kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

円安・インフレ・増税で苦しむ日本人

円安が進んでいます。円安だけだったら普通の人は意識しなくても良いかもしれません。しかしそれだけではないのです。モノの値段が上がり、おまけに税金の負担も増えているのです。もはや日本に未来はないように見えます。

 

これを未だに日米金利差で説明しようとする人がいます。余程の間抜けか。あるいはあなたを騙そうとしているのか。そのどちらかです。

為替相場を考えるとき、短期、中期、長期とで分けて考える必要があります。多くの人はこの前提を明らかにしないまま自分の意見を表明しているのです。

まず長期で考えれば日本に未来がないことは明らかです。為替は長期的には購買力、すなわち国力に従います。

 

アメリカは衰退フェーズにあるとはいえ、これからも人口は増えていく見込みです。結局のところ国のGDPは人口に比例します。のみならず米国は世界でもっとも優れた人々が集まっている国なのです。しかも世界一の軍事国家です。経済力や軍事力で米国を圧倒するかに見えた中国は、このところ急速に失速しています。当面アメリカの優位は揺らぎそうにありません。

一方で日本は人口が急激に減っています。ちょっとやそっとの移民政策では穴埋めできないレベルです。国民の生産性は極めて低く国民一人当たりのGDPは先進国で最低レベルです。経済では全く良い所がないのです。現在日本は軍事予算を増やしています。もしも仮に日本の核武装が許されれば、国力といった面では有利です。しかしそれは実現しそうにありません。日本の自衛隊は米軍の二軍扱いです。

となれば日本は長期ではどんどんと衰退していき、円も安くなっていくのが当然の理(ことわり)です。

 

少なくとも長期では円安になるのは間違いありません。しかし短期ならどうなるかわからないのです。個人投資家を含めた投機筋の思惑によってどちらにでも動きます。スイングトレードを行う人達は、こういった日々の値動きで勝負をしているのです。

中期ではそれこそ日銀の政策でがらりと変わる可能性があります。金利を高くすれば日本円を買う人達が出てきます。マイナス金利政策をやめたとはいえ、日本は未だに異常な金融緩和という状態にあるのです。だから円高には動かず、円安が進行したのです。

とはいえ、いきなり金利を上げるのは異常です。もしそんな事態になったとしたら、それはハイパーインフレとの同時進行になるでしょう。

 

円安が進んでも、日本がアメリカのように自給自足の国だったら問題はないのです。それこそ貿易で輸出産業が潤うというメリットを存分に享受できるのです。しかし日本はそうではありません。資源のほとんどを外国に依存しているのです。円安は物価高に繋がります。今までは低賃金労働者を使うことによって物価を抑えていましたが、それも限界です。さらにはコ◯ナパンデミックに続く戦争の影響で、世界的な物価高となっています。

 

日本人は貯金が好きな人たちです。インフレによって現金の価値も毀損されていきます。彼らは日々の物価高に苦しむだけではありません。貯金が目減りすることで将来も真っ暗なのです。

 

円安とインフレ。それだけではありません。増税が進んでいます。昔は応募要項に書かれた給料が、ほぼそのまま手取り額といった感覚でした。今は違います。去年に新人として働き出した社会人も、6月給与の手取り額に驚くはずです。「これほど税金が取られるのものなのか」と。2年目でいきなり給料が下がってしまうのです。詐欺かなにかのように感じるかもしれません。然り。今の税金は、多くがその名目とは違うものに使われているのです。「社会保障に使う」と言いながら、社会保障は悪くなって行きます。「少子化に使う」と言いながら、少子化を促進するような施策が行われています。

 

もはや日本人には選択がありません。政府が勧めるように投資を行うしかないのです。とはいえ、国が国民に投資を勧めるなんて異常です。投資で必ず儲かるのだったら、今まで通りGPIFが年金の積立金を運用して、それを国民に還元すればいいだけです。しかしそうはいかないのです。必ず運用益が出るとは限りません。何より年金積立金は国のものなのです。為政者や役人はそういう感覚です。だったら国民の自己責任で投資をさせるしかないのです。重税で国民のカネを奪いながら「残ったカネで投資をしろ」と言っているのです。

