新年なのでランチェスター戦略について改めて考える

以前、趣味と仕事の違いは何かを考えたことがある。
結論は、俺が先に益することを目指すのが趣味で、客が先に益するのを目指すのが仕事だろうということに落ち着いた。

 

俺が楽しむことを目指した結果、副次的に他者が他者が楽しんだ。これは趣味的活動である。
客が楽しむことを目指した結果、副次的に対価を受け取る。これは仕事的活動である。

俺が楽しんでいたら、客が勝手に楽しみ、その対価が支払われた。これは趣味が仕事になる例である。
客が楽しむことが俺の楽しみだ、なんて言う奴がいたとしたら、これは仕事が趣味になる例である。

 

人間楽しく働こうと思ったら、趣味を仕事にするか、仕事を趣味にするかどちらかを選択すればいいんじゃないだろうか。
たとえば出世が目標だという人は、上司を喜ばせる必要があり、ひいては客を喜ばせることで最終的に自分が益する仕事型。
人とコミュニケーションするのが楽しいという人は、仲間や客と話してたらいつの間にか賃金が発生したという趣味型である。

 

これは結局、俺の好きな手段と目的の話に通ずる。
俺は以前から手段=目的となるように生きることが望ましいとして自分に言い聞かせている。
上記の場合、人を楽しませることが手段であり、自分を楽しませることが目的になる。

 

通常は手段→目的である。仕事をしたから賃金が発生した。勉強をしたから親に褒められた。
あるいは目的=目的である。趣味的行為で俺だけが楽しい、以上。映画を見たら面白い、以上。
通常ならこれで終了である。これで満たされているのなら何も問題はない。
家族のために仕事を頑張る。趣味は趣味として仕事は最低限にやり過ごす。これで別にいいじゃないか。

 

だが、これで満足しない一部の奇特な人がいたとする。
あるいは最近、仕事もつまらないし趣味もつまらないのでどうすればいいのか、と悩む人がいたとする。
であるならばここで手段=目的となるように、仕事的趣味か趣味的仕事に没頭するのをお勧めする。

 

人間、働き始めれば自分がどちらに傾いているかなど一目瞭然だろう。
人に喜ばれるのが好きだ、自分は本当はやりたいことなんてない、物より俺を見てくれという仕事的人間と、
俺自身を楽しませたい、やりたいことしかやりたくない、俺より物を見てくれという趣味的人間に分かれるはずだ。

 

スタートはどっちのタイプだって構わない。
ただ何らかのプロと呼ばれている人たちは手段=目的, 仕事=趣味という領域に到達しているだろうと予想できる。
自身もやっていて楽しいが、同時に客にも喜ばれる技術なり演出があり、両者の視点を有しているわけだ。
どちらからスタートしてもどこかのタイミングでこの壁にぶつかり、ブレイクスルーを経てイコールを獲得するのである。
そんなもん無かったよ、好きなことだけやってたら周りが勝手に評価してきたよ、というプロがいたならば、
よっぽど才能があったか業界構造に救われたか、有り体に言えば運が良かったのだろう。再現性も低い。

 

俺は趣味的人間であるので、仕事的人間がどのようにイコールを獲得するかは想像し難い。
なので今回は趣味的人間について考える。

 

趣味的人間の特徴は人を見ないということである。これは目を見て話さないという意味ではない(それも特徴の一つである)。
人からどう見られるか、どう思われるかを意識しない。俺が良ければオールオッケー。まさに趣味的人間の生き様である。
先述した通り、俺が楽しかったらオールオッケー満足満足なら話は終わりである。言われなくてもそのまま邁進するだろう。
また好きなようにやってたら周りに評価されちゃいました、という才能と時流に愛された人間も悩まず進んでいくことだろう。

 

孤独が悩みなら猫を飼えばいい。あるいはパートナーや子供ができればそんな悠長なことも言っていられないだろう。
だが、それでも耐えきれない喉の渇きがあるならば、そろそろ他人を巻き込むブレイクスルーの準備をしなければならない。
つまりこの壁の前で、趣味的人間はどう人に見られるか、どう人に見てもらうか、という演出を加える必要がある。

 

いや俺もついこの間まで、この演出の部分をかなり軽視していた。そこは本質ではないだろう、と。
見てくれがどうであろうと、形の崩れたお饅頭だろうが中身が美味けりゃみんな食うだろうと。
形を整えるのにたいして興味が持てないのだから、中身を美味くすることに力を注げばいいだろうと。
中身が美味いことに気づけない観光客が見る目がないだけであって、俺が変わる必要はないだろうと。

 

