病んだヨギーの日々(2021年4月27日現在)

就職してしまったヨギーの雑記

アントラムを観た

タイトル通り。映画「アントラム」を観ました。一昨日。晴れた日曜日のお昼過ぎ。

 

観たら死ぬ、と言われる映画。レンタルショップでたまたま見つけてしまい、一度は少し気味悪くて素通りでしたが、その帰り道、もし死んでもいいか、と思って、借りることに。

 

家に帰るとすぐに見始めました。夜に観なくてよかった。映画本編と関係ない?不気味な映像が入る箇所がいくつかありました。その中の一つに特にぞくっとしました。映画自体の怖さよりも、これをつくったものが画面越しに呪いをかけてくるような。

 

呪怨のあの血まみれで這ってくる顔もかなり恐怖でしたが、それよりもっと、なんか、自分に実際に触れ得そうな、、、。映画としてじゃなく、呪物としてつくったのか?あの顔は真っ正面から観ることが出来ませんでした。ひとまず、メンタルはかなり下がりました。最近かなり病み気味でホラー映画観まくってましたが、なんか、自殺のことばかり考えるようになってしまう映画でした。

 

とはいえ、それから2日、良くも悪くも変わり映えのしない日々です。死ぬとしたらどこかの山奥で即死できそうな崖から飛び降りるかなとか、電車は迷惑かけすぎるよなあとか、アントラムのDVD返却しないまま死んだら実例が一つ増えてもしかしたら自分のこともその事件のことで何年後にも認知されてるのかなとか、この人だけには幸せになってもらいたいと思ってるあの人に何も出来なかったなあとか、、、頭の中で渦巻きはするけども、死にはまだ遠いようで。まだまだ、その臭いがすることはない。。。

 

生きるのが苦しいと今までの人生のどの瞬間よりも感じてる日々。自分に価値がないと分かること、知るほどにどうでもいいと分かることに囲まれていること、数少ない大事と思えるものには自分の手がかすってもいないこと、いつまでも茶番に付き合ってるしたたかな人、ただ頭のないだけの人、そんな人達の中にいる自分、などなど。

 

そんなこと考えながら感じながら、だらだら生きてる自分。だいぶふてくされてしまった。悪魔とそんなことをだらだらとしゃべってみるのも面白いのかも。

人に優しく出来るこつ

外出自粛ムード高まる都内。ですが、八王子だとそろそろ出歩いてる人が増えてきて、マスクしないままの人もぽつぽつ見かけるようになりました。ただ、まだまだマスクをせずに外を歩いてると、なんとなく申し訳ないというか、、、上裸で歩いてるような、そんな感じもします。自分は絶対大丈夫だから!と言い切ることも出来ず、かといってマスクしてるのも鬱陶しいし、という葛藤。

 

人の目がやたら気になる時期を過ごし、それがまだ続きそうでもあります。そんな中で、他人に対して色々心の中で毒づいてしまっていることも。「マスクしてないのは良いとして、そんな咳すんなよ」とか、「こんな狭いとこでトロトロ歩いてんなよ」とか、「タバコ吸いながら歩いてんじゃねえよ」とか、とかとか。自分だって人に迷惑かけることはもちろんありますが、そういう時は自分がかわいいもので。人に対してイライラすることは、自分に対して余裕がなくなってくるので、辞めた方がいいのは重々承知してます。

 

人に優しく、というのは結局やっぱり自分を助ける。「まあしょうがないわな」「そんなこともあるわな」と、余裕を持って過ごしたいものです。そのために僕が、自分の経験から、これ良いな、と思い、今も使っている自分操作術を紹介してみようと思います。

 

それは、尊敬できる人を持つこと、そして、今自分がイライラを感じている相手がその人やまたは関係者であったらどうするか、と考えてみること。僕が地元の高知県で、大変お世話になった、親友のおばあちゃんがいますが、礼儀作法などしっかりしていて親切な方でした。親友の家に遊びに行くと、いつも何かしらおやつを出してくれたり、面白い話を聞かせてもらったりしました。友達など2、3人、独りで学校と図書館にいる時間がほとんどで、遊びに行くところなどその親友の家くらいしかなかった当時の僕にとって、身近の尊敬できる数少ない大人の一人でした。