 

もちろん投資で利益を出せる人もいます。元金が豊富な人たちです。リスクとリターンの管理が出来ている人たちです。たとえば債権による運用で、年3%程度の運用益を得た場合を考えると、元金が1億円あれば年に300万円の利益を得られます。

しかし庶民は種銭が少ないので、いきおい多くのリターンを得ようと試みます。もしも仮に短期間で資産が2倍になったとしたら、それは元金を全て失うリスクを冒したという事です。リスクとリターンは連動しています。信用取引で100万円が300万円になったとしたら、それは200万円の負債を背負うリスクを冒したということなのです。

 

一方で、年利率3%の30年ゼロクーポン債であれば、償還まで持つことによって元金が2.5倍近くになって戻ってきます。お分かりでしょうか。投資は、賭ける元金の大きさと、寝かせる事によって得られる複利効果によって資産を増やすものです。つまり資金と時間に余裕がある人に有利となっているのです。

 

ところが余裕のない庶民は、金融機関のトレーダーのごとく短期の売買によって利益を得ようと試みるのです。日々の値動きが気になって夜も眠れません。乾坤一擲の大勝負で負けてしまいます。最後は首を括ることになります。こういった連中はカモと呼ばれます。彼らの資金を吸い上げることによってまともな運用者が益を得るのです。投機相場は損をする人で成り立っています。一方で投資をする人は、長期的な経済成長から益を得ています。

 

投資を諦めた人にはまったく希望がないのでしょうか。いいえ。そうではありません。まともな経済施策を行える政治家を選挙で当選させればいいのです。馬鹿な政治家は辞めさせましょう。迂遠なように見えますが、これがまっとうで確実な方法です。

頭が悪くて私利私欲に囚われた政治家がいるから日本の未来が真っ暗なのです。経済が縮小していくなかで、てめえの取り分だけを彼らがくすねているからです。私ごときでさえも彼らよりずっと上手くやる自信があります。

政治家を替えれば、すぐにではありませんが、良い方向に変わっていくはずです。批判され勝ちな日本国債発行ですが、人々に夢や希望があれば、いくら国債を発行したって構わないのです。金融緩和を続けたって構いません。子供だって増えてきます。

 

というのも経済活動というのは実に、人間心理の結果に他ならないからです。みんなが「日本の未来は明るい」と思えばそうなっていくのです。日本は悪い方向に大きく動いています。しかしそれは同時に、良い方向へと大きく変えるチャンスでもあるのです。

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大事に疎く些事に煩い日本人

日本人は大事な場面で失敗する人々です。細かい事にはうるさいですが、肝心な場所でいつも誤るのです。それゆえ結局は大したことを成し遂げられません。大局で過(あやま)つは日本人の性(さが)です。

 

日本人は細かいことを律儀に守ります。以前にこんな事がありました。スーパーでセルフレジを使用しようとした時のことです。何故かその日に限って店員が通せんぼをするのです。どうやら入口と出口の区別が出来たようです。といっても空いている時間帯なのでレジの置いてあるスペースはガラガラです。どちらから入っても構わないように見えます。状況に応じて柔軟に対応すればいいのに日本人にはそれが出来ないのです。店員は鬼の形相で仁王立ちしており、交渉はできそうにもない状況でした。仕方がないので、わざわざ10mくらい離れている「入口」まで移動しました。

 

またこんな事もありました。とあるビルに入ろうとしたら、工事用パイロンやコーン・バーが乱雑にその辺に置かれていました。通り抜けようとしたら、一服していた作業員が慌てて駆け寄り必死で制止します。「向こう側を通ってください」と。どちらにしてもパイロンはきちんと置かれていないし、何より工事自体が始まっていません。けれども断固とした様子で聞く耳を持ちません。仕方なく後ろで詰まっていた人々と共に反対側へと移動したのです。

おそらくですが、津波に飲み込まれたあの東北の子ども達も、このような釈然としない気持ちで教師の言葉に聞き従い、そうして亡くなったに違いありません。

 

