そこにいていい人

歌舞伎町を歩いてきた。そこには若年層を中心に、皆が想像するような多様な人々がいた。過密で通行に支障があったので、地下街のサブナードに潜って、「そこにいていい人」というみえないガラスのことについて考えさせられた。

入口には警備員が立っており、わずか10m程度上の地表面にいた多様で雑多(※といっても、実はそれほどでもないのだろう)な人は失せ、清潔で小綺麗な人だけが歩く、広くて空いていて快適な空間だった。リニューアルされた、清潔で、他の街並みと似たり寄ったりなショッピングモール。ドアを開ければ誰もがここに入ることができるが、歌舞伎町アーチ付近やトー横にいるような人は誰もいない。ここの入り口にあるものは何か。ここにいていい人は誰だろうか。

私個人の話をすれば、こういう場所はとてもありがたい。私は恵まれた労働者階級に育ち、良い大学を出て、良い企業に勤めている。だから、私はここにいて良い。私はただドアを開けこういう空間に逃げ込めば、上にいた雑多な人間を労せずして追い払え、あとは清潔で広くて快適な空間を優雅に歩くだけですむ。真の勝利とは闘わないことだが、その意味で私は真に勝利している。さらに、こういう空間はジェントリフィケーションの進展とともに今後も増えていくだろうから、私個人は何も労しなくても、勝手に勝利していく。何と快適なことだろうか。

私はASD傾向のある人間として、社会の多くの場所において、「あなたはここにいていい人ではない」という非言語のメッセージを常に受け取ってきた。だから私にとって、それが逆転するのは、とても奇妙でくすぐったいと感じる。

この延長線上で気づいたことがある。世田谷に実家があるようなご子息はともかく、若い上京してきた人たちが城東エリアについて実態とかけ離れたレベルで否定的な見解を持っていることについて、個人的には不思議でたまらなかった。ただ今日気づいたのだけれど、東京東部、とくに東京湾岸部は、もしかしたら彼らにとって「ガラスの向こう」の街並みで覆われていたのかもしれない。そうであれば、彼らはこれをなんとなく嗅ぎ取っていたので、そこに良い感情を見出しにくかったのかとも推察される。

私にとって、千代田中央江東墨田といった城東部、なかでもとくに湾岸部とは、理想的な街並みそのものだった。整然と区画された街並み、広くて走りやすい道路、現代美術館を併設した木場公園や温室を併設した夢の島公園といった優雅な都市公園、橋を渡れば葛西臨海公園につながる心地よいサイクリングロード、有明豊洲の天井が高く清潔なショッピングモール、レインボーブリッジやゲートブリッジといった重厚な構造物、などなど。そしてなにより、かつて内陸の方にいた小汚い老人は加齢で衰え街から失せ、新たに小綺麗な人がたくさんやってきた結果として、そこには猥雑な人のいない、私のような人々にとって快適そのものの心地よい空間が広がっている。身なり振る舞いからかつて粗雑で下品だったと推察される残る老人らも、自然の法則によって、いずれ失せることだろう。正直言えば、その日が1日も早く来てほしくてしょうがない。

社会は連続的なサブソサエティに分かれており、それぞれの構成員にとって、自分たちのための空間が必要だ。だから、私はここが彼らの空間になるべきだと思わないし、なってほしいとも思わない。だが、「あなたはここにいていい人ではない」という非言語のメッセージを常に受け取ってきた人間のひとりとして、彼らにも彼らの空間があらんことを、と思う。人権の基礎は土地にあると考えているので、日本に(不健全な土地を除いて)開発余地があまりないことをとても苦く思う。

「意味」だけが存在するディストピアは美しかろう

ディストピアには意味以外の全てがある」、美しいし、ある種の"癖"としても、とてもよくわかる。けど、正誤でいえば完全に誤っていると思う。

意味と、人権や尊厳とは、相反するものに見える。
意味というのは個人に宿るものである。任意で合意した人間が集うことで集団でも持ちうることができるが、それだけだ。そういう任意集団ではない単位の集団が意味(意思や夢と言い換えても良い)を持ちうるなら、そこには何らかの抑圧や強制があろうと思う。

ナチスドイツやソ連(そして現在のロシアも)には意味があったであろう。中国もまた、「我々はかつての栄光を取り戻す最中にいるのだ」という強い意味・文脈を持っているし、そういう意味・文脈に支えられてこそあのような強い振る舞いを自己肯定しながら行える。それが良いか?という話だ。

