lucciora’s diary 蛍日記

共感する魂を求めて

ユング「魂の現実性(リアリティ)」河合俊雄(著) 備忘録2

顕在意識は意識全体の3~10%、潜在意識は90~97%という話がある。

意識は氷山の一角…

 

子供のころからよく夢を見た。自分の生きている現在の生活からは程遠い内容だ。忍者になることもあったし、どこか古代のギリシャ神殿のような場所にいたり、何度か戦争で兵士として死に直面している夢をみた。ヨーロッパの町で恋愛をしていたり、海の中で黄色い熱帯魚を見ていたり、UFOに遭遇したりと… 潜在意識には際限がない。 

 

夢の影響もあるのか、心の最奥のほうには時間も空間も超えたところにつながっている「魂」の場所があるような気がしていた。日常の意識からはかけはなれた、意識の根底が。とてつもなく広大で遥かな記憶を持っている大きな存在。

 

普段、自分で認識できるいわゆる顕在意識は「氷山の一角」、ということはよく言われることだが、表層的な意識だけでなく自分の奥の奥底に眠っている、その巨大な氷山がどこまでもどこまでも続いていることを時には思い出したら、人生観が少し変わるような気がする。まだまだ、自分でも気が付いていない自分がいるのかもしれない。環境や思い込みで蓋をしてきたけれど、その扉が開くのを待っている自分の可能態みたいなもの。

魂の現実性(リアリティ)は、そんな自分の潜在意識の奥底からじわじわと滲み出てくるような気がする。その声になるべく耳を傾けて生きて行きたいと思っている。

 

 

ユング「魂の現実性(リアリティ)」河合俊雄(著)より引用

p42 ファンタジー
第一章ですでに現実性について述べたが、ここではユングの現実性(リアリティ)についての考えがよく出ている。
つまり神経症をはじめとする心的な出来事は、何か外的な出来事の結果として引き起こされたり、
あるいはそれに随伴して起こる二次的なものではなくて、それこそが第一の現実なのである。
むしろ逆に外的な出来事のほうが「それにそそのかされ」「筋書きに利用されている」副次的なことなのである。

時間的にみると二次的で結果として生じているように見えるファンタジー
心的な出来事こそが第一の現実なのである。

後にユングesse in anima(魂の中の存在)ということを提唱し、
「魂は日々現実性を作り出す。この活動はファンタジーという表現でしか名づけることができない」(心理学的タイプ論)と述べているが、ユングからすると、心的現実こそが第一の現実なのである。

 

p241 死後の世界
「死は心的に誕生と同じくらい重要で、誕生と同様に人生を統合する構成要素である。」(『黄金の華の秘密』への註解」)とユングは述べている。
人生の後半を重視する心理学を提唱したユングにとって、死は常に中心的なテーマであったといえる。
中略
自伝をひもといて見ても、死についての非常に興味深い記述が多い。
「死後の生命」という章がわざわざ設けられているくらいである。
そこでユングが述べているのによると、来世とか死後の世界とかは
ユングがその中に生きたイメージやユングの心を打った考えの記録から成り立っていて、それはある意味ではユングの著作の底流を為しているのである。

ユングにとっては、死や死後の世界というのは真に実感を伴ったものであって、現実性を持ったものであった。
「死後の世界」の章でもユングはmythologein, つまり物語を語ること以上のことはできないと述べている。
これは神の問題にしろ、存在の問題にしろ常にそれの心理学的イメージしか対象にせず、それを「物語る」という形で拡充していくというユングのスタイルである。
従って死についての記述も物語やイメージから成り立っているのである。

 

・・・・・・・・・・・

(感想)

esse in  anima.... 魂の中の存在。

語ることのできないものについては、イメージを紡いで「物語る」ことしかできない。

たとえば1枚の絵について完全に語ることはできない。それについて私たちが感じたことを、物語ろうとすることしかできない。

ロゴスの言葉で言えないこと。そうした、語ることのできないものごとについて、思いを巡らせることは愉しい。

 

 

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ユング「魂の現実性(リアリティ)」河合俊雄(著) 備忘録1

人はみんな自分の物語を探しているのではないだろうか

 

自分の物語、というものにずっと興味があった。
それは、自分の人生に対する自分自身の主体的な「解釈」。

 

事実は一つであっても、その解釈は無限にある。
そして、自分にとっての「真実」こそが物語の中核をなすものなのではないだろうか。

 

昨年、近くのデイサービスで傾聴のボランティアをさせてもらっていた。

多くの方たちは、戦争を生き抜いた方たちで、激動の時代を生きて、長い人生の中で
価値観がめまぐるしく変わっていった、そんな時代を生きた方たちばかり。

 

彼女たち(女性がほとんどだったので)の物語を聴くことは心から楽しく、
90年近い人生の中で何を思い、何を大切にし、どんな風に悲しんだり苦しんだりしながら今こうしてここにいるのか、という話に耳を傾けることが、自分にとって本当に豊かな時間で、激動の時代のエピソードの数々に感動することも多かった。

目の前にいる高齢の女性の、子供時代から、少女時代、青春時代、戦後の混乱、

家族の死、子供、孫たち…その時々の面影や姿が思い浮かんでは消えていった。

 

肉体的な衰えがあったり、耳が遠かったりと、初めのうちは弱々しくも感じられる彼女たちだけれど、1時間弱お話を聴いた後に私が毎回のように感じたのは、生きぬいてきた彼女たちの「魂」の強さや輝き、そして威厳だった。

 

以下、私の大好きな河合隼雄さんの息子さんの河合俊雄さんの本を、
ずいぶん前に読んでメモしたのだけど、ずっと下書きになっていたのを思い出し…。  今、物語ることについてまた考え始めているので、備忘録としてあげておきたい。

 

備忘録「ユング 魂の現実性(リアリティ)」 河合俊雄(著)より引用

p6
ユングは自分の一生を自己実現の物語として捉えている。
しかし自己実現はよくそう思われているように、
何か未熟で未分化なものが成長や発展していって
完成したより高次のものになるのではない。

自己実現とは、文字通り自分自身になることであり、
何か違ったものになるのではなくて、
はじめからそうであるものになることなのである。

 

p112 自分がその中に生きている神話
フロイトと決別してからユングは方向喪失の状態になり、
ついには精神的危機に陥る。(中略)

このころ、ユングが自問自答していることが興味深い。
自分は過去に人々の神話を解明し、
人類が常にその中に生きていた神話としての英雄について本を書いた。

しかし、今日、人はどのような神話を生きているのか。
ユングは自分がキリスト教神話の中に生きているのかと自問してみる。
聖餐式での経験からしても、これは否である。
ユングは自問自答する。
「ではわれわれはもはや何らの神話を持たないのであろうか。」
「そうだ、明らかに我々は何らの神話ももっていない。」
「ではお前の神話は何かーーお前がその中に生きている神話は何なのか」

中略


神話とは自分が持っているものではなくて、それにいわば包まれているもので、
誰もがその現実性の中で暮らしているはずのものなのである。
過去においてはそれは神話が共同体によって担われているところに端的にあらわれていた。
そのような神話ははたして現代において可能なのだろうか。

 

 

(感想…)
小学生の時、偶然手にした星占いの本から、
星座のもととなったギリシャ神話の神々の名前や、
星座となるに至った物語を読むのが大好きだった。

神にさらわれた美少年ガニュメデスの物語。
地上と冥界を行き来するデーメーテルの物語。

花にも神話や伝説があることを知り、夢中になって読んだものだった。
自分しか愛さなかったナルチッソスが、神の罰として、
泉の水面に移る自分自身から離れられなくなり水仙の花になってしまう話。
飽きずに読んでいた記憶がある。