歳を重ねて思ったことは、やはり観光客は見る目がないということである。そして俺もまた観光客なら同じく見る目がない。
旅先に知らない店があって、その中の一商品を手に取ってもらい、それに高評価がつけられ話題に上る確率はどれぐらいだろうか。
人は既に知っているものか、既に誰かが高評価をつけたものぐらいしか手に取ることはない。
ましてや誰も知らないよく分からない見てくれの悪いものなんて誰が手に取るだろうか(反語)。

 

さて表題の件を始めよう。
仮に自分が誰も知らないよく分からない見てくれの悪い趣味的人間だとしたら、どう演出すれば渇きは満たされるだろうか。
たとえば俺は先日4年ぶりにこのブログを再開し、一方で4年ほど一向に伸びないYoutubeを続けている。
これらを自己満足の趣味だと割り切るのも構わないが、これを趣味的仕事にまで昇華させるにはどうすればいいか。
つまりこの自己満足の趣味を、より人に見られ、人を楽しませるにはどうすればいいか考えるのは年初に悪い試みではない。

 

その一つの方針が、今回のランチェスター戦略である。
ランチェスター戦略は元々第一次世界大戦中に研究されたオペレーションズ・リサーチである。
「同じ武器なら勝敗は兵力数で決まる」という前提をもとにした戦略であり、
現代では経営学に応用され、マーケティング戦略における必須知識となっている。

 

ランチェスター戦略は強者戦略と弱者戦略に分けられる。マーケティング分野におけるこれらを見ていこう。
強者のとるべき戦略は追随戦略(ミート戦略)で、要は流行り出してから全力で真似すれば勝てるというものである。
広いフィールドで、人数や広告費をかけ、元々の商品力やブランド力が組み合わさればまず負けることはないというものだ。

 

一方弱者のとるべき戦略は差別化戦略で、力を一点に集中させ差別化を図れば局地的に強者に勝るというものである。
狭いフィールドで、力を分散させず、細分化された領域でNo.1を目指すというものである。

 

深夜にWikipediaを斜め読みしただけなので、どれぐらい確度があるか分からないが、
つまり強者は手広く展開して総合的に勝てと、弱者は一点突破して局所でNo.1を目指せよ、ということである。
逆に言えば弱いんだったら、広く浅くやることはデメリットでしかないと、耳の痛い話である。

 

たしかに、テレビやインターネットで活躍されていている方々を思い返してみると、
総合的になんでもやる > 一点突破で武器が強い > 一点突破で武器が弱い > 総合的になんでもやる
という分布に単純化することができるかもしれない。
既に成功している人強者を真似して弱者が総合的にやろうとするのが戦略上いかに愚かなのかが窺い知れる。

 

おそらく強者も昔からずっと強者だったわけではないだろう。
自分の武器を磨いて、気づけば他の追随を許さない存在になっていたから強者の振る舞いができるのである。
たとえ先行利益だとしても、先行利益者の中でNo.1になったからトップを走っているわけだ。
そこに何か目立つ武器があったからであって、つまり武器もあり人気もあるから何やっても人がついてきているのだ。
ましてや後期参入者が武器も持たず幅広く流行に手を出しても、成果を得ることは難しいだろう。

 

弱者はこの狭い分野ならNo.1はこいつ、を目指す必要があり、
No.1 を目指すことは技術力という武器を持ちながら、それを意図的にアピールする演出力が必要になると考えられる。
好きなことをただ漫然と続けていても旅先のお饅頭のように誰かが見つけてくれる可能性は低い。
一方で誰かに見つけてもらうことだけに特化して、中身の伴わないカスッカスのプロフィールを並べるのも程度が低い。

 

自己満足の趣味で満足し得なかったら、戦略的に小さなお山の大将を目指してみれば、と今日は思った次第である。
それがどう自分の活動に作用するかといえば、今はまだ考え中ということでお茶を濁しておく。

 

今年は「微弱な快楽」と闘いたい

あけましておめでとう。
新年一発目はこんな記事である。

作業を始める前に、一旦SNSYouTubeの動画を開くと止まらなくなる

あの現象を表した名前がドンピシャすぎて怖いと話題に

 

人間何か面倒なことをする際に余計なことを考えてしまい、
その行動に手をつけるまでにとんでもない時間が掛かったりしがちです。

 

そうすると微弱な快楽を求めてSNSを無限に見続けたり、
5分程度の動画をYouTubeで無限に見たりしてあっという間に数時間消費していたりします。

 

これに一定時間触れていると「微弱な快楽を受けている状態がデフォルトだ」と
脳がセッティングされてしまうので、それを止めた瞬間微弱な快楽が途絶え不快感を覚える。

 

