ウーブログ

Mr.Childrenが大好きな一教師のブログです。

25「GIFTはつながりの中に」の巻

2008年、夏。

北京オリンピックNHKテーマソングに、Mr.Childrenの『GIFT』が起用されました。

私は当時、大学1年生でした。

入学して間もなく、GIFTよりも前に、NHKのドラマ「バッテリー」の主題歌にMr.Childrenの『少年』が起用されており、それに喜んでいたところにGIFTの発表がありました。

もう少し言うと、GIFTの発表というより、「GIFT、HOME tourのDVD、HANABIの3ヶ月連続リリース」の発表でした。

これには心躍る気持ちでした。あの夏の気持ちは今でもよく覚えています。

 

さて、今回の本題は「GIFT」です。

そのGIFTのシングルCDは

  1. GIFT
  2. 横断歩道を渡る人たち
  3. 風と星とメビウスの輪

の3曲を収録しています。

 

GIFTのシングルCDは、そのジャケットも歌詞カードも、とても素敵なものになっています。

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このジャケットが表すように、私は、GIFTというシングルCDに収録される3曲には共通のテーマがあり、そのテーマによって3曲がひとつになっているように思います。

今回は、そのことについて考えていきたいと思います。

 

テーマは「つながり」

この3曲に共通するテーマ。それは「つながり」だと思います。

これはあくまでも個人的な見解ですが、それぞれの曲が「つながり」というテーマを持っているように思うのです。

ということで、1曲ずつ見ていきましょう。

 

まずは「GIFT」です。

Mr.Children 「GIFT」 MUSIC VIDEO - YouTube

 GIFTの歌詞に、次のような印象的なくだりがあります。

白と黒のその間に 無限の色が広がってる

これは言い換えると、白と黒との間に明確な境界線はなく、その間は色の連続体(スペクトラム)となっている、といったところでしょうか。

つまり、色同士はそれぞれに独立するものというより、「つながり」合っているのです。もしくはとけ合っていると言っても良いかもしれません。

また、2番の歌詞では別のことを歌っているのですが、これもまた「つながり」を示唆している歌詞と言えるのではないでしょうか。

降り注ぐ日差しがあって だからこそ日陰もあって
その全てが意味を持って 互いを讃えているのなら
もうどんな場所にいても 光を感じれるよ

これも、日差しと日陰は切り離された存在ではなく、関係を持っているということをうたっているではありませんか。

そしてこの歌詞の優しいところは、そのどちらからも私たちは恩恵を受けていると言うところです。

さらに何と言っても、この歌の醍醐味は次の部分ではないでしょうか。

今君に贈るよ 気に入るかな? 受け取ってよ 
君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう

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なんて幸せな歌でしょう。

贈ることの喜び。もらうことの喜び。

それはそう、『つながっている』ことの喜びです。

アンパンマンの作者、やなせたかしはこう言いました。

「ひとはひとをよろこばせることが一番うれしい。」

GIFTでも、この喜ばせあいっこの幸せを讃えています。

ライブ会場では、何万人もの人が一堂に介して幸せに浸ります。GIFTの素晴らしさは、ライブで何倍にも膨れ上がるので、是非とも皆さんに観ていただきたいです。

Mr.Children DOME & STADIUM TOUR 2017 Thanksgiving 25 (前編) - YouTube

GIFTは26:58〜

 

さて、2曲目は「横断歩道を渡る人たち」です。

この曲は、街で見かける人たちの姿から、いろんなことを考えていく歌になっています。

Mr.Children「横断歩道を渡る人たち」Split the Difference - YouTube

こちらはライブのアレンジでしっとり始まり、次第に盛り上がっていくものになっています。

この歌では、いろんな人を観察し、所感を述べた後に繰り返し使われるフレーズがあります。そのくだりこそ、「つながり」なのではないかと思うのです。

昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

1番では、腰の曲がった老人。

2番では、スカートの丈がひどく短い女性。

3番では、玩具屋の前で泣いてゴネる子どもと怒っている母親。

4番では、ギターケースを抱えた少年たち。

この人たちを車の中から観察する際の着眼が流石なのもこの歌の醍醐味のひとつ。

そして、その人たちのことを「昨日の僕」「明日の僕」だと考えています。

目の前を通り過ぎる人たちに、自分を投影して見ているのです。

知らない人たちだけど、そこに自分との共通点を見つけることもあれば、未来の自分を想像することもある。

道行く人たちを、単なる景色として無視するのではなくて、自分と関係づけて考えています。

一口に「人と人のつながり」と言っても、その形は様々だと思います。この歌では「歌い手」と「横断歩道を渡る人たち」は人間関係を築いてはいませんが、これも一つの「つながり」の形だと思うのです。

それこそ、2022年12月30日に公開された映画「Mr.Children GIFT for you」の話になりますが、私たちリスナーは、Mr.Childrenとつながっていること、また、リスナー同士もMr.Childrenを通してつながっているのだと感じました。

これって素敵なことですよね。

横断歩道を渡る人たちの歌を聴くと、みんなつながってるんだなと、そう感じるのです。

 