それに、今のあり方は「意味」に本質的な価値を与えると思う。
人は本質的に自由であり、また神のもと平等である。この条件を、僕らが知りうる限り最も良い形で実装した民主主義社会のもとでは、大きな集団、ひいては社会そのものがひとつの意味を共有し持つことは難しい。自由意志による同意のもとでしか意味を共有し持つことは出来ないから。しかしそのことが意味に本質的な価値をもたらし、保証する。

逆から述べれば、意味を持ちやすい社会とは、有形無形の圧力や強制を通じてそれを達成するだろう。だが、そんな形で誰かに持たされた意味に本質的な価値は薄かろう。

* * *

生存そのものは現象であって無意味だし、社会もまたそのように見えるかもしれない。それを美しくないと感じるかもしれない。そういう意味で、「美しいし、ある種の"癖"としても、とてもよくわかる。」

それでも、意味、文脈、意志がまず個人に宿り、それが自由意志の連帯によって大きな形を持っていく今のありかたは、最良だし、意味そのものに価値を持たせるという点で最善だと思う。

少なくとも、意味だけがあり、そしてしばし意味以外の全てが欠乏しがちな本物のディストピアよりは、よっぽどましだろう。

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余談だが、意味、意義、文脈、意志、こういったものは「ワンマン社長」のような存在によって語られがちにみえる。なぜなら、意味を与える(要するに誰か他人に「持たせる」ということだ)側からすれば、これはとても魅力的なことだからである。これは、ディストピア社会が意味を持ちがちなことにも通じる。
そして、いわゆる「インテリ」が同じようなことをしがちなのも、同じ理由からだろうと思う。自由な言論闘争を通じて彼らは(そのままの形ではないかもしれないが、多少の変形を受忍しながらであろうが)勝利できるし、そのことを彼らは知っているからである。要するに、同様に「強い」ということだ。

だからこそ、自分たちが「意味」みたいなものを語り出した時、それは力関係の勾配があることの印かもしれないし、そのことに自覚的にありたいと思う。

(このような自分にそのまま返ってきうる刃を置いておくのは身が震えることだ。)

それが「自分ごと」となった時

科学大の件は、統合が決まった時からこれら学部群を良い感じにまとめる名前という時点でそこまで選択肢はなかっただろうから、後発者ほど使える名前の選択肢が少ない中、和文名称も英文名称もうまくシンプルなものにまとめたなと感じる。

あの規模あの知名度の大学が統合するのは(表面的には)意外ではあったけれど、工学と医療が結びつくこと自体は自然だし必要な流れだと思うし、医学部を獲得できたのは重要な成果だと思う。

むしろ個人的に失望したのは、今回の件を通じた人々の反応に思う。

たしかに、大学の構造や名前が変わるというのは"郷愁"的な側面でいえば寂しいことではある。新しい名前は自分の卒業したものではなく、湯島は自分の卒業した場所ではないし、自分の通っていた大学の同期には医学部生はいなかった。

ただ、学術・産業の高度化や人口減少に立ち向かうにあたり、さまざまな面における旧態の改革や生産性向上が求められており、その1つには大学も病院も企業も数が多すぎるため、それらの統廃合が必要という話もある。生産性の足を引っ張るもの(種々のJTBC仕草など)については意気揚々と批判しながら、いざそれを改革するための変更が自分に影響したり、自分にとって目に見えてわかりやすい形での「違和感」を持たせるものであったときにやいのやいのとあげつらったり揚げ足を取るというのは野卑な振る舞いだなと思う。

ましてや、日本のような陰湿な社会においては、先にやるというのは心的なものを含め大変な労力を伴うなか、それを先行して実施するというのは強い意志と高い能力がなければ行えないし、相手方が特に因習的で閉鎖的な医療の世界となればその精神的負荷はなおのこと大きかったであろうから、これを成し遂げようとしていることは極めて貴いことだと思う。ある種の愚直な誠実さを感じないでもないが、他の「先に誰かがやったら」精神をもつ、口先は先進的だが実態は旧態依然で因習的な組織には出来まいとおもう。彼らは今後の人口減少社会でどう太刀振る舞っていくのだろうか。

大学(に限らず組織一般に言えることではあるが)、社会政治に対しては立派に提言できるだけの能力を持っていながらも、足元の、例えば「教員が研究をやりながら雑務もやる非人道的労働環境」を変えることができないということがしばしある。でもここで一番問題なのは、仕組みや制度を変えられないことではなく、例えば背後に「一般社会で労働環境を論じるのはわかるんだけど、うちは特別だから、24/365で全てこなせる超人以外はうちには要らないんだけどな」のようなマインドセットがあって、それを変えられないことだったりする。それも、往々にして、悪いマインドセットがあるのに気づいていないわけではなく、気づいた上で変える気がないとダンマリを決め込い、そういうマインドセットが背後にあることすら悟られないように表向きの理由や外部要因を前面に出してきちんと議論検討しているフリすらする。

