日日是好日

思い立ったときにだけ更新。大阪→和歌山→高知→奈良在住。現在、医療系大学教員。 音楽にお酒,映画に読書,四季折々のおいしい食べものと楽しみを満喫することと,愉快で情熱的な仲間と語らうことが,バイタリティーの源です。

ウィルスと共生する社会

4月16日、7日に7都府県に発令されていた緊急事態宣言が全国に発令された(期間は7都府県と同じ5月6日まで)。

急転直下、朝令暮改というのに相応しい宣言の発令である。宣言自体は、今この状況を鑑みるともちろん世間は受け入れるであろうけど、どうしてもっと早く、という声は絶えない。さらに、国民に一律10万円を給付することも発表された。所得が減少した世帯向けに30万円給付するとした案が、あまりに受けが悪かったことがあるのだろう。結果、30万円案は今後改めて検討されるようである。

しかし、嘆いてばかりいても事態は変わらない。とにかく今自分ができることを実行する。自分ひとりの行動が感染抑制にどれだけ貢献し得たか実感することは難しい、というかできない。しかし、選挙と同じく1票(ひとり)の重みを十分に理解して、その責任を放棄してはいけない。

 

現在、感染者が2倍になる「倍加時間」が随分短縮している。これも緊急事態宣言発令の背景にある。

4月3日に、新型コロナウイルスによる世界の感染者が100万人に達したが、15日時点で200万人を超えた。特に新興国や途上国では、なかでも貧困層や難民にとって危機的な状況が続いているという。トルコなどでは、3月11日に初めて国内感染者が確認されたあと、1カ月余りで7万人近くまで感染者が急増したという(朝日新聞4月17日3面より)。自国の制御もままならないなか、各国が協力し合うことには限度もあろう。感染は日本より海外で先行して拡大しているが、その影響もあり世界規模で経済危機を迎えている。

4月15日の朝日新聞に、国際通貨基金IMF)が14日発表した世界経済見通しが一面記事で扱われていた。IMFで遡れる80年以降、世界経済のマイナス成長はリーマンショック直後の2009年(0.1%減)だけだと。そのあとには、主要国の成長率予測(前年比大幅なマイナス成長)が示されている。

興味深いのは、AERA(4月20日号)の記事内に3月下旬時点のIMFの世界経済見通しが示されているが、その見通しを現在遥かに下回るマイナス成長を示している点である。

(3月下旬→4/14、日本:-2.6%→-5.2%、米:-2.8%→-5.9%、世界:-1.5%→-3.0%)

ほんの2週間でこれだけの下方修正がなされるとは、新型コロナウィルスの感染拡大の猛威は計り知れない。

同時に、トランプ・アメリカは、WHOへの拠出金の停止を表明した。WHOの予算(2年単位、2018-19年)は約56億㌦とされるが、そのうちアメリカは約15%に相当する約8億9千万㌦を拠出していた。この拠出金がストップすれば、ワクチン開発や途上国支援に多大な影響が出る。自国至第一主義VS国際協調の構図があからさまになってきた。

しかし、そんな中でG20財務相中央銀行総裁会議が、途上国の医療体制の整備を支援するため、債務の返済猶予を決めた(朝日新聞4月17日社説より)。世界規模の難題は、世界各国が手を組んで乗り越えていくほかない。

 

田原総一朗氏が10日に安倍首相と面会したことを書いている(http://taharasoichiro.com/cms/)。このなかで、なぜこれほど緊急事態宣言の発令が遅れたのか首相に尋ねている。厳しい財政への影響を理由に「ほとんどの閣僚が反対していた」とあるが、これに対して田原氏は「平時の発想」と指摘。いわゆる恒常性バイアスがこういう事態のときですら根強いという表れであろう。首相は「第3次世界大戦」という言葉を持ち出して説明していたようだが、緊急事態宣言の発令は「戦時の発想」に転換されたからこそ適ったという田原氏の分析は頷ける。

 

今地球上で一番流行しているインフルエンザは、09年の新型インフルエンザであるという。当時騒がれた新型インフルエンザは消滅したわけではなく、世間が騒ぐことをやめただけのことで、感染症はこのように「人類と共生する」結末を迎えることが珍しくないという(AERA4月20日号の神戸大学岩田教授の対談記事より)。https://dot.asahi.com/aera/2020040600017.html?page=1

騒ぐまでもなく共生できるような日を一日でも早く迎えるために、ワクチンと治療薬の開発と普及が待たれる。それまでは感染しないよう・させないように行動を慎むことに尽きる。

