Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

20240421日記

晴のち微雨。薄暑。神田教会でミサに與る。隣に坐つた聖イグナチオ教会の御婦人方と交流し、聖歌隊席の裏手にある玻璃窓、禁教時代の殉教者に捧げられたものを見学し、実行委員の方々とカフェを共にした。社交、しかも英語で。私に社交の天稟はない。平生孤独を厭うてゐながら、いざ社交の場に置かれると、惨憺たる様である。汗顔の至りてふ言葉があるが、文字通りに汗顔である。私は彼等を羨望する。「彼等」、伝統的加特力主義者とも「我等」に為れぬ私とは、一体何者であらうか。

『ヴィディ・アクアム(Vidi aquam)』カトリック聖歌集502番_羅和対訳

www.youtube.com

Ego sum pastor bonus, et cognosco oves meas, et cognoscunt me meae.
我は善き牧者にして、我がものを知り、我がものは我を知る(ヨハネ傳10:14、ここに云ふ牧者(羊飼ひ)はイエズス・キリストを指す)

 

ヴィディ・アクアムは復活節(Eastertide)の間の灌水式で歌はれる交唱。エゼキエル書47:1、ヨハネ傳19:34、詩篇117及び栄唱を引用してゐる。因みに復活節に歌はれるミサ曲は、キリアーレの第1番ルクス・エト・オリゴ(Lux et Origo)。

 

斯てかれ 我を室の門に携へかへりしが 室の閾の下より水の東の方に流れ出るあり 室の面は東にむかひをり その水 下より出で室の右の方よりして 壇の南より流れ下る(エゼキエル書47:1)

 

然るに一人の兵卒、鎗にてその脅をつきたれば、直ちに血と水と流れいづ(ヨハネ傳19:34)

 

もろもろの國よなんぢらヱホバを讃めまつれ もろもろの民よなんぢらヱホバを稱へまつれ そはわれらに賜ふその憐憫はおほいなり ヱホバの眞實はとこしへに絶ゆることなしヱホバをほめまつれ(詩篇117)

 

願はくは、聖父と聖子と聖霊とに栄へあらむことを、始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで、アーメン(栄唱)

 

Vidi aquam egredientem de templo, a latere dextro, Alleluia
我、神殿の右の方より、水の流れ出るを見たり、アレルヤ

Et omnes ad quos pervenit aqua ista, salvi facti sunt,
その水を受けたる者、悉く救はれたり

Et dicent: Alleluia, Alleluia.
而して彼らは謳はむ、アレルヤ

Confitemini Domino, quoniam bonus,
汝ら主を讃めまつれ、そは主こそ正しく、

quoniam in saeculum misericordia ejus.
主のあはれみはとこしへなればなり

Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto
願はくは、聖父と聖子と聖霊とに栄へあらむことを

Sicut erat in principio, et nunc, et semper,
始めにありし如く今もいつも

et in saecula saeculorum. Amen.
世々に至るまで、アーメン

 

あとはRegina Caeliを練習しなければ。

 

ledilettante.hatenablog.com

ledilettante.hatenablog.com

 

20240420日記

晴れ、仏語学校の新学期始業。播磨坂の伊太利料理店で食事をして、小石川植物園を逍遥。躑躅が盛りを迎へてゐる。思へば昨年も同じ時期に同じ場所で躑躅を見たのだつた。この一年、私の生活はまるで変はつてゐない。私といふ人間も相変はらずである。それの可し悪しは分らぬ。

馥郁たる躑躅を傍に、カシワとシナサワグルミの木の下に身を横たへて、ブラームス交響曲第2番を聴いた。自然(nature)と芸術(art)。対義する2つのものが、何故この瞬間、斯くの如き調和(harmony)を生んだのか。

 

ledilettante.hatenablog.com

クリストファー・ハンプトン『キャリントン(Carrington)』1995

クリストファー・ハンプトン監督作、Progressiveな映画。ブルームズベリー・グループの作家、リットン・ストレッチーとその恋人(かう呼んで差し支へないと信ずる)、エマ・トンプソン演ずるドーラ・キャリントン、並びに周辺人物との関係を描く。どうしたら彼、彼女らのやうに、熾烈に肉を覓め、互ひに執着できるのだらう。三島由紀夫の『仮面の告白』後半を読む時と同じい虚しさを覚えた。