今回の件についても、組織や制度の設計などは言って仕舞えばきちんとやれば良いだけの話で、一番大変だったのは心理的側面だったのではないかなと推察する。だからこそ、それを率先して実現したことは目を見張るべきだし、先に述べたような悪き振る舞いに身に覚えのある人間こそきちんと我が身を振り返るべきではなかろうかと思う。

イラストレーション業界、もしくは次の草刈り場

上記ツイートを読んで、同意するとともに、いくつか考えたことがあるのでここに記載しようと思う。

この話は、要するに YouTube が産業として成立するまでの一連の流れと同じ話であると思われた。

音楽業界のことを思い出してほしい。音楽の《倫理的に適正な》流通の実現にあたっては Content ID のようなものが求められたわけだけれど、この Content ID というのは単なる一致検出技術だけで成立するものではなく、バックエンドのDBに新たな楽曲が継続的に登録され健全に維持管理されるための人的資源や仕組み、そして不正使用にあたってのルール面の整備、実際に処理する体制の整備、またそのルールが適切に守られ続けることを保証するモデレーション体制の整備といった、コスト的にも人的にも重厚な仕組みが要求された。

単に技術的に成立しているだけではない、《倫理的に適正な》流通とは、技術だけではない、このような重厚な社会的実装を要求するものである。そして、このような財務的にも人的にも大掛かりな社会的実装の実現には、それを支えるだけの稼ぎを生むビジネスモデルが要求される。YouTube 以前に倒れた事業者はまさにここで死んだのだろうと思う。生き残った事業者はまさにこの点において立ち振る舞いが巧かったのだろうな、とも。

コンテンツとソフトウェアの関係は、厳しく単純化すれば、生産者と流通・加工と見做せるだろう。そして、流通・加工事業者にしかすぎない存在が剽窃によって生産者の経済的利得を害するようなことをすれば反対を受けるのは当然だろうし、ソフトウェア側の事業者に対して倫理的に正しい水準まで適切な社会実装を行うよう強い圧力がかかり続けるのも当然だと思う。廃棄物の適正処理までできてはじめて工業生産が倫理的に許容されるように、ソフトウェア事業者には、そこまでの社会実装が要求されて当然だ、とも。

動画・音楽の流通に関しては、この「技術的には可能」の段階から「一定の倫理水準での社会実装の完了」までが終わった。この努力によって、我々は合法的かつ快適に、コンテンツを楽しむことができるようになっている。

一方、イラストレーションについてはどうだろうか。この社会的実装は薄っぺらに思われる。JASRAC のイラストレーション版に相当するものもなければ、Content ID と同様の技術も、それを運用する組織も、侵害が起きた場合の対処を行う機関もない。このような現状で、生産者であるクリエイターが「剽窃紛い行為を冗長している」と疑うのはきわめて自然だと思う。

クリエイターはソフトウェア技術者ではないので、「何何が実現されるべきである」とは言わない。単に「剽窃行為の冗長はやめてくれ」としか言わない。でも、そのような声を受けた時、コンテンツ流通プラットフォーム事業者は、ここまでの社会的実装を、自分達の責任で行なっていく必要があるだろうと思う。それは1社ではなく複数社のコンソーシアムで行うことかもしれないが、そこまで含めた振る舞いの全てが要求されるのだろう。

もちろん、純粋にソフトウェア技術者的な政治的立場からすれば、後者の実装でスタックするのは悩ましい問題だというのもわかる。スタックするとはすなわち、そういう会社がローンチしても軌道に乗ることが許されないということであったりもするし、その間、技術者が金銭的・社会的立場によって報われないということも意味する。その上、(音楽業界で起きたことを見るとわかるように、)解消には場合によっては10年の単位での時間がかかるかもしれない。だからといって、これを単に無視するというのは、倫理のない所業であろう。

余談だけれど、これに限らず、どのような技術についても、要素技術が成立することが明々白白になった時点から社会的実装が完了し適正な形で世の中に普及するまで、10年単位で時間がかかるだろうなと思っている。1990年代にも検索技術の研究者がいたであろう。彼らは検索技術から得られる莫大な利益という恩恵にあずかれただろうか。同様に、まさに今現在画像加工技術を研究している人間は、下手したらあと10年は、彼らが期待するほどの利益や社会的敬意を得るのは難しいのではないかと思っている。検索エンジンで成功したのが AltaVista ではなく Google であるように、彼らは被引用者としては残るかもしれないが、ビジネス的には幾分の疑わしさが残る。「日本人は仕組みを作るのが苦手」という言葉も思い起こされる。もっと単純な例でも、Linux Kernel にパッチを入れるのだって下手すれば5年以上かかることもあることだ。