 

緊急事態宣言に想う

新型コロナウィルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令された。

当初、欧米のようにロックダウン(都市封鎖)や違反者の取り締まり・罰則などの不安・懸念や経済に与える影響を鑑みて慎重な姿勢を示していたが、感染経路不明者が増えていることなどから発令せざるを得ない状況に至った。

メディアの報道は、特に対象となった7都道府県の住民を中心にどのような措置が図られるのかという解説に時間を割いている。生活インフラは確保されると繰り返し説明しているが、一方で娯楽施設は自粛が促され、余儀なく休業を迫られた事業主等の悲痛な声が散見している。

この数日のうちに、まさしく急展開と言える勢いで緊急事態宣言の発令に至ったが、興味深いのは、その前後での異なる論調である。緊急事態宣言については、一般市民の声も含めて慎重論が多数を占めていたように思うが、発令後は「遅すぎる」という政府の判断力を批判する声も聞こえてきた。この際、政権の好き嫌いは置いておいて、この状況に至っては、どんな手を尽くしてもベストな選択というものはなく、段階的に手を尽くしていくしかないのが現状だろう。いかなる手段を講じても、「粗」な側面は見え隠れする。こういうときだからこそ、至らぬ点にばかり注意が払われるのも致し方ない。しかし、繰り返し政府やメディアが訴えているように、今自分ができることをひとり一人が自覚して行動に移すことこそが、辛うじてベターといえるものなのではないか。

今朝の情報番組「とくダネ」では、キャスターの小倉さんが自宅の書斎からの中継出演(テレワーク)であった。感染予防のためであるが、氏自身も「私自身がリスクのある高齢者」とコメントしていた。思えば2週間ほど前から、ニュース番組等では、出演者間の社会的距離がとられるようになり、別室からの中継出演も増えてきた。タレントやテレビ局関係者にも感染が至ったことから、撮影遅延・中止や放送の見送り・延期も報道された。

私事であるが、先日、足を運んだドコモショップでは、窓口の時短、顧客対応が予約制となっていた。そのせいもあってか、利用客の姿はまばらであった。一方で、利用している美容室(奈良県内)では、顧客は減るどころか大阪からの利用者が増えているという。感染者が多いエリアから逃れるように、周辺エリアにニーズが拡大しているのだろう。しかし、これが結果としてウイルスを運んでいるとなれば皮肉だ。理髪店も「3密」業態であり、悩ましいところである。マスクや消毒液が店頭から姿を消して久しいが、いずれにしてもこれだけ身近に事態が迫っていることをいやでも自覚せざるを得ない状況に至った。

感染症に対する「素人」が粛々と感染予防のために自粛生活を送っているかと思えば、患者を守るべき立場になるはずの研修医が、組織で禁じられていた会食を行ったことによる集団感染も報道された。「素人」よりも意識が高いはずの者であってもこういう行動をとってしまう不思議。よく日本人は平和ボケしているなどと揶揄されるが、「他人ごと」「自分は大丈夫」がどれだけ今回の感染拡大に影響するか考えてみてほしい。これは決して対岸の火事ではない。

経済対策については、リーマンショック時の約2倍に相当する緊急経済対策を講じると報じられたが、その成果も見通しは不明である。減収世帯への現金給付、中・小規模事業者への給付金などはその場しのぎに過ぎず、根本的な解決手段ではない。しかし、これによって生き永らえなければ、新型コロナウイルスが収束した先の景気上昇は叶わない。

 

 今日の朝日新聞朝刊に、「ネット情報うのみにせず調べる」という高校生の投稿が掲載されている。情報が錯綜するこんなときだからこそ、情報リテラシーが問われる。情報の洪水下で育った高校生が訴えていることに、その説得力がある。この緊急事態宣言が発令された状況下、集団の希望に寄与できるよう耐え忍ぶ所存である。

COVID-19に想う

新型コロナウィルス(COVID-19)の一連の騒動が世間を席巻している。

この一件のことを書くと、ついつい語気が強くなってしまうが悪しからず。

 

各国で、感染と感染拡大を防止するための要請や措置がとられている。しかし、その効果のほどは毎日感染者数が増加している現在、判断できない。

本来、陣頭指揮を執っていかねばならないはずの政府も、日々増加し続ける感染者数に翻弄され、後手に回り、十分な根拠を説明できないまま対策を連発している。

 

