たぶん悪魔が

溶けてバターになるまでの記録

家族が悲しむからダメ、と言われ

「子どもの頃から、今生きている世界は全て自分の創造が作り上げたもので、長い夢のなかにいる状態なんじゃないかと疑ってきました。たまに音楽や映画で僕の思いもよらない、と言いますか、想像を超える、と言いますか、とにかくそういったものに触れると、こうした妄想のようなものは否定されそうになるんですが、でもやっぱりそれも僕の潜在意識が生んだものじゃないかと思って、この考えに戻ってくるんです。せっかく僕の脳が緻密に作り上げた世界なんだから世界中の楽しいことをたくさん経験しなくちゃもったいないと思う一方で、これは僕の夢なんだから、いつ覚めるのも自由、とも思うんですよね。僕が死ぬときに世界が消えるのなら、僕の死で悲しむ家族はいないから大丈夫だと思うんです。」

――いつだったか、診察のときの僕の言葉。

2年前の殴り書き

浮かんできたものを全て書き留めるにはとても筆が追いつかないが、少しでも紙に起こして、形として残しておきたい。逃したものはすぐに頭から消え去ってしまうが、せめて掴めたものを確実にここへ書き残しておこうと思う。これは遺書として扱われるのだろうから上手く書きたいものだが、推敲している時間はない。早くしないと明日が来てしまう。

僕が今から書く手記は、一昔前といくまでもなく、同時代を生きる人達の中の誰かがすでに書いているだろう。陳腐な手記だろう。だが、何かを遺したく、書く。

 ひとたび何かに魅せられるとまるで憑かれたように執着するも、一度手に入れてしまえばそれまでが嘘だったかのように輝きを失って見えてしまう質であった僕は、幼い時分から「一週間経って、それでも欲しいなら買っていい」とよく言われた。所謂、熱しやすく冷めやすいというものだ。実際、その一週間のおかげでどれほど空費が抑えられたことだろう。

 翻って、今はどうか。その姿形はいくらか変われど、僕は半年以上にわたって死を渇望している。これほどまでに切に願ったことはあったであろうか。この二十五年は今日の死に向かっていたのではないだろうかと思えるほどまでに。

 さて、前口上はここまでにしておくとして、こういうとき通常は自死を選択するに至った経緯、原因を書き記すものだと承知しているが、事細かに書くつもりはない。内容をとり違えて自身を責める人が出てしまう事態だけはなんとしても避けたい。誰にも責任を感じさせることなく全てを有耶無耶にして死にたいのだ。

僕の状態をビョーキだとする向きがほとんどであろうと考えるが、そうした場合、この死は病死なのだ。二十五年生きて、病死。現代の日本にしてはやや短い一生であったな、とそれくらいに捉えてくれれば良い。

 (下宿先の地名)では毎日の生活のなかで何かしらの変化があった。だから新たに悩みが生まれることもあれば、解消されることもある。ところが実家に帰ってからの生活においては、日々の悩みに加えて、(下宿先の地名)で抱えていた悩みが当時の姿のまま重くのしかかる。結局は棚上げしているだけなのだ。

六ヶ月が過ぎた。変化を嫌う僕だ。きっと同じように七ヶ月、八ヶ月目を迎えるのだろう。意味を持たぬ空白の期間だ。振り返れば灰色のベタ塗りだ。この気持ちを表そうとするとき、うまく言葉にならず、のどから脳にかけての辺りがなんだかムズムズとして身体がうまく動かなくなり、ため息が出る。希望が先なのか、努力が先なのか。いずれにせよ、何かをする気力はもう湧いてきそうにない。目を閉じてひもを結ぶイメージを反復する毎日だ。

死にたいくらいにつらくても、一秒先なら大丈夫、耐えられる。十秒先も。一分先も。そう考えてやってきたけれど、状況は悪化するばかり。このトンネルはいつになったら抜け出せるのだろう。足掻いて、疲れて、尊厳をすっかり失くした限界の淵で死ぬのは嫌だ。まだ、惜しまれるうちが華、というものだ。それも、アクシデントで死ねたら、比較的周囲を傷つけることもなく、他人の目には「自らあきらめた」とは映らないから体裁も保たれる。そういうわけでなにかいい案はないものかと思いを巡らせたけれども、不確実だったり、加害者を生んでしまったり、死後の処理に他人様の時間と労力を奪ってしまうものだったり、遺体はなるべくきれいな状態でありたいというワガママもあったりで、いろいろと案が浮かんでは消えていく。もうあれやこれやを考えるのは億劫だ。