インド 地上絵・壁画撮影行 その9

朝早く宿を出て、デリーに飛ぶ。デリーを夜に出る便で日本に帰るのだが、半日時間があるので、デリー観光をすることに。ネットで大きな荷物を預かってくれる場所を知ったので、スーツケースを預け、地下鉄に乗った。地下鉄に乗るにはX線による荷物検査がある。

空港とデリー市街を結ぶ特別なラインだが、とても近代的だった。乗車券はチャージ式のカードか、窓口で現金で買うQRコード入りの切符だ。車内には「COVIDと闘おう」という表示が。

 

 

デリー市街で降りて、さてどこに行こうかと迷ったが、ひとつくらい名所に行っておこうかと、フマユーン廟に行ってみることに。タクシーやリキシャ乗り場からおじさんが近づいてきた。

「どこに行くのかね?」
「フマユーン廟に。電車で行こうかな」
「ちょっとこれを見て(路線図のようなものをぱぱっと見せる)。な、フマユーン廟には電車で行くのは難しいんだよ」

あれ、おかしいな...。さっき調べたときは駅から少し歩けば行けるとあったけど。

「そうなの...。じゃあ、Uberにしようかな」
Uberはここには来ないんだ。だから私の車に乗るのがいい」

すぐ近くにUberの待ち合わせ場所を示す看板みたいなのがあるのだが...。どうしてこういうあからさまな嘘をつくのか。

結局、リキシャで行くことに。このへんのリキシャはメーターがついている。

 

 

デリーには巨大な宮殿など、おおきな歴史建造物がいくつかあるが、やや疲労がたまっていたので、イスラム建築のアラベスクが見たくなった。それなりに観光客は多かったが、霊廟なので、静謐な雰囲気でよかった。

 

 

フマユーン廟を出て、ディリ・ハアットというインド各地の民芸・工芸品の店が集まる場所に。入場料が必要なのだが、民芸品好きなので是非行ってみたかった。

入ってすぐにミティラー画を扱う店が。ビニール袋に入ってたくさん積まれたものを、ぱらぱら見るのだが、「どういうのがいいんだ? いろいろあるぞ。こういうのは? これはどうだ?」とうるさいので、早々に離れた。他にもミティラー画を扱う店がいくつかあったが、どうもゆっくり静かに見せてくれない。面倒くさくなって、ミティラー画はもういいかなと。買っても飾る場所もないし。

ゴンド画の店も多くあったが、どうもゴンド画は彩色がきつくて、マーカーみたいな色で塗られたものが多い(ミティラー画の一部もそうなのだが)。絵本『夜の木』も、かなり彩度の高い色が使われていたが、黒地にシルクで刷られているので、独特な風合いがあって好きだったのだが、売られているゴンド画はどうも軽くてあまり面白くない。もっと風合いのある紙にアーシーな色で彩色した方がいいのではと思った。

それと、これは邪推かもしれないが、ミティラー画もゴンド画も手法そのものはシンプルなので、同じ絵を量産しようと思えばたやすいだろう。これら大量の民俗画の土産物が本当に全部その民族、コミュニティ出身の人によって描かれたものなのか、やや疑わしいものがあるなと思った。

 

 

探していたのは小さな人間が大勢でいろんなことをしている、ワルリー画(以下のような)だったのだが、何故か一軒も扱っている店がなく、残念だった。あれば一つ二つ買っていたと思うのだが。ワルリー画の小さな人間がたくさんプリントされたシャツがあって面白かったのだが、これは買っても着ないだろうなと。

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Warli_painting#/media/File:A_Warli_painting_by_Jivya_Soma_Mashe,_Thane_district.jpg

 

ぐるりと回って、探していたカシミール地方のラッカーウェアの店を見つけた。私はこういう民芸品が好きだ。22歳で初めてタイに行ったとき、チェンマイのナイト・バザールで売られているラッカーウェアがとても魅力的で、いくつも買って帰った。メキシコのものも好きで、家の棚にたくさん置かれている。

ラッカーウェアは花柄の派手なものではなく、やや色の渋い伝統的な模様のものに魅かれた。店員にそう言うと、あなたの言うとおり、これはとても昔からあるモチーフだと。そして、自分の父親が作ったものだと。大きなお盆のような立派なものを買わせようとするが、そんなものを買っても置く場所がない。「いやいや、ぜんぜん大きくない」というのだが、大きいんだってば。小さなサイズの箱を二つ買った。

 

 

同じ店の半分はやはりカシミール地方の木彫り細工をあつかっていて、箱根の寄せ木細工の箱にあるような、からくり箱を売っている。

「開けてみてください」と。どうやって開けるのか全くわからなかった。「ここを押して...」と見せてくれたが、見事な仕上げで木の継ぎ目がまったく見えない。「たいしたもんですね」と、大いに関心したが、どうもセンスが好きになれず、これはパスした。

施設内にはインド各地の料理を提供する飲食店もたくさん並んでいる。「ナガランドの店」というのがある。めん類の写真がある。コンカン地方にはラーメンを扱っている店があったが、ラグナート君によるとすごく辛いということだった。「日本人はあんなに辛いラーメンを食べるのに、なんであんたは辛いものが苦手なんだ?」と。きっと蒙古タンメンみたいなやつが標準のラーメンだと思ってるんだろう。

危険なので、店員に「辛いですか?」ときくと、「いいや」と。油断できないのだが、食べてみることにした。鳥肉が入った野菜スープに麺が入っている。これが全くスパイシーでない、普通の野菜スープの味だった。特別においしいわけでもない(失礼)が、スパイシーでないということだけでこんなにも癒やされるとは。店員が私の顔をみて、奥から割り箸を出してきた。ナガランドはバングラディッシュの東側、インドの領地が細長くミャンマーの脇まで延びた場所だ。食文化も全く違うのだな。インドは広い。

あっという間に時間が過ぎていた。有名なデリーの安宿街もぶらついてみようと思っていたが、もう時間がない。慌ただしく再び地下鉄に乗って空港に。

 

 

初めてインドに行くときは少なくとも2週間以上にした方がいいと言われるらしい。よくわかった。1週間とかだと、人の数や道路の喧騒などに圧倒されているうちに過ぎてしまってなかなか良さがわからないからと。私は荒野のような所ばかりうろついていたので、なおさら時間が足りなかった。またもう少しゆっくり訪れてみたい。

 

 

インド 地上絵・壁画撮影行 その8

今日はボパール市街から南へ下って、先史時代の壁画の残るビームベトカーに向かう。

朝早くホテルのフロントに降りると、例によって従業員が何人も毛布にくるまって床にゴロゴロ寝ている。この様子、なかなか慣れない。

ホテルにタクシーを呼んでもらうこともできたが、値段交渉も面倒なので、Uberでビームベトカー行きを手配する。が、すぐ近くまで来ていて、場所がわからないと電話がかかってきた。全く英語が通じないので、ホテルのフロントにかわってもらった。