結果ニコチンが切れた喫煙者のように脳がマイナス(苦痛)方面に振れ、
再び微弱な快楽を求めてSNSを開いてしまうというループになるのだと思われます。これが地獄。

 

ベッドで横になるのも「微弱な快楽を受け続けている状態」ですね。
シンプルなゲームやエロ画像を漁り続けるのもそうです。
特にこれらを複数同時に行うと1日が完全に終わりかねません。

 

(一部省略)

https://togetter.com/li/1608787

今年も日記を書き始めるまでに3日が経過した。
おそらく、筆者の言う「微弱な快楽」の所為である。

 

微弱な快楽に溺れていないと、ストレスで気が触れてしまう。
だが微弱な快楽に溺れていると、恐ろしく作業効率が下がる。

 

まず立ち上がりが非常に遅い。時間をかけて微弱な快楽を探してから作業を開始、
作業中も微弱な快楽を浴びながら、集中力が切れたらまた別の快楽を時間をかけて探す地獄。

 

一つの快楽に飽きたら次々と別の快楽に移り続けることを世界線移動と呼ぼう。
「微弱な快楽」に伴う世界線移動は現代の病気である。

 

TwitterWebマンガYoutube、個人ブログ、Togetter、5ch、キュレーションサイト.....。

つまらないわけではないが、面白いとは絶妙に言い難い微弱な快楽が俺の時間を奪う。

 

それを知ってか知らずか、ネットに溢れるのはこうした絶妙なデブリである。
俺の人生に何一つ影響を及ぼさないものによって、やりたいことの隙間が無くなっていく。

 

昔聞いた壺の例え話がまさにこれである。
大きな岩を先に入れない限り、それが入る余地はその後二度とない。
重要性の低いものから壺を満たしていけば、君たちの人生は重要でない「何か」に満たされるものになるだろう。

 

俺の一日は微弱な快楽と三大欲求の解消、仕事、買い物、風呂、排泄で99%が埋まっている。
本を読んだり、文章を書いたり、思索に費やす時間はほとんど残っていない。

 

この「微弱な快楽」に抗おうとするネットの言葉を聞くと、
別の微弱な快楽で対消滅させる、インターネットを遮断する、別の場所(喫茶店とか)で作業するなどの声があった。

ふーん。

 

何を隠そう俺はネット中毒である。ネットに溢れる情報から栄養を摂取して生きている。
アルコール中毒やニコチン中毒と何一つ変わらない依存症である。

 

日記を書き始めるのに3日かかった。ともするとエンジンがかかるのはずっとあとだろうし、
例年なら7月くらいで半年も何もしていない自分に気づき反省するのをまた繰り返すだろう。

 

いや、俺は今年こそネット中毒と向き合い、「微弱な快楽」に抵抗するすべを身につける。
俺にとって大事なことに時間を割き、大事でないものに相対する時間を減らす。
これは新年の抱負である。そして新年の抱負は大概うまくいくはずがない。

 

「非コミュに足りない10の対人スキル」について

今日はこんな匿名日記である。

非コミュに足りない10の対人スキル(CV:小山力也

 

よう、全国2000万の非コミュども。今日も今日とて、カスみたいな増田で傷の舐めあいと罵り合いか。
最近自分の周りの非コミュたちを見ていて、なんとなく共通して当てはまるものが見えてきた。
信頼を失うような立ち振る舞いが多い。メールの返事返さないとか、電話にでない、とか。
基本的にこちらの事情や行動を平気で踏み潰すヤツが多いことに気づいた。

 

信用は金で買えるが、信頼は金で買えない。
右も左も分からない非コミュたちには最初のワンステップは必要だろう。
これらは基本的に、小さな信頼を獲得し、コミュニケーションを維持するためのテクニックだ。
これをすれば相手との会話やメールを維持することにつながる。そしてそれがコミュ力だ。

 

1)遅刻しない
遅刻をするってことは、待ってくれている人の時間を盗むこと。
相手のその日の貴重な1分1秒を奪ってしまったと考えろ。

 

2)約束は守る
忙しかったり、小さなことだったら忘れることもあるだろう。そういうことで相手や周囲から信頼は簡単に失う。
忘れそうだったらメモるとか、タスク管理するとか忘れない方法を考えろ。

 

3)期限を決める
仕事だと必然的に納期というものがあるが、プライベートでもいつまでにそれをしたらいいのか確認する
「いつでもいいよ」と言われても「こっちの都合で決めていい?1週間後でどう?」と決めておく。

 

4)メールはすぐ返す
24時間以内には返せ。24時間以内で答えが出せない返事は、返事するのに待って欲しい、という返事を書く。
いつまでには返事できる、というのも書き添える。いつまでに返事できるかわからなかったとしたら、それも正直に書く。