そんななか、Newsweek誌(日本版3月10日)では、ダイヤモンドエクスプレス号乗員・乗客の感染について、潜伏期を考慮すると、感染者の多くは介入前に感染したもののようであり、政府の対応にも一定の効果はあったのではないか、としている。

確かにそのような解釈も可能だが、国民の心情は結果論に偏っていることもあり、今回の対応について肯定的な意見は少ないだろう。

一方で、対応した検疫官や政府関係者などが感染してしまったのは大変残念なことである。昼夜を問わず多大なリスクを覚悟で過酷なミッションの遂行を迫られていたスタッフが、世間から多大なパッシングを受け、挙句の感染。これはあまりに報われない。

船内で対応した乗員や専門家などには同情する。船内での活動に、どれだけ明確な戦略が示されていたか定かではない。これまでの政府の対応をみていると、決して十分なものでなかったであろうことは容易に想像できる。

にもかかわらず、この緊急事態にわが身の犠牲をいとわず粉骨砕身したスタッフに罵詈雑言を浴びせ人がいるとは。これは、自分が当事者となり得ることを想定していない者の発言であり、対岸の火事として傍観しているが故の軽率な態度であるとしかいえない。

 

先日、あるテレビ番組でCOVID-19の話題が取り上げられ、タレントをはじめとするコメンテータが議論していた。

途中、専門家が「50,60代以降は重症化や死亡のリスクが次第に高まる」、という話に及んだ。そのとき、ある50代のタレントが「えっ!私も該当してるんや!気を付けないと」という旨の発言をしたが、この発現こそが真意を表しているように思える。

当初より、若い人は体力もあり重症化しずらいということが報道されていたが、このタレントは「自分は若くて体力があるので大丈夫だ」と「大丈夫な側」という立ち位置にいたのだろう。

奇しくも、このタレントは、COVID-19に感染して治療している、あるいは亡くなられた方と私は異なる側にいますよ、と暗に自白したのである。しかし、自分が「危険な側寄りの人になる可能性」があることを知ると、途端に態度を改め、「気を付けないと」という発言に及ぶのである。

 

現在のCOVID-19に関する要請・措置は、もはやエピデミックからパンデミックへと拡大する最後の水際作戦ともいえる。なかでも途上国などは、未だ十分な公衆衛生が行き渡っておらず、検疫技術・機関と医療を備えた先進国間の国際協力が終息を左右するだろう。

各々が大切にしないといけないのは、必要以上に不安を覚えたりデマゴーグに左右されることのないよう、現状を冷静に見定めること。そして、これらの事態は決して他人事ではなく、いつ自分が家族がそのような危険に曝されるかもしれないという「適度な危機感」をもって、手洗い・うがい、人込みを避けるなど身近なところで実践できることをこなしていくしかない。

 

早い終息を祈るばかりである。

ご恩返しは後進に

昨日、社会人(医療人)1年生からお世話になった大先輩が亡くなられました。

 

その方は、この数年は一線を退いていたものの、後進の指導・助言に尽力し続け、同時に闘病もされていました。

一時は寝たきり状態でしたが、その後、理学療法に励まれ、歩行練習ができるまで回復されていました。

つい先月も、歩行練習中に私を呼び止めてくださり、少々言葉を交わしたのですが、それが最後となってしまいました。

 

かつては、敏腕の病院経営者として国内を飛び回っている方でした。

私が理学療法士として地元和歌山の病院に就職した1年目のことです。

全日本病院学会で初めての学会発表を博多で行った際、夜のレセプション(当時、レセプションもよく分かっていませんでした)に右も左も分からない私を引き込んでくれました。

私は局長(私はその方を役職名から「局長」と呼んでいました)のあとをついて行くしかなかったのですが、行く先々で局長は呼び止められ、「なんて顔の広い人なんだろう」と驚いたことを覚えています。

 