Uberスマホの地図連動で動いているはずなのに、場所がわからないってのはどういうことなんだろう。たしかにインドの露地はゴチャゴチャしていてわかりにくい所もあるので、電話で聞いちゃった方が早いという感じだろうか。しばらくして、もう一度電話がかかってきて、ようやく来た。

運転手は30過ぎくらいの男性で、英語は全く通じなかったので、ビームベトカーまで行ってもらって、その後はリキシャなどで乗り継ごうと思っていたが、遺跡はかなり町から離れているため、駐車場には客を探している車やリキシャなどいなかった。仕方なく、彼に待っててもらい、一日チャーターする形に。

ビームベトカーはボパールの南東45キロくらいの場所にある。ユネスコ世界遺産だ。だが、入り口の案内板にはボパールの北東にあると書いてあった。

一帯は堆積岩が深く侵食されて独立した奇岩が立ち並ぶような景観で、タッシリ・ナジェールのそれ(あそこまでおかしな形にはなっていないが)にも似ている。約750のシェルターがあり、そのうち約500のシェルターに壁画があるとされているが、公開されているのはそのうちの15のシェルターだけだ。絵も古いものは3万年前まで遡ると案内板にあったが、これは本当に共有されている見方なのかどうかわからない。解説にも「前期旧石器時代」まで遡るというものと、「中石器時代まで遡る」というものが混在しているように見えた。いずれにしても、そうした狩猟採集民時代のものから、中世のものまで幅広い時代のものがあるとされている。

 

 

見学はルートが設定されているため、順番通り見ていく形になる。最初のシェルターに象に乗った人物の絵がある。インドならではの壁画だ。トンネル状になった暗い壁面にも多くの壁画が描かれている。フラッシュをたいて撮影したところ、遠くから「フラッシュはダメだよ」と、係員でなく、見学者らしきおじさんが。

最近は風化した赤い塗料の壁画はフラッシュの影響は無いという見方が大勢ですが、と言ってみた。色彩が残っているものは別として、酸化した鉄分がしみ込んだものは退色することはない。オーストラリアで日中直射日光が当たっているものも、赤土を使っているものは全く薄くなっていない。国立公園内の壁画もフラッシュ禁止にはなっていない。

だが、やはり「ダメだ」と。後ろで係員も首肯いている。しかたない。こういうこともあろうかと懐中電灯を持ってきた。「ではトーチなら光量も強くないからいいですね」というと、「それもダメだ」と。それはいくらなんでも極端では。スラウェシ島の洞窟壁画も、フラッシュはダメだったけど、懐中電灯はOKだった。ルーメン数に規制があるけど、通常のものなら問題ないと。光量がそんなに強くないと言ってみたけど、とにかくダメ、ダメージがあると。仕方ない。このおじさんの近くにいたのが不運だった。

 

 

「動物園」というあだ名がついている最大のパネルに。これは見事だった。白いペイントで描かれた様々な動物の群れと、赤い塗料で描かれた戦士像のようなものが同じ壁面に描かれている。年代的にどのくらい異なるものなのか、説明版には書かれていなかった。モチーフを見た感じでは白い塗料のものは狩猟民のもので、赤いものは中世のものなのかなという感じだ。歴史時代の絵は兵隊と飾りのついた馬に乗る地位の高そうな人の姿があるのが特徴だ。

 

 

壁画にはいくつかの様式があるが、動物の体にモザイク状の幾何学模様が描かれているものが面白かった。このスタイルで描かれたイノシシを竿に縛って運んでいる絵がある。こういうタイプのものは初めて見た。

巨大な牛のような動物に追いかけられている絵と説明されているものもある。解釈が妥当なのかわからないが、動物の四角い頭の鼻先あたりから鼻息を表しているかのような線が出ていて面白い。もしこれが鼻息だとしたら、かなり抽象化されたマンガ的表現が生まれていたことになる。

 

 

ひととおり回って、最後に最大のパネルの「動物園」でもう少し撮り足していこうとサイトに戻ると、さっき「フラッシュはダメ」と言ったおじさんが柵の内側に入って三脚を使って撮影していた。 近くにいた警備員に「柵の内側で撮影してるけど、あれはいいの?」と尋ねると、ばつが悪そうな表情で、何か口ごもる。「私もちょっとだけ入っていいですか?」と言ってみたが、それはダメと。

おじさんはずっと壁の前に陣取っていて、撮影はなかなか終わらない。さっき警備員が複雑な表情をしてたので、もしかしてと思って、おじさんに「彼らにいくらか渡したんですか?」と言ってみたところ、ややムッとして、「私は考古学写真協会(的な)のメンバーで、今日は正式に許可を得て撮影しているのだ」と。

そりゃそうですよね...。あぁ、私はなんて品の無いことを言ってしまったのか。だって、警備員がちょっと気まずい感じの表情で目を逸らすんだもん。

大いに反省しつつ待ったが、いつまでたっても壁面の前に立っていて撮影が終わらないので、「あのう....私も撮りたいんですが、ちょっとだけあけてもらえませんか」と言うと、「いいけど、フラッシュはダメだよ」と。こんだけ何度も言われて、目の前で使いませんよ。よほど粗野な人間だと思われたのかもしれない。

 

 

ビームベトカーを出て、11世紀に建造が始まったという、古いヒンドゥー寺院Bhojeshwarに行く。だいたいピームベトカーとこの寺院は日帰りツアーのセットなのだ。この後、ボパールで最も有名な観光地サーンチーの仏教遺跡に回って宿に戻る計画だったが、あらためてタクシー代の交渉をすると、ボパールまでの距離と値段に比べて随分高い金額を言ってくる。ちょっとおかしくない? ボパールまでが●キロでこれから回る距離は●キロくらいなんだから、●ルピーくらいのはずでしょ、と言うも、なんだか言ってることがわかりません、みたいな感じで、ともかく●ルピーだと言って譲らない。回りに他のタクシーやリキシャがいれば、じゃ、いいです、とも言えたのだが、いないんだから仕方ない。待ち時間もあるし。

Bhojeshwar寺院の入口に近づくと、小さな女の子たちがわらわら寄ってきて、頼んでもいないのに、あっと言うまに額を黄色く塗られ、何か梵字をかかれてしまった。みんなパレットと絵筆を持っている。「はい、10ルピー」と口々に言うので、仕方なく、一人の子に渡すと、「私が書いたのに!」と一人の子が泣きそうな顔で抗議。だけど、ここでその子にも10ルピー渡そうなものならパニックになるので、「そっかごめん、じゃあこの子からもらって」と、もらえるはずがないことを承知で言って、中に入った。

 

 

Bhojeshwarはセクシーな彫刻のあるヒンドゥー寺院だった。セクシーといっても有名なカジュラホ寺院のような、男女交合の彫刻というようなものではないが、様式はとてもよく似ている。女性の体のラインを強調した彫刻で、年代も同じくらいなので、この時代特有のものなのかもしれない。

 

 

