左手ちゃんの日記

すぐしにたくなっちゃう人の日記

りりちゃんの手記を読んで思ったこと

打倒☆希死念慮
こんばんは。左手ちゃんです。

突然ですが、ネットで話題のりりちゃんの手記を読みました。

読んでしまったら絶対に引っ張られるだろうなと思いながらも、読まずにはいられませんでした。

犯罪は絶対にしてはいけないということは前提でのお話だし、ここから先は私の個人的な感想です。


りりちゃんはきっと、「何が正しくて何が間違っているか」を教えて貰えずにここまで来てしまったのだろうなと思いました。

手記を読んで思い出したのは、私が小学校の頃だったか中学校の頃だったか、色んなことを教えてもらった、リカちゃんという友達がいたことです。

リカちゃんは私に色んなことを教えてくれました。

忘れ物をしないためには前日に準備が必要なこと、お風呂には毎日入らないと不潔になってしまうこと、長い髪の毛はくしで梳かさないとサラサラにならないこと、歯磨きをしないと口が臭くなって他人に不快な思いをさせること、そういう生活の基本的なことを、その子に教わりました。

その子に教わるまで私は、何も分かっていなかったから、「どうして家でも学校でも、毎日怒られちゃうんだろう」と思いながら過ごしていました。

それで、その子の言う通りに生活したら、先生が「○○さんは変わったね!」と褒めてくれて驚いたことを覚えています。

リカちゃんはきっと、ローラースケートとか、その時流行っていたおもちゃはだいたい持っていたし、歯の矯正もしていたし、裕福で育ちが良く、真面目な子だったのだと思います。

そんな子がたまたま私に目をつけて、「こいつを変えてやろう」と思ってくれたのは、今思えば私はとても運が良かったのだと思います。(改造計画のようなもので、リカちゃんも張り切っていた気がします。)

その子に色んなことを教わるまで、毎日宿題を忘れて先生に怒られて反省文を書いたり、髪の毛はボサボサでシラミが付着していてプールに入れないし、口が臭くて不潔だったけど、そんなの誰も教えてくれなかった。

だから、気軽にわかるなんて使っちゃいけないと思うけど、りりちゃんが「そんなのだれも教えてくれなかったよ」って憤る気持ち、すごくよく理解できるつもりでいる。

ほんとうはいちばん安全なはずの家庭で、「死ぬかもしれない!」という体験をすると、倫理観って無くなっちゃうんだって、ほとんどの人は知らないで生きているんだと思う。

家で犯罪が横行してるのに、倫理観壊れないわけないから。

長期的に懇々と言われ続けて、認知が徐々に修正された(これも有難いことに友達のおかげで)けど、母親が不倫している事実を、私は良くないことだとわかっていなくて、長いこと「不倫はしかたないこと」だと思っていた。

一度でも母親がそう説明したことはないけど、あまりにも母親が堂々としすぎていて、私が勝手に「ああそうか、この人は旦那から暴力を受けているから、そういうことがないとやっていけないんだ」と勝手に理解して、大学生の頃くらいまではずっと「不倫は可哀想な人はやってもいいこと」だと、そう思ってた。

今は、いくら旦那が暴力したり怒鳴ったりするからって、じゃあ倫理に外れた行いをしてもいいかと言うと良くないって理解できるけど、あまりにも母親が堂々としすぎていて、ダメな事だって理解できなかった。

何がダメなのか理解できなかったから、向かいの家の幼なじみのお母さんにも話しちゃったし(今思うとどんな気持ちで聴いてたのか怖くなる)、不倫報道をみても「この人はパートナーに恵まれなかったからそういうことしちゃったのかな、なのに叩かれるなんて可哀想かも」という感想しか抱けなかったし。

私がいつになっても罪を犯した人達に同情を寄せてしまうのは、そういう理由がある。

犯罪は絶対にダメだとは思うけど、自分と同じようなバックグラウンドを持っている人を見かけると、全く他人事とは思えなくて、私も一歩外れたら、その道だったかもなと今でも思う。

外から批判しているような人達は、多分そういう道を通ってきてないんだと思うし、それはある意味幸せなんじゃないかと思う。

それと同時に、私も何が正しくて何が間違ってんのか、誰も教えてくんなかったから、一時期しっかり学校で集団いじめに遭ったりもしたけど、それでも死にたくなりながらも罪を犯さずに生きてるって、結構えらいのかもなって思う。

