語られない闇を語る

司法試験、大学受験、労働問題、社会問題などを中心に、あまり語られていない・語りつくされていない闇について語っていこうと思います。苦難と失敗から得た知見を曝け出していく予定です。

ビリギャルが慶応に合格した要因を考えてみた

 偏差値30から1年で慶応大学に合格したことで話題となったビリギャルですが、昨日劇場版ドラマが地上波で放送されたので、ビリギャルが慶応に合格した要因を挙げてみたいと思います(原作準拠ではなく、映画準拠で語るので注意)。

 

 

○受験科目数が少なかった
 受験科目が多いとどうしても理解に時間がかかりますし、記憶力が格別優れている人でもなければ覚えないといけない事項をしっかり覚えるのにも手間がかかります。

 それに科目が増えれば、どうしても理解が進まなかったり、思うように成績の伸びない科目が出てくるものです。司法試験だって8科目を仕上げないといけないから難しいと言われているのです。1科目や2科目合格水準の答案を書くだけなら私でもできてます。

 

 実際、早稲田や慶応などの私立大学だと割と短期間の学習で合格できたという話が話題になりますが、東大京大は勿論のことその他の旧帝大クラスでも「○か月で合格」という話が出ることが少ないのは(大京大以外はネームバリューの違いで話が広まらないというのもありますが。)、科目が多くて対策に時間がかかりがちだからというのが大きな理由でしょう。

 

 その点、慶応SFCは英語と小論分だけで受験ができますし、2科目を頑張ればよいだけなので「英語が抜群にできて小論文もなんかできちゃった」みたいな人なら時間はそこまでかからないでしょう。

 いくら1年間必死に努力したビリギャルでも、科目数が7とかになっていると時間切れで成績を上げきれずに終わっていた可能性が高かったでしょうし、受験科目数の限られている慶応SFCを目標に設定したのが良かったのだと思います。さすがに東大だと無理でしょうからね。

 

 

○元々ポテンシャルは高かったと思われる

 ビリギャルは中学入試で私立中学に入っているようであり、出身校候補の高校の中には偏差値が約70(県トップクラス)のものもあります。

 偏差値70の高校ではなくても、他の出身校候補も60ほどの偏差値はありますし、元々の頭は悪くない。それどころか平然と中学入試を突破してそうなところを見ると、かなり良い方である可能性も高いです(中学受験失敗なんてよくある話ですからね)。

 

 偏差値30も学内だったのではないかとの疑念もありますし、慶応受験で関係ない国語などが致命的だっただけ可能性もあり、タイトルにある「偏差値30」もさほど当てにならないかもしれません。

 作中では「小学4年生レベル」という評価もされていますが、様々な試験を行って評価を下したわけではないですし、あくまで少ないサンプルを元に適当につけた評価の可能性が高く、そこまで当てにならないでしょう。

 

 坪田先生との出会い後にすごい勢いで知識を吸収しておりさほど理解で苦しんでなさそうなところや、暗記で苦しんでいる素振りがそこまでないことからしても、ポテンシャルはかなり高い方だったのではないかと推測されます。

 

 

○なんだかんだで家はそこそこ裕福

 家が貧乏だとそもそも3人兄弟の一番上の子を私立中学に行かせるという発想がないですし、妹も上智大学に進んでいるようなので、ビリギャルの家庭は少なくてもそこそこには裕福の家庭であったと思われます。

 

 貧乏だと私のようにいろんな人や社会に対して怒りや嫉妬を覚え、経済面が問題となり小さくないストレスもかかってきますが、そういう余計なストレスを抱えずに生き、普通に私立大学を目指せる環境にあったのが大きいでしょう。

 私のように「私立なんてふざけたこと言うな。うちは3人兄弟やぞ?」という家庭ではそもそも私立には行けないですからね。

 

 坪田先生なしには慶応合格もありえなかったわけですし、3年の夏とかではなく2年のときから塾に通うことができ、週6日(100万ぐらいかかったとか)個別指導を受けられたというのも大きな勝因だったわけで、財力があったのが大きかったと思います。

 

○見返してやるとの思いが強かった
 ビリギャルは、先生からクズ扱いされ父親からもぞんざいな扱いを受けており、「見返してやる」と言う思いが人一倍強く、それが大きなモチベーションになっていたことも合格の主要因の一つでしょう。

 

 あとは父に溺愛されており、野球で活躍していたと思われる弟への対抗心も強かったのではないかと思います。反骨心こそが合格の要因になったのではないでしょうか。

 

 

○母の支え

 母が見捨てずに塾に連れて行ったのがすべての始まりですし、ビリギャルの慶応合格は母なしには語れないでしょう。

 高校で煙草を吸っていて髪も染めている不良の娘など見捨てるのが普通ですが、ビリギャル母はパートをしてでも高い授業料を出し続け、常に味方であり続けていますし、母の力強い支えが慶応合格につながったといえます。

 

 子どもからしたら、散々問題を起こして親に迷惑をかけてきても支えてくれた母の期待に報いたいと強く思うのは当然ですし、本当合格の3分の1ぐらいは母の功績と言っても過言ではないかもしれません。

 

 

○先生が極めて優秀だった

 合格の3分の1は母の功績かもしれませんが、同じく3分の1ぐらいは先生の功績かもしれません。

 坪田先生はとにかくノリがよく普通ならドン引きで呆れるところでも乗ってきてくれますし、先生がいたからこそビリギャルは楽しんで勉強をして、成績を上げられたのです。

 

 アニメ、ゲーム、アイドルなどの話をして生徒の心を開く技術もすさまじいですし、とにかくモチベーションを上げてくれ「この先生のためにも受かろう」と思わせてくれる人が先生だったのが大きかったと思います(女子アナになれるかもとか、玉の輿狙えるとか言われたらそらモチベも上がりますね。)。

 

 