さらにまたこんな事例もあります。慌ただしい平日の朝のことです。掃除夫がマンションの住民を捕まえて怒鳴り散らしています。燃えるゴミの日でした。どうやらゴミ袋が決められた市町村のものでなかったようなのです。おそらく引っ越してきたばかりで、以前に住んでいた場所のゴミ袋をそのまま使ってしまったのでしょう。しかしそんな事情にはお構いなく、まるで鬼の首をとったかのように住民を指導しているのです。普段はおとなしい掃除夫も、今日に限っては勝ち誇った英雄です。

 

日本人は「上か下か」という序列に敏感です。普段はヘコヘコしているような店員や作業員も「いざ規則を守らねば」となると、途端に「上」の立場となるのです。匹夫(ひっぷ)もヒーローとなることができます。日本のあちこちで「ミニ警察」が跋扈(ばっこ)する所以(ゆえん)です。

 

日本人は「どういう意味をもつか」という事をまったく理解しません。ただ「決められたルールだから」という理由で、杓子定規に守り通そうとします。そこに議論や交渉の余地はまったくありません。「だって、ここにそう書かれているじゃないですか」で終わりです。

日本では、音楽やスポーツ競技の指導、はたまた算数の教育でも、お作法の躾(しつけ)をしているかのようです。本質はどうでもよいのです。ただ自分が言うがままに弟子が付き従う様子を見て満足するのです。

 

加藤典洋の「敗戦後論」にこんな事が書かれています。「湾岸戦争に反対する」という文化人の署名声明についての批評です。何らかの理由があり、戦争に反対する。だから、それに則った法律も必要だ。というのが正常な人間が考える順序です。ところがその声明文を見ると順序が逆なのです。すなわち、憲法にこう書かれているから戦争に反対する。そのような理屈になっているのです。「じゃあ、憲法や法律に書かれていなかったら、何でも許されるのですか」と尋ねたくなりますよね。

もっとも彼らを少し擁護することもできます。日本人はソースや根拠を示さないと納得しないのです。「権威ある人がこう言った」というのは良いのですが、「私はこう考える」というのは全く受け付けて貰えないのです。

 

日本人は万事がこの調子です。自分を起点にして物事を考えられません。学歴や職業、知能指数に関係なくです。思考停止の状態で決められたルールをひたすら守ろうとするのです。実に日本人は、即物的で考えの浅い人々です。深く物事を考えるという事ができません。過去の失敗から学ぶどころか、現実そのものを見ることができません。「こうであったらいい」という泡沫(うたかた)の妄想に生きています。日本のマスメディアの報道を見てください。あたかも現実と乖離したパラレルワールドのようです。

日本人の多くはテレビがなければ考えることもできません。「買え」と言われれば無駄なものまで買います。自分が何を欲しているのかさえも分からないのです。テレビは計画実現に必要なイメージする力を損ないます。テレビなんか捨てたほうがいい。私はそうしています。

 

これまで多くのプロジェクトを見てきました。日本で、まともなプロジェクト運営が出来ている例はごくまれにしかありません。失敗する度合いは、プロジェクトの規模が大きくなればなるほど高まります。しかも大失敗となっても、公式には失敗とされないのです。責任者が咎められることはありません。それどころか栄転する場合もあるのです。

 

プロジェクトが成功するかどうか。それはプロジェクトマネージャー個人の資質に大きく依存します。ところが日本では、まともなプロジェクトマネージャーがほとんどいないのです。マネージャーとは名ばかりで、誰が実際にプロジェクトを主導しているのか分からない場合も多々あります。

実力があっても、縦割り組織のために各部署がまったく動いてくれないという事もあります。かといって強引に辣腕(らつわん)を振るうリーダーが望ましいかというと、そうじゃない。現場がデスマーチと化してしまうのです。

プロジェクト管理には、抽象的な目標を常に見据えられること。断固とした決断力と推進力があること。実際の人間心理に通じた交渉力と説得力を持ち合わせていること。こういった要素が求められます。つまり自分が吐いた言葉を全て実現させられる人です。これは優れた経営者やリーダーにも求められる資質です。日本にはこのような真のエリートがいません。

 

