかった。テレーズは最後にダンスをしようとレコードをかけダンスを始めるが、鏡に映った男の後頭部に大きな傷を見つける。それはナチスによる何らかの手術のせいなのか事故か何かのせいなのかは不明だったが、男が医者から記憶が戻ることはないと言われたという言葉もあり愕然とする。

 

そんな二人を常連の客たちが店の外で心配そうに見つめていた。やがて男はテレーズの店を出る。すでに外はすっかり深夜、去っていく男に常連客らが「アルベール!」と次々と声をかける。すると突然男は何かの記憶が戻ったかのように両手をあげて走り出す。まるで逃げるように通りを駆け抜けてトラックの前に飛び出す。店で待つテレーズにピエールが、彼は無事だったがパリを出て行ったと告げる。テレーズは、「きっと戻ってくる。夏だからダメだった。冬に戻ってきたらきっと…」と呟いて映画は終わる。

 

とにかく、物語の構成、展開、テンポ、が見事にまとまっていて、ラスト、男の記憶が戻ったのか本能的なものなのか両手を上げるシーンのインパクトが上手い。手術跡を見つけるくだりもショッキングだが、この終盤の展開はまさに名作たる貫禄だと思います。いい映画でした。

映画感想「ピクニックatハンギング・ロック」(4Kリストア版)「ヴァージン・スーサイズ」

「ピクニックatハンギング・ロック」

どこか同性愛的な危険な香りが漂うファンタジックミステリーという感じの作品で、抑えた色調の絵作りと、多重露出による重ねた映像、緩やかなカメラワーク、それぞれの人間関係の微妙な色合いが不思議な作品に仕上がった感じが面白い映画だった。物語が淡々と進むので、劇的な流れを想像しているとしんどくなるかもしれないが、作品のまとまりは見事でした。監督はピーター・・ウィアー。

 

1900年バレンタインの日、オーストラリアのアップルヤード女学院、この日、裏山のハンギング・ロックへのピクニックが予定されていて、女生徒たちはどこかしら浮き足立っている。美しい少女ミランダを慕うセーラは、先生のいじめのような仕打ちでピクニックへ行くことを許されず、一人残されることになる。彼女は裕福な家庭の生徒ばかりのこの学院では珍しく施設から来ていた。

 

裕福な家庭のマイケルは叔父夫婦と一緒にハンギング・ロックへ向かっていた。叔父夫婦の気まぐれに同行して来たマイケルは使用人のアルバートと親しくなる。アルバートもまた施設出身だった。

 

ピクニックにきた女生徒たちはしばらく麓で過ごしていたが、時計が12時で止まっているのに付き添いのマクロウ先生らが気がつく。ミランダ、マリオン、アーマ、イーディスの四人はハンギング・ロックの岩を調べてみたいからと、マクロウ先生にすぐ戻ることを約束して岩山の奥へ進む。そんな四人をマイケルとアルバートが見かけ、マイケルはミランダに惹かれて四人の後を追う。

 

四人は途中、イーディスは疲れたからと休んだが、ミランダらは靴下を脱ぎ靴も脱いでさらに奥へ進んでいく。イーディスはそれ以上は行ってはいけないと叫ぶが、三人はさらに先へ進んだので、絶叫を上げて駆け降りていく。

 

学校では校長らが生徒の帰りが遅いと心配していた。そこへ女生徒を乗せた馬車が戻って来たが、ミランダ、マリオン、アーマ、マクロウ先生が戻らないと報告される。早速警察も出動し、捜索が開始されるが見つからない。イーディスは山を駆け降りる際、マクロウ先生がスカートを履かずに駆け上がる姿を見たと証言する。マイケルは行方不明の女生徒が気がかりだからと一人ハンギング・ロックへ捜索に行く。そして、自身は瀕死で戻って来たが、アルバートに、1人の女生徒を見つけたことを草に結んだメモで知らせる。

 

