楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

内海健『自閉症スペクトラムの精神病理』

内海健自閉症スペクトラムの精神病理 星をつぐ人たちのために』、東京:医学書院、2015年(2022年4刷)。294pp.

この本は読んでよかったなあ。

自分がASD(グレーゾーン)であるというアイデンティティをここ1年ぐらいで持つに至って、至ってたんだけど、じゃあ具体的にどうASDらしいのかというと心許ないところがあった。視線を合わせるのが苦手とか、大きい音や強い光が苦手とか、……そのぐらいの特徴を挙げることはできるけど、でも1個や2個の条件に当てはまるだけがASDなわけもなく。

発達障害」の名を冠した一般書はいくつか読んだことがあるけど、説明は上記に挙げたみたいな通り一遍の距離感で終わっていることが多かったから、読みながらあーこれは自分にもあてはまるかしらと思いながらも、それって血液型占いについて「これは自分に当てはまる」と思っているのと何が違うんだろうという釈然としなさがいつもつきまとっていた。

それと対比すれば、本書の強みは詳しさにある、とまずもって言いたくなる。本書の記述を読んで初めて、自分はASDっぽいところがあるなと確信を伴って納得できたし、同時に、当てはまらないところもくっきり見えた。自分がどの程度ASDらしいのかが見えるようになった。その詳しさを支えているのが、著者の言語表現の巧みさだろう。語彙が豊富だし、それでいて虚飾にならずに実感をともなった表現をその都度的確に選び取っている。抽象的なことをここまで豊かに語れる人はあまりいないのではないか、分野は違うけど書きながら『相対主義の極北』という本をちょっと思い出した。

理論的には(すみずみまでは読めてないのを前提で言うけど)物足りないところもあるんじゃないかと思う。<∅>という概念を立てて、これを起点としてASDの諸相に対して体系的な説明を試みる、というのが本書の学術的な貢献だと思うけど、この説明についてはうまくいっていないところもあるのではないか、と思った。<∅>がちょっと便利装置すぎるような気がする。でも、本書の記述の豊かさはそれを補って余りある価値を備えている。

本書の詳しさは、ASDについて通説的に言われている内容を細密に描き出すだけでなく、通俗的なイメージとは異なるASD像に言及するところまで及ぶ。たとえば、最終章では「ASD者の多くが、人に関心をもっている」(p.277)と断言されている。それにびっくりしつつも違和感を覚えないのは、本書の記述が全体として真摯であるおかげだろう。「この人が言うのだから理由のあることなのだろう」と思える。

専門書でもあるし、著者によれば「本書は、精神病理学としては、かなりやさしい部類に入る」(p.287)とされているものの歯応えのある内容だと思う。精神医学という分野がたぶんそうなんだけど、哲学や思想の界隈で小耳に挟むような話が下敷きにされている部分もかなりある。でも基本的に著者は自分の言葉に消化した上で語っているので、読み心地はかなりスムーズだった。

あと言及しそびれたけど当事者による著作や実際の臨床例がふんだんに紹介されていて、これだけでも読む価値があった。

へぎそばに変身

ここ1~2ヶ月ぐらい、仕事で頻繁に出張があって、飛行機やら新幹線やらに乗る機会が多かった。わかったんだけど長距離移動は長距離移動だというだけで体力をごっそりもっていくものなんだね。わたしの身体という物理的存在が座標Aから座標Bに移動するというだけでは済まない。それがようやく身にしみてわかった。というか乗り物に乗っている時間が長いとはいえ7kg(空港の荷物預けるコーナーの前で測った)ぐらいの荷物を連れて移動するのは普通に肉体労働だし、乗り物に乗る時間もただの時間ではなくけっこうな轟音が響くもので、わたし聴覚過敏気味なのでそれだけでもダメージを受けているんだよね。新幹線でノートPC広げて仕事してる人とかよく見るけどああいうことしたら10分も経たずに乗り物酔いでギブアップすると思います。

……自分は雑談が苦手だと思っているし実際に上手に「雑談」できた経験がおそらく一度もないんだけど、話したいことがないわけでは別にないんだな。でも人に向かって話そうとすると言葉が出てこないんだよな。「こんなくだらない話」、と思っているのが一因ではある。

