いつか本気を出します

多趣味という名の飽き性。その時々のネタ・メモを置いときますね。

独りで映画鑑賞 No.4 『勝手にしやがれ』

 

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今回観たのは、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めたフランス映画『勝手にしやがれ』(原題 “A bout de souffle”)。

原題と邦題が全く違うんですね。これに関しては色々と考察がなされてますし、ヌーヴェル・ヴァーグ期の映画らしくていいのではないでしょうか。私は好きです。

 

 

 

 1.  ヌーヴェル・ヴァーグ 

 

 ヌーヴェル・ヴァーグ(仏語:Nouvell Vague)は1950年代に始まるフランスの「映画刷新運動」といえる映画界の潮流です。

映画史においては非常に有名かつ重要な運動です。

 

ヌーヴェル・ヴァーグとは、1950年代末から始まった、「伝統的フランス映画」からの脱却を目指した、若手監督中心の映画製作運動である。それまでの映画は、脚本家が構成した文学的なセリフ回しが作品の中心であったが、運動においては、ロケ撮影、同時録音、ゲリラ撮影など、それまでの映画文法を無視した新しい手法が次々と用いられた作品が発表された。これらの手法は、現代映画の基礎となるものであり、多くの映画作品に多大な影響を与えた。

 

簡単にいうと、現代(特にハリウッド映画など)の映像作品の基本的技術が、世に出始めた時期といえます。

 

 例えば、場面を断続的につなげる「ジャンプショット」という技法は、現代は至って普通に使われています。この技法が登場する以前は、「ワンシーン・ワンショット」が基本でした。カメラを動かさず、1つの場面(ワンシーン)をカットせずに撮影する(ワンショット)技法です。これによって、撮影された場面は絵画的に表現される(動きがないので)といいます。そうした従来の映画技法の文脈を越えようとしたのが、「ジャンプショット」という技法です。読んで字のごとく、場面をジャンプするように断続的につなげるの技法です。これによって、映画全体のテンポがよくなり、動きがでます。

 

 従来の絵画的なフランス映画に対する批評活動として、こうした新しい撮影技法が次々と考案されていったのがヌーヴェル・ヴァーグの特徴であり、後世に残した影響といえます。

 

 余談ですが、ヌーヴェル・ヴァーグも突然生まれた運動ではなく、色々な社会や思想の変化が背景にあるといわれています。

 ちょうど、ヌーヴェル・ヴァーグが起きた1950年代から1960年代にかけては、フランスの思想的変化があった時期です。実存主義現象学が盛んになり、サルトル(フランスの有名な哲学者です。名前だけは聞いたことがあるという方も多いのでは。)などの哲学者や批評家の活躍がありました。また、それに批判を加える形で、構造主義が出現するなど、様々な思想活動が起きていた時期なのです。

 哲学は専門外ですし、あまり深入りしないようにしますが、面白いのはこの頃のフランスは「哲学」「文学」「芸術」「映像」といった、思想に関係しそうなもの全てに対して、様々な議論が行われていたことです。

 

 昨今、何かとジャンル・カテゴリ分けがなされがちで、批評や議論がジャンルごとに分断されがちですが、この頃のフランスではそうした住み分けは意味を成さなかったでしょう。

 

 

 

 

 

  2.  『勝手にしやがれ

 

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 内容の話をしましょう。

 

 この映画はよく「あまり内容がない」といわれます。これは、ゴダール本人もそのようなことを言っています。その意図として、脚本ありきの「作られた」セリフ回しを嫌い、映画手法そのものを強調したかったから、といわれています。

 

 個人的には、色々な角度から見られる映画だと感じました。主人公の刹那主義的な人生観や、複雑な人間関係、男女という避けがたい性差など、みようと思えば途方も無く深いメッセージが見えるし、様々に解釈できるなと。しかし、それは明確に作中に埋め込まれたメッセージではないので、「この映画のエッセンスって何?」と聞かれると、やはり分かりやすい「映画手法」に真っ先に出てきてしまいます。よくも悪くも、映画史の中の位置づけを意識してしまいます。

 個人的には「ヌーヴェル・ヴァーグ」「ゴダール作品」という前情報を、頭から削除してまた観たい作品です。 撮影技法に関しては、前情報を意識しながら見ると「なるほどぉ」と思う場面が多いですね。

 

 ラストシーンで男性が「全く最低だ・・・」とつぶやきますが、それが誰に向けられたものかは、明示的ではありません。私個人としては、自分の人生や社会全体に向けた言葉だったように思います。

 また、彼女が「最悪」というフランス語の意味を解さなかったシーンは、映画への批評・論争が渦巻いていた当時において、評価自体が相対的で意味をなさないもとだという暗喩のように感じました。

 