 

そのおばあちゃんは足が悪く、外出の時は何かと気をつけてるということでした。ある日、僕は友人宅の近くの狭い道を自転車で走ってますと、前をよぼよぼと歩いてる老人がいました。狭い道なので、追い越すこともできず、「なんでこんなよぼよぼ歩いてるんだ、迷惑な」と思いながらその後ろからゆっくりこいでました。そう思いながら、ふと親友のおばあちゃんのことを思い出して、「なんとなく後ろ姿似てる?」と思い始めました。「いや、やっぱり違う人だ」とすぐ分かりましたが、そのおばあちゃんの知り合いかも知れないし(縫い物を教えててそのお客さんが近所に住んでるとのことでした)、例えば僕がむりやり脇を通りこそうとして、後でその方がおばあちゃんにそのことをぽろっと話して「最近の人は何をそんなに急ぐのかねえ、思いやりがなくなったねえ」などと思わせて悲しませたら、引け目に感じるだろうなあ、なんていうストーリーが浮かんできたり。

 

こういうことが、他にも、狭いスーパーの中で、図書館の書架で、ありました。が、イライラを感じそうになると、この人があのおばあちゃんと何かのつながりがあったら、という想像が働き、自分が譲れば丸く収まるじゃないか、と余裕が出てくるのでした。

 

自分のことだけ考えて、自転車で前の人を無理矢理追い抜いたり、狭い店内ですれ違い様にぶつかって何も言わずに通り過ぎたり、ということは今でもなくなっていないんですが、かなり稀なことになってます。やってしまった後は特に騒ぎになることもありませんでしたが、「またやってしまった」という後味の悪さは強く残ります。今では人間関係の幅もそこそこ広がっていて、もっと人に大事にすべきなのに、という思いが涌きます。たまたま友人・知人・仕事のお客様に、ばったり会うこともありますし、「こんなところ見られて恥ずかしい」となるようなことには常々気をつけてます。

 

尊敬できる人を悲しませる・怒らせる、自分の粗野なところを見せたくない、などのブレーキがあって、人に対しての振る舞いを冷静に考えて、抑えるべきものを抑えて、最終的に自分も気持ちよく過ごせるようになるのだと感じながら、少しずつ進歩を感じながら生きております。もちろん、自分の中の道徳心を磨いて、それが自然に行動に現れるようになれば一番ですが。肚の底から怒るべきこともありますが、そんな多くはないです。大抵のことは、「まあいっか」で、自分が譲れば済ませられるもの。

 

という訳で、家の中で考えてばかりの時間が多いここ最近思い出した僕の過去話から、人にやさしく出来るこつ、でした。些細なことでイライラしそうな時は、尊敬できる人、大切な人を思い出しましょう。

 

以上

そろそろ親と向き合わなければ人生開けないな、と感じたけどどうしても会いたくないしゃべりたくないそんな僕が考えた解決策

人間、親には感謝しなければいけない。

 

なぜなら、この世に親から生まれずに存在している人間などいないから。

 

親がいるから自分がいるという、揺るがしがたい事実があり、それはそれはとてつもない恩なのです。そんな恩知ったことかという考え方の果てには自殺があるでしょう。僕は親に感謝したくないから自殺します、というほど意地の強い人間ではありませんでした。なので親への恩を報じなければならないと。

 

親として100点満点中80点以上をつけれるような親を僕は数えるほどしか見たことがなく、そしてその数少ない親の人たちも、子供として見たときにどこかしら欠点はあるでしょう。親としての心構えなど、なってみないと出来ない人が殆どであろうし、どんなに準備していても子供が出来てからのオンザジョブトレーニング形式でしか近づいていくことができないものだと思います。中にはまともな親になる前に子供が自立してしまうこともあるという。

 

僕がここまで分かったのはここ3〜4年のことでしょうか。頭では「親も子供が出来てから親1年生スタートなんだな」と分かっても、許せないところがあります。許せないというか、僕は実家の中での人格が心にこびりついてしまっていて、今更それを払拭して親と仲良く話なんか出来ないよ、という状態です。