「疲れた」話を今日はしようとしていて、出張での移動も疲れたんだけど出張先で自由にトイレに行けない環境で作業させられることがけっこうあり、これもストレスのもとになっていたに違いない。違いありません。これについてそれ以上語るべきことはあまりない。でも今まで会社勤めしてきた中で最も過酷な作業環境だったな。一番厳しいところではトイレ行けない・水分補給できない・椅子がない・地下鉄ホーム相当の轟音が吹き荒れている、で、書き出してみたら何かの法令に抵触するのでは?という気がしてくるぐらいだ。

さいわい大きく体調を崩さずには済んでいるんだけど、小さな体調崩しは経験していて、きのうは朝からキツめの頭痛に見舞われていてその体を引きずって電車・飛行機・バスを使って帰宅するというわりと蛮行をしていた。何ヶ月か前に経験した〈お前はもう動くな〉と脳が警告している系の頭痛で(この表現で他人に何かが伝わると期待しないけれども、私にはわかる)、眠気とセットになっている。とにかく隙あらば身体が眠ろうとするので、空港のベンチで居眠りして、飛行機に搭乗したら眠気に耐えられず1.5時間のフライトで30回ぐらい寝落ちと復帰を繰り返し、長距離バスに乗り換えればまた5~10分周期ぐらいで寝たり起きたりし、帰宅したら手だけ洗って押し入れの毛布を引っ張り出して座布団の上で寝た。指先が冷えていたので体を温める必要を感じてた。移動の間、具合悪いのでTwitter見たりもできなかったし、ものを食べるのも少しずつでないと入っていかなかった。ほんとは現地にもう一泊して静養しているべき体調だったんだけど、イレギュラーな事態に対処する力がなく無理して帰宅する選択をした。

こうしてネットでひとり言を言う以外のとき、自分はもうだめだ、つらい、みたいなことを他人に対して言うことができなくて、大丈夫だと言ってしまう。最近これもようやく自覚した。さらに、自分の弱さを表出することは自分の中で禁止されているが、怒りを表出することは許可されている、そのことにも気がついた。有害な男らしさ、みたいなのを内面化しているようにも見える。それがネットとリアル(という言い方が今どれほどの意味をもっているのか怪しいが、便宜上使う)とで違うのは、だからやっぱりソーシャルな要素が左右しているんだろうな。

モモンガ風のモディリアーニ

仕事の出張で、ある県へ来た。知らない土地のバスに揺られながら、なぜか高校生の頃の〈あの感じ〉がよみがえっていた。脈絡はない。私は曇り空の下、自転車をこいでいる。高校入学を機に父親に買ってもらった自転車だ。定期的に雑巾などで拭いてメンテナンスするんだぞと言われて、面倒臭そうな顔をしたら何か失望したというようなことを言われた気がする。具体的には覚えていないが、それなりにショッキングな出来事、それなりに不愉快な出来事であったという感触のみが手元に残っている。高校の頃のことを思い出すときはいつも曇り空である気がする。そして自転車。通学路の、あの水路沿いの長い直線の道。それを走るときの、次々と未来をつかみ取るようなはやる気持ち、何もなくて何もない日の繰り返しだったあの頃の、ときめきに似た、いやときめきそのものだったかもしれない、生きることそのものを覆う全体のトーン。それとなんの関係もない、当時行ったこともない土地で、バスに揺られながらそれを追体験した。なんでだろう。内臓の状態や、血の巡りが偶然うまく一致すると同じ気分が再現されるのだろうか。「気分」ではない、生きることの感触そのものだが。それにしても不思議なのは、日付としていつ経験したのかも定かではない「感じ」を、思い出したとき、追体験したときに、確かにあのときの感じだという確信を伴って肯定できるということだ。そのときの「感じ」と今の「感じ」を比較できるわけでもないのに。何と何を比べて同じだと言っているのだろう。きっと比較などしていない。ただ端的に、あのときの感じが再生されるのだ。ただ頭の中で再構成されただけのものだとしても。

胃薬はいじらしい

西武球場は世界の玄関 - 楡男の日にした検査の結果を聞きに病院に行かなきゃいけなくて、この日記を書いた1週間後に行こうとしたんだけど、シャワー浴びて外出の準備したところでネット受付しようと思ったら人数がいっぱいで受付終了になってしまっていたので、もう1週間潜伏して行ってきました。ネット受付したとき7人待ちだったので早歩きで行けば間に合うわと思って荷物整理して着替えて出てきたら次の瞬間には2人待ちになってて、は⁉️ となりながら早歩きして行った。予定に間に合うように朝起きること、家を出るべき時刻をはっきり認識すること、それに向けて余計な動き(たとえばアマゾンで気になる本を調べるとか)を控えることが、どれもできない。

