引く美学
- 出版社/メーカー: オリンパス
- 発売日: 2015/02/20
- メディア: Camera
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を買った
写真には元々興味があり、スマホやデジカメで風景を切り取って加工することは好きだ
一眼レフではなくミラーレス一眼レフにしたことに、鞄に入りやすい以外の他意はない
レンズはアメフトの観戦席からだと通常のズームでは足りない、と思ったので150mmのセットにした
本番は今月は末に一試合、レギュラーシーズンは8月末からなので、今のうちにとあちこちのイベントに足を伸ばす
アフターファイブの撮影なのでシャッタースピードを早められず、手ブレだらけの夜景撮影が続いているが、それ故に足を使って画角と身体を預けられる不動物の所在を気にしながら、被写体を吟味し集中してシャッターを切る楽しさを憶え始めている
おそらく自分が一番興奮する・好きな行為は、ルールや状況的に誰にも邪魔されることなく、ただゆるい時間制限はある中、準備を整え極限までに集中しそのすべてを一瞬に放つことだろう
→のプロフ欄に張り付けてある放出系タイプの能力そのもののように思える
ドライバーというクラブでボールを400ヤードより先に正確に飛ばすことがここ最近の目的ではあるが、この先に見据えているものがあるので身体が動くうちに変化できるうちに色々やっておきたい
普段から内転筋を意識した歩行や左手を優位にさせるための動作など、意識がある間ずっともう無意識になりつつあるような、ドライバーや全てのショットに対する準備をもってアドレスに入り、毎日欠かさず行う何回もの素振りのイメージを呼び起こし、それらをいったん意識外に追いやって下半身と上半身の所在に全神経を集中させ、静かに捻転し拮抗により生み出された全エネルギーを強張りや欲で減衰させることなく、より無駄なくボールに叩き込む
特に長くやりこみ続けているドライバーショットに関して言えばグリーンが続く限り飛距離に上限がない、ということが挙げられる
ボウリングやダーツ、他にも似たようなシチュエーション・楽しさのある競技に手を出してみたが、それらは大抵スコア的に上限があり、競うポイントはいかに上限を安定して長く出し続けられるかであったので辞めた
自分がその時その時思いつく限りの努力をして時間と力をつぎ込んで集中し尽くて出したものに、物理的に壊れたり測定不能になるならまだしも、外部からの制限や上限をかけられて如何なく発揮できないままそれなりの精度があれば後は回数や持続性に重きを置くことを良しとされる世界観は許すことができない
一発、一発決めれば撃ちこめばやれる・倒せる・勝てる、そこに熱量と浪漫を感じる
そういう意味ではベースよりも高音域の上限がないトランペットに惹かれて休まず吹き続けていることにも自分自身納得がいく気もする
年功序列・ベテランが優遇され、流れが緩く生ぬるい代謝と効率の悪い世界は嫌いだ
誰かを倒して上に立ったなら、倒されて下に行かざるを得ないことも往々にしてある
いつまでも上を目指すのか、後進の育成に従事するのか、あっさり足を洗って違う世界に踏み出すのか
未練たらたら昔取った杵つかで腕組みしてふんぞり返るような男にだけはなりたくない
良いときも悪い時もすべては自分であり、それらに責任を持つ
持てないなら短刀で腹を割れ、その覚悟がないものに人に物を言う資格はない
他にもおそらく同様の要素を持っている行為を好んで行い没頭しているのだろうと思う
それらに共通していえることは、足すだけ足して引けるものであるということだ
料理や育成のように一度足してしまったものをなかったことにできるようなものには当てはまらない
美しいと感じるものは意外とあれもこれもてんこ盛りされて豪華なものではなかったりする
ここ最近強く感じるが、ずっと対称性があるもの・バランスが良いものを好んでいたのに、非対称性・アシンメトリーだったり、必要である部分が欠落していても一部が何よりも突出して優れているものに惹かれることが多くなった
端的に言うと、2や6が好きだったが今は1や3を好んで選ぶとなるのだろうか
写真に興味はあれど今まで手を出してこなかったのも、2や6が好きなところにある
レンズが真ん中に一つある、あのデザインがどうも好きになれなかった
いかにも見てます・撮ります・出てます、みたいな薄く墨の字で”我”と書かれている感じ
でも、今は”我”をもって”我”を活かすために人ごみをかきわけて、時には”我”を向けていることを主張して気を使わせることも厭わずになってきた
この変化をどういう風に説明するのか、心理学的にはされているのか、今そこにすごく興味がある
アラサーになって外に出て人と少しずつ触れ合うようになって、丸くなった・器が広がり始めたという言い方は口語的で少し違うような気がする
思うに、これは一人でこもっていた、つまり自分自身が誰からも触られず触れることを許さず、漆黒の墨で殴り書きしたような”我”であったのが、少し自分でも濃すぎる・周りの”我”はどんな色をしているのかと見る目が発育して視覚化できるようになった
それ故に今までの”我”を振り回していた時間のはかなさと、優れた色の”我”を持つ人と触れ合ってその発色のテクニックや元来の力を学び、おどろおどろしいまでの”我”を発する人たちとの距離感を適切に計れ始め、リスクヘッジを取る練習に少しそれらの濃くて欲渦巻く”我”の射程に踏み込んでいく楽しさも合わせて感じられ始めているのかもしれない
”我”の世界を俯瞰してみてみると、まるで塊魂というゲームのようだ
色の薄く弱い”我”は、濃くて強い”我に”吸収されていく
ゲームと違い、時間軸や各設定が細かく乱数として存在しているので、必ずしも小さいからと言って巻き込まれることはなく、ゲームオーバーもスコアも付かないけれど
引くことはそれだけ見れば難しいことではない
知らない・理解できない・わかっているけどしないことも引いていることになるし、知識や財力・コストが足りずに盛れないから引くしかないということもある
そして、これらの必ずしも意図されずに引かざるを得なかった・いわば足りないことがよかったりするときもある
ただそれらの偶発的な引き算も俯瞰して計算した引き算も、それらに力が備わっていないと美を感じられるものには昇華しない
あるもの・できるものから引いて残したものを磨き続けること、そして続けていく中で出会うものすべてに素直に向き合うことが力を備えさせる
美は一日にして成らない
ある一つのことを磨き続けることも美であり、ありとあらゆるものを盛り続けて高めたのちに削り堕ちて残ったものも同じく美といえるだろう