話は変わりますが「縦割りの日本組織」に苦言を呈する宗主国の報告書について報道がありました。宗主国にとって、命令一下で動いてくれるような組織が支配しやすいというのは分かります。すなわち独裁国家が理想なのです。うまく機能しなかったら首をすげ替えるだけです。

しかし日本国民にとっては迷惑な話です。「他国の言いなり」という理由だけではありません。日本人の統治者に好き勝手なことをされてしまうからです。しかも相当に頭が弱いと来ています。日本にはエリートがいないのです。頭が悪いのに律儀に働き、かえって事態を悪化させてしまうというのが、日本人に共通する特性です。

 

日本人は明治維新以降、国を導けるような優秀な人材を見つけては教育し、官吏として登用してきました。しかし失敗しました。馬鹿な指導者のお陰で大国との戦争に突入したのです。それまでに築いたインフラや財産を、敗戦で全て失うことになったのです。

戦前の陸軍大学、海軍大学出身者は、知力、体力、人格において最も優れたエリートであったはずです。けれども戦争遂行において多くの間違いをおかしました。何より開戦の決断が間違っていました。彼らは大局を見ることができないのです。

 

日本は優れた指導者が育たない国です。エリートとされる層は、既得権益に浸かり、うまい汁を吸うだけの人々です。自分の仕事をしていません。たとえ仕事をしたとしても、大局を俯瞰できずに間違いばかりを犯します。

日本人は、部分部分を最適化することができても、全体を最適化することができません。個人として優れた者が現れても、淘汰されて生き残ることができません。結局残るのは馬鹿ばかりです。

 

愚劣な指導者よりは、宗主国による直接統治のほうがどれ程良いことでしょう。そう思いませんか?

敗戦後論 (ちくま文庫)

日米同盟の弱点「縦割りの日本政府」、一元的な情報分析機関の設置促す…アーミテージ・ナイ報告書 : 読売新聞

美談に騙される日本人

日本人は騙されやすい人たちです。表面しか見ていないからです。彼らは日々の生活を忘れさせてくれる美談を求めています。誰もが頭を下げることのできる立派な人物の美談です。そういった聖人を皆で担ぎ上げます。しかし人間ですからいずれ失敗します。それまでの尊敬と敬愛の念はどこへやら、一転して彼は憎悪の対象となります。そうした行為を日本人は繰り返しているのです。

 

メジャーリーグで活躍する日本人選手の通訳が、横領と賭博で解雇されました。通訳でありながら公私で野球選手を支える彼の様子は、日本では美談として語られていました。英語の教科書にも採り上げられる予定であったのに、それをこれから書き換える羽目に陥ったそうです。

 

まだ白黒がはっきりしていないものの、有名選手を影に日向に支えていた通訳という「落ちた偶像」を叩きのめそうと、固唾をのみながら日本人は注視しています。当の野球選手も、莫大な契約金をもらって球団を移籍したばかりです。結婚相手も公にされました。果たして「天国から地獄へ」という劇的な物語を見ることができるのか。心配している様子を示しながらも、実はワクワクしながら人々は見守っています。

 

それにしてもです。通訳は、球団に雇われている契約社員に過ぎませんでした。安い給料で野球選手に身も心も捧げるなどあり得ないではありませんか。ちょっと考えれば分かるはずです。どこかでその歪(ひずみ)を解消しているはずです。日本の報道は、変に彼を持ち上げることなく、距離を保って冷静に観察しているべきだったのです。

 

美談の種となるようなものは、普通はどこかに無理があり、裏があると考えてよいのです。以前には「下町ボブスレー」が道徳の教科書に採り上げられたことがありました。今回も同じようなものです。社会のピラミッドの底辺に位置するような人間が、不平不満も持たず、報酬も十分でない状況で、一身を捧げる。そんな都合の良い話が存在するわけがありません。

 

野球という極めて狭い範囲での通訳業。加えて日本語というマイナー言語を扱うしがない雇われ通訳者。そんな彼を、英雄を支える道徳的な人物として日本人は称えてきたのです。責任は報道関係者だけではありません。公私に渡って彼を都合よく利用してきた当の野球選手にも原因があります。違う世界の人間です。まるで友達でもあるかのような扱いは慎むべきでした。当の本人がダンマリを決め込んでいるのも違和感があります。

