海風想

つれづれなるままの問わず語り

計画無痛分娩体験記・後編

このレポートはこちらの記事の後編となっている。

kusikurage.hatenablog.com

一応続きものではあるが、実際のお産の様子だけを読みたいということであれば、前編は病院探しの話なので、読まなくても支障はなかろうかと思う。「とにかく出産するなら無痛分娩」と決めていた私だったが、実際はその門戸に辿り着くのさえ容易ではなかったという話である。

それでも何とか無痛分娩が出来る産院で分娩予約をした私。幸い妊娠の経過は順調で、総合病院に転院を要請されるような事態にもならず、臨月を迎えることができた。

計画分娩でもあるため、当初言われていた出産予定日よりも前の38週を過ぎた辺りで入院し、無痛分娩の処置をする手筈になっていたが、その前に破水してしまうという可能性もゼロではなかったので、臨月に入ってからはとにかく、先生が不在のタイミングでフライングしてくれるなとお腹に念を送る日々だった。そして無事に迎えた入院日、レポートはこの日からスタートする。

 

2.前日入院と数奇な晩餐

入院当日。「午後〇時に来てね」の時間指定以外、食事の制限など特に何も言われていなかった私は、子供が生まれたら当分気軽には入れなくなるような狭いカウンター席の店で昼食を終え、病院に向かった。

病室に案内され、一通りの手続きを終えると、おもむろに着替えるよう指示されたのは入院着と産褥ショーツ+尋常でなくデカいナプキンという、いわゆる産婦の戦闘服。おお、ここからついに始まるのか、となんとなく身の引き締まる思いがした。

ここであらためて、私が受ける計画無痛分娩処置の流れを説明しておく。

まず一言で「無痛分娩」と言っても、麻酔を入れるタイミングが異なる複数の方法がある。日本で一般的に行われている方法が全部で何種類あるのか、専門家でないため詳しくはわからないが、経験者の声などを聴く限り、概ね二つの方法があるようだ。

一つは、陣痛が来てから麻酔を追加して痛みを緩和する方法。前編の記事でAクリニックが初産婦に対して行っていたのはこちらであり、陣痛のタイミングによっては麻酔医不在につき通常分娩となる可能性があるものだ。

もう一つはこれから私が受ける、陣痛が来る前にあらかじめ麻酔を入れておき、その後陣痛促進剤を投与してお産の進行そのものをコントロールする方法で、いわゆる「計画無痛分娩」と言われるものだ。陣痛をはじめからカバーしてくれるという安心感がある一方、特に初産はお産の進行が遅くなるリスクも伴う。

お産のざっくりした流れを説明すると、

陣痛(お産の進行と共に間隔が短くなっていく)→破水→子宮口全開(10センチ)→分娩

というステップを踏む必要がある。もちろん先に破水してしまったり、何かのはずみで子宮口が開いてきてしまったりする事態もあるが、順当な流れはこの通りとなる。

計画無痛分娩は、この「陣痛」の前に麻酔を追加するところから始まる。なので、上記の工程に無痛分娩処置を追加したものは以下の通りである(青文字が処置)。

麻酔注入子宮口を開く処置①(ここまでが前日処置)追加麻酔陣痛促進剤注入子宮口を開く処置②→陣痛→破水(必要時は人工破膜)→子宮口全開(10センチ)→分娩

なお、調べてみるとこれら青文字の処置は、通常行われる分娩誘発処置と変わらないように思われた(国立成育医療研究センターの図解が大変わかりやすいので引用させてもらう)。ただ一つ異なっている点は、これらの処置が「通常は麻酔なしで行われること」である。実際に経験した身としては「いや、無理だろ」としか言えないのだが、果たしてそれはどういう処置であるのか、レポートに戻りたい。

夕刻、部屋のベッドで胎児の心拍を計測しながら、看護師さんに点滴を入れてもらう。この時点では電解質等を注入。この点滴針は今後入院中ほぼつけっぱなしになるものである。

そののち、分娩も行う処置室に移動し、背中にカテーテル管を入れる処置。この管を入れる処置が地味に怖かったのであるが、針を刺す瞬間はチクッという程度。その後ジワジワ「あーなんか刺さっているなあ」という感覚があった。ここで、効きのテスト的に麻酔が注入される。それから10分ほど、「暇だからスマホ持って行っていいよ」と言われていたので、持参したスマホをいじりつつ待機。10分後、アイスノンを押し当ててテストし、麻酔が効いていたので内診に移る(ここで効いていなければカテーテルの入れ直しになる)。

子宮口の開きを確認し、子宮口を開く処置その①であるところの、ダイラソフト(先生曰く「水吸って膨らむワカメみたいなやつ」)を3本ほど子宮口に挿入される。個人差はあれど、私は子宮頸がん検査の綿棒にすら痛みを感じるので、こんなものを無麻酔で挿入されたら悶絶したに違いないが、この時は麻酔のお陰で痛みは殆ど無く、何かを入れられてる感覚があるだけだった。麻酔様々である。

この後、麻酔が醒めて足が動くようになるまで待機していたが、なかなか足の感覚が戻らないため、なんとこのままここで夕飯を食べることになる。
「え、ここで食べて良いんですか!?」
と思わず聞いてしまったが、構わないということで初日の夕飯となった。

これまで数多の命が産声を上げ、たくさんの女性達が悶絶し血を流してきたであろう分娩台に腰掛けながら、独りご飯を食むのは何ともシュールな光景であった。しかし、明日は少なくとも朝昼は絶食となる予定のため、この夜の夕飯はなんとしても食べておかねばならない。あまり深く考えないようにしながら完食した。

その夜は麻酔が醒めた後は普通に洗面歯磨きなどを済ませ、遅い時間にもう一度胎児の心拍をチェックしてから、明日に備えて就寝となった。

麻酔のためか、微熱が出ていた。カテーテルの管を挿したところが鈍く痛い。そして「明日自分は子供を産むんだ」などとあれこれ考えてしまい、全く寝付けなかった。

 

3.いよいよ無痛処置本番。そして分娩へ…

翌朝。殆ど眠れなかったが、もうなるようにしかならない。

今日は分娩が出来る体制になるまでは、自室のベッドで全ての処置を受けながら待機することになる。麻酔を打ったら歩き回れなくなるので、動ける今のうちに飲み物をはじめ、スマホスマホ充電器、イヤホンなど、手を伸ばせば届く範囲にあらゆるアイテムをセットし、臨戦態勢を整える。朝昼は絶食になるが、ゼリー飲料は摂取可ということなので、ウィダーインゼリーも並べた。ワンタッチのストローキャップを装着した飲み物と、ゼリー飲料は必需品と言っていた先人達の知恵がありがたい。

これ以降は、当日に記したメモをもとにタイムテーブル式にレポートする。

5:30 予告通り自室に看護師さんが来て、心拍と血圧計と点滴等諸々装着。5分おきに計3回、麻酔を入れ始める。入れた瞬間はスゥッと背筋が寒くなる感覚がある。
この時、麻酔との相性で柑橘系の飲み物は避けるよう告げられる。運悪く用意していたグリーンDAKARAが冬季限定の柚子入りだったため、ストックの麦茶と差し替えてもらう。意外な盲点だった。

6:00 経口で陣痛促進剤を飲むが、その前に昨晩子宮口に入れたダイラソフトを抜く作業。これが地味に痛かった。しかも3本も入っているのでこの抜く痛みも合計3回。こんな棒っきれ出すのにも痛いのに、赤ん坊の頭なんてどうやって出すんだろうと思う。
ここで子宮口の開きを確認、指二本入る程度には開いてるらしい。この後、30分程で麻酔が効き出すので尿カテーテルを入れること、腰やお腹に痛みが強く出るようなら薬を追加するので声をかけるよう言われた。
しかしいざ分娩になるのはまだまだ先のようで(経産婦で午後イチくらい、初産婦はもっとかかるらしい)、長い一日になりそうだ。

麻酔の効きが偏らないように、定期的に向きを変えながら少し休むことにする。

6:40 尿カテーテル挿入。麻酔のおかげで痛みは全くなかった。なお尿カテーテルはお産の直前で取り外されるらしい。
この時点でお産への恐怖は無く、それよりも子供に早く会いたいという気持ちが増している。やはり痛みが無いというのは、心の余裕を持つ上ですごく重要だ。

7:00 再び経口で陣痛促進剤投与。

8:05 先生が来て子宮口を開く処置その②であるところのバルーンを入れる処置。何かを押し付けられている感覚はあるが、全く痛くない。
そして別室から流れてくる朝ごはんの匂いに空腹感を覚えた。耐えきれずウィダーインゼリーを一口飲む。

8:20 麻酔のせいなのか、腹が痒くなってきた。痒いな、と思って腹に手を伸ばすと感覚が鈍ってるのがわかる、なのに痒みは感じるという超不思議現象。痒さが酷かったら薬があるので言ってくださいと看護師さんに言われる。

9:00 点滴で陣痛促進剤を入れ始めた。経口の方は弱いので、飽くまで子宮口を柔らかくする作用程度らしい。また、痒みは点滴の成分のせいなのでどうにもならない、麻酔で諸々が鈍くなってるので、掻き壊し注意と言われた。

9:22 足が痺れて寝返りがいよいよ打ちづらくなってきた。

9:35 痒さが増してると訴えたら看護師さんがアイスノンを持ってきてくれた。冷やして誤魔化す作戦だ。

9:48 お腹の張りが2〜3分おきに来ると言われる。この張りは内圧なので子供が生まれるための準備だというが、陣痛とは異なり、陣痛はまだ来ていないらしい。ほんのり睡魔が襲ってきた。

