魔法使いの夜×Fate/Grand Orderコラボレーションイベント「魔法使いの夜アフターナイト/隈乃温泉殺人事件 ~駒鳥は見た! 魔法使いは二度死ぬ~」(多分)最速レビュー&感想

 

 

はじめに

 

 信じてもらえないかもしれないけれども、『Fate/Grand Order』と『魔法使いの夜』コラボが発表されたとき、私は何も心配していなかった。それは、奈須きのこTYPE-MOONに向けられた信頼というよりも、私自身の心持だった。改変や、クロスオーバー、メディアミックス、あるいはボイスが付くことに対して「思い出を汚された」「世界観に傷をつけられた」という怒りの感情は、様々なコンテンツでよく目にする。厳密な意味で個々の作品体験はそれぞれ異なるから、彼らのその感情を否定する気はない。私は私で、せっかくならば「出来ることをやって」からそういう感情と相対したいと思っている。ではここで言うできる事とは何なのか、それは差し出された物語を隅から隅まで読むことなのではないか。少なくとも私はそう考えている。例えば、『型月伝奇研究センター』はそうした考えのもとに結成されたサークルだ。そしてそこで書いたいくつかの文章、特に『Binder.第二号 特集=魔法使いの夜』に載せた文章は作品を自らの中に位置付けるためのものだった。この作業を経たからこそ、私は凪の心でまほよコラボを迎えられた。

 個人的な話が長くなってしまったが、何を言いたいかというとつまり、どんなシナリオが出されていたとしても、今こうしているように感想を綴り、心から褒めたたえていたに違いないということだ。それでも、やはり、今回のコラボシナリオが一切のうしろめたさ無しに「最高だ!」と言える物語だったことが堪らなくうれしい。それは『魔法使いの夜』を愛する多くの人がそうだったのではないか。

 

 

アフターストーリーとして

 心配はしていなかったと言ったものの、最初どういうテンションで読めばいいかは全く分からなかった。何せ「アフターナイト」、つまりアフターストーリーだ。完結していない物語のアフターストーリーって何だろう。次に見えたのは「殺人事件」という言葉だ。アフターストーリーで殺人事件って何だろう。そんな疑問から目を背けるように周辺情報を漁った。奈須きのこの本棚にあったミステリと照らし合わせてみると、旅館だから京極夏彦の『鉄鼠の檻』かな、いや温泉なら『塗仏の宴』のあれかもしれない。ひょっとしたら殊能将之の『美濃牛』みたいなテイストになるのかな。……白状しよう、発表時点で私はかなり心配していた。

 しかし、実際読んでみると見事なまでにアフターストーリーだったのだ。アフターストーリーの強みというか、効力の大きな部分は本編と双方向にストーリーとキャラクターを補強して、読者の記憶にある思い出を刺激し、懐かしさという残響で満たすことができる点だろう。思い出してみる、あるいは『魔法使いの夜』を起動し参照する。星、渡り鳥、都市、文明、約束、自己存在、矜持、責任、義務、世界が回るということ。蒼崎青子、静希草十郎、久遠寺有珠、我々が『魔法使いの夜』を読み結い上げた彼らの人物像。我々はそのパーツを必死に探したはずだ。そして恐らく、拾い上げられたいくつかの要素の中で『魔法使いの夜』本編で提示されたものと全く同じ形をしていたものは一つもなかっただろう。

10年間何の動きもなかったコンテンツに、初めて投じられた石であるこのシナリオでこんな攻めたこと言っていいんだ。

  思い出というぬるま湯に浸り続けることを強く糾弾するようなこの言葉が誰に向けられたものかは明白だ。青子らとて変わるのだから、我々も変わらなければならない。ありきたりなメッセージだが、その陳腐さを冷笑する隙も与えないほどの強引さが、続編をすっ飛ばしてアフターストーリーを書いたこのイベントにはある。それでもやはりめちゃくちゃだと感じる部分はあるけれど。

