ADHDと診断されるまで(3)
ADHDの診断
発達障害と言う言葉知ったのは僕が仕事で行き詰まり、医療による対処方を探している時でした。
それまで、僕は自分が若年性の健忘症になったのではないかと疑っていました。
健忘症に関する症例を調べていた時に偶然、発達障害という症例が存在することを知りました。そして、発達障害で取り上げられる症状が驚くほど現在の自分の状態に酷似していることを発見しました。
僕は発達障害についてさらに知りたいと思い、発達障害を抱える方々のブログを読むようになりました。そこで綴られている悩みや、思いの丈はまるで自分の気持を代弁しているかのようで、とても他人事とは思えませんでした。
僕は発達障害の治療を行っている神経科を受診し、医師に自分の症状を事細かに説明しました。
医師による診察を受けようと決心してからおよそ一ヶ月、僕は今までに仕事で起こした失敗やトラブル、幼少期の頃の事など自分に関する情報を出来る限り集めてから受診に望みました。
そして、これまでの症状とテストの結果から僕は不注意優勢型の発達障害であることが認めれました。この様な診断結果が出たことはある程度覚悟していましたが、これまで何一つ健康に問題が無かった僕が、障害を持った人間であると言う事実はショックでした。
それと同時に、小さい頃から抱いていた生き辛さの原因が分かったことで安堵感もありました。これから発達障害の治療に専念すれば、僕の人生も少しづつ好転していくのではないかと思ったからです。発達障害の投薬療法として、僕はストラテラを処方されました。
投薬治療、それでも残り続ける不安
初めてストラテラを飲んだときの事は今でも強く記憶に残っています。
あれほど僕の頭をかき乱していた身の周りのノイズに対する不快感が無くなったからです。
周囲から発せられる音自体は以前と変わらないものの、僕の頭はそれが単なる”音”なのか話し言葉やアラームなどの意味のある”音”なのかを自動的に判断できるようになったのです。
僕は今まで生きていてこれ程までの静寂を経験したことは殆どありませんでした。
ただ何もしないで、座っているだけで心が落ち着きとても心地よいのです。
普通の人たちはこんな静寂の世界の中に生きているのかと思うと、僕は今までの人生を少し損したような気分になりました。でもこれから僕の人生はきっと良くなっていくんだと希望が沸いてきました。
ストラテラの効果は絶大でしたが、投薬を続けると徐々に効果が薄れていきました。医師に相談したところ、一日の投薬量を増加することになりました。
投薬量を増やした結果、深刻ではないものの僕は吐き気やだるさなどの副作用を感じるようになりました。さらに1日でも薬を飲み忘れる日があると、また何か大きな失敗をしてしまうのでは無いかと不安で仕事に集中できなくなることがありました。
僕の心は常に不安の中にいて、それはある意味で発達障害の症状よりも僕を蝕んでいた病理だったのかもしれません。
僕の生活にはストラテラが欠かせないものになっていました。
以前は仕事が休みの日は、外に出かけスポーツや読書、美術館に行くなどアクティブに活動していましたが、ストラテラを飲むと何もしないで家の中でボーっとしているだけで心が落ち着きました。
だけど僕の心の中は徐々に空虚感で満たされていきました。
僕は夕焼けを見るのが大好きでした。たまに仕事が定時に終わると、電車の窓から落ちていく夕日を眺め胸がいっぱいになる感覚がとても好きでした。
それから外に出かけることも好きでした。遠くへ足を運ばなくても、街の風景や道行く人達を見ていると将来はあんなことをしてみたいとか、こんな人間になってみたいとかわくわくする様な考えが頭の中を駆け巡って行きました。
だけど、ストラテラを飲んで部屋で一人佇んでいる僕の心の中は氷の洞窟のように、静寂以外は何もありませんでした。
僕は、自分の障害をどうにかして変えたいと強く願う一方で、もの覚えが悪くて、なにも出来ない役立たずだけど、自分の全てを嫌いになることは出来ないんだと悟りました。
薬を飲まなくても僕の人生には喜びがありました。
ダメな自分を好きでいてくれて、励ましてくれる人がたくさんいました。
こうして僕はストラテラの投薬を中止し、発達障害の事を会社に打ち明けようと決意しました。自分の症例を会社の人に理解してもらうことで、少しでも働き方を変えて行ければと思ったからです。