日本のいざなみといざなぎの神話と、アモールとプシュケの相似性を見つけて
喜んでみたり、東洋と西洋の神話のモチーフの中に通じるものと異なるものを見つけるのも
好きだった。

今でもギリシャ神話や日本神話が好きだ。
神話で語られるのは、根源的な欲動であったり、愛憎、別れ、戦いなどなど、
人の心のなかにあるものは、何千年という時を経てもそんなに変わっていないような気がする。

神話を分かち合う共同体は、インターネットやSNSの普及によって、
国や文化といった現実的な場所に依存した共同体ではなく、
やがては個人同士の魂の?または心の?共同体みたいなものになっていく/きているような気もする。

 

・・・物語ること。
自分の生について、自分なりに物語ること。
「意味」を問うのではなく、物語ること。
というのも、自分を物語ることは「他の誰」もしないし、できないのだから。
自分を生きるのは自分だけだから・・・。



 

ドラマ『ブラッシュアップライフ』…死のほうから生を見てみたら

「いま、ぼくのやっている仕事というのは、死の方から生を見る仕事だと言った方がいいですね。みんな、自分の生を延長するほうからばっかり言っとられるけど、ぽっと向こう側から見られたら、かなり変わるわけです。」

河合隼雄ブッダの夢」より)

 

ドラマ『ブラッシュアップライフ』が面白い。

テレビが無いのでTverで見ています。安藤サクラさん演じる主人公は、不慮の交通事故で亡くなってしまうものの、もう一度同じ人間に生まれ変わって “人生2周め”(そして”3周め”も…) をやり直す…。というお話し。

(以下、ネタバレあります)

第1話の中盤までは、平穏すぎる日常のドラマという感じでちょっと退屈してしまうのだが、麻美が事故で亡くなってしまってからの”やり直しの人生”の展開で、1周目の平穏すぎる日常が生きてきて、1周目では気づかなかった些細なトピックがどんどん展開していくのでかえって「あー、そこか」とインパクトを受けつつ見ている。

麻美がとにかくドライというか冷静で、死んでしまっても、「あ、死んだ?」くらいなリアクションなので、生きる・死ぬをあつかう内容のドラマでありながら、重たく深刻にはなりすぎない。人生にまつわる沢山のテーマがシンプルに浮き彫りになってきて秀逸だ。

 

ドラマでは、主人公は一旦亡くなって、来世の案内人に「この次はアリクイ(または前世のやり直し)」と告げられて、前の人生のやり直しをすることになるのだけど、麻美が人生をやり直すたびに(今、3周目)、ちょっとずつ、でも次第に大きく変化していって、麻美の人生やパーソナリティ自体が”ブラッシュアップ”されて、生き生きとしていく様子はなんだかすごい。爽快感がある。

 

1回目の人生では役所の案内係をしていて、いつも役所に来た人からのクレームに辟易して、ランチタイムは同僚たちと愚痴大会だった麻美が、

2回目の人生では薬剤師になって祖父を救い、友達に重要な情報を伝えたり、

3回目の人生では好きだったドラマに関わるテレビ局に入社し、憧れの俳優さんと大胆な会話までしたり…してしまう。ボタンの掛け違い、ならぬ、ボタンのかけなおし。

 

一方で、ドラマを見た後もなんとなく心に残る場面もあって…

1回目に死ぬ前に仲良し3人組とカラオケルームに行った時に、受付でミュージシャンを目指していた高校時代の友人「ふくちゃん」と再会する場面がある。

1回目の人生で麻美や3人組が持っていた(人生で何が大事なのかという)価値観があって、

2回目の人生では、ふくちゃんの人生を彼女の考える「より良い方に」変えようと、しばし計画するものの、いやいや、もしかしたら自分の価値観も正しいとかではなくて、彼の人生の「失敗」と見えることや、別れや出会いも、やはりそれで「正解」なのかもと考え直して、結局は何も言わなかったシーンがあってとても共感してしまった。

何が幸せとか、何が良いかということの基準なんて、決まっていないという自由が心地よかった。

仲良し3人組という設定がまた、私自身も中学時代の友達と3人組で今でも仲良くしているので、ドラマの会話がリアルかつ「あるある」で笑ってしまう。そういうある種どうでもいい会話の中にこそ、彼女たちそれぞれのパーソナリティがよく出ていて憎めないのである。

 

…死のほうから生を見てみたら

「ぽっと向こう側から見られたら、かなり変わる」

初めに引用した心理学者の河合隼雄さんの言葉。河合さんの本が好きで何冊か読んでいるが、「死の方から生を見る」というのは河合さんの一つの視点だったように思う。

 

生の渦中にあると目の前のことしか見えなくなってしまう。

死の方から生を見る、という提案は、生きている証でもある「感情や欲望の波」から、自分自身の意識を遠くへ置いてみることで、生全体の姿を見ることを可能にするのではないだろうか。私も折に触れて、自分が死んだとしたらどうなのだろうと想定して、そちら側から生を覗いてみる視点を持ちたいと思っている。

 

このドラマを見たとき、ちょっとそれに似ていると思った。一見、突拍子もない設定で十分にエンターテイメント的要素もありながら、回を重ねるごとにじわじわとストーリを噛みしめているような。

死とか魂とか死後のことについて、日頃あえて話したりはしないけれど、こんな軽い語り口でなら語ってみたいかもしれない。

 

このドラマでは、死んで再生するたびに主人公の人生がブラッシュアップされていくけれど、この先どうなっていくのか…楽しみだ。

最終的にはこれが全部夢だった、という設定だったりして? それは無いか。

 

人生のやり直しでなくても、今の人生でも気づけることはまだまだ沢山あって、人生はそこからどんどん変わってくるのかも、そんなことを感じさせてくれるちょっと楽しみな時間になっている。

 

「いまを生きる」


20歳過ぎのころ「いまを生きる」という映画を観ました。かれこれ30年くらい前になってしまいます。
https://filmarks.com/movies/14908

映画との出会い、という点で、今でもこの映画は私にとってベストの一つだと思います。

もう何年も観ていませんし、その後沢山の映画が出てきたし、もっと洗練されてたり、新しかったりする映画は出てきているでしょうが、

変わらずにマイ・ベストなのは、この映画の中に、私にとっての大きなテーマがあるからなのだと気が付きました。

それは、人は、人との魂の深い部分での出逢いなくしては、本当の意味では生きられないのではないか、という私なりの人生の実感だと思います。

映画の中でロビン・ウィリアムズが型破りな教師役を演じていて・・あったかくて、生徒をだれよりも理解してくれて、沢山の方法を見せて導いてくれる。これこそが本当の先生だよね、と思う。心から尊敬できる、自分より人生を知っている人=先生。

現実では、一生のうちに、心から先生と呼べる人にそうそう出会えないものだと思います。
でも不思議と、心の中には「先生」の原型とでも言うべき、ある理想像があって、私にとってはそれが、この映画でロビン・ウィリアムズ演じるキーティング先生その人でした。