お供え物は花が多かったが、ココナツの実やチョウセンアサガオの実もあった。チョウセンアサガオを供えるとういうのは、どういう意味があるのだろう。毒性が強いが、一種のドラッグでもある。

寺院を出たところで、また子どもたちがいたら、さっきの子に写真を撮らせてもらって10ルピー払おうかと思ったが、自動車が来たときしか集まって来ないようで、いたのは出口の横の父親がやっているらしき露店に仰向けになって寝てる子だけだった。

近づくと、その子の弟らしき小さな子が、「姉ちゃん、来た来た」とばかりに寝ていた姉をたたいて起こす。サッと起きてパレットと絵筆を持つも、私の顔にはもう塗られているので、?と。パレットと絵筆を持ってる写真撮らせてくれる? 10ルピーで、と頼む。

2、3枚撮らせてもらったが、その後は弟といっしょに自分の親父の露天でこれを買え、いやなら、こっちを買えとうるさい。お菓子屋なのだ。インドは料理は辛く、デザートはものすごく甘い。買ってもおそらく食べ切れないだろう。

 

 

昼ご飯を食べて、サーンチーに向かう。こちらは車をチャーターして、ご飯どきになったら運転手の分も客が払うのが普通になっているようだ。ガイドも同様だ。拘束しているときにご飯の時間になるのだから、払うのが当たり前、ということなのだろう。

サーンチーは紀元前3世紀、アショーカ王の時代に作られた最古の仏教遺跡だ。ずんぐりしたお椀型の仏塔もいいが、その四方にある入り口に立つトーラナと呼ばれる鳥居に似た門にはびっしりと彫刻が施されていて、写真で見て前から興味があったのだ。壁画と民俗博物館のことしか考えてなかったが、出かける直前に、あ、これもボパールにあるのかと。なんとか一日で回ることができた。

トーラナは紀元前後に建てられたものだというが、彫刻の緻密さはすごかった。仏陀の物語と仏陀が亡くなった後の仏舎利を巡る争いなどがテーマになっているという。

 

 

政府の要人のような(外国から来た要人かもしれない)人のグループが来ていて、周囲に警備がついていた。要人のグループと関係があるのかわからないが、その塊といっしょに、とても目立つ白い僧服のようなものを着て飾りをつけた、長髪でヒゲを生やした男性が、手を合わせたりしていた。インド人ではなく、東アジア人らしく見える。彼の連れらしき人もいる。要人が移動した後もその場にとどまっていたので、無関係なのかもしれない。

彼は日本人だった。日本語で同行者と二、三言葉を交わしていた。容貌はかつてのヒッピーカルチャーを思わせるような、昔の喜多郎のような感じだ。旅行者ではなく、ヒンドゥー教の信仰に入っている人、またはインド思想・宗教を背景にした何らかのグループを組織している人、という感じだった。仏教徒が聖地を巡礼しているとしたら、長髪や真っ白い僧衣はないのではないか。

私はインドにとても興味はあったし、若いときにインド思想に影響を受けた欧米のロックバンドやミュージシャンの音楽をたくさん聴いたし、インドに行った人の体験を聞くのも好きだったし、インドの民衆画も工芸品も大好きだし、インドの石も大好きだ。インド思想に興味がある人は知り合いに少なからずいるし、彼らに話を聞くのも好きだけれど、日本人で、あるラインを越えて、風貌や身なりが「それらしい」感じになっている人、さらには人に対してそれらしいものを疑いなく差し出そうとする人は昔から苦手なのだ。さらにいえば、それらしいとしか言いようがない話や世界観・宇宙観を商品として差しだしてくる人ほど苦手な人はいない。

彼がどういう人なのか全くわからないので、勝手な話だが、私はちょっとモヤモヤした気分になって、そそくさと立ち去った。

 

インドに来てほとんど荒野で写真を撮っていたが、今日は初めて観光地を巡った。宿に戻ったときはもう日が暮れかかっていた。

昨日と同じバーに行ってビールを飲む。

 

 

インド 地上絵・壁画撮影行 その7

朝早い便でムンバイからボパールへ。

ボパールという町の名は1984年の化学工場の事故の報道で知った。史上最悪の産業災害で、死者は3000とも8000とも言われ、実数もきちんと把握されていないようだ。後遺症に苦しんでいる人の数は遥かに多いという。40年経過しているので、事故の痕跡もすっかり無くなっているのかと思いきや、工場跡には放置されているものがあり、21世紀に入っても有害物質がゆっくりと拡散しているというから驚く。地図で見ると場所は市の中心部だ。農薬工場だったというが、工場があるような場所にも見えない。

 

ボパールに来たのは、インドで最も有名な先史時代の壁画が集中している場所、ビームベトカーがあるからだ。比較的市街から近い場所にあるのでタクシーで日帰りで行けるはずだ。

昼に空港に着き、宿で荷物を下ろした後、もうひとつの目的地であるTribal Museumに向かった。インドの少数民族の文化を紹介する博物館で、とても充実しているときいていた。『夜の木』などの手刷りの絵本で日本でも話題になったゴンド画など、独自の文化的様式をもつ少数民族の建築、工芸などを展示している。ボパールに着くと、市内のあちこちの壁に民俗画が描かれている。ゴンド画を生んだ人たちの住む地はボパールの東300キロくらいの場所にあるというから、そのため、民俗文化を町おこしの要素にしているのだろう。化学工場の事故による汚染のイメージを克服したいという思いもあるのかもしれない。

宿は博物館のあるエリアに近い場所のものを選んだ。フロントに行くと、「え?ジャパニーズ?」と。どうもインドのIDを持たない外国人を泊めることがほとんどないらしく、どういう処理をしていいのかわからないので、ちょっと待ってほしいと。驚いた。Booking.comで予約したのだが。インドは人口が人口が多いのだが、IDの管理には厳格なようで、宿に泊まるのもIDの提示が必要なのだ。

なんとか手続きを終え、荷物を置いて、博物館に向かう。歩いていけると思っていたが、地図を読み違えていて、徒歩だと1時間以上かかるということに途中で気付いた。リキシャに乗った。

すばらしく良い博物館だった。期待した絵画としての民俗画の展示や販売というのはあまりなかったが、絵を独立した作品として発表・販売する前の、伝統家屋の壁面に描かれている絵などの愛らしさ。木彫りの人形の迫力。金属工芸の造形の細かさ。

様式も多様で、インド文化の幅の広さが実感される。家屋などを忠実に際限したものもあれば、おそらく現代のアーティストとのコラボレーションとみられる規模の大きな展示もあり、なかなか迫力あるものだった。

 

 

一通り見て、出口近くにいる係員に「チケットがあればもう一度入場できますか?」と尋ねると、首肯いたので、一度出てカフェで一休みすることに。受付に「このチケットでもう一度入れますね?」と言うと、それはできないと。一度出たら再入場はできないのが決まりだと。中にいた係員はきっと英語がよくわからず曖昧に首肯いたのだろう。