病院に来たら即呼ばれて、医者の説明を聞いて(ガンの4段階前みたいなことを言われてそこだけ目が覚めた)、採尿して、そのあとまたすぐ呼ばれて会計して放り出された。放り出されたのは私の主観であって、そのあとの予定を何も決めていない状態で病院の外に出たというだけだ。

無理をしないとできない早歩きを行きでしたために足は動かなくなっていて、杖をついて歩く老人のように歩幅は小さくなった。すごくイライラしやすくなっている。そんな自分が嫌になるぐらい、脆弱になっている。顔にお面が張り付いているみたいに感情がない。今振り返ると表情筋が動かなくなったのだろう。iPhoneで音楽をかけた。街路樹の植え込みやコンクリートの隙間から生えている雑草を見ながら歩いた。誰もいない公園について、ベンチにかけてアルバムの何曲かを聞いた。ふー。

疲れてるんだな、とここでようやく気づく。残業量はまだ週に10時間未満だと思うんだけど、年度末に向けて綱渡りのような進行を余儀なくされているしプレッシャーはかかっていた。勤務後に散歩できる日も今週はなかったかもしれない。時間がまったくないわけではないはずなのに。週のはじまりに今まで経験したことのない頭痛(刺されるみたいな痛み)で脳神経外科にかかるというイベントがあったし、あとは雨が降ったりしていろいろ思うようにならなかったんだろうな。それ以前からうっすら続いている仕事のプレッシャーもあったし。

風景を見るともなくぼんやりと眺めたり、小さいものに近寄ってじっくりと見たりすること。そういう時間を定期的にもたないといけない。

いとも簡単にイ・ビョンホン

なんとなくTwitterに書く感じでもないのでここに書いとく。きのうはMSDマニュアル(オンラインの医学事典)でパーソナリティ障害の項目をざっと見していました。ちかごろ自分の心の問題への反省が進んでいて、ここ1年ぐらい自分は発達障害(グレーゾーン)をアイデンティティの一部としてきたけど、落ち着いて見てみるとそれだけでもない気がしたというか、それ以外にも目を向けてもいいのではないかと思ったから。精神疾患は、それぞれの部屋がパッキリ分かれていると言うよりも、互いに重なり合う要素が多い気がしている。

パーソナリティ障害の概要 - 10. 心の健康問題 - MSDマニュアル家庭版

MSDマニュアルによればパーソナリティ障害には10の下位区分が設けられており、ざっと見た感じそのうち8つは大なり小なり思い当たるふしのあるかんじだった。もちろん自己診断はしてはいけないことだが、この方向を掘り下げる意義はありそう、と思うにはこの結果は十分な理由を与えている。←この文は助詞「は」がやたらと多い。

西武球場は世界の玄関

休日は平日より忙しい。私は私の人生にしてやらねばならないことがたくさんある。生き急いでいるなと、ちょっと思うけど、でも今まで何もしてやらなすぎた、その反動だと考えると自分的には納得できる気がする。ただ休息はとらねばならない。

土曜日。午前中に病院に行った。健康診断で引っかかって(この短いフレーズで或るひとまとまりのことが通じるのはすごいことだと思う)、精密検査が必要だと言うから来たのだ。1時間半くらい待たされて診察室に通された。服を脱がされて体を触られ、ひとことふたこと話をされた。そのあと別の検査室に通され、また服を脱がされて写真を撮られ、尿を採取されて、また別の検査の日程を決めさせられた。検査当日は朝食を食べないように、お茶はいいが味のついたジュースなどは飲まないこと、検査1時間前から尿を溜めておくこと、など注意事項を説明された。自分が無表情なので話を聞いていないか理解していないかに思われたのか、3回ぐらい同じ説明をされた気がする。こういうとき「わかってますよ」と言ったら角が立ちそうだし、なんと言ったらいいんだろう。説明を自分で繰り返せばいいのか。そのあとまた医師から呼ばれて検査の結果を聞かされ、楡(仮名)は太っているから検査の結果が云々みたいな言い方をされてはっとした。失礼だなあと頭で思いつつ、そのことではなく、自分ではいまだに痩せているつもりでいたのだ。子供の頃から痩せ型だったし、筋肉がなくて腕も細いのでまだ「痩せ」だとなんとなく思い続けていた、腹が出てしまったがそれ以外は痩せていると……思っていたけど体重のこと考えたらもう「痩せている」というのは「言い張っている」という表現がふさわしいか。5年か10年遅れぐらいで自己イメージが切り替わった瞬間だった。