NUMBER GIRL

NUMBER GIRLというバンドのライブを観た。

 

思い返せば、高校生のときBase Ball Bearを頻繁に聴いていて、明らかに影響を受けていると雑誌に載っていたインタビューを見たのがきっかけで聞くようになった。歳を重ねるごとに、自分の中でこのバンドがどんどんと重みを増し、いつの日か、目の前で彼らが演奏しているところを見てみたいと思っていた。

 

問題は、NUMBER GIRLが当時すでに解散していたということである。できることといえば、ライブ盤や当時の映像を反芻しながら彼らの残像をなぞっていくことくらい。なぞる行為は日々頭の中で行われ、アップデートは一向にされることなく、いつまでも20代の彼らの残像が頭の中にこびりついていた。

 

そんな残像をなぞる日々の果てに、今年、いよいよ彼らが再結成し、この目でNUMBER GIRLという存在を確認する機会を得た。降りしきる雨の中で、登場する彼らに対して、観てはいけないものをみてしまっているのではないかという一種の恐怖感すら覚えた。おそらく自分の中の受容量が完全にキャパオーバーしていた。ライブが開始してからの記憶は正直言ってほとんどない。時間にして一時間もない中で、人の波にのまれながら、演奏する彼らをただただ見つめ、無意識に声を出し、腕を上げていたのをぼんやり覚えているくらいである。

 

ただ一つだけ鮮明に覚えているのは、彼らのライブの演奏と、もみくちゃになりながらともに演奏を観ている人々のタイム感がときよりズレていたことである。ともにライブを観ている人たちが発する、歓声に近い歌声やカウント、それに応じる体の揺れは、確実にライブ盤やライブ映像のそれだった。そこにいる人々の頭の中に、自分と同じように残像が鮮明に残っていて、自分と同じようにその存在を確かめにきているのだと感じた。残像をなぞり続けていたひとが自分の他にもこんなにたくさんいたのだと思うと、不思議な気分になったし、なんだか嬉しかったりもした。

 

そんな感覚も合間って、ライブ終了後はポカンと穴の空いた気分になった。頭の中で、長年追い続けていたイメージが、バンッと形になって現れた。ふわふわと言葉にならないが、妙にスッキリした気分になる。残像の中にいる20代の彼らは最高に格好がよろしいのだが、今回、観た彼らの実像は、残像から推測するものよりさらに格好がよろしかったのだと思う。そんなヒーローのような存在を、自分の中で持てて幸せだと、帰りの新幹線で、改めてセットリスト順に曲を聴きながら感じた。

 

土砂降りの中、ライブが始まり、透明少女のイントロとともに雨が止む。そんな偶然とは思えない出来すぎた演出に、やっぱりあれは夢だったんじゃないかなと思いながら、ヒーローの残像をなぞる日々がまた続いていくのである。

 

よくわからない身分

この半年間、身分らしい身分が無かった。大学は秋に卒業したが、入社予定の企業には、秋入社というシステムは無く、その次の春に卒業する人と同じタイミングで4月に入社をする必要があったからだ。すなわち、この半年間の自分は、大学生でもなく、社会人でもない、客観的に見たら、よくわからない身分なのである。

 


よくわからない身分の人間に与えられたのは、半年という時間と、それに同等の何もしなくていい「自由」である。ただただ真っ白な時間だけ。そもそも学校も、仕事もないので(もちろんアルバイトを多少していたので全く働いていなかったわけではなかった。しかしやっていたアルバイトは、シフトの概念がまるでなかったので、いまいち、これまでのように働いている感覚がなかった。)「休み」という概念もなかった。そんな日々を過ごしながら、考えてみると、今まではいろんなハードルを飛び越えながら、生活にリズムを与えていたことに気づく。大学の生活や人との関わりの中で、迫ってくるハードルをぴょんぴょん飛びながら、日々をこなしていっていたのだが、この半年間は全く異なり、そうしたハードルが全く迫ってこないのだ。というか、もはや見当たらない。ハードルを越えるときはまっすぐ走れるが、この半年間はその道すらはっきりしないのだ。ならば立ち止まればいいのだと思うのだが、長年の癖は簡単には抜けない。しかも周りの人間は、ハードルをぴょんぴょんと飛び越えているのに、自分だけが止まっているわけにはいかないという感覚に陥る。ここまで周りの目というか環境というものを自分が意識しているとは思わなかった。もしかしたら、心のどこかで思っていたけど、目を背けていただけかもしれない。

