夢とCPとパスタとうどん

【注意書き】

 これは筆者による完全な私見です。普段感じている夢とカップリングもの二次創作(以下、CP)の代替性と隔絶性について、その感覚的なものを表現してみようという試み兼思い付いたので自慢したいだけです。つまりうまいこと言いたいだけです。そして夢というジャンルに対する反応について、ちょっと思うところを吐き出しています。

 

 

【筆者紹介】
 個人の感覚の話なので、まずは私自身がどのような人間でどのような立場の元発言しようとしているのかが定まらないと誤解のもとです。と言う訳で自己紹介。私は「自称:夢書き」です。更に細かく言うと「オリキャラ男主人公攻め夢」を好んで書く夢書きです。けれど同時に私は腐女子でもあります。腐向けも読みます。書いたりもしてます。そして何より私は自分を「オリキャラSS創作者」だと自認しています。なんのこっちゃって感じだと思いますが全部その通りなのでそういうやつだと受け入れて貰えると嬉しいです。もの凄く大雑把に立場を表明するなら「男同士の恋愛描写を好む自称夢ジャンル者」でしょうか。

 

 

【定義決め】
 と、いうわけで次は私が話す「夢」と「CP」についての定義を決めます。この話の中でだけの定義なので「そんなんじゃねぇ!」と言うのはご勘弁ください。出来る限り簡単に説明しようと夢もCPも色々な派生や種別をざっくざく削ぎ落とした定義になっています。ご了承ください。
 ではまず「CP」の定義から。ここでいう「CP」は「原作キャラのみで構成された二次創作」としています。はいもう既に定義がCPでもなんでもありません。正確には「原作キャラ同士でのみの関係を描く狭義での二次創作」といった方が正しいでしょう。しかし夢もまた二次創作である以上説明する際に字面が同じでは混乱するので、今回は間違っていると知りつつ「CP」表記をお借りしています。
 翻って、「夢」の定義は「作者によるオリジナルキャラクターが介在する二次創作」です。作者のオリジナルキャラクター、つまり「夢主」と呼ばれる存在には自己投影派とかオリキャラ派とか種別が色々ありますが、ここは「CP」の定義と合わせて原作を基準とし、全てひっくるめてオリジナルキャラクターと表現します。

 

 

【本題、ちょっと前】
 さて、「夢」と「CP」それぞれの定義を決めたことで、私の考える二つの違いが明確になったと思います。そうです「オリジナルキャラクターの有無」です。

 

 

【パスタとうどん】
 さあようやくタイトル回収に入れました。パスタとうどんです。ということでまずは「うどん」と「パスタ」の復習をしましょう。レッツクッキング。
 うどんもパスタもどちらも「小麦粉を主原料とする麺類」です。厳密には小麦粉に大きな違いがあるらしいですがここでは「小麦粉を主原料とする麺類」という定義で説明に使用させて頂きます。
 さて、そんなうどんとパスタの違いといえば、ズバリ「卵」の有無です。捏ねるときに卵を入れるか、入れないか。ここでもパスタは卵の水分だけでこねられてるとか油入れるとかうどんは塩と水でこねられてるとか色々ありますが取り敢えず「卵」の有無が違いであるということにしておきます。ええ。こんがらがるので。
 というわけで「卵の有無」によって分類されるうどんとパスタですが、この分類の仕方って既視感ありませんか。そうです上の方で私が偉そうに話してた「オリジナルキャラクターの有無」で分類される夢とCPです。ここでタイトル回収に入ります。
 原作=小麦粉、作者の妄想=つなぎの水分、オリジナルキャラクター=卵とすると、夢とCPの関係はパスタとうどんの関係に似ています。どちらも小麦粉(原作)に水分(作者の妄想)を加えて捏ねて出来る麺類(二次創作)です。ただパスタ(夢)には卵(オリジナルキャラクター)が含まれるだけ。ほら!似てる!
 そして二次創作でよく言われる「作風」というものが、パスタとうどんにおける「調理法」です。つまり味付けやトッピング。これはよく例えられてますし細かい解説は必要ないですね。

 

 