アルバートが岩山の奥へ進むとアーマが倒れていた。行方不明になって一週間が経ってのちの奇跡だった。アーマはほとんど怪我はしていなかったが、なぜかコルセットをしていなかった。やがてミランダとマリオンは死亡したことが告げられるが死体は見つからなかった。ミランダを慕うセーラは食事も取らず衰弱していくが、彼女の後見人が授業料を払ってくれないため校長はセーラに退学を宣告する。

 

校長は、先生らにセーラは後見人に連れて帰られたと話すが、学院の温室で屋上から落ちたらしいセーラの遺体が発見される。一方、アルバートには妹がいて、セーラという名前だというのをマイケルに話す。街の人々は行方不明も女生徒を探そうとするも、いつの間にかそれは、ワイドショーのような様相になっていた。

 

アーマはヨーロッパに行くことになり挨拶にくるが、生徒たちは真相を話せと責め立てる。やがて春が来て、生徒たちは実家に戻って行った。校長も喪服を着たまま謎の死を遂げる。

 

不可思議なミステリードラマという様相ですが、執拗にセーラをいじめる教師の存在、セーラに必要以上に世話をする教師、教師同士、生徒同士、生徒と教師などどこか危険な香りが漂う空気感が現実世界をかけ離れた雰囲気を醸し出す作品でした。

 

ヴァージン・スーサイズ

恐ろしいほどの映画だった。才能のある監督のデビュー作とはこれほどのものかと圧倒される映画で、独特の光演出による絵作りが、終盤恐ろしい結末に至る不穏な空気に満たされる様が素晴らしい。監督はソフィア・コッポラ

 

1970年代、近所の少年たちが、リズボン家の13歳の末娘セシリアが自殺未遂をした所から物語が始まるというナレーションで映画は幕を開ける。浴室で手首を切ったセシリアには四人の姉がいた。敬虔な母ミセスリズボンと数学の高校教師ミスターリズボンの両親のもとで厳しく育てられていた五人の年子の姉妹に近所の少年たちは憧れを抱いて話題の的だった。しかし、姉妹は学校以外に外に出ることも叶わない厳しい日々を送っていた。

 

セシリアが退院して来て、リズボン夫妻は娘たちのことを考え、近所の少年たちを招いてホームパーティーを開く。外の世界と接する機会を作ったつもりだったが、ギクシャクした雰囲気の中セシリアは二階から落ちて生垣に体を刺されて死んでしまう。事故か自殺かわからなかったが、教会では事故として処理する。しかし、母も姉たちもすっかり気力を失ってしまう。

 

その頃、学校ではトリップという一人の青年が女生徒の間で話題になっていた。トリップは女生徒にモテまくっていたが、なぜかリズボン家のラックスは彼のことを気にも留めなかった。そんなラックスにトリップは次第に惹かれ始め、ミスターリズボンを説得してリズボン家でテレビを見るところまで漕ぎ着ける。さらにアメフトの試合の後のパーティに誘うためリズボン夫妻を説得、集団デートでラックスら姉妹全員とトリップの友人らとでパーティ出席を許してもらう。

 

パーティ当日、ラックスとトリップはキングアンドクィーンに選ばれ、二人はフットボール場で体を合わせる。他の姉妹は門限に戻るべく二人を放って帰る。翌朝フットボール場でラックスは一人目覚める。トリップはこの日を境にラックスと会うことはなかった。髪を切ったトリップが集団療法中のようなところでインタビューに答えている風な場面が挿入される。

 

朝帰りしたラックスはリズボン夫妻に激怒され、ミセスリズボンは、姉妹全員を学校を休ませて家に監禁する。さらにロックのレコードを処分させたりする。ラックスは、近くに来た男性と屋根の上でSEXするようになり。近所の少年たちはその様子を天体望遠鏡で見たりする。まもなくして少年たちは姉妹を助けるべく連絡する手段を考え、電話でレコードの歌詞を流して会話するようになる。

 