 

5)自分にプラスになることをしてもらったら、すぐ「ありがとう」
仕事だから当たり前、自分の部下だから当たり前、と思っていると
最低限の仕事はこなしてくれても上司としての信頼は勝ち取れないし、チームとしての能率も下がる。

 

6)相手のプロフェッショナルな領域で厚意をもらったら、対価を支払う
その友達はそのスキルで商売をしていて、その商売の時間を短時間とはいえ割いてでも作ってくれたのだ。
金はいらないというのなら、せめて飲み会開いて一晩の飲み代ぐらいは奢れ。

 

7)誕生日プレゼントは忘れるな
恋人や伴侶、家族、大切な友人には必須イベントだが、友人、ちょっとした知人にもあげたほうがいい。
普段あまり顔をあわせない相手にはおめでとうメールを送れ。疎遠だった人と関係を復活させるチャンスにもなる。

 

8)ちょっとした情報はすぐにメールしろ
相手がその情報を知っているか知ってないかは関係ない。
自分の趣味趣向を知った上でプラスになる情報を教えてくれた、ということが喜ばれるのだ。

 

9)季節の挨拶はちゃんとしろ
年賀状と暑中見舞いはきっちり出す。特にお世話になっている相手には、お中元やお歳暮も。
若いヤツには効果的だ。年長者からは「若いのにしっかりしてる」という印象を持ってもらえる。

 

10)手ぶらで訪問するな
別段の要件のない、ただ遊びに行ったり訪問するだけの場合でも手土産は忘れるな。特に初訪問には必須。
相手の時間をこちらの都合で割くのだから、それに見合う返礼は持って行け。

 

1〜5までは社会人として信頼を維持するための必須条件だ。これを外すと信頼は減点される。
6〜10は相手に+αの信頼と心象の良さをアピールするものだ。

 

どれも、マメさや多少の金銭、手間暇が求められる。
でも、そういうことに金や時間といった人生のリソースを費やすことが社会の中で良好な人間関係を築くってことだ。
社会でちゃんと生きてるヤツは、こういうことがちゃんと出来てるってことだよ。

 

(一部省略)
https://anond.hatelabo.jp/20110714164123

筆者はこれらの行動を、社会の成員たる社会人はすべきだと考えていて、
それができない人間(非コミュ)を信頼が置けない、どうしようもない下郎だと見下している。
しかし、「すべきだ」とか、「できて当然」とか、「ちゃんと」とかいった傲慢な態度は基本的に透けるので、
俺たちのような非コミュからの反発は多いし、俺たちからの信頼は低いんじゃなかろうかと推察する。

 

俺は俺の考えに基づいてこれをする、という心がけに留めておけばいいが、
これをしない奴は非コミュであり、「ちゃんとした社会人なら当然これをすべきである」という領域を侵犯されるくらいなら、
ああ非コミュを省いて、有コミュの中だけで勝手に仕事をぐるぐる回していけばいいんじゃないかしらと思わざるを得ない。
もちろんそれが理想郷であれば、高い壁を設け、できないものは即追放していくことで達成できるはずだ。

 

学生時代、やけに偉ぶっている先輩がいて、どうしてこの人は先に入学したことだけを根拠に偉ぶれるのか唖然とした。
「ごめんごめん、コミュニケーションコストを減らして円滑にするために先輩後輩という役柄に興じているだけなんだ」
俺がかけて欲しかったのは、こういった言葉である。
つまりコミュニケーションは技術であり、演技であり、人として当然なんてことはねえよということを互いに了承した上で、
それでも人間関係を円滑にして作業を進めるために技術や演技というドッキリテクスチャーを外皮に纏おうぜというのが、
それを驕り高ぶることなく巧みな話術で非コミュに伝えるのがコミュニケーション強者の態度じゃあないだろうか。

 

上記の内容を有しているのが社会人として当然であり、有してない君たちは未成熟なのでこちら側に来るべし、
さもなければ迫害もやむなしであると本気で信じているのだったら、もはやコミュニケーション弱者のそれである。
しかし、非コミュとしては困ったことに、本気でそれを信じていてかつ自分はコミュニケーション強者だと勘違いしている輩が、
まあ結構いるのである。彼らからの自衛のためにも技術を学び、演技に興じるのは懸命な判断である。

 