 とはいえ’’存在しない続編’’の空白部分を、残響を生み出すための弦の振れ幅に使った起点と思い切りの良さは素直に評価できるポイントだ。我々はこの空白部分に思いを馳せ、そこで起きたであろういくつかの出来事を想像する。未知の時間を通過した、見覚えのある人たちの発する言葉は少しばかり響きが変わってくる。

 例えば、久遠寺有珠に未来を語らせるなんてものは分かりやすく感動的な作劇だ。しかし、このやり取りは歴史という過去を踏まえていること、マシュという他者への語り掛けであること、夢という抽象的で希望的観測でしかない概念に仮託された思いがあると有珠が知っていることを端的に表し、ただ単に「有珠が未来の話をしている」以上の響きを持っている。

 また別の例を挙げるとするのであれば、鳶丸の発言が分かりやすい。

魔法使いの夜』本編で誰かが「今が最高!」と言ったところで、それは単なる刹那主義として青子の在り方によって陳腐化していただろう。けれども、「楽しかったあの時」である『魔法使いの夜』の時間を経験し、その黄金時代に自らの手で幕を引いて「今」にいる人が、「今」に拘ることを部分的に肯定することは、刹那主義とは言えないだろう。

 加えて、こうした点に見られるキャラクターのアップデートは恐らく続編だけで行われたものではない。さらにその先を彼らが生きた故に辿り着いた人生観だ。こういう時、私は奈須のとある発言が思い浮かぶのだが、一旦保留にして、次の話に移りたい。

 

星に願いを

 コラボシナリオのテーマを一つ上げるとすれば’’願い’’だろう。思えば、星から真っ先に連想されるのは「願う」「願い」であっても不思議ではない。にもかかわらず、『魔法使いの夜』ではあまり存在感がない。これは単純な話で、「願う」というのは他力を期待することだからだ。他力を期待するということは、ある意味究極の他者性と言えないだろうか。そう、『魔法使いの夜』は蒼崎青子の願いが却下されるところから始まる物語だ。

 『魔法使いの夜』で「願う」「願い」「願った」という言葉が使われていた個所は合計33件、その多くは「お願い」などの、会話の中で他者に投げかけられるものだった。

……人殺しは、いけない事だ。

子供じみた素直さ。その願いが彼にとってどれほど尊いものなのか、憎らしいほど感じ取れる。

その時まで、嫌ってもいいと。

そんな言葉を、少女は今まで、いや、一度だけ、強く願った事があって―――

 そうでない場面だとこの二つくらいではないだろうか。ワード検索ができるわけでもなく、直近で再プレイしたのが半年ほど前なので抜けがあってもご容赦いただきたい。

 有珠の場合は分かりやすく他者の存在が立ち現れているが、草十郎の言葉はどうだろう。「人殺しは、いけない事だ。」という言葉には、やり直せない過去の出来事に対して、現在の在り方によって遡及的に干渉しようとするための規範的な面がある。自らがこうありたいと思うことは「望み」ではないだろうか。にもかかわらず、ここで「願い」という言葉が使われているのは、これが青子という他者に向けられた言葉であり、自己言及的なその言葉を他ならぬ青子が草十郎の「願い」であると受け取ったからだ。「願い」というものはこのような面でも他者と表裏一体なのかもしれない。そして『魔法使いの夜』で願いが表出しないのは、三人の他者性が芽生えるまでの話であるからなのではないだろうか。

 ここで再び、コラボシナリオに戻ろう。有珠は普遍的な事実として「この世にオンリーワンの願いはない」と語る。そして、こちらもまた普遍的な思い込みとして「自分の願いは一番であってほしいと願う」と。