10:03 先生の内診。子宮口3〜4センチとのこと。
痒みは麻酔がよく効くように麻薬性の物質(モルヒネのことか)を入れてるかららしい。

10:54 子宮口4〜5センチ。もう少しでバルーンを抜くらしい。今のところ、痒いくらいで痛みが全然無い。

11:05 どうやら陣痛が10分間隔くらいで来てるらしいが、自覚ゼロ。
ところで私は立ち合い分娩を希望していたが、現在はコロナ禍で外部の人間の病室待機が出来ないため、子宮口が8センチ以降になったらお産の進み具合を見て夫を呼ぶようだ。正直不安は募るが、それでもこの時節に立ち会いが出来るだけありがたい。

11:21 下腹部に拡張される感じがある。これがいわゆる陣痛なのか?痛くはない。

12:04 子宮口6〜7センチ。子宮口を開いていたバルーンを抜いたが、スポンと抜ける感覚だけで痛みはない。

12:42 いよいよ分娩室に移動。麻酔で足が萎えてるため人力担架で運ばれた。しかしここからまだ2時間以上かかるとのこと。
スマホ持参が許されたので、分娩台の上で親にLINEで連絡をするが、「そんなに余裕があるものなのか」と逆に心配される。その通り、驚くほど余裕がある。夫を呼び出すのも、余裕がなければ病院が電話してくれるが、自分で連絡してもいいと言われていた。

12:50 羊膜を破って破水する破膜処置。赤ちゃん降りてくるの待ち。おむつより更にデカいパッドを尻に巻かれる。

13:05 下腹部に軽い生理痛程度の痛み。赤ちゃん降りてきた?

13:11 ちょっと痛みらしきものあり。我慢できる程度。

13:16 子宮口7センチ。ちょっと降りてきてるがまだ陣痛自体は弱いらしい。

13:22 股の中心に鈍く痛みが走る。

13:59 股の中心に今までの中で最も強い痛み。「いててて」で済む程度ではある。
痛みが強かったら麻酔を追加するが、麻酔の効きにはタイムラグがあるので、強い痛みがきたら我慢せず言うよう言われる。しかし産む直前はいきむためにも、多少は痛むと言われる。

14:12 痛みの間隔が短くなってる気がする。

14:27 内診されるも、変わらず。

14:33 「いてててて」の痛みが3分おき位にある。 

14:51 子宮口7〜8センチ。痛みが強くなるため麻酔が追加される。進み具合変わらず。陣痛がまだ弱いとのこと。

15:08 麻酔追加されたものの、痛みはさほど変わらない。睡魔が襲ってくるが、定期的な痛みで強制覚醒。

15:12 ここに来て痛みが変わらないということは、この痛みは分娩まで残っちゃう感じとのこと。全然耐えられる痛みではあるが。

15:30 痛みが強くなってきてる。強い生理痛くらいのやつ。普段なら鎮痛剤を即飲むレベルだが、無麻酔での陣痛の痛みはこんなものではないと助産師さんに言われ、そりゃそうだろうと思う。

この後しばらく、この痛みが3分おきに来るため、呼吸でやり過ごす。

15:38 子宮口依然8センチのまま。
陣痛の間隔もまだ空いている(4分空くことがある)。痛みが強いため麻酔を追加して様子見。

15:57 痛みはさっきよりマシになってきた気がする。近場で呼び出しを待機していた夫には一旦帰宅してもらった。

16:23 和らいだと思えた痛みだったが、なんか一段階進化した気がする。

16:44 先生の診察で子宮口全開になりそうな気配はあるが、胎児の降りが悪い。いきみを試してみて、もし胎児が降りてこないようなら帝王切開になると言われる。夫を呼び戻す。

以降、17:50ごろまで、夫立ち会いのもと陣痛と同時にいきむ、というのを繰り返して胎児の降りを確認したが、今ひとつであることと、回旋が上手くいかず、後ろに向いてくれない(胎児が母体のお臍側に対して背を向けているのが分娩時の正しい姿勢だが、何度直しても仰向けになってしまう)ため、子供の安全性を考えて帝王切開に踏み切る。
夫は分娩室を出て病室待機となったので、親への連絡諸々を託す。
その後はマッパにされて手術準備。麻酔が入っているため、手術への移行は速やかだった。

手術中、麻酔はされているので切られる痛みは当然無いが、皮が引っ張られたり押し付けられたりする痛みはあり、何より自分の腹が切られているんだなぁという恐怖がある。助産師さんの「もうすぐ(赤ちゃんに)会えますからね」という言葉に励まされ、必死に耐える。

手術開始から一時間ほど、元気な産声が聞こえ、「産んだ」という実感が無いのにも関わらずブワッと涙が溢れた。

「そうか、産まれたんだ。」

色んな感情が押し寄せた。洗って綺麗にされた我が子と対面した時は、「眉毛の生え方が自分に似てる」「亡くなった祖母にそっくりだ」と妙に冷静に分析している自分がいた。

その後、開腹よりも縫う時間の方が長い手術を追え、芋虫ほども動けなくなった私は夕飯もスキップして病室に戻り(というか手術をしたので当然食べられない)、待機していた夫と相談して子供の名前を決め、分娩待機中に連絡していた人達に諸々の連絡を済ませ、人生史上最も長い一日が終わった。

 

以上が当日の体験記である。

結果的に緊急帝王切開になっているので、「やっぱり無痛分娩って良くないのでは」と感じる方もいるかもしれない。実際問題、回旋不良と無痛分娩処置との因果関係は不明である。ただ産まれた我が子は平均より大きめだったので、経膣にこだわって無理に産もうとしていたらもっと危なかったかもしれないので、帝王切開に踏み切ったことに後悔はない。そもそも、自然分娩であっても様々な事情から緊急帝王切開になる事例は沢山あるわけで、私の場合は手術に至るまでに陣痛で消耗していない分、予後の回復は非常に早かったという実感があった。

これが初産なので比較対象がなく、n=1の感想ではあるが、自分の体験を総括して私は「無痛分娩を選んでよかった」なおかつ「プラス10万円課金する価値は全然ある」と心から思っている。そして希望する妊婦さん全員が無痛分娩を選べる世の中になってほしいとも。

確かに手術の傷は痛んだが、何時間も激痛に悶えるみたいな経験はせずに済んだ。ついでに麻酔が効いていたおかげか、後陣痛の痛みもほとんど自覚がなかったことも記しておく。陣痛だけでなく後陣痛、会陰切開や帝王切開の傷の痛みなど、とにかく痛いことが多過ぎる出産という経験の中で、これほど痛みのストレスを減らせたということは大きなメリットではないだろうか。痛みへの恐怖やトラウマを軽減させることは、出産をためらう人たちを後押しする大きなポイントだろう。少子化対策を謳うなら、希望者の無痛分娩無料などはとても効果的だと思うがいかがですが日本政府さん。

ついでに言うと、我が子は普通にかわいい。「産みの苦しみを味わってこそ」みたいな言説は嘘っぱちだと、今なら確信を持って言える。母体の苦痛と子供への愛情は何の因果関係もない。そして「楽なお産」などは存在しないということは改めて主張しておく。分娩時間の長短や痛みの軽重は個人差があるとはいえ、どのお母さんも大変な思いをして赤ちゃんを産むのだ。だからその痛みのほんの一部でも、麻酔で軽減できるならぜひそうしていいと思うし、それは「サボり」でも「甘え」でも無い。無痛分娩を選ぶというと、こういう言葉を浴びせられることがあるというが、全くもってナンセンスだと思う。

出産は喩えるなら「これがラスボスだと思ってHPもMPもフルに使ってやっと倒したと思ったら裏ボスが出てきた」という感じで授乳を含む怒涛の育児生活が始まるので、無痛分娩は言うなればHPMPを温存するための攻略方法の一つだと思う。私はその恩恵を存分に受けて、今懸命に裏ボスと戦っている。

計画無痛分娩体験記・前編

まだ結婚すら考えていなかったうら若い時分から、心に密かに決めてきたことがある。

 

「もし将来出産することがあったら無痛分娩にしよう」

 

無痛分娩というものの存在を知った時から、これは私の中で揺るがぬ信念としてあった。「麻酔打ちまくる危ないやつだよね」なんて揶揄混じりにジャッジされたりもしたけど。

理由は極めて明快で、「出産はめちゃくちゃ痛いと聞くから、もし痛みを軽減出来る方法があるならぜひ利用したい」というものだ。例えば、周りの健康な歯も含めて大きくタービンで削るのではなく、虫歯罹患部だけ削ることで歯の減りを少なくする保険適用外の新しい治療法があれば、ちょっとお金を加算してもぜひそれを試したいと、電車を乗り継いで遠い歯科にも出かけていくような私だった。

テクノロジーの進化によって、より快適な医療を受けられるのであれば、ぜひそれを享受したい。他でもない自分の身体のこと、それは数千数万の金に換えられるものではない。という考えがあった。

もちろん一般的な方法ではない医療にはリスクも伴うということはわかっている。無痛分娩を知った当時も、日本ではまだまだ一般的なものではなく、リスクばかりを声高に喧伝されていたものだ。

 