とはいえ上記の、特に前半5つは凡人サラリーマンが最低限身に纏いたい技術であることには同意する。
挨拶する、遅刻しない、約束を守る、連絡を返す、状況を報告する、感謝する、といったことができない人と何かするのは、
仕事でもプライベートでもコミュニケーションコストがかかり過ぎてこちらが疲弊してしまう。
これらを補っても余りある魅力的な何かを持たない限り、わざわざ一緒に何かしようとは思わない。
であるから、もし自分が後輩に指導できる立場なら、こうした技術をまずは身に付けようと言うだろう。
「できて当たり前」と言うマナー講師はどうも信用ならないが、「衝突を避ける技術である」と言う講師は信用できる。

 

さて、そこからは自分のキャリアと相談である。
その会社で上位25%の地位を保持したいのなら、後半5つのアドバイスは有用である。
あいつは取り立てて目立ったものはないのだが、何だか信頼が置けるというポジションに落ち着くことができよう。
おそらく社会が円滑に回っているのは、彼らのそういった日々の行為のおかげである。
もちろんプライベートでもその人にとっての上位25%になりたいのなら、このアドバイスに耳を傾けるべきだろう。

 

上位になるか下位になるかはその会社と運次第だが、プロフェッショナルな職人になるのも一手である。
おべっかの技術取得に邁進しなくとも、社内では誰も到達できない高みに達すれば、誰よりも重宝される。
君が次の会社の主力商品の責任者であり、君のおかげで企業が発展するのである。
怖いのは結果を出すまで企業側が白い目で見てくることで、特殊技能もなくおべっかも使えない奴に思われてしまう。
特殊技能を携えて最初から鳴り物入りで入社すればいいが、周りの目を気にしてどっちつかずの人間になることは避けたい。
これはあくまで予想だが、商社等には前者が多く、プログラマーなど技能集団には後者が多いのではないだろうか。

 

最後はプライベートを最大化する道である。
最低限の技術を身につけたら、君のミッションはできるだけ早く帰宅することである。
会社での地位は最下層ではないが、やや下方に位置するかもしれない。
趣味なのか夢なのか家庭なのか副業なのかは知るよしもないが、生活費のための仕事と割り切ることである。
会社コミュニティ所属による社会的欲求を放棄する代わりに、別の場所で満たすことを選んだ人たちだ。
それでも挨拶する、遅刻しない、約束を守る、連絡を返す、状況を報告する、感謝する、といった技術を
身に纏うことを放棄してはいけない。余計なストレスで身を崩すのは双方があまりに無益だからである。

「何がしたいのか分からないまま人生が終わった」について

久々に日記でも書こうかな、とはてなブログを開くと、4年前に更新が途絶えたブログが残っていた。

ああ、と息が漏れる。すっかりその存在を忘れていたからである。

かつては常に頭の片隅にあって、いつでも記事を更新してやろうと息巻いていた。

それが今では容易には辿りつかない記憶の僻地へと追いやられてしまっている。

あれから4年が過ぎた。あれから何か変わっただろうか。

 

4年前の冬は京都にいて、年が明けた1月には地元へと戻ってしまっていた。

引っ越し日に両親が手伝いに来てくれて、本がぎっしり詰まった重い段ボールを親父と運んだ。

今思えばよく腰を痛めなかったものだと思う。もし俺が親父の歳だったら腰をいわしているだろう。

その日京都は大雪で、金閣寺に雪が積もったと聞いて、最後に両親と見に行った。

金閣寺に行ったのはこれで3回目。中学の修学旅行と、京都に住んだ1年目と、この最終日だった。

京都には色んな思い出がある。が、そのほとんどが一人で街を回った懐かしい思い出である。

 

実家への帰路で、祖父が風呂場で動けなくなったと祖母から電話が入った。

そのときはあまり重く考えていなかった。歳だし、まあそういうこともあるだろう、ぐらいに。

実家に戻ると、座敷に横たわり、ぐったり動けなくなった祖父が居た。

親父が救急車を呼び、駆けつけた救急隊員と名前やら日付やらの意識確認を祖父と交わすと、

速やかに……いや、どこの病院に行くか揉めてたな。

結局祖父の行きつけ病院の希望は叶わず、日赤へと運ばれていった。

俺は「大丈夫かい」ぐらいにしかかける言葉が見つからず、まあこれが最後にまともに交わした会話となった。

あの日に俺が引っ越しをせず、実家にいた親父がすぐに助けることができたら……と思うこともある。

俺も、親父も、わずかばかり悔やんでいるかもしれない。でも、それは仕方のないことだとも納得している。

入院した祖父は日に日にぼけていった。それに比例して歳のわりに逞しかった身体はみるみる痩せこけていった。

ついに実家に帰ることはなく、秋頃だっただろうか、91歳でその生涯を閉じた。

 