 


そもそも「自由」というものは聞こえがいい。社会の授業でも多くの文脈で、人々は自由を「勝ち取った」と習った。きわめてプラスの意味で用いられることが多かったはずだ。なのに、いざ自由になった自分は、その自由を謳歌しようとせず、あえて不自由になろうとしてしまう。何もしなくていいのにも関わらず、何かをしなければならない、自分のやりたかったことをしなければ損だという謎の使命感にかられ続けるのである。そうして、謎の使命感に体を引きずられながら、結局のところ、行ってみたかったところを長期で旅行する日々が続いた。まっさらなスケジュール帳には、フライトの予定、何月何日にどこにいるのか、いつ帰ってきてこの日はどこで過ごすのか、どこに行くのかという予定が刻まれていく。空いた日は、その旅行をするためのお金を稼ぐ時間で埋まっていった。何もしなくていい状態なのに、その状態に押しつぶされそうになる自分がいたのである。忙しく目まぐるしく過ぎていく現代社会の波から外れてのんびりと過ごすことができて、客観的には、幸せと評されることが多い一方で、主観的には、比較的不幸な気分になっていたり、よくわからない責任感や義務感(本当によくわからないものである)に苛まれ、それを何にもぶつけることが出来ず、かわりに不自由になることで、それらを消化していく極めて不思議な状態だった。誰かから言われたわけではないが、確実に誰かから言われたような期待や義務に答えるかのように、日々を過ごしていったように思える。

 


小難しい話が続いてしまった。読んでいて自分でも少し引いてしまった。秋卒業が決まった当初は、もっと身体的にも精神的にものんびりと過ごすつもりだった。しかし、のんびり過ごそうとすると頭が動いてしまう。頭が動くと全身が不自由に向けて動き始めてしまう。(別に不自由が悪いとかそういうことを言いたいわけではない。)きっと、自由を勝ち取った人も同じような感覚、状態になったのではないかと思う。というかそうであってほしい。自由と不自由の度合いは比べ物にならないくらいだが。そうじゃないとするならば、その自由の楽しみ方を教えてほしいぐらいである。そんなことまで教科書には書いていなかったけれども。もしそれを書いた本が出たら、真っ先に買うが、そもそもその本を買うという行為が不自由になっているということなのかを考えると、実はこれは手を出すべき問題ではないのかもしれない。

 

「自由からの逃走」で同じようなことを読んだことがあるが、まさか、自分が疑似的にではあるがそんな状態になるなんて思ってもみなかった。いずれにせよ、モラトリアムを髄の髄まで味わうことが出来たであろう自分は、皮肉ながらに幸せな人間なのだろう。


そんなことを言っていたが、もう少ししたら、会社員という身分に様変わり。こんな日々が懐かしい、うらやましいと思えるくらいには、忙しい日々があわただしく過ぎていくと思うと、名残惜しさもある。しかし、この経験を持って、もう一度、このよくわからない身分に戻ったとして、全く同じ過ごし方になってしまうだろう。それは精神衛生上良いことではないので、この感覚と経験だけを持って、また異なるステージに身を移してなんとなくぬるっと頑張っていきたいと思う。

Thank you

いわゆるアパートメントホテルに泊まった時のこと。日本とは勝手が違い、内側からもキーを使って開閉をするタイプのドアだった。面倒くさいなあと思いながら、部屋を出る。そのとき、普段の癖で内側にキーを付けたまま、バタンとドアを閉めてしまった。一度しまったドアは鍵が無ければ開けられないにもかかわらず。無意識というモノの恐ろしさを感じるとともに、いわゆるインキ―がこの瞬間に完了し、一人の旅行者はドアの前でただ茫然と立ち尽くすしかなかった。

 


完全にやらかしてしまった。それでも落ち込んでいても埒があかないので、急いでアパートを貸してくれたホストに連絡をすると、すぐに駆けつけ、いやな顔一つせず、笑顔で鍵をぶっ壊して開けてくれた。あまりの素早さと大胆さに一種の清々しさすら感じた。「全然大丈夫だ、気にするな」という言葉と開いたドアを見て、心の中は申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいになっていた。