 

それでも親には感謝して、恩返しをしなければならない。これは、僕の尊敬するある人の教えるところです。僕が生きていく上で色々と軸になるものをくださった方です。その人の言うことならすべて素直に聞くことが出来るのですが、親のことに関しては難しい。

 

僕は大学進学を機に実家を離れ、そして実家を離れてから「生きているのはこんなに楽しいことなのか」と、感動しました。親の顔も声も聞かなくていい毎日。最高でした。家事全般は高校生の頃から自分でしていたし、食事の用意も自分でしていたので、一人暮らしで困ることはなく。実家を離れて、むしろ生活の負担が減ったと感じれるほどでした。

 

そういう生活が始まってからもう7年。そつなく就職もし、何不自由なく生活してましたが、仕事のことでは色々あります。どうも今のままではこの職場つぶれちゃうな、というのが明らかなのです。転職や、フリーになって頑張る、という選択肢はいくらでもありますが、今の職場結構好きだし、こんな職場が増えれば日本が良くなるだろうなーと思うので、諦めたくはないし。

 

そんなことがある中で、ふと親のことが浮かぶのです。人生切り開く為に、個人の努力だけでは達成できない、ややスピリチュアルな領域の力があるなと。親に感謝もせずに生きていて、思い通りの人生を進んでいけるほど実力がある人間なのか自分は、と問うたとき、かなり不安なわけです。

 

でもでも、親の顔なんか思い出したくもないし、会ってしゃべるどころか、電話で話すのさえ気分最悪になるほど僕の中の対親人格はしつこいものです。感謝して恩返ししなされ、という声と、あんな親知るか、という声とがぶつかり合い、後者の思いの方が圧倒的に強いと。

 

それでも、こういうのは理屈じゃあどうにもならないことだし、なんとかできないか、と考えた末に「これでいこう」と出た解決策が、手紙を書く、です。

 

どうせ電話で話しても対親人格がでて声はくぐもり言おうと思ったことは声にならず、唸るように短く返答するだけで終わってしまうので、それなら頭のすっきりしていて言いたいことが伝わるように文章にして送ってしまえばいい、と。

 

というわけで、親に手紙を書きます。月一で書いていきます。そのかわり、期間無期限で親に会わない、電話に出ない、ということにします。これが親への感謝になるのかどうか、色々思うところはありますが、出来ることから始めようと前向きに捉えます。

 

嫌いなものは嫌いだし、親の前ではゾンビみたいな存在になってしまうし、という自分を認め、出来ることから。そのうち親の前でもそこそこ話せるようになるんじゃないでしょうか。

 

とりあえずこれでやってみて、だめだったらそのときにまた考えます。一歩踏み出してみて、その一歩がクレバスの上に踏み出されても、死ななければまた気をつけながら違う方法で進めばいいんです。

 

親との関係ってとことん難しいですよね。つい数年前までは家事で実家燃えて家族みんな焼死してくれないかなーとか思ってましたからね。父方の両親は好きなんですけど。人間としての道をゆかなくては。教えてくれた僕の人生の先輩に感謝です。

 

以上

イライラすることについて:最終的に「まあいっか」という気持ちになるまで

こんにちは。

 

こちらのブログは久しぶりに更新します。

 

こんなに長期間更新してないにも関わらず、毎日数人〜数十人が読んでくれてるようで、なんかありがとうございます。

 

今世の中はゴールデンウィークなるものに入ってるそうです。なんかよくわかりませんが、楽しいものみたいですね。僕は今までそんな黄金週間なるものを経験したことありませんが、どんな風に楽しいのでしょうか。平日なのに郵便局が閉まってたり銀行が空いてなかったりという現象が起こるのがこの期間だ、という認識しかできてないまま人生26年目を迎えてますが。

 