○本人がとにかく頑張った

 継続して長時間勉強し続けるのは大変なことであり、ましてや一度堕落した生徒が這い上がって今までの遅れをカバーするほど努力をするのは大変です。だいたいはそのまま堕落し続けていくものです。

 しかし、ビリギャルはギャルを辞め女を捨ててまで勉強に集中しましたし、一生懸命頑張ったのが一番大きかったのではないでしょうか。結局いくら周りがサポートしたところで、受験するのは本人ですからね。

 

 科目数の少ない試験というのは、ちょっとしたミスやラッキーで合否が変わるほど運要素も大事になってきますが、最後まで努力し続けて合格する確率を上げたからこそ合格の方の結果を引くことができたのではないでしょうか。

 合格率0%だと何回受けてもダメですが、合格率が50%なら2回に1回は合格できるわけですし、運しだいで合格できる実力を蓄えればあとは良い運を引くだけなのです。

 

 

○まとめ

 強引にまとめると、

・科目数が少なかった

・ポテンシャルが高かった

・お金もあった

・母の力強い支えがあった

・優秀な先生に出会えた

・とにかく頑張った

・(たぶん)運もよかった

 から合格できたのではないかと思います。

 適切な目標設定、努力の量と質、資質、環境、財力、運全てが絡み合ったからこそ1年で間に合ったのです。

国家公務員の冬のボーナス増加はそんなに批判されるべきことなのだろうか

 民間企業の業績が回復傾向にあり、賞与の額も改善してきていることもあって、今年の国家公務員の冬のボーナスも増加しました。


 このニュースに対し、案の定ネットではバッシングのコメントが大量に出ていますが、そのことについて個人的に思うことを書きたいと思います。

 

 

○民間の給与が下がったときは給与額が下がるのだから、民間の給与が上がったときは上げてよいのでは?

 国家公務員の給与は、その時々の景気の動向などを反映している民間の給与に合わせて計算されているため※1、リーマンショックの時のように民間の給与が下がれば当然下がります。

 本来、国家公務員の職務と民間企業の業績の関係性は薄いわけですが、それでも民間企業が苦しんでいるときは連帯責任のようにともに苦しみを味わうわけです。

 

 業績が変わったわけでも業務内容が変わったわけでもなく、業務量が減っていないのに民間の給与に合わせて給与が減らされることを考えたら、逆に民間の給与が上がったときは喜びも分かち合い給与を上げて良いのではないかと個人的には思います。

 

 特に今年は大手企業は過去最高のボーナス額になっていますし※2、さすがに今ぐらい上げても良いのでないでしょうか。

 今後、またリーマンショックみたいな事態が起きたときには、国家公務員の給与もどんと下げればいいわけですしね。

 

 

○とりあえず叩きやすい立場にある人を叩きたいだけでは?

 お金持ちや美人のような恵まれた者というのは、とにかく何かにつけて叩かれるものですが、公務員も実態以上に恵まれた立場の人間と思われている節があります。

 実際には、20代なんて給与は下げ止まり感が強く二馬力じゃないとキツイなんて話がよく出回っていますし、大企業と比べると賃金や手当も大きく見劣りし、残業代も出し放題なんてこともあるわけがないわけですが、そんな事実などお構いなしに恵まれた公務員像を勝手に妄想して叩きだす人が世の中には多いのです。

 

 何か合理的な理由があって「こうしろああしろ」と言うなら理解できますが、そうでもないのに一部の職業の人に対して合理性もないだろうただのバッシングを行うのは、もはやただのいじめみたいなものではないでしょうか。

 給与を下げろというのであれば、ただバッシングするのではなく具体的で合理的な理由をつけて主張をするべきでしょう。

 というか、「公務員の給与を下げろ」ではなく、「(自分達の)給与を上げろ」と言い出すのが健全な形ではないでしょうか。 

 

 

○ある程度の給与を出すべき理由がある

 「民間企業ではボーナスをもらえない人もいるのに云々」という人も多いですが、官製ブラックを今以上に広めるべきではないですし、基準をブラック企業に合わせてどうするんだという話です。

 公務員すらろくに結婚できずに、子どもも持てないなんて事態になれば少子化はさらに深刻化するでしょうし、いよいよ日本も終わりでしょう。

 

 それにもし底辺基準に給与をあわせてしまうと、優秀な人材がこぞって民間企業に流れることは間違いないですし、学も無く努力もしないおよそ国の基幹を担うにふさわしくないだろう人間ばかりが国家公務員になってしまうことでしょう。

 民間企業にろくでもない人材が集まったとしてもその会社がダメになるだけですが、国家公務員にろくでもない人ばかりが集まって国や省庁がダメになってしまうのはリスクがあまりに甚大です。

 「まともな人にこそ国の組織を任せたい」と思う人は私だけではないでしょうし、ある程度の給与は保障しないとまずいでしょう。

 

 そもそも国家公務員の平均学力、出身大学の平均レベルの高さ、一定程度の倍率を潜り抜けるコミュニケーション力などを見れば、同じような能力を持って民間企業へ就職した同級生はもっと稼いでいるわけです。

 給与の算定基準の参考とする対象は、本来有名企業だけであってもいいかもしれないのに、Fラン大卒の人なんかも大量にいる民間企業も踏まえて給与を下げているところがあるわけで、就職した人の属性を見るとむしろ給与の額はもっと上げてもいいぐらいではないかと思います。

 特に多忙を極める官僚や、国・社会を守る立場にあり日々厳しい訓練をしている自衛隊などにはもっと給与を出して然るべきではないかと思います。

 

 

○「俺が金を出しているのだから何をやってもいいだろ」と思っていないか?