しかし、それもある時突然止んでしまう。しばらくしてラックスから合図が来る。自分たちを助けて欲しいという依頼だった。姉妹が脱出するのを助けるため少年たちは車を用意してラックスの家にやってくる。ラックスは少年たちを迎え入れ、自分は先に車に行くからと彼らを残す。少年たちは家の中で他の姉妹を待つがなかなか降りてこないので部屋に行くと、首を吊ったり、睡眠薬で眠っていたりすり姉妹を発見、ラックスも車の中で自殺していた。

 

リズボン夫妻は家を売却して何処かへ去り、住民たちは何事もなかったように元の生活に戻り、親たちは相変わらず子供たちを束縛している姿で映画は終わる。

 

柔らかい映像なのに、辛辣すぎる毒が次第に映画全体を覆っていく様が寒気がするほどに圧倒されます。完成品には後一歩ですが、恐ろしいほどの繊細な感性が生み出す映像が素晴らしい傑作だった。

映画感想「霧の淵」「辰巳」「キラー・ナマケモノ」

「霧の淵」

素朴にシンプルにそしてシュールに展開する奈良県山奥の過疎の村の一瞬の時間を切り取った作品という感じです、過去と現代が交錯して現実と幻想が映像に映し出される。なんともいえない映画だった。監督は村瀬大智。

 

一軒の旅館の一室、主人らしい男が妻らしい女性に今後どうするかと話している場面を一部屋隣から写している映像で映画は幕を開ける。代々旅館を営んできた老舗らしいが、娘イヒカの母咲と義父シゲが旅館を切り盛りしている。しかし、ほとんど客もなく、この日も大学生の数人がこの村を見学がてらきた感じで 娘のイヒカが案内をする。かつて映画館だった建物や大峰山登山口などを案内sjり。

 

イヒカはシゲと魚を釣りに行ったりするが、ある日突然シゲがいなくなる。父は旅館の廃業を考える。父と咲は別居しているらしい。イヒカは咲とシゲを探しにいき、通行止めの道の先にあるシゲの実家に立ち寄る。イヒカが居眠りして目覚めるとシゲがそばにいて、賑わいのあった頃の旅館の姿があった。しかし、気がつくとそれは幻想だったようで、みるみる村は寂れていく様をじっと見つめるイヒカのカットで映画は幕を閉じる。

 

とまあそんな映画かと思うのですが、取り立てて映像が美しいわけでもなく、やたらインサートカットが多すぎる気もする。ストーリーテリングを重視せず、映像詩的な表現を徹底しているようだが、映像というより心象風景を感性で見せていく感じで、それが十分にこちらに伝わらないもどかしさもないわけではなく、まだまだ未完成に近い作品という感じでした。

 

「辰巳」

カメラワークも上手いし演出もなかなかの作品なのですが、いかんせん血生臭すぎる。特に前半の執拗すぎる死体処理シーンが、折角のストーリー展開を阻害してしまい、終盤、物語が整理されてくるまでに、胸焼けしてしまった。役者の描き分けや物語構成はそれないにバイタリティがあるので、決して駄作という一本ではなかった。監督は小路紘史。

 

車の中で辰巳とその弟が喧嘩している。どうやら弟が覚醒剤を扱っていて自身も薬に溺れていて兄の巽に責められているらしかった。辰巳が去った後、弟は注射器で薬を打ってそのまま死んでしまう。

 

組織で死体処理を専門にする辰巳は、この日チンピラの竜二ら兄弟が惨殺した死体の処理に兄貴とやってきた。サイコ的な竜二は何かにつけ辰巳に絡む。その頃、組織の金が掠め取られているという疑いで、京子という女性とその夫の自動車修理工が疑われていた。この工場には不良で高校を退学させられた京子の妹の葵も仕事をしていたが、何かにつけ喧嘩を売ってまわり、やってきた辰巳にも唾を吐きかける。実は京子は辰巳の元カノだった。

 

そんな工場に、組織の竜二らが襲いかかる。京子らは金を隠していて、この日、逃亡を計画していた。しかし竜二らに襲われ、京子も殺されてしまう。たまたまその現場を見た葵は襲って来る竜二から逃れて辰巳の車で逃走する。そして、葵は京子の仇を討つために竜二兄弟を殺そうと計画する。

 