まあ、利用者が不便を感じるということの裏側に、働く方がちゃんと休めている、ということがあるのであれば、なんか安心します。自分のことばかり考えてるなと思って冷静に反省しましょう。インドなんかにいると、頼んだものがなかったり、買い物のおつりがなぜかチョコレートで返ってきたり(例えば10円のおつりが10円分のチョコレートで払われる)、ここに行きたいんだけど、と運転手に行ったら全然違うとこに着いてしまったり。そんなことばっかでした。働く方もまじめに仕事はしないといけませんが、お金払うんだからちゃんと仕事しろよ、という考え方が強すぎると自分が苦しくなるので。

 

最近いらいらしたことがあります。事実をままに伝えるとあれなので、たとえ話で。僕がラーメン屋だったとして、メニューが色々あってその中に辛いのが売りのラーメンもありますと。お客さんが、「あの辛いのちょうだい」と注文して、僕がそれを提供します。するとお客さんが「これ辛すぎるよふざけんなよ」とキレて箸を床に放り出して帰っていく。そんな感じのことがありました。

 

他のお客さんはその辛さでちょうどいい、ちょっと辛いけど辛いのが欲しいときはこれくらいがいい、という風に受け取ってくれる方が多数派。辛さの調整は雑にしてはいけませんが、すべての人にちょうどいい辛さにはなかなかできない。

 

そのキレたお客さんは、次来るなら他のあっさりした味のラーメンかなにか食べてもらうか、もう来ないでもらうか。こちらが提供するものの質に文句があったにしても、あなたの伝え方やマナーが悪いならあなたを歓迎はしません。すべてを自分に合わせてほしいなら、僕には手に負えません。他へ行ってください。

 

そんなことを思いながら最近いらいらしてました。が、いつまでもそんなことしててもしかたないので、「世の中色んな人がいるなあ」と頭の中でつぶやいてほっとくことにしました。痩せたいと思ってるのに糖分たっぷりのものを毎日食べちゃう人。辛いの苦手なのに辛いもの食べちゃう人。人間なんて矛盾しててなんぼですね。

 

矛盾こそ人間、そんなことをしっかりと確認させてくれたそのお客さん。どこかで辛くない激辛ラーメンに出会うことを祈ります。まあどうでもいいけど。

 

以上

台風の日にアパートの一室という洞窟で考えたこと:「ヨガ=健康寿命」にしたい

今日は台風で雨が降り風が吹き、屋内にさえいればなんとなくわくわくする楽しい一日でした。

 

そんな中、今日読み終わった本が一冊。介護の現場の過酷さ、異常さについて書いた新書です。中村淳彦著『絶望の超高齢社会 介護業界の生き地獄』という、なんとも気持ちをしょぼーんとさせるタイトルの本です。

 

介護現場での虐待や殺人、そんな残酷なことをするまでに職員を追い込む介護業界の仕組み、とかについて、何か著者の強烈な思いが伝わるような文章で書かれておりました。

 

興味の出た方は読んでみてください。介護の仕事に限らず、どんな働き方をしていれば人間がどんなになるのか、想像が膨らむと思います。

 

この本を読んで感じたこと。「うわー介護されたくねー」。

 

それと、「出来ることなら世の中みんな可能な限り介護される必要がないように年老いてほしいなー」。ということ。

 

今ヨガを教えていて、そこらへんの可能性については自分実はかなり世の役に立つ技術を持ってるんじゃないの?と、明るい面も見えました。

 

きれいな姿勢を維持し、元気に日常動作を行うための筋肉を鍛え、深い呼吸によって内臓の機能を正常にし、瞑想によって脳の働きを衰退から守る。

 

健康寿命という言葉がありますが、ヨガはまさにその実現にぴったりの文化ではないか!と一人興奮してます。

 

これは何かすべきだ!と思いはじめ、これから公園とか公共施設とかでなるべく多くの人にヨガに触れられるようなイベントを開いていきたいと思ってます。

 

今でも、仕事とは別で、休みの日に少人数で無料の気楽なヨガ教室をやってるんですが、もっと関わる人を増やしたい!という野望が渦巻いております。特にこれから第二の人生なるものを迎える人たちには。

 

もちろん僕の今の職場のヨガスタジオにお客さんとして来てくれたらうれしいんですが、目的としては健康寿命を掲げて、僕の仕事とは完全に別のこととして、なるべくお金のかからないようにできればと考えてます。

 

そんな訳なので、ヨガしてみたいという方がいましたら、僕の休みの日であれば、そして自転車で行ける範囲であれば、声かけてもらえれば多分行きますので、ちょっと頭の片隅に置いてくれればと思います。ゆくゆくは八王子という街が世界的に健康寿命で有名になったらなーと考えています。

 

今日はこの八王子駅から近いようで微妙に遠いアパートの一室で、そういうことを考えてました。

 

以上

 

P.S.