さて、3曲目の「風と星とメビウスの輪」です。

Mr.Children Tour 2018-19 重力と呼吸 In TAIPEI [期間限定公開] - YouTube

期間限定公開のライブ映像ですが、風と星とメビウスの輪は2:00:39から始まります。

「つながり」というキーワードを最も連想しやすいのはこの歌ではないでしょうか。

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紙などの帯状の長方形の片方の端を180°ひねり、他方の端に貼り合わせると、メビウスの輪ができます。

メビウスの輪は、無限の繰り返しを比喩的に表すものとしても知られています。

「風と星とメビウスの輪」でも、とても美しいつながりを表現しています。

抱かれて 磨かれて
輝くことで また抱かれて
君と僕が
そんなメビウスの輪の上を歩けたなら

 

愛されて 優しくなれて
その優しさ故に愛されて
君と僕が
そんなメビウスの輪の上を笑いながら
寄り添って歩けたなら

この場合、つながりは「連なり」「連続」「繰り返し」と言い換えることができますね。

何という美しい歌詞でしょうか。後世に語り継ぎたい歌詞だと思います。

 

3曲のつながり

いかがでしたでしょうか。

「つながり」をテーマにした3つの曲が同じCDに収録されていること、そしてそれをジャケットで表現していること、見事ですよね。

このように考えると、この世界が、また一つ愛おしく思えてくるのではないでしょうか。

そう誰も1人じゃないんだ。

ONE PIECEで、幼いロビンの命を救ったサウロも言っていますよね。

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さあ、このブログを読んで、誰かにGIFTを贈りたくなったかもしれませんね。

誰かからもらっているGIFTに、改めて気づいたかもしれませんね。

つながりのあるところに、GIFTはあります。

逆を言えば、GIFTはつながりの証です。

大切にしたいですね。

24「花、彩り、賛美」の巻

1996年、春。

Mr.Childrenは「花 -Memento-Mori-」という曲をリリースした。

 

『負けないように 枯れないように

笑って咲く 花になろう』

 

サビのこの歌詞に支えられた人も多いだろう。

 

2番では

 

『等身大の自分だって きっと愛せるから

最大限の夢描くよ

たとえ無謀だと人が笑ってもいいや』

 

と、大きな夢を描くと歌う。

 

これは自己肯定感の歌ともいえる。

 

 

そして10年後。

2006年、夏。

Mr.Childrenはフェスにて「彩り」という曲を初披露した。

 

『僕のした単純作業が この世界を回り回って
まだ出会ったこともない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が 日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 少ないけど 赤 黄色 緑』

 

大スターのミスチルがどうしてこのような庶民感動ソングを歌えるのか不思議で仕方がない。明らかに悟っている。

 

2番の歌詞ではさらに、

 

『憧れにはほど遠くって 手を伸ばしても届かなくて
カタログは付箋したまんま ゴミ箱へと捨てるのがオチ
そして些細な生き甲斐は 時に馬鹿馬鹿しく思える
あわてて僕は彩を探す
にじんでいても 金 銀 紫』

 

と、あるがままを受け入れ、その中に幸せを見出している。

 

等身大の自分を愛しつつ「最大限の夢」を描いていた20代。

あるがままを受け入れて「現在の暮らし」を讃えた30代。

 

そしてさらに時は流れ、2020年、冬。

Mr.Childrenは「The song of praise」という曲を発表した。

 

『積み上げて
また叩き壊して
今僕が立ってる居場所を
憎みながら
愛していく
ここにある景色を讃えて』

 

「花」から24年、「彩り」から14年を経たMr.Childrenの詩。

 

『いつも取るに足らないことに頭悩まされてた
毛頭 それで何か変わりそうな予感すらしていないのに』

 

これは、同年代の友人たちが家族を築いていった頃のことだろうか。

 

『昔は 自分の価値を過信しては
高い空を見上げて過ごした』

 

これは、最大限の夢を描いていた頃のことだろうか。

 

『駅ビルの四角い窓から
時々 夕日が顔を出し
憐れむように
讃えるように
僕の顔を照らした』

 

これは、彩り的な自己肯定か。

 

『僕に残されている
未来の可能性や時間があっても
実際 今の僕のままの方が
価値がある気がしてんだよ』

 

これは、あるがままを受け入れることができたからだろうか。

 

『そう誰もひとりじゃないんだ
僕だって小さな歯車
今なら 違う誰かの夢を通して
自分の夢も輝かせていけるんだ』

 

これは明らかに彩りのスピリッツとリンクする。

 

『誰もひとりじゃない
きっとどっかで繋がって
この世界を動かす小さな歯車
誰もひとりじゃない
だからどっかでぶつかって
この世界で藻掻く小さな
そう小さな歯車』

 

これは、「現在の暮らし」を、リフレーミング的にいろんな角度から見ている。

憐れむように、讃えるように、その愛眼差しで人を観ている。

 

『積み上げて
また叩き壊して
今僕が立ってる居場所を
嫌いながら
愛していく
ここにある景色を讃えたい』

 

「彩り」的に、現在を「受け入れる」ことができたからこそ、「讃える」ことが可能となる。

さらに、それをも叩き壊して、また積み上げる。

よりよくあろうとする「花」的スピリッツも、ないものねだりを辞めた「彩り」的スピリッツも失われていない。

「積み重ね」て、「踏まえ」ている。

 

その魂は、時の経過とともに風化することなく、時間のタオルで磨かれている。

 

これが、いまのMr.Children

 

参考

Mr.Children「花 -Memento-Mori-」1996年

https://youtu.be/mdo-oEZ5_24

 

Mr.Children「彩り」2006年

https://youtu.be/Qg8-a4xq_o8

 

Mr.Children「The song of praise」2020年

23「終わりなき皮膚呼吸」の巻

なんのためにうまれて なにをして生きるのか

こたえられないなんて そんなのはいやだ

 

のっけからMr.Childrenではなくアンパンマンで始めてしまった。

アンパンマンは深い。これは誰も異論はないだろう。なぜならそれは人の永遠のテーマであろうからだ。

 

しかしなぜ「終わりなき皮膚呼吸」というタイトルのブログの冒頭をアンパンマンが飾ってしまうのか?