もう一つ余談だが、音楽・映画産業界がこれだけきちんとソフトウェア業界の頭を殴ってきちんと交渉できたのは、彼らが強力な業界団体を有していたからだと思う。それよりもはるかに力の弱いポルノ業界は、どことは名前を出さないが、搾取の餌食となっている。
では画像についてはどうかというと、漫画はともかく、イラストレーションなどはとてもじゃないけど政治力や体力を有しているようには見えないので、このままだと草刈り場だろうなとも思う。というより、君達、わかって草刈りに来ているだろう?

未来において過去を振り返ったとき、今現在はイラストレーターにとって、「暗黒期であった」と評されるような期間であろうと思う。

あなたの正しさ、私の正しさ、そして苦しみ

今回の戦争において、自分たちの立場や正当性もまた相対的なものであるということに無自覚だったり、目を逸らしている人が多くみられたのが、自分にとってはほんとうに嫌な話であった。

また、武力行使は確かにクリティカルな災厄だが、それだけが災厄であると言わんばかりの態度や、それを起こしたものだけが悪いという態度は人間性を欠いていて非常に醜いし苛立たせられる。そういう意味で、今回の戦争は身近な人間の俗で嫌な側面もまたみせつけてきたなと思うし、苦しい。

だが、例えば法は非人間的な装置ではなく、現実世界において実際的な解を導出するための運用物だし、そもそも人間の善悪に実際的に立ち向かうというのはそういう話なのだというのもわかる。

要するに、これは私個人にとっての苦しみの話なんだろうと思う。

私個人にとって、「あなたは正しい顔をしているが、それはあなたを取り巻く社会とあなたの立場によるようなものでしょう」という類の話はとてつもなく地雷だ。だから、今回の人々の反応は、正直言って、とても苦い。引き裂かれるほどに苦しい。

私はASDだから、「血の通った」人間が出す(私にだけ冷たい)「あたたかい」思考が本当に苦しい。

正しさが「神様」ではなく人間によって決まると言う事実、ただそれだけの苦しさがずっとずっと心の中にあって、ほとんど生まれてから長い間ずっと、安心して生きていることができない。

インターネット越しのセカンドレイパー

江ノ電を見るたびに、あのいやらしい外国人を無邪気に支持した人たちへの不信感を思い出す。

彼はただ純粋に楽しくて自転車に乗りながら手を振ったわけではない。カメラを向けている人たちは撮影を切実に楽しみにしていたし、被写体も重要なものであるそ。彼はそのことをわかったうえで、それを台無しにする行為を意図的に行った。これは私的感情に基づく立派な嫌がらせ、加害、私刑だ。

勿論、地元の人間にとって集団がカメラを抱えてやってくることは不愉快なことだったのかもしれない。だが、それは嫌がらせなり私的制裁を肯定するものではない。この点についてあまり無思慮に彼の行いを肯定する輩は理性的判断を持ち合わせているのか疑わしい。穢らわしいとすらおもう。

あの一連の流れの中で唯一理解できることといえば、むしろ彼自身の行いだと思う。彼はただ私的に闘争した。それは法的な理念はさておき、自然な振る舞いだと思う。そもそも眼前の侵害を受けている人間はそうするしそうせざるを得ないものだ。ここにはしばし選択の余地もない。

だが、それを外から無邪気に肯定するというのは、立場を有せず、緊急性もなく、平静な−つまり理性が最も能くはたらきうる時点にあって、その理性が腐っていることを示す。唾棄すべき邪悪ですらあると思う。

無知の痴

私が嫌がるのだからあなたが悪いを叫ぶ人はむしろ処されるほうであろうし、安楽死を認めるべきと叫ぶ人は安楽死制度があったなら安楽死を選ぶよう誘導するいじめに遭っていたであろう、という価値観で生きている。

生きることに自責を覚えるが他罰に責を感じない人は、それをひっくり返すべきであろう。あなたがあなたをいじめるように他人をいじめてはいけない。

若い頃「無知の知」という言葉にほくそ笑んでいた人たちには、その知るべき知のなかに「生の肯定」がすっぽり欠けている人がしばしいるように見受けられる。マズローなどの階層ではないが、最も知り受け入れるべきことを欠いて、その上にどんな倫理や人間観が育とう。