しかし着実に時代は変わっていた。ここ10年、少しずつではあったが、無痛分娩はお産の方法の一つとして広まりつつあった。そのタイミングで妊娠出来たことをありがたく思う。10年前であったら、周りの無理解も含めて、それを行うのはより茨の道であったと思う。道を切り開いてくれた先人達に敬意を評したい。

 

前置きが長くなったが、これは私が行った計画無痛分娩の記録である。かつて私がそうであったように、これから子供を産みたいと考えている人、しかし出産の激痛に躊躇している人、無痛分娩に興味がある人にとって、私の体験記が何かの参考になれば幸いだ。

しかし念のため断っておくが、これは私がかかった病院で行っていた方法であり、全ての無痛分娩がこういう感じというわけではない。あくまで一例としてお読みいただけたらと思う。

 

1.無痛分娩への道〜病院探しは椅子取りゲーム

実際の無痛分娩レポートの前に、無痛分娩を行うに至るまでが個人的にはかなり険しい道のりだったので、まずはそのことについて記しておきたい。

昨年夏の某日。検査薬の陽性反応を確認した私は、妊娠確認の病院を探して最初の壁にぶち当たることになる。

妊婦という免疫が下がるのに薬がおいそれと使えない身の上と、コロナ禍という特殊な時勢下、なるべく公共交通機関を利用しなくて済む近場の病院に通いたかったが、残念ながら徒歩圏内の病院は産科をやめてしまい、婦人科しかやっていなかった。実はこのように、「産科をやめてしまって婦人科だけになった病院」というのは存外多く、世の中は深刻な産科不足であるということを私は後々知ることになる。少子化の余波はこのようなところにまで及んでいるのだ。

妊娠判定をしてもらった病院で分娩する必要はない、だから妊娠確認は婦人科でも構わないということは程なくわかったが、そうは言ってもどこで産むかはなるべく早く目星をつけておきたい。私は近隣で無痛分娩をやっている産婦人科を調べ、ひとまず隣駅のAクリニックに予約を入れた。

しかしこれが、無痛分娩を巡る病院ジプシーの最初の一歩であるとはこの時予想もしていなかった。

これも後に知ることであるが、無痛分娩をやっていると謳っていたとしてもその方法・方針は医療機関によってかなり異なっており、希望者は全員無痛分娩の出来るところから、完全予約制で枠が限られるところ、また分娩可能時間も365日24時間OKというところもあれば、平日9時5時限定というところもあるなど(外れると通常分娩となる)、本当にまちまちであり、それは実際に病院に行ってみて初めて知るというパターンも少なくない。が、基本的には無痛分娩が出来る医療機関がその希望者の数に対して足りていないのは間違いなく、最新の機器と設備を備えた人気産院などは、分娩予約が熾烈な椅子取りゲームとなるのは必定なのだ。

希望してお金を払いさえすれば誰でも無痛分娩が出来るものだと思っていた私は、ここでまず大いにつまずくことになる。

まず妊娠確認をしてもらったAクリニックであるが、問診票に無痛分娩を希望する旨記入したところ「うちは基本的に経産婦さんのみ無痛分娩が可能です」と受付の人に言われてしまい、テンションがガタ落ちした(HPではそんなこと謳っていなかったのに!)。曰く、ここのクリニックでは初産婦は陣痛が来るのを待って分娩を行うので、計画的に無痛分娩を行うのが難しく、陣痛が「平日9時から5時の間に」来て、なおかつその時に無痛分娩を行う麻酔医が「空いていれば」(無痛処置は予約した経産婦が優先)、無痛分娩出来ますけど、というスタンスなのであった。実質、初産婦の無痛分娩は諦めろと言わんばかりだ。

それを聞いた時、「役所の受付時間じゃあるまいし、陣痛がそんな都合良く来るもんか!」とは思ったものの、いきなり病院を変えるのにも不安があった私は、心拍確認が取れて予定日がわかるまでそこに3回くらい通うことになる。

今思えば、初産婦が無痛分娩出来ないと知った時点でさっさと他の病院を探せばよかったし(予定日が出る前であれば紹介状すら不要であった)、そうしなかったことを後々悔やむことになるのだが。

 

結局無痛分娩を諦めきれない&そんな博打みたいな真似は出来ないと思った私は、もう一つ無痛分娩が出来ると謳っているB医院にも行ってみようかと考え始める。しかしB医院は予約ができず、当日受付だけが出来るシステムを採用しており、待ち時間がかなり長そうで躊躇ってしまった。

そんな中、予定日が出たので保健所で母子手帳をもらい、その時行った保健師さんとの面談で、この近くでは比較的大きな総合病院であるC病院でも無痛分娩を行っているようだという情報を得る。

そもそも私は母子手帳自体が妊娠判明したらすぐに貰いに行くものだと思っていたので、予定日が出てからでいいというのも地味に驚いた。そしてその時点で妊婦産婦をサポートする様々な行政サービスがあると紹介され、資料なども沢山貰うのであるが、これにちゃんと目を通して活用できる余裕が、人によっては絶賛つわり中の妊婦さん達に果たしてあるのだろうかは少々疑問であった。

 

幸いつわりもほぼ無かった私は早速C病院に行くべく、Aクリニックに紹介状を出してもらい、C病院の予約を入れた。

NICUもある総合病院、産婦人科の施設も新しく医療スタッフも豊富────C病院のことを調べれば調べるほど、なぜこんな良い病院が近場にあったのに気付かなかったんだろう、産むならぜひここで産みたいと上がり始めていた私のテンションは、しかしいざ診察を受けて冷水を浴びせられることになる。

診察室で聞かされたのは、「その日(予定日)の無痛分娩は枠が埋まっており繰り上げ待ちです」という無情な言葉であった。

は?繰り上げ待ち?そんな入学試験じゃあるまいし……

「ちなみにその繰上げというのは、どのくらい可能性があるんですか」

重い唇を開いて尋ねると、

「リスクがあって他の医院に転院になったり、やっぱり自然で産みたいと考えを変えてキャンセルされる方もおられますが、あまり可能性はないと思っていただいた方が」

どうやら希望は薄そうな口ぶりであった。

そりゃそうだろう。こんなに良い施設で無痛分娩できるなんて好機を、そう簡単に譲る人がいるなんて思えない。

「とりあえずご了承の上で繰上げ待ちに予約を入れますか?」

私の心理状態でそう感じたのかもしれないが、看護師さんの口調は有無を言わさないものがあった。私は無言で頷くしかなかった。

 

病院からの帰り道、雨まで降り出して泣きそうになりながら、重い足取りで歩いた私の脳内は、完全に「無痛分娩落ちた、日本死ね」の状態だった。

それにしても悔やまれるのは、もっと早くC病院に行かなかったこと。というのも、この数日前に予約の電話を入れた時はまだ私の予定日の枠は空いているという話であったので、タッチの差で埋まってしまったのだと思われたのだ。

自分の下調べが足りていなかったのは否めない。でもそれ以前に、そもそも無痛分娩がこんなに難しいことだなんて、思いもよらなかった。初産婦は対象外と言われたり、予約枠の上限があったり、そんな椅子取りゲームみたいなものだなんて。日本の産科医療はマジでどうなってるの?そりゃ少子化になるよね。等々、私のソウルジェムは呪詛に満ち満ちて真っ黒になりかかっていた。

 

しかし魔女化しそうな精神状態の中で、唯一残された希望として、待ち時間が長そうで避けていたB医院の存在を思い出した。この際待ち時間なんてどうでも良い、無痛分娩が出来る可能性があるなら────藁にも縋る思いで電話をかけて予定日を伝え、無痛分娩を希望する初産婦だが可能なのか、分娩の枠が空いているかを教えて欲しいと聞くと、「(無痛分娩が)出来るかどうかは医師の診察を受けてからの判断となるので、まずは一度来て欲しい」という回答だった。

とにかく一刻も早くB医院に行くべく、私はAクリニックに再び紹介状を出してもらった。なぜC病院ではなくAクリニックに出してもらったのかというと、これはC病院の予約をキープしたかったためだ。当時の私は視野狭窄に陥っており、紹介状を出してもらったら最後、もうCには通えなくなると思い込んでいた。それは避けたい、Bでも断られた時のことを考えたら、無痛分娩が出来る可能性が少しでも残ってるCの予約はキープしておきたいと考えたのだ。実際はそんなことはなく、紹介状を出してもらった病院にだって出戻ることは患者の自由だったのではあるが。

 

そしてB医院へ。

案の定なかなかの待ち時間の長さと、C病院とは比べ物にならないくらい「ザ・町医者」という雰囲気の待合室と診察室に最高潮に達していた私の不安は、しかし「無痛分娩出来ますよ」という先生からの言葉によって氷解した。

「えっと、予約の枠とかは」

「大丈夫。無痛分娩は僕がやるんだけど、僕がいる時は、いない時も時々あるけど、だいたいいるから、夜中でも対応できますよ」

ここの先生は、産婦人科兼麻酔医だった。だから24時間対応可能なのだとは、後に調べて知ったことだった。通常、無痛分娩は麻酔医の立ち合いの下行うため、無痛分娩可能な時間も、その麻酔医の勤務時間内に限られるということになる。ところがここの場合は、分娩を行う医師自身が麻酔医なので、平日9時5時限定の陣痛に賭けなくても対応が可能なのだ。なんて素晴らしいと思ったと同時に、なんで他の病院はそうじゃないのだろうとも改めて思った。