それは、Mr.Childrenの「終わりなき旅」も「皮膚呼吸」も、アンパンマンに通じる人生のテーマを感じるからだ。

 

この2曲からは共通のテーマ、すなわち

「この命を通して何を為すか」だったり、

「この命を何者たらしめようか」だったり、

「この命でどう生きてきたか」だったりということを、訴えとして感じるからだ。

 

詳しく語るために、まずは概要にふれておこう。

 

Mr.Children

1992年メジャーデビュー。1990年代中頃、発表する作品が次々にミリオンヒットを記録し、社会現象を巻き起こした。デビューから約30年を経た令和でも、CDを発売すれば週間チャート1位を獲るスーパーバンド。メンバーは現在51歳。

 

「終わりなき旅」

Mr.Childrenが多忙を極めた末活動休止をしたのが1997年。そして1999年、このシングルの発売とともに本格的に活動を再開する。どんな時も自分らしく生きよう、よりよく生きるために前進しよう、という内容の歌詞に勇気づけられる人は多く、世界的アスリートなどからも多く支持を得る、自身の代表曲の1つ。Mr.Childrenのシングルでは、現時点で最後のミリオンヒット作。

 

「皮膚呼吸」

2018年発売のアルバム「重力と呼吸」の最後に収録されているアルバム曲。タイアップ等は一切無いが、ブログ主からは「終わりなき旅の現代版」と評されるほどの素晴らしい曲。その心は…

 

 

皮膚呼吸の歌詞は、こう始まる。

 

 

と、ある日
顳(こめかみ)の奥から声がして
「それで満足ですか?」って
尋ねてきた

冗談だろう!?
もう試さないでよ
自分探しに夢中でいられるような
子供じゃない

 

 

 

これが、モンスターバンドとして25年活動してきたMr.Children桜井和寿から生まれた言葉だ。

そして、このこめかみからの声に対し、このように展開される。

 

 

でも
皮膚呼吸して 無我夢中で体中に取り入れた
微かな酸素が 今の僕を作ってる そう信じたい
I'm only dreamin', but I'm only believin'
I can't stop dreamin'
このまま
切なさに息が詰まったときが
それを試すとき

 

さらに、

苦しみに息が詰まったときも
また姿 変えながら
そう今日も
自分を試すとき

 

これは、終わりなき旅が円熟味を帯びたものだと捉えることができよう。

 

重力と呼吸発売以来、アルバムで1番のお気に入りの曲だ。

これまでものすごい実績を残してきて、こんなに最強なポジションにいて、この上まだ己を高めようというのか。いったいいつまで…

その姿勢に、強く心を打たれるのだ。

終わりなき旅は、「本当に」終わりなき旅なのだと思い知らされる。

 

ところで先日。

もとい、と、ある日。

私のこめかみの奥から、突然ふたつの言葉がやってきた。

そのふたつの言葉とは、

「積み重ね」と「踏まえる」。

いったい何故なのか、よくわからない。

しかし、確かにこのふたつの言葉が浮かんだのだ。

車を運転している最中に。

 

そのことが、いったい何を意味するのか。

この突然の訪れを機に、少し考えた。

 

私は大学を卒業して10年目の小学校教員だ。

教師は、子どもの頃からなりたかった職業だ。

その職業には就けた。でも、それで満足ですか?

…。

なりたい教師にはなれたか?

…。

なりたい自分にはなれたか?

…。

 

私が初めてクラスの担任をしたのは、4月ではなく、6月からだった。

なぜかと言うと、そのクラスの先生が病気休暇をとられ、その代わりに私が担任となったからだ。

私は、そのクラスでまともに授業をすることも、学級集団をまとめることもできなかった。

授業中に教室内でボール遊びをする子たちがいた。

いじめをし、私が間に入って体を張って止めようとしても、殴るのをやめない子もいた。

当然、保護者からはクレームが届いた。

私は自分の無力さに絶望し、毎日お風呂や布団で泣いていた。

「俺なんかが担任じゃ、みんながかわいそうだ。」

自分は教師に向いていないのかと、何度も思った。

 

程なくして、産休明けの別の先生が担任を交代した。

私の初担任は、2ヶ月もなく終了した。それと同時に、学級崩壊というものの恐ろしさを体感した。

 

それからというもの、私は本を読むようになった。

また、さまざまな研修に積極的に参加するようになった。

次第に「勉強熱心」と周りの先生から言われることが増えてきた。

でも、私の気持ちは常に「ビハインド」だった。

 

そして今、大学卒業から10年という年齢になった。

体感としては「ビハインド」のままだ。

学校の仕事は、うまくいかないことが多い。

 