 自分たちが税金を出しているから自分たちの意のままに待遇も決めさせろといわんばかりの人が世の中には多いですが、「金を出しているから俺の言うことはすべて聞け」というのは、モラハラDV夫(父)やブラック企業の経営者の考えそのものでしょう。自分の父親を見ているようで吐き気がする限りだ。

 

 金を出していることを盾に何でもかんでも許されるわけがないですし、賃金と言うのは労働の対価なわけです。

 それなりの選抜を潜り抜けあえて民間企業への就職を断念して公務員になり、ちゃんと労働をしている人に対しては、それ相応の給与を出すべきではないでしょうか。

 勿論ちゃんと働いてないような人には批判をして然るべきですが、多くの人は真面目に働いているでしょうし、そんな人にまでバッシングをするべきではないでしょう。

 

 

 ぱっと思いつくことを挙げてみましたが、民間企業の賃金も上がりましたし、国家公務員はそれなりに厳しい選抜を抜けてきており比較対象は大企業勤務の人であるべきだと思うので、ボーナス増加も妥当だと思っています。

 個人的には、バッシングするにしても、コネがあったり、とりあえず女子学生ばかり取ったりするふざけた選考をしていることも少なくない地方公務員の方を叩けばいいのにと思いますが、例えば大阪市であれば大阪市民以外関係がない話ですし、どうしても叩きづらいんでしょうね。あ、私の給与は下げるなよ。

 

 私も国家公務員試験に何度も落ちていますが、とりあえずビール的な感覚で、とりあえず叩きやすい立場の人を叩くという卑劣さには嫌気がさしてならないです。

 

 

※1:おしえて!人事院

※2:冬のボーナスが過去最高=大手企業、4年連続増-経団連:時事ドットコム

現状に不満があっても、やみくもに変化を求めてはならない

 先日のオーストリアの大統領選挙では、リベラル派のファンデアベレン氏が勝利したものの極右政党との差は僅か3ポイントにすぎず、極右正当の台頭を許すという衝撃的な出来事が起こりました。


 イタリアでも、左派政党の首相が提唱した憲法改正案が否決され、内閣が解散される見込みとなりましたし、とにかく現状を打破しようと過激なものに惹かれがちな傾向が世界各地で広まってきています。

 

 

 しかし、現状にいくら不満があるといえども、現状を変えたらもっと酷くなる可能性があることを忘れてはなりません。

 というか、今までの人類の歴史を見ると、最悪と思われた時代の後にもっと酷いことになったケースは山ほどあります。やみくもに変化を求めるのは危険なのです。

 

 例えば、第1次世界大戦の後のドイツなんてまさにそうでしょう。

 177万人もの国民が死亡し、国土が荒廃し、巨額の賠償金が課せられ、ルール地方も奪われ、挙句の果てにハイパーインフレで経済は大混乱。人も金も国土も誇りも失った。

 おそらく「もうこれ以上酷くなるなんてありえないだろう」と当時のドイツの人々は強く思ったことでしょうが、実際にはわずか20年ほどでまたも世界大戦を引き起こし、もっと酷い事態に発展したわけです。

 

 遥か昔の2000年ほど前のことを考えても、ティベリウスの死亡でローマの人々は「これでまともな時代がやってくる」と歓喜したことでしょうが、その後、歴史マニアにとって悪名高いカリグラが登場するわけです。

 ティベリウスがあまりにも不評だったせいか最初期だけはマシという評価だったようですが、すぐに課税も処刑もやりたい放題のカオスな時代へと突入してしまいました。

 もう有史からずっと人類はこの調子なのです。こんなに酷い現状があるだろうかと思ったら、もっと酷い局面が来るなんて歴史上何度も繰り返してきたことなのです。

 

 

 わかりやすい例を2つ挙げましたが、そもそも現状を変えたらもっとひどくなったなんてことは国レベルのたいそうな話に限りません。日常にありふれています。

 例えば野球では、フォーム変えた結果、全く打てなくなったり、球速が出ずストライクも入らなくなったりして二軍でも行方不明になってしまったなんて人は別に珍しくありません。

 転職したら、独立したら、離婚したら、大学辞めたらもっと酷いことになったなんてあまりにもよく聞く話でしょう。

 


 当たり前のことではあるのですが、変化というのはリスクなのです(変わらないのもリスクではありますけどね)

 今が悪いとどうしても、「現状を変えたら少しは良くなるだろう」と都合のよいことをつい考えがちですが、残念ながらこの世界は優しくない世界であり、そうとは限りません。

 今が一番底と思ったらもっと底があったみたいなことが多々ありますし、今よりもっとひどくなる可能性だって十分にあるのです。

 

 国政レベルではもちろんのことですが、個人レベルでも人生に関わる大きな決断は慎重にしなければなりません。

 「今が最悪」、「これから先は上がるしかない」みたいなことを安易に口にする人は多いですが、それが真である保証など全くないのです。

 都合よくそう考えているだけかもしれませんし、本当にそう言い切れる具体的な論拠がどれだけあるかを考え直すべきです。

 

 

 今の時代は、「どうにでもなれ」、「ええいままよ」みたいな感じで投票をする人も少なくないでしょうし、「とにかく現状を変えなきゃ・現状を変えてくれ」と思う人が少なくないですが、常に今より酷い状況になる可能性を頭に入れて冷静に物事は判断しなければならないのではないでしょうか。

 

 私も上位ローの既習に落ちたときはまさに「今が最悪」だと思っていましたが、実際にはその後にもっと酷い大学院生活が待っていて公務員試験にも落ち続けるという悲惨な経験をしましたし、今が最悪とは限らないんですよ。おっと本題から話が逸れちゃった。

カジノが解禁されるとして、日本でカジノは成功するのだろうか

 カジノを含むIR・統合型リゾート施設の整備を推進する法案をめぐり自民党の国会運営が批判されていますが、同法案は近々成立しようとしており、近い将来日本でもカジノが解禁される見込みとなってきました。