それは、生徒の一人ひとりの中にある最も彼らしいもの、自身すら気づいていない原石の輝きを見出して、様々な方法で語りかけ、刺激し、育てるということ。

自分を信じるということを、教えてくれる。一緒に苦しみながら、考えてくれる。

それを大いなる愛を持って、している人。

そんな先生に、あるいはそんな大人に、出会いたいんだと思います。子供たち、若者たち、そして大人になっても、みんな出会いたいんだと思います。

心から信頼できる大人と出逢えたとき、痛みの中にいる「私」が、「自立」を目指そうと思えるんだということ。

この映画の中で、親との関係も大きなテーマになっています。

自分の信じていること、自分が大切に思うことを声に出すっていうのは怖いことで・・
動いていくのはもっと怖いです。自分の中に、それが本当にあるのか、ないのか、急に見えなくなることもあるから。

それを見つけて、必死に訴えても、ありのままの自分を受け入れてもらえなかった、その無念さ。悔しさ、絶望感。それは今でも、どこかに静かに残っているのかもしれない。 

映画にもありますが、親にわかってもらえない、というのは悲しいことなんですよね。遠い昔から永遠にあるテーマですね。大きな苦痛ですよね。

若くて不安定な要素があるときは、親の支配(価値観)から逃れられない、と思ってしまうのは極々自然で、だから映画では悲しいことになってしまいました。植え付けられた概念から自由になることは至難のわざなんですよね。
だから詩を読むんでしょうね・・。表現するんでしょうね・・。

自分の人生をどう生きたいのか?
いつも思うようにいくわけではなくて、
現実の様々な問題もありながら、それでも自分でなんとかやっていくのは、すごい勇気とエネルギーがいることなんです。

だから何より自分を大切にしてほしいです。なぜなら「あなた」という個性は、あなたしか持っていないのですから。
その原石を磨いていくのは、あなたしかできないのですから。

この映画の中で、カルペ・ディエム(1日(の花)を詰め)という言葉が出てきます。人はいつも死に向かっている。だからこそ、その日を精いっぱい生きる。それは、私の中で「メメント・モリ」(死を忘れるな)という言葉と重なって、だからこそ、いまを生きろ、という強い言葉を、私もかれらと一緒に受け取ったのかもしれない。

つらくても、死を思っていても、真剣に自分に向かっているのなら、深い今を「生きている」と思います。逆に、死を思うからこそ、「より深く」今を生きている、のかもしれません。

あとで振り返ったとき、これらの日々は絶対に無意味ではなく、自分がこの世界に関わろうとして、もがいたりひっかいたりした痕、
あるいは種が芽を出すための土の中での格闘みたいに、この宇宙に痕跡を残している時間だと思います。

それこそ、愛すべきただひとつの姿、その自分を愛してほしいと、私は思います。
なぜなら、本当に素晴らしいものをもっているからです。

いつか、誰かにそれを渡す日が来ると思います。
沢山の人かもしれないし、一人かもしれない。でも、きっと来ると私は信じています。

イタリアが好きな100の理由  ◆アッシジのフランチェスコ◆

 

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聖フランチェスコの歌

 

主よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください

憎しみのあるところに愛を

争いのあるところに許しを

分裂のあるところに一致を

 疑いのあるこころに信仰を

 誤りのあるところに真理を

 絶望のあるところに希望を

 闇に光を

 悲しみのあるところに喜びを

 もたらすものとしてください


慰められるよりは慰めることを

 理解されるよりは理解することを

 愛されるよりは愛することを

 わたしが求めますように

 わたしたちは与えられるから受け

 ゆるすからゆるされ

 自分を捨てて死に

 永遠の命をいただくのですから 

聖フランシスコの祈り」

 

☆☆☆

この美しい祈りは、「聖フランチェスコの歌」と呼ばれています。

フランチェスコが書いたものではない、という説もあります。

いずれにしても、こうした清らかな愛に満ちた祈りを捧げる聖人のイメージとして、

聖フランチェスコは多くの人に慕われ、このメッセージを目にするとき、このように澄んだ心を持てたらなあと、感じずにはいられません。

 

アッシジの聖フランチェスコの棺のある部屋には、キャンドルが灯され、訪れた沢山の人達(観光客も沢山)が、思い思いの時を過ごしていました。

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気が付いたら、1年以上もブログを書けていなかったのですが、また書けるときに書きたいと思います。よろしくお願いします。

◆イタリアン・バロック①「イゾラ・ベッラ」◆ イタリアが好きな100の理由 

 

イタリアが好きな100の理由、ちょっと書けないでいたら、コロナの状況が幾分和らいできて、イタリアでも街に人が戻りつつあるようで良かった。

今日は、イゾラ・ベッラという島のことを少し。

 

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イタリア、ストレーザ、マッジョーレ湖のイゾラ・ベッラ

 

私の中でヴェネツイアとともに「やっぱりイタリアは特別だろう!」と思ってしまう場所が「イゾラ・ベッラ」という島。

 

 

高校時代だったか、友人からすすめられて澁澤龍彦著『ヨーロッパの乳房』を読んだ。

ヨーロッパのバロック的なる場所を旅して書かれた数々の断章から成る本の中に、「イゾラ・ベッラ(isola bella:美しい島)」という、北イタリアとスイスの間のマッジョーレ湖にある小さな島についての章があった。それを読んで、いつか絶対行きたいと思った。本の中の白黒写真で見たその部屋の風景の中に、いつか自分も立ちたいと思った。

そして大学時代、ローマの語学学校に短期留学した時に、その旅の中で訪れたのだった。

 

もともと海や湖が好きなので島も勿論大好きなのだが、この島はバロックの島…

庭園には白いクジャクが放たれ、世界中から集めたエキゾチックな植物が島のあちこちに植えられていて、地下の洞窟部屋や何世紀も前の本が並ぶ図書館もある、まさに幻想の島なのである。

 

期待と不安?とともに洞窟の部屋にたどり着き、目にした空間は「こ、これはなんなんだ?」と、思わず笑いがこみあげてくるような、「いくらなんでもやりすぎでしょ…」と思わずつぶやいてしまうくらい溢れんばかりの、過剰な、驚異の部屋だった!

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でもそこは、不思議な生命力にあふれていて、私にとっては気持ちの良い場所でいつまでも飽きることもなく眺めていた。

窓の外には湖の水面が夏のまばゆい光を反射して輝いていた。

 

この島をボロメオ家の当主が1630年に買い取り、庭園を作り上げるのに40年かかったという話。イタリアの貴族文化というか美へのこだわりというか、やっぱりスケールが違いすぎて思わず笑ってしまう。

このような日常から逸脱したひとつの島を、何百年も前に「実際に」作ってしまい、(多くの人間にとって、それはファンタジーでしかないと思うのだが、)それを今に至るまで維持している・・。そして今でも、夏になるとボロメオ家の人たちは利用していると、当時書かれていた。今もそうなのかわからないけれど、芸術的なものや美しいものに対する敬意や愛は見習いたいものだ…。

貝殻や螺旋、ガラス、大理石、そして庭園、中庭・・・。それらは私をいつも魅了する。自分をワクワクさせる「視覚的」「質的」要素について…今更ながら考えたりもする。

 

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以下、澁澤龍彦さんの『ヨーロッパの乳房』から少し引用してみよう。

  

“このボロメオ宮殿には、フランドルの壁織物のある長廊下、タブローのある部屋、音楽室、図書室、大階段、賞稗(メダイユ)のある部屋など、美術的にも見るべき部屋が多くあったが、なかでも私がいちばんおもしろいと思ったのは、六つの洞窟(グロッタ)風の部屋であった。