しかし、あの学級崩壊のときと同じかと問えば、それはもちろん違う。

あれからたくさんの勉強もしたし、経験も積んだ。

今では特別支援教育コーディネーターだし、特別支援教育士の資格もあるし、教育センターで研修の講師も務めた。

いったいいつからこのようなポジションに立つようになったのか。

いったいいつから子どもの対応について相談を受けるようになったのか。

それはよくわからない。もっと言えば、それは自分の力としての表れなのか何なのかもわからない。

ただひとつたしかにわかるのは、私はあの日の自分とは違うということだ。

 

私はどんな経験を重ねてきたのか。

そしてそれを踏まえて、どう変わってきたのか。

そしてこれから、どのように変わっていくのか。

自分で歩くことで確かめられることが、確かにある。

 

現代は、インターネット、とりわけSNSの普及により、様々な考えや手法が簡単に閲覧できるし、簡単に発信できる。それにはきっと、良いところも良くないところもあると思う。

良いところは、見聞を広めることができることだと思う。

しかしそのような情報は出どころが不確実であったり、内容の信憑生が保証されていなかったり、表面上の部分しか見えなかったりする。

 

そうすると、そこには、私が10年間続けてきたような「積み重ね」もなければ「踏まえる」べき事実も見えない。

結局は画面の表層を軽く触れているだけになってしまう、という危険性も孕んでいる。

 

勉強することはいいことだ。

しかしながらやはり、自分の血肉となり、明日の自分を創っていくのは、皮膚呼吸して無我夢中で取り入れてきた酸素であったり、息を切らして駆け抜けてきた日々であったり、姿を変えながら自分を試してきた「今」の連続だったりする。

 

自分が目指しているものは何か。

その模索の道の中で見つけてきたものは何か。

その過程で築いてきたものは何か。

それを問い続けながら一歩、また一歩と足を出していくことが、「積み重ねる」ということと「踏まえる」ということなのだろう。

 

皮膚呼吸しながら、終わりなき旅は続く。

22「『名もなきフェイク』後編」の巻

フェイクは名もなき詩に通ず

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今回もミスチル療法について書いていきます。

舌を出したジャケット写真が共通しているだけじゃない『名もなき詩』と『フェイク』。

今回は、前回ブログ「『名もなきフェイク』前編」の続きです。

ですので、前回のブログを読んでいない、または内容を忘れたという方は、前編の方をお読みください。

kyousikitibee.hatenablog.com

 

とはいえ、ここでざっとおさらい。

名もなき詩』における「あるがままの心で生き」ること。それを考えるためのキーワードが「自分らしさの檻」でした。

ここで、「自分らしさの檻」とは、認知行動療法的に言うと「心のクセ」「考え方のクセ」「認知の歪み」ということになります。

 

『フェイク』における「すべてはフェイク」とは、自分がこれまで生きてきた中で「心のクセ」というフィルターを通して見聞きしてきた物事のことだということができます。

また、「体中に染みついている嘘」とは、そうして身に付いてきた自分の「捉え方」や「スキーマ」のことであり、それが「自分らしさの檻」を形成していくのではないかということです。

 

では、ここから今回の内容に入っていきたいと思います。

「自分らしさの檻」から抜け出すには、どうしたらよいのか?

そのヒントは、『名もなき詩』にも『フェイク』にもあります。

 

名もなき詩』の2番のサビの歌詞に、こうあります。

街の風に吹かれて唄いながら
妙なプライドは捨ててしまえばいい
そこからはじまるさ

心理学者でも禅僧でもない、バンドマンである25歳の桜井さんがこの歌詞を書いたと思うと、驚きを隠せません。

 

まず、「街の風に吹かれて」です。

皆さんは、普段街に出たときに「今、私は街の風に吹かれているなぁ」と考えますか?暑い日に気持ちの良い風が吹いたり、反対にびゅーっと寒い風が吹いたりすれば、風を意識することもあるでしょう。しかし、そうでない場合は、ほとんどの方は、特に風のことを考えることはないのではないでしょうか。

「あるがまま」を受け入れる心の第一歩は、「今、ここ」に意識を集中することです。風を感じてみましょう。肌で。音で。揺れる木の葉で。五感を意識することで、「今、ここ」を感じるのです。

次に「唄いながら」です。

歌うことはいいことです。なぜなら、歌うことは一種の運動です。体のエネルギーを使うことで、ストレスの発散になります。また、歌うことは楽しいことです。楽しい歌を歌っている間は、悲しいことやイライラしたことを考えません。

ネガティブなことを考える時間を減らし、ポジティブな心でいる時間が増えるのです。そうすることで、心の「負のスパイラル」から脱却し、「素直な精神状態」に近づきます。そして、次第に「妙なプライド(自分らしさの檻)」を捨てることができ、あるがままを受け入れることがるようになるでしょう。

 

この名曲を25歳で発表した桜井さん。やはりタダモノではありません。

さあ。ここまでで、だいぶヒントは得られました。

 

そんな『名もなき詩』から約10年。桜井さんは『フェイク』の歌詞でこう書きました。

飛び込んでくる音 目に入る映像
暫く遮断して心を澄まして何が見えますか? 誰の声が聞こえますか?
いつまでも抱きしめていれるかな? 