 

結局のところ、日本人は物事を明確に認識することができない人々です。見ても見えず、聞いても理解できない人たちです。彼らは「そうあったら良いな」という話と実際とを混同してしまいます。永遠に本質を掴めない未熟な連中です。

そんな都合のよい話があるはずもないのに「いい話だな〜」と感激してしまうのが日本人です。そしてそれを皆で盛り上げようとします。日本人のこの傾向が「日本スゴイ」といった様々な与太話を生み出しているのです。

 

偶像を作り、みんなで神輿を担ぎ上げては騒ぎます。集団で思考停止に陥るのです。そうして大きな局面で失敗します。日本人には狂信的(ファナティック)な面があります。炎を囲んでトランス状態となる未開人と似ています。太平洋戦争もそうでした。

彼らは目立つ人をよく考えもせずに祭り上げます。通常は目立つ人間は叩かれます。しかし権威がお墨付きを与えると、一転して尊敬の対象となるのです。日本ではこの差が激しいのです。当の野球選手は、アメリカのメジャーリーグという本物が「スゴイ」と言ってくれたのです。日本人にとってこれ以上の誇りはありません。その野球選手が、あの通訳を頼りにしていたのです。

 

常識とされる事にも疑いを持つのが文明人です。大勢がおかしな事を息巻いていたら、無勢であっても「これはおかしいぞ」と思うのが理性ある人間です。ところが進んでその仲間になってしまうのが日本人なのです。

小学校や中学校で「先生は、なぜこんなことをしているんだろう」と疑問に思ったことはないでしょうか。その直感は正しいのです。しかし多くの日本人はそういった直感を捨て去り、一緒に馬鹿となることを選ぶのです。日本が「土人の国」というのはまさに言いえて妙です。

 

ひとつのものに全てを賭けてしまうという日本人の傾向も、リスク管理の点から全く推奨できない行為です。今までは、野球選手の名前を報道で連呼していれば、愚鈍な国民はそれに食いついてくれました。しかしもしも今回の騒動で影響が彼にまで及び、活動停止や永久追放にでもなったらどうするのでしょうか? 彼らがどう態度を変えるか見ものです。

 

日本人は理性が足りません。非常に感情的な人々です。感情的ですが普段は抑制しています。理性を司るはずの大脳皮質を、感情を抑えることだけに使っているのです。だからアルコールが入ったり、集団催眠状態になると、抑えていた感情が暴発してしまうのです。実にクレージーな連中です。日本という狭い世界ならまだしも、これが外交にまで及ぶとそうも言っていられません。個人としては理性的であっても、集団となるとケモノと化してしまうのです。

 

今回の件は卑しい日本人の性質を、またひとつ明らかに示してくれた好事例となりました。いずれにしてもどうでも良い野球選手の過熱報道は少しは抑えられそうです。それだけが本件における救いです。

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結婚に意味がなくなった日本

日本では、女性はモノに過ぎません。そもそも日本人にとって人間自体が価値のない代物です。従って女性はそれ以下の存在となるのです。そんな社会において結婚に意味はあるのでしょうか。

 

バブル時代のエピソードとして次のようなものがあります。その頃はクリスマスに高級ホテルを借りて、高価な贈り物を交換することが当たり前でした。そんな時代に、女性が裸の自分に赤いリボンでラッピングを施して「私がクリスマスプレゼント」と言いながら彼氏に自分自身を差し出したというのです。

今となっては全く笑ってしまうような話ですが、それだけ女性の価値が高く、手に入れるのが難かしい時代だったと言うこともできます。

 

今はどうでしょう。女性の体が欲しければ1万円以下で手に入れることができます。開高健のエッセイに「女性の値段は靴と同じ」という記述が在ったのを覚えています。

ちょっと前までは、まともな革底の靴は3万円以上でした。冠婚葬祭でも履けるクロケット&ジョーンズのオードリーは7万円程度です。女性の相場感とも一致します。

現在の革靴の値段をアマゾンで見ていきましょう。革底の靴が1万円程度で買えます(作りは悪いようですが)。さらにフェイクレザーの靴も売っていて、それならば数千円です。これも相場感と一致するようです。