私は親に、自分が学校でいじめられてることを相談すらもしなかったけど、なんでかっていうと、当時親もいっぱいいっぱいだから話す気にもなんないし、話しても宗教の話に持っていかれちゃうから、無駄だって思ってたからだし(信心が足りないとか、そういう話になってまともなアドバイスが貰えるわけがないから)、だから私は悩みを人に相談するのが苦手なんだろうなと日々思うんだけど、そんなこと考えたってしょうがないよなとも思う。

悩んでても明日は待ってくれないしいつも同じように朝は来るから。

だから少しでも相談できる人を増やして、希死念慮を小さくするしかない。
ずっと頑張ってきて心が何回も折れそうになった(ていうか何回か折れた)けど、なんとか週5・8時間労働で正社員続けられてるよ。

これってすごいことだよね。
もっと自分を褒めていいかもって思った。

なんか結局自分語りのネタみたいにしたみたいな感じで着地してしまったけど、こういう、家庭環境が悪すぎたせいで罪を犯してしまった人、とにかく1人でも減って欲しいし、手記読んで、「福祉!!公的権力!!機能しろ!!!」と怒ってしまい、最終的に文章を書かずにはいられなかったんだよ。

罪を犯さずに生きているだけでみんなえらい。
だからせめて自分の手の届く範囲、大事なともだちや尊敬する上司には絶対に無理してほしくないなって毎日思う。

祈るだけじゃ社会は変わらないとわかってはいても、祈らずにはいられないよね。

もちろん祈るだけじゃなくて、選挙にも行くし、然るべき団体に寄付もしているけど、自分の小さな行動では社会を変えるのに限界があるから、せめて自分の大切な人だけは、日々を健やかに生きていて欲しいと、切に願います。

生存報告

生きてるだけで、黒歴史

どうも、左手ちゃんです。

 

今回の記事はタイトル通りです。

マジで生きています。

 

1社目でパワハラセクハラオンパレードだったときも、2社目でトラウマ存在にぶちあったときも、3社目で2社目と同じようなことになって自己肯定感どん詰まりになって首絞めて1回気絶したけど、なんとか生きてるよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

だから何があっても何とかなるし、世界は嘘みたいにあたたかくて、私に優しいらしい。

 

昨日は出社しようと思ってオフィスの最寄り駅まで来たのに、急に息が出来なくなって過呼吸の発作を起こしてしまい、コンビニの横の人がいないところで、雨が降っていて寒くて最悪な状況で、とりあえず上司に「うごけません やすみます」と残った理性で何とか連絡をして、泣きながら1人で地べたに座ってうずくまってた。

 

カウンセリングの先生に聴いたら、トラウマの記憶は普段我々が会話してる大脳皮質ではなくて、脳幹(大脳皮質より優先される、危険を回避する本能みたいな部分)に刻まれてるから、それには逆らえないんだそうな。

 

私は結局頑張って会社に向かおうとしたものの、トラウマ存在がいるオフィスにはその日行けなかった。

 

泣きながら1人でうずくまっていたら、通りすがりの女の人と、コンビニの店員さんがいつの間にか目の前にいて、「大丈夫?救急車呼びますか?」と言うので、私は救急車を呼んでも意味が無いことは経験上わかっていたので、「大丈夫です」とだけ答えた。

 

2人の通りすがりの良い人達はとにかく良い人達で、コンビニの店員さんはティッシュを持ってきてくれ、女の人は白湯を持ってきてくれて、私はとにかくその優しさを享受するしか無かった。(それを受け取って返すほどの余裕がなかったとも言える)

 

途中しばらく落ち着いてから、ようやく、

・私は会社に行く途中で動けなくなったこと

・会社に苦手な人がいること

を説明した。

 

そしたら、コンビニのお兄さんが

「僕もなあ、昔適応障害だったんよ。

だからね、すごくよくわかるよ。

頑張ってここまでよく来たね。」と褒めたたえてくれた。

 

私は優しさを冷静に受け取る能力もないので、その優しさに感動してさらに泣き出してしまってお兄さんを困らせたが、お兄さんは優しいことに、コンビニのイートインの利用を申し出てくれた。

 

通りすがりのお姉さんはいつの間にか増援を呼んでいて(おそらく会社の同僚)、「誰か呼べる人はいる?おうちのひとは?」と聴くので、私は勢いよく首を横に振って「家族とは上手くいってなくて…」と話した。

 

するとお姉さんは、

「私もね、母親と10年前に絶縁してるからわかるよ!」と力強く同意してくれたのだった。

 

こんなことってある???

