入院

入院を決めた日に、看護師の訪問で肺炎の疑いがあるとのことで、結局その日に入院することになった。身の回りの準備をし、看護師が救急車を呼んだ。看護師は病院に状況報告、そのすぐ後に救急隊が到着、あっという間に救急車に乗った。入院を決めた後、父は昼ごはんを買いに行き、そこで一杯飲んでいたため、救急車には私が同乗した。救急車のドライバはとても運転がうまかった。母は喉が渇いたと言い続けていたが、病院についてから、と説き伏せた。あの時、少しでも水を飲ませてあげれば良かった。病院についてからは、肺炎疑いで水は飲めなかった。

すんなりと入院、病院の対応には感謝している。

 

再入院の予定

今後のことを看護師と話し合うということで、週末は実家に泊まった。看護師との話し合いの前に家族で話した。父の体力が限界で、父には十分な睡眠が必要であること、私と姉は父の代わりにトイレの介助は危険でできないことなどから、お母さん病院に一度帰ろうね、と言うと、母はうんと頷いた。

翌日入院することに決まった。

退院 3週間目

食べることができなくなり、水を飲むのもやっとの状態になった。水分、栄養補給のため、自宅での点滴が始まった。この時点で、主治医が入院していた大学病院の医師から訪問医に変わった。

前回の診察では、白血球数が一桁だったとのこと。4000〜9000が正常値だ。また、背中に痛みがあることには、臆さずオキノームを使って良いということだった。激痛の対処法かと思っていたので、母には申し訳ないことをした。母の最初からの願いは痛みなく死ぬことだ。輸血三本、約7時間ベッドに寝ているのみだ。

次の日、看護師から痛み止めのオキシコンチンとオキノーム以外の薬をやめることを提案された。嚥下が難しいことから、たくさんの薬を飲むと誤嚥などのリスクが上がるからだ。週末だけ飲んでいた抗がん剤メトソレキテートも停止の提案だった。

また、食事も水も十分にとれなくなって、輸液の点滴も始まった。

 

そして病院に行くと、看護師の提案通り、不要な薬はすべて中断となった。不要な薬とは、2、3ヶ月先を見越しての主に抗菌剤などと、抗がん剤。飲むこと自体にリスクがあり、飲む必要性がなくなってきているからとのこと。余命を聞くと、あと数週間だろうとのことだった。

 

ストレッチャーで看護タクシーで帰った。トイレに行きたいと言うので介助しようと思ったが、まったくできず、2人とも床に倒れてしまいそうだった。そこに父が来てくれたからよかったものの、けがをさせるところだった。私はもう手伝えないと思った。それに疲れ切った父の顔を見て、もうこれは無理だと実感した。母はオムツを嫌がり、オムツをしても排泄しないので、父は夜中に3、4回起こされ、トイレに連れて行っていた。自営業をたたむことにしていたので、最後の忙しい時期で、土地の売却、新しい家を建てる準備も並行していた。

帰りの車の中で父も母の面倒を家でみるのはもう無理だと、入院していた病院に帰ろうということになった。

 

退院2週間目②

木曜日、実家に行くとたった1日空けただけなのに、母はずいぶん衰えて見えた。トイレの介助をするにも、前より足が立たず、支える腕の力は弱くなっていた。また唇の皮膚がカサブタのように浮き上がり、上下でくっついてとても痛そうだった。

 

途中

退院2週間目

それなりに元気なうちに母との時間を過ごしたくて、1週間の休みをとった。月曜に行くと、3日前よりずいぶん意識レベルが下がっていた。

何か尋ねると「よくわからない」と答えることがほとんどで、表情が乏しくなっていた。モルヒネのおかげで痛みはないのは良いが、何とも寂しそうで心が痛んだ。

夜の排泄はベッド脇のポータブルトイレに切り替えた。車椅子でトイレまで行き、狭いトイレで排泄するよりも、本人も楽なようだった。夜中の父の負担を減らす目的もあったが、私が介助していると、二階で寝ていた父はその度に起きてきた。かなり眠りが浅いのだろう。

火曜日は通院だった。介護タクシーで家から約30分。血小板と赤血球の輸血、主治医の診察があった。前回問題だったLDHの値は4300から1500までに下がり、服薬の抗がん剤メキトレキセートが効いているとのことだったが、血を止める作用のフィブリノゲンの値が150から95に下がって、出血傾向にあるとのこと、血管が脆くなっているため、脳出血のリスクがあると伝えられた。また認知が下がっていることに関しては、今まで使ってきた抗がん剤、分子標的薬の影響、モルヒネの影響などが考えられるが、なんらかの原因で認知症のような状態であるのだろうとのことだった。ただ本人の希望通り、痛みなく過ごせていることは大きな救いだ。

 

帰宅

そして待ちに待った帰宅。2週間前のことだ。が、もっとずっと前のことのように思える。

まず困ったのがトイレ。退院前からほとんど歩けなかったので、車椅子の生活が始まった。廊下が狭い、ドアが外開き、そして何より介助の仕方がわからない。母は白血病であるために、とくにケガには注意が必要だ。介護の経験などまるでない父は難なくやってのけるのを見てびっくりした。これが愛情なのか、どのように介助すれば母が楽なのか、じっくり考えたのだろうな。ズボンとトレパンの前と後ろを一緒に持って、1、2、3で立ち上がる。そして「横歩き、横歩き」と言いながら便器の前まで移動、パンツを下ろす。排便後、ウォシュレット、また同じ方法で車椅子まで戻る。これが狭いトイレだと難しいのでドアを外し、段差を削り、カーテンをつけることにした。カーテンの取り付けのみ費用がかかるとのことだった。

そして食事。母はおかゆは食べやすいらしく、おかゆと梅干し、味噌汁、果物を少しずつ食べていた。あとカロリー補給のためにメイバランスを飲んでいた。父が仕事の合間に惣菜を買って来ていたが、一年近くの入院の後、調味料も材料もなく、料理ができる状態ではなかった。料理が得意で美味しいものが大好きだった母にスーパーの惣菜を食べてもらうのは気がひけた。冷たい雨が降り続けていた。

退院

在宅ターミナルケアにあたって、やることはたくさんあった。

退院までの大まかな流れは下記の通り。

①主治医からの宣告

②病院の退院支援社会福祉士との顔合わせ

③地域支援センターへの申請

④介護認定審査員の来院、審査

⑤ケアマネの決定

⑥訪問医、看護師の選定

⑦病院での関係者顔合わせ

(患者、家族、主治医、病棟看護師、退院支援福祉士、ケアマネ、訪問看護師、介護用品会社営業)

⑧退院

④⑤⑥は退院支援社会福祉士が窓口となり、地域支援センターと連携、日程の調整も行なってくれた。仕事が忙しい時期だったこともあり、社会福祉士の方の動きの良さには大変助けられたし、柔らかな対応は心休まるものだった。

家族側の窓口は私が担当した。父は工場を経営しているがいわゆる町工場で連絡係は苦手そうだし、姉は社会経験がないため、私が適任と思ったからだ。私は仕事と育児があるので、お見舞いにもそれほど行かれず、母の精神的なケアは父、姉がしてくれていた。家族内で誰が何をするのか明確にするのは大切だと思った。また無理があったら我慢せず相談することも。