それまでにもいくつかのことがあった。春には中学校からの友人の結婚式に出て、久々に集った友人と旧交を温めた。

俺は大学時代に一度人間関係リセット症を発症し、家族以外のすべての連絡先を消去していた。

その結婚した友人も、俺の実家にわざわざ結婚報告の電話をかけてくれて、そこからまた関係を再開した。

4年後の今でもWebラジオと称して月に一度喋っている。一向に伸びないYoutubeも今日まで続けている。

その友人関係が回復しなかったら、俺は今も独りで過ごしていたことだろう。

 

同時期に実家から2時間ほど離れた町で仕事を開始した。

面接を受けにいったその日に採用され、それから1週間くらいで職場に通うようになった。

通勤が大変だと漏らすと、社宅としてアパートを借りてくれて、今もそこに住んでいる。

電気ガス水道も会社負担なので、賃金は少ないが食うに困らない生活を享受している。

あれから4年ほど仕事を続けている。あれから4人入って、6人辞めるのを眺めている。

人間関係に悩んだ時期もあったが、なんとか今日まで辞めずに働いてこれた。

しかしポジティブな意味で、そろそろ退職しようかな、とも片隅で思っている。

 

そういえば、車も買った。田舎では必須だという両親に説得され、中古のカローラを買った。

半信半疑だったし、運転は怖いからあまり乗らないだろうと鷹を括っていたが、これはいい意味で裏切られた。

東北一周を走り、四国一周を走り、東海を走り、地方都市や隣県に気兼ねなくドライブに行くことができる。

一人で過ごすことが苦じゃない人は、大金をはたいてまで買う価値がある。

しかしさすがにボロボロになってきたし、維持費も高いから次の車検前に手放そうか、とも考えている。

 

あとは何だろう。姉や友人たちに子供が産まれたり、そうでなければゲーム機やスマホやパソコンを買ったり、 コロナ蔓延で会社が一時休業したり、俺自身もコロナにかかってホテル療養したり、 友人たちとスノボ旅行行ったり、キャンプに行ったり、コミケ行ったり、友人の演劇を見に行ったりした。惜しむべくは海外旅行と女性関係くらいか、特に行動しなかったから当然の帰結だけれど。

 

そうして4年が過ぎた。人間関係と生活環境は4年前の京都と様変わりしている。だが内面の変化は小さい、と思う。

中心核は変わらず、外皮だけが分厚くなっていった。これは喝采するべきことだろうか。

しかしそれでも、京都を去り、天地で仕事を始め、祖父が死に、新天地で仕事を始め、友人が結婚し、車を買ったことは、

明確に俺の子供時代と訣別する転機となったことは間違いない。

後から思い返せば、あのとき俺は大人になったのだ。

 

4年前はカミュブッダとサピエンス全史が俺の経典だった。この3つさえ押さえておけば、人生に迷うことはないと思っていた。

実際、大きな人生の悩みに自ら衝突することはしなくなった。

経典の内容はすでにおぼろげである。それでも迷ったときはいつでも戻ればいいと思っている。

だから今もカミュブッダとサピエンス全史が、付け加えるなら内田樹岡田斗司夫村上春樹が、

物事に複眼的にあたる俺の師匠であることは4年前と何一つ変わっていない。日常の退屈は漫画とYoutubeが何とかしてくれる。

 

再開する日記には、Webで読んだものに対して勝手に思うことを打鍵していこうと思う。

いつ日記をやめてもいいし、いつ再開してもいい。そういうゆるいルールでやっていきたい。

 

今回はこんな匿名日記である。

何がしたいのか分からないまま人生が終わった

 

小さい頃から逃げてばかりいた。
幼稚園と小学校は真っ暗なジャングルだった。
このまま公立中学に行ったら殺されるに違いないという親の判断で進学校を目指すことになった。
中高一貫だったので何の区切りもなくただ学年の数字だけ増えていった。
どの大学に行きたいのかと言われても特に思いつかなかったので、自分の成績で向いていそうな学部を適当に受けた。
一浪して隣県の国立に入り、与えられた金額の範囲でいかに生活するかばかり考えていた。
講義はどれも興味深かったし、パソコンとインターネットにも初めて触れた。
けれど溜まっていくのは雑学ばかりで、何を目指して進めばよいのかが分からないままだった。
論文が書けなかった。研究したいテーマなんて何一つ思いつかない。
自分がやりたいことも、やるべきことも、できることも何も見えなかった。

 

あてがわれた研究室で無意味に悩んでくすぶって、二回留年してから卒業した。
教授に与えられたテーマそのままにつぎはぎしただけの卒論を提出して、実家へ逃げ帰った。
やりたい仕事もできそうな仕事も分からない人間を雇ってくれる会社など見つかる訳がない。
取りあえずどこでも良いので、隣町の食品倉庫で時給労働をすることにした。
取りあえずのはずだったが、そのまま十数年たった。
肉体労働は苦痛だったが何年かすると慣れた。
周囲に人はいるが朝の挨拶とトラブルの報告以外で話すことは無い。ただただ箱を運び続けている。
日々の暮らしそのものには不満は無い。特に行きたい場所もないし会いたい人もいない。