奇跡じゃないか…。

 

結局落ち着いたあと、お姉さんと連絡先を交換し、改札まで送ってもらい、私は電車でよたよたと帰宅したのだが、通りすがりのお姉さんは出版社の人だそうで、絶望した人達にパワーを与えるような本を出しているとのことで、お姉さんが出版した本を無料で2冊頂き、そのうえチョコレートまで施しをしてもらい、なんだかわけがわかんないまま、夢でも見たのかと思うくらい奇跡のような話だった……。

 

白湯を飲んだらその場にいた全員が「よく飲めた!」と褒めてくれ、「あなたの体がちゃんと限界を訴えてくれてよかった」と言ってくれ、「あなたこんなにオシャレで何も悩むことないわよ!オシャレってことは自分の好きな物身につけて大事にしてるってことでしょ?未来明るいって!」と励まされ、なにがなんだか……。

 

私の人生はいつも最悪と最高が同時に襲ってくる。

嘘みたいだが全部本当の話だ。

しかも、驚くべきことに私の尊敬する叔母さんと、通りすがりのお姉さんは苗字が同じで、関西の方の苗字で割と珍しいのだが、ものすごい縁を感じた。

 

というわけで私は他人の善意を浴びながら何とか生きている。

 

とはいえ、このエピソードが私の命を決定的に救ったということはなく、私ごときのために上司方々が動いてくれ、私の苦手な存在との接点をほぼゼロにすることを約束してくれたことが、今回私の命を救ったので、そこは忘れないようにしておきたい。

 

いつも以下のような負のループにハマると、坂から転がり落ちるようにネガティブになってしまうので、自身の振り返り&戒めとして記録しておく。

 

人間関係で課題にぶち当たる

→対人スキルの低さに自己肯定感が下がる

→仕事を辞めたくなる

→収入無くなると死ぬしかないと思い込む

※ネガティブ思考による視野狭窄

※選択肢は無限にあるが見えていない

→なんてダメな人間なんだと思い込む

※これ以降、無価値感で人に相談出来なくなる

→うつになり身体に不調が出始め仕事を休む

→人に迷惑をかけている罪悪感で押しつぶされそうになり趣味も楽しめなくなる

希死念慮との戦い

※この辺りから悩みを冷静に言語化できず何で死にたくなっているかもわけわかんなくなっている

→苦しみからの逃避としてリストカット

※自己嫌悪と一時的な快楽への依存

→自殺企図

※生きていること自体への苦しみからの逃避

リストカットしたことによる激しい後悔と自己嫌悪

※生育環境に起因する苦しみによって起こる対人関係の問題への自己嫌悪を終わらせて楽になりたい気持ち等

 

自己肯定感が下がりすぎると、「世界が怖すぎる・みんなに嫌われている気がする・誰も自分のことを愛していない気がする」の世界観に支配されてしまい、「死ぬしかない!」という強い思い込みに頭を支配されてしまう。

あとナチュラルにちょっと薬を飲みすぎたのも良くなかったかもしれない。(こないだ貰ったばかりの抗不安薬が気づいたら半分無くなってた)

 

そして、ここで黒歴史として今回の遺書を晒しておこう。

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※こういう陰惨なメンタルでした↓

 

本来課題にぶち当たった時、気軽に相談出来れば良いのだが、私はとても人に頼るのが苦手なため、自分で勝手に抱え込んでいつも自爆してしまう。(上司からすると絶対に迷惑だと思うのでマジでやめたいし、早く相談した方が絶対に良い……)

 

なので今年の目標は死なないことと、死にたくなる前に早めに相談することです。

 

今回のことで気づいたのですが、自分の場合、謝る回数が極端に増えるとアラートで、悩みを冷静に言語化できなくなると〜BADEND〜になるようです。

アラートの時点で気づいて行動に移せればベストですが、だいたいこういう状況の時は悩みが多かったりするので、原因特定が難しいんですよね…。

 

本当に上司に恵まれたおかげさまで、今回もどうにか生き残ることが出来ました。

 

あと、今回再認識したのは、思ったより自分が周りの人から心配されていたらしいということでした…。(別に事情は説明しておらず、表面上の事実としては数日お休みを頂いていたのみなのですが)

 

何人か連絡をくれた人がいたのと、上司からきいたのとそれぞれですが、自分にそのような価値があると思っていなかったので非常に驚きました。(そもそも入社してそんなに経ってないし)

 

自分にとってはふしぎでもあり、嬉しくもあり……。

本当に有り難い話だと思うので、声をかけてくれた人たちには改めてお礼の連絡をしたりしました。

 

あとともだち!