一方で海外から輸入される高級な革靴は高くなっています。以前はジョンロブのパンチドキャップトゥの靴は20万円ちょっとで買うことができました。しかし今は30万円以上です。先のオードリーは、14万円程度となっています。

 

日本では、男性は極めて幼く精神的に母親へ依存しています。結婚をすると母親の代わりに相手の女性が身の周りの世話をしてくれることになります。女性は、家政婦であり、奴隷であり、子供製造機であり、不満のはけ口となってくれる、便利な掃き溜めです。

 

女性にとっても結婚にはメリットがあったのです。昔は女性が実家に居続けるというのは異常なことでした。長男が実家を継ぐため、未婚の女性の居場所は無かったのです。

かといって女性が就職するのは難しい時代でした。都会で就職できたとしても社内結婚で早々に寿退職することが前提でした。「25歳定年」という言葉もあったくらいです。

良い縁談に恵まれるのに越したことはありません。もしそうではなくても結婚はしなければならないものだったのです。結婚によって、ようやく実家から逃れることができたのです。都会に出て豊かになっていく夢も見ることができました。時はまさに高度成長期だったのです。

 

現代はどうでしょうか。結婚をすると豊かになるどころか貧乏になる可能性があります。せいぜい同棲をして家賃を浮かせるくらいがベターです。結婚は階級の固定化を意味します。結婚をするとその階級から上に行くことができません。それどころか中流階級がまるごと没落しつつあるというのが現状なのです。

結婚による階級の固定化は女性にとってだけではありません。男性にとってもそうです。「金持ちの奥さんは美人が多い」と言います。良い女性を最初から手に入れられればそれに越したことはありませんが、そうでなくても自分の階級が上がるにつれて相方を乗り換えていく事ができるのです。女性は男性にとってのアクセサリーです。ブサイクな女性を連れて歩いていたら、それだけで軽く見られてしまうのです。

 

現在は「タイパ」が叫ばれる時代です。結婚に時間やコストをかける意味があるでしょうか。現代の結婚には、得られるリターンに比べて大きなリスクがあります。

男女が交わると、まるで腫瘍のように子供を孕んでしまいます。母親が精神的に子供へ依存してしまう場合もありますが、冷静に考えれば出費が嵩む代物でしかありません。

高等教育の必要性は高まっており、親が面倒を見る期間も、教育にかかる費用も、増えているのです。もし就職できたとしても、まともに食っていけるかどうかは定かではありません。

もし子供だけが欲しくても、結婚という形を取らざるを得ません。日本では非嫡出子は非常に不利です。それだけ子供を作るハードルが高いのです。

 

子供を産んでも、周りから喜ばれるどころか、憎しみの目を向けられます。仲間だと思っていた隣人や友人からも容赦ない言葉を浴びせられます。自分が位置する階級と悲惨な未来を思い知らされるのです。

 

良き相手と結婚できるかどうかも疑問です。そんな人間が日本にゴロゴロ転がっているわけがありません。結婚の基準がシビアになるのも当たり前です。ひとつでも瑕疵があれば、それまでの高揚した気分はどこへやら、気持ちが冷めてしまいます。「蛙化現象」と呼ばれるものです。そもそも中身など何も無いのが日本人ですから、表面を剥がしてしまえば、人間的魅力など存在しないのです。

 

幸いなことに現代では、女性は貴重な労働力と見られつつあり、一人で生活することもできるようになりました。

自分の性的魅力をどうでもいい男に捧げるよりは、外国で出稼ぎ売春でもした方がマシです。外国行きの飛行機は日本人売春婦でいっぱいです。もともとモラルも志も無い人々です。カネがあれば勝ち組だと思っているような連中です。いったんタガが外れると、その落ちぶれようは酷いものです。

 

普通に生活をしていれば、男女が交わりあい、子供が生まれるというのはごく自然なことです。それを躊躇せざるを得ない社会とは、いったいどういう社会なのでしょうか? 

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