カミングアウト
僕の上司は”鬱病は存在しない作られた病で、自己欺瞞にすぎない”と考える人だったので、発達障害のことをカミングアウトするのは勇気が要りました。
恐る恐る発達障害であることを告げると上司は「父がアルツハイマーと診断された時、君と同じようにホッしたと言っていた」と理解を示す反応を見せてくれました。
この告白の後、発達障害のことは周囲の人には内緒にして、直属の上司と部門長など一部の人にだけに知らせることとなり、今後の仕事の進め方について社内で協議すると言う話になりました。
当時、僕が仕事をしていた部署は多忙でスケジュールを間に合わすため、みんな毎日のように遅くまで残業していました。一方、僕は発達障害を打ち明けた結果、仕事を定時に終わらせ療養に励むよう指示を受けました。
しかし、投薬の中止は聞き入れて貰えませんでした。
仕事を干されていたとは言え、僕にも多少の仕事が割り振られていました。
当然ですがストラテラを飲んでも、急に仕事が出来るわけではありません。
ただでさえ仕事が遅い僕は、定時に仕事を終わらせることができず仕事を先延ばしして、周囲の人の足をひっぱるようになりました。
この頃から上司は、
「この仕事量でも定時に終わらせられないのか」
「なにも仕事をしていないよね」
などと、増々僕を叱責するようになりました。
以前は参加していたチームのミーティングも僕だけ参加しなくて良いと言われ、情報共有が出来なくなってさらに仕事が遅れてしまいました。
恐らく上司は僕を定時で帰らせるよう上に言われながら、仕事は円滑に進めなければならないと言う重圧を課せられていたのかもしれません。
今にして思うとこの繁忙期に余計な問題を持ち込み、職場環境を乱した僕のカミングアウトは適切では無かったと思います。
結局僕は、薬を飲んでも飲まなくても、仕事を頑張っても、セーブされても、この状況を改善することはできませんでした。
ADHDと診断されるまで(2)
診断のきっかけ
就職
前兆
入社当初、会社はあまり居心地の良い場所では無かったけれど、僕は希望に燃えていました。小さい頃から思い描いたいた仕事に就くことができた自分に自信があったし、早く一人前になりたいと思っていました。
毎朝、就業開始の1時間前にはデスクに向かい、勉強や仕事に取り組みました。 健康管理のためワークアウトも欠かさず、僕の人生は順風満帆に進んでいくように見えました。
研修が終わり徐々に仕事を任されるようになると、僕は仕事で度々ミスをするようになりました。大半は書類の誤字や、出張費の計算ミスなど誰でも少し注意をすれば防ぐことができるようなものばかりでした。
僕はミスを防ぐために色々な方法を試すものの、その方法が新しいミスを誘発してしまい、僕は自分で自分の仕事をどんどん複雑にしていました。
僕の職場は色々な部署の人たちが目まぐるしく動き回りっていました。クレーム対応に追われ大きな声で電話をする人、独り言を言いながら悶々と仕事をこなす人、ブザー音を鳴らして測定器を操作する人。
僕はいつもノイズの中にいました。仕事に集中しようとする僕の意識はしばしばノイズにかき乱され、その度に僕は自分が何をしようとしていたのか分からなくなりました。家でひとりになるまで僕の心が落ち着くことはありませんでした。
「いったい何度同じミスを繰り返すんだ」
「またお前か」
初めは新人として大目に見ていた僕の上司も、とうとう痺れを切らし声を荒げて僕を注意するようになりました。 そして、周囲の人達も僕を厄介な新人という目で見るようになりました。
僕は今までどんなに辛いことがあってもそれを乗り越えてきました。 きっと改善できると、この時はまだどこか楽観的にこの状況を見ていました。
トラブル
厄介な新人も気がづくと2年目社員になっていました。 少しづつ仕事をこなすようになってきたものの、仕事のミスは相変わらず続いていました。新しい仕事が増えると僕の混乱はより大きくなりました。
朝から晩まで続くノイズの渦の中で僕は一人群れから外れた魚のように彷徨っていました。群れをなして悠々と泳いでいくみんなの後ろ姿を、僕は一人眺めているような気分でした。 ”どうしてみんなと同じことができないんだろう” 会社に入って、大人になっても僕はまた、あのお馴染みの感覚を覚えるようになっていました。