 これはつまり、「瞑想」を意味していますね。「禅」にも「マインドフルネス」にも、そのエクササイズの主要なものに「瞑想」があります。

視覚を遮断することは、目を閉じれば可能です。聴覚についても、静かな場所で耳栓をすれば、ほぼ可能です。しかし、なかなか遮断できないものがあります。

それは「思考」です。

「心を無にする」ということは、難しいものです。「考えまい、考えまい」と頑張っても、考えてしまうものです。「心を澄ます」というのは、そう簡単なものではありません。

そこで、「呼吸」がポイントになります。

ほっぺたから横隔膜まで誰かを呪ってやるって気持ち膨らまし」ては、「心を澄ます」ことはできません。ほっぺたや横隔膜を膨らますのは、そのような怨念ではなく「空気」です。

大ヒット中の「鬼滅の刃」では「全集中の呼吸」が重要ですが、まさにそうです。呼吸は非常に重要です。

静かなところで、目を閉じ、椅子に浅く腰掛け、腰骨を立て、背筋を伸ばし、肩の力を抜き、顎を引きます。または仰向けに寝てもよいです。

腹式呼吸で、鼻からスーッと息を吸い、口から細く長く吐くようにします。自分の呼吸にのみ意識を集中させます。こうして呼吸を整えることにより、副交感神経が優位になり、気持ちがリラックスしてきます。

「呼吸」という、ゆるぎない「今、ここ」に意識を集中することは、あるがままを受け入れるための重要なポイントとなります。

このような瞑想に日々取り組むことで、心に付着した垢(体中に染みついている嘘)は次第に剥がれ落ちてゆき、究極的にはその内部にある「純粋意識」へとたどり着くのです。そこで感じる世界は、どんなものでしょうね。

「何が見えますか? 誰の声が聞こえますか?」

 

まとめ

マイナス思考、心に余裕が持てない、考えすぎる…。そんな精神の「負のスパイラル」を断つには。

・「自分らしさの檻」から脱却する

・そのために「あるがままを受け入れる心」を目指す

・そのためにできることは

①街の風に吹かれる(「今、ここ」に意識を向ける)

②唄う(「ネガティブな時間よりポジティブな時間を増やす」)

飛び込んでくる音 目に入る映像を暫く遮断して心を澄ます(瞑想する)

 

以上が、禅や認知行動療法(マインドフルネス)とミスチルを融合させた「ミスチル療法」における

『名もなきフェイク』

でした。

 

このブログを書いて、僕自身これまでよりも一段と桜井さんの素晴らしさを認識しました。それと同時に、認知行動療法への造詣もより深まったように思います。

作詞家として追究してきたものであっても、科学として追究してきたものであっても、深く高い次元までいくと、他分野であっても矛盾せずに融合するものなんだなぁと感じます。

21「『名もなきフェイク』前編」の巻

風の匂いもいつしか冬のものになってまいりました。

朝、「布団から出たくないな」と思うような、そんな季節がやってきました。季節の移ろいを感じる今日この頃ですが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 

僕は、ふと気づいたことがあります。そう、それは「フェイクは名もなき詩に通ず」ということです。

あの、ミスチルのダーク曲「フェイク」が、ミスチルの大人気名曲「名もなき詩」に通ずるとは一体?

着眼点はずばり「あるがまま」でしょう。

今回も「センターオブユニバース」「くるみ」「旅立ちの唄」に引き続き、「ミスチル療法」についての記事です。

 

 

人はなぜ心を病むのか。その原因や経緯は人それぞれ、多種多様でしょう。

しかし多数の人に共通するのは「負のスパイラル」に陥っていること、と言えるのではないでしょうか。

マイナス思考、心に余裕が持てない、考えすぎる…

そんな状態が続くことは、辛いことですね。

では、そんな状態を打破するにはどうすると良いのでしょうか?答えは意外とシンプルで、

プラス思考、心を休める、考えない…

などでしょう。

そしてそれは他でもない、「認知行動療法」であり「マインドフルネス」であり「禅」なのです。

それでは、Mr.Childrenの「名もなき詩」と「フェイク」が、それにどのように関連するのかということを考えていきましょう。

 

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名もなき詩とは、Mr.Childrenの中でも知名度・人気度共にトップクラスの超名曲です。

https://youtu.be/gj5Nu6feFTQ

そのサビの歌詞は、こう。

 

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている
知らぬ間に築いていた
自分らしさの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ

 

あぁ、なんという歌詞。多くの人が共感する歌詞ではないでしょうか。

Q:この歌詞のような思いを抱いて生きている人は、どのくらいいるのでしょうね。

A:名もなき詩では、終盤で「誰だってそう」とうたっています。

誰しもに当てはまる歌詞だからこそ、多くの人の共感を呼ぶのでしょう。

 

ところで「あるがままの心」とは、なんでしょう。

認知行動療法、マインドフルネス等では、「あるがままを受け入れる」ことを大切にしています。禅も同様です。私は、名もなき詩の「あるがままの心」を、「あるがままを受け入れる心」と同義のものとして解釈しています。つまり、名もなき詩のサビは、あるがままを受け入れて生きたいけれど、それがなかなかできないということ、そしてそれを誰かのせいにして過ごしているということを嘆いているのだと思います。