とにかくカフェで休もう。テラスのテーブルに座ろうとしたら、近くのテーブルの若い女性が「日本人の方ですか?」と、日本語で話しかけてきた。若い男の子に日本語の個人レッスン中なのだと。聞いているかぎり、彼女もあまり上手とはいえない感じだったが──。

私はよく友人にイラン人とかアフガン人とか言われるし、若いときは本当に生粋の日本人なんですかと真顔で聞かれたこともあるが、海外に出るとだいたい日本人(か中国人)とすぐに認識される。夏にキルギスに行く予定なので、そこでは現地人に間違われるかもしれないが。

やはりもう一度ゆっくり見たい。再び博物館に入るべくチケットを買おうとすると、さきほど再入場はダメと言った男が「本当にもう一度入りたいのか?」と。特別に再入場を認めてくれた。ありがと。

2周回っても全く飽きない。

 

 

日が暮れた後、ボパールの町をぶらぶらしていると、BARの文字が目に入る。今度はレストランというよりちゃんとバーだ。ビールを飲んで宿に戻る。

なんとなくテレビをつけるとインドのドラマが。美人の女性や愛らしい少女が悪意のある周囲のひとたちにいじめられるような話が多かった。スープにサソリを入れられたり。濃い。

 

 

インド 地上絵・壁画撮影行 その6

マルヴァンの宿はなかなか気分が良かった。海岸は気持ちいい。

この日は夕方4時頃にムンバイ行きの飛行機に乗るので、2時くらいまでは時間がある。できれば目一杯地上絵のサイトを巡りたかったのだが、行けそうな所は回ってしまったので、どうしようか。

町をぶらぶらしてもよかったのだが、ジテンドラとどこで待ち合わせるとか決めてからでないと難しく、それもちょっと面倒だ。マルヴァン沖には17世紀のマラーター王国時代に作られた要塞島シンドゥドゥルグがあり、観光名所になっているので、渡ってみることにした。

 

 

島の外周が高い城壁できっちり囲まれている。城壁の上をずっと歩いていけるのだが、400年以上経っても堅牢で、ほとんど崩れているところが無い。高所恐怖症でもあるし、城壁以外には特に見どころはないので、ある程度歩いて帰った。

船着き場の近くの土産物屋では貝殻を使った飾り物などが売られていて、タカラガイもある。そういえば、ラグナートくんに、タカラガイを探してるんだと何の気なしに言ったことがちゃんと(?)センターに伝わっていて、寺に行けばあると思うと。それはお備えなのでは? ラグナートくんはあらゆる情報を逐一報告していたようで、「カメラを壊しちゃって...」と言うと、センターの皆が、うん、もちろんそれについても聞いてると。恥ずかし。

 

 

海岸をまた少し散歩した。タカラガイはやはりみつからなかったが、ナミマガシワが落ちていた。

 

 

空港に行き、ジテンドラと別れた。彼はこれからプーネに戻らなくてはならないという。8時間以上かかるに違いない。きっとクラクションを鳴らしつづけて走るのだろう。

ムンバイ行きの飛行機は結局出発が2時間くらい遅れた。小さな空港で店も無いので、何もすることがない。ムンバイに着いたら少し町中を散歩しようかと思っていたが、これは到底無理だろう。

今回、ムンバイに住んでいる石屋さんに連絡してアドバイスをもらっていた。日本のミネラルショーにも来る馴染みの石屋で、時間があったら是非ご飯でもいっしょに食べましょうと誘ってくれていたのだが、夜遅くに着いてしまったので、それも無理だった。あまりに慌ただしい旅で、もうちょっとインドらしいところを見たかったが、仕方ない。

町に出て酒屋かビールが飲める場所がないか探す。「靴を磨かせてほしい」と若い男がついてきた。見てのとおりスニーカーだから、というと、では、いくらかもらえないかと。大勢の人が歩道に毛布にくるまって寝ていた。

「レストラン&バー」と書いてある店に入る。バーと書いてあったが、きちんとテーブルクロスがかけてあるテーブル席だけの、高そうなレストランだった。ビールとつまみだけ頼んだが、何か食べませんかと。「カニはどうです?」と。なにかと「食べないんですか?」と言われる旅だった。人気のある店らしく待っている人もいたので、早々に店を出た。これでインド西岸は終わり。明日朝早く中部のボパールに飛ぶ。

 

 

インド 地上絵・壁画撮影行 その5

ラトナギリの宿をあとにする。この日は先日センターにいた考古学専攻の女性スネーハ・ダバッガオンさんも同行することに。

南に下る道沿いに大きな鳥居が。インドの古い仏教寺院にはトーラナという門があって、これが鳥居の起源ではという説もあるようだが、これはどうみても鳥居としかいいようがない姿だ。門の向こうには寺院らしきものもない。帰国後に写真を拡大してみたら、何か説明板のようなものがついている。近くに行って見てみればよかった。衛星写真を見たが、この門のむこうには家が一軒と建材屋があるだけだ。途中、センターの二人の友人のような若い男の子も同乗した。

 

 

また同じ食堂で朝食を。はじめてワダパウを食べたが、コロッケサンドみたいなものだった。やはり少し辛い味つけにはなっているが、パンが柔らかく、あぁ、朝はこのパンにバナナを挟んだものと牛乳だけで十分幸せなのにと、思うのだった。

 

 

Kasheliの大きな像の刻画の場所に戻るディテールを十分撮ったかどうか気になっていたので、撮り足して、その後はスマホのscaniverseで3Dスキャニングした。ある程度以上離れているものはスキャンできないので、近よって少しずつスキャンしていくのだが、大きなものをスキャンするとどうしても重複する部分で齟齬が出てくる。もっと明瞭な形をしているものであればそうでもないのかもしれないが、刻画は難しい。三回とって保存。帰国後にチェックしたが、うち二つは全くズレてしまっているところがあり、使えなかった。残るひとつも少しおかしい感じがするが、模様を確認するという意味では十分使える。

 

 

センターの二人とはこの後別れて、我々はさらに南へ。ラグナート君、ほんとうにありがとう。良い研究者になってください。

 

KasheliからKudopiまでは100キロ以上ある。途中の町で新たなガイドをピックアップすることになっていたが、その前に昼食。ジテンドラが勧めるエビのカレーを頼んだ。エビカレーは日本のインドカレー屋でもよく食べるやつだが、いい出汁がでていておいしかった。ただやっぱり私には辛い。

そうこうしているうちにガイド氏が到着。幼稚園か小学校低学年くらいの娘さんを連れている。これからバイクで娘を家に連れて帰る。方向は同じだから、途中までついてきて欲しいと。

彼とあれこれやりとりしたあと、車に戻ったジテンドラが「ラグナートはとても頭のきれる男だったな。あいつはどうかなぁ、ん?」と笑いながら。そういうことを言うんじゃないよ。

車は細いラフロードに入っていく。ガイド氏の自宅へ行く細い道との分岐で、しばし待つことになった。娘を後ろに乗せて荒れ地の向こうにずっと走っていくバイクを見ながら、「こんな先に家があるのか? こんな道をあんなに小さな子を後ろに乗せて...」とジテンドラがつぶやく。