 しかし、個人的には日本でカジノを解禁してもあまり上手くいくと思っていないですし、よく言われるメリットも実際にはそれほど生じないのでないかと思っているので、カジノが成功しなさそうな理由について語りたいと思います。

 

 

○世界的に見てカジノ業界は過当競争、供給が既に多い

 世界では既に130か国ほどでカジノが合法化されており、ラスベガス、アトランティックシティ、マカオなどを中心に数多くカジノが存在しています。

 アジアにもマカオはもちろんのこと、シンガポール、マレーシア、韓国、フィリピン、カンボジアとカジノは存在しており、カジノ業界はすでに過当競争の気配が強いのです。

 

 実際、カジノの都市としてとくに有名なアトランティックシティでも、過当競争によりカジノの閉鎖が相次いでいますし※1、世界単位で客の奪い合いが発生しているため、日本でカジノを開いても当然のように外国人観光客が集まることは期待できません。

 特に日本は立地の都合上、中国や韓国、台湾といった東アジア以外からの観光客を獲得しにくい環境にありますし、日本語が公用語であり英語が通用しにくいという問題があることからすると、カジノをしたい人がわざわざ日本に来ることは期待しづらいのではないでしょうか。

 海運のシェアが上海や釜山に奪われ、航空のシェアが仁川国際空港に奪われているのと同じように、カジノの顧客も他国に流れてしまう可能性が高いと思います。過当競争下で勝ち抜き生き残るのは容易でないでしょう。

 

 

○観光産業の競争も激しい

 カジノといっても本当にカジノだけで顧客を獲得しようとしているわけではなく、多くのカジノのある都市はリゾート施設もセットにして観光地として顧客を獲得しようとしています。

 日本でも大阪や横浜がカジノ誘致を検討しており、当然観光地として売り出しにかけているところも強いですが、日本にはすでに多くの観光都市があるわけで必然的にそことも顧客の奪い合いになります。

 

 日本に来る外国人観光客に人気なのは京都の街並みのような古来の日本文化を味わえる観光地でしょうし、既存の観光地との競争にカジノが勝てるかと言うとかなり怪しいのではないでしょうか。

 

 

国内需要がどれだけあるかも怪しい

 日本では競馬、競輪、競艇、宝くじと公的ギャンブルが既に数多く存在し、浸透しています。

 それに事実上のギャンブルであるパチンコも芦屋市を除けば日本各地いたるところに存在しています。

 

 パチンコの売り上げは年間19兆4000億円で、マカオのカジノの売上2兆6800億円、ラスベガスのカジノの年間売上5280億円(2011年レジャー白書)を遥かに上回っていますし、既に日本は世界トップのギャンブル大国なのです。

 ギャンブルに有り触れた日本で、今さらギャンブルの一つであるカジノを追加してもさほど需要はないのではないでしょうか。

 

 それに日本では、カラオケ大手のシダックスすら過当競争に伴う価格競争に勝てずカラオケ事業から撤退する羽目になっていますし、娯楽施設やレジャー施設も飽和状態にあります。ゲーセンも潰れすぎだぞ。どうにかしろ!

 ギャンブルも、その代替となるだろう娯楽やレジャーも過当競争状態なわけであり、そこにさらに観光産業も関わってくるわけですが、時間もお金も有限です。日本人は日本のカジノにそれほどお金を回せられないのではないでしょうか。

 

 今の10代や20代なんかは特にカジノには目もくれず、「それならまだソシャゲに課金するわ」と言う人が多い気がしてならないです。

 

 

 一応、予想経済効果は大阪約7500億円、横浜約4000億円らしいですが、私としては上の理由からそこまでの効果が実際に生じるのか疑問に思っています。

 もしカジノ側が様々な競争に勝って上の経済効果が生じたとしても、それはそれで他の日本のギャンブル・娯楽・レジャー・観光産業の収益が減るので、日本全体としてみると利益は大して増えないおそれが強いと思います。
 結局、ギャンブル依存症の人を今以上に増やし、治安を悪化させただけで国内トータルの利益は大して上がらないとなれば、果たして国及び社会にとって成功と言えるのでしょうか。

 

 あと、シンガポールではカジノ建設により6万人の雇用創出につながったようですが、ギャンブルも娯楽も氾濫している日本で同じように雇用をつくれるとは思えませんし、カジノで雇用が出来ればその分パチンコなどの雇用が消えるのではないでしょうか。

 それに、雇用創出と言うなら、治安悪化などの不安のない公共事業をやったほうがマシなのではないかと思います。

 

 

※1:カジノ閉鎖続くアトランティックシティー、雇用や税収にも打撃 - WSJ

大学授業料の高さが思い切り少子化に繋がっている気がしてならない

 近年、日本の大学の授業料の高さが問題視されることが増え、授業料が大きな負担となっている学生が少なくないという現実が広く知られるようになってきました。

 私も中国人ばかりが暮らすアパートで生活保護ラインを下回る大学生活を送っていましたが、明らかに授業料の負担が重いという感覚がありますし、授業料の負担の重さが明らかに結婚・出産を遠ざけている要因になっている気しかしていません。

 そこで、大学授業料の高さが少子化に繋がっているとしか思えないという話をしたいと思います。

 

 

1.授業料負担の重さを再確認

 年配の方だと今授業料がどうなっているのか把握していない人も少なくないでしょうが、今では国立大学の授業料が年間約54万円まで増えていて、四半世紀前に比べ約15万円も上がっています。※1

 しかも、今後はさらに授業料が上げられる見込みであり、15年後には100万円近くになるとの試算も出されています。※2

 

 学費は上がる傾向なのに賃金は増えていないため、学費ローンの受給率も高まっており、現在では大学生の約半分が借金を背負って大学生活を送っている状態です。※3

 仕送りも年々減少傾向にあり※4、今の大学生はかなり金銭的に問題を抱えている人の割合が増えているものと思われます。

 平たく言えば、貧しい大学生活を送り多額の借金持ちで社会人生活がスタートする人が急増したのです。

 