なんとか丸く収めようと兄貴の元へ行った辰巳をつけてきた葵は竜二の兄を襲い刺し殺してしまう。そして怪我を負いながらも逃げ、辰巳に助けられる。しかし、竜二も組織も葵を許さず、引き渡すように辰巳に迫ってくる。辰巳は兄貴に話をつけ、京子の死体と葵を引き渡すのを条件に竜二への葵の復讐をさせるべく手助けするようになる。しかし、竜二を迎え撃った葵は、竜二の足を撃つだけで逃がしてしまい、その際、辰巳も瀕死の重傷を負う。

 

辰巳は最後のチャンスと兄貴に竜二のアジトを教えてもらい葵と乗り込み竜二を殺す。辰巳は葵を逃すべく兄貴のところへ向かい、最後の願いを伝え息を引き取る。兄貴は辰巳の遺言通り葵を逃してやり映画は終わる。

 

カメラ演出も、役者の演技もそれなりのレベルで、映画自体はよくできているが、いかんせん胸焼けするほど血と暴力に辟易としてしまう。しかし、若い監督はこれくらいのバイタリティがあってもいいと思う。

 

「キラー・ナマケモノ

ここまでくると完全にコメディで、なんでもありというより、あれ?あれ?の連続、しかもどこかで見たホラー映画や名作映画のパクリだらけで、まさにZ級映画だった。監督はマシュー・ダッドヒュー。

 

パナマのジャングル、木にぶら下がるナマケモノがワニに食われる。そこへ密猟者が現れ、ナマケモノに麻酔銃を撃って捕獲、ワニは川の中で腹を裂かれ殺されている場面から映画は幕を開ける。

 

モールで買い物をしていた女子大生エミリーは、たまたま逃げた犬を捕まえて一人のペット業者と出会う。エミリーは大学の女子寮に入ることになる。その寮には会長と言われるセレブ嬢がいて、二年連続でブリアナという女子大生がなっていて、今年も最有力だった。SNSで話題になりフォロワーが増えれば自分もチャンスがあると知ったエミリーは、ペット業者が勧めていたナマケモノを思い出す。

 

エミリーはペット業者の店に行くが。すでにペット業者はナマケモノに殺されていた。そうとは知らず店に忍び込み、ナマケモノを盗み出す。そして寮に戻ると大人気になり、ナマケモノは寮のマスコットに選ばれて公に飼えるようになる。エミリー人気が急上昇しブリアナは危惧し始めるが、エミリーの親友マディソンは野生動物は故郷に帰すべきだと進言する。しかし、エミリーは耳に入らなかった。

 

エミリーファンになったナマケモノは、ブリアナの味方の女子大生を次々殺し始め、さらにチヤホヤされていい気になってきて、ビールを飲んだり、写真に写ったりし始める。って、どんなナマケモノや (笑)。いよいよ投票日が近づく中、野生に帰すべきと訴えるマディソンは突然交通事故に遭い入院する。そして投票の夜、エミリーは見事会長に選ばれるが、ナマケモノはシートベルトを締めて車に乗り、マディソンの入院先をスマホの地図で確認してマディソンの病室に侵入し、生命維持装置を止めて殺そうとする姿をスマホに撮る。

 

エミリーたちは選挙後の大騒ぎをしていたが、次々と死体が発見され、ブリアナは騒ぎ始める。戻ってきたナマケモノは残る女子大生を襲い始め、エミリーにも迫る。間一髪でマディソンが駆けつけ形勢逆転するかに見えたが、銃で撃っても、刀で切ってもナマケモノは死なない。最後にエミリーはティアラを被ったナマケモノにティアラを食い込ませて倒す。そしてトドメを刺そうと銃を向けたエミリーにナマケモノは、パナマの写真を指さして帰りたいと訴える。一年後、パナマではナマケモノが観光客のカメラに収まっていた。エミリーたちは平和に暮らし映画は終わる。

 

まあ、コメディですね。ホラー色はほとんどないし、過去のホラー映画や名作映画をパロディにした作りで思い切り遊んでくれる映画でした。