私は局長の病院で約3年半ほど勤務したのですが、その間、いろいろな局面で私のような駆け出しの若者の話に耳を傾けてくださいました。

例えば、診療報酬に退院前訪問指導料が新設されたときの話。

私はここぞとばかりに当時担当していた患者様の自宅訪問を当時のリハ科長に上申したのですが、いろいろな口実で認めてくれません。

今となっては若気の至りですが、科長の許可を得ないまま、同僚の作業療法士とともに休日を使って自宅を訪問したのです。

そして、夜に病院のリハ室で自分たちなりの報告書(レポート)を作成していたとき。

私たちの気配を察してか、リハ室に誰か入ってくるではありませんか。

焦ったもののどうしようもなく、観念していたのですが、そこに立っていたのは局長でした。

局長は何をしているのか私たちに尋ねましたが、私たちは言い訳などせず、いっそすべて話して聞いてもらおうと。

退院前訪問指導料が新設されたこと、これだけ大切なことなのに科長がなかなか了承してくれないこと(いわゆる愚痴)、一方で勝手な行動をとってしまったことに対する謝罪。

すると、局長は静かにうなずき、帰りが遅くならないように私たちを諭して、その場を去りました。

その後、私たちに対する処罰などなく、それどころか、ある日突然、科長から退院前訪問指導を積極的に実施していく旨の方針が告げられました。

おそらく、局長が何がしかのかたちで動いてくれたのだと私は確信しました。

 

退職時もそうでした。

当時、私は訪問リハビリテーションの必要性を切に訴えていたのですが、なかなかとりあってくれる人はいませんでした。

その後、病院という箱の中に腰を据えている我々の前に来てくれる患者様を対応しているだけでは足りない、逆に、こちらから生活されている方の地域に足を踏み入れていくべきだ、と、それが叶う職場への異動を求めて退職を決意したのです。

このときも退職に関していろいろうるさいことをいう経営者サイドの方々がおられたのですが、局長は他の方々と明らかに違いました。

私の話をしっかり聞いてくださり、そのうえで、これからのリハビリテーション科はどうあるべきか、どのような事業展開が必要か、訪問リハビリは重要か、など、それはまるで経営戦略ミーティングのようでした。

 

退職後も、局長との接点は絶えることがありませんでした。

私が地元の和歌山を離れ、高知の地(理学・作業療法士養成校)に異動しても、毎年会いに来てくれました。

半ば、求人のためでもありましたが、「お前のいる学校の卒業生なら」と、これまで卒業生も大勢お世話になりました。

 

昨年4月、私は拠点を奈良に移しましたが、その後直ちに(5月ごろ)、私に会いに来てくださいました。

その際に仰ったことは「うちの病院のリハ科を頼む」ということでした。

詳細はいえません。

さらにその後、もう一度奈良に来られて、同じことを仰られました。

 

そしていま、私は社会人・医療人(理学療法士)としてスタートをきった、かつて局長がおられた病院に毎月、足を踏み入れ、現場のスタッフとともに臨床にいます。

微力ながら、局長の期待に応えようと、尽力しているのです。

 

かつて勤めた病院に、ふたたび臨床に足を踏み入れる。

再びこんな日が訪れるとは。

そんな機会を、ミッションとともに晩年の局長は与えてくれたわけです。

時代の変遷はあるものの、それに決して翻弄されることのない、揺るがない普遍的なものが局長の教えのなかにはありました。

それを授かることができた幸運は、何物にも代えがたい。

 

とても威勢のいい声とその調子が魅力的でした。

いまもなお、その声がふと聞こえてきそうです。

局長が亡くなった今、局長と酌み交わした酒の分だけ、いやそれ以上の思い出と教えが、私のなかで昇華されていく心もちです。

局長に、これまでの御恩を返すつもりはありません。

局長に頂いた授かり物は、しっかり後輩に伝えていきます。

それこそが、結果として最高のご恩返しのかたちではないでしょうか。

ねぇ、局長!

 

合掌。

 

首里城の火災に思う

首里城には一度行ってみたいと思っていながら、未だ叶っていませんでした。そもそも、沖縄に行ったことがない。沖縄の歴史を知るほどに「行かなければいけない」という思いが募っていたので、なかなか今回の首里城の火災は残念でした。

今日の朝刊には、スプリンクラーが建物内になかった旨が改めて記事になっています。設置義務はなかったようです。ただ、設置すると誤作動による歴史的な建築物や文化財への被害の懸念があったのでしょう。法隆寺にもスプリンクラーはないようです。

先日は、首里城の屋根の瓦職人が故人であるため、復元は不可能という記事が掲載されていました。「復元を」という声は大きいですが、そう一筋縄にはいかないことは分かっています、でも、やはり「復元を」と声をあげたいですね。

決して、お金だけでは解決されない数々の障壁があるはずです。しかし、本当に大切なものは、必ず叶えられるでしょう。そう信じて、首里城跡に改めて復元される首里城を見守っていたいと思います。

 

幼なじみのこと

私が22歳の春、社会人として勤めに出る直前の3月のことです。

 