魔法使いの夜』では願いの他者依存的な側面はある種の尊さを孕んでいることが、副産物的に示されたのだと思っている。それを踏まえたうえで、コラボシナリオで願いは誰しもが持っていて貴賤のないものだと肯定的に描く。鳶丸は木乃美に自らの願いを否定する必要は無いと言い、草十郎は「滑稽だ」と笑った、あるいは他者の願いを自らの自己実現のための踏み台にしたキャンディマシンにらしくない怒りを向ける。これは多様な願いの在り方、もっと言えば多様な人間存在の在り方を知った後でないとたどり着けない答えだろう。

  木乃美の願いは叶わなかったが、その行為がもたらした些細な成果を知ることで、彼の生は肯定された。思い出も願いも、現在を生き未来へ進んでいくための糧にするために葬り去る。「星は弾けるものじゃなくて、回るものだし」と言って前に進んでいく。

 ここで夢という、実現可能性の不確かさ故に未来の時間まで解決を保留する概念が彼の背中を押す。木乃美は水嶋まさごから夢を受け取り、これから先を生きていくための核とした。この結末の構図を、久遠寺邸の三人が過去共にあり、これからの人生を自分一人で歩いて行く選択を取ったことパラレルであると捉えるのは牽強付会だろうか。

 

おわりに/人生が続くということ

 項を立てて書いてきたが、結局のところ内容は同じで、つまり作品世界を生きる彼らの人生は続くということである。ここで、先述した奈須のとある発言を引用したい。

その「ストーリーのテーマ」とは別に設定するのが、「キャラクターのテーマ」です。端的に言えば、「キャラクターのテーマ」とは「人生」です。このキャラクターは自分の人生を最後まで生きて、何を得たのか? このキャラクターは何をして、何を打ち立てたのか? そして最期の時、このキャラクターは一体何を言うのか?*1

極論になってしまいますが……たとえば、「俺の人生は『エルデンリング』をクリアするためにあるんだ!」と言っているキャラが『エルデンリング』を遊び終えてしまったら、別にもうそのキャラは出てくる必要はないんですよ(笑)。*2

 これはあくまで、奈須が創作をする際の規範意識だ。恐らく、人の人生はこのように単純な出発点と到達点で構成されていない。不可逆の変化に見舞われるし、一つのテーマを達成したところで、別のテーマが生まれるかもしれない。

 しかし奈須もそのことはある程度認識したうえで、こうした一定の規範を強いているのだろう。でなければ、今回のオールスターシナリオも、アフターストーリーも生まれ得ない。何なら、型月伝奇世界というシェアワールドすら構成しなかったはずだ。奈須は物語が閉じた後もキャラクターの人生が否応なしに続いていくことに自覚的な作家である。なので、今後もまほよコラボのような、我々が生きる世界と同様の時間の連続性の中に生きる彼らとまた会うことができるだろう。そう、草十郎が有珠と、我々が知らない時間で交わしていた約束のように。

*1:【特別座談会】『FGO奈須きのこ ×『Fate/EXTRA新納一哉 ×『FF14』石川夏子 ― “人の心を狂わせる物語”の生み出し方を聞く

*2:【特別座談会】『FGO奈須きのこ ×『Fate/EXTRA新納一哉 ×『FF14』石川夏子 ― “人の心を狂わせる物語”の生み出し方を聞く

『冬期限定ボンボンショコラ事件』について

 

 私にとって〈小市民〉シリーズは、面白い作品ではあったものの、思い入れのある作品ではなかったはずだ。「思い入れのある」というのは、どこかの部分で自らに引き付けて読んでしまうであったり、あるいはそれが何か自分にとっての契機になったことをひっくるめての言葉だ。例えば〈古典部〉シリーズはどうだろうか。私は『氷菓』を読んで、古典部の彼らのように世界を眼差したいと思うようになった。人間存在が「○○だから○○である」という等式的な枠組みに収まりきらないものであると知った。昔〈小市民〉シリーズを読んだとき、そうしたエウレカは訪れなかった。今回、過去作の再読を経て新たに発見したものも多く、細部での印象は更新されたものの、全体を通して得られた感触はやはりというか、あまり変わらなった。