 

ledilettante.hatenablog.com

 

ブルームズベリー・クラブ。大学で歴史を学んでゐた私は、このグループの存在をまつたく意外な所から、即ち英国の外交官、サー・ハロルド・ニコルソンを通して知つたのだつた。因みにヴァージニア・ウルフの著作は手にとつた事すらない。

 

イングランドの夏が羨ましくなつた。私は堪らなくなつて、ハリソンズ・オブ・エディンブラのメルソレアで仕立てた麻のスーツを着てこれを視聴したのだ。笑つてくれて良い。

 

管弦による背景音楽が美くしい。シューベルトも使はれてゐるが、多くは映画オリジナルのもので、マイケル・ナイマンの作曲。ベートベンの悲痛な後期カルテット(当時それは疑ひやうもなくprogressiveであつた)を思はせる。彼はパトリス・ルコントの『仕立て屋の恋』や『髪結ひの亭主』にも音楽を提供してゐるやうで、私の気に入るのも宜なる事だと思つた。

 

www.youtube.com

 

ロジャー・ミッシェル『ノッティングヒルの恋人(Notting Hill)』1999

ロジャー・ミッシェル監督作。『モーリス』のヒュー・グラントが出演してゐる、当時39歳。かういふフィーリング・グッドな映画も偶には良い。斯様なものを積極的に取り入れた方が、人は素直なままで倖せになれるのだと、分かつてはゐるのだが。

 

ウィリアムと私の最たる違ひ。それは美人に愛される事ではなくて、相談できる家族が、友人がゐる事だらう。倖せとは、人と人との交感から生ずるもの。社交をただ羈絆と観ずる者には、何も起こらない。

 

嫌はれてゐるな日本人は、毒が効いてゐる。

20240413日記_西洋美術館にて

乱文になるが、もう以前のやうに平日ゆつくりと書く事のできぬ故、忘却するよりは文章に残して置きたいと思つた次第。

此頃の私の顔には、拭へぬ生活の痕が顕らかである。又、立居振舞や言ひまわしから、余裕が消えたと思ふ。平生のやうに仏蘭西料理店でマダムと会話をしてゐて、さう思つた。怕くなつた私は上野の西洋美術館へと出かけた。

 

この行動は説明を要するだらうか。私の症状は病める魂に起因するのだ。魂への処方箋は愛、信仰、芸術、つまり「美」である。私は美の奔流に洗はれたかつた。Lavabis me Domine.

 

ところで、西洋美術館にキリストの復活を描ゐた絵画の所蔵はあるのだらうか。寡聞にして知らぬ。磔刑図や、ゲツセマネの園の絵は幾枚かあるが。

 

本日の訪問で、私の心を捉へた二作品を記録して置く。

パオロ・ヴェロネーゼの『聖女カタリナの神秘の結婚』。アレクサンドリアの聖カタリナは気高く聡明な女性。皇帝に膝を屈する事を拒絶して殉教した。このまへ、六本木の国立新美術館で彼女の殉教図を見た覚えがあるが、げに彼女は殉教の姿ばかりが描かれてゐる印象。

 

ギュスターヴ・ドレの『ラ・シエスタ、スペインの思ひ出』。ルーヴルでもさうであつたが、ドレは私を惹き付ける。この絵は以前は展示されてなかつたのではないか。光の調子が大変良い。

 

アン・リー『いつか晴れた日に(Sense and Sensibility)』1995_ソネット116番英和対訳

アン・リー監督作。ジェイン・オースティン『分別と多感』(1811)の映像化作品。『ハワーズ・エンド』のエマ・トンプソンヒュー・グラントらが出演。英国式のコスチューム・ドラマの名作を観たければ、エマ・トンプソンの出演作品一覧にあたれば良いと思はれる程、彼女は1990年代の英国映画で活躍をしてゐる。