砕いた大理石の破片や砂利や金属で、モザイク風に周囲の壁や床を固め、貝殻の装飾を各所にあいらい、海の底の雰囲気を再現しようとしている。湖水の側の窓はアーケードのように大きく割りぬかれていて、涼しい風がそのまま入り込んでくるようにしてある。これらの部屋はおそらく宮殿の最も低い場所、水面すれすれの場所にいちしているのであろう、ひんやりとした底冷えの感じがする。たぶん、夏の暑さを避けるための部屋であろう。

この六つの洞窟風の部屋には、インドの彫像や支那の人形、地質学や古生物の標本、古い骨壺や盃や装身具や武具、それに馬具のコレクションなどがそろっていて、優に民族博物館に匹敵する豊富さであった。”

渋沢龍彦『ヨーロッパの乳房』より)

 

そして今回書きつつ、イタリアン・バロックが好きだったんだ、ということを思い出したので、次は他のイタリアン・バロック的なものについても書いてみようと思ったのでした。ではまた…。

 

イタリアが好きな100の理由  ◆文房具1◆

イタリアの好きなもの。今回は文房具編…。

 

もともと文房具は大好きだけれど、とくに紙モノが大好きで誘惑に負けてしまいがちです。

ノート類は表紙の美しいものや、紙質の変わったもの、サイズ感が絶妙なものを見つけると、つい欲しくなってしまう。イタリアの紙はそれぞれに個性的すぎるというか、紙一枚にも「世界」や主張がある(ように思える)。他のヨーロッパのデザインでも、ドイツなどは質実剛健な感じで余計な柄や模様が無い気がするし、フランスなどは綺麗めなデザイン。どれも良いけど、私はこのイタリアのルネッサンスバロックもあったよね… みたいなデザインが大好きなのです。

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上のノートはマーブル紙の表紙。

模様を見ているだけでなんだか贅沢な気持ちになれるのです。

職人さんが一枚一枚、インクを水に垂らして模様を描き手作りで作っているので、

同じ柄のものは無いという。この技法はもともとは日本の墨流の技術からインスパイアされて生まれたものらしい。

 

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 確かトスカーナ地方のLuccaという町だっただろうか。老舗っぽい感じの文房具屋さんだったか、紙製品の専門店ぽいところだったか、出会って一目ぼれした記憶。

でも何しろ20年ほど前なので、まだお店があるかどうかは…。中のページがオレンジ色なのがたまりません。

 

下はミラノの大好きな文具店PETTINAROLIで見つけた。お店が未だあるのだろうかと心配になりつつ見てみたら、ありました。場所が変わっていたけれど。

www.italiastraordinariatour.com

 

ワクワクしますよねーー。こんなお店。1881年創業です。何しろ紙の種類も、文房具の種類も豊富だし、洗練されていて、デザインも最高(好みがあるので私にとっては、ですが。)

下左はタロットカードの表紙のノート。中のページの紙はざらざらした色付きの紙で4色にわかれている。右側は手書きっぽいチェスのモチーフ?タロットカードのノートと同じ種類で中のページの紙がざらざらしている。タロットカードがここまで並んでる紙表紙って、私にとってはもう絶対買うしかないのだけど、これ好きな人ってマイナーなのかな、とかお店で考えてしまった。(その後、私なら花札で作りたいと思い、家でカラーコピーして作ったこともある。)サイズはB4とB5くらいのサイズ感。
 

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上の植物標本みたいな雰囲気のもの。同じくミラノのPETTINAROLIで。表紙もかわいいのだが、紙の裏側にもプリントがほどこしてあって、良い感じの厚みのある紙なのがなんとも言えない味わいがある。

 

下のペーパーウェイトはヴェニスのガラス工場を知りあいと見学をしたときに、このペーパーウェイトを見せてもらって「すごい!素敵!」と興奮していたら、おじさんが「試作品だけどあげるよ」とウィンク。え?本当に良いの?  

スカラベの形のペーパーウェイトは13センチくらいある。ずっしり重い。そして裏にはヒエログリフが刻まれているのです。

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下も同じく、ヴェニスだったと思うけれど、ガラスのペーパーウェイト。

じーっと見つめていると、自分の記憶ではなくて「ガラスの記憶」のほうに、意識が近づいて行ってしまうような…。この色合いがすてき。
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 ペーパーウェイトって実際ほとんど使わないのですけどもね。なんか綺麗で。(笑)

 

文房具店を見つけたら、日本でも大抵入ってしまうのだけれど、イタリアのちょっと田舎町の古そうな文具店で、ずっと昔の商品が売れ残っていたのをそのまま売ってる、みたいなものを当時はたまに見かけるのが楽しかった。レトロ、なんだけど日本とは違う色とデザイン。今はもうなくなっているのかな、あんなお店たちは。

あと、古いポストカードとかも大好きですね。写真がよくって。

今とはあきらかに違うデザインの流行や色合いなどからは、「その時代」を確かに感じられて、なんというか感慨深い気持ちになってしまう。自分がイタリアのその時代をよく知っているわけでもないのにおかしいですね。

色やデザインから勝手にその時代をイメージしてしまう…。文房具は愉し。

 

~コロナウィルスの海外での状況を見るにつけ、かつて留学したことのあるイタリア(今でも友人が何人かいる)の状況がかなり心配だったので、イタリアの好きなもの、こと・大切な思い出などを書いて、自分なりのエールを送ってみたくなりました。~

 



 

イタリアが好きな100の理由  ◆すべての道には名前がある◆

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写真はイタリアで買った絵葉書より。ローマのVia della Pace。

Via=通り、 Pace=平和、平穏のような意味なので平和通り…とか?

イタリアの道には、すべて名前がある。山の中の道などはわからないけれど、都市ではおそらくすべての道に。

 

大学在学中の夏休みにローマの語学学校に行った。どんな条件だったのかよく覚えていないのだけど、イタリア文化会館の語学留学のプログラムで、イタリア語を勉強したい大学生に、語学学校の代金は無料で交通費と滞在費は自分持ちで留学を斡旋してくれるというようなプログラムがあったので応募したところ、(応募者が意外と少なかったのか?)行けることになったと記憶している。…なにしろかれこれ30年前なので、曖昧ではある。

神殿の廃墟や遺跡が好きで、漠然とイタリアに憧れていた。

当時イタリア語はまったくの初心者で、イタリア語講座をテレビやラジオで聞いて、

簡単な自己紹介や「どこどこへ行きたいのですが」くらいしゃべれる状況での出発だった。

語学学校は1カ月コースと2週間コースがあったが、とりあえず2週間学校で語学を学んでそのあとはフィレンツェアッシジ、ヴェネツイア、ボローニャなどを1週間くらいだっただろうか、旅行をした。

 

語学学校はローマのスクールを選んだのだが、まず町中のすべての通りに名前があることに感動し、さらに通りの名前が大理石に刻んであることに驚き、石の文化すごいな、大理石の国なんだと感動したものだった。

通りの名前には歴史上の有名な人物の名前も多く、科学者、芸術家、哲学者、作家、などなど見飽きることが無い。

コペルニクスからボッカチオ、ダンテ、ゲーテ、ダ・ビンチ、ミケランジェロ、カラヴァッジョ、などなど・・・。そして名前の下には生年と没年が記してある。好きな芸術家の名前が続く区画などは自分の中でも何か良い場所のように感じたりした。

 