そして、あるがままを受け入れることが難しいのは、「自分らしさの檻」というものを知らぬ間に築いていて、そのなかでもがいているからだといいます(厳密には、それが原因・理由とは言っていませんが)。

 

ここで出ました。"あるがままを受け入れる"ことを考えるためのキーワード。それが「自分らしさの檻」です。

 

あるがままを受け入れることを阻害する自分らしさの檻とは何か。それは「心のクセ」「思考のクセ」「認知の歪み」などと呼ばれるものにあたるのではないかと思います。

禅、認知行動療法などでは、この「認知の歪み」を修正しながら、物事に対して価値判断を行わず、あるがままに受け入れる練習をします。

 

例えば。

ふと頭の中に、"先日の嫌な出来事"が思い浮かぶ。

しかも、ここのところ、このように思い出してしまうことがよくあるとします。

そうすると「またこれが始まった。嫌なことなんか思い出したくないのにな。こんなことだからいつまでも気分が優れないんだよ。このマイナス思考が自分の悪いところだよな。だめだなあ。」なんてことを考えてしまい、またまた気分が落ち込む、という負のスパイラルにはまってしまいがちです。

これは、あるがままを受け入れているのではなく「頭に考えが浮かんだら、その考えに価値判断を下している」状態です。

では、ふと頭の中に、先日の嫌な出来事が思い浮かんだときに、あるがままを受け入れることができるというのは、どういうことでしょうか。

ずばり、「あ、今この間のことが思い浮かんだ」と、これだけでしょう。「頭から消えろ、消えろ」と思うことは、結局その考えにとらわれていることであり、負のスパイラルにつながります。そうではなく、ただ見つめるという感覚です。

ここで、嫌な考えを葉っぱに例えます。川の流れに乗って流れてきた葉っぱを、ただ見つめて、流れていくのを見つめて、川下の方へ流れていって見えなくなるまで見つめて、見えなくなって、はいおしまい。そんな感じです。つまりその葉っぱに対して価値判断を下すのではなく、ただあるがままを見つめるのです。このような練習をすることが、あるがままを受け入れる心で生きるために役に立ちます。

 

さて、「名もなき詩」からここまで話しましたが、このような話のどこに「フェイク」が関係してくるのでしょうか。

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「フェイク」とは、2007年に発売されたシングル曲です。

https://youtu.be/n7H4p0ArZUU

歌詞はというと、

 

体中に染みついている嘘を信じていく

 

この手が掴んだものは またしてもフェイク

 

世界中にすり込まれている嘘を信じていく
すべてはフェイク
それすら…

 

などのように、ややダークなものになっています。

 

皆さんはこの歌詞についてどのように感じますか?

僕は、10年以上聴いてきましたが、先日ふと考えたのです。

「この世の中に絶対的な真実はあるのだろうか」と。

物事は全て自分の「心のクセ」というフィルターを通して認知されるのだとすれば、人によってそれぞれ認知は異なるわけで、概念としての「1つの真実」など無いのではなかろうか、と。

あるとすれば、それは「ここに石がある」「雨が降っている」などのような、森羅万象の出来事(事象)のように、人によって捉え方に差の出る余地もない事実だけなのではなかろうか、と。

つまり、ある物事について、それが人が認知した内容である以上、多かれ少なかれ「解釈の付着したまがいもの」であり、「まるっきり丸裸のあるがままの状態」ではないと思うのです。

 

「すべてはフェイク」「体中に染みついている嘘」というのは、実は自分がこれまで生きてきた中で「心のクセ」というフィルターを通して覚えてきた物事やその「捉え方」自体を指しているのであり、それらが自分の認知様式を形作る「スキーマ」となり、「自分らしさの檻」が出来上がるのだと言えるでしょう。

※「スキーマ」については、いつかブログで触れたいと思います。気になる人はググってみてください。

 

今回はここまでにしておきたいと思います。

次回は後編として、それではどのようにして「自分らしさの檻」の呪縛から解き放たれようか、という内容で進めていきたいと思います。

 

↓後編はこちら

https://kyousikitibee.hatenablog.com/entry/2021/01/10/111515

20「現在・過去・未来法」の巻

前回のブログ記事を書いた時に、Twitterにも投稿して記事を共有しました。

その時に頂いたリプライに、「ミスチル療法、爆誕!」というものがありました。

このコメントをいただいたことにより、私の中の何かに火がつきました。

今では、ミスチル心理的なケアに役立てる「ミスチル療法」について、真剣にに考えていきたいと思っています。

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今日は、その「ミスチル療法」をひとつ記事にしてみましたので、良ければご覧ください。

 

 

ふと自分に迷うときというのが、誰にでもあるものだと思います。

今の自分はこれで良いものだろうか。これから先、はたして大丈夫だろうか。と。

そんな時はどうしますか。どうしてきましたか。

 

いろいろな方法があると思います。私もいろんな方法を持っていますが、よくする方法があります。

それは、

・未来の自分に尋ねてみたり、想像したりすること

または、

・過去の自分に語り掛けたり、過去の自分になったつもりで、今の自分に語り掛けたりすること

です。

 

どういうことか、具体的に説明しようと思います。

 

まず、未来の自分に尋ねたり、想像したりする方法からです。

この考え方をするうえでとても役に立つのが、Mr.Childrenの「くるみ」を聴くことです。

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「くるみ」というのは「これからくるみらい」のことです。つまり、未来を擬人化した呼び名が「くるみ」なのです。

この曲は、くるみに尋ねかける歌詞から始まります。

ねぇ くるみ

この街の景色は君の目にどう映るの?

