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大学生の私が、思ったことを気ままに書くブログです。

ズレなく表現できる言葉たちは、意外とシンプルだったりする。

自分の頭の中にあることを表現するのって、すごく難しい。

考えていることを言語化する過程で、私たちは自分の感覚にできるだけ近い言葉を紡ぐ努力をするのだけれど、
端的に言おうとすればするほど、表現は難解で複雑になる。

考えてることって、固形物じゃないから、取り出すときに崩れちゃうのかな。

そもそも、その言葉の捉え方が人それぞれだったりするから、そこでまたズレが生じるんだよなあ。

自分の頭の中、自分の発した言葉、相手の受け取り方、
それぞれの間に、少なからずズレがあって、完全に一致することはない。

そんなうまく伝わらないもどかしさを抱えながら、それでも今日も、ぴったりの言葉を探している。


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ただ、例外もある、と最近気づいた。

目の前のあなたにまっすぐ届く言葉。

それは、多様性を秘めた、ポジティブな言葉。

例えば、

「嬉しい」
「ありがとう」
「あなたは私にとってすごく大切だよ」
「あなたが好き」

平易な言葉だと恥ずかしくなって、使うのをためらってしまうけれど、
たまには言ってもいいのでは。

大切な人に、肯定的な、大切な感情を伝えたいとき、
本質を霞めてしまう言葉は使いたくない。


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シンプルな言葉といっても、ネガティブな言葉は当てはまらない。

例えば、「あなたのこと、嫌い」というときの感情は単純ではない。

さびしい、苦しい、疲れている、本当は好き、慰めてほしい、振り向いてほしい。
いろんな感情を含んでいると思うから。

そういうときは、感情をほぐして、できるだけ中心にある感情を、
できるだけ多くの言葉で表現しなきゃいけない。


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人は完全には理解しえないから、伝えることを諦めて単純な言葉を使おう、っていうことじゃなくて、
ときに言葉をもつれさせながらも、たまにはシンプルな表現で、まっすぐな感情を伝えるよう努める、
そんな大人になりたいと思う今日この頃です。

大学の意味を問う大学生

ご無沙汰しています。
久しぶりの更新になってしまいました・・・。

これからはマイペースに書いていこうと思うので、どうぞ温かい目で見守って下さいませ。


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さて、最近よく感じることについて書こうと思います。

私の周りには、「何をしに大学に来ているのか?」と言う大学生が多いです。
その問いを見て見ぬふりをしている人もいます。
もっとも、気づいていない人もいるのですが・・・。

彼らの共通点は「今までよくできた人」であること。
「よくできてしまった」と言った方が適切でしょうか。

与えられた宿題はきちんとこなし、周りの大人の期待に応えることができてしまった彼らは、大学進学に何の疑問も持たなかった。
周りの期待を自分の希望と重ね合わせ、その通りの進路を歩いてきました。

そして大学に入って、与えられた課題をこなし、競争率の高い人気の研究室やゼミに参加し、そこでオリジナリティを求められて初めて、
「自分の関心って何だろう」、「そもそも何のために大学に来たのだろう」というという問いに直面しているのです。

けれど、その問いに模範解答はありません。

よくできてしまった人の一人はこう言いました、
「良い成績をとることはゲームのようなものだった。でも最近、このゲームのゴールは無責任だし、たとえクリアしても虚無感が残ることに気付いてしまった」と。


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私は彼らを憐れんでいるのではありません。
ただ、隣にいる彼らの苦しさを思うと、胸が痛いのです。

「今までよくできてしまったからこその不幸だ」、と。

なぜ彼らは、もう少し早く、自分を取り巻く枠組みに疑問を持つ機会に出会わなかったのでしょうか。
なぜこうなる前に、挫折を経験できなかったのでしょうか。

ある程度高水準の、求められたものに応えられてきた彼らへのご褒美がこんな仕打ちなんて、虚しいです。

運命の恋ってあるんですか。

私は、ずっと過去の恋にとらわれていました。

その彼とは両想いで、でも、付き合うことはありませんでした。

数年前の話です。

私は後悔していました。

なぜあのとき彼を傷つけてしまったのだろう、なぜ頼ろうとしなかったのだろう、なぜ信じようとしなかったのだろう。

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それから2人ぐらい、人を好きになりました。

けれど、私は、過去に彼にしたように、目の前の人を傷つけてしまうかもしれない、そう思うと前に進めませんでした。

どこかで彼を思い出して、彼と比べていたこともありました。

彼を、運命の人だと思っていたんです。思っていたかったんです。

きっと、運命っていう響きが、甘くて切なくて気持ちいいから。

思い出は、楽しいことも、辛いことも、美しくします。

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今、付き合って約一年の恋人がいます。

初めての恋人です。

その人と一緒にいて、気づくことはたくさんありますが、つくづく思うことがあります。

「過去があるから今がある」

自分で言ってみて赤面します、カッコつけたような言葉。(笑)
あのとき私が好きだったのは、あのときの、あの彼。

私は当時の自分とは同じではないし、彼もきっとそうです。

今、彼と再会しても、お互いに、当時と同じような気持ちにはならないでしょう。

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恋人との未来がどうなるかはわかりません。

だから不安になって聞きたくなります。

私のこと、ずっと好きでいてくれる?
私たちいつまで付き合っているのかな。
私たち結婚できるかな。

あなたは私の運命の人?