ふと思い立って、幼少期を過ごした大阪のアパートを訪ねました。

私は小学校2年生の時に和歌山に引っ越していたので、

それ以来、訪れるのは初めてのことでした。

 

古い2階建てのアパートは当時のまま。

すべてが小さく見えました。

アパートの裏には小さな川が流れており、

そこでオタマジャクシを捕ったりしてよく遊んだものです。

 

私には幼なじみが数人いて、

そのうちの一人(正確にはその兄弟も含む)の家は

アパートに程近い場所で寿司屋を営んでいました。

寿司屋はちゃんと営業していました。

店内に入ると、懐かしいおっちゃんとおばちゃんがいます。

私にはすぐわかりました。

 

ふたりは私を大人の対応でおカウンター席へ案内します。

カウンター越しのおっちゃんとおばちゃんを眺めます。

私から切り出しました。

「この顔に見覚えない?」

ふたりは少し戸惑ったようでしたが、

おばちゃんは「ひょっとして・・」と思い出してくれました。

最後に会ってから15年経っています。

 

驚いたことに、ちょうど自宅に幼なじみがいるといいます。

すぐに顔を出してくれました。

タイムスリップとはこういう感覚に違いないですね。

幼なじみが大人になってる。

 

あの時のこと。

今までのこと。

たくさん話して、空白の時間はすぐに埋められました。

 

おっちゃんにお任せで握って貰った寿司はとても美味しく、

当然のようにお金は受け取ってくれませんでした。

 

そんなことがあって昨年、

さらに15年以上が経過してすっかりアラフォーになった私は

近くで仕事があったのをいいことに

再び大阪のアパートを訪ねました。

 

15年前と同じように

「おっちゃん、誰かわかる?」

今度は前回よりも早く気付いてくれました。

幼なじみは結婚して子宝に恵まれ、

すぐ近くで元気に暮らしているということでした。

おっちゃん、おばちゃんも元気といえど歳を重ね、

昨年は入院したとか。

こちらの両親の心配もしてくれて、

健康の大切さを共感しました。

 

ところで。

 

私には数人の幼なじみがいたのですが、

そのうちの一人が当時随分な泣きべそで。

いつも鼻汁を垂らして、めそめそ泣いている、

そんな友人がいました。

彼は弟との二人兄弟で、母子家庭でした。

お母さんは近くの中華料理店に勤めており、

そのお店から持ち帰る大学芋を私たちによく振舞ってくれました。

 

彼の家は小屋といってもいいみすぼらしい家でしたが、

彼は自宅では一生懸命弟の世話をする優しい男でした。

 

私が転校することになった小学校2年生の夏、

彼は姓が変わりました。

当時は理由がわかりませんでしたが、

両親が正式に離婚したということでしょう。

 

彼とはそれ以来、会うことはありませんでした。

そんな彼がその後どうしているのか、

私は大変に気がかりだったのです。

 

寿司屋のおっちゃんおばちゃんにそのことを尋ねると、

やはりその後、兄弟は苦労を強いられたというのです。

母親はその後再婚したものの、

まともな子育てができなかったようで、

彼ら兄弟は早い自立を求められたと。

 

幼い日々に見た彼の優しい瞳と、

僕の名前を呼ぶ彼の声が呼び起されます。

 

彼はいまどこでどんな風に暮らしているのでしょうか。

あたたかい家庭に恵まれていることを願ってやみません。

 

いつかそんな彼と再会し、

盃を酌み交わして昔話などしてみたい。

 

アパートの裏を流れる小川を眺めながら、

当時の僕らの幻影をみるのでした。

 

豊かな語彙が感性を磨く

豊かな語彙は

表現を豊かにする

気づきが増して

創造力が高まる

 

それはまるで

色彩豊かな絵画のように

 

一方、

表現力や文章力が乏しい若者に

日本語が壊れていないかと

一抹の不安を覚えることがある

 

うれしくても

美味しくても

失敗しても

驚いても

怒られても

何が自分に起こっても

「ヤバい!」で片づけられる若者言葉

 

便利ではあるが

老夫婦の言葉不要の阿吽の呼吸とはわけが違う

 

繊細なイメージや巧みな表現

思考は頭の中で描いた絵や言語で行われる

足りない語彙は何かにつけて足かせになる

 

感性を磨くために

人に会おう

肌身を通して通じ合おう

時代を超えて先人に会おう

巨人の肩の上にたち

そこから見える景色を

楽しんでいよう