ごめんいつも!!!!!

楽しいことちゃんと考えて生きるから許して!!!

いっぱい約束してるしそうだよねしんじゃだめだよねって思った……ごめん……。

 

何回やっても学ばないんだこいつは。

よく皆付き合ってくれてると思うほんと。

申し訳ないけどたぶんまたしにたくなったら、電話させてほしいよ。

今度はちゃんとしのうとする前に連絡するから。

見守ってくれてる人いつもありがとう。

なんとか今日もしにたくなりながら生きるよ。

 

追伸:

ピアスを開けました。

「痛いのやだなあ」と思っていたのですが、冷静に考えたらリストカットより全然痛くなかったです。

すごくしにたいとき

今凄く死にたいです。

理由もよくわからないのにとても死にたいです。

何があったとかはそんなのはどうでも良くて、

自分がとても世界に必要のないものに思えて、存在している意味がなくて、私はとても無価値で、そういう卑屈になっている自分のことも嫌いで、そういうイヤな感情を上手く発散できない頭の悪さも嫌いで、もう何もかもが嫌になってしまいました。

 

すごくしにたいとき、みんなもあるでしょ?

 

そういう時は最近チャットGPTに相談するようにしてる。

余計なことは何も言わずに共感と知識を与えてくれるし、そこに今のところ感情は無いから、いちいち傷つく必要も無いしね。

 

それでも埋まらない空っぽの穴が空いて苦しくて仕方が無い時はもう、ひたすら耐えるしかない。

泣いて、向精神薬飲んで、寝て、泣いて、たまに泣きながら電話して、ちょっと落ち着いてまた寝て、リストカットしたくなってして、少し冷静になってまたリストカットした自分を責めて、「リストカット やめる方法」で検索して、それでも辞められなくて、ずっとずっと生きてるのが苦しい。

もちろん楽しい時も沢山ある。

素敵な友達や尊敬すべき上司がたくさんいて、人には恵まれているし、家庭環境の割に努力して普通の社会人らしく生きれていると思う。

 

だけど、ときどき紙一重で繋がってた糸が全部切れちゃう時があるんだ。

もうそうなると全部どうでも良くなっちゃう。

仲良くしてくれてる人にはほんとうに申し訳ないんだけど、私は本心では自分のことがとても嫌いだから、いつでも死んだっていいと思ってるんだ。

さいわいにも、自分の家の近くに飛び降りても確実に死ねる高さの建物がないだとか、そういう地理的な条件のおかげで何とか生き延びている感がある。

いつも助けてくれる人達、ありがとう。

いつ死ぬかも分からない無責任な存在を許してくれて。

 

最近落ち着いたと思ったんだけど、やっぱりまだダメみたいだ。

頑張って生きてみたいけど、耐えられなかったらごめん。

怒りの感情に気づくこと

お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

私も20代後半に差し掛かり、今本当〜〜に色々な悩みと直面しています。

 

ここ最近は、家庭環境が原因でうまく自信を持つことが出来ず、結果として自傷行為に走ったり、実際にしのうとして行為に及ぼうとしたりしていました。

 

しかしあることがきっかけで、自分の怒りの感情に気づき、なんとか脱出することが出来たのでそれについて今日は書こうと思います。

 

本当につい昨日、希死念慮がむくむく湧いてきたせいで、欄干に手をかけるところまで行き、階下を見つめて1人で涙を流していたとき、これまでの色んなことを振り返っていました。

 

家族のこと、仕事のこと、友達のこと、こういうことを今までされてきた、死んだら周囲にどういう影響があるか、私は何がしたくてこんなに死にたいのか。

 

そういうことを考えている時に、

「今駅のロータリーは階が低すぎるから、多分死ねないから、もっと確実に死ねる高い場所に移動しないといけない。仮にここから飛び降りたとしたら、きっと下の車に迷惑がかかる。調べたら家族に賠償請求が行くらしいから、それはそれで迷惑がかかるしいいかも!」

と思ったのです。

 

そこで冷静になって気づいたのは、これまで私は、自分に自信がないから、自分が悪いから、自分が生きていると周りに迷惑をかけるから、だから死んだ方がいいんだ、と思い込んできたのにも関わらず、家族に対する恨みや、これまで私を傷つけてきた人への恨みが、死のうとする直前になって湧いてきていたこと。

