10年前、あれだけ死にたくて、みじめで、つらくて、自分勝手で、リビドーとデストルドーに憑りつかれて、いつも疲れていて、自意識過剰だったあの頃の自分は、どこに行ってしまったのだろうか。

でかい十円禿を二つも作って、自殺するつもりで小平のぼろ部屋を解約して、死にきれなくて横浜に流れ着いて料理をはじめたあの頃の自分は誰だったんだろうか。

 

料理を始めて9年半が経ち、今や東京で板前稼業としてそれなりの生活ができる程度には技術と知識を身に着け、さらに高いステージへと登ろうとする自分は誰なんだろうか。

 

いっさい通らなかった価値観の海の中で泳ぎながら、とうてい理解できそうもない人たちのことばをどういうつもりで耳に入れているのだろうか。

 

7年前、世界の絶望をぜんぶ背負ったつもりで、いつも悲しくて、怒りを抱いていて、さみしくて、誰にも理解されないとなげき、自分の才能の無さに気づきながらももがくことがやめられなかったあの頃の自分はどこに行ってしまったのだろうか。

 

いわゆる中二病だったのだろうが、それにしては長かったし、強烈だった。

つらかった。本当につらかった。あのつらさがあったから、今までやってこられたのだと思う。

 

小説は、もう二度と書けないし、書かないと思う。

もう自分には要らなくなったんだと、つくづく思う。

これも悲しい事実だけど、歳を重ねるというのは残酷だ。

 

34歳の自分が自分に対して思うのは、何の才能も無いから頑張れるだけ頑張れ、変人だから自分の感覚がずれていることを常に自覚しろ、身体を大切にしろ、くらいだ。

 

 

 

まぁ、世の中にはいろんな人がいて、どうしようもないくだらない凡百がほとんどで、それは金を持ってようといまいと関係なく凡百は凡百で、それでも中には素晴らしい人がいる。こんな面倒な自分と肌の合う人間がいる。それに自分が今の仕事を自分なりに頑張るだけで、【好きな料理をつきつめるだけで】、幸せに出来うる人たちがいる。それだけでこの世界を生き抜く価値がある、そう思い込みたいだけかもしれないが、実際にそう感じて頑張れる一日がある。

進んでいるのか退いているのかわからない日々だが、どうにかやっていくしかない。

仕事でInstagramを使うようになって久しい。あそこに知的なものは一切ないなと切実に実感している。

情報は山のようにある。その裏の人間関係、金銭の流れ、他人の欲望のるつぼは正に東京という感じがする。

東京では、ほとんどの人が他人の欲望を生きている。

 

自分は環境を変えて自分を無理くりアップデートして内部から構造改革を図るタイプで、今現在の環境に適応する中で失ってしまった感覚はいくつもあるのだけど、時折どうも息苦しくなることがある。

肩に力が入っている、疲れている、とかそんな平易なことばで片付けられない居心地の悪さに見舞われることがある。

 

小説を書いていた時とは別の、仄明るいモヤのような鬱屈がある。

料理に、飲食業に打ち込んで、色んなことを理解して、できるようになって、飲食業というのは繊細なバランスと流れの上に成り立つ水ものでつくづく難しいなぁと実感しながら、面白いと思いながら、どこか渇いている自分がいる。

へとへとになって、身体を痛めても、何か足りないような気がしてしまう。

でも、全然深刻ではない。楽しいし、病んでもいない。すごく涙もろくはなってしまったけど、強くなったとも思う。

 

鰻も、蕎麦も、鮨もおおよそできるようになった。

鰻は面白い。とても追求しがいのある食材だと思う。

手前味噌だけど、自分の揚げた鰻の天ぷらはクッソ美味い。

 

自己流で極めたいと思っている天ぷらは、試行錯誤しながらも前に進んでいる。

天ぷらと料理を足し算ではなく掛け算で提供すること、天ぷらを脱構築することばかり考えている。

明日、風呂でふと思いついた方法を試すことができるのでめちゃくちゃ楽しみではある。

これがうまくいけば抱えていた問題がいくつか連鎖的に解消される。思いついた瞬間は脳内でブレイクスルーが一気に起こった感覚で、どえらくテンション上がった。うまくいってほしい。

 

何故今日試さないかというと、天風良にい留さんや車さんの流儀にならって、薄力粉をふるって72時間以上冷凍保管してから使用しているからで、今日はまだ粉が使える状態ではないから。