今の僕はどう見えるの? 

私は、この歌いだしを聴くだけで、自分の視点が少し上空に浮くような感じがします。

 

今の自分の境遇がつらいと思うとき。

今の自分の暮らしが充実していると思うとき。

今の自分はこれでよいのだろうかと思うとき。

いろんなときに、いろんな場面で、この歌詞とともに生きてきました。

「未来の自分から見ると、今の自分はどんな風に見えるのだろう。今していることは、これから先の人生にどんな意味を持つのだろう。それはわからないけど、後悔しないように生きよう。」

そんなことを考えるのです。「ねえ くるみ」と聴くだけで。

そしてひとしきり想像してみた後、希望に胸を震わせながら、今を生きていこうと思うのです。未来は誰にもわからないのだから、想像こそすれ、今を生きるのです。

進もう 君のいない道の上へ 

このように、将来への「不安」というものを、少しでも「期待」へと変化させ、自分にできることをやろうと思える(ソリューションフォーカスアプローチ)ようになります。くるみを聴くことは、このように有効に働くのです。

 

 

さて次は、過去の自分になったつもりで、今の自分に語り掛ける方法についてです。

この考え方をするうえでとても役に立つのが、Mr.Childrenの「旅立ちの唄」を聴くことです。

youtu.be

この歌について、私は「過去の自分が今の自分に語り掛けてくれている歌」と解釈しています。すなわち、「今が未来だったころの過去の自分」に戻り、今の私に語り掛けるということです。

私にも、それなりに迷いや悩みを抱え、それを越えてきたという人生があります。

忘れっぽい性格ではありますが、たまに昔のことを思い出して懐かしく思うときもあるのです。

mixiの日記などを読み返すと、そのころの景色や気持ちを鮮明に思い出します。

 

大学生の時、アルバイトでミスばかりして、自分はダメ人間ではないかと思っていた頃もあります。

新人教師時代、小学校の荒れた学級をどうにもできずに、絶望していた頃もあります。

「自分は社会人としてまともに生きていけるのだろうか。」「人に迷惑ばっかりかけたり、受け持った子どもたちを不幸にしたりするのではないか。」

夢や理想と現実のギャップが、余計に自分の無力さを際立たせて、このように悲しくて惨めな気持ちになっていたことが何度もあります。

でも、心ある人の支えの中で、何とか生きている今の私がいるのです。

 

悲しみの最中にいるときには自分の良いところなどもよくわからなくなってしまうものですが、それを乗り越えてしまえば、あの悲しかったころの自分が、今の私に語り掛けてくれる、弱くとも頼もしい存在となるのです。

転んだ日は はるか遠くに感じていた景色も

起き上がってよく見ると なんか辿り着けそうじゃん  

「ね。あの頃は "ダメだ…" とか思ってたけど、どうにか乗り越えたでしょ。」

「これまでだって、なんとかなったでしょ。これからだって大丈夫だよ。」

そんな風に、自分の歩んできた道という確かな事実を根拠に、励ましてくれるのです。

自分が誰か忘れそうなとき

ぼんやり想い出してよ

ほら 僕の体中 笑顔の君がいるから

背中を 押してるから

「僕の思い描いている未来の僕は、きっと笑顔だよ。」

「あのころの初心を思い出せよ。」

そんな風に、昔の自分が今の私の背中を押してくれるのです。すると、前を向けるようになるのです。

そしてうれしい副作用として、落ち込んでいたあの時の自分に対して、「きっと大丈夫だよ」「いつか一人ぼっちの夜は明けていくよ」と、慈しみをもって励ましのお返しができるのです。つまり、これまでの自分を認めてあげることができるのです。それは、今の自分を肯定することにほかなりません。

「不安がっていたあの日の自分よ。ほらみてよ、今の僕を。それなりにやってるからさ。」と、今の私の姿を見せてあげたいくらいの気持ちがわいてくるから、不思議なものです。これは自己肯定感の向上といえるでしょう。

「ちゃんとした大人になれるのかな…」と思っていたあの日の自分に、まったく本なんか読んでいなかった大学生のころの自分に、10年後のこの本棚を見せてあげたいものです。

「学校の先生として、ちゃんと働いてるよ」

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以上が、過去や未来の自分と疑似的に交信することによってメタ認知し、視野狭窄的な悩みの負のループから脱することを通して「今」の自分のありのままを認め、自己肯定感の向上を図ると同時に未来への希望を抱くという、わたくしオリジナルのセルフケア技術です。

まだブラッシュアップの余地があり、未完成の療法ではありますが、ウーブ考案の「ミスチル療法」のひとつです。

これを「現在・過去・未来法」とでも名付けておきましょう。

 

参考出典

「くるみ」

「旅立ちの唄」

「過去と未来と交信する男」

「Everything(It's you)」

19「捕らえ方次第だ」の巻

様々な「出来事」が、私たちにいろんな「感情」を生じさせる。

実はそれ、ちょっと違います。

「感情」を生じさせるのは、必ずしも「出来事」ではなく、自分自身の「認知」(考え)だからです。怒り、悲しみ、喜び。これらの感情を生むのは、「出来事」ではなく、自分です。同じ「出来事」に対しても、怒る人と怒らない人がいる。などということが、それを証明していますよね。