 


その上、彼は、寒かったろうとカフェに連れて行ってくれてコーヒーをごちそうしてくれた。カフェにいる間、何度、感謝の言葉を口にしたかわからない。「Thank you」をはじめ、英語で思いつく限り、様々なお礼を述べていたが、どういうわけか、最後には「本当にありがとう」と日本語で何度も言っていた。彼にはもちろん日本語がわからないのに、日本語でありがとう、ありがとうと。

 


なぜだろうか、「Thank you」と何度も言っているのに、感謝を述べているようには、到底思えなかったのだ。頭の中では違和感が満載だった。「Thank you」が感謝の言葉として全くフィットしていない。自分にとって、「Thank you」はどこまでいっても「Thank you」であって、普段、自分が感謝を述べるときに使う「ありがとう」には結びついていなかったのである。もちろん、中学校の英語の授業ではイコールのように習ったつもりだったのだけれども。自分が持っている感謝の語感のなかに、「Thank you」はリストアップされていなかったことに気づく。表面上ではお礼を言っているつもりでも、頭の中では全然感謝の気持ちが伝えきれていないように思えてしまう。文字面を変えて、「サンキュー」とか「さんきゅー」とかを頭でイメージしたほうがしっくりくる。頭の中が、日本語という母語によって構成されていることを、ここまでまじまじと実感したのは初めてだった。

 


とにかく、最終的には日本的なスタイルで感謝を伝え、他愛もない会話をして一時間ほどがすぎた。彼が日本に来た時に、インキ―したらすぐに駆けつけるよと、最後に冗談交じりの会話を交わし、その場はお開きとなった。その後、日本に帰るまで、部屋のキーを、ポケットの中で確認しながらドアを閉めるようにしたのは言うまでもない。失敗して人は強くなるのである。

ストリーミングサービス


東南アジアやヨーロッパを長期旅行している時、長距離移動でバスや電車に乗る機会が極めて多かった。走行中の車内は基本的に暇である。現地の人々を観察したり、車窓から流れる景色に目をやったりして、時間をこなしていくのだが、ざらに移動時間が10時間を超えることもあったため、大抵の場合、そのうちに飽きてしまい、一人旅で特に知り合いもいなかったので、最終的にはイヤホンをして音楽を聴くときがほとんどだった。

 

 

先日、チェコからクロアチアに移動した際も、長距離バスで移動したため、例にもれずこういった時間を過ごした。昔は容量いっぱいに詰め込んだIpodウォークマンで音楽を聴いていたが、Apple MusicやSpotifyが登場してからというもの、ストリーミングサービスの便利さに気づいてしまい、もっぱらスマートフォンで音楽を聴くようになった。旅行中も現地SIMを持っていたので、4Gのサクサクとしたネット環境下で自分の聞きたい曲をなんとなく流して、荒れた道路の上を揺れながら走る車の中の時間をやり過ごした。時代と技術の進歩に感謝である。しかし、こんなに自分の聴欲というか、そういった類の欲を、いともたやすく満たしてくれて、しかもおすすめの他の曲まで教えてくれてしまうことに、偉大さと同時に一種の不気味さすら覚えてしまった。

 


おそらく、生まれた時から、このようなストリーミングサービスに触れて育ったのであればこのような感覚にはならなかっただろう。しかし、残念ながら、自分はストリーミングネイティヴではない。物心ついたときはカセットテープを使っていたし、CD、MDプレイヤーだって持っていた。中学生の時には2GBのIpod nanoに衝撃を受け、150GBのIpod classicを手に入れたときには、もはや自分は無敵だと思った。アスファルトに落として壊したけど。こうして思い返すと、音楽を聴く媒体の変化とともに大きくなってきたことを実感する。聞いている曲は、中学、高校生のときと相変わらず一緒かもしれないけれども、再生する媒体は実に多種多様であった。

 


その時ふと、同じ曲を聞いていても、再生する媒体によって、なにかちょっと変わってくるのではないかということを思った。音質とかそういった話ではなく、もっと身体的な動作の話。大抵の場合、レコードは聞くときに盤面に針を落とさなければならないし、カセットはA面B面を変えるときには裏返さなければならない。CDだってMDだって、アルバムが終わったら入れ替えないといけない。同じものを聴くといっても、再生の前に入る動作は媒体によって異なる。