 

このあいだ四十歳になった。
独りのまま四十を過ぎると妖精になるなんて言ったもんだが、実際に妖精郷というのはこんなふうかも知れない。
苦労が無い代わりに、新しいことも起こらない。小雨の降る午後のように、静かにただ夜を待つだけの時間。
今週は先週と似たような週だった。来週も同じだろう。来月も、来年も、かわりばえのしない日々がただ続いていく。
そうする内にいずれ親が倒れる。そして自分が。人生に残された大きなイベントは、もうそれくらいしか無い。
すでに自分の人生は終わった、と思う。死んでいないだけで生きてもいない。
自分は何がしたいのか、考えても結局わからないままだった。
空っぽのまま生まれて空っぽのまま死ぬのだと思うと、少し寂しい。

 

(一部省略)

https://anond.hatelabo.jp/20190119193055

産まれて、生きて、やりたいことが分からないまま、死んでいく。

やなせたかしの詩のような悩みに、書き手は一抹の寂しさを感じている。

共感や嘔吐が目的なら「わかる」で終いだが、こちらは典型的アドバイスおじさんなので処方箋を記す。

 

やりたいことがない、分からないという人にこれまで数々会ってきた。

でも、しばらく会わないでいると、いつの間にか彼らは何かやるべきことに忙殺されている。

その多くは仕事と育児であり、彼らは日常が忙しいので大きな悩みにぶつかる回数が減っている。

ここでいう大きな悩みというのは、「なぜ生きているのか」という実存の問いである。

こうした悩みは常に心のどこかに潜んでいて、精神的暇になるとそれが顕在化する。

定年を迎えたサラリーマンや、育児を終えた主婦が迎えるのもこの実存クライシスである。

 

一つの現実的な一般解は、上記のように日常を賑々しくさせて、悩みを先送りにするということである。

何人かと話してみるとすぐに分かるが、「やりたいこと」が明確にありそれに邁進している人など稀である。

ドラマは「やりたいこと」がない人が、「やりたいこと」「やるべきこと」に出会うところから始まる。

だから「物語の導入」とか「プロローグ」などとブックマークコメントがつけられていたわけだが、

ドラマを見て、それは私に欠けているものだと落ち込むことはあまりしなくても良い。

 

好きでもない仕事だが、生活のためにどうせやるなら、と懸命に勉強する友人や、

こんなに大変だと思っていなかった、と懸命に育児をする家庭を見る他方で、

アニメやゲームや車やアウトドアやアイドルの追っかけにいそしむといった、趣味で日常を騒がしくする人もいる。

また下世話なジャーナリズムに浸っていれば、石を投げる相手を日ごとに選んでくれるので、深く内省する暇もない。

あるいは創作活動に精を出す方法もある。

文章やイラストや動画や手工芸やプログラミングなど自分に酔った手法で何かを生み出すことができる。

仕事・家事育児・消費的趣味・生産的趣味・健康の維持、この辺りで人は賑々しさを獲得することができる。

ここまでが一般解である。

 

ところが、書き手は結局上記のような一般解を得られなかったからこそ、いま空虚に陥っているという話だった。

熱中できる仕事や、パートナーや、子育てや、消費や、生産的活動が見つかっていれば、他人と同程度に落ち込むことができる。

筆者の望みを直に受け取るなら、こうした一般解を得るよう能動的に動こう、などの掃いて捨てるアドバイスは響かない。

おすすめは「宗教」である。

 

おいおい玄関あけたら宗教勧誘かよそりゃないぜ、とお思いかもしれないが、宗教は実存的悩みにけっこう効く。

なぜなら金持ち貴族のシッダールタ君が、物質的に満たされてるのに精神的に満たされないという悩みを抱えて出家して悟りを開いたのが仏教だからである。

こうしたどこか満たされない心の隙間を埋めるのが本来宗教の役割である。

いろんな意見や考えがあるのは分かるが、何が正しいかは分からないし、

それでいて私はどこにも馴染めず孤立している、という人に宗教は効く。

善だと教祖やみんなが信じているものを私も一緒になって集団で信じるのは人間的に愉快な行為だからである。

流行りのカルト宗教だって、おそらく教義はふつうなことを言っていて、それを一生懸命崩されないように過激に信じ込むのである。

 