ガイド氏が戻ってきてさらに進み、最後は道をはずれてオフロードに入る。木の枝がガリガリひっかかるような所を抜けいく。二、三度車の腹を岩でこすった。ラグナートが一時間半くらい歩くから、と言っていたが、なんと、サイトの横まで車で来てしまった。これなら最終日の午前中に十分行けただろう。車でどこまで行けるか、季節にもよるのかもしれない。

 

Kudopiは最初は遠いから無理だろうとあきらめていたが、来れてよかった。とても面白いサイトだった。広い面積にさまざまなタイプの絵が彫られている。昨日見たNiwali村などのような方形の大きなものはなかったが、技法と表現はRundhe村のものなどに通じるものがあると感じた。動物の刻画もあるが、もっと抽象的なものも多い。研究者が牛の足型と呼ぶ三日月を太らせたような丸い形もたくさんあり、その中にあきらかに人間を抽象化した図案が入っているものもある。下の丸いものの中には一見わかりにくいが両手をあげている一対の人間の姿がある。これは1920年代のデザインだと言われたら、私は信じると思う。

 

 

こうしたものとKasheliの象の絵やその中に刻まれている動物の線刻画と同じタイプのものもある。同時代のものなのか、それともこの場所が宗教的に重要な場所で、時を超えて使われ、時代の異なる絵が隣あって残っているのだろうか。

 

 

岩の表面はデザート・バーニッシュと呼ばれるような黒化をみせていて、彫られた部分は明るい色のラテライト本来の色に近いものが出ている。絵を刻んだ者も、この色の濃淡の効果を考えて作っているのだろう(だとすると、私が前日に書いた、全体の表面を剝いでから彫り上げたという考えは無効になるのだが)。彫られた部分も長い時を経て、だんだんと黒くなっていく。隣り合った所に素朴な動物の刻画と洗練された抽象的な意匠のものがある場合、それぞれの彫られた部分の黒化の具合を化学的に分析して、年代の違いを推測するようなことはできないだろうか。年代の特定は無理でも、同時代に彫られたものかどうかは判断できそうな気がする。

 

 

コンカン地方最後のサイトを満喫した。さ、車に乗って...と思ったとき、車の近くにバドワイザーの空き缶が転がっているのに気づいた。これはどう見ても昨夜私が飲んだやつ。宿は基本持ち込み禁止なので、外のゴミ箱にでも捨てようと思っていた。車から転がり落ちちゃったかと拾い上げて持って入ろうとしたとき、ジテンドラが「あ、それはいいから」と受けとって、なんと、また外に放り出した。

「いやいや、それはダメだよ。ここにゴミを捨ててくなんて」と言うと、「ダメかい?」と苦笑いして拾い上げる。ガイド氏が笑いながら「ほら、日本人だから...」というよなことを言ってる。「日本人はゴミを拾う」みたいな映像がきっとインドでも紹介されてるんだろう。そういう問題じゃないから。世界遺産に登録しようとしている所に空き缶捨ててったらダメでしょ。それに、ここにバドワイザーが捨てられてるのを見たら、ラグナートくんは絶対に「あ、ヤマダが飲んだやつを捨ててった。なんてやつだ」と思うはず。

インドに初めて行って、最初に思ったのは、人が多い、車やバイクが多い、そしてゴミが多いということだ。都市だけでなく、田舎もゴミ捨て場はすごい状態だった。川にも大量にプラゴミが流れ込んでいる。ゴミ問題はきっと大変なことになるだろう。

 

Kudopiを後にして、マルヴァンという、港町に着いた。海岸沿いはコテージタイプのリゾートホテルが並ぶ。そのうちの一つを予約してもらっていた。

海岸に出ると、多くの人が海に入って水遊びをしている。水着を着ている人は誰もいない。服を着たままで海水に浸かっている。牛の親子が悠々と波打ち際を歩いていく。海岸を牛が歩いていくのを見るのは初めてだ。不思議な光景だった。

 


砂浜に座ってぼんやり夕陽を眺めていると、大きな草の塊がぶつかってきた。びっくりして見てみると丸い草の玉がタンブルウィードみたいに砂浜を滑るように、跳ねるように飛んで行く。こういうやつでもう少し小さいやつを山東さんの動画で見たことがある。追いかけてつかまえた。すると、インド人たちが集まってきて、「見てたぞ。生き物みたいな動き方するな。それはなんだ?」と。インドに初めてきた私に尋ねられても。こういうリゾートに来るのは都会の余裕のある人たちばかりなんだろう。

 

 

インド 地上絵・壁画撮影行 その4

この日はラトナギリの北側にあるサイトを巡る。

先ず、Ukshi村にあるサイトに。ここは規模の大きな地上絵が2サイトある。先ず、大きな象の刻画だ。Kasheli村のものと比べると小さいが、それでも象のリアルサイズよりもかなり大きな絵だ。象単体で、耳に線模様が入っている。何か耳に飾りでもつけていたことを示してるんだろうかと思ったが、ラグナート君がこれは昨日訪れたRundhe村の曼荼羅のような絵の中にあった、丸い形の中に十字が入っているのと同じ様式なのではと。でも、こちらの象の耳に入っているのは十字ではなく、T字をひっくり返した形だ。同じシンボルとはいえないと思った。目のあたりにも妙なカギ型の形がある。

ここは地主が作ったラテライトの堅牢な囲いがあり、一部、上から見られるように高くつくってあるため、長い自撮り棒にスマホをつけて全体像を収めることができた。

 

 

さらに少し離れた第二のサイトに。こちらはいろんな絵が組み合わさった複合的なものになっている。ここも見たところ作って間もないような堅牢な塀囲いが出来ていた。

少し気になるのだが、こういう囲いは雨で流れてくる土や草の種を遮断して、いつでもある程度見やすい状態に保てるし、塀の上が見学路になっているので全体がよく見渡せるのだが、囲みが絵に近すぎるような気もする。これを作ってしまうと新しく周囲で何か発見されたときにそれと囲いの中にあるものが隔絶される形になって、関連性がつかみにくくなるのではないか。ラテライトの岩盤なので、この塀の下から何か新しく出てくるということは無いのかもしれないが。

リサーチ・センターの人たちもどういう形で保護して、見学者のためにどういう設備をつけるのがいいか、検討中だと言っていたが、工事はどんどん進んでいる。

二番目のサイトの絵はよくわからないものが多い。大きな顔のように見えるものや(おそらく顔ではないと思うが)、方形の中に丸い形がたくさん入ったものなど。人間の姿もあるが、ここは他で多く見られるように、両足をきちんとそろえてつま先を開いたポーズではない。深く彫られたレリーフは無いが、様式はBarsuのものなどと近いものがある。長方形の中に丸がたくさん入っているものは、把っ手のような形もついているので、「石器時代のショッピングバッグ」などと呼ばれているようだ。