 ところが、だ。私はシリーズ完結作となる『冬期限定ボンボンショコラ事件』を読んで深く感動した。そしてその感動は、先述した〈小市民〉シリーズへの印象の薄さからすると説明がつかないと、少なくとも私はそう感じた。勿論思い入れだけが作品の感想に影響するのではない。何か単一の答えがそこにあるわけでもない。それでも、この感動は何に起因するものなのか、私の中でどのように作品観が刷新されたのか。それを確かめるために様々な人の感想を読んだが、結局のところ私自身が手を動かし考えるしかないということで、このブログを書いている。なお、その過程で読んだ感想のいくつかは、考えていくうえでの前提となった部分も多くあるため先に共有しておく。

washibane.hatenablog.com

yamori-ju.hatenablog.com

saitonaname.hatenablog.com

 

 

 上記の記事でも度々引用されているように、やはりこの言葉から始める他ないのではない。何なら、私が〈小市民〉シリーズにピンと来ていなかったのは、『冬期限定』でいたく感動してしまったのはこの一文に集約されているのではないか。

あなたちょっと、わたしを冷たく見積もりすぎじゃないの!

米澤穂信さよなら妖精』(創元推理文庫

何より私が、二人を冷たく見積もりすぎていた。

 

 どこかの誰かがポストだったかブログだったかで、「小鳩くんは『日常の謎』を発見しえない」というようなことを言っていた気がする。もっともな感想だと思った。例えば、〈古典部〉シリーズで古典部の4人がまなざし、汲み取ろうとした一連の営みに表象されているような、自らを取り巻く世界への敏感さは小鳩常悟朗には、そして小佐内ゆきにはないものだった。また、小鳩にとって謎解きは、折木のそれとは違い、謎を解くこと自体が目的であり、楽しんでいた。『秋期限定』までは、それが危うさであると思っていたが、『冬期限定』で描かれた過去の失敗を見るに、論理に淫し、「小市民」という在り方にひけらかしたいと言う欲求抑え込んでいたこと(それは不完全であったけども)は極めて戦略的だったように感じる。『冬期限定』で語られた、小鳩が失敗と捉えている過去の事件は、「考えることができるだけ」の自分が人間存在というものへ踏み込むべきでは無いと、小鳩が(小佐内も同様に)思い知るものだった。『春期限定』から『秋期限定』までの小鳩の振る舞いは、そうした点に意図的に距離が置かれていたのだと感じた。すべての元凶たる過去の事件に対して、二人は回想で再び向き合うことになる。そしてそれは、「考えることができるだけ」である自らの欠損と向き合うことだ。そう考えたときに、シリーズ通して提示された「小市民」というスローガンは、そうした欠損を補うためのシュミレーション的な思考だったように思える。

 

『秋期限定』を再読して私が感じたのは、他者に観察された自己像が自らの認識する自己像とズレていたときの二人の反応が非常に軽く、その軽さが二人の危うさである、ということだった。しかし『冬期限定』を経てこれは、一般性を獲得せんがためのトライアンドエラーとして処理されている、それ故の軽さではないかと思うようになった。「小市民ならこうするだろう」という二人の行動指針は、額面的な意味での「理想の自分」よりも、一般的な共感性や他者性というものに対しての、もっと切実な希求であったのではないか。

 ここまで『冬期限定』において、私の中で更新された様々ポイントを挙げたが、その結果浮かび上がってきたのは、等身大(敢えてこの言葉を使いますが)の高校生だった。『秋期限定』で二人が出した結論は私にとって拍手喝采に足るものだった。レッテルを通り越して自分を眼差してくれる人と共にあることは、しかし、二人にとってはスタートラインだったのだろう。『冬期限定』の終章ではそれを踏まえたうえで、『秋期限定』の構図を習いつつ、さらに更新された結論が出されている。もはや「小市民」という言葉は必要ない。狐であることと、狼であるという歪みは、二人にとって一人でも抱えられるものとなったのだ。小鳩は一人で過ごすであろう来年の予定を語る。しかし、そのうえで二人で歩んでいくのだ。月並みな言葉だが、二人が生きていて良かったと心から思う。