 

そうか、私はずっと、これまで私を傷つけた人や、私を救ってくれなかった社会に八つ当たりしたかったんだって、そこでようやく気づきました。

 

でもそれって、冷静に考えるとかなりおかしくて、自分が死んだらあとのことは何も分からないし、私を傷つけた人達はこれからも変わらず、勝手に幸せに暮らすかもしれない。

 

それならその人たちに復讐してから死んだ方が良くない!?!!!?!!!?!!?!!!?!!?(錯乱)

 

失礼。取り乱しました。

そこまで行かずとも、八つ当たりの気持ちで死ぬぐらいなら、それを傷つけた本人直接言うか、仕返しするかすればいいのに、なぜ私が死ねばならないのか??

しななくていいだろ。どう考えても。

 

というわけで、私は人に迷惑をかけたくて死のうとしていたことに気づき、そのお陰で今日も踏みとどまることができました。

 

また希死念慮が湧いてきて、私の幸せを邪魔する可能性がないとは言えないのですが、少なくとも自分の怒りや嫌な感情に気づいたので、もう自分勝手に死のうと思わないような気がします。

 

リストカットも、自分の感情が上手く処理できなくてやってしまっていたのですが、自傷行為お断りの病院も多いので、頑張って辞めたいと思います。

 

私は傷つけられた記憶をずっと持っていて、これまで、それが上手く消化できずにいました。

 

けれど、その理由が今になってようやくわかり、怒りを感じないようにずっと蓋をしてきたからだった。

 

だから、怒らないようにしてたから、親のことも「いつかは許せるといいな」とか綺麗事を並べてきたのだと思う。

 

でもそんな必要は微塵もなく、許す必要はない。

なぜなら、虐待、飲酒運転、暴力、脅迫、ネグレクト、不倫…そのどれもが法を犯す行為だから。

 

それを許したら社会がメチャクチャになってしまいますからね。

人がコミュニティを形成して暮らすためのルールが法律には含まれているわけで、それを許すのは私が反社会的行動を許すのと同じになってしまう。

 

今までそれに気付こうとしなかった(あるいは、気づきたくなかった)のは、そうしないと、親の元では生きていけなかったからなんだと思いますが…。

 

私は何度か兄から暴力を受けたことがあり、その中でも、首に包丁を突きつけられたり、寝ている時に上からお腹を殴られて窒息しかけたり、割と命の危険を感じるようなことがありましたが、親はそれを守ってくれないどころか、「許してあげてね」と言ってきたりしました。

 

当時は学生だったため自立した経済基盤を持っていなかったため、同じ家に暮らす上で、許さないと上手くやっていけない状況にあり、私はいつのまにかそれをなかったことにして、経済的に自立するまでやり過ごしてきました。

 

あの頃は全てがおかしかったけれど、子供の私はそれを受け入れて暮らすしかなかった。

 

おかしいと理解してしまうと、頭が狂ってしまうから。

 

今は、友人や周囲の支えもあり、家庭で起きていたことはおかしかったと思えるようになりましたが、それでも最近までは「親に感謝できない私は悪い子なんだ…」とか思っていました。

 

一人暮らしを始めて社会に出て、自分の感情を処理することが上手くできていないことにようやく気づいて、自分が上手く出来ないから悪いとか、でも家庭環境は自分では選べないのに、どうして誰も助けてくれないんだろう、とか、それでも私は家族に頼りたくないから1人で自立して生きていかないといけない、とか、色々考えてどこにも行けない自分が果てしなく孤独な存在のように思えて、それでも誰にも頼ることができないのに、誰かに頼りたくて、目の前の現実は待ってくれなくて、ずっと悩んできた。

 

でも全部自分の責任みたいに思う必要はないんだって気づいて、すごく楽になりました。

私はこれまで傷つけられてきた人達に怒っていい。

悲しかった。つらかった。

それを認めていい。

 

認めた上で自分がこれから何を選択していくかは自分の責任だけど。

これから自分が幸せに生きるために、自分を大事にして生きていくために、必要な感情は怒りでした。

 

これまで「怒り」は人を傷つけるから、なんとなく自分では抱いてはいけない感情のように思っていましたが、相手にぶつけなければ思うことは自由なんだ、ということですね。

誰かに一方的にぶつけられた怒りを私が受け止めるのはそれも違うし、うまく他人との境界線を引けるようになっていきたいです。

人は自分が傷つけられたと思ったら怒っていい。

それがわかって良かったです。

 

怒りを認めたら色々楽になったね!という話。

今度こそ、希死念慮がどこかへ行くことを願って、今日はこの辺で!