言葉や文字が好きということもあるのだろう。

名前の由来を知るのも好き。だから日本の地名でも、名前からその場所の歴史を考えたりするのは大好きなのだ。そんなわけですべての道に名前があるのはすごい面白いなあと思った。イタリアの道の名前の場合は、都市の自治体がつけているらしいので、とくに名前とその場所の組み合わせに意味があるわけではないケースがほとんどかもしれない。

にもかかわらず、Via Dante Alighieri(ダンテ・アリギエリ通り) という通りに老舗の本屋さんがあると、ぴったりだなとうれしくもなるし、ふと迷い込んだ場所で見上げた町の一隅の名前が Largo Jorge Louis Borges(ホルヘ・ルイス・ボルヘスの通り道)だった時などは、思わず苦笑いしつつ楽しめたり…

通りに名前があるので、地図さえあれば初めて行った町ですら、たとえ方向音痴であっても、ほぼ問題なく町中を歩けるのもすばらしい。

 

イタリアの町を織りなすすべての通りに名前があることは、何かイタリアらしい感じがする。国民の気質的なものかもしれないが、人間が生き生きしている感じ。沢山の人達の生きた道が、この町を作っていると感じさせるのだ。

それは、町並みからも感じる。たとえばローマなら、あらゆる時代の遺跡がある。古代ローマからビザンチン、中世からルネサンスバロックと…あらゆる時代を生きた人々の息遣いがまだ聞こえてくるような気がするときがある。

そして、それは名前のあるひとたちだけではない、無数の人たちのやり取りや人生が、この町を作ってきたのだと、ふとそんな気持ちを抱かせてくれる石畳の道なのだ。

 

 

イタリアが好きな100の理由  ◆ヴェネツィアン グラス◆

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イタリアの中でもヴェネツィアが好きです。

写真(手前)は20代のころイタリアに留学していた時に、私を訪ねてきた母とイタリア内を旅行して、ヴェネツイアで母が買ったもの。その母が亡くなり、今は私の手元にあります。

買った日のことは今でもよく覚えています。ヴェニスの町中を散々歩き回って沢山のヴェネツィアングラスのお店をのぞいた後、兄のお嫁さんへのお土産にと、このグラスを買った母。・・・しかし、ホテルに帰って「やっぱりどうしても自分の分にもこのグラスが欲しい!」ということになり、翌日もまた結構な道のりを歩いて同じお店に行ったのでした。(笑)

でも、このグラスとても綺麗で気に入っています。あの時母が買ってくれて良かった。なんとも言えない微妙なガラスの色彩、ガラスなのに何かぬくもりを感じさせるのは、職人さんが一つ一つ手作りしているからでしょうか。

真っ赤に溶けたガラスに息を吹き込んで膨らませて転がして。

ガラスはもともと大好きで、日本のものや古代ガラスも好きですが、ヴェネツィアングラスは一目見ただけで、人の気持ちをうわあ!と感動させる魅力があります。

 

ヴェニスはイタリア屈指の観光地でもあり、夏は観光客の多さや運河のにおいがひどいなど色々言われますが、私にとってあの町はやはり特別ユニークで美しい町。「ナポリを見て死ね」ということわざもありますが、「ベニスに死す」というヴィスコンティの映画もありました。あの町を見れて良かった。

 

ヴェネツィア派の絵画の色彩が美しいのは、光の中に水の要素が多く含まれていて、色が鮮やかに見えるからだと聞いたことがあります。

キラキラしている。そう感じるのです。

 

町の中を運河が流れていて水上バス(船)で移動。車は通れないので、歩きか自転車というのも良いです。地元の人は自家用船も。観光客はゴンドラに乗ったり。

 

私はベニスビエンナーレという美術の祭典の時にも何度か行ったのですが、夕暮れ時に水上バス(ヴァポレット)に乗った時に見える、ゴシック、バロック時代の建物が運河沿いに建っていて、ランプの灯りでライトアップされている様はまさしく幻想的で、何百年も前の街に紛れ込んだような気持になります。

そうですね。きっと古いものが大好きなんです。

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イタリアには4年くらい留学していましたが、その経験は結局、今の自分には現実的には役立ってはいません。けれど自分の人生の中で、そして心の中ではかなり大きな広がりを今でも持っています。

日本に戻ってきた時、知人に「全然イタリアナイズされてないね」と笑われた私。いわゆるイタリア人らしさのイメージ(mangiare,amore,cantare=食べて、愛して、歌って・・・)からはたしかにほど遠い人間なのですが、そんな私にとっても、イタリアは特別で愛すべき大切な国です。

 

帰国して早20年以上…今でもイタリアに何人か友人がいます。

コロナの被害がヨーロッパの中でもひどかったイタリアの情報を見ると、胸が痛みます。日本も状況も良くはないですが、ヨーロッパの医療崩壊の状況を見ると悲しくなります。

 

コロナウィルスの最も恐ろしいところは、悪化してもう命が助からない、となったときにすら、感染を避けるために、親しい人と隔離されて、人生最後の大切な時間を孤独に過ごさなくてはいけないことなのではないかと感じています。本当は大切な人たちに囲まれて過ごすべき大切な時間を。

そんなことをつらつらと考えているうちに、イタリアの好きなところを自分なりに綴ってみたくなりました。そうすることで自分なりのエールを送っているつもり。

そして、あらためてイタリアのどんなところが自分の心を捉えたのだろう…と考えてみたくなりました。人生も折り返し地点を過ぎたと思うので、自分自身のふりかえりにもなりそうだし。

100の理由、といっても100書くかはわかりませんが、たくさんあるなということで100に。「理由」というほどのことでもなく、イタリアの好きなものをあげてみようかと思っています。

1年以上、ブログを書けませんでしたが、またよろしくお願いします。

 

 

初夢見ましたか?

 

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あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

初夢、見ましたか?

わたしは、俳優の寺尾聡さんと「丘を越えゆこうよ♬(ピクニックという曲名なんですね)」をピアノで連弾してるみたいな夢を見ました。連弾と言っても、ひとつのピアノでではなくて、それぞれの楽器で演奏していたので、連弾ではないですね。協奏でしょうか。

夢の中で演奏がとてもいい感じで、一緒に沢山笑ってて楽しかったのですが、途中で気づいたら楽器は無くて、エア演奏だったのです。おかしいですね。

 

ここ2年ほどテレビが無いので、寺尾聡さんも見ていないのですが、

わたしのイメージの中ではちょっと古いですが「博士の愛した数式」のなかの博士のイメージが大きいですね。

小川洋子さんの小説の映画化で、原作も勿論すごく良いです。

記憶が数時間しか保てない博士と、シングルマザーの家政婦の女性とその息子。

みんなそれぞれの寂しさを抱えながら、出会って、やがて友情がうまれて。

不器用ながら、お互いをとても大切にしていて、優しいのです。

その互いに向けた繊細な思いやりが胸に刺さりました。

気持ちにとても触れる映画だったので、映画を観終わるころには泣きすぎて目も鼻も真っ赤でした。

 

もうずっと、自分らしさを封印してきたのですが、今年はもっと自分らしく・・・、をテーマにしたいです。

今年は、自分の心に触れるような、気持ちのやり取り、やさしい会話のやりとりをできたらよいなと思います。そんな風に関われる相手を大切にしたいです。

自分のほんとうに好きなもの、大切なことを忘れてはいけないですね。 

 