 

先日知人友人を集めて天ぷら会もやった。

収穫と反省が山ほどある会になって、とても良かった。3月にも営業日を1日変換して、今度はきちんとお客様を呼んで行う予定だ。

自由度の高い会社なので、自分を勝手に追い込んで好き勝手にやっている。

 

自分がこの一年で得たものは、とてつもなく大きかったと思う。自由が丘の和食屋に居た一年と同じくらい大きく成長できたと思う。

料理人として自分を売っていくフェーズになりつつ、というか既になっているので、その辺りも頑張らないといけない。

 

超高単価(客単価4万〜)の天ぷら屋の大将は、来年の頭くらいに出来そう。それまで力を蓄えて、思い切り跳びたい。

 

自分しか作れない料理、踏めない線、たどり着けない場所は絶対にある。どこまで遠くに行けるかゲームだ。人と同じ轍を歩きたくないという捻くれた気持ちは小さい頃から全然無くならない。それを無くさないうち本来持ち合わせていた普通さや平凡さが事後的に遠くなっている。だから、多分どんどん変な人になっている。

 

たまにお客さんに天才とか芸術家だと言われることがあるけど、自分では1ミリもそう思わない。

一料理人、それ以上でも以下でもない。

ただ、かなりキメラ的な魔改造をしただけ。

特に、天才では絶対ない。

ただ料理において努力ができる変人だというだけの話。

 

この前の天ぷら会

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巻海老
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鰻 蒲焼のたれ一塗り
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アオリイカ

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赤坂という町に飽きてきた。

あまり好きな場所ではない。銀座くらい振り切っていたほうが面白い。

違う場所で働きたいなぁ。

 

たぶん知っている人は知っていると思うけど、現在赤坂の割烹で料理長をしている。客単価は約25,000円。決して安くはない。

 

料理長というと、何人かいる料理人を束ねるような雰囲気だが、店が小さいこともあり基本的に一人で仕込んで一人で営業の調理を回している。

 

もちろん他のスタッフやアルバイトにも助けてはもらっているが、あくまで補助程度だ。

 

毎月献立を変えているのもあるが、基本的に料理や飲食に関することしか考えていないし、実際それ以外やっていない。

 

まがいなりに蕎麦も打てるようになった。

もっと上達できるし、そうなるのだと思う。

 

今の会社で来年には客単価30,000円くらいの天ぷら屋の大将をやらせてもらう予定。カウンター6席くらい? 2回転?

それに向けてインプットも続けている。

 

料理は面白いし、飲食もたのしい。

けれど厳しいし、辛いこともある。

それは小説も同じだったと思う。

 

小説に振っていたエネルギーを飲食に全振りした結果、二十五歳手前から料理を志しても三十三歳でそれなりになれると言うことを自分自身で証明してしまった。

しかも本当に料理一本でやり始めたのは四年前くらいからだ。

 

才能なんてひとつもなかったし、今も当然ないし、ずっとコンプレックスを抱いているけど、反骨精神と負けん気だけでどうにかなるもんだとつくづく思う。

 

これからも料理を続けて、生涯料理人でいたいと最近よく感じる。

だれも到達したことのない、そしてその後だれも到達できない場所に行きたい。

小説では無理だったけど、料理なら行けると思う。

 

料理を通じて、何かしらの思いを感じてもらえるのが本当に嬉しいし、喜んでもらえると仕込みの苦労なんて一撃でふっとんでしまう。報われてしまう。

 

学生の頃、当時の彼女や家族によく料理を作っていて、その際、だれかを想像して美味しくなるように努力する様は祈りに似ているなと思っていた。

今も祈りのようだとよく思う。

お客様に届くように、誰かに届くように、自分に嘘をつかないように、調理場で孤独に作業している。

 

もともとの頑固や偏屈も増した。

他人への興味もなくなった。

でも、今日も何とか一日が終わった。

 

料理人という仕事に、こんなに誇りを持つ日が来るとは思わなかった。

最近、猫背と巻き肩が大分改善されて身長が2センチくらいの伸びた笑

183.5くらい? けっこうでかい。

筋トレもそれなりに続いている。

 

和食の料理人として、極力ステレオタイプから離れた方法で成功したいと強く思う。

色々と話したいことはあるけど、まだ時期じゃないし、まだ話せることはそんなに多くない。

 