また分娩枠に関しても、予定日から逆算した38週ごろの計画分娩にするから問題はないという話であった。その医院では自然の陣痛が来てから無痛分娩処置を行う方法ではなく、事前に決められた分娩日に合わせて入院し、処置を行うという方法を取っていた。いわゆる計画分娩である。Aクリニックではこれは経産婦のみ行うとしていたが、B医院では初産婦でも対応するとのことで、まさに私にとっては地獄に仏であった。

なお、この医院では無痛分娩のことを「和痛分娩」と呼んでおり、これはお産の進行上完全に「痛くない」状態にするのは不可能なので、飽くまで痛みを軽減する方法である、ということからであるが、表記を統一するためにこのレポートではこのまま「無痛分娩」と呼ぶことにしたい。

この他にも硬膜外麻酔注入のリスクや、お産の時間が長くなる可能性など一通り説明を受けた後、自分の予定入院日を聞かされてその日の診察は終わった。

 

こうして私の病院ジプシーはようやく決着し、私はB医院で計画無痛分娩を行うことになるのだが、このようなことは妊婦には珍しいことではないとは後でわかったことだった。後日のファミリー学級で出会った妊婦さんは、とある総合病院の無痛分娩を8週になった瞬間に予約したと言っていた。そうでないと、予約が瞬時に埋まるのだと。初産婦無痛分娩NGのAクリニックに脳死で通い続け、3週も無駄にしていた私がいかに愚かであったかを思い知った。

今の日本において、無痛分娩というのは一種のプレミアムチケットだった。妊活の時点で産む病院の目星をつけておくのは当たり前で、特に希望者は全員無痛分娩ができるような人気産院には、たとえ遠かろうと頑張って通ったり、実家が近いのならそのために里帰り出産を選んだりと、何とか通えるように工夫する。近隣の三箇所を回って泣き言を吐いてる私などはてんで甘ちゃんであった。

しかしちょっと、これっておかしくはないか?というのは私の正直な感想である。

受けたい医療があるなら遠くても通うと息巻く私ではあるが、それは平常時の話で、何しろ当人は妊婦である。病気ではないとはいえ、一つの命を育てる一人ではない身体である。少しでも負担の少ない形を模索するのが、果たしてそんなに高望みなのだろうか?

事実、たった三箇所とはいえ、病院ジプシーはとても精神的にこたえた。無痛分娩を諦めるしかないのか、そうすると、あの「腰を撞木で撃たれるような」「生理痛の2000倍痛い」「悶絶して気絶して絶叫する」と先人達から散々聞かされたあの激痛を味わないといけないのか、「女の人は耐えられるように出来てるらしいよ」なんて言われても私が耐えられる保証はどこにあるのか、なんで虫歯治療にも麻酔を使うのにお産だけは麻酔無しで耐えるのがデフォルトなのか、おかしいおかしい、日本の婦人医療はホントおかしいと、日に日に精神の色相を濁らせていたものだった。

医療リソースが豊富と言われている東京都心部でこの有様である。ましてや地方などはどうなるのだろう?

ハイリスクなどの特殊な事情で無痛分娩の処置が出来ないというならまだ納得がいくが、抽選に外れたみたいな理由で無痛分娩ができないというのはひとえにリソースがあまりに足りてないからだ。

例えばもし自分が外科的処置が必要な症状を起こして倒れ、担ぎ込まれた病院で、麻酔が足りないから麻酔無しで手術しますね、と言われたら。「はい、お願いします」とすんなり承知できるだろうか?激痛を伴うことはわかりきっているのだから、当然抗議の声を上げるのではないか。しかし、お産に関してはこれがむしろ「仕方ないこと」のように扱われているのが、私には理不尽に思えてならない。

願わくば全ての妊婦さんにこんな思いをさせないで欲しいし、希望する人皆無痛分娩がどこでも出来るように、まずは麻酔医を増やしてください日本の医療と切に祈りながら、とりあえず長くなり過ぎたので一度ここで記事を締めたい。

 

後編ではいよいよ、当日のお産の様子をレポートしようと思う。

”地元”って何だろう?

「地元」って何だろう。
最近友人と地元の話になって、そういえば自分の「地元」って何だろうと、改めて考えてみたが、考えれば考えるほど、自分には「地元」と呼べるものはないのではないかという気になってくる。

「地元」という単語を辞書で引いてみると、

 1.    その事に直接関係のある土地。本拠地。
 2.    自分の居住する、また勢力範囲である地域。

という感じのことが概ね書いてある。なるほど、自分の居住地かつ勢力範囲のことか。当たり前すぎる感想を抱く。
「居住地」これはもちろんわかるとして、「勢力範囲」というのがいささかひっかかるワードである。
戦国武将ならば、自分の国衆が住まう、自分の統治下にある土地、というふうにわかりやすく定義できるが、現代の一市民でしかない自分が持ち得る「勢力」とは。
たとえば友人とか知人とか親類とか、自分に何らかの縁ある他人が一定数まとまって住んでいたり、仕事や生活などで何らかの繋がりがあったり、自分が死にでもすれば「あいつ死んだらしいぜ」という情報が広がる。というのが現代でいうところの最低限の「勢力範囲」と仮定しよう。しかし、それは「ご近所」と何が違うのか、ということになる。またしても袋小路にはまる。
辞書における定義はひとまず脇に置いておくとして、「地元」から連想するイメージを書き出してみることにしよう。

1.    自分が生まれ育った土地。
2.    厳密に生誕地ではなくても、そこである程度の年月を過ごしていること。
3.    その土地に昔からの顔なじみが住んでいること。
4.    その土地の学校を出ていること。
5.    その土地に帰ると「地元に帰ってきたなあ」と懐かしく思えること。

 

だいたいこんな感じだろうか。

これらに一つずつ自分の回答を当てはめてみると、まず①については明確に決まっている。都内某所のS町だ。

そうなると、②もおのずと決まる。生まれ育った土地S町から、私が初めて出たのは結構な年齢になってからだ。それまでずっと、実家もしくは実家のごく近くに居住していた。ここまで来れば、お前の地元はS町だろうということになる。しかし、問題は③と④だ。

私には、S町に顔なじみと呼べる人はほとんど住んでいない。ごくごく昔は、隣家のおばあちゃんとか、公園デビューの時の幼馴染とか、商店街の八百屋のおっちゃんとか、いわゆる「近所の顔なじみ」と呼べる人は住んでいた。しかしその人口は年々減り、今ではおそらく絶無に等しいだろう。

これは④の回答にもなるが、私が「地元の学校」というものに通った経験が皆無だからであるとも言える。私は幼稚園の時から、バスなり電車なりを乗り継いだ、大人にとっては大した距離でなくとも子供にとっては「遠く離れた」学校に通う生活をしていた。よって、近所に住む「同級生」はおろか、同世代の人間すら誰も知らない。

そもそも、自分の隣家に誰が住んでいるのかすら、ほとんど知らないで育った。親の代くらいまでは、隣家におすそ分けしたりお通夜に行ったりする付き合いくらいはしていたようだが、私の代になったらそんな付き合いは当然のように絶えてしまった。概ねそういう付き合いは、それを担っていた年寄りが死んだ途端に糸が解けるように散逸してしまう。子供世代もしっかりとそれを受け継いでいくことは稀だったし、相続税が莫大にかかる土地の習いとして、次世代に移ると売却して別の土地に移ってしまうことも多かった。私が知っているだけでも、そうして無味乾燥なマンションなり駐車場になっていった家が何軒もある。

もとよりファミリー世帯の少ない土地でもあった。同じマンションの住民さえ、子供ができるともっと広くて子育てしやすい土地に越してしまうものだった。私が地元の小学校に通わされなかった理由の一つでもあるのだが、同世代の子供というのが、私の時代ですら圧倒的に少なかった。当然、そういう地域は子育て世帯向けの施設などはどんどん削減される。児童館はあっという間に閉鎖され、ついに近所の小学校も閉校になったと聞いた。

住んでいるのは単身者と、昔からそこに住んでいるお年寄りだけ、というまるで限界集落みたいな土地であるため、当然のように商店街もどんどんさびれ、私が子供の時にはあった八百屋も魚屋も豆腐屋もすべてなくなり、現在はスーパーが一軒とコンビニ、あとはかろうじて生き残っている米屋と、いつ物が売れているのかさっぱりわからない荒物屋のみが残っている。ただ本当の限界集落と異なる点は、人々の居住地域以外のエリアはビルが立ち並び、道路に車も人も大勢行き交っているので、一見栄えているように見えるのだ。おそらく、単に遊びに来ただけの人にとっては「全然活気ある町じゃん」と言われるだろう。しかし、そこが住み易い町であるか、町としての骨組みがしっかりしているかどうかは、また全然異なる話である。

大き過ぎる繁華街のそばには、そういう都心のエアポケット的な地域が存在していて、S町はまさにその典型だったと言えよう。あの町の最も良い所は「交通の便」ただそれだけで、そこからどこにでも行くことが出来たが、町自体には「実質何もない」がらんどうの町だった。というのが、私のS町に対する総括的な感想である。その「交通の便」がいかに大きな財産であるかも重々承知しているのだが、それは一旦脇に置いておきたい。