 月5万円でも4年間借りれば、240万になりそこから利息(複利)がかかってくるわけで、15年で返そうと思えば毎月約1万5千円もの負担となります。※5

 ただでさえ平均賃金が伸びていませんし、年功序列も崩壊してきているので歳を重ねてもかつてほど賃金が伸びることが期待できません。そして、終身雇用も崩壊してきていて不安定な職も増えているので将来の不安が強く、そのうえでのこの負担なので正直経済的負担はかなり重いです。

 多額の借金はストレス要因ですし、ブラック企業に入社しても辞めるにやめられない状況となってしまい逃げ場がなくなるため、ただ金銭負担が重いというだけでなく、精神的な負荷も大きいものとなっています。

 

 

2.今の若者は娯楽費が少ない、他人のためにお金を使う気になれなくても当然

 ここ10年ほどで嫌と言うほど「若者の○○離れ」という言葉が濫用されましたが、実際には金銭が若者から離れているのが実態であり、例えば良き社会生活を送るうえで必要な食費が四半世紀前に比べ3割も減少しており、娯楽の中でも優先順位が高いだろう「被服及び履物」の出費も6割減少しています。※6

 よき社会生活を送る上で特に大事そうな出費まで大幅に減少しているわけで、質素な暮らしをせざるを得なくなっている若い人の割合はかなり増えているのです。

 

 食べるものや着るものすらお金をかけられない、自由にお金をつかいづらいのが現状なわけで、ましてや他人のために積極的にお金を使おうという気にはなれません。

 現在では恋愛も娯楽の一つという要素が強いですし、お金も労力もかけないといけずだからといって見返りがあるかは怪しくコスパの悪そうな恋愛に消極的になるのは当然のことです。

 

 ましてやもっとお金が消えていく婚活や結婚には消極的になっても仕方がないでしょう。

 特に養われることがまずなく養う側の立場となる男性にはその傾向が顕著に出ていると思います。草食系になるのも金も精神的余裕もないから仕方がないのです。

 

 

3.無理して子供をもつべきでないとの考えが強まっている

 今の若い人(特に20代)というのは、物心ついたときから不景気を経験しており、失われた20年以上の中生活をしていて、さらにリーマンショックで大企業勤務だろうが人生は安泰ではないと痛感した世代なので、将来を悲観している人が特に多いと思います。

 さらに格差社会を痛感しているので、まともな人ほど「自分の子どもには、安定してかつ良い賃金をもらえる可能性が高くなる大学進学のチャンスを与えなければならない」、「自分の子どもを底辺層に行かせるリスクは極力減らさないといけない」という思いは強いです。

 

 また、昔と違って「誰でもとにかく子供を産むべき」という命題が疑問視されていますし、「まともな教育環境を整えることができて立派に育てられるなら子供を産めばいいけど、そうでないなら子供がかわいそうだから産まない方がいい」という考えも強まってきています。

 私なんかもまさに「幸福にできる自信・見込みがなければ、子供なんて産むべきでない」との考えの人間ですし、言葉は悪いですが「貧乏人は(子どもが可哀相だから)子どもを産むな」との考えに賛同している人が多い印象です。

 

 そんなわけで、経済的精神的余裕のあまりないうちには結婚、出産をしなくなり、その結果余裕が出てくる頃には婚期を逃していて結婚しなくなったり、出産まで行っても数が限られてきたりするのです。

 それにそもそも結局余裕が出てこないケースも多いでしょう。

 

 

4.まとめ

 要するに、

 大学授業料の負担が重い

→自分ひとりですら生活が厳しい。学生時代もその後も経済的精神的余裕がない

→今、結婚し子どもをもったところで良質な教育環境を整えるのが困難

→今は結婚して子どもをもつべきでない

→後に余裕がでてきたとしても、そのときにはもう遅い。子供を産むにしても数が限られる。

 という流れがある気がしてならないです。

 

 「学費負担は自己責任」という風潮が日本には強いのですが、自己責任とばかりとか言っていたら「ろくに結婚できず子供も産めない社会が滅ぶのも自己責任」、「そんな社会では少子化により社会保障が崩壊したとしても、そんな社会を作り出した老人の自己責任」という話になり、ますます少子化問題は深刻化するのではないでしょうか。

 

 

※1:70年近くに渡る大学授業料の推移をグラフ化してみる(2016年)(最新) - ガベージニュース

※2:国立大授業料、54万円が93万円に 2031年度試算:朝日新聞デジタル

※3:大学生の奨学金受給者率推移をグラフ化してみる(2016年)(最新) - ガベージニュース

※4:首都圏私大生の月平均の仕送り額、9万1300円で過去最低額を更新 | マイナビニュース

※5:奨学金返済シミュレーション/返済額,利率,方法,期間をイメージしよう!【奨学金なるほど相談所】

※6:若年層の消費実態(2)-食料費や被服費の減少と住居費の増加、薄まる消費内容の性差 | ニッセイ基礎研究所

人物評価は人間性や人格以外の点を見すぎではないか 本当に人物評価と言えるのだろうか

 今では公務員試験でもいわゆる人物評価を重視して、面接の配転を増やしたり、筆記試験は1次選抜のみ利用しそれ以降の選抜には利用しない方式(リセット方式と言われている)を取ったりするところが増えています。

 大学入試でも、東大や京大ですらついに推薦入試を導入しましたし、今や一般入試での大学入学者は5割5分ほどにすぎません。約4割5分が人物評価が重視されることも多い推薦入試や、AO入試などで入学している状況となっています。

 

 今や人物評価は昔に比べかなり重視されているようになりましたし、表だって「人物評価を軽視すべきだ」なんて意見は言いづらいご時勢となりましたが、個人的には人物評価には問題点が多いと思っていますし、本当にどれだけ有用なんだろうと疑問に思っています。

