愚者の備忘録

愚か者がそのときの感覚を忘れないように付ける記録です。

ネット環境の無い世界

目標にブログを4日に1回は更新するとした私でしたが、既に20日が過ぎた。

言い訳をすると

 

私の不手際により、ネット環境が作れなかったこの一点に尽きる。

つまり、スマホWi-Fiの故障によりパソコンは完全に文章作成機械と化した。

そして、今日その環境も整い再開の期してブログの更新をした。

 

目標を破り、有言不実行のレッテルは快く受け入れる。

 

ただ、ネット環境が全くない3週間を過ごして分かったことが

「ネット依存症なのでは?」

 

ネットが遮断されて1日目

この時点で物足りなさを感じ、

3日目にはイライラが頂点に達した。

2週間目あたりからは、それも落ち着き

3週間目になるとネットを意識しなくなってきた。

 

この感じは、オナ禁の感覚に近いものがある。

であるならば、オナ禁も三週間を過ぎれば、ある程度意識外へと追いやれるのではないか。

 

オナ禁するには、気力よりもその環境整備にあるような気がしてきた。

理解と体得

「分かっているけどやめられない」

この言葉を耳にする人は少なくないとは思います。

 

依存しているものとして有名ものは

スマホ

タバコ

酒etc

 

分かっているけどやめられない。

このことを考える上で、私はある定義を自分の中で持つことにしました。

それが理解と体得です。

 

理解とは、頭で分かっている状態のことを示します。

野球で例えるならば、やり方、コツをなどを入れ込んでいる状態です。

 

しかし、ルールを学んでも、コツを本で知っても、体がそれについていけなくては、意味がありません。

 

地道な素振り、守備練習などの基礎作業を行い、体を野球に適したものにしていきます。つまり、理解したものを体に落とし込んだ状態を体得とします。

 

 

話を「分かっているけどやめられない」(以下「ワカヤメ」)に戻しましょう。

つまり、このように言う人は、理解はしているけど、体得できていない状態である

と言いたいワケです。

 

「ワカヤメ」状態を脱却しようと努力する人は賞賛されるべきですが、

問題はそれを免罪符のように使う人です。

 

「そんなことは分かっている。」

と言ってしまう私は間違いなく後者ですw

 

先日のオナ禁失敗が、私の状態を物語っています。

オナ禁の凄さを体感仕切れていない私には、この効果のヤバさが

体得できていないワケです。

 

では、どうするのか。

こればかりは、日にちを重ねなくては分からない。

 

 

 

歩きます!

突然ですが、歩きます。

いきさつは以下のとおり

 

友達「金沢来ない?」

私 「行く!」

友達「2月18日ね」

私 「分かった」

 

16、17日と暇な時間ができてしまいました。

この時間をなんとか、上手く使いたい。

 

そこで、歩きます!

できるだけ歩きます。

京都と金沢まで歩きます。

 

ただ、2日でこの距離は絶対無理なので、途中で課金して交通期間を使います。

オナ禁四日目

    ☟いいえ、今は結構です。

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個人差はあるが、オナ禁の効果を実感するのは、五日目からであると思う。

では、何を感じるのか。

それは、エロ思考の減少である。

エロいことを考えている時間が、明らかに少なくなっている。

 

毎日オナニーをしているときは、すぐにムラムラしてしまい、部屋に戻って抜くことを妄想する。

パンツスーツの女性を見たときは、間違いなく抜いていた。

 

個人的性癖はさておき、

オナ禁をするとエロ妄想をする時間が減少するから、その分時間が空く。

空いた時間は、別のことに使うことができる。

 

この時間を何に使おうかな

 

 

自己改変でやること(リスト)

とりあえずは、この五つを目標に

  • オナ禁(一ヶ月を目標)
  • 糖質制限(一日80gに押さえる)
  • ブログ更新(四日に一回は)
  • 筋トレ(自重)
  • 毎日、最低10ページは本を読む 

 

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どうせなら最初からやるべし

 

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暗き者への光

 某日、あるブログに出会った。


stoicmanさんのブログである。

地道に、そして着実進んでいる人を見ると勇気をもらう。

それと同時に自分の情けなさを実感させられた。

 

人生を変えるために私もブログをやってみようと思う。

それは自分の学んだことをアウトプットしていくために。

 

 

智顗(ちぎ)が説いて、門人の灌頂(かんじょう)が記したとされる『摩訶止観』にはこのような言葉がある。

 

  無明を転すれば、即ち変じて明と為す。(『大正蔵』四六、九中)

(分からないことに思いを巡らせるならば、それは変化して、分かるものとなる。)

 

 今のダメダメな自分を変化させるための、一助とならんことを