 

同じオースティン原作『高慢と偏見』の類似作品と云ふより、英国式のコスチューム・ドラマはどれも似通つてゐる。英国式のコスチューム・ドラマを特徴付けるのは、miserableな現実主義。キーワードは財産、相続、縁戚、社交界、結婚。要するに、うんざりな俗事である。仮に構成物がこれらに限られてゐたら、英国式のコスチューム・ドラマは韓国映画と同質の汚物にすぎないのだが、ここに18世紀譲りの優雅・様式美とが不思議な共存をしてゐるから観てゐられる。制作陣に良識と教養があるから映画たり得る。

 

作中で沙翁のソネット116番が使はれてゐる。18番 "Shall I compare thee to a summer's day?" と並びポピュラーな一篇。翻譯をしてみる。

 

Let me not to the marriage of true minds
Admit impediments; love is not love
Which alters when it alteration finds,
Or bends with the remover to remove.
O no, it is an ever-fixèd mark
That looks on tempests and is never shaken;
It is the star to every wand'ring bark
Whose worth's unknown, although his height be taken.

Love's not time's fool, though rosy lips and cheeks
Within his bending sickle's compass come.
Love alters not with his brief hours and weeks,
But bears it out even to the edge of doom:

If this be error and upon me proved,
I never writ, nor no man ever loved.

 

私は真心の結びつきに妨げを認めぬ。
情況に応じ変はるもの、
離れるままに任せ得るもの、
それは愛にあらず。
否、愛とは揺らぐ事なきしるべ、
嵐を眺めやり、たじろぎもせぬ。
げに愛とはおほうみを往く帆船の北極星
その真価こそ分かねど、その高みは測り得る。

愛は時の悪戯にあらず、喩へ薔薇色の脣と頬とが、
時の利鎌を逃れ得ずとも。
愛とは時にうつらふ事なく、
裁きの日を迎ふるもの。

これに反証が為さるるとき、
私は詩を書くまいし、誰も愛すまい。

 

20240401日記_復活祭或いは愛する人の死

主の御復活おめでたうございます。

 

先日、祖父が亡くなつて以来はじめて祖父の家を訪れた。殊勝な事に、今や祖母は一人でestateの管理をしてゐる。女は強い、祖母や母を見てゐるとさう思ふ。私の一族の男はみな感傷的でいけない。

 

かのやうなclichéを使ひたくはないのだが、祖父の地所を逍遥してゐると、私は祖父が傍らにゐるやうな気がしたのだつた。祖父はどこにゐるのだつけか、書斎か知ら、川辺か知らと。

 

いみじくもリラダンが『ヴェラ』にて描破した事だが、死者は、生者がかの人の死を意識する事によつて、はじめて死者となる。さういふ事だらう。私はまだ祖父の死を受容れてゐない。

 

死は救済であると、私はこのブログで繰りかへし、横風に述べて来た。当人にとつてはさうに違ひない。私自身が現し世からの逃避を望む気持も、同様に誠である。だが残された人にとつては?

 

私はこれ以上、家族の死を堪へる事ができさうにない。愛する人無くして、この世に何があらう?私をかやうな世界で獨りにしないで欲しい。

 

主よ。復活祭を迎へて尚ほ、頑なで蒙昧なる我身、いと弱き我身を憐み給へ。

 

あゝ生きねば。

 

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』1865_愛と死に就いての覚書

www.youtube.com

新国立劇場の最上席での観劇。本歌劇の半音階的な重音進行や不協和音の構成は、後期ドイツロマン派を予感させる。内面的響きが特徴である。

前奏曲、「憧れの動機」に始まり、そこからとめどなく流れる美の奔流を受けて、私は忽ち夢うつつ。ゾルデといふ気高き女をまへにして、至高の忘我。

第一幕、屈辱に甘んずるを佳しとせず、一死以て復讐を果さんとする騎士さながらの戦闘精神を顕した強き女イゾルデ。第二幕、愛の偉大さに酔ひしれる歓喜のイゾルデ。第三幕の「愛の死」、トリスタンの死に相対し失意の淵に沈むイゾルデ。