 


自分の中学時代を彩った2GBのIpod nanoだって同じことが言える。2GBという容量はせいぜい500曲ぐらいしか入らない。(当時は500曲も!と驚愕していた。)パソコンから同期をするとき、確実に容量以上に入れたい曲で溢れてくる。したがって、Ipodに曲を入れる前に、脳内では毎回、「どのバンドのどのアルバムを入れるか選手権」が開催されていた。毎回W杯決勝戦並みに白熱した戦いを見せながら、泣く泣く選考から漏れたバンドのチェックマークを外し、同期をかけていた。選抜を乗り越えた曲は、ゆく先々でひたすらに何度も何度も聞き倒された。その後、持ち運ぶ曲をガラっと変えると、同じ空間に過ごしているのに全く違う新鮮な世界が見えたりもして、思い返してみると、容量に縛られているわりに、その不自由さを楽しんでたのかと懐かしく感じた。

 


ストリーミングで何万とあるリストから親指一つで選んだ曲と、「脳内どのバンドのどのアルバムを入れるか選手権」を乗り越えて聞く曲。中身は同じでも、何となくそこにある動作とか思い出とかドラマとか、そういったその曲の再生と同時に脳内を彩るものは、なんとなく違うのかなと思う。もしかしたら、レコードを聴いていた世代、カセットテープを聞いていた世代の人々、もっと遡れば、ラジオで音楽を聴いていた世代や、教会やホールで音楽を聴いていた世代も、その都度登場する新しい再生媒体に対して、同じ感覚を持っていたのかもれない。そこに古臭さを一ミリも感じないのは、再生という動作に対して他の媒体では代替できない一種のドラマ性があるからだろう。これだけ技術が進歩していても人間の根底にある感覚はそう簡単には変わらない。音質の面で差はあるかもしれないが、こうした点において、良し悪しは決してなくそれぞれが絶対的に良いものである。みんな違ってみんないいとは、まさにこのことなのかもしれない。

 


映画やCM、小説などで、レコードに針を落とす描写が、ゆったりとした贅沢な時間の使い方の表現としてしばしば用いられているのを目にする。いつの日か、自分と同じ世代を過ごした人々が、制作者として「脳内どのバンドのどのアルバムを入れるか選手権」の描写も何かの表現の一種として用いていくのだろうか、一体それはどういった情景の表現なのか。そんなことを考えていた時には、バスは音楽の都ウィーンに到着し、休憩時間となっていた。さすがに疲れたので、外に出て一伸び。そういった表現ができているころには、自分ももっと金銭的にも、教養的にも、もっと余裕があって、ウィーンで下車してオペラでも鑑賞できるようになっていればいいなと思った。それと同時に、2GBのIpod nanoが教えてくれたこうした感覚を、その時も忘れずに持っていたいとも感じた。異国の地で、何となく懐かしさに浸っていたが、乱暴に出発のクラクションが鳴ったので、バスに乗りなおす。イヤホンをつけなおし、スマートフォンで曲を選んで、バスはクロアチアへと走り始めた。

 

浮遊感

昔から、知らない場所をふらふらすることが好きである。一般的にはそれは「旅行」と総称されるかもしれないが、小さい時から、自転車に乗って近所をぐるぐる飽きもせず、一日中回っていた。大学生になって免許を取ってからは、行先や方角だけ何となく決めて、適当に荷造りをしてひたすらにバイクを走らせたり、青春18きっぷを使って、朝から晩まであてもなく電車に乗ったり、飛行機の往復券だけとって、海外のさまざまな場所を、特に目的もなく訪れたり、年齢を重ねるにつれて、行動範囲は飛躍的に広がったものの、本質的には、自分のやっていることは変わらなかった。

 


だからといって、「じゃあ旅行が好きなんだね」と言われるとハテナが浮かぶ。ゲストハウスで働いていた時も、本当に様々なタイプの旅行者を見てきて、旅行というものが千差万別、百人いれば百、飛び越えて百五十通りくらいあるのではないかと思ってしまう。だからこそ、「じゃあ旅行が好きなんだね」と言ってくれた人と自分との間で、お互いの「旅行」というものの形や内容物を、完璧に共有できているとは到底思えないのである。しかし、そんなことを言っていると時間と口の体力だけを浪費し、一生会話が進展しないので、とりあえず「うん」と言ってしまう。時間が無限にあればもう少し努力するけど、結局、疲れて「うん」と言ってしまう未来しか見えないので、今のままでいい。