 そもそも、人物以外の要素見すぎじゃないか、これで人物評価と言う名前を付けていいんかいなどと強く思っていますし、人物評価についての批判をしたいと思います。

 

 

1.人によって評価基準が違いすぎる

 択一式(マーク式)の問題では、何が正解か何が間違いかははっきりしていますし、論述問題でも、採点基準ははっきり決められていて採点者の点数を決める裁量はかなりの程度制限されています。

 そのため、ペーパーテストでは、誰が採点を行ったとしても、受験生に有利不利はできにくい構造となっています。

 

 それに対して人物評価は、ペーパーテストほどの厳格な採点基準を作りづらい性質がありますし(勿論、まともな組織ならちゃんと基準は作っている)、その基準のうちどこに当てはまるかの判断はどうしても面接官によってブレが生じやすいです。

 同じ行動一つを取ってみても、「周りを引っ張っていてリーダーシップがある」と評価して協調性があると判断する面接官がいれば、「自分ばかり目立とうとしている」と評価して逆に協調性がないと判断する面接官もいるでしょう。

 同じ人を見ても、「言うべきことをはっきり言う。骨のある人」と良いように評価する面接官がいれば、「人の気持ちも考えずに喋るろくでもない奴」と悪いように評価する面接官もいるでしょう。

 ネットでもスポーツ選手のコメントに対して、賛否両論が出ることはままありますが、面接でも同じように人によって印象が正反対になることが当然あるわけです。

 

 運よく自分を評価してくれるタイプの人に巡り合うか、不幸にも自分を嫌うようなタイプの人に巡り合うかで人物評価の点数が大きく左右されてしまうわけです。

 ペーパーテストでも運要素はありますが、人物評価は特に面接官次第で結果があまりにも変わりやすいでしょうし、運要素が大きすぎるでしょう。

 万人から評価されるような人は少数ですし、一般人は評価する人もいれば評価してくれない人もいるという状況が普通なので、多くの人はあまりにも大きい運要素に左右されがちです。大半の人が、人生の重大な決定で大きすぎる運要素に翻弄されるというのは制度としていかがなものでしょうか。

 

 

2.評価があまりにも簡単にいじれてしまう

 人物評価と言うのは、どうしても採点基準が厳密に作りづらく、その基準に当てはまっているかの判断も人によってブレやすく、何をどう評価したのかについてはブラックボックス状態なところがあります。

 ブラックボックスの中でも正当、公平、合理的に判断がなされていれば問題ないのですが、残念ながらブラックボックス状態をいいことに公平性を害して評価を行うことは一般的に行われているのが現状です。

 

 代表的なのは、一部の市役所(事務職)や裁判所事務官などの女性優遇措置です。

 これらの組織では、面接試験での極端に女性の合格者が高く、いくらなんでもアファーマティブアクション、ポジティブアクション以外では説明がつかないとしか思えないほどの差異がついていたりします。

 

 要するに人物評価と題して、事実上は事務職に女性ばかりを採用するため意図的に調整をかけているわけです。

 これでは事実上「男性はマイナス評価、女性はプラス評価」というように性別を評価しているようなものですが、はたして性別の評価というのは人物評価に当たるのでしょうか。

 「人物」と言うと、普通は性格、人間性、人格などを指すと思いますし、性別を人物評価の一要素として含めることに妥当性があるのかはかなり怪しいと思います。それに性別と言う生まれながらにして与えられる自分の力では変えようのない要素で、評価を変えられたらたまったものではありません。

 

 

 また、医学部入試のように人物評価を隠れ蓑にして年齢により点数を調整することも現実には行われています。

 一部の大学では、年齢が一定以上だとどれだけまともに受け答えをしていようと問答無用で0点をつけられることがあるのです。年配の人を冷遇し排除する手段として、人物評価が使われているのです。

 

 年齢による取扱の差異を設けること自体は認められてよいかもしれませんが(国の予算で医師を育成する以上、育成にかかるコストを回収できるような人を合格させなければならないという要請があるため)、年齢と言う要素を人物評価の一要素に含めるのはいかがなものでしょうか。

 年齢が上だから人物評価では点をつけないというのは、まるで「年齢が上だから人としては0点」と言っているように見えますし、それをやるなら堂々と人物評価とは違う項目で加点減点を設定しろと言う話です。

 人物評価である以上、まともで誠実な人なら何才だろうと点数がつかないとおかしいはずでしょう。

 

 

 そのほかには、ある家柄の人やコネを持っている人を密かに優遇するパターンもあるでしょう。

 日本は中国ほど行政が腐敗していないでしょうし、コネがあるから試験はフリーパスみたいな状況はかなりの程度減ってきているでしょうが、不自然なほど定期的に不祥事を起こしている部署をもつ市役所や県庁も実際に存在しますし、人物評価と言う不透明な選抜手段を利用して、一定枠はある特定の層を優遇して採用することが行われているのではないかと思われる事態は現に起きています。

 本来は採用されてはならないような特定の権力者の子や特定の層の子が、人物評価が悪用されることで採用されてしまうと、住民にとっては大きな損害でしょう。

 

 このように人物評価の不透明さを利用することで、権力をもつ者が思うままに調整を行えてしまうおそれがあるので、安易に無批判に人物評価を導入してはならないのです。

 

 

3.顔、身長、スタイル、声など外見・容姿に左右されすぎる

 意図的な調整でなくても、人の持つ属性によって有利不利は生じます。

 代表的なものでいえば、容姿による有利不利は評価に大きく影響するでしょう。

 というのも、面接官が男性なら当然さえない男子やブサイクな女子よりも、美人の方を優先して通そうと考えてしまうものでしょうし、面接官が女性だとしても、身長185cmのイケメンと165cmのブサイク男子では、よほど前者がやらかさない限り前者を取ろうと考えがちになるからです。