料理人として、すごく大きな分岐点にいる気がする。選べる未来が何個もあれば良いのに。

 

この選択を正解にするのは自分自身だし、焦ってどうにかなるものでもないけど、何かやってないと不安になる、、、とか言いつつ具体的なことが何一つとしてできていないからまた焦ってしまう、というのは嘘で、本当は焦らないといけないのにそこまで焦ることができていない自分にどことない不安を覚えている。

 

まぁ、やれることをコツコツ頑張るしかない。

猫背と巻肩はだいぶ改善できた。体型は少し筋肉質に変わったけど、体重が落ちない。食事を根本的に見直さないとダメなんだろうな。

……さて、ところで。雨が降っている。三月の雨は砂ぼこりと花粉を一時的にやわらげるが、やがて雨雲が去れば春の嵐と化して大気をさらに狂わせる。ぼくに言わせればそんなのは茶番だ。ぼくは例の家の近くのコンビニエンスストアでカヤマをふたたびう見かけた。彼はぼくことなどまるで気にもせず、いつもどおりの業務態度でぼーっとしていた。それが心底うれしかった。互いがマスクをしていることなど、ぼくはぜんぜん関係ないとおもった。

 

みゃーちの話題にふれないことを不自然だとおもうかもしれないが、ぼくがこの文章内で彼女について書き散らすことはきわめて不自然だと言わざるを得ない。何故なら彼女とぼくの関係において、書くことなどひとつもないのだ。彼女はぼくとちがい働き者で、家に帰ると食事や風呂をさっさとすまし、床についてしまうのだ。もちろんそこに夫婦の会話はある。嘘ではない。彼女はきわめて健全で、この社会の労働者の大半がそうであるようにひどく疲れている。つい最近まではぼくそうした疲れた労働者のひとりだった。それは紛れもない事実だ。ぼくはどうやってこの強い束縛から解放されたのか。それはただの偶然だったし、まるで望んだ結果ではなかった。ああ、ぼくはどうしてこうも能天気なんだろう! もしこの態度に疑問を持つ読者がいるのならば、ぼくは即座にハラキリしないといけないだろう。この覚悟を馬鹿にされたらぼくは憤慨するだろうか。おそらくぼくはだれよりも早く笑い出し、そのやかましさやかん高さに皆が辟易とするにちがいない。ぼくは自分自身をブリキのおもちゃのように感じ、実際そのように扱っている。つまりぼくは、ぼく以外のだれにもぼくをおもちゃにしてほしくないのだ。みゃーちはぼくを憐れみながら愛している。憐れむこと、愛すことを両立できるのは才能だとおもう。ぼくにそれはできない。だからぼくは彼女を尊敬している。彼女は決してぼくを尊敬などしないだろう。わからない。だが、ぼくはそんなのまっぴらだと宣言しておく。

 

雨が降った日、みゃーちはひどくおびえて帰ってきた。許しがたい、看過しがたい何事かが起こったことは明白だった。仕事用のスプリングコートを着た彼女の肩はぬれ、顔を鬼のように青くしてふるえていた。ぼくは一度つよく抱きしめたあと入浴をうながした。もちろんあらかじめ風呂には湯を張っておいた。そんな要領の良さは褒めるに値しない。ぼくは先に話を聞くべきだっただろうか。それとも入浴を共にすべきだったか。ぼくはとりあえず彼女の服を順に脱がし、風呂場へと誘導した。彼女の顔色はますます蒼白で、ぼくは焦ったがすべてを手際よく敢行した。彼女が風呂に入ってからしばらくすると浴室のTVが起動したのを耳で確認した。さらには鼻歌が聞こえてきた。ところで彼女は何故いつも鼻歌しかうたわないのだろうか。直接たずねるにはくだらなさすぎるし、逆に意味深すぎるようにおもえる。彼女はスピッツが好きな、猫のようなひとだ。猫になりたい、そううたうにはぼくはもう歳をかさねすぎた。

 