 


それでは、自分は何が好きなのだろうか。一体何を求めて、わざわざお金と時間を払ってまで、ふらふらとどこかに行こうとしているのだろうか。美しい景色、おいしい食べ物、人とのコミュニケーション、自分探しなど、旅行をテーマにさまざまなキーワードが浮かんでくる。しかし幼少期の実家周辺の住宅街から、海外の国々までを貫くような本質的なものは、そのどれにも該当しない気がしてしまう。

 


これまでのふらふらしていたどの場面を切り取っても、自分の全く知らない、馴染みのない場所に行くこと、自分を含めそこに存在するすべての人とモノの行動が、自分の頭の中で予定されていないということは共通している。すなわち、訪れた場所では、自分は確実に「よそ者」なのである。そこの生活圏にとって、本来であれば交わることがない人間がふらふらと迷い込んでいるのである。当然、その生活圏には特有の文化や慣習が大なり小なり存在している。同じ台本のもとで、生活が演じられているようなものである。しかし、「よそ者」はそんな台本など与えられず、急に舞台上にポーンと放り出され、またふらふらと移動するとともにその舞台を降り、次の舞台に立つのである。観客席からみると、周りと比べて、自分だけがふわふわと浮いた存在になっていることがわかる。



逆に言えば、自分が日常的に存在している生活圏の中では、意識していないかもしれないが、自分の役割、自分の演じる役というものが存在しており、多少のアドリブはあるにしろ、その台本に沿った行動が求められる場面が多い。それは決して悪いことではないし、仮にそうでないとしたら、生活が回らない。

 

 

つまり、知らない土地をふらふらと訪れることで、住んでいる生活圏では味わえないある種の強烈な“浮遊感”が味わえるのかもしれない。自分が確実にそこに存在するのに、同時に、確実にそこには存在していない。自分だけに台本が配られていない世界。決してその日常には入り込むことが出来ず、連続する非日常のなかをふわふわと、さながら遊泳でもするかのように流れていく。文化や慣習はもちろん、下手をしたら言語などのコミュニケーションすら円滑にできないため、猛烈な不安に襲われる。それにも関わらず、逆に、そのぽっかりと空いた周りとの距離が、自分を宙づり状態にし、極めて心地のよい不思議な浮遊感を自分にもたらすのである。

 


この“浮遊感”を求めて、性懲りもなく、ふらふらと様々なところに行ってしまうと考えると何となく納得がいく。小さいころからのリピート率を考えるとかなり中毒性が高いものであることは間違いない。しかし、浮遊感の中に包まれ続けると、そのふわふわした世界に酔ってしまう瞬間が必ず訪れる。非日常はどこまで行っても非日常であり、進みすぎて、軸足が日常から離れると、子供の手から離れた風船のように、浮遊を飛び越え、あらぬ方向に進んでいってしまうのだ。気持ちのいい浮遊は、紐を止めておく場所があるから成り立っているのだ。家に帰れなくなってしまっては困る。台本から逃れて、ふらふらと外に出たにもかかわらず、そうしてまた、自分のホーム劇場に戻ってきてしまう。しかし、あの強烈な浮遊感が忘れられず、ふらふらと外に出ていっては、酔っぱらって帰ってくる。

 


そんな繰り返しの中で、ホームのありがたみにも気づかずに、これからも生活は繰り広げられていくのだと思う。

 

 

cow in my mind

牛が食べられない。噂には聞いていたが、デリーでは、本当に牛肉を食べることが出来ない。レストランの「Beef」の文字に心を踊らせ、注文して来た肉が水牛、すなわちバッファローだったなんてことは日常茶飯事。なんてことない焼肉の写真がSNSに上がるたびに、こぶしを握り締めるほど、牛肉に対して飢えていた。半分ぐらいホントの話。