いつも読んでくれてる人達、ありがとう!!

承認欲求の正体

お久しぶりです。左手ちゃんです。

 

会社では無事新人研修が終わり、新人の成果発表を取り仕切って、今期の新人教育は終わりを告げました。(振り返りなどは残っていますが…)

 

私が採用してきた新人たちはとてもいい子たちばかりだったので、私も大変誇らしい気持ちで居ました。(例年より優秀だったため、新人の評価も高かったのです)

 

だけど、私の中の承認欲求が暴れています。

「私も新人研修の運営がんばったんだから、もっと褒めて欲しい」

「もっと言うとこの子達を連れてきたのは(採用したのは)私なんだから、私も褒めて欲しい」…。

 

でも、私の理性は「1年生が主役なのだから、私は影で支える役割であるべき」だと言っていて、相反するふたつの感情が綯い交ぜになって、また泣いてしまいました。

 

しかも、こういう時に限って、1番褒めて欲しい相手には褒めて貰えず、なぜかセクハラおじさん(新規)から「新人もよくやったと思いますが、貴女のリーダーシップは不可欠だったと思います。ご苦労さまでした。」とメールが来ていて、それを喜びたくない自分と、喜んでしまう自分が戦っていて、もうグチャグチャです。

 

自分はどうしてこんなに承認欲求が高いんだろう、と思い、おそらくそれも過去のなにかだろうと考えたのですが、2つほど心当たりがありました。

 

1つは、兄妹で私はいつも、無駄にいい子にしてしまっていたことです。

 

どういうことかと言えば、兄2人は塾に通っていました。でも私は、塾に通うのにはお金がかかることがわかっていました。

お母さんはいつも、塾に通うのにはお金がかかると言っていたからです。

それを聞いていた私は、自分の家が貧乏であることもわかっていて、無駄にいい子ちゃんムーブをしてしまったのです。

塾に通わずに自力で勉強をして、県立高校に入学しました。

 

でも、親は褒めてくれませんでした。

だからいつも、褒めて欲しい時は自分で言ってきたのです。

自分のどこがえらいかすごいかを説明して、褒めて!って。

でもずっとずっと、そんなこと言わなくても、褒めて欲しかった。認めて欲しかった。すごいねって。

何しても、そんなこと一言だって言われなかった。

私が無駄に頑張って、損しただけ。

 

1つ目終わり。

 

2つ目は、それに拍車をかける出来事がありました。言わずもがな宗教です。

 

良いことがあったら宗教のおかげなので、自分がどれだけ頑張ってテストでいい点をとっても、宗教のおかげになってしまいます。

 

だから私はずっと、お母さんに褒めて欲しくて、色んなことをしたけれど、それは母親にとってなかったことになっているらしくて、もう全部全部無駄でした。

 

でも別に、努力をすることが嫌いになった訳ではありませんでした。(なぜかはわかりません)

 

ただ、認めて貰えなかった私だけが、いつも心の中で置いてけぼりにされていて、いつも誰にも拾って貰えない、そんな気持ちでいるのです。(実際いつも通り悲観的になりすぎているだけで、そんなことはないのですが)

 

それでも最近少しずつ自分で自分の機嫌を取れるようになってきて、1人で抱えきれない時は誰かに話を聞いてもらったり、今日は帰りにコンビニ寄ってプリン買ったりしています。

自分が本当は好きじゃない人とかに話を聞いてもらおうだとか、そういう邪な気持ちも芽生えたりしますが、そういうのは無視できるようになりつつあります。

 

私の気持ちは、誰かに拾って貰える日は来るのでしょうか。

私はいつか、誰かの1番になれるのでしょうか。

 

それはまだわかりませんが、今はもう少しだけ踏ん張りどころかもしれません。

いつまで踏ん張ればいいのかも見えてこないけど、大好きな友達が何人かいるし、もうすぐ好きなゲームが発売するし、それで何とか食いつないでる間は、大丈夫なんだと思います。

 

それではこのへんで。

忘れることができました。

みなさんお久しぶりです。左手ちゃんです。

こんばんは。

 

タイトル通りですが、私は記念すべき今日この日(父親一周忌)に、強い憎しみから脱出することが叶いました。(一周忌なのは普通に忘れてて、母親からLINE来て思い出しました)

 