話を元に戻そう。

最後の問⑤「その土地に帰ると『地元に帰ってきたなあ』と懐かしく思えること」であるが、これについては、「はい」と答えざるを得ない。

この前、およそ数年ぶりに、元実家である辺りを散歩し、何度となく行き来した最寄り駅までのルートなどを歩いてみた。

確かにここは、私がかつて住んでいたことを知る人はほぼいない町ではあるけれど、私自身がこの町のことを、この町に住んでいた自分のことを、鮮明に覚えていた。

昔あった店の面影を今ある店に重ねてみたり、アスファルトの小路にかつて砂利道だった頃のことを思い出したり、とうに代替わりしている駐車場の猫や、記憶の中よりだいぶくたびれてしまった建物を見たりする度に、ああそうか、ここは間違いなく私の「地元」そして「故郷」だったのだなと感慨深かった。

数十年という年月は、自分の中でも知らない間に、愛着とも郷愁ともつかないくすぐったい感情を、薄く積もらせていくものなのだろうと思う。


そんなわけで、冒頭の問いかけとは真逆のことを言っているが、私の「地元」は確かに存在していた。

もちろん、「地元の友人」とか「地元の学校」と呼べるものが存在していないことも、また事実だ。しかし地縁というものはとんと築いてこなかったと思っていた私も、自分の中にある「記憶」という名の地縁だけはがっちり根付いていることに気付かされたのだった。そしてそれが、思いのほか豊かな森として、自分の中に根付いているということも。

私は地元愛の薄い人間だと思っていたが、どうもそんなことはなかったようだ。

S町で知らず知らずのうちに培っていた苗木を、今度は今住まう土地に植える作業をすることが、これからの後半生の仕事なのかもしれない。ここが私の、第二の「地元」になることを祈って。

図工の先生の話。

それは「美術」ではなく「図工」の時間だった。

そう、「図工」。
小学校の時は、美術の時間を図工と呼んでいた。図画工作、の略だろう。
工作はともかく絵画は得意だった私は、4年生くらいまでは図工の時間が大好きだった。
アイディアは無限に生まれ、描けば教師生徒問わず皆に褒められ、それが楽しくてまた夢中になる。
そういう幸福なループの生まれる時間だった。

そんな私と図工との蜜月は、ある日突然終止符を打たれる。5年生の時から図工の時間を受け持つことになった、1人の教師によって。

私の小学校では図工の時間は、4年生までは他の授業同様に教室で行うが、5年生からは専用の教室で専任の教師が行う事になっていた。
足を踏み入れると、油絵具や粘土やそれら諸々の混ざった独特の匂いが鼻をつき、机は信じられないほど削れて凹んで絵具にまみれていて、石膏像や名画の模造品が壁や棚に所狭しと並べられた異様な空間。
初めて美術室に足を踏み入れた時は、緊張と興奮で胸が躍っていたのを覚えている。

その図工の先生は、校内ではカリスマ的な人気がある有名人だった。
美術室での図工の授業が始まる以前から、私もその存在や「すごい先生」であることは知っていた。
秋のイベントである展覧会のワークショップで少しだけ話したことがあったが、「何やら面白い先生がいる」という感想を抱いたのを覚えている。

実際、彼の「すごさ」は最初の授業から如実に発揮された。
彼は教科書や黒板を一切使わず、基本的に全て自分の言葉だけで話をした。
最初に教えられたのは「サウンドスケープ」というものだった。周りの風景や音をよく観察し、それを書き留める。芸術の基本だということだろう。
彼は事あるごとにこの単語を出して、それをするように生徒たちに促した。
こんな調子で彼の授業は全て、どこか「一風変わって」いた。不思議で、とらえどころがなく、独特の世界観があった。

教科書とノートを広げて板書をとるようなものとは一線を画したその授業は、自我と共に大人達への反抗心が芽生え、画一的な学校教育に反発を抱き始める、しかし心身ともまだ子供である10歳ごろの児童の心を瞬く間に鷲掴みにした。
この位の年齢の子供たちは子ども扱いされることに倦み、「大人」を振りかざす大人を嫌う一方で、「大人」の型枠にはまっていない大人に惹かれ、憧れるものだ。大人を嫌いと言いながら、一部の大人には心酔する。それこそがまだまだ大人になり切れていない証なのだが、そんな自覚は当然ない。
この図工の教師は、そんな児童達を魅了するという点では天才的な素質を持っていた。

彼は「サウンドスケープ」以外にも、あらゆる自分が「良い」と思うものを生徒達に紹介した。
例えば、『星の王子様』。宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』。ピカソの絵画や、パブロ=カザルスの『鳥の歌』、等々。
事実、それらは「良い」ものに違いない。価値の高い芸術の一つとして、多くの人々に愛されてきたものだ。
そういう良いものを生徒達に教えたい、触れさせたいと思い、それを行うこと自体は何ら悪い事ではない。

しかし問題は、その薦め方だった。
彼はそれらがいかに素晴らしいか語る一方で、それらを理解しない、受け入れようとしない人達をことごとく否定した。
電車で漫画を読んでいるサラリーマンたちを貶し、漫画ならば手塚治虫のような高尚なものを読むべきだと説いた。
彼の認める芸術作品は格調高い至上のもので、それ以外は塵芥であるというような口ぶりだった。
大人になった今になって振り返れば、彼のその教えには明らかに問題があるし、偏見を子供たちに植え付ける悪質なものですらあったと判る。
しかし10歳そこそこの私は当然その異常さに気付くはずもなく、「すごい先生」である彼が言っていることは全て正しく、そこから逸脱することは悪い事なのだと、そう単純に思い込むようになった。
そしてそういう生徒は、何も私一人ではなかった。皆それほど彼に心酔し、彼の教えは正しいと信じていた。
教室全体が、彼という神にひれ伏す一つの宗教のようだった、あれは一種の「洗脳」であったのだろうと思う。

一つ、強烈に覚えていることがある。
授業でパブロ=カザルスのドキュメンタリー作品のビデオを見た時のことだ。
高齢のカザルスがそれでも必死でチェロを弾き、若い妻がそれを介助する、という内容だったと思う。
正直なところ、10歳そこそこの子供が見て楽しいものでは全くなかった。
しかし私は終始、「これを見て感動しなければならない」という圧を感じて焦っていた。
事前にその教師が、ビデオを見て感動し涙を流したという生徒がいかに素晴らしかったかをとうとうと語っていたからだ。
「これに感動しないと先生に認めてもらえない」単純な子供であった私はそう思って、必死に涙を流そうと努力した。
しかし、そんな気持ちで見ているビデオに感動などできるはずもなく、私はただ徒に画面を見てそわそわしているだけの生徒になっていた。涙など一滴も出ないどころか、内容すらほとんど頭に入らなかった。
そしてビデオ鑑賞が終わって、教師が私に向かって言った。
「君は悲しい子だね」
おそらく上記の涙を流そうと挙動不審になる様を見て、ビデオに飽きて集中していないように見えたのだろう。カザルスの美を理解できないなんて、君はなんて感性の貧しい人間なのだ。彼の「悲しい子」という言葉は、そんな哀れみと侮蔑の響きを含んでいた。
そしてその言葉の後、彼は食い入るようにビデオを見ていたという、別のクラスメイトを賛美し始めたのである。
「悲しい子」という言葉を目の前にべたりと貼り付けられ、私は目の前が真っ暗になった。

今、タイムスリップしてあの時の教室に行けるなら、私はあの教師に張り手一つもかましてこう言ってやりたい。
「あんたのような人間に教えられたら、子供は皆芸術を嫌いになる。あんたこそ芸術の敵だ」と。

何かを鑑賞する時に、それを好ましく思うか気に入らないと思うかは、まったくもって個人の自由だ。そしてその自由こそ、芸術を鑑賞する全ての人が持つ、最も気高く重要なものではないのだろうか。
しかし彼のやっていることは、その自由を奪った上で自分の価値観を押し付けているに過ぎない。そのものに触れた素直な感情に過ぎないものを、片方は賛美し片方は全否定することの、一体どこに教育があるというのだろう。
かつて人類史上では様々な芸術が、「公序良俗に反する」であるとか「反体制である」であるなど、あらゆる理由で迫害され、排除されてきた。そして同時に、それに抗っても作品を残し続けた人々から、今日も残るあらゆる傑作が生まれたのではなかったか。
芸術を教えるという立場の人間が、芸術を排斥してきた側のムーブをやるという、この恐ろしい矛盾に、しかし小学生達が気付くはずもなかった。

彼がこのような偏った言動をするのは、もちろんこれだけではなかった。
彼は特定の生徒を明らかに贔屓し、彼らの作品は下にも置かず褒め称える一方、気に入らない生徒のことは悉く否定し、皆の前で貶した。(この「贔屓」については、薄々他の生徒達も気が付いていた。しかし表立って抗議する者はいなかった)
私は途中から「気に食わない生徒」のカテゴリーに入れられてしまったようで、先ほどのビデオ鑑賞の時のような言葉を吐かれたり、作っている作品を取り上げて「何が作りたいかわからないまま作っているから、ほらめちゃくちゃになっちゃってる」と言われ、「悪いお手本」としてクラス全員の目の前に晒されたこともある。
それまで最高評定しかもらったことのなかった通信簿の図工の成績は、あからさまに下げられた。

気が付けば、私の図工を愛する心は完全に委縮し、創造力の翼はベキベキにへし折られていた。
それと引き換えに、どうすればこの先生に気に入ってもらえるだろうか、優しい言葉をかけてもらえるだろうか、そんなことばかりを気にして作品を作るようになってしまった。
虐待された子供がそれでも何とかして親に気に入られようと必死に模索するように、私はこの教師が好みそうな形に作風を変え、彼の好みそうな言動をとった。彼が顧問を務める美術クラブにも入ったくらいだった。
一体何をそんなに必死だったのだろうかと、今考えれば滑稽ですらあるのだが、そうまでして私は、彼に気に入られたかったのだ。学校で人気の、カリスマ的な図工の先生のお気に入りになれば、自分も素晴らしい人間になれるかのような、そんな錯覚をしていたのかもしれない。