 私だって、もこみち風のイケメンが来たらよほど頭のおかしい人でない限りは高い評価をつけてしまうとしか思えません。

 

 普通は、一緒に働いたり研究したりする相手は容姿に恵まれている人がいいと思うものですし、意識的でなくても容姿に恵まれている人については少しでも良いところを探し、容姿に問題のある人についてはあらさがしをするということが無意識のうちに行われるのでないでしょうか。

 人間が評価者である以上、容姿がすごく重視されてしまっているというのが現実だと思います。

 

 しかし、その人がその人をあらしめるのは外見ではなく中身・脳でしょう。

 仏教的に言えば、身体は現世で一時的に借りている物みたいなものです。君の名は。を見た方なら、瀧君の入った三葉を三葉と言い切ってしまうのは抵抗があるでしょう?

 人物評価にいう「人物」としては、その人がその人あらしめる主たる要素である正確、人間性、人格と言った要素こそが重要であり、それらに重点をおいて人物評価をするべきではないでしょうか。

 

 容姿も「人物」に含まれるとも考えられるかもしれませんが、あくまでビジュアルは主たる判断要素とすべきではないでしょう。

 容姿を判断基準にしたいなら、人物評価なんていうあたかも性格や人間性、人格を評価する名前をつけるべきではないと思います。

 

 

4.最後に

 他にも言いたいことはありますが、とにかく「実際には、性別や容姿、家柄と言った人物評価として不適切そうな要素を思い切り主として考慮しているのに、何が人物評価やねん」と言いたくなります。

  人となりは経歴にも表れているところがあるので、別に経歴ぐらいは見ても良いと思いますが、人物評価と言うならちゃんと性格や人間性、人格を見るべきでしょう。それなのに、そのほかの要素をあまりにも重視しすぎですし、作為が入れられやすすぎです。

 それに、上辺ばかり見てないか、その人がどんな人物か本当に見ているのかと問いたくなります。

 

 まあ、経歴ボロボロで、容姿も別に恵まれていない私でも人物評価で良い評価をされることがあるぐらいなので、見ている人は見ているんでしょうけどね。でも、闇の部分を見落としているから、やっぱり人物評価ってだめかもしれない。 

数学って受験科目として本当に必要なのだろうか。どれだけ必要なのだろうか

 現在でも、一定レベル以上の国立大学の一般入試では、理系はもちろんのこと文系であっても二次試験に数学がかせられます。

 文系はまだ数3がない分ややマシではあるものの、数学ができないばかりに私立に行く人は多いですし、受験生にとっては明らかに重い負担となっています。

 

 勿論、数学ができるにこしたことはないですが、そこまで重い負担を背負ってまで数学を学ぶべき必要性はあるのでしょうか。

 数学に熱い思いを持っている人に怒られるかもしれませんが、数学が受験科目として必要なのか個人的に思うことを書きたいと思います。※1

 

 

1.入学後に数学の素養が直接必要となる学部は少ない

 工学部や理学部では入学後も数学が重要になってくると思いますし、経済学部も数学ができない人でもなぜかどうにかなっていますが、学問の性質上本来必要性は高いはずです。

 これらの数学の学習がもろに必要となる学部については、大学入学時にある程度数学の能力を身に着けてもらわないと困るので、入試科目として数学を必要とするのは十分にわかります。

 

 しかし、法学部や文学部などで数学を使う場面はまずないでしょうし※2、理系に分類される医学部や薬学部などでも数学を必要とする場面は果たしてどれだけあるのでしょうか。せいぜい一部の分野にすぎないでしょう。

 入学後に数学の能力が必須となったり、能力があると重宝したりしないのであれば、わざわざ入試科目として数学を必須にして、数学の能力を問う必要性は低いのではないでしょうか。せいぜい選択にすれば事足りるのではないでしょうか。

 

 

2.どうせなら他の能力を高めて入学させた方がいいのでは?

 残念ながらこの世界では時間も体力も有限です。何か一つのことに努力すれば、それだけ他に費やせたはずの時間・労力が失われてしまいます。

 当たり前のことではありますが、数学の学習に一生懸命になればなるほど、本来ならば英語や物理、化学、生物、日本史、世界史、地理、倫理政経など他の科目の学習や、受験科目以外の学習をできたはずの時間と労力が失われてしまうのです。数学のせいで失われた3000時間超の時間を私に返してくれ!

 

 数学が大事ではないとは言いませんが、学部によっては数学よりもしっかり学ぶべき科目があるでしょうし、より優先して深く学習すべき科目があるのではないでしょうか。

 例えば、医学部でしたら、数学を徹底的にやるより、センターだけしかやらなかったりセンターですらやらなかったりする生物に力を入れる方が、後の大学での学習や医師になった後に役立つことが多い気がします。

 また受験科目に限定しないなら、英語に加えてドイツ語やフランス語などを学習した方がいい場合もありそうですし、社会科学系であればそれに加えて法学、政治学、倫理、哲学、社会学、経済学、経営学など幅広く知見を吸収する方がベターでないかと思います。

 

 どうせなら、数学の代わりに他の科目を受験科目として選べるようにし(二次試験の科目を理科三科目にしたり、日本史や世界史、倫理政経を入れたりする)、他のことに力を入れさせた方がよいのではないでしょうか。

 

 

3.数学でチェックしている能力を他の科目でチェックすればいいのでは

 そうはいっても、数学のおかげで論理的思考力のある学生を選抜できている、数学があるからこそ大学入学後に複雑な思考が求められる難関な学問についてこれる学生を見極められるという反論が出てくることでしょう。

 

 しかし、論理的思考力は、国語の読解問題や世界史の長文の論述問題など他の科目でも育むことができますし、国語や世界史で審査することができるでしょう。数学を必ずやらないといけないというほどではないと思います。