僕の上司は仕事に厳格な人でした。書類の一字、一句まで完璧さを求めました。 ”多分”とか”とりあえず”といった曖昧な返答は許されませんでした。 僕は確信を持って上司と話をすることが出来ませんでした。自分の論理に欠陥があるのでは無いかと不安で、上司と話をする時は頭のなかで何回も話す内容を整理しました。
話の矛盾や問題点を指摘されると僕は頭が真っ白になりました。何故そのように判断したのか自分自身の考えさえも分からなくなっていました。
この頃から僕は上司と話をするのが苦痛になっていました。 コミュニケーションを極力避け、ギリギリまで話をしないようにしていたので、納期も遅れるようになりました。
僕はスケージュールを立てるのが苦手でした。自分の能力の未熟さもあって見通しが甘い計画を立て、最後に残業してリカバリーするケースがほとんどでした。何より新しく入る情報や周囲の刺激に影響されて、しばしば自分が今やらなくてはいけないことが見えなくなっていました。
計画の遅れとミスの連発が続き、僕は毎日のように上司に叱責され人間関係はどんどん悪化していきました。
何をやっても上手くいかない
就職してから数年が経ち、僕は単純ミスだけでなく物忘れもひどくなっていました。 物忘れは繁忙期になるとさらに悪化して、ひどい時にはエレベータに入り、ボタンを押すことすら忘れてしまうほどでした。
”この状況を早く改善しなければならない”と僕は焦っていました。
氷河期に就職した僕は、自分の仕事や居場所を失う事を何よりも恐れていました。このまま失敗が続いたらいつかリストラされるのではないかと、自分の将来が不安でいっぱいでした。
漢方やサプリなど物忘れに効きそうなものは何でも買いました。 最悪の状況から抜け出したい一心で、ライフハックや瞑想、右脳開発などにも手を出しました。業務効率化の本もたくさん読みました。
そんな努力もむなしく、叱責と怒号は続き、上司は僕を軽蔑するようになりました。 僕はこの時、自分の意思で何かを考えると言うことが出来なくなっていました。相手の意向を汲んで先回りして準備をしたり、言われたこと以上の何かをイメージすることが困難でした。そんな僕を上司は怠惰な人間だと思うようになり、徐々に仕事を干されるようになっていきました。
一度貼られたレッテルを覆すのは難しく、僕の行動は1ミリでも上司の意向に外れると厳しく指摘されました。されに追い打ちをかけるように、気がつくと僕を叱責する人たちがどんどん増えていきました。僕の話す事は何から何まで正確さを求められ、欠陥を指摘される度、僕の頭はどんどん混乱していきました。僕は人の話すことが理解できなくなっていました。 単語一つ一つの意味は理解できても、頭のなかで文章として構成する事ができませんでした。そして、僕の話す言葉も支離滅裂になっていきました。
僕は上司を憎んではいません。だけど、始めは温厚だった上司をここまで豹変させてしまった自分を呪いました。僕は仕事で認められるためだったら死んでもいいと思うようになりました。会社帰りはいつも神社に立ち寄り、ひたすら拝んでいました。
僕は完全にクレイジーな状態になっていました。 修行僧のようになれば長いお経を覚えられる記憶力が身につくのでは無いかと、3週間ほとんど固形物を摂らない生活をすることもありました。 もやは冷静に物事を見たり、考えたりすることは出来なくなっていました。
「ちょっとおかしいんじゃないのか」
ある日、仕事でミスをした僕に上司が笑いながら言いました。 この一言で今まで張り詰めていた僕の気持ちはぷっつりと切れてしまいました。 どんな困難も乗り越えられると信じて生きてきた僕が、人生で初めてもう無理だと思うようになってしまいました。
もう僕は普通の人間では無いんだと納得し、病院に行く事を決意しました。
ADHDと診断されるまで(1)
自己紹介も兼ねて、まずは僕がADHDと診断されるまでの経緯を書きます。
幼少期から社会人になるまで
周囲との関係
どこに行っても変わり者だった
「LB君って変わってるよね」
初めて会う人は、僕の第一印象をだいたいそんな風に語ります。
決まって僕は
「良く言われます。でも、自分では普通だと思ってます」