 

 小佐内は京都にて小鳩を待つらしい。この先、二人はどんなお店でどんなお菓子を食べるのだろう。私は神宮丸太町にある「ミスリム」でスコーンを食べる事をおすすめします。

 

 

tabelog.com

 

2024/4/14 筋トレの成果物、まほよコラボおめでとう

 現在、『型月伝奇研究センター』という同人サークルで『批評理論を学ぶ人のために』(小倉孝誠[編] 世界思想社)の輪読会を行っている。参加者一人一人に担当の章が与えられ、簡単なレジュメと実践が任される。私の担当はメディア論だったのでレジュメと実践を用意していった。私は批評もといメディア論の素人なので、ヴァルター・ベンヤミンやフリードリヒ・キットラーの成果を本を片手にまとめながら、手探りで恐る恐る実践をしてみたのだがせっかくなのでサークルの宣伝も兼ねて投稿しちゃおう!ということで久しぶりの更新になります。

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2023年良かったコンテンツ

 お久しぶりです。虚無です。思えば長らくブログを更新してない! となり、触れたコンテンツも少ないなかで、少ないならブログ書くかと思い立ち、簡単にですがコメントを書いてみました。本当はもっと腰を据えて書くつもりだったのですが気付いたら12月28日……

  下半期は元気を取り戻し、新しいコンテンツにいくつか触れることが出来たので、来年はこの調子でドシドシやっていきたい。

 

四季大雅『バスタブで暮らす』  

 四季大雅作品は『わたしはあなたの涙になりたい』を読んだことがあったが、こちらの印象はあまり良くなかった。私は所謂難病ものに対してはかなり懐疑的というか、あけすけに言うなら苦手な作品群だ。あまり苦手なものの話をしたくないのでここでは濁すが、この作品では「美しい物語を作って欲しい」と病に侵される当事者が語るのだ。当事者にそう言われたら我々読者はどうすることもできない。その点は不満だったものの、それでも時折居住まいを正して読んでしまう迫力のある描写が多かった。

『バスタブで暮らす』はそういったはっとさせられる場面がさらに増えていた。体に居座る漬物石、能面が張り付いて見えてしまう他者の顔、森見登美彦もかくやというくらい癖のある家族たちなど、就職先でズタボロになった主人公の生活模様や世界の見え方が戯画的に描かれる。バスタブの中から世界の様々な場所に手足が伸び、混ぜっ返し、しかし明確に宝を掴んで帰っていく、そんな力強い物語だった。

 

鴨志田一Just Because!

 青春と呼ばれる時間におけるロスタイムのことは大好きですが、まさかロスタイムから始まる物語があるなんて思ってもないじゃないですか。高校三年生の三学期という時間は、どうしても将来の自分について考えることを強制し、全員が何かを急いでいる。その中でも一つここを区切りにしようという意思が偶発的に絡み合ってとてつもない渦を作り出していた。そんな渦に巻き込まれてしまった小宮恵那さんの輝きは凄まじかった、小宮恵那さんになりたい。

 

 

京極夏彦陰摩羅鬼の瑕

 1年か2年ぶりに京極堂シリーズを読んだ、めちゃくちゃ面白かった。『姑獲鳥の夏』の対称となる作品というか、関口巽だけが由良昂允という人間を正しく捉えていた中で、「トリックも何も無い」というシリーズにある程度共通するであろうコンセプトに過去一忠実な構図が深く刺さった。毎回京極堂シリーズではお馴染みのメンバーとは別に、部外者とも当事者とも言えない微妙な立ち位置で事件を眺める配役の人がいるが、彼もシリーズで一番好きかもしれない。

 