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過去の私は、恋愛なんて苦しいだけだからしなきゃいいと思っていました。

けれど、きっと違うのでしょう。

目の前の人と全力で向き合うこと、それ自体がきっと大切なんですね。

辛い結果が待っているかもしれないと思うと胸が痛むけれど、それでも良いから逃げちゃだめだ、そう思えるようになったのは大きな成長です。


彼のことを思い出すことが少なくなってきました。

ちょっとさびしいけれど、嬉しい。

私は、目の前の恋人を、運命の人を、大切にしたいです。

西加奈子さんの本が好きです

先日、本を二冊買いました。

 

西加奈子さんの『うつくしい人』と『ごはんぐるり』です。

 

彼女のエッセイは大阪弁でくだけていて陽気で、読むと明るい気分になりますが、小説は必ずしもそうではなくて、悲しさや切なさがぐっとこみあげてくるのです。

 

西加奈子さん、と言うと最初に思い浮かぶのは「優しさ」です。

誰も傷つけない、あざ笑ったり、非難したりしない。

 

私は勧善懲悪ものが苦手で、それは、悪者と呼ばれる人にも必ず何かそうなった経緯があると思うからなのですが、彼女の小説にもエッセイにも、そういうものがないと感じます。

 

『白いしるし』の最後の方に、こんな表現があります(読んでいない方ごめんなさい)。

 

 

「瀬田の想いが、塚本美登里の想いが、間島昭史の、私の想いが、どうか救われますように。その先に、光がありますように。願った。願った。」

www.amazon.co.jp

 

 

誰も、悪くない。みんなが、それぞれに、素敵な道を歩めますように、と。

彼女の書く文章は、優しいなって思います。

 

これだけ書いておきながら、直木賞の『サラバ!』はまだ読んでいないんですよね・・・(苦笑)

購入したばかりの2冊を読み終えたら、本屋さんに向かおうと思います。

 

私の話は、

抽象的だ、わかりにくいと言われます。

何を考えているかわからない、と言われたこともあります。

私は、自分の考えていることを伝えるのが苦手です。

自分の正直な気持ちを表現して、批判されたり笑われたり、・・・嫌われたりするのがこわいからだと思います。

もっとも、自分が何を考えているのかわからなくて、感情を自分の中にとどめることも多いのですが。

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中学生のころ、文章を書くのが好きでした。

日記というよりは、長期休暇中に出される宿題でどんなものを書こうか考えるのが楽しかったので、どんな本を読んでどう思ったか、どんなニュースを聞いてどう考えたか、をノートに書きためて、課題がでたときに、その中から選んでいました。

私の書いた作文や読書感想文は、毎回何かの賞に選ばれました。

ここでは、自分の言いたいことが言えるし、それを評価してもらえる。

そう思うと嬉しくて、張り切って書いていました。


当時の政治を批判した作文を書いたことがあります。

政治に興味があったので、とても時間をかけて納得いくものを書きました。

力作だと思った。

しばらく経って、国語の授業中、その作文の話になりました。

先生は、賞に選ばれたものはなかった、参加賞を渡すので名前を呼ばれたら前に来なさい、と言いました。

えぇ~、私、絶対選ばれると思ったのになあ、と思ったことを今でも覚えています。(笑)

参加賞はボールペンでした。

クラスメートが順番に名前を呼ばれ、ボールペンはどんどん少なくなります。

私の前の子の名前が呼ばれた後、私の後ろの子の名前が呼ばれました。

ん?先生、私の名前呼び忘れたのかな?

しかし、教卓から全てのボールペンがなくなっても、私の手元にボールペンはありませんでした。

誰かが、私の名前が呼ばれていないことに気付きました。

教室が少しざわつきましたが、先生は私を一瞥した後、教科書を開いて、授業を始めました。


いけないことを書いたのだ、と、ものすごく後悔しました。

家に帰って、お母さんに「そういえば、この前良い作文書けたって言ってたけど、あれ、どうなった?」と聞かれました。

私は笑ってごまかすことしかできませんでした。

自分の部屋に入って、号泣しました。


次の年の同じ題材の作文は、とても慎重になって書きました。

嫌われないようなことを書かなければいけない、そう思うとしんどくて、全然楽しくなかった。

私が書いたその作文は、今までで一番大きな賞に選ばれました。

国語の先生は、私をとても褒めてくれました。

私は家に帰り自分の部屋のドアを閉めると、前の年と同じように、泣きました。

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高校生になって、私は全く文章を書かなくなりました。

母は、何かの作文コンクールの広告を見つけては私に教えてくれましたが、一度も書きませんでしたし、書けませんでした。

私は、自分を表現する場所を失ったと感じました。

自分が何を思っているのかわからなくて、苦しくて、でも普段から自分の話をあまり人にしないので、話すうちに気が楽になったというようなことを経験することもなく。

数行だけ書いた日記は3冊ほどあるのですが、今は本棚に隠しています。

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大学生になっても、根本的には何も変わりませんでした。

自分が何を考えているかわからないし、周りの人に、私が何を考えているかわからないと言われます。

自分のこと、わかりたい。


文章を書くのは久しぶりです。

しっくりくる言葉も表現も全然出てきません。(笑)

でも、拙い文章を、少しずつ、できるところから、書いてみようと決めました。

それが、ブログを始めたきっかけです。