【「パスタとうどん」は「うどんとパスタ」に成り得るか】
 さて、無事主食である麺類が出来上がったので調理を開始しましょう。みなさんは何が食べたいですか?カレーうどん?ミートスパゲティ?ベタにぶっかけとかもいいですね。
 今、みなさんの目の前にはうどんとパスタがあります。お好きなものを作ってください。
 作りましたか?作りましたね?取り敢えずうどんかパスタを使った自分が一番好きな麺料理が出来上がったと思います。それが、あなたの二次創作作品です。
 恐らく基本に忠実に、つゆを掛けてかけうどんにした人も居るでしょう。カレーうどんが食べたくなって作った人も居るでしょうし、パスタを選んだ人もオイルや塩のシンプルな味付けにした人やミートソースかけたりペペロンチーノにしたり和風パスタにした人も居るでしょう。二次創作(特に女性向け)はよく料理に例えられるのでわかりやすいのではと思います。
 そうやって出来た多種多様なメニューの中には、大衆に喜ばれる味も、逆に作った本人やその他一握りにしか好まれない味もあります。そして奇しくも、使っているのはうどんとパスタという別物なのに、似たような味のものが出来たりもするんです。
 例を上げるならカルボナーラカルボナーラうどんでしょうか。調理法が一緒なので味が似てるのは当然なんですが、それでもそこにはうどんとパスタという明確で絶対的な違いが存在します。普段日常でよくあるように、パスタがなかったからうどんで代用した、なんてこともあるでしょう。カルボナーラを食べたかったけど仕方ないからカルボナーラうどんを食べた。その二つには互換性はありませんが代替性はあります。そうです、この感覚こそが私にとっての夢とCPの代替性です。
「本来違うものだけれど味が似ているから食える」というか「絶対に違うけど似たような味を求めて食う」というか。二次創作を読む際、この感覚を感じたことがある腐女子の方も居るのではないでしょうか。推しカプの作品を全て読んでしまって読むものなくなったので友情ものに手を出した、とか。またはマイナーで作品自体無いのでちょっとでも関わりを持たせてある作品に喜ぶ、とか。私が夢とCP(厳密にはモブというオリジナルキャラクターの存在する作品)に代替性、共通点がある、という感覚とはそういうことなのです。好きな味付けに似ているから食べているのです。
 というかまた例えますけど、モブ有りのCPはうどんで例えると月見うどんです。麺(ジャンル)自体に含まれていない卵(オリジナルキャラクター)をトッピングとして後から突っ込んでいるのです。和風スープパスタと月見うどんは絶対違うって皆さんお分かりになると思いますが、材料だけを書き連ねてみると、案外同じもので出来ていたりしているかもしれません。
 夢も腐向けも好んで読んだり書いたりする私は、その程度の気軽さでどちらも楽しんでいます。その時の気分でうどんにしたりパスタにしたり、本来はパスタに多い調理方だけど好みでうどんで作ってみたり。それくらい、垣根の低い違いです。夢関連の匿名エントリなどで言及される「モブおじさんも夢の一種」という表現は、この代替性に起因しているのだと思います。

 

 

【うどんとパスタはやっぱりうどんとパスタ】
 さて夢とCPの代替性の話をしたので、次は隔絶性の話をしましょう。
うどんとパスタを例に取ってみると、すぐにお分かりになられると思います。つまりうどんが食べようとしてパスタしか無かったとき、パスタで代用するかうどんを買いに行くかの二択でうどんを買いに行く方の話です。
 前項で散々夢とCP(モブ、以下略)は似たような味として食べられる!と言いましたが、結局それは食べる人の好みによって判断されるものでしかありません。私は食べられます。そして食べています。でもそれは私が上記のような考え方をしているからで、似たようなものとして食べられない(または食べない)人がいるのは当然です。極端な話、卵アレルギーだってあるかもしれません。
 そしてここからは作者としての視点からの話になりますが、夢とCP(モブ、以下略)を一緒にしないでほしい、という話は作者を料理人に置き換えるとよく分かります。モブの存在するCP作品を「夢の一種だ」と言われた作者はどう思うのか。自分はうどんを振る舞いたくてうどん料理を作ったのに、卵をトッピングしているだけでパスタ料理だと言われたと、そう感じるのではないでしょうか。そりゃ一緒にするなと反発しますよね。
(※ 勿論、「夢の一種だ」と言ってる方も夢とCP(モブ、以下略)の違いはきちんと認識していらっしゃると思います。認識している上で「夢でもこういう話作られてるよね」位の意識で「夢の一種」と言われています。というか逆説的にオリジナルキャラクターありきでないと成立しない夢というジャンルではオリジナルキャラクターの扱いはCPに比べて幅広いので被りやすいのではと思います。)
 そして同様に、パスタを作っているというだけで馬鹿にされたら腹が立ちます。一部の夢関連のエントリで言われている「夢を見下さないでください」というのは、そういうことです。

 

 

【うどんとパスタはどっちも麺類】
 という風に、ここまでだらだら書き連ねてはみましたが、結局私が言いたい結論は「夢もCPもどちらも二次創作である」ということです。そして二次創作界隈で言われている通り、そこに貴賤はありません。
 例に取ったうどんとパスタは別物ですが、だからといってどちらかを「食べるに値する価値の無いもの」として排斥したり馬鹿にすることはしないでしょう。あるのは消費者(読者)として「食べない(食べられない)」か料理人(作者)として「作らない」という「選択」です。それと同じことです。
 夢を読めと言う気はありません。夢を書けと言う気もありません。どうしてもダメな人も居ると思いますから、食わず嫌いもまあ仕方ないとは思います。
 読みたいものを読んで、書きたいものを書いて、素晴らしいと思ったものを素晴らしいと紹介する。そこに、なんの違いもありません。