もはや私にとって、図工は得意教科でもなければ、楽しく幸福な時間では永遠になくなった。

 

そんな愚かな洗脳は、小学校卒業と同時にあっさりと解けた。
そして私は、あの先生は本当に最悪だったと親にも話せるようになった。
親もその先生のことは知っていたし、人気の先生で皆に慕われていたと思っていたので、随分驚いていた。外から見れば、彼はちょっと不思議な雰囲気の、しかし生徒には人気の芸術家肌の先生に過ぎない。しかも親のところにまで届いてくるようなのは、あの先生の授業は楽しい、面白いなどのポジティブな意見だけだった。そしてそういうのを喧伝するのは、彼の教育に「適応」できた、「贔屓」の恩恵を受けた一部の生徒だけである。彼と合わなかったがために地獄を見た私のような生徒達は、ただただ口をつぐむのみであった。そういう意味でも、彼のカムフラージュは完璧だったのだ。

 

彼はよく、過去に受け持ってきた生徒たちの思い出話もした。
中にはプライバシーの暴露でしかないような内容のものもあり、そんなことを平気で他の生徒にべらべら喋る教師の行動は今でこそ問題になりそうだが、何しろそれを聴く生徒達は「洗脳」されている。ましてや、モンペなどという言葉も存在していなかった時代である。先生の権威は高く、その教育方針について父兄が口出す事は「越権行為であり、おこがましい」という気風がまだまだあった。彼のその言動が問題になる事はついぞなかった。

その思い出話という名の暴露話の中に、彼のことを疎んだ生徒達、というのもいた。そういう子達は、卒業後に道で彼に会っても知らん顔して素通りするという。もちろんそれは「悪い」生徒達の例で、今でも自分を慕う素晴らしい教え子達が一方でいるという話の中で、その対比として登場するのだった。
それを聞いた時の私は、「私はそんな『悪い』側になりたくない。先生を見て知らん顔するなんて絶対しない」と、素直に思ったものである。実に御しやすい子供である。
しかし洗脳が解けた後、中学生になってから、私は彼に道端ででくわしたことがある。正確に言うと私が目撃しただけで、向こうは気づいていなかったが、遠目に見て間違いなく彼だった。当時の私は過去の恨みを捨てて笑顔で挨拶出来るほどの胆力は無く、かといって彼を無視して「ダメな教え子」の一人として消費されるのもまっぴらごめんだったので、回れ右して彼に見つからないようにその場を立ち去った。
以来、一度も会ってはいない。おそらく今後も、二度と会うことはあるまい。

以上、今般SNSを賑わす「洗脳」という言葉から、ふと思い出してしまった話である。
人生のはじめの方で、私が出会った「ひどい大人たち」の間違いなく上位ランキングに入っているこの図工の先生であるが、彼の承認欲求を満たすために彼に下げられ、自尊心を損なわれた子供たちは、私の他にどのくらいいたのだろうか。
「洗脳」が罪深いというならば、彼の罪はいかほどのものなのかと今でも考える。彼はきっと、最後まで「いい先生」として退官を迎えたことだろう。

もはや皮肉でしかないが、彼が好きでしきりと標語のように用いていた言葉を引用して筆を置きたい。彼は一体、この言葉から何を学び取っていたのだろう。永遠の謎である。

 

”心で見なければものごとはよく見えないってことさ。大切なことは目に見えないんだよ。”

────サン=テグジュペリ『星の王子様』

 

Twitterの”加害性”について

『誰も守ってくれない』という映画があった。

 

志田未来演ずる少女の日常が、兄が凶悪犯罪を犯したことをきっかけに崩壊していく様を通じて、「加害者家族」となった人々の受難を描いた物語だ。

その中で、長男が逮捕された直後に家族が警察に保護され、ホテルの一室で離婚届と婚姻届を書き、速やかに一家の氏姓を変える場面がある。彼らが今後浴びるであろうバッシングの過酷さを、淡々と物語るシーンだ。

数日前、Twitterで起きた事案を目にした私の脳裏には、このシーンが真っ先に浮かんだ。

 

それは、とあるツイートをきっかけに、一個人に過ぎないアカウントが炎上し、過去のツイートを掘り返され晒され、関係ない他のツイートにまで、それこそ不特定多数の人々から散々罵詈雑言を浴びせられた上に、最終的にアカウント削除にまで追い込まれたという、Twitter上では残念ながら日常茶飯事な事案であった。

 

具体的にどの事件がきっかけであるかは、この"炎上"に加担することにもなるし、改めては書かない。

それにこういうことは本当によく起こっているので、今更元になった事件を名指しせずとも、いくらでも過去の事例を挙げられるだろう。

 

とにかく私は、こうしたことが「日常茶飯事」であるTwitterの異常性というものを、この事案を通して今更ながら痛感したのだった。

 

Twitterはおよそ、「罪人(と認定されたアカウント)にはいくらでも石を投げつけても赦される世界」だ。

その「罪人」というのは、あからさまな犯罪行為を行っている者だけでは勿論なく(むしろそれは少数派だ)、例えば「不適切な発言をした」「迷惑な行為をした」という、どちらかというと「倫理に悖る」もの、犯罪行為として法的には裁けない者達にそのレッテルが貼られる傾向にある。

そしてそのレッテルを貼られたら最後、彼らがどういう属性で、過去にどんな呟きをし、どういう日常を過ごしていたのかを全て掘り返され、批判され、人格否定や単なる罵倒の類も織り交ぜたリプライの数々が浴びせられる。その経緯はどこかの掲示板やブログ、果てはYouTubeにまでまとめられ、そのアカウントにとってはデジタルタトゥーとして永遠に残されることになる。例えアカウントを削除しても、発言そのものはアーカイブして保存されるのだ。

 

私は問いたい。

これらの行為のどこに、「正義」があるのかと。

しかし炎上に加担して、「罪人」に石を投げている彼らには加害している意識など無い。

なぜなら石を投げられたのは「罪人」が悪いからであって、むしろ悪いのは自分達を不快にさせた彼らなのだと、おそらくそのように考えているのではないか。

 

確かに何か言葉を呟けば、それに対する批判が来るのは必然ではある。

ましてやSNSという場の、非公開ではない、全世界公開のアカウントで何かを呟けば、それが不特定多数の目に触れるのは想定の範囲内ではある。

しかしでは、その「批判」というのはどこまで許されるのだろうか?

私は正直わからなくなってしまった。

 

────そしてここまで書いて筆を止めていた時に、安倍元首相が銃撃されて殺される、という衝撃的な事件が起きた。

それはおよそ私達が過ごしていた平穏な日常というものが、実はあまりにも脆い薄氷の上に立っているものだったと思い知らされる出来事だった。

私たちは、少なくとも法律と理性が機能する世界に住んでいるのだと思っていた。しかし現実には、それらを易々と乗り越えて暴力は私たちに牙を剥き、私たちが拠り所として、守り、大事にしているもの達をいとも簡単に踏み壊していく。

 

改めて私は言いたい。

何かを批判することと、暴力を振るうこと(これは身体的な加害だけでなく、精神的なものも含まれる)は絶対に分けておかなければいけない。

誰かを、例えばそれが政治家であれ、単なる一私人であれ、その人の言動に批判を加えることは勿論自由だ。しかしそれは、その人の言論を封殺したり、心身を害していいということにはならない。たとえそれが倫理に悖る(と判断される)行為であっても、それを裁くのは一個人であってはならない。私刑が罷り通る中世ならまだしも、いやしくも現代の法治国家である以上、誰かを批判する時、何かに意見をする時に、それはまず念頭におかなければならないことだと思う。

しかし現状のTwitterでは、それがあまりにも無視されている。自分が悪と認めたものに対しては、それが同じ人間であるということを忘れて構わないという振る舞いをするのが、もはや「Twitterしぐさ」として成り立ってしまっている。

 

私が愛し、10年以上に渡って入り浸っていたSNSTwitterは、今やこんなにも加害性を孕むツールになってしまったのだろうか。

 

そう「加害性」である。これもつい最近トレンドワードになったものだった。Twitterこそが大いに加害性を孕んでいる。そしてこれを指摘すると、「Twitterなんて元々そんなものだろう」とすら言われてしまう。そんなんでいいのか?と私は、敢えて、改めて問いたい。

罪なき人のみが石を投げよ、と諭す人は、誰も居ない。いてもかえってその人が石を投げられてしまう。

こんな世界に、誰がした。

自然乏しい都会で窮屈に育った子供だった。

「子どもは、自然豊かな田舎でのんびり育てるのが一番いい」

 

これまでの人生で、何度も耳にした言葉だ。

今はこの意見についての是非を問うつもりはない。地方で子育てをするメリットデメリットについて論じるつもりもない。

ただこういう意見の人から見たら、私はその「一番いい」とは真逆の子供時代を送った人間ということになる。彼らに私の子供時代の話をしたら、どのように感じるだろう。気の毒な子供だったと思うだろうか。あるいは私の親は酷い親だと考えるだろうか。

 