と返します。
変わっていると言われる事に僕は、嬉しさも憤りも感じません。 今までたくさんの人に会い、常にそう言われました。 幼稚園から、小中高大と集団生活の規模が大きくなる度、僕を変わり者と呼ぶ人も多くなっていきました。
社会人になるとその傾向はますます強くなりました。 服装や言動、物の考え方、全てが周りの人たちと調和せず、 配属された部署の中で僕は注目の的でした。(もちろん悪い意味で) それと同時に、僕は会社で働いている人たちをとても不思議な存在だと感じていました。
僕は小さい頃から”大人”が苦手でした。 何故なら何を考えているか理解できなかったからです。だけど、大人が考えている事は正しい事だから、それに従わなくてはいけないんだと強く信じていました。
会社はそんな”大人”がたくさんいる場所でした。 ”大人”になったと思っていた僕は僕のままでした。
”嫌な奴”と”面白い奴”
会社に入って嫌なことばかりあったわけではありません。
むしろ良いことの方が多かったように今は思います。
一番心に残っているのは、僕のこと支えてくれる人にたくさん出会えた事です。
僕は会社にとって必要とされる人間ではありませんでした。 それでも僕は何かの役に立ちたいと歯を食いしばってもがいていました。
今にして思えばやらなくて良い無駄な努力を沢山したり、愚痴をこぼすことも多々ありました。 そんな僕を傍から見て、不憫に思ったのか自分の仕事を犠牲にしてまで僕の仕事を手伝ってくれた人、僕の悩みを真剣に聞いてくれた人、遊びに誘ってくれた人、たくさんの人たちが僕を支えてくれました。
”アイツは変わっているけど面白い”
そんな風に思って、親しくしてくれる人がたくさんいました。 僕は人に親切にされた経験があまり無かったので、辛かった時、助けてくれた人たちの事を思い出すと今でも切ない気持ちになります。
一方で僕を憎む人もたくさんいました。 僕は決められた価値観に縛られる事が大嫌いでした。 だけど、会社は決められた価値観で作り上げられた世界です。 集団で活動する以上、一定の価値観の基で行動することは必要不可欠です。 頭では理解していても、僕の心はいつもモヤモヤしていました。 そんな僕は”我が社の社員ならばかくあるべし”と、一定のスタイルを強制する人や、自分のやり方にこだわる人を好きになれませんでした。
自分の事をどう思っていたか
なぜみんなと同じにできないんだろう
そんな周囲の評価に対して僕が常に感じていたことは”なんでみんなと同じように考えたり、感じたりすることができないんだろう”と言う事でした。
今でも強く印象に残っているのは小学生の時、ホームルームでの出来事です。ホームルームでは担任の先生がジョークを言って生徒たちを笑わせるのが常でした。だけど僕はそれを一度も面白いと感じた事がありませんでした。 なぜこんな話でみんな笑えるのか、まったく理解できませんでした。
「LB君はいつも笑わないよね」と担任の先生に言われた事もありました。
僕は決して笑わない子供だったわけではありません。 むしろ、笑いは僕の生活にとって大切なものでした。 ダウンタウンやフォークダンスde成子坂は僕にとってアイドルでした。 彼らの作る笑いの世界に僕は魅了され、憧れていました。
そんな目眩く笑いの世界と現実の壁はあまりにも大きかったのです。 僕にとって先生の言うジョークは、あまりにも程度が低かったのです。僕はみんながやるような愛想笑いができませんでした。ホームルームの時間は疎外感に苛まれ、常に苦痛でした。
この経験が尾を引いているのか、僕は未だに愛想笑いが苦手です。
孤独でいることが好きだった
僕は手の焼ける厄介な子供ではありませんでした。
どちらかと言うと従順で、ぎこちないながらも周りとは仲良くやっていました。
だけど、本当は一人でいるのが好きでした。それは今も変わりません。
一人でいる時、僕は決して苦痛ではありません。 本を読めば頭の中で本の世界に旅立つ事ができるし、音楽を聞けば心が豊かな気持ちになります。 ペンと紙を取り出して、新しい何か生み出だそうと試行錯誤することもあります。
クラブやバーでアルコールを煽っても、誰かと遊んでいてもふとした瞬間に僕は孤独を感じます。 それは僕にとって心地よい孤独です。