いばや通信さんの記事、引用します。そうだったなーと共感しました。

人間はなにででてきているか。私は『人間は、自分の好きなものでできてる』と言いたい。なにかを好きになるということ。好きなひとに好きだと伝えること。これ以上に尊いことなんてこの世の中にあるだろうか。間違っても、自分が嫌いだと思うものに自分の人生を奪われてしまってはいけない。嫌いなもののために死ぬ(生きる)なんてクソだ。それでは体は冷えたままだ。生きているということは、熱があるということだ。熱があるということは、その熱を誰かに伝えることができるということだ。なにかを好きになるということが、世界を動かす力になる。なにかを好きになるということが、世界の体温をあげるのだ。嫌いなものにとらわれて、自分の好きを見失ってはいけない。いま、生きているということは、自分の『好き』があったからだ。それがなければ、いまのいままで生きることなんてできなかったはずだ。だからこそ、自分の好きを取り戻そう。嫌いなもののために生きるのではなく、好きなもののために生きていこう。自分の好きを貫く物語が、また、別の誰かの『好き』を貫く物語を生み出していく。今こそ、好きに殉死をする時である。

人間はなにでできているか。 - いばや通信

 

 

 

 

私たちはどこから来て、どこへ行くのか …(2)

ミッドナイト・イン・パリ(字幕版)

ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン パリ」を観た。とっても愉快な気持ちになった。

 

前回の「前世」についてのブログにひきつづき、この映画も「時間と空間の境界線を超えて」しまうお話だった。

 

きっと自分が本当に会いたい人には会えるんじゃないか。会うべき人には。

…たとえ生きてる時代すら違っていたって?

そう。多分、時代とか場所も関係なく。そんな気がした。

そんな風に思わせてくれる、愉しい作品。

 

 久しぶりにウディ・アレンの映画を観たのだけど、翻って考えてみれば過去に戻る話というのは、映画でも本でも結構あることに気づいた。

 

ストーリーを少し書く。

主人公はアメリカ人の脚本家ギル。本当は小説家になりたくて、はじめての小説を書いているけれど、まだ誰にも見せていない。見て欲しいと思える相手が周りにいないのだ。

 

婚約者の女性とパリに旅行に来たけれど、雨のパリが大好きな彼の感性を、婚約者の彼女はまったく理解しようともしない。(こんなに自分の感性にそぐわない相手と、人はなぜ結婚しようと思うのか… 客観的に見ていればわかるのに。私自身を含め人生はそんなことの連続だ。)

 

主人公のギルは、ひとり酔っぱらってホテルに帰りつけずに街角で座っている。

大好きなパリの真夜中…

とそこに、1台のクラッシックカーがやってくる。車からはギルに向かって「乗れよ」と呼びかける陽気な男女がいて・・・。

 

酔いも手伝ってこの車に乗りこんだ彼が行き着いたパーティは、なんと1920年代のパリだった!

これがまた登場人物を見ると私も大好きな時代。ジャンコクトー主催のパーティに出席してみたかった。(笑)

 

自分にとっての黄金時代。次から次へと惜しげもなく現れる、レジェンドな作家やアーティストたち。

フィッツジェラルドヘミングウェイピカソ、ダリ、そしてそのミューズ達。

 

…驚きと興奮のなかで、ギルは徐々にその時代を楽しんでいく。

 

フィッツジェラルド夫妻が「ホンモノ」だとわかった時の、ギルの表情がむちゃくちゃ可笑しい。海外の映画館での観客のリアクションを思わず想像してしまった。きっとこういうシーンは大笑いと拍手喝采。

 

 自分にとっての「黄金時代」ともいえる過去に行った主人公は、その時代に生きる彼らにとっては、そこは黄金時代ではないと知って愕然とするのだけれど、やがて彼も気づく。

「現在というのはいつも不満なものなんだ」と。

 

この話は「前世」ではないまでも、過ぎ去った時代に戻る話で、今はいない憧れの作家やアーティストたちが、彼らの時代に何を考えてどんなことを語り合い、どんな生活を繰り広げていたのか…こうだったんだろうなーという想像と妄想が美しい映像で再現されていてすごく贅沢。

 

夢だったとしても自分がそこにいたら誰とどんな話をして何を見るのだろう。

というか、もし自分だったら、いつの時代のどの国で誰と会いたいか…この映画を観てからずっと考えている。

 

ところで、出会いというのはリアルタイムの現実でなくても良いのだと個人的にはよく思う。本当につよく感動するような出会いは、なにも現実の世界で同時代を生きている人たちとの出会いだけではなくてもよいのだ。もちろんそれも重要だけれど。それも感動的で奇跡的なときもあるけれど。

けれどもし、今出会えていなかったら、時代は違って、タイムトリップしたら自分が話したい仲間たちはいっぱいいるのかもしれない。過去にも未来にも。

 

なぜか心惹かれる風景や作品、見たことがあるような情景、ある時代の建築物や服装、さまざまな様式。

なにかに特別に惹かれるのは何故なのだろう。もしかしたらいつかどこかで出会っていたのかも知れない、そう考えたほうが自分の世界観に厚みや広がりが感じられるし、なんとなく楽しくなってくるのではないかしら。

本や映画というものは、まさにそうした出会いのひとつとも言えるだろう。

 

ゴッホ:天才の絵筆(字幕版)

 

こちらも最近観たドキュメンタリー映画

ゴッホが自分の製作や人生について、あたかも現在の私たちに話しかけるよう作りになっていて、これもとても良かった。並行して読んでいた本は「謎解きゴッホ」。

 

謎解きゴッホ: 見方の極意 魂のタッチ (河出文庫)

 

―有名な話だけれどゴッホが描いた油絵約900点のうち、生前はただ一枚の絵しか売れなかったという。それも画商でもある弟のテオが売ってくれた絵だった。

それが今やゴッホの絵はオークションで史上最高の値段がつく。

 

あまりにも皮肉な状況だけれど、ゴッホが貧しさや無理解や苦しみの中で自分を追い込みながらも描き続けたことは、彼の絵画を短期間で非常な高みへと導いたように感じた。そこまで彼を追い込んだもの、彼の人生、気質、愛、宗教、家族、そして絵に対する思い。

 

そうしたものに思いを馳せるとき、気づかせられる。

自分が信じたものを作り上げていくこと、周囲の無理解にあっても自分が投げてしまわないこと。自分の好きなものを大切にして生き生きと思い描くこと。

 

自分にとって大切にしたいものが、何かの形をとって自分に語りかけてくる時は、無視しないで意識をそこにもっと向けていこう。じっとみつめたり、耳を傾けるのは意味のないことではないはず。

何百年経っていても、それらは生きたメッセージであり情報なのだから。

 

人の生きざまだったり、作品だったり、場所だったり、自分をインスパイアして先に進む力をくれることがある。彼らが思いをそこに残している。

ゴッホは生きている間、社会的には何者でもなかった。こんなにも称賛されもてはやされる彼は、生きているときは成功者ではまったくなかった。

周囲からも孤立し、きちがいと呼ばれ、唯一の理解者は弟のテオだけだった。

それでも死をえらぶその瞬間まで、ゴッホは絵の中に自分の思いを込め続けた。

そのことのむずかしさと素晴らしさにあらためて今、心をゆさぶられている。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか…(1)

前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って (知恵の森文庫)