献金やら壺やら仏壇やら、本人と家族が身を崩すほど金を貢ぐのは、どう考えても客観的に良くない。

良くないが、周りの皆さんも買ってるし、さもなければ宗教に反するし、

コミュニティから村八分にされるし、という主観がそうさせるのだろう。

しかし逆に、このようなカルトのイメージで自分の宗教観を囲ってしまうと、

いざ目の前に現れたイメージと違う宗教にまんまと嵌ってしまう。

あるいは必要以上に遠ざけることで、よく分からないが悪であるという結論だけを他人に喧伝する人になってしまう。

 

そこで結論だが、宗教について学ぶのだ。学んで、これは信じられると思ってから身を崩さない程度に入信するのである。

学ぶなら500年も経ってない宗教では浅い。少なくとも鎌倉仏教、西欧ならプロテスタント、やはりおすすめは五大宗教である。

ヒンドゥー教なんかはスケールが大きくて読み物としても面白い。

仏教なら空っぽな自分を肯定してくれて、さらにもっと空っぽになりましょうと説いてくるから精神の健康にもいいだろう。

おそらく筆者が渇望しているのは、「自分の人生はこれでいい」と肯定してくれる存在だろう。それが神か仏か近くの誰かである。

宗教を知らずに人生を終えるのは勿体なさ過ぎる。自分を肯定して眠りにつくために、神や仏を学ぶのである。 

ボヘミアン・ラプソディ[千本シネマ#1]

前史
20年後——つまり45歳のとき——どんな素敵なおじさんになってやろうかと考えを張り巡らせたときに、
映画を1,000本観たと自信を持って言えるナイスミドルになっていたいという思いに駆られた。
数字に意味なんてない。ただ、少なくとも最後まで歩かなかった、と感じたいだけなのだ。(千本シネマ)

 12月1日——日本では映画の日に制定され、世界的にはエイズデーとして掲げられるこの日は記念日だった。
初めて映画館で同日に二本観た日だ。一本目が終わるや否や発券機に走り、残り二席となったチケットを買った。
巨大スクリーンが売りのIMAXなのに最前列に座ってしまい、「やってしまったな」と多少の後悔をおぼえつつ、
首を上方に傾けると映画の幕が開いた。「ボヘミアン・ラプソディ

 

 この映画は「自分がいかにQueenから多くのものを受け取ってきたか」を他人に語るための映画である。
フレディ・マーキュリー(1946-1991)が自分にとっていかに偉大だったかを、自分史と結びつけて語り合う。
普段なら多少鬱陶しく感じる年長の自分語り(すみません)も、「ボヘミアン・ラプソディ」というフィルターを
通せば全く気にならない。なぜってフレディは疑いようもなく偉大で、Queenの音楽は時代を越えて届くからだ。

 

 カッコ悪い男が最大限カッコつけるのがロックンロールの狭義だと聞いたことがある。この物語でピックアップ
されるのは、フレディのカッコ悪さゆえのカッコよさだ。それはありのままの俺を愛してくれという精神ではない。
他者からの評価をおもねることでもない。出自、容姿、性的嗜好、彼はあらゆるコンプレックスに塗れていて、
他者の愛に激しく飢えている。それでも余りある美声を武器に全英へ、そして世界へと飛び出していく。
彼が背負い込むのは世界のコンプレックスである。自身の抱えるものが強いため、彼の跳ね除ける力が世界を救う。

 

 マイケル・ジャクソンもそうだった。だから私は彼らに強く心を動かされるのだ。魂が揺さぶられるというのは、
楽曲の評価のみならず、もっと切実なメッセージが表現者から直に伝わってくるという経験のことなのだ。
だから(わざわざ言う必要もないけれど)コンプレックスもないよう(に見える)な人のメッセージは響かない。
カッコいい男がただカッコつけていても、別に何とも思わない。無論これは僻みである。ルサンチマンである。

 

 だが鬱屈した精神というのは当人には何ら幸せをもたらさないが、表現者としては大いに魅力を発揮するものだ。
素晴らしい文化は虐げられた人々から発せられるというのは悲しい皮肉だが、もし戦後にあらゆる分野から新たな
文化が生まれ、あるいは日本で虐げられてきたサブカルチャーの分野から強い発信力を持つ作品が生まれていると
すれば、おそらくそれがコンプレックスの持つ力である。

 

 Bohemian Rhapsodyは流浪者による狂詩曲だった。そんな彼らがWe Will Rock Youと、人々を立ち上がらせる。
そしてWe Are the Championsとして伝説になった。結果として彼の死はその神話性を強めることになったが、
おそらく死ぬ前からフレディはチャンピオンで、すでに伝説だったのだろう、と彼の死後生まれた私は思うのだ。