西尾維新『戦物語』

 物語シリーズが「○○(任意の作品)以降は蛇足」だとか、「惰性で続いている」みたいな言説は、ある程度は妥当な評価であるように私も思う。『終物語』以降の作品にファンサービス以外の何があるのかといわれると、答えに窮してしまうのも認めよう。でももうそんなことは私にとってはどうでもよくなっていて、年に一回阿良々木君に会えるだけでうれしいのだ。皆さんがご自身の旧友に数か月か、あるいは数年ぶりに再会した場面を想像してみてほしい。思い出話に盛り上がったり、最近あった面白い出来事とか、たわいもない近況を話し合ったり、人生の話でしんみりしたり、それはきっと楽しいはずだ。私にとって『物語シリーズ』の最新刊を読むということはそういう行為に近い。だから正常な評価ができるはずもない。本作の内容はいたってシンプルで、戦場ヶ原ひたぎと結婚した阿良々木暦が怪異関係の依頼がてらに新婚旅行に赴き、彼の陰に住む忍野忍との関係を問い直すという話だ。実際のところ怪異はほぼ出てこないし、何か大きな事件が起きるわけでもない。しかし、最後の景色が抜群に良かった。阿良々木と戦場ヶ原は旅の最後、星を見に行くも天候が悪かった。見えないはずだったのに、いつの間にか二人の頭上には満天の星空が広がっていた。それは何故なのか。私がこの作品を傑作だと感じるのは、これまで『物語シリーズ』を読んできた蓄積によるものだ。だが、その蓄積を的確に刺激するのもまた技巧なのではないだろうか。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

 

https://https://x.com/kangairureplica/status/1736324831761817927?s=46&t=jvgL0IEYDiL1Eaz5CuaTDQ

『俺ガイル研究会』さんに寄稿させていただきました。今読めて本当に良かったです。

わたしの100冊(100作)

 

所属している文芸サークルの企画横流しです。今まで生きてきた中で影響を受けたり、特に好きだったり、あるいは何かよくわからないけど印象に残っている100作。触れた順番で挙げたつもりだけど、正確ではないかもしれません。わたしという人間のことが少しでも伝わると嬉しいです。

 

*時間があるときに一作品ずつコメントを書いて更新するかもしれません。

「きっと十年後、この毎日を惜しまない」

米澤穂信氷菓

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TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想

TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の最終話が放送されてから二日が経ちました。正直未だに興奮が抜けきっていないし、昼夜アニプレ公式YouTubeで結束バンドのライブシーンを流し続けている。原作を読んだきっかけは『シオリエクスペリエンス』を貸したサークルの先輩からおすすめされたことだった気がする。主人公四人の名前が僕の大好きなASIAN KUNG-FU GENERATIONから取られていたことも導線になった。最終話はまだ一回しか見ることができていないし、ちゃんと感想を書くならあと何週かするべきだと思うが、とにかく今の感情のまま何か書き留めておきたかった。

 

サブタイトルにアジカンの曲名を使っていることについて、2話くらいまではなんて見え透いた目配せなんだと鼻白んで見ていたが、それ以降はかなり見え方が変わって、むしろどんな次はどの曲なんだと楽しみになっていった。アジカンのGt.vo.である後藤正文が自身のnoteで「いわゆるロックをある種の不良性から奪還したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ながら思った」と述べていた。アジカンへの目配せは、ただ原作者がファンである以上の文脈を有していて、それは恐らく彼女らと同じくらいの年齢のときに当事者としてロックを聴いていた人だけが有している文脈ではあるものの、その点は作品でしっかりと描かれていたと、先程言ったような当事者性をそれほど持っていない私でも感じとることができた。

型伝研終わったら(終わらないが)やりたい。

 