 また、難しいことにもついてこれる学生が欲しいというなら、これまた他の科目の難解な問題でその能力を問えばいいのです。別に数学を使わずとも、欲しい学生は選抜できるのでないでしょうか。

 

 実際、慶応や早稲田ほどの大学でも文系では数学を必要としていないです。阪大文学部も二次試験で数学の代わりに地歴を選択可能です。

 これらの難関大学の一般入試でも、数学なしの選別は行われており成功しているのです。

 慶応や早稲田で上手くいくなら、同じぐらいのレベルの大学でもうまくいくのではないかと思えてきますし、社会科学系の学部であれば、英国数の3科目より英国地歴or倫理政経の3科目の方が大学で学ぶ内容とよりリンクしていて良いのではないでしょうか。東大みたいに地歴2科目にしたり、一橋みたいによくわからん融合問題を出したりするのもありかもしれません(それやると極端に難しくなってしまう気もしますが。)。

 医学部や薬学部なら、逆に学生の負担が増し併願が困難になりそうですが、いっそのこと数学の代わりにさらに1科目理科追加とかの方が将来に役立つのではないでしょうか。

 

 

4.推薦入試以外も科目変更の議論を

 最近は推薦入試のことばかり話題が集まりますが、難関と言われる国立大学に関してはいまだに一般入試での入学者が多いわけで、一般入試の制度をより合理的なものに変えていく必要があると思います。

 個人的には数学を必須でなくしたほうがいい学部がいくつかあるのではないかと思いますし、経済以外の社会科学系学部については数学の代わりに地歴や倫理政経を選べるようにしたほうが良いと思っています。

 

 少なくともあそこまで難しい数学の問題をやらせる意味がどれだけあるのだろうと思わざるを得ません。別に二次試験でなくセンターだけでも良いのではないでしょうか。

 同じく論理的思考力を問う科目であり、さらにあらゆる学問や学習の基礎となる国語を二次試験で必要としない学部も少なくないわけですし、それなら数学だってセンターだけでいいじゃないかと個人的には思います。

 

 難しい論述をガンガン求めていけば数学がなくなっても入試全体の難易度が極端に下がることはないでしょうし、推薦入試の導入を機に一般入試の受験科目の見直しがあっても良いのではないかと感じます。

 

 

※1:大衆教育としては、数学の素質がある者に自覚を持たせ数学の能力を伸ばしやすくできる、数学を必要とする職に就くものにとって早期教育が実現できる、論理的思考力を育める点で一応数学をやる必要性は高いと思っています。

 確率がわかっていないギャンブル脳の人やスピリチュアルに走る人は少なくない気がしますし、必要十分条件帰納を理解していないせいで意味不明な推論をするような人も多いと思うので、意外と社会生活でも数学で得た知見は大事かもしれません。

 

※2:一応、法学も論理を駆使する学問ですが、合理的な根拠づけを追求し妥当な解を模索する社会科学の論理と数学の論理は性質が異なっている気がしてならないですし、慶応早稲田を含む私立大学の法学部の多くは数学を選択することなく受験できているので、数学の能力は別に無くても問題なさそうです。

もしも京大入試で数学が必須でなくなったら

 女子比率を上げるために女子だけに家賃の補助を出す取り組みをした東大に批判が集まっていますが、京大でも一部学部で低すぎる女子比率を上げるべきでないかと言う話はあるようです。

 東スポ並に信用できない噂ではありますが、何とも数学を必須科目から外す案もあるとかないとか。

 

 実態がどうかは部外者にはわかりませんが、推薦入試も導入されますし入試科目の変更自体は検討されているので、将来的には一部の学部で数学が必須でなくなっても全くおかしくないとは思います。

 

 

 それで、もし法学部とか医学部とかで数学が必須でなくなったらどうなるかと言う話ですが、個人的には目的の女子比率上昇は大して期待できないと思います。

 数学を選ばなくていいようにしたところで、結局女子比率は上がったとしても多少上がる程度で正直大して上がらないと思います。

 ほぼ変わらない可能性も十分にあるのではないでしょうか。

 

 

 というのも、京大を本気で目指して必死に努力する層には、男子が実に多いのです。

 関西の名門私立(男子校が多い)では京大を目指す人たちがごろごろいますし、志願者の男子比率自体が高いのです。志願者に男子が多いのだから合格者に男子が多いのも当然のことでしょう。

 勿論その分、京大のあのアホみたいに難しい数学の前に涙をのんだ男子学生も数多く存在するのです。中には私のように死ぬほど数学を勉強したのに、1完しか期待できない惨敗者もいることでしょう。

 従来は数学のせいで涙を呑む羽目になっていた男子学生が、数学がなくなれば合格してくるわけで、数学がなくなったことで新たに合格してくる層には男子がかなり多いことでしょう。

 

 勿論、数学の前に無念の敗北を期していた女子も救済され合格できる人が出てくるでしょうが、男子の救済者の多さから女子比率はさほど上がらないのではないかと予測しています。

 

 

 正直、東大や京大で女子比率を上げようと思うなら、付け焼刃の対応でどうにかなるものではなく、もっと本気で東大や京大という難関に挑む女子の割合を増やさないとダメでしょう。

 東大や京大レベルともなれば、本気で挑んだところで上手くいかない人が多いわけでそれ相応の資質や環境に恵まれてないと合格できません。ましてや本気でなければ合格は困難になります。

 

 親や社会が男子と同じぐらい女子についても教育熱を持ち、女子が東大や京大に行くことでそれ相応の見返りが得られる状況を作り他でもない本人達こそが必死にならなければ、東大や京大の女子比率はなかなか上がらないのではないでしょうか。 

 前の記事でも書きましたが、親や社会の意識、社会構造から変えていかないと状況は変えられないと思います。