「ねぇ、前世ってあると思う?」 最近、友人の女性に聞かれた。

都内にあるスパニッシュ様式の古い建物を偶然見たとき、その重厚な美しい扉に目が惹きつけられ、説明のつかない感情でいっぱいになり急に涙がとまらなくなったという。

「その扉をずっと昔から知っているような気がしたし、そしてその扉のなかで起きたさまざまな出来事をすべて知っているような気がした」のだという。

でも具体的にどんな出来事かはわからなくて、嬉しいのか悲しいのかも、はっきりとは説明できないような気持なのだという。

「前世、きっとあるような気がする」私は答えた。

前世があるかないかは証明できないだろうし、証明する必要もないと思う。

どう考えた方が、自分にとってすんなり受け入れられるか、ということで良いような気がする。

 

かつて生きていたすべての人、今はもう生きていない人たちの人生。

彼らは、そして私たちは、何をしにやってきてどこへ行くのだろう。

歴史に残らない物語であっても、すべてこの世に生まれた人間、生物はそれぞれの物語を生きている。

人はみんな自分の人生を生きるわけだが、時には「自分以外の生」を生きている自分をリアルにイメージしてみることで、自分の枠を少し広げる作用にはならないだろうか。

 

 私が「前世」に一番興味をもっていたのは、じつはもう20年近くも前。

森下典子さんの「デジデリオ~前世への冒険~」はその頃読んだ本で、あまりに引き込まれてしまい、当時つきあっていた相手にもプレゼントしたっけ。

先日の友人の話で思い出し、また読み返してしまった。

あれから20年も経つのか…全然そんな気がしないのがこわい。(笑)

とはいえ、歳をとって読み返すとまた、思考も深まってたり?別の回路で読んだりできるので、色々楽しかった。

 

森下典子さんは他にもエッセイ集 日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)猫といっしょにいるだけで (新潮文庫)、 

などなどを出している作家さんで、「前世」に関しては初めまったく信じていないどころか「胡散臭い」と鼻で笑っていたくらいだったと書いてある。

 

ところが、ある雑誌の企画で前世を見えるという女性に、前世を見てもらったところ、前世はルネッサンス期の若くして亡くなった美貌の彫刻家、デジデリオ・ダ・セッティニャーノだと伝えられる…。

まさかそんなことは無いだろうと、疑いの気持ちとともに資料を探すうちに、資料にも書かれていない史実を伝える前世の話に引き込まれ、いつしかイタリアまでデジデリオの足跡や作品を追う旅に出かける。エッセイストとしての文章の魅力もこの本を一気に読ませてしまう理由のひとつだ。

 

森下さんも書いているが、この若くして亡くなった才能あふれる彫刻家のデジデリオについて深く知っていくうちに、彼女が本当にデジデリオの生まれ変わりかどうかは、大して大事なことではないと思い至ったのだそうだ。

それよりも、こうしてデジデリオの生きた時代について考察を深め、ルネサンスの作家や芸術家たちの生き生きとした人間関係、友情、愛情、孤独を追いながら、知られることのなかったある人間の物語に光をあてること、伴走するように彼の生きた時代を生きること。

あたかも彼の生きた時代を自分も生きることができたかのような没入は、新鮮な驚きであり、ゆたかな喜びだったと思う。

 

前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)  魂の伴侶―ソウルメイト 傷ついた人生をいやす生まれ変わりの旅 (PHP文庫)

 

友人には森下典子さんの「デジデリオ」の他にも、やはり当時読んで興味深かったブライアン・ワイズ博士の「前世療法」の本を貸してみた。

この本を読んで、自分の前世の物語を知りたくなった私は、前世への退行催眠を受けた。見えた風景は自分の心象風景なのか、どこかで見た記憶をつなぎ合わせたイメージなのか、それはわからない。

わからないなりに、それはそれで面白い経験だった。

それについても、いつか書いてみたい気がする。

 

 

必死に生きるか、必死に死ぬか…

ショーシャンクの空に [DVD]ショーシャンクの空に

 

時として、だれかのブログを読んでいて「生きること」自体について悩んだり、考えているブログを読むと、ついつい読み込んでしまう。

というのも、自分もそうしたことを考えるくせがあるからだろう…。

 

何故生きるのか?について考えるとき、わたしが思い出す映画のひとつが「ショーシャンクの空に」という映画だ。

 「ショーシャンクの空に」は自分の人生観を大きく変えた作品だったと思う。

これは映画だ。けれど、このストーリーはわたしの心の中で本当に起きているストーリーなのだ、その時そう感じた。

 

死のうと思ったことはないけれど、全部が 消えてなくなれば良いとおもったことは何度もある。これが全部誰かの夢で、その夢が覚めたら自分も消えていたら…。とか。

けれど今私が思うのは、とにかくとりあえず生きていて欲しいと思う。

人生は長いし、あとで振り返ったら、自分のその時の状況はそんなに焦ったり責めたりすることもなかったんだなと思えるようになると思っている。

 

今日、あきらめてしまったら、明日わかるはずだった答や、あなたに出会うことを待っていた誰かに、会いそこねてしまうかもしれないから。そういう日はきっとくると思う。多分、本当は自分がむしろ恵まれていることにいつかきっと気づくと思うから。

 

「自分が本当にやりたいこと」について考えることができる幸せ―やれるかどうかわからないにしても、可能性について考えることのできる状態は、けれど渦中の人には振り子時計のような苦しみでしかないこともある。

まあでも、とりあえず、悩める力を持ってる自分、それを希望ととらえても良いのだと思う。

日本という国の、戦争の無い時代に生まれて、もちろんさまざまな問題はあるが、

町には情報や食べ物があふれ、多くの人が一見何不自由なく暮らせる今。

そこで、生きることについて悩むことができるのは、多分悩むことのできる自由があるからだ。

 

そのチャンスを無駄にはしないで、時間と気力のある時は好きなだけ考えたり挑戦したり、恋をしたり、旅に出たり、親友と語り合ったり、あるいはほかの喜びに出あったり、もちろん休んだり…人生をじぶんなりに味わうのが大切。

 

今回、この映画について書いてみようと思って改めて気が付いたのだが、ステファン・キングの言葉が映画の副題になっている。 

“Fear can hold you prisoner. Hope can set you free.”

 恐れは君を囚われの身にする。

希望は君を自由の身にする。

 

 (以下、ネタバレあります)

映画の中で、主人公のアンディは「妻を殺した」という無実の罪をきせられ、ショーシャンク刑務所に入って来る。

冤罪ということは本当にあってはいけないことだ。それでも現実にしばしばそうしたことが起こる。

 自分の犯していない罪で刑務所にいれられるなんてことになったら?

そのために自分の一生が牢獄の中で、さまざまな苦しみの中で過ごすことになってしまったら?