最近ゆで卵にはまってます。

後悔しないことについて

みなさんこんにちは。久しぶりの更新になります。生きてます。生きてますが、色々大変でした。

 

まずひとつ。引っ越しました。6人暮らしから1人暮らしに戻りました。約1年、ひとつ屋根の下暮らしてきた仲間達と離れ、八王子駅南口から歩いて15分程のところに引っ越しました。一人暮らしを決意し、家を決めてから引っ越すまでの期間実に一週間。「色々大変」の大方はこれでした。

 

なぜ引っ越したか。自分にできることが多い方を選びました。以上。といってもわかんない方しかいないかと思います。前の家だと、職場まで時間がかかる、体力を消耗する、することが多い、何かと落ち着かない、などのデメリットがあったので、一人暮らしを再開して今出来ることに集中しようと決めました。具体的にはヨガの仕事。

 

集中するといっても、何から手をつけていいかわからないようなこともあります。そういうのも含めて時間が必要でしたので。でもまあ、おかげでいい感じで進んでるように見えます。

 

引っ越しが終わって今日で12日目。まだちょっと欲しいものもありますが、もう大分落ち着いてます。昭和から平成に移るのを忘れたような、ぼろアパート。こないだは台所の水道管が外れて水が溢れてきましたが、たいていなんとかなると改めて思わせてくれる貴重な経験となりました。

 

そんな訳で、びっくりするほどまじめに働いてます。もう次はいつインドに帰れるのか予想もつかない状況ですが、腐ることなくほどほどにやっております。

 

近況報告が長々と続いてしまうので、今日書こうと思ったことについてさらっと入っていきます。後悔しないことについて。

 

これについて思ったきっかけは、昨晩見た夢です。重要な用事があったのに、当日の朝寝坊して、そのまま「間に合わないからいーや寝よ」と諦めて一日過ごしてしまう、という夢でした。その夢の最後、出来ることをせず、周りからの信頼がなくなり、このまま自分はつまらない人生を送るんだ、とひしひし感じて目覚めました。

 

こういう夢は以前も見たことがあって、忘れもしない2年前の元旦。人をバットで殴り殺す夢を見て目覚めるという最悪な年明けでした。その夢を見たときも、周りから人がどんどん離れていく感覚を味わいながら目覚めました。起きて数分間「あれって夢だっけ?」と、自分がブタ箱行きになるのかどうか本気でわからない混乱っぷりを招きました。それほどリアルな夢でした。

 

こういう夢を見て何を感じたかというと、今回のお題、後悔です。

 

周りからの信頼がなくなり、人が自分から離れていくのを感じながら、強く後悔してました。出来たのにやらなかったこと、こらえるべきなのについやってしまったこと。

 

人が何か変わるには、大きな、感情を揺さぶる出来事が必要だと思ってます。よく聞くのは、家族や友人や、仲のいい人が死んだとき。ペットが死んだときもそうかもしれません。で、強く後悔するというのも、そんな中のひとつでしょう。ただ、それを感じれる経験がなかなか出来ない。色々挑戦してればそういうのもどんどん出くわすでしょうけど。

 

夢の中ではあるけども、強く後悔を感じて、実際の行動に多少変化が出ました。仕事前にひげを剃ったり、たまってた洗濯物を洗ったり(引っ越しにあたってまた懐かしの選択もの手洗い方式にもどりました)、仕事中に出来ることはないか、もっといい方法で出来ないか考えてみたり、出来るんだけどなにかと言い訳をつけてやらずにいたことをしてみたり。など。でも時間が経つほどその感覚が薄れてしまい、夜になってみればもうどこへやら。今朝のあの、後悔しないように一日過ごす!という気持ちを忘れてしまってます。