ヒンドゥー教では、牛は神様を乗せてやってくる神聖な動物。だからこそ、その牛を食べることはおろか殺すなんてもってのほか。最近では、保護区に隔離されていることもあるが、それでも街中では、車とともに多くの牛が文字通りの牛歩をかましている。州によっては食べられるところもあるが(実際ゴアやケララ州では正真正銘のビーフカレーを食べることが出来た)牛を食べることを法律で禁じている州も多い。天下のマクドナルドもバーガーキングもチキンやマトンでバーガーを提供する徹底っぷり。

 

こんなに大事にされながらも、牛が荷物を引く姿はなぜか何度も目撃した。今となっては減少したが、昔はもっともっと多くの牛車が活用されていたらしい。 

それにしても、なぜ牛が食べられないのか。牛肉が食べたすぎて(電車移動が暇すぎて)真剣に考えたことがある。「ヒンドゥー教では、牛は神聖だから」と教えられてきたし、多くの人はそう答えるだろうが、この答えにはいまいちピンとこない。

 

そもそも、別にヒンドゥー教を創った時点、原点で、牛のみを神聖にする必要はどこにあったのかと思ってしまう。動物全般を、神様の乗り物にしてしまうことだってできたはずである。それが動物である意味もなくて、船でも、紙飛行機でもよかったはずだ。

それなのに、なぜ牛に神様を乗せたのか。ヒンドゥー教をインドで形にした人々は何を考えていたのか。その前に壮大な話を整理しておきたい。生き物、種としてのゴールとはなにか。一つのゴールとして考えられるのは繁栄、つまり数を増やすということである。人間もまた例外ではなく、人数が増えるということがすなわち、生き物としての繁栄を示す。現代において、このような考え方はほとんど見られないと思うが、ヒンドゥー教が創られ、定着し始めた時代には少なくとも今よりも人々の間で、繁栄の意識は強かったのではないか。別にその時代の人としゃべったことはないけれども。

繁栄というゴールに向けて、必要なものは多くある。その中でも、住処を広げるための動力と、増える人々を養うための食料は必要不可欠だろう。トラックや貨物列車はおろか自転車すら無いこの時代、人よりも力の強い動物は貴重な動力として一役買っていた。しかも、人と同じスピードで多くのものを運べる牛は、動力として極めて重宝されていたことだろう。

そして、住処が広がるとともに、増える人々と、動力としての牛。彼らが生きるためには、安定して供給される大量の食料が必要となる。そのため、広がる土地を利用して農耕が行われ、穀物や野菜が食べられるようになった。牛も草食動物だから、農耕を通じてエサを供給することが可能になる。

つまり、牛は動力として考えられていて、食料としては考えられていなかったのではないか。動力としての頭数をへらして牛を食べるよりも、穀物や野菜を食べながら牛と共存していく方が繁栄に向けては効率的だと考えたのではないか。

 

仮に牛を食べるようになったとしたら1匹の牛と引き換えに、

 

1匹の牛を育てる食料+代わりに動力となる牛一匹の食料+人間の食料

 

が必要となる。

 

しかし、牛を食べずに動力として育てていけば

 

1匹の牛を育てる食料+人間の食料

 

のみで済む。プラスアルファ代わりに動力となる牛1匹のの食料を、さらに人間や牛の食料に回すことができる。

つまり、牛を食べないことによって、動力と確保するとともに、より効率的に食料を人間の間で回すことができるのである。動力としての牛を殺して食べることは繁栄においては何も意味のない行動なのである。

でも、牛を食べてはいけないよなんてストレートに禁止しても、ひとたびその味や栄養に気づいてしまえば、反発も起こってしまうかもしれない。

だからこそ、時の統治者は、ヒンドゥー教を通じて神様をそこに乗せることによって神聖なものとして人々の心に牛を根付かせ、人の内面から牛を食べさせないように認識を持たせていった。

のかもしれない。

同時に、不殺生を謳って動物を食べないようにさせて、農作物のみを栽培させることで効率的に食料を分配させていった。

のかもしれない。

本音を隠して宗教という建前のもとで、人々の生活を繁栄に適した形に変えていった。

のかもしれない。

その結果、莫大な人々と生活圏を生み出すとともに牛が食べられない状況につながっている。

のかもしれない。

 