一対の足型があるが、指のついた、裸足の足型だ。他の場所で見たそれらしいものは皆、靴跡のようなものだったが。決してわかることはないだろうが、どういう意味をもっているのか興味はつきない。

 

 

上の絵はなんだろう。ぱっと見では鳥かなとも思ったけれど、なんかちょっと違う。頭に角みたいなのがついているようにも見える。

この場所は何だったんだろうか。宗教的な祭事を行うものだったのか、イニシエーションのような集団内の儀式と関係したものだろうか。なんにしても、単なる絵の集まりとは思えないものがある。

続いて、ムンバイからラトナギリに向かう途中で寄ったDewoodに再び行く。もうひとつ、道の先に見逃していたサイトがあるということだった。

初日に見たサイの絵のサイトの横を通り過ぎてすぐ、何か工事している場所に着いた。地上絵サイトの周囲にちょうど壁を作っているところだった。そしてなんと、囲い塀をきちんと作るために、絵の上に石灰で方眼が敷かれていたのだ。今回、なんて不運なんだろうか。

 

 

イノシシ、つま先を開いて立つ人物像、そして、出産の場面らしき絵もある。おそらく地元で安産祈願に使われていたのだろう、長年手でこすられてきたためか、股の間が削れていた。

続いて、初日に見つけられなかったNiwali村のサイトに。サイト名はGawadewadi, Niwali となっている。ここは前日にDevihasol村で見たような方形の大きなレリーフで、やはり同じような抽象的なパターンで埋め尽くされている。方形に十字型の仕切りがあって四つのパートに分かれているのも同じだが、中の模様は同じでないように見える。

ここはかなり草に覆われていて、草を掃き出すのにかなり時間がかかった。それでも完全に除去はできなかったので、模様も細かくは確認できなかった。

方形の部分に向かい合うように、つま先を開いた足のペアが彫られている。円形のモチーフも。

 

 

それにしても、見れば見るほど、この一連の地上絵は世界有数のわけのわからない先史時代の遺跡と言えるんじゃないだろうかと思う。

サイトのすぐ近くにラテライトの採掘場があった。ラテライトの層は深いところで18メートルあるという。採掘時にブロック状に割り出している。ラテライトは地中にある部分はある程度の柔らかさがあるようで、これが日に当たって乾燥するととても硬くなるのだと。方形に切り出すのもそれほど難しくないのかもしれない。

そこではたと思ったのだが、細かく深いレリーフがあるところは、もしかして表面の硬い部分を剝いで、ある程度の柔らかさがある層に彫りこんだのかもしれない。作業中に日にあたってどんどん硬くなっていくだろうけれど。

 

 

昼ご飯。ともかくカレー味がしんどくなってきたので、魚のフライと白いご飯にしようかと言うと、「それは無理だ」と。「なんで?」

「あんたは知らないかもしれないけど、魚のフライってのは乾いてるんだよ。乾いたものだけでご飯は食べられないだろ」とジテンドラが。ラグナートも「そう、ドライ、ドライなんだ」と、いかに魚のフライが乾いているかを強調する。

「いやいや、日本では魚のフライとかで普通にご飯を食べるんだ。全然問題無いよ」と言うも、「これはあんたが思っているようなものじゃない。ともかく悪いことは言わないから、フライだけとかいうのはやめておけ」の一点張り。

仕方ないので、じゃいいよ、フライじゃなくても...と譲歩すると、普通に魚のカレーが出てきた。こちらの人は白いご飯はカレーなどの汁気のあるものと混ぜて食べるのが普通なので、おかずとご飯という食べ方が通じないのかもしれない。つらい。

インドに来て、腹をこわさないように、コーラを飲むようにしていた。腹の調子が悪くなってきたら、コーラの炭酸がいいと言われる。サハラでも下痢っぽくなった人のためにコーラを積んでいた。サムズアップというインドのコーラがある。

 

 

少し移動して、Niwali村の中の別のサイトに。道路すぐ横に四角い、さきほど訪れたものと似たようなものがある。道路工事で発見されて、工事責任者が自治体に連絡したら、そんな様式の遺跡が出てくるなんて考えられない。たぶん自然に出来たものだろうと言ったそうだ。そこで工事を進めて壊してしまわなかったのは、工事責任者の功績といっていいのかもしれない。

 

 

方形の施設だということと中に入っている図案の感じは前日訪れたDevihasol村のものや午前中にNiwali村で見たものと似ているが、ここは十字型の帯で四つの区画に分けられていない。もう少しランダムだ。要素は全て矩形で構成されてはいるが。

時間に余裕があるので、これまで外部の人を連れて行ったことのないサイトに行こうとラグナートくんが。それはありがたい。

まず、Masebavという場所に。ほぼ草で覆われている。「何があるかわかる?」と。

彼が箒で少しずつ枯れ草を掃いていく。ほとんど土の無い場所なので、草はラテライトの穴に根を降ろしているが、根は浅く、すぐに抜けてしまう。

現れたのは、大きな象の刻画とつま先をひらいた人物像だ。象の絵はかなりデッサンがおかしく、他のサイトで見たものと比較すると雑な感じではあったが、やはり実物大よりもずっと大きな絵だ。子象らしき絵もある。

 

 

もう一ヶ所、北西にかなり移動してBewareというサイトに。ただ、地図を見るとNewareと書いてあるので、聞き間違いかもしれない。ラグナートくんが「次はクジラの絵を見せるよ」というので、大いに期待したが、これがクジラ? どうなんだろう。 「僕がかってにそうだったらいいなと思ってるだけだから」と。ちょっと素朴すぎてなんともいえない絵だ。ただ、ここまで大きく描いているのだから、大きな魚もしくは哺乳類であることは確かかもしれない。

 

 

少し時間が余ったので、海辺に出てもらった。

ソマリアまで泳いでいけるよ」と。ラグナートくんが。そうか、海の向こうはアフリカか。

タカラガイは落ちてないかなと、しばらく海岸を歩きながら探したが見つからなかった。このへんにはタカラガイは無いの?と聞いたら、あー、カウリー(タカラガイ)ね、とラグナート君が。南インドの装飾などにタカラガイが使われているものは見たことがある。このへんでもないことはないようだ。

 

 

ラトナギリ市内に戻って、リサーチセンターに。二日間でラトナギリの南北のサイトは一通り見ることができた。他にもあることはあるが、長く歩く必要があったりして、今回は難しいと。明後日、南のSindhudurg 空港からムンバイへ行く飛行機に乗る予定だ。ラトナギリからだと遠すぎるので、明日の夜はマルヴァンという港町に宿を変更してもらった。

「今、あなたを明日どうするか相談してたところだよ」と。私が、例の白い粉が入れられたBarsuに戻って、一番大きな絵の粉を掃き出して撮り直したいと言うと、あれをきれいにするのは箒では無理だ、あきらめろと。