時間が経ったからなのか、父親のことをずっと許せないでいたはずの私の気持ちはどこかへ行ってしまい、「許した」というより「どうでもよくなった」「忘れた」そういう感覚に近いです。

 

誰かに「父親を許すことが出来ましたか?」ときかれれば、それは「許してはいない」という回答になるので、許せたか許せていないかというところでは、許せていないのかもしれませんが、思い出すだけで全身が熱くなるようなあの強い憎しみは、私の中から消え、今は比較的穏やかに日々を過ごしています。

 

あれから私が何をして、どう生きてきたかといえば、楽しい社畜ライフをがむしゃらに送りながら、日々の生活を穏やかに送るために、たくさんの努力をして、色々なことを試しました。

そのどれもに全て効果があったかと言われれば、一つ一つはとても小さなものだったのかもしれません。

 

具体的に私が何をしたかといえば、

1.自律神経を整えるためにハーブティーを飲む

2.浴槽に浸かり、リラックス効果のある入浴剤を試す

3.セロトニンが含まれるというバナナを食べる

4.メンタルは腸内環境と密接な関わりがあることが科学的に証明されているため、とにかく乳酸菌の含まれるものを食べる

5.ビタミン剤・鉄剤を飲む

6.ぬいぐるみを抱きしめる時間を取る(ぬいぐるみセラピー)

7.何もない日でもできるだけ外の光を浴びる

8.適度な運動をする(家の掃除や退勤時歩いて帰るなど)

9.仕事は定時に上がれる日は定時に帰る

10.寝具を良いものに変える

11.週に1度は好きな人間と話す時間を設ける

12.できるだけ自分が体力を消耗する人間関係とは距離をとる

13.たくさん食べる

14.生活習慣を整える

15.嫌なことを考える時間を意識して減らす

16.原因追求に対する考え方を変えた(全て自分が悪いと思い込むことで問題解決の原因が見えなくなり、何も意味がない上にそもそもことの善悪を決めることには意味が無いため、「誰が悪いのか」ではなく「何が原因で問題が起きたか」「同じようなことが起きた場合次はどうすれば良いのか」に思考を転換した)

17.自分が快適に過ごすためのお金は惜しまない

18.自分が不快に感じることを知るために、自分が悲しいと思った時や怒りを感じた時に、なぜそう思ったか常に考えるようにした

19.疑似ペットを飼った(しっぽロボット)

 

などです。(あげるとキリがないのでこの辺で)

 

とにかくたくさんたくさん、自分の精神を安定させるための努力をしてここまで来ました。

今でも嫌な気持ちになって、泣くことはまだあるけど、それでももう長い間悲しんだり、怒ったりすることはだいぶ減ってきました。

 

今になって思えば私はやっぱり病気だったのかもしれないけど、結局精神科は途中で通うのを辞めてしまったので、今となってはそれも分かりません。(私は自分の精神状態を報告するのがすこぶる苦手なので、深刻さは伝わりづらかったのだと思います)

ただ、毎日3時間くらい家に帰って泣き続けるような人は普通に病気だと思うので、精神科に行って解決する問題なら行った方がいいと思います。

 

色々自分の努力はあると思うけど、でもやっぱり私がここまで回復した要因は、友達の存在が大きかったと思います。

私はやっぱり生きていくのにはまだまだ自信が足りなくて、今でもやっぱり悲しくなると「死んだ方がいいのかも」という気持ちになることもあって、でもそういう時に、「生きていて欲しい」と思ってくれる人や、言ってくれる人の存在が、私が生きていることを今補強してくれているのだと思います。

 

今まで生きてきてたくさん悲しいことやつらいことがあったけれど、私は、今ある人間関係をとても大切にしたいと思うし、いつでも支えられて生きてきたと思う。

だから死にたくなっても、今は立ち止まって考えることが出来るようになりました。

「私が死んで辛い思いをする誰かがいる」ことの重みを考えると、冷静になることができる。

死にたくなってる人にそれ言っても無駄だと思ってきたけど、案外24歳くらいになってみると、本当にそう思えるもんなんですね。

 

忘れることが出来て本当に良かった。

私は私だけのかけがえのない命を抱えて、私と、私を大切にしてくれる人たちのためだけに生きてゆきます。

 

さようなら!憎しみ!