「気高さ」てふ時代遅れの概念の、純然な結晶たる彼女の一挙一動が、私を恍惚とさせたのだつた。

上演には残念乍ら傷があつた。周期的に舞台に現れる、出たがりの猿共(水夫及び兵士役の「その他大勢」)。彼奴輩はワーグナーを知らない。雲助馬丁に劣る下賤の輩の披露する猿踊りは、つゆもワーグナー芸術と相容れる處がない。芸術への堪へ難き冒涜と観じ、目を逸らす事幾度だつたらう。

 

www.youtube.com

扨て、トリスタンとイゾルデの死に就いて。二人は救済されたのであらうか?二人の愛は完成したのだらうか?これらを考察するに、イゾルデの「愛の死」の詩は、二人の復活を暗示させるに足るものであるし、更にワーグナーは脚本に斯く記してゐる。

ゾルデは浄化されたやうな姿でブランゲエネにだかれたまま静かにトリスタンの死體のうへに倒れかかる。周囲のひとびとのあひだに大きな感動と忘我

尠くとも、ワーグナーは二人の死を惨めなものとして描ゐてはない。

 

その一方で、彼らの死が十全無瑕でなかつた事も確かである。死に至る過程が問題だ。トリスタンは卑劣漢との一騎打ちに敗れ、その傷が原因で、イゾルデとの最期の逢瀬も満足に果たせずに死ぬ。「神明裁判」といふ考へ方もある時代、決闘に敗れるとはただの不名誉以上のこと。かやうに不完全な死を以てして、愛を完成させる事は果して可能なのだらうか。愛の完成は、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』で見られるやうな「完全さ」をシネクアノンとしないのだらうか。

 

愛と死の関係。これは私の研究テーマである。

 

ledilettante.hatenablog.com

 

ledilettante.hatenablog.com

 

カトリック聖歌集105番『来ませ救ひ主』

Lentも第6週を迎へてゐるが、本日紹介するのはAdventに歌はれるホ短調の聖歌。ヨハン・マッテゾンはこの調に就いて沈思的、悲しみ、痛みと述べてゐるが、この聖歌には相応しい調である。

この聖歌に歌はれてゐるのは、人類の大いなる罪への悔恨と、キリストが到来し人類を罪より解き放ち給うこと、即ち救ひへの希望とである。罪増す所恩寵もいや増せりと述べたのは聖パウロであつた。この聖歌を佳く歌ふ人は、人類にとつての上記二つの重大事を、正しく認識してゐる。私がこの聖歌を好む理由も、この歌が人類の最たる理智と賢明なる判断力とを示すものだからである。

それに詞の文語調も比類なく美くしい。斯様な美を惜し気もなく拋棄する現代人はdevilishである。

 

【歌詞】

1 来ませ救ひ主 憐れみ給ひて
  罪科に沈む 我を助けませ
  よろこべ諸人 主は来たり給もう

2 来ませ救ひ主 君が光もて
  道ゆき惑へる 民を照らしませ
  よろこべ諸人 主は来たり給もう

3 来ませ救ひ主 愛の御翼に
  我らをはぐくみ 涙ぬぐひませ
  よろこべ諸人 主は来たり給もう

 

音源は下記のリンクから。

 

doratomo.jp

 

 

 

Lent is now in its sixth week, and today I present a chant in the key of E minor, which is sung in Advent. Johann Mattheson describes this key as pensive, sad and painful, which is truly appropriate for this chant.
The chant is about the contrition of mankind for its great sins and the hope of Christ's coming to free mankind from sin, that is, salvation. It was St Paul who said that where sin increases, grace also increases. The person who sings this hymn well recognises two important things for mankind. The reason I like this chant is that it shows mankind's greatest wisdom and wise judgment.
And the literary style of the lyrics is also incomparably beautiful. I must say that modern men who ungrudgingly abandon such beauty are insane.