じゃあ、Kasheliの巨大な象の絵の所にもう一度行って、絵を3Dスキャンしたいと言うと、それじゃあ、その後でKodopiに行くようにしようと。

Kudopiというのは、ラトナギリからはかなり離れた場所にあるが、空港のエリアからは比較的近いので、最終日にここに行ってから空港に行けばちょうどいいかなと思っていたが、それはちょっとリスキーだと。Kudopiは結構歩くのだと。

彼らの勧めどおり、明日はKasheliとKudopiに行き、マルヴァンの宿に行くことにした。

彼らには本当に世話になった。彼らに案内してもらえなかったら、たぶん半分くらいしか見られなかったかもしれないし、センターの展示もとても参考になった。御礼にTシャツのデザインをただでやらしてもらいますよ、と言う。

では、お茶でも飲みますかということになって向かいの喫茶店に。お茶はミルクティーがいいかブラックティーがいいか、と聞かれた。ブラックがあるのか! 甘ーいミルクティーも悪くないのだが、ブラックを注文。が、やはり砂糖はどっさり入っていた。

 

 

宿に戻ると、近くですさまじい音で音楽が鳴っている。どうもこの日は昔の王様の記念日か何からしく、何かイベントが行われているようだ。ちょっと疲れたので見に行く気力はなかった。音楽だけでなく、時々、すごい音の花火というか、爆竹のような炸裂音がする。

インド 地上絵・壁画撮影行 その3

朝7時に出発する。昨日が早かったので、できればもう少しゆっくり朝食をとってからと思っていたが、刻画の撮影は朝と夕方が光が低い位置から差すので、絵柄が鮮明になっていいでしょと、アプテ氏が。おっしゃるとおり。

最初はラトナギリの北方の近いサイトを回ろうかと言っていたが、リサーチ・センターの皆さんの考えで、南側の遠いところから行っておいた方がいいだろうということに。

 

 

いきなりこのエリアで最大の絵のあるKasheli村のサイトに向かう。ここは座標はわかっていたが、Google Mapで見ると道が無いエリアで、ガイド無しだとどうやって行くか難しいなと思っていた。コンカン地方はひたすら平坦なラテライトの岩盤の土地が続く。オフロードになっても、大きな木もあまり生えてないし、地面も起伏なくしっかりしているので、通常車でも走りやすいともいえる。

巨大なゾウの刻画の場所についた。これまでに発見されたものの中では最大の絵だ。耳からお尻まで13m以上ある。写真でだいたいの大きさのイメージはもっていたが、それを超える大きさだ。地上からだと全体像がよくわからない。昨日、脚立を買いたいと言ったら、アプテ氏が、自動車の屋根に乗って撮ったらいいんじゃないか、すぐ近くまで車を寄せられるところが多いからという。ジテンドラも、まぁいいよと。脚立よりもワンボックスの屋根の方が高さがあるから、そうしようということになった。

自動車の屋根に乗って、さらに長い自撮り棒の先にカメラを付けても、まだ全体がはっきりと収まらない。ともかく巨大な絵だ。

ゾウの体の中には小さな動物の姿がさくさん彫られている。サル、鹿、サメ、鳥、イノシシ...。よくわからない抽象的なラインもある。ゾウという最大の動物の中に野生動物の宇宙が広がっているような、そんな絵だ。

3Dスキャンしたが、やはり大きすぎてどこかに矛盾が出てくる。

 

 

子象や子どものサイらしき絵もある。尻尾を引っ張り合っているようなサルも。全体にユーモラスで、楽しんで描いているように見える。だが、彫る作業はそんなに簡単ではなかったはずだ。小さな打製石器しか出土していないのだ。何らかの信仰のようなものに裏付けられてないとやれない作業かもしれない。

この地域にゾウやサイなどの大型の哺乳類がいたのは氷期の終わりまでしか確認できてないという。そのこともあり、こうした動物の絵は氷期に狩猟採集民によって描かれたのではないかと言われているようだ。2万年前くらいまで遡るのでは、というのがリサーチセンターの見方のようだった。

ラグナートくんが、このゾウは鼻先に唇が二つあるから、アフリカゾウのようだと。インドゾウは一つだから、狩猟採集民が間違えるはずないだろうと。インドにはいなかったはずのカバの絵もあると紹介されたが、体つきはカバらしいが、肝心の頭がそれらしくなかった。ゾウの絵もアフリカゾウにしては耳がかなり小さい気もするが、どうなんだろうか。むずかしい。もしインドにいなかったはずの動物の絵だということになると、年代の問題を超えて、どこから来た人たちが描いたのか、謎は数段深まってしまう。

Kasheli村を出て川沿いにある食堂に。朝食には何を頼もうかなと考えていたら、ジテンドラが勝手に頼んでしまった。来たのはピラフのようなもので、辛そうなソースは別添えになっている。あ、これなら大丈夫かなと思ったが、やはり青唐辛子の刻んだやつがそれなりに入っている。

 

 

ラグナートくんがこれに加えて、パンにコロッケみたいなのが挟まれたものを食べている。ワダパウというこの地方特有のものらしい。そっちの方がよかったな...。

さらにずっと南へ下って、Barsu村に。ここの絵も楽しみにしていたが、なんと、誰かが絵柄をわかりやすくするために刻画の溝に白い粉を入れて、放置していた。これはがっかりした。アプテ氏らもかつて世界に紹介するために染料を溶いた白い水を溝に流して撮影したことがあるが、それはきれいに洗い流せるものだったと。ラテライトの岩には細かい穴がたくさん空いている。この粉は水に溶けないし、穴に白い粉ががっちり入りこんでしまっているので、簡単に除去できないだろうと言っていた。もしかすると細かい樹脂の粉かもしれない。雨期に大雨でも降って洗い流されないかぎり、元通りにならないだろう、誰がやったかつきとめて責任をとらせる、と彼らは言っていたが、最初に白い水を入れた写真を世界に広めたのは彼らなので、そういうアイデアを広めてしまったとも言えるように思う。同じようなことをして写真を撮ろうという人が出てきてもおかしくはない。除去しやすいものかどうかということは写真を見ただけではわからないから、白い粉を入れればいいかなと考える人もいるだろう。北欧の刻画も赤い塗料でがっちり色付けしてしてしまっている。わかりやすいに越したことはないという感覚もあるのだ(北欧の方は反省して、今後は一切そういうことはしないと言っているようだが)。

 

 

なんにしても、この白い粉のために、数千年前の絵がまるで新しく石灰の粉で描いたもののように見え、台無しだったが、仕方ない、また自動車の上に乗って自撮り棒を伸ばして写真を撮った。

三つ目のものを撮影しようと棒を高く伸ばしたとき、カメラが落下。岩に叩きつけられて、完全にオシャカになってしまった。ネジが緩んだのだ。

さっきラグナートが「え? その棒は中国製なの? 中国製は品質が悪いでしょ」と言うので、それに対して、「いやいや、最近の中国製はそんなにちゃちじゃないんだよ」とか言ったばかりだった。彼は「あー、やっぱりね...。だから言ったじゃん」という顔をしている。ラグナートくん、まだ若いから仕方ないけど、そんな風に世界を斜めに見てばかりいたら...とかいうことはどうでもいい。どうして伸ばす前に締め直さなかったのか...。悔やまれるがもうどうにもならない。白い粉とカメラの落下で一気にやる気がなくなってしまった。