 

いつまでも心をあの状態で維持することは多分出来ないので、言葉の力を借りて、「後悔しながら生きるのはつらい後悔しながら生きるのはつらい後悔しながら・・・」と頭の中で繰り返して、日記に書いて、今朝のことを思い出しながら、出来ることを淡々とやってくしかないなーと感じてます。

 

夢の中でこんなに後悔することが出来たということは、リアルの人生の中で強く後悔したことがあるんだと思い、記憶を探ってみると、ありました。いや、人殺したりはしてないんですが。それほどの重みはないけど、「なんでこんなことやっちゃったんかなー」と強く感じた出来事はありました。ただ、出来事としては覚えていても、その時の「やっちまったぜ!」という感覚は覚えていられないですね。たまに夢で今朝みたいにして定期的に思い出せたらいいのになーと思ってます。

 

よく人に「本気だしてやれ!」とかそういう感じのことを言ってる人がいますが、言葉だけで人がそんな気になる訳ないやーんていつも思ってます。何か感情を動かすような話し方や生き方をその人がしてるならいいんですが。そうでないなら、ねえ。

 

だから、自分で強く感じるなにかを得ないと、ほんとには変わらない、というのが今日考えたところです。後悔しないためには、強く後悔するしかない、みたいな。絶対誰かこれまでにこういうこと言った人いると思うんですが、言葉で知ってても行動に反映できるほどには理解出来てないもので。今朝ちょっと分かりました。

 

では、明日もドンキホーテ八王子駅前店での買い物を楽しみにしながら、今日はもう寝ることにします。

 

以上

会社員生活二ヶ月が過ぎて

だんだんあったかくなってきたなーと思ったら雨続きでいきなり寒くなって、例年のことですが八王子の天気は僕を弄んでいます。でももうここでの生活も六年目なので、そんなことでへこたれることはなく、雨の日でもカッパを着て裸足にサンダルひっかけて自転車で野猿峠を超えて職場まで通ったりしている最近です。

 

そんなことよりも、働くということをまだ続けていることに自分自身びっくりしてます。そして同じような日々が繰り返される中で一日がすぐに終ってしまっていることに気付き、このままいくとどこにでもいるつまらない人間になるんだろうなーとじわじわと焦り始めています。

 

今日は休日で、大学の図書館に借りていた本を返しにいき、そこで偶然、インド人の友人に出くわしました。彼から、今その大学で英語を教えているということを聞き、なんかうれしくなりました。前に会ったときと比べて変化がある、そんな人と会うのは良い刺激になります。僕のほうはそんなふうな人間なんだろうか、と思うとなおさら焦るという。後から思うとそういう思いもありますが、単純に良い時間が過ごせた昼下がりでした。

 

会社員にはなりましたが、スーツを着ることもなく、電車に乗る必要もなく、デスクに座ってパソコンと向き合い続けるということもなく、職場の人間関係も良好で、おかげでなんとか続いているところです。が、やはりなにか物足りないとも感じています。時間もお金も欲しいのです。そのために今の環境で出来ることはあると思うので、出来ることをこつこつしていきます。

 

こうして会社員をしていると、努力というものをしていない自分にふと気づきます。本を読んで「こういうのがあるんだなー」とか、ヨガインストラクターの先人に教えてもらって「こういうふうにやればわかり易いな」とか、全く何もない訳ではないんですが、この調子で「こんな風になりたいなー」と思い描いているところまで行き着くには人生二周目に入んないと無理なんじゃない?と。

 

どうも、人間、何かをやるにはとりあえず動いてみれば心の方がついてくるようになってるところもあって、頭で「努力する」「頑張る」と思うよりも、実際に手でも足でも使ってどこかに向かって何かする方がいいそうです。そういう風に生きていこうと思います。今日はインドカレーを作りました。そしてひっさしぶりにブログを更新しました。今日もあと数時間ありますので、もちょっとなにかしようと思います。

 

以上