疑わしきは罰する、そう告げられて丸刈りにされた高校時代からもう二十年が過ぎようとしている。本当はまだ二十年にはほどとおいが、四捨五入は古くから使用されてきた誇張表現だ。誇張の氾濫した、誇張にまみれた世間で一切の誇張をしないことは美徳だろうか。水清ければ魚棲まず、という故事の真意を知る人はどれくらいいるのだろうか。もちろんぼくは知らない。恥ともおもわない。恥ずべきは蕎麦屋のタナカのような人間だ。あれはもう本当にひどい。これから述べることは誹謗中傷ではない。しかも個人の尊厳を傷つけるものでもない。その理由は以下の文章の中でおのずと明らかになるだろう。ああ、ぼくはどうしてこうも挑発的につづってしまうのだろう。これはぼくの悪徳に満ちた先天的性質に他ならないし、ある意味タナカの後天的特性とおもわれる邪悪さと対をなすと考えられる。どちらにせよ他人が干渉できる事柄ではないのだ。ゆえにぼくとタナカは水と油なのだ。タナカはやたらとぼくをからかってくる。初めて会ったとき、ぼくは彼の務める店に客として足を運んだのだ。みゃーちも同席していたし、他にも客がいる中でホール業務を担当していた彼はテーブル席に座ったぼくの足を容赦なく、虫を駆逐するかの如く踏みつけたのだ。ぼくはおどろいて彼の眼を見たが、仮面のようなほほえみをたたえた顔をぼくに向け、さらにその足に力をこめた。注文はいかがされますか、と平然と聞かれたぼくはかるく(本当にかるく)どもりながら、きつね! と叫んでしまった。その声はたしかに店内をこだました。だれもが意表をつかれたいかつい顔をしていた。ただ、タナカ一人をのぞいて。あの店には何故BGMが流れていなかったのだろう。モダンジャズなど打ってつけのこじゃれた雰囲気ではなかったか? もしかすると普段は流れているのかもしれない。そうだとすればタナカの仕組んだ罠だということは火を見るより明らかだ。わからない。ぼくはあの店には二度と足を運ばないだろうから。ちいさな静寂のさなか口火を切ったのはタナカだった。

「はい? うちはきつねやってないんですよ。すいませんね。たぬきならありますけど」

突き放された言い方をされるとかえって丁寧に接したくなるのがぼくという人間だ。提案を受け入れ、たぬきそばを注文した。また勧められるがままに大盛にしてしまった。追加料金の案内はなかったとここにしるしておく。ちなみにみゃーちは鴨そばを頼んでいた。彼女は無類の鴨好きなのだ。ぼくは彼女の何かをすする姿を非常に好ましくおもっているのだが、話がずれそうなので割愛しよう。数分後、鴨そばに遅れてたぬきそばが運ばれてきた。その瞬間、ぼくは怒りと焦りの混じった激しさに飲み込まれてしまった。たぬきそばは冷製だったのだ! ああ、おもい返しても腹立たしい! たしかにあの時は新そばの時期で、まだほんのりと暑さののこる日がつづいていたが、きつねを頼もうとした流れがあってたぬきとなれば当然温製が来るものだとおもうだろう。ぼくはとっさに振り向いてタナカを見て目で困惑をうったえたが、彼はぼくの視線に気づきつつも鏡のような冷たいまなざしを返すだけだった。彼は明らかに冷笑していた。ぼくは妙な恥ずかしさからか汗ばんでしまった。そうなれば目の前の冷やしたぬきは表面上の違和感を消してしまう。それはまずいとおもうほど汗ばんでしまうのは、嘘がつけないタイプのあるあるではないか? ぼくは何度もタナカを目で訴えながらも、早くこの場で事なきを得て退店したいと考えていた。迷いながらも、ええいままよといざ勢いよくすすり始めてしまえば、冷えているぶん食べやすく、するすると麺を吸い込むことが可能なため早々に食べ終わってしまった。その間もタナカには視線を送っていたが、彼は一度もこちらに近づくことはなく、とっくに清掃済みのテーブルを念入りに拭きあげていた。食べ終えたあとに文句を言うことはさすがにできないと視線を目の前の向けると、みゃーちはまだ鴨そばをゆっくりとすすっていた。率直に言って、ぼくは参ってしまった(ところで、鴨そばはきつねやたぬきとちがって何のひねりもなくそのままの食材を使用しているが、それは鴨肉が非常に魅力的な食材であることの証拠だろう。事実、鴨肉を好む人間はだれもが「鴨」という漢字のフォルムにさえ好意を抱いてしまうが、それはまた漢字が表記文字としてひとつの完成形に達したことの証拠である。ここで証拠を並べることは探偵のようにタナカの邪悪さを追い込んでいる)。彼女の頬張る姿に感心する愛情と、ここを早く出て外の空気を吸いたいという欲求が相反するのを感じたからだ。ことぼくに関しては愛情と欲求が相反することはめったにない。これはじぶんだけを特別視する傲慢な態度か? いや、そうではないはずだ。ぼくはみゃーちのタイミングを見計らって丼をやさしくうばうとそのまま鴨そばの麺や具はおろか、汁までたいらげた。彼女はやさしくほほえんでいた。ぼくはそれですっかり元気を取り戻してしまった。他者に向けられた邪悪さを払うのはいつだって純粋な愛情なのだ。それはもちろん互いから発されていることを前提としている。そうでなければ、ぼくのような人間の愛情はカルトになってしまうだろう。おっと、これは余計なことかもしれない。とにかくぼくたちは会計をすませて外にでた。タナカはレジ対応もぶしつけで、ひどく無礼だった。何故加害者は事態が変容するといつも被害者の顔をするのだろう。ぼくは何度も口を開きかけたが、具体的に何を言うか決まっていなかった。ぼくたちは目の前の相手に互いに口をつぐんでしまったのだ。それは永遠につづくあいこのようなものだった。夕暮れ時に入店したが、退店時にはすっかり夜の帳が下りていた。ぼくの頼んだたぬきそばが大盛分プラスで三百円とられているのに気づいたのはしばらくしてからだった。ぼくは社会にひそむ邪悪さと出会ったとき、いつもみゃーちに感謝する。彼女のすこしだけ荒れた唇は本当に奇跡のようだ。今、窓枠をゆらす風の向こうでは下弦の月が音もなく浮かんでいる。……