Barsu最大の絵は大きな人物像の左右に虎らしき動物が向かい合うように描かれたものだ。虎のアウトラインの内側は、縦縞ではなく抽象的なデザインが施されている。独特な様式で、手法もKasheliのゾウやDewoodのサイなどの線刻画と違って、面を浮き上がらせるレリーフだ。

この人物の両側に獅子や虎のような動物が向かい合っていて、手なずけているようなモチーフは、メソポタミアインダス文明などで見られるMaster of Animalsと呼ばれるもののひとつと見るべきだろうと考える学者は多いようだが、リサーチ・センターの人たちはこれには賛同していないようだ。中央の人物に手が描かれていないからだというが、これはかなり様式化された絵なので、そのことは決定的な違いとはいえないかもしれない。体の左右にせり出した部分が腕を表現していると見ても不自然ではない。私は全く関連が無いと見るのは難しい気がするが、どうだろうか。下のものはインダス文明の遺物。

https://www.flickr.com/photos/28433765@N07/6607103607

 

Master of animals from Indus valley

 

この、さらに高度に抽象化されている絵も、両手に鳥のようなものを逆さに持つ人物で、同じくMaster of Animalsの一種とも見られている。同じようなモチーフがシュメールのものに残っている。

 


カメラの破損に打ちひしがれながら、南西に4、5キロ移動し、Devache Gothane村に。ラテライトで舗装された道を上がっていくと、男たちが集まっている。どうやら村で不幸があったらしい。ラグナート君が私のことを日本から来たカメラマンだと紹介したからだろう、その中の一人が、「俺たちを撮ってくれよ」と。

 

 

この村の刻画は大きな人物画だ。等身大よりもちょっと大きなサイズで、頭が大きい。この刻画は、遊牧民や旅人の通り道上にあり、かなり昔から知られていたようで、『ラーマーヤナ』の登場人物で、ラーマの妻シータをさらったラーヴァナの姿なのだと言われていたようだ。不吉な像として怖れられていたと。この像が彫られた岩盤は磁気を帯びていて、置く場所によってコンパスが指す方向が変わるのだと実演してくれた。確かに、少し場所を動かすだけで、全く異なる方向を指すのだった。

 

 

村に戻り、コンパスを貸してくれた家にお邪魔する。この家がなんともいえずいい雰囲気だった。村の寺院にも寄る。

 

 

朝食をとった食堂で昼食を。スープやデザートもついたフルセットの食事だった。これも気づいたら注文されていた。こちらのデザートは、丸いドーナツをシロップに漬けたものとか、ともかくものすごく甘い。選択権を与えてほしい...。

 

 

北上して、Rundhe村に。2017年と、ごく最近発見されたものだ。丸い、宗教的な世界図のような趣のあるものだ。絵というより、宗教施設といっていいのではないだろうか。レリーフは深く、そして形も洗練されている。矩形の中にいくつかの要素が合わさったような図があり、中央には両手を上に上げている人物がいる。どこか曼荼羅のようなものにも見えるが、似た形のものはインドの他の場所、時代の遺物には見つかっていないという。

 

 

この大きな図のすぐ外側には、つま先を開いた足のレリーフがある。コンカン地方の人物画のほとんどがこの、つま先を左右に開いた足で描かれているが、このように足だけというものも少なくない。どういう意味があるのだろう。ここで足を清めてから円陣の中に入るとか? 

すぐ近くには虎らしき絵とイカかクラゲのようなものも彫られている。虎の中には午前中に訪れたBarsu村の虎と同じような模様が彫られているので、これらが同時代につくられたものだということを示している。

この場所は少し窪地になっていて、雨期には雨水がたまるらしい。大きな図形は各部が閉じているというか、雨が降ったら水がたまって、水量がレリーフの上面を超えないかぎり、流れ出ないだろう。レリーフの彫りはかつてはもっと深かったはずだ。もしかしたら、水がたまることも考えて作られていたのかもしれないと想像してみた。レリーフの窪み部分が全て水で満たされ、上面だけが水面上に出ているとき、窪みに溜まった水が青い空を写したら、それはそれで美しいのではないだろうか。

カメラを壊してがっくりきていたが、やはり上から撮らないと全体の形が記録できない。今度は自撮り棒にスマホ用のアダプターを付けて撮ることにした。元々カメラのような重いものをつけるためのものでなく、スマホ用なのだ。正しい使い方をしてみよう。だが、その様子を見て、ジテンドラとラグナートが「おいおい、今度はスマホを壊す気? 止めといた方がいいよ」と。もちろん壊す気なんて無いけど、まぁ、バネで挟んでるだけだから...最悪また落ちる事故もありえるかも。いいんだよ、もう。ここまで来たら、やれることは全部やるしかないんだよ、とか、口には出さなかったが、今度は棒を過信することなく、慎重に上げ下げして撮影。スマホでも解像度は少し低いが十分使える。

 

 

さらに東に移動して、Devihasol村に。ここにある地上絵もRundhe村のものと同様、宗教施設のように見えるが、方形だ。四つのエリアに分けられていて、それぞれの中に全く異なる模様が刻まれている。中央に近い窪みには石が置かれているが、これは現代になって地元の人が置いたもので、おそらくリンガムのようなつもりなのだろう。Rundhe村のものはほぼ対称形だったが、この地上絵は形は正方形に近いけれど、中の模様には対称性はない。中央に細長い魚のような形がある。

 

 

この地上絵の周囲の舗装された見学路やフェンスは地主が作ったようだ。見学路はともかく、周囲にある簡単な動物の刻画になんと白いペンキを入れてしまっている。地上絵の多くは私有地にあり、地主が自費で囲いや塀を作ったりしているようだが、早くルール作りをしないと、「よかれと思って」勝手に何をするかわからない。ペンキを入れた動物の絵を見たときはがっくりきて写真も撮らなかったが、今考えると撮ってはおくべきだった。

この日はこれで終わり。宿に戻る途中ビールを買いたいから酒屋に寄ってと言うと、ラグナート君が冷ややかに「残念だったね、今日は日曜だから酒屋はやってませーん」と。なんと。暑い場所での一日の終わりには是非ともビールが欲しいんだが...。が、しばらく走ると道沿いに酒屋が。開いている! 防犯上の問題なのだろうが、この地域の酒屋は小さな窓でやり取りするようにできている。安いキング・フィッシャーにしようかと思ったが、二人が「バドワイザーが旨いだろ」「そうだよね、そうしなよ」と強く勧めるので、味は知っていたが従うことに。

ラトナギリの宿に戻ると、ジテンドラがまた、「ディナーは?」と。「いらないよ。ビールもあるし」「それはよくない。何か食べろ」と、同じやり取りが繰り返されるのだった。

カメラがおシャカになったことも含めて、盛りだくさんの一日だった。