本気で想像するとどれだけ恐ろしいことだろう。

 

けれど、例えばもしこの映画のストーリーが自分の見た「夢」だったら、

自分が冤罪で牢獄に投獄されたとしたという「夢」を見たのだとしたら、

視点を変えて、どんな風にこの夢の意味を考えられるのか、ちょっと考えてみた。

 

そう。そもそも、人間はさまざまな牢獄に入っているのでは無いだろうか。

様々なしがらみ、他人からの評価、既成概念やレッテルや常識、自分という人間についての思い込みの「牢獄」。

罪を犯した記憶はないのに、いつの間にか入れられている牢獄なのだ。

今の日本で言ったら、どんなことが自分を縛り付けることになるのだろう。

 

生まれた国の文化や宗教、戦争をしているか、先進国なのか、後進国なのか、それは自分で選んだわけではない。家族の関係、もって生まれた病気、兄弟関係、土地。

当たり前だと思っていることすら、生まれた時代や環境によって大きく違うのだ。

本当に偶然(または必然?) に人はあるときに、ある場所に、ある家族の中に生まれてくる。

 

これは絶対にどうしようもない、変えることができないと思っているような自分の囚われが、実は単なる思い込みだったり、あるいは周りの人間も同じ思い込みを共有しているために、本当は逃げられる場所が、逃げられない牢獄のような環境になっている場合もあるだろう。

でも、そのことに気づくのだ。

自分は無実の罪でここにいる。自分はもう、十分にそれを贖ったのだと。

そうしたら、意を決して牢獄から脱獄するのだ。

 

アンディは、妻を殺したという冤罪をきせられ、ショーシャンク刑務所にやってくる。

若くして銀行の副頭取にまでなった彼は、非常に頭のいい青年だ。けれど、決して人を馬鹿にしてのし上がるようなタイプではなく、静かでむしろ内省的な青年だ。

 

環境とはおそろしいもので、冤罪で牢獄に入れられた彼は、やがて自分が妻を殺したも同じだという。

そんなアンディに、もうずっと長く刑務所にいるレッドは言う。「それは違う。お前は引き金をひいてはいない。」と。

そう。牢獄にいるうちに、やがて自分が犯したわけでもない罪の一端が、自分の責任のように人は感じてしまうものだ。

 

そこで必要なのが友人の存在だ。この刑務所でアンディが出会い、信頼関係を築いていくのはレッドという黒人で、殺人を犯して刑務所にいる。アンディよりも10年以上前に刑務所に入ったレッドは、自分は罪を犯したことを認めている。

 

やがて刑務所で何年も過ごすうちに、アンディは銀行での経験と能力を生かして、刑務所の所長たちに特別な待遇を受けるようになるが、その立場を生かして囚人たちも本を読んだり音楽を聴けるようにさまざまな努力をする。

 

牢獄に囚われて、何も希望を抱けない仲間たちにアンディが言う印象的な言葉がある。

「心の豊かさを失っちゃだめだ。」

「どうして?」

「どうしてって、人間の心は石でできているわけじゃない。心の中には何かがあるんだ。他の誰かが手に入れることも、触れることすらできないものがそこにはあるんだ。それは君だけのものだ」

「一体何について話しているんだ?」

「希望だよ。」

 

そして、「希望は危険だ」という親友のレッドに対して、アンディが言う。

「希望はいいものさ。最高のものかもしれない。そして良いものは決して滅びない。」と。 けれど、やがてアンディの無実が証明されるチャンスがきた時、刑務所の内部のさまざまな秘密を知ってしまったアンディには、釈放どころか、逆に命を奪われる危険が迫る。

そこで有名なセリフがある。

「選択は2つにひとつだ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ」

 

この「必死に死ぬ」とは、どういう意味なのだろうと考えていた。 

人生のうちの50年間を刑務所ですごした年配のブロンクスにとって、刑務所は彼の居場所だった。

仮出所することになったブロンクスは、外の世界に戻ることを恐れて、わざと刑務所内で再び罪をおこして仮出所をやめさせてほしいとまで願う。

そう。彼にとっては刑務所の中ではあっても、そこは自分をよく知っている仲間たちの中で、自分自身のアイデンティティを保つことができたのだ。

仮出所をした彼は、めまぐるしく変化していた社会の中で、自分の居場所も存在意義も見つけられず、自殺してしまう。

 それは、彼にとって自分を失わないための、必死の死だったのかもしれない。 

 

ところで、夢の中に出てくる黒人や未開人のイメージについて、ユング心理学ではシャドウというアーキタイプ(元型)、すなわち自分のなかの未発達の可能性や影の人格、無意識のもう一人の自分、を意味していると解釈することがある。

人は自分自身の内なる未知の自分、自分の知らない自分の声に、時として耳を傾ける必要があるのだ。それは自分の影の部分であったり、自分の中でそれまで生かしてこなかった部分でもある。 

自分の中には、まだまだ未知の力が眠っている。未知なる可能性が眠っているのだ。

 

映画の中には沢山の象徴的なシーンがある。

刑務所の中で拾った鉱石を削って掘り出すチェスの駒、

知らないうちに深く掘りさげられていた、暗闇のなかのトンネル、

解き放たれるカラス、

一瞬のスキをついて囚人たちに聞かせた「モーツァルトフィガロの結婚」、

土砂降りの雨の中でのシーン、

長い時間、大木の根本に埋められた箱、

そしてラストの美しい光あふれるシーン。

 

そう、他人があなたの心の中にある希望に触れることはできない。

けれど希望を奪われてしまったら、おしまいだ。

だから、必死に生きるか、必死に死ぬかしかないのだ。

 

「希望は危険だ」といったレッドが、もう一度自分を信じるとき、

それは静かだけれど、必死に生きようとする再生のときだ。わくわくする。

とにかく、ラストは美しい。

 

「星の肉体」水原紫苑著より―短歌

 興福寺少年阿修羅にかなしみを与えし仏師の背や広からむ

  

 風狂ふ桜の森にさくら無く花の眠りのしずかなる秋

 

 死者たちに窓は要らぬを夜の風と交はる卓の薔薇へ知らせよ

 

 うつくしき弥勒となりしあかまつのいたみをおもふ幸ひとして

 

水原紫苑さんの「星の肉体」より。

散文集と短歌からなる構成…。

能・歌舞伎・夢・歌人たちへの思いが、水原紫苑の感性を通して綴られている。

とても興味深い。

短歌、時々読みたくなるのだけれど、少しこれからは集中して

読んでみたいと思った。とくに古の歌人たち。

時間の流れかた、心のありかたが、このせわしい現代とは決定的に

ちがうような感じをうける。

そうした時間の感覚を、自分の中に見つけてみたい。

願わくば 花の下にて…

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大切なひとが、永遠の世界へと旅立ったことを知った。

何となく予感があった。

不思議なほど、静かな気持ちで受け止めている。

 

桜の満開の季節に、旅立つことはとても似合っているのかもしれない。

西行が好きな、たくさんたくさん旅をした人だった。

 

願わくば花の下にて春死なん

その如月のもちづきのころ

 

どれだけたくさんのものを、与えてくれたのかわからない。

穴の開いた袋のように、受けても受けても

流れていってしまったものが沢山あったのに、

おおらかに笑いながら、屈託なく与えてくれた。

大きくてあたたかい包み込んでくれるようなひとだった。

 

人と人はどこで出会っているのだろう。

物質のレベルだけではなく、目には見えない「心」の場所があって、

確かにそこの場所で出会えたひと。

そう思った人は、私にとってはこの人生では、ほんのわずかだ。

 

ある時間、深くかかわり、語り合えたことの奇跡に、感謝している。

そこで目に映った風景の鮮やかさ、美しさ、光の明度。

花の香りのかぐわしさや優しさ、

言葉が魂に触れることができること。

心からの信頼。

 

神への信仰に命をかける人は、その信仰を失うことがあるかもしれない。

だが、神そのものに命をかける人は、決してその命を失うことは無いであろう。

全然触れることのできないものに命をかけること。それは不可能である。

それは死である。が、それが必要なのだ。

 (シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」より)

 

 

あたらしい旅は、きっと光輝く空間への旅なのだろう。

Buon Viaggio! 

そしてまた、いつか会えるときまで。

その時まで、私もひとつの魂として、成熟していけるように。