 

 

実家に帰っている。明日の夜には東京に戻る予定だ。昔のくるりとかサカナクションをずっと聴いていた。

働き始めが早まり、明後日からになった。頑張らないとね。

大学のアルバイト時代の知り合い? 友人? と久々に会ったのが三日前。二人とも色々あって、悩んだり楽しんだりしていた。久々に会った人たちと話すと調子が狂い、精神が乱れるのは、他人に合わせてかぶる仮面のチューニングが完全にずれてしまうからだと思う。自分のよわさや嫉妬心を久々に実感せざるをえない。眠れない夜になりそうだ。

仮題『雛の月』

いったいどこから書きはじめればいいのだろう? これが日記であること、しかも期間限定の日記であることだろうか? 記録それとも、これがただの私信であることだろうか? だれに宛てたものかは勘の良い読者の皆々様にはおのずとわかるだろう。それまではしばしの我慢を……いやいや嘘だ、ぼくは最初から読者なんてものを想定してないのだ。読者なんてものは結果でしかない。読者はいつだって結果であり、ひとつの審判だ。ぼくはいつまでも判定を先延ばしにしたいのだ。夏休みの宿題を提出することなく二学期をやりきったいつかの小学校時代もたしかにあったのだ。これは自慢でもなく、ただの事実だ。そう、ぼくはこれから事実しか書かない。この文章はきわめて事務的で、作業的なものとなるだろう。とにかく今日は初日だ。そして実際に今日は三月一日である。期間限定と書いたのは、この日記が長くとも三月いっぱいまでのものなるからだ。三月の半ば以降、あるいは四月からぼくは仕事をはじめているだろう。はじめたての仕事というのは古今東西、物書きから時間をうばうのだ。ああ、なんという傲慢だろう。ぼくはじぶんを一端の物書きだとでもおもっているのだろうか? 何度小説を書こうとしては挫折してきただろう? 何度投げだして、放棄して、完成させては投げ捨ててきただろう。傑作を夢見て、ただ息をしていただけではないか? ぼくはただの記録官だ。だれに命じられたわけでもない、ちっぽけな記録官だ。しかし、それこそ魂が命じた真の天職というものではないか? ぼくは四月からまた東京のどこかの調理場で働いているだろう。あるいは魚市場? どちらにせよ、労働は魅力的なことだし、ぼくをさらなる高みへと連れて行ってくれることだし、金がないと生きていけないというものはこの短い人生の中で十分学んできたことだ。だが、ぼくはこれから料理人としてではなく記録官としての矜持をたたえて生きていくだろう。少なくともこの一か月は。それがうまくいくかどうかはわからない。結果なんてものは偶然だ。ぼくが記録官としての矜持を捨てない限り、いや、仮に捨ててしまったとしても、すべての過去は決してなかったことにならないのだ。その事実が、時おりぼくを爆笑させる。