アニメ化では特に後藤ひとりの視点に重きを置いて、彼女の感情に沿った物語の再構築が行われている。最終話まで見終わってからだと、かなり思い切ったことだったなと感じる。一人の人間に寄り添い、その人の目線で世界を描くことは、主人公個人の成長譚だと取られかねない(絶対に諸説あると思うが、傍からはそう見えるよねということにしておいてください)(もちろんひとりの変わりたいという思いもまたこの作品の軸なのは間違いない)。しかし山田リョウが固定観念的な「バンドらしさ」ではなく「結束バンドらしさ」に拘ったことや、ひとりがこの四人でちやほやされたいと言ったことなど、結束バンドのメンバーは皆この四人で成長していくことを強く掲げている。ひとりにフォーカスした結果、彼女から見えるもの、彼女の心中はそれはもう隅から隅まで我々に開示されていて、見えすぎているからこそ彼女が見落としているものの存在に目が向く。彼女の努力は自分よりも結束バンドのためであり、その結果少しづつ自分が成長していることに恐らく彼女は気づいていない。でも彼女の周りには、それに気づかせてくれる人たちがいる。それは美しいことだと思う。音楽がテーマの作品のアニメ化なのであればなおさら、音で伝えられることは音で伝えてほしい(『シオリエクスペリエンス』は漫画なのに音で伝わってくるので凄いんスよ)。本作品の演奏シーンではそれらが徹底されていた。うまくいかないライブでは、音ズレした演奏、上擦ったボーカル、その後一歩踏み出すようにエフェクターを踏んだ後藤ひとりのギターソロによって安定感を取り戻す三人が、恐らく音だけを聞いていても何が起こったか理解できるだろう。そうした明らかに音が変わる瞬間には、今までひとりの感情を追ってきた故のカタルシスが存在する。

このブログを書いている間にアマプラで12話の配信が来ていたので見ました、ありがとう……。喜多ちゃん、『星座になれたら』の歌詞を初めて読んだときどうおもったの!?誰からも愛される人気者でありながら、そうあることしか出来ない自分を凡庸だと悩んでいた。文化祭ライブを通して、喜多ちゃんの努力の原動が自分が焦がれたかっこいい後藤ひとりをみんなに見てほしい&上手くなった自分の演奏をひとりに見てほしいという強烈なエゴだったこと、その上で『星座になれたら』という、ひとりから見た結束バンドのメンバーへの羨望と取れる曲が翻って喜多ちゃんの心情として聴こえてくることがあまりにも綺麗で、最終話以降ずっと頭の中で流れ続けている。自分のバンドものへの評価の甘さというか、嗜好性というか、それはコミュニティと居場所の話だと認識してしまうからだろう。音楽性の違いで解散なんて文言があるが、極論を言えば音楽性が完全に一致する集団なんてないだろう(だってそれはその人の人生なんだから)。本当に音楽性だけで成り立っているバンドももしかしたらあるかもしれないので強くは言えませんが、食い違うものがあっても、それでも共に音を奏でようと思える何かがそのコミュニティにはある、そこを安寧の場所と捉えていることにかなり脆弱性がある。要するに私は、久遠寺邸でバンドをやってほしいんですよ、青子はギター弾けるし、有珠はロックの本場イギリス出身だし。

 

話を少し戻します。モノローグが与えられたことで、彼女の奇行に走るまでの思考回路が提示され、ギャグシーンだけが浮くことなく存在できた。同時に、いわゆるキラキラした青春や陽キャを記号化して茶化すような描写をひとり個人の脳内の出来事として限定すること(それらに対してのひとりのスタンスは「私には無理だ」だった)ができ、他の青春のあり方を否定しなかったことは、とても大事な事だと思う。だってそこを蔑ろにしてしまうと、かつてロックが持っていたドレスコードを形を変えて振りかざすことになってしまうから。

 

そんなこんなで余韻に引っ張られながらこのブログを書きましたが、多分言語化できていないだけでまだまだ話したいことは自分の中にたくさんあるように思います。何度だってWatch Partyがやりたい。もう終わるので最終話のラストの話をします。ライブシーンをラストに持ってくるのではなく、新しいギターを手に日常に戻っていくひとりを映して終わる。EDテーマに沿った粋な終わり方だと思いませんか、世界は転がっているから。