 

「悲しい出来事」というふうに言いますが、これは「私が悲しいと思う出来事」ということになるでしょう。

 

認知行動療法では、「出来事」があると、そこからほとんど自動的に「考え(認知)」が生じ、その結果として「感情(気分)」「行動」「体の反応」等に様々に影響を与え合う、とされています。

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これは科学的に根拠のある理論ですが、なんとMr.Childrenの「CENTER OF UNIVERSE」という歌の中でも、まさにこのことが歌われているのです。ミスチルはすごいですね。

 

ここで、とあるエピソードを例として挙げます。

(以下、エピソード)

 

太郎さんは、二郎さんと遊びたいなと思い、二郎さんに電話をかけました。昨日、二郎さんが「明日は暇だ」と言っていたから、二郎さんを誘えば一緒に遊べると考えたからです。ところが、二郎さんは電話に出ませんでした。そこで太郎さんは、二郎さんに「今日一緒に遊ばない?」とメールを送りました。しかし、これにも二郎さんからの返事はありませんでした。

太郎さんは「暇だと言っていたのに、どうして連絡が取れないんだ。もしかしたらおれと遊びたくないのかな。おれ、何か嫌なことしたかな。うざがられてるのかな。」と思いました。そう考えると不安な気持ちになって、二郎さんにそれ以上連絡をすることがためらわれてきました。さらには、やらないといけないレポートにも手がつかなくなり、困りました。

 

 

この例では、太郎さんは「不安」になり、課題であるレポートにもロクに「取り組めず」、困ってしまいました。

太郎さんがこのようになったのは、二郎さんから連絡が返ってこなかったことがきっかけ(「出来事」)ではありますが、「不安」や「レポート未着手」などのことまで全て二郎さんのせいとは言えません。

この事例は、「太郎さんの考え方」次第で、違う方向に向かうことができるのです。

 

一連の流れを「出来事」「考え」「気分」「行動」で整理します。

 

「出来事」

二郎さんが電話に出なかった

二郎さんからメールの返事がなかった

 

「考え」

おれと遊びたくないのかな

おれ、何か嫌なことしたかな

うざがられてるのかな

 

「気分」

不安になった

 

「行動」

レポートに手がつかなくなった

 

ここまで分析できれば、あとはそう、捕らえ方次第です。

「出来事」→「考え」→「気分」・「行動」の流れの中で、太郎さんが変えることができるものはどこでしょうか。

出来事は変えられません。気分を変えようとしても難しいです。ここで「考え(認知)」や「行動」に着目して色々やっていくのが認知行動療法です。

 

さて、不安な「気分」にならないために、太郎さんは「おれと遊びたくないのかな」「おれ、何か嫌なことしたかな」「うざがられてるのかな」以外に、なにか他の考え方ができないでしょうか。そう言われても、いきなりは難しいかもしれません。

 

しかし、このように考えてしまう時は、

「本当にそうか?」「そうかもしれないけども、あえて別の見方をするとすれば?」などと考えてみると、「電話ににでない」「返事がない」ことの理由としては、実際はいろいろな可能性がありますよね。

 

暇じゃなくなったのかな

ケータイを見れないのかな

寝てるのかな…etc

 

このような考え方に変えることができると、先ほどの太郎さんよりは、不安の程度は軽くなるのではないでしょうか。

 

これは、認知行動療法での、基本的な考え方の一つです。

 

さてここで、冒頭で述べたMr.Childrenの『CENTER OF UNIVERSE』ですが、こんな歌詞があります。

 

"あぁ世界は薔薇色
総ては捕らえ方次第だ
ここは そう CENTER OF UNIVERSE"

 

私は、これは実に素晴らしい歌詞だと思います。

ある意味では開き直り的な明るさで、この世の中を楽観している曲のようにも聞こえます。「総てはそう 僕の捕らえ方次第だ」という思想は、曲名からも読み取れます。
この曲の解釈については、文字通り「捉え方次第」であることを桜井さん自身がインタビューで語っています。


「今世の中で起こっていることを悲観的に捉えることも楽観的に捉えることもできる。『あぁ世界は素晴らしい』という歌詞も、ある角度から見ればものすごく皮肉なように捉えることができるし、本当に世界は素晴らしいんだと思いこむこともできる。どんな角度からも見れる自由な心があれば色んな場面に対応して行けるんじゃないかと思う」

 

なるほど、これは「柔軟な想像力の歌」とも言えるのではないでしょうか。

心への影響度合いという点において、リフレーミングの重要性をうたっているとも言えるでしょう。

 

「裸の自分で挑んでく」という歌詞は、固定観念も偏見もなく、自分自身の自由な心(裸の自分)で物事と対峙するということでしょう。

この曲のミソは、ある意味ではこの部分にあるのかもしれませんね。

 

「CENTER OF UNIVERSE
まだ認知行動療法など言葉すら知らない高校生の頃の私に、自由で縛られない心で生きていこうと思わせてくれた、恩人ならぬ恩曲です。

https://youtu.be/AOySfMfNMSA

↑の動画の7:00あたりから、CENTER OF UNIVERSEが始まります。