 

ここは東京のはずれの街だ。それを明確にどこかと記す必要があることは重々承知している。だが、ぼくにだってプライバシーというものがある。それに信じてもらえないかもしれないが、ぼくは新婚だ。生活を阻害される万が一の可能性をぼくは無視することができない。それはもしかすると家主としての自覚なのかもしれない。なんにせよ家主としての自覚が、短期間でぼくを一層強くしたのは事実だ。そうでなければこんな文章をつづる気には到底ならなかっただろう。個人的な事情からくる幸せと春の陽気とが相まって、ぼくをこんなにも素敵な気分にする。いつかの桜吹雪がまぶたの裏から迫り、ぼくを圧倒するかのようだ。さて、落ち着いてコーヒーでも飲むか。ぼくはきわめて個人的な事情からインスタントコーヒーを嫌悪している。

晩飯のあと、みやーちは化粧を落とし早々と寝てしまった。メゾネットタイプのアパートメントの一室の三階で、彼女は毛布と羽根布団を重ねたぬくもりに身をゆだねている。彼女の寝顔はとてもうつくしい。ぼくはそれを目にせずとも明確におもい描くことができる。これを愛の力と呼ばずして何を愛と呼ぶべきだろうか? 記録官たるぼくはどうやら愛を知ってしまったようだ。ぼくはこれからアンパンマンのように世界の均衡を保つため、あらゆる厄災に奮闘しないといけないかもしれない。ぼくは一人こうしてPCと向き合い、己の使命と愛にふるえている。窓の外から怒号が聞こえてきた。さらに遠くから救急車のサイレンもうっすらと響いている。ああ、ぼくはもっと肩の力を抜くべきだろう。ぼくが力んでしまっては何の意味もない。ところで先ほどの怒号の声の主に関して、ぼくは大体の目星をつけている。治安が良いとされているこの街には、意外な場所に危険が潜んでいるのだ。それはやけに明るい高架下の空き缶だろうし、背の高い木が立ち並ぶ公園の入り組んだ通路脇のブランコだろうし、背の低い雑居ビルの地下一階だろうし、国道沿いの古びた中華料理屋で雑に置かれた吸い殻いっぱいの灰皿だろう。危険はまるで煙のようだと、ぼくはよくおもう。

 

この治安の良い街の、もっとも愉快な一角住む何人かと顔見知りであることはぼくにとってこの上ない喜びである。自宅のアパートメントからほど近いコンビニエンスストアのアルバイト店員であるカヤマという男はその説明にもってこいだ。カヤマは背がたかく、太っていて短い毛髪を安っぽいオレンジに染めている。背筋は不自然なほどすっきりと伸び、顎をこころもち上げている。肌は浅黒く、荒れ気味で、全体的な清潔感に欠ける。たいていレジの中でぼーっとしており、その視線が客をとらえることはすくない。他の店員がいる時は、彼らが品出しや事務作業ををしており、カヤマは素知らぬ様子でただただレジの中でたたずんでいる。これは決してカヤマを貶めるために書いているのではない。カヤマはすべての事象に対して泰然自若と構えているのだ。それは彼の最大の美徳である。彼は古代遺跡の忘れられたゴーレムかのようだ。声は常にちいさく、レジに何か商品を持って行った時はいつもほとんど聞き取れない声で、レジ袋はどうされますか、と問われる。ぼくはほとんど小さな買い物しかしないので、たいてい無視してレジ袋をことわる。カヤマはそんなぼくの態度を気にも留めず、丸みを帯びた大きな手で商品をレジにとおす。ぼくはたいていPASMOで支払いを済ませてしまうので会話はそこから一切なくなる。というより、そもそも会話などないのだ。カヤマは決して不必要にだれかに話しかけたりしない。だから彼がぼくに、ありがとうございました、などと別れのあいさつをすることはないのだ。もし仮にそんなことばを掛けられたらぼくは確実に怒り心頭してしまう。きみはいつから資本主義社会の奴隷になり下がったのか、崇高な魂を悪魔に安く売ってしまったのか! と責め立ててしまうだろう。しかしながら、そんな日は永遠に来ないとおもえる。ぼくはカヤマを尊敬しているし、彼はそんなぼくの気持ちを微塵も知ることなくレジの中に立ちつづけるのだ。それはもう永久機関のように。ぼくはどうしてこんなにも彼に好意を抱いてしまうのだろう。実際、ぼくは偶然店の前でシフト上がりのカヤマと遭遇し、ずうずうしくも声をかけてしまったのだ。彼はいかにもフリーターと言った具合の格好で、ジャージとかパーカーとかスニーカーとか、記憶にも残らないような恰好をしていたし、実際ぼくはぜんぜん覚えていない。ハイカットの白いスニーカーがうす汚れていたこと、ナイロン製の黒いウィンドブレーカーが色あせてくたびれていたこと、それくらいのことしかおもい出せないし、それさえどうでもいい。代わりにこの時、ぼくに声をかける勇気をくれたのは晴れた冬の夕空のすがすがしさや茜色の空気がかもすセンチメンタルだったことを記しておく。これは率直に言って敬意の問題である。ぼくは、いかなるものにも敬意を払いたがっている。それはもう過剰に! だからカヤマにもこんなことを口走ってしまった。