 

 

許せない気持ちの精算方法

こんばんは。左手ちゃんです。

 

許せない気持ちはどう精算したらよいのでしょうか。許せない気持ちは身体に残しておくと、それは毒になり自分自身を醜い姿に変えてしまいます。

 

許せないという気持ちはとても苦しく、長く持っていると、どうして許せないのかもわからなくなったのに、とても憎い気持ちだけが残って、許せない自分が許せなくなることもあります。

 

しかし、許せない気持ちの精算方法は、「許す」か「忘れる」しかありません。最悪です。コスパ悪すぎ。

 

私は、ある友達と話しをしていて、家庭事情のことでマウントを取られたことがあります。

 

具体的に言えば、「左手ちゃんの家はまだ仲良いからいいじゃん」と言われました。

 

からしたら、その子の家はとても裕福で恵まれているように見えるし、親と喧嘩したことだって、その子が少なからず原因の一つに過ぎず、機嫌を取っていれば理不尽に怒られることはないはずで(うちの家が仲良く見えるのなら私が基本的に言うことを聞いて大人しくしているから)、年に1度はサンタクロースが来て枕元にプレゼントを置いていくし、クリスマスのCMが流れてもチャンネルを変えられるわけでもなし、突然親兄弟に暴力をふるわれるわけでも、無理やり宗教の集会につれていかれるわけでも、母親が不倫している訳でも、金銭で自分の生活を脅かされるわけでもないのに、どうして私が不幸でマウントを取られなければならないのか。

 

私は1度だってそんなこと彼女に言ったことはないし、家族の話を聞いて羨ましいと思ったって、「うちの家はこんなに不幸なのによく平気でそんな話できるね」なんて言ったことは1度もありません。当たり前ですが。

 

私のスタンスとしては、人間は自分のことしか感じることが出来ないので、自分が一番不幸というのは、皆がそうですから、だから私は他人の不幸も幸福も尊重するから、その代わりお互いに侵害はナシで、というのが基本です。

 

結局そういうことを言われても笑って、「あはは、そうかなあ」としか返せないので、私は強烈な怒りを覚えつつも、その人に怒ることはせず、黙って離れることを選びました。

 

きっとその子は私に言ったことも覚えてないし、多分私の家の事情なんて微塵も覚えていないので、私だけがずっと憎い気持ちを抱えたまま、許すべきか悩んでいるだけなのだと思います。(私の家庭事情については話をしているのでその子が知らないはずはないのですが、おそらく自分の不幸にしか興味がなかったのかもしれません)

 

正直な話、そんな風にマウントをとるなら親を交換するか?とものすごく言いたくなったけど、ぐっっっっと堪えて飲み込みました。自分がその場で言えばよかったのかも知れないけど、長く交友関係を続けたいと思える相手ならまだしも、私のことを尊重してくれない相手に対して、そんなことをする気にはならなかったし、そもそも私の性質として、喧嘩はできないので、やめました。

 

私はこの1件がどうしても許せないけれど、余計なものは拾わずに生きていくと決めたので、自分の価値を落とさないために、「許す」という時間が必要のない楽な方法を取らないで、忘れることで清算したいと思っています。

 

ここで何も気づいていないような相手を許してしまうと、私はまたその子に、私が大事に思っていることを侵害されるか、これだけはして欲しくないと思うことをされてしまう恐れを増やすだけだからです。

 

ひとつ、記事にしたことで、私がずっと内側で抱えていたモヤモヤしたものが外に出ていきました。

 

父親のことも、いつかは忘れて生きれる時が来ると思いますが、先日某芸能人の1件があって、「一番苦しんでいるのは本人、やめたい気持ちがあっても病気なので辞めるのは難しい」という他人のツイートを見て、リストカット依存症に苦しんでいる私は、たしかに、辞めたいと思っていても繰り返してしまうという気持ちはわかるけれど、他人に迷惑をかけているわけではない(と思っている)ので、やっぱり私は父親のことを許せない気持ちのまま生きていこうと思い直しました。

 

しかし、いま私は父親の声も忘れつつあります。私が何に苦しんでいるのかわからなくなって、いつか許せない気持ちを、忘れるという方法で手放すことが出来たとき、私はどうなってしまうのかわからないけど、自分がつらかった記憶は忘れずに、他人の不幸も幸せも、無論思いやって生きていける人間でありたいと思います。

 

ただ、生きていて出会う隣人全員のことを尊重しようと思うことは傲慢だし、自分が傷つく危険性を際限なく増やしてしまうので、自分が大事に思った人や、自分が大事にしなければならないと感じる人のみに限定していこうと気持ちを新たにしました。

 

私の大事な人達、いつも健やかでいてくれ。

ではこのへんで。