少し前に、Twitterで「お受験」の話題が出た。

自分のお子さんに小学校受験を考えた男性が、説明会に行ってみて驚愕した、そして実際に受験をさせるのは躊躇った、という一連のツイートを読んで、私は自分の子供時代を思い出していた。

 

結論から言うと、私は「お受験」に対して全く良い感情を持っていない。自分の子供には間違いなくさせないだろうし、身近な人間が自分の子供にさせようか迷って意見を求めてきたら「やめた方がいいよ」と答えると思う。

勿論、確固たる意思を持って受験をさせる親御さん達のことまで止めようとは思わない。「お受験」にだってメリットデメリットどちらもあり、私はたまたまデメリットばかりが印象に残ったが、メリットの恩恵を受けた子供達だって大勢いるに違いない(だからこそ、「お受験」は今に至るまで脈々と続いているのだろう)。

だからこれから話す内容には、どうしても私自身のネガティブイメージというフィルターがかかってしまうことはご了承願いたい。

また、何しろ20年以上前の話なので、今現在の実態とは異なっている部分も多々あろうかと思うので、怪談噺を聞く感覚で気軽に読んでもらえたら幸いである。

 

✳︎ ✳︎ ✳︎

 

幼稚園の後、私は「真っ直ぐ家に帰る」ということをした記憶がほとんどない。ごく小さいうちはあったのかもしれないが、少なくとも記憶にある限り、私は幼稚園の帰りは何らかの「習い事」「お教室」みたいなものに行っており、合間に友達と遊んだり映画や人形劇などを観に行ったりしていた。これらの行動は95%くらいは専業主婦の母が一緒であった。父はおそらく、猛烈に働いていた時期だったと思われ、その影は大変薄い。私の教育や「お受験」関連の諸事万端は母の手に任され、父はお金だけ出していたというのが実態だろう。

さて、この「習い事」「お教室」のうち、「お受験」に関わるものだけ列挙してみると、

 

・お教室A:先生の自宅で行うマンツーマンレッスン。「行儀・マナー」の類などを習っていたと記憶している。先生のことは「〇〇(苗字)のおばちゃま」と呼んでいた。先生は時々怖いが、基本的には楽しく通っていた。

・お教室B:10人ほどの生徒による、主に運動系の指導をする教室。ボールをドリブルしながらジグザグに走ったり、大縄跳びなどのほか、「知っている童謡をみんなの前で歌う」などのレッスンもあった。遊び感覚で楽しい時もあったが、先生には独特の体育会系のノリがあり、怖かった。

・お教室C:数人で一緒の部屋で学ぶ、「お勉強」系を学ぶ教室。左右の区別や時計の読み方など、一般常識から小学校の勉強にかかるようなものまで色々やった。勉強系は得意だったので比較的楽しくやっていたが、おしゃべりが多くてよく注意されていたようにも記憶している。

 

この他に、単発で図画工作の教室に行ったりしたこともあったが、メインはこのA〜Cだった。

当時の私はこの三つに通うこと自体は、さほど苦とは思っていなかった。テレビアニメや子供向け番組の中で描かれる、幼稚園から帰ってきたら即友達と遊びに行く、という生活と自分の現実は程遠かったが、それを特に不思議に思ってはいなかった。

実際、私が通っていたのは地元の幼稚園ではなかったので、一緒に遊ぶような友人は近所には誰も住んでおらず、親のサポート無しにはどこに行くこともできなかった。家と、親に連れられて行くどこかが私の世界の全てだった。

 

私が辛かったのは、この教室のための予習あるいは復習を母に叱られながらすることと、授業の間の私の行動を、家に帰って母から叱責されることの二つであった(授業は親が参観していることもあるが、そうでない場合、授業中の行動は逐一保護者に報告される)。

今から振り返れば、親の言うことは全く聞かず、際限なく自分の喋りたいことを喋り続ける、じっと座っていることすらできない野生動物のような当時の私に、人として最低限の礼儀作法や一般常識を教えたのは間違いなくこの「お受験」のためにやった訓育であったし、完全にこの日々が無駄であったとは思わない。しかし行動を共にする母は概ね不機嫌であり、母の機嫌を損ねないようにすることが私の日々の目標だった。

 

さて、そんな生活を2年くらい続けたのち、いよいよ試験となる。

もちろんこの間、模擬面接や模擬試験などは何度も行っているが、ここでは本番の試験の話をする。

 

小学校の受験は冬ではなく、前年の11月に行われる。みんなで揃いの紺のワンピース、白い靴下、黒い革靴などを着て、母も同じように紺色の上下スーツ、ここら辺はどうやら今も変わらぬ「お受験」スタイルであるらしい。

試験の内容は筆記試験、運動(実施しない学校もある)、面接、そして行動観察といったものが主流だ。

 

私が特に強く記憶に残っているのは、大本命の学校における面接と行動観察だ。

 

「お受験」の面接は通常、両親あるいは片親同伴のもと、何名かの教員から親子共々質疑応答を受ける。

私の記憶する面接は、両親揃ってのものだった。

父が勤め先を聞かれ、答えた社名が印象に残ったので口の中で復唱して、先生に「どうしたの?」と聞かれた場面があった。しかしその場は上手く誤魔化し、大事には至らなかった。

問題はその後の行動観察だった。

お題を聞き、制限時間内に画用紙の中の絵を、その場にある紙や、色をつける道具などで自由に仕上げるという課題だ。図画工作が得意だった私には訳のない課題であるはずだった。ところが私は、課題よりも周りの子供達を相手に自分のネタを披露することに夢中になってしまい、課題を満足に仕上げることが出来なかった。それどころか、盛り上がり過ぎて見張りの先生に注意された位である。6年の人生の中で一番というレベルにウケて、大いに気持ち良くなっていた私は、先生に注意されたことによってにわかに現実に引き戻され、子供心にも「やっちまった」と思ったものである。

結果、大本命であったその学校には見事に落ちる訳であるが、絶対安全と言われていた母の落胆はものすごかった。後で人伝に聞いたところによれば、それ以外の試験は完璧だったが、行動観察にかけては複数いる教員が全員×をつけたという。

この大本命以外の学校も私は全て落ち、結局公立校に通うことになった。幼稚園の同級の女の子は私を含めて三人いたが、どこにも受からなかったのは私だけだった。

 

大人になった今だから言える。

私を落としてくれた先生方は大変正しかったと。

なぜなら何をどう贔屓目に見ても、その志望していた小学校に、私が適応できたとは思えないからだ。よしんば運良く試験をパスしたとしても、入学後の生活は地獄であったのではないかと思う。何なら、結局合わなくて他の学校に移る羽目になったかもしれない。

そしてそれは、私だけでなく親もそうなった可能性がある。先祖代々働かなくても勝手にお金が入ってくるようなお育ちの父兄がゴロゴロしている中で、平凡なサラリーマン家庭に過ぎない我が家は明らかに浮き上がったことだろう。要するに「お受験」の世界で、私の家族ははじめから場違いだったのだ。

向こうもプロであるから、自校に合わない子供ははじめから弾くし、それはお互い不幸な人間を増やさずに済む合理的な方法とも言える。余計なお金も時間も割かずに済んでよかったのだ。

 

しかし、当時の母にそんな風に割り切れる余裕はなく、打ちひしがれた母は円形脱毛症になった。父に言われ、「ママ、中学はきっといい学校に受かるからね」と母に励ましの声をかけた時、母は泣き崩れた。大人でも泣くのだと、初めて認識した最初の記憶である。

母の名誉のために言っておくと、決して母は自分の見栄や承認欲求を満たすために、私に「お受験」をさせたがった訳ではない。一番の動機は、「早めにエスカレーター式に入っておけば、後が楽だから」である。中学高校と年齢が上がるに連れ、受験勉強は過酷になる。私には勉強漬けではなく、もっとのんびりと好きなことをして青春時代を過ごして欲しいと思ったのだという。

しかしその母の希望は完全に裏目に出てしまった。青春期の自分の自由を買うために、私は「のんびりと好きなことをする子供時代」を奪われ、青春期の自由も担保されることはなく、単に「どこの学校にも受からなかった」という敗北感だけを、人よりも早く体験しただけの結果に終わってしまった。

 

自らの意思によらなかったものとはいえ、いやそうでなかったからこそ、この時の「挫折」と「屈辱」の記憶は私の情操に濃い影を落とし、私は「あの時馬鹿にした奴ら(幼稚園の同級生ら)を見返してやる」という暗い情念に突き動かされて中学受験に邁進していくことになる。

 

以上が私の「お受験」体験記である。

書かれている内容は基本的に自分の記憶によるもので、一部の補足的な内容(不合格の理由など)を除いては、親など他の大人による聞き語りではない。6歳に満たない子どもでもこれ位のことは覚えているものである。

しかし物心ついているとは言っても、やはり子どもは子どもである。自分の世界が親の世界と密接にリンクしており、親の感情にはダイレクトに影響される。

私にとっては、母が「お受験」を通じてストレスを抱え、いつもピリピリし、挙げ句の果てに泣き崩れるに至るという状況が、自分が志望校に行けないということよりもよっぽど重篤な問題だった(そもそも自分で志望した学校ではない訳だし)。

あんな思いをするくらいなら、普通に受験などせず公立の小学校に行き、幼稚園の帰りはのんびり公園で遊んで過ごしたかったし、母も私をあんなに叱らなくて済んで、お互いにここまでストレスを抱えることはなかったのではないか。