「きみはいつもおだやかな顔をしているが、その目はいつも鋭く、それでいてどこか間が抜けているように見えるね。それは君が俗世の問題を気にしていないからだ。きみに悩みがないとは絶対におもわない。だってきみはうっすらと、すべてを悲しんでいるだろう? もちろんぼくにきみの悩みを想像することはできないし、そうしようとすること自体滑稽だ。きみは不可解そうにぼくを見るが、それでいて視線は透き通っている。ぼくはそんなきみの内なる矛盾、静かな衝突がどうしようもなく好きなんだ。これは告白に近いかもしれない。ぼくの胸は高鳴っている。きみの口は苦痛にゆがんでいるのか? それとも笑いをこらえているのか? ぼくはしゃべりつづけることでしかきみの注意を引くことができない。あわれな講談師だ。きみは夕陽と同化して溶けてしまいそうなほどあやういね。きみの帰る場所はきっと清らかで情熱に満ちたところなんだろう。はるか昔に亡くなった教会のような神聖さを、どうしたってイメージしてしまう。時どき、ぼくはきみをゴーレム、それも大陸の古代遺跡で眠る年代物のように感じてしまうんだ。あながち、これは間違いではないようにおもえる。実のところ、きみは気高い。そして、ことばは悪いがうすのろだ。だが、それがすべての美徳とつながっている。」

カヤマはぼくのことばをじっと聞いたあと、にっこりとほほ笑んで身体をひるがえし、道を歩きはじめてしまった。西日に飲まれる方向へと向かっていたので、おもわずぼくははっとしてしまった。彼を追いかける権利も義務もぼくにはなかった。ぼくは茫然と立ち尽くし、しばらくその背中を見守っていた。それはノスタルジックで、みじめな気分を呼び起こした。やがてぼくは踵を返し、じぶんの目的地だった駅前のスーパーへと向かいはじめた。カヤマは外国人なのかもしれない、という仮説が宵闇のごとく心に広がっていくのを感じた。よくよくおもい返せば、彼が勤務中につけている名札の「ヤ」は小文字だったかもしれない。青は藍より出でて藍より青し、そんなことばが胸のうちにすんなりと染みわたるのを実感すると、なんだかとても疲れてしまった。

 

 

 

 

 

昨夜ヴァルザーの『ヤーコプ・フォン・グンテン』を読み返し始めてしまい、これがべらぼうに面白くて、ついインスパイアを受けた小説を書きたくなってしまった。以前読んだときは『タンナー兄弟姉妹』『助手』に劣るとおもったが、おそらくぜんぜんそんなことはないのだろう。ただ、冷静におもい返してみると、やはり『タンナー兄弟姉妹』の方が面白かったかもしれない。あれはすごい、というかなんともまぁふざけた小説だと思う。また読み返そう。

 

じぶんはおそらくうまく書こうとして成功するタイプではないし、以前書いた『ルパン~……』のように、大枠だけ決めておいてその場の即興で適当に書き連ねていく方がいいようにおもえる。それは、もうずっと前からわかっていたのだが、なかなか割り切るのがむつかしい。

 

働き始めは15日。それまでちょくちょく仕事関係の予定はあるが、基本的に暇なので小説を書いたり映画を観たりして気ままに過ごしたい。

 

うまくいけば、今年か来年どこかで天ぷら屋の大将をやることができるかもしれない。チャンスをものにしてガンガンステップアップしてメイクマネーしたい。