<ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはおられない。」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を付き通した。(Ⅱサム18:14)>。
実子アブシャロムに命と王権を狙われ逃亡中の父ダビデであったが、自らも軍隊を結成し(Ⅱサム18:1、2節)、これに対抗した。
出陣は、部下の説得により自らは控えたが(3、4節)、<「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(5節)>と言い、命まで取るなと言付けした。
戦いはエフライムの森で行われたが、アブシャロム軍は密林の戦いに不慣れだったようで、父ダビデ軍が勝利を収めた(6~8節)。
その際、アブシャロムは、不幸にも、その自慢の長髪が樫の木に引っ掛かり、そうして宙づりになったところを、ダビデの部下ヨアブによって、槍で刺し通され命を落とした。
ヨアブはダビデの命に背いた。
それが、冒頭の聖句である。
ここにわずかではあるが、イエスキリストの十字架が見える。
木に架かったこと、<槍>で刺し通されたことである(ヨハ19:34)。
ダビデは愛の人であった。
自分の命を狙われても息子アブシャロムを愛し、命まで取るなと部下に命じた。
確かに、アブシャロムは殺されても仕方がなかったのかもしれないが、父ダビデは、息子を思う愛から、<ゆるやかに扱ってくれ。>と命じたのだった。
しかし、ダビデの部下ヨアブはこれに背き、槍で刺し通した。
一方、ダビデに優る天の父は、最愛の一人息子であったイエスキリストを、本当はゆるやかに扱ってほしかっただろうが、全人類のために、その命まで与えられた。
父ダビデは、不完全な息子アブシャロムを惜しみ、命まで取るなと伝えたが木に架かって死に、天の父は、完全な一人息子イエスをダビデに優って惜しんでもおかしくなかったが、全人類をも愛されたゆえ、その救いのために、このひとり子を木に架けられた。
ダビデもこの神の愛に追従する。
アブシャロムが命を落としたことを伝え聞いた父ダビデは(32節)、<わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ。(Ⅱサム19:4)>と、泣き叫んでいたが、部下ヨアブに、<もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう。(19:6)>と言われ、我に返った。
すなわち、アブシャロム軍が勝ってアブシャロムが生き残り、ダビデ軍が負けてヨアブ以下の兵卒たちが死んでいればよかったのですね、とヨアブは問うたのである。
ダビデは、このヨアブの言葉で目が覚め、自分がアブシャロムの父ダビデであると同時に、民の王ダビデでもあると再認識し、<それで、王は立って、門のところにすわった。(19:8)>。
自分は、父ダビデとして息子アブシャロムを愛していると同時に、王ダビデとして民をも愛さなければならないと再認識し、立ち上がったのである。
天の父も、父としてわが子イエスを愛すると同時に、神として全人類を愛された。
その究極のバランスが、イエスの十字架と復活と言える。
初臨のイエス様が十字架を降り、世を裁いていれば、イエスは生き、我々全人類は全滅であった。
しかし、我々が生きるために、イエスが十字架で死に、我々は生きたのである。
また、ダビデはアブシャロムを失い、彼を取り戻すことはできなかったが、天の父はイエスをよみがえらせてこれを取り戻し、なおかつ全人類をも救った。
天の父も、一時とはいえ、最愛の息子を失ったときは泣き叫びたかっただろうが、私の調べたところによると、聖書のどこにもその叫び声は記されていない。
なんという忍耐力よ。
なお、アブシャロムは自分の罪ゆえに死んだのかもしれないが、アブシャロムにはるかに優るイエスキリストは、全く罪がなく、本来死ぬ必要はない完全な人であった為、わずか三日間しか死んでいることが出来ず、甦られた。
それは、我々を義とするためであった(ローマ4:25)。