後年、このことは母にも伝えたし、「私もそう思うよ」「あれは失敗だったね」と本人も述懐している。

あの「お受験」を通じて、母と私の関係が壊れなかったことだけが、不幸中の幸いだったと言えるかもしれない。受験が成功したとしても、親子関係が破綻してしまう例など、世の中には幾らでもあるからだ。私は単に運が良かっただけだ。

 

それから四半世紀近くの年月が経った今でも時々、見覚えのある紺色の、きちっとした身なりの親子を街中で見かけることがある。

 

願わくばあの子どもが、

あの時の私のような思いをしませんように。

そしてあの親御さんが、

あの時の母のような思いをしませんように。

 

見かける度に、そんな祈りを胸中で捧げずにはいられない。

おせちもいいけど、カレーもね。〜『タイガー&ドラゴン』考

『タイガー&ドラゴン』。

中学から大学に至るまでほぼずっと落研(※)所属という、青春のほとんどを落語に捧げたと言っても過言ではない私が、このドラマをちゃんと観ていなかったなんて、なんともお恥ずかしい限りだが、このほど一挙放送の恩恵に預かり、やっと通しで観ることが出来た。

 

※)落研【おちけん】 ①落語研究会の略称。②①に属する人間を指す。イマドキのものに興味を示さない、今の時代にそぐわない自分自身にどこか酔っている、拗らせた人間が集う傾向にある。「落語」の名を出して「笑点」を挙げる人間を蛇蝎のように嫌うが、現代落語を支えるのもまた「笑点」なので、大っぴらに否定出来ずに懊悩する。

 

 

いやあ、本当に素晴らしい。素晴らしいドラマだった。

素晴らし過ぎて、「感想をブログにする」なんていうmixiのパスワードと一緒に平成に置いてきたはずの技を、思わず再召喚したくらい感動した。

 

このドラマが本放送された2005年。

九代目林家正蔵襲名披露や大銀座落語祭のスタートといった、落語界にとってのイベント年間だったことも影響したのだろうか、いわゆる「落語ブーム」というものが起きた。

それまでは文化系サークルの中では圧倒的に日陰者で、なおかつそんな自分達がたまらなく好きという、捻くれた精神の持ち主だった落研部員たちにとって、それはまさしく青天の霹靂であり、腐海の底には清浄な世界が広がっていたレベルの衝撃だった。

この時を境に、一部の好事家が嗜むマニアックな趣味であった落語が、一躍演劇や音楽鑑賞に匹敵する、知的で文化的な娯楽の一つとして一般的になったのだと、私は認識している。

事実、「落語が趣味だ」と言った時の人々の反応が変わった。それまでは「へー……(知らねえ)」という微妙な空気になるか、せいぜい「座布団やり取りするやつですよね?」と言った返答がくるのが関の山だったものが、「へえ、実は落語って興味あったんです!今度連れて行ってください!」というようなポジティブなものに変わった。出演者の方が圧倒的に数が多いのがデフォルトだった平日昼間の寄席に、普通にお客が入るようになった。何なら人気の師匠が出る時は朝から並ぶというレベルになった。何より落研に入ってくる後輩たちが、ごく健全な、人の目を真っ直ぐ見て話せるような若者たちに変わった。

そして落語は「ブーム」が落ち着いても消え去ることなく、より知名度の上がった日常的な存在として定着し、今に至っている。

 

『タイガー&ドラゴン』は、そんな革命の引き金となった作品だった。今回改めて通しで見てみて、さもあらんなと納得した。

ドラマは、落語を知らない大多数の視聴者を充分に楽しませ、なおかつ「ニセモノ」には人一倍厳しい落研の連中にすらちゃんと「面白い」と言わしめる説得力もあるという、実に絶妙なバランスで作られている。

それはひとえに、脚本家である宮藤官九郎氏の、落語という芸能に対する理解と敬愛の深さを物語っている。

だがドラマは、単なる落語ファンが悦に入る内容だけに止まらない。「落語」というレンズを通して、「笑い」「言葉」「恋愛」「夫婦」「親子」「人間」といった、より普遍的なテーマを次々に切り取っていく。それが重くも退屈でもなく、極めて自然な流れでなされて行くので、観る方はゲラゲラと笑いながら、気が付けばあっという間に一話を見終わっている。しかし後には不思議な充足感が残るのだ。

 

そもそもタイトルの『タイガー&ドラゴン』というのはどういう意味か。

「龍虎」という慣用句を英語にしただけと言えばしまいだが、どうも事はそう単純ではない。

 

まず「虎」と「龍(竜)」は、主人公二人の名前の頭文字である。

壮絶な生い立ちゆえに笑うことを忘れ、笑いを取り戻すために落語家を志すヤクザ・虎児。そして人を笑わせる天賦の才を持ちながら、芸の世界から逃げ出した天才落語家・竜二。性格も立場も全く対極に位置したこの二人の男が、「落語」を通じて偶然出会うところから、物語は始まる。

 

二人に与えられた名前が「虎」と「竜」というのは実に象徴的だ。

まず「竜(龍)」は、西洋では悪魔の化身とか邪悪なるもののイメージがあるが、東洋においては天空を司る水の神であり、最高権力者たる皇帝の象徴である。要するに神聖なる存在ではあるが、世俗に交わらず、山や空の上といった超越した世界に棲まう孤高の生き物でもある。

一方「虎」から連想するイメージは。間違っても、木の周りをぐるぐる巡ってバターになる哀れな動物ではない。日本文学をかじった人間であれば、それは迷いなく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のオマージュであろう。高過ぎるプライドと出世できない現実との板挟みに懊悩し、妻子を捨て竹藪に逃亡してしまうアレだ。

 

さてここで、『タイガー&ドラゴン』の主人公達に立ち返ろう。

 

まず、竜二は落語の天才である。しかし天才ゆえに孤独でもあった。先輩や同輩たちからの嫉妬や誹りに苛まれ、周囲の期待という重荷を一身に背負い、父親でさえ師匠として一線を引かないといけない。その孤独と苦悶に耐え切れず、彼は浮世へと逃げ出した龍だった。しかし龍は龍。人にはなれない。なすべきことをなさず、果たすべきものを果たさずに過ごす彼の心には、知らず知らずに澱のようなものが重なっていく。その苦しみは、芸の世界で味わっていた苦悶とは似て非なるものだ。しかし彼は、その澱に目を背けて何となく生きていたところに、虎児と出会うのである。

一方、虎児。彼はもちろん天才ではない。しかし自我は人一倍強い男である。否、そうでなければ生きていけなかったのが彼の半生だった。幼い時に何もかも失った彼の世界には彼一人しかおらず、守る人も愛する人もいない彼はとても強かったが、彼が死んでも悲しむ人間もまたいなかった。劇中、虎児は恋もしないし、弱音を吐くこともない。ただ唯一、落語にだけは心を動かされ、噺家になってヤクザから足を洗いたいと切に望むのである。そうしていくうちに、次第に彼の世界は賑やかに、和やかなもので満ち溢れていく。その最も果てに、竜二が居るのである。

 

『タイガー&ドラゴン』はカテゴリーとしてはコメディなのだが、作品中に散りばめられたギャグやくすぐりの類を全て省いて大筋だけを書き起こすと、実は随分と重たいテーマを背負っているのである。

 

しかしこれは、落語も全く同じである。

一言に落語といっても、全てが面白おかしく和やかな笑いに満ちた話ではない。

「泣ける」人情噺や、怪談噺といったジャンルもそうだが、そうでなくても娘が身売りしたり、嫌われ者が死んだことをみんなして喜んだり、借金が返せないことを苦に心中しようとしたりと、人間の醜悪な部分を描いた、思わず目を背けたくなるようなものが多数存在する。

落語の世界は笑いに溢れた理想郷などではなく、ありとあらゆる種類の感情が渦巻く、私たちの生きる現実の世界そのものだ。そして「笑い」は言うなれば、そのまま口に放り込まれたら、生臭くてとても飲み込めない「現実」の口当たりを良くするための香料のようなものである。

 

『タイガー&ドラゴン』もまた、落語を小道具に物語を紡ぎながら、同時に舞台装置そのものに落語を組み込んでいるという、極めてメタ的な構造のドラマだ。

己の才能に目を背け、逃げ出した男が、自分自身に向き合って人生を取り戻していく。

感情を失い、他者を顧みなかった男が、周りの世界に向き合って人生を取り戻していく。

向き合う対象は違えど、これは結局、魂の救済を描いた物語だ。もっと陳腐な表現を使えば、「笑い」は世界を救う、というお話なのである。

おそらくクドカンは、落語によってどん底から救われた経験があるのではないか。などと勝手に邪推してしまった。落語を愛する多くの人間は、えてして落語に「救われた」経験を持っていると私は思っている。

しかしそれをそのまま「これは魂の救済を描いた物語ですよ!」などと喧伝した内容では、とても臭くて食えたものではない。「落語」というスパイスをふんだんに使うことで、初めて物語は深みとコクを増し、最後まで美味しく頂くことができる。食後には爽やかな満足感を得られ、「また食べたい」とすら思わせる。まるでカレーのようだと思い、そこで冒頭、虎児と竜二がカレー屋で出会ったのかと合点がいった。

正月早々、素晴らしいご馳走を頂いた気持ちだ。コロナ禍に倦み疲れた心に、なんと素晴らしい清風を与えてくれたことか。ありがとうクドカン、いえ、宮藤官九郎師匠。今度新しく始まるドラマ『俺の家の話』もぜひ見ます。