 結局すべて私の想像でしかないのですが、色々と想像できる「心地よい空白」を残してくれること自体が、忘れがたい作品である証拠のように思います。 

 

 余談ですが、ゴダールは日本人映画監督・溝口を非常に尊敬していた話は有名ですね。溝口といえば「長回し」「ローアングル」の撮影手法が特徴的ですが、本作品にもその影響が見て取れます。こうした、映画史の系譜をたどれるのも面白い体験ですね。

 

 

 

 

 

 最近は、色々なことから解放され、映画を観る時間が確保できるようになりました。ずっと気になっていた『帰ってきたヒトラー』も観れましたし、早く感想をまとめたいです。(いやぁ、よく作ったなこの映画・・・)

独りで映画鑑賞 No.3  『わが谷は緑なりき』

今回観たのは、ジョン・フォード監督の『わが谷は緑なりき』(1941) 原題は『How Green Was My Valley』というそうで、個人的には邦題がいい味だしている例かと。

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最近は洋画のタイトルそのままとか、点プレ的な邦題とか(「○○の××」みたいな)が多い気がなんとなくします。 まぁ、きっと昔と比べて英語を読める人は増えましたし、タイトルは分かりやすいほうがいいのかもしれませんね。 個人的には、TUTAYAにふらっとよった時に、タイトルで「何これ?」ってのがあるとふと手にとってしまいますね。本と同じかもしれません。

話が逸れましたが、人を名前で判断してはいけないなんて言われるように、映画もタイトルで判断してはいけませんね。

作品の舞台は19世紀末のイギリス・ウェールズ地方。炭鉱の町で暮らすモーガン一家の生活を、主人公の回顧的視点から描いた物語です。 余談ですが、この作品の炭鉱街がジブリラピュタ」のモチーフになっているそうですね。 確かに、オマージュされているようですね。なんとなく似ている気がします。

また、舞台がウェールズということで、歌が生活の一部として描かれているのは、やはりケルト人としてのアイデンティティ云々があったのでしょうか。 簡単ですが、以下に私がまとめた部分を抜粋しています。

本作品は、19世紀末のウェールズが舞台となっている。ウェールズは古くから鉱業がさかんであり、18世紀から20世紀前半にかけて、世界最大の石炭輸出地域であった。多くの炭鉱や、製鉄所が立ち並び、そこで精製される鉱物資源は、大英帝国産業革命の原動力の一つとなった。ウェールズ自体、農業に適さない土地のため、牧畜が中心であり、それは作中でも主人公の原風景として描写されている。産業革命期の鉱業の発展により、ウェールズには、イングランドアイルランドから大量の労働者が流入しており、人口が急増した。そのため、労働者階級の団結力が高く、労働組合運動も盛んであった。政治的に労働党との関係が深く、現在でも強い権力基盤となっている。鉱業の衰退後、主要な産業は伝統的な重工業から軽工業・サービス業へと転換し、海外企業誘致が積極的に行われている。  民族的には、ウェールズアイルランドなどと同じく、ケルト人としての伝統と誇りを残す地域である。公用語も英語とウェールズ語が併用されており、地域で日常的に使用されている。吟遊詩人としての伝承が残るように、ケルトの文化と音楽は密接に関わっており、現代にはケルト音楽として継承されている。作中においても、町の人々にとって音楽が日常と融合している様子が描写されており、主人公の父がケルト人としての誇りについて口にする場面もある。

ウェールズは「プリンス・オブ・ウェールズ」の響きと、話題になったラグビーのイメージしか、残念ながらありません・・・。 あと、やたら国旗がかっこいいですよね。由来を調べてみましたが、確たるものは見つけられませんでした・・・。しかも、ドラゴンの部分の書き方は標準化されていないとか!

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/59/Flag_of_Wales_2.svg/830px-Flag_of_Wales_2.svg.png

むかしサッカーゲームで、国旗がかっこいいからと多様していた記憶があります。今みると、ん?かっこいい・・・?

また脱線しました(汗) 感想としては、色使いがすごい作品だと感じました。 もちろんモノクロ映画なのですが、炭鉱の町を白黒の濃淡で見事に表現していたり、草原の瑞々しい緑を光の加減で映し出したり、 歌や音楽とあいまって、全体的に芸術作品のような印象を受けました。 恐らく、そのまえに『怒りの葡萄』のドキュメンタリチックな描写を見たから、そうした美しさが際立って見えたのだと思いますが、 人間賛歌の物語といわれた所以はなんとなく感じました。

ウィキペディアのあらすじを見ているととても悲惨な物語のような印象を受けますが、 実際に見てみると、随所にコミカルな表現があり、決して悲劇ではありません。

気になった方は是非一度ご鑑賞あれ。 恐らく、著作権が切れている?かもしれないので、無料で見られるサイトがあるかもしれません。 便利な時代になりましたね。