かもしれないばっかりが続く単なる想像の話だが、この結論が個人的には一番しっくりきた。宗教というものはすごい。信仰する人の心の中に牛という特定の生き物のみを住まわせ、保護することすら出来るのだから。動物愛護団体もびっくりである。牛乳石鹸を初めて見たときのインド人のびっくりした顔は、今でも覚えている。彼らの心の中には常に牛がごろんと寝転んでいるのである。

電車が遅れて、よくわからないところでずっと停車している。おぞましく暇だったのでここまで考えて時間を潰したけれども、動く気配がない。結果として定時から27時間遅れで到着した。牛に引っ張ってもらった方が早かったかもしれない。

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街中を闊歩する牛



ごみは窓の外に

ごみ、ゴミ、gomi、GOMI。人混みに負けないくらい街中に散乱しているゴミ。チャイのカップや食べ残したカレー、ビニール袋にお菓子の袋。とにかく何でも、どんな場所でもなりふり構わず捨ててある。ゴミを集めて回収するひとはいるのだが、それを上回る量で人々がポイ捨てをしているのである。チャイを飲んではポイ。カレーを食べてはポイ。お菓子を食べてはポイ。生ごみも混じっているので、放置され続けると異臭を放って、蠅がそこらじゅうでたかっている。

列車に乗っているときも、弁当を食べ終わって容器を捨てるところがなく、仕方なくキープしていたところ、隣のインド人が貸してみろと言って、私のゴミに手を伸ばした。その2秒後にはそ、のごみを窓からポーンと捨てていた。彼らにとって地球はゴミ箱なのだと言わんばかりに。この行為だけは何回見てもカルチャーショックである。

私が

「なぜインド人はそんなに簡単に外にゴミを捨てるんだ」

と聞くと、彼はこう続けた。

「ゴミを片付ける仕事をしてるやつがいるんだ。しかもそいつはその仕事しかつけない。だから俺らがゴミを捨てないで自分で片付けちゃったら、そいつの仕事を奪ってしまうだろ。そうするとこの社会で飯が食えないやつが出てきて、結果として社会がうまく回らなくなってしまうんだ。」

周りのインド人もそうだそうだと言っている。いや、その発想はなかった。ゴミを捨てることで雇用を促進してるという斜め上の発想。彼らは当たり前のようにこの考えをもっているのである。電車の中で私は何も言い返すことが出来ず、ただただぐうっとうなっていた(心の中で)

その認識が社会全体に広がっている以上は、ゴミのポイ捨ても、蠅も減らないのであろうか。雇用を生み出すのはいいんだけど、自分で自分たちの住む場所を住みにくくしてないかと、おせっかいな日本人(私)は思ってしまう。

 

ただ、その環境下で、生活を続けると、チャイの容器ぐらいなら、たまにポイっと捨ててしまうようになってしまった。慣れというものは怖い。日本だったら多少の罪悪感があるのだが、全員が同じことをやっているインドでは、全くそういった感情はわかなかった。

日本では、「ポイ捨てはいけません」という感情を誰もが多少なりとも持ち合わせている、はずである。かつ、それを他人にも要求するため、なんとなく心の中で「誰かが見てるのにポイ捨てなんて。。。」と後ろめたさが残ってしまう。一方、インドではそんな他人の監視の目なんか存在しないから、存分にポイ捨てができてしまう。彼らからしたら捨てるなんて感覚すら無いのかもしれない。こういった他人の目の在り方も、一種の文化であり慣習として成立しているのだろう。

そんなインドでも、ガンジス川などの観光地や、メトロなどではゴミ箱が設置されている。しかも、「ゴミは捨ててはいけません」などの立て札が設置してあり、その甲斐あってか地面にはゴミがあまり落ちていない。 そして、インド人もちゃんとゴミをゴミ箱に入れているのである。 外国人なども増え、先にあげた他人の目を持った人が増えたからだろうか。結局、日本人とかインド人とか関係なくて、自分がどういう環境、慣習、文化の下にいるのかによって、行動が変わってくるのかもしれない。インド人だって他人から見られていたらゴミ箱にきちんとごみを捨てるし、日本人だって、みんながやってたらいとも簡単に街中にポイ捨てしてしまう。(自分がそうだっただけかもしれないが)

赤信号みんなで渡れば怖くないとはよく言ったものである。