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日記だよ

アホウドリの迷信・赤いスーツケースを持った女の子

読み始めた。

「現代英語圏異色短編コレクション」と副題がついてる。異色ってほど異色なのかわくわくする。

 

いかにも手触りの良い本でもったいないので少しずつ読む。こういうことができるのが大人になったってことですよ。

昔は面白い本はあっという間に読み終えてしまい、次のつまらない本を読んでいた。つまらない本に耐えきれなかった時が眠る時だった。だから面白かった本の記憶しかはっきりと残ってない。

 

武漢の病気について少し触れられていて、これは現代の時代感なのだなとなった。鬱々としたヨハンの恋の話を、城に閉じ込められた英語を喋れない作家が語り、妻が翻訳して他の客たちに話す。という構図の不思議な光景が面白い。

 

「彼女があるバンドや映画を知らないと、ヨハンは苛立つようになった。破綻した国家から彼女が逃げ出そうとしていた最中、彼はぶらぶら過ごし文化を吸収しながら二十代前半の生きたのであり、自分にとって意味があるものを彼女が知らないのは苛々の種だった」

 

結末はなるほどハッピーエンド、となるのだけど、上の一節が本当に残酷でバカバカしい。物語を英語ではない言葉で語って話す作家がヨハンに批判的なのもわかるし、翻訳をしてくれるその妻がどうそのニュアンスをまるめているのかも気になる。そういう後味があります。

「要はバランスおじさん」の亜種で「初手トレードオフスライダー若者」が出現している気がする

最初は全部やれるように考えようぜ、みたいなことを思うんだけどなー。立場が微妙についてしまったので言い方を気をつけないといけない場面がたまにある。ものごとの一番最初のタイングで、訳知り顔で「まずやらないことを決めましょう」とか「全部はできないのでバランスを取ることを考えましょう」って言い出すのはかなり悪い教育過程を経ているんじゃないかと思うんだよ。失敗しないことを最優先にしているロジックで「小さく失敗してフィードバックループを回したい」と唱えても失敗の数は増えない。

数多くの失敗をするのが結局のところ近道であるということを頭では理解しつつも、しかし「わかっているアンチパターンは避けましょう」と別にわかってもいない、どこかの誰かのアンチパターンの形式的な回避策を土台に埋め込んでしまう。「失敗を繰り返してフィードバックを得る」が成功のための痛みを受け止める心構えではなく、自分の失敗に対する予防線として機能することに気がついた子供のような振る舞いをする。

自分がそうなってないか、気をつけないといけないよなー。などと。「要はバランスおじさん」が厭われるのは同じ理屈だろうから。やりたいことができないことを、直視できず、バランスをとった結果妥当であると自分を納得させるであるとか、ものごとを決めるボールが回ってきた時に、自分の意思決定ではなく各種の外部力学からバランスされた結果であるかのような顔をするのは、それはよくないだろう。

映画「PSYCHO-PASS Providence」

見た。攻殻機動隊イノセンス2023と言った感じのカットがいっぱいあって面白かった。雨の夜の街にヘリが回り込む場面とか、中華系のお祭りとかね。絵的にもそうだし、聖書の引用でやりとりするあたりとか。

ストーリーとしてはかなり大雑把な作りだけど、シビュラシステムとその背後にいる変な奴らへの反抗の物語として回を進めている、って感じなんだろうか。

シビュラとはどういう存在なのかとか、犯罪係数概念に対する免罪体質の話とか、一期は物語全体が仕掛けみたいになっていて好きだったんだけど、後続のシリーズはなんか舞台設定と登場人物を用いて無難に作劇してますって感じがどうしてもするんだよな〜。とはいえ、インスペクターの存在とか、シビュラによる社会実験が成功したていで世界へ輸出していくみたいなのは枠組みとして面白いので、続編に期待、というのは変わらず。

 

一つ言えるのは、犯罪を事前抑止するシステムがあるからと言って、「法律を廃止する」のはいくらなんでも飛躍がすごすぎて、真顔で見れないってことです。いや、せめてそこの荒々しいロジックをもうちょっとそれらしく説明されたかった...。

エラーの話

「コンピュータのエラーつらいのでプログラマーの人よく耐えられますね」って意見に対して、繰り返し「世界はそもそもエラーだらけであって、コンピュータがエラーを出すことを特別扱いする意味はわからない」という表明をしたくなるのは、世界がエラーだらけではない人間があっけらかんとその苦労は選択可能なものであり、わざわざそれと付き合うのは物好きなことだみたいに言う(ように見える)のがなんか気に入らないからなのではいか。自分がしている苦労が軽視されていると感じるのではないか。そしてそういう構図はあんまり自覚されないのではないか。

コンピュータのエラーに苦しんでいる人に「えっ書いてますよね」「なんで読まないんですか」と言ってしまうのも実は同じく相手の痛みを軽視している可能性についても考えないといけない。つまり彼や彼女は常ならぬ痛みに驚いているのであって、痛みに慣れきっている人間がその驚きを軽視すべきではないのではないか。

自分が不利なゲームをプレイしてつまらないと言っている状態

ブクマが集まっていたこれを

田舎で就職したら死にたくなるほど田舎が嫌いになった話

眺めてなんとなくタイトルのようなことを思ったのであった。

  • やばい会社は都市部にもいやになるほどある。ゲームソフトを買ったらクソゲーだった、という話であり、それがゲームハードやゲームジャンルの問題ではなく、そのゲーム固有の問題であることに気がつくべきだと思う。
    • 初めての据え置きハードとしてXBoxと、知らない謎の洋ゲーを購入して、つまらなくて、「XBoxはマジでクソ」とか言ってるのは大雑把すぎると思う。
      • 自分はXBoxユーザーですがまあ初手XBoxまあまあハードモードだとは思います。
  • 車社会に車を持たずに入ったら不便なのはそれはそうで、お嬢様学校に貧乏人が入学したのとなんらかわりはないビハインドがある。
    • 田舎育ちで田舎で就職する人間はそのあたりを子供の頃から理解しているため、物事の優先順位として「まず車 / バイクを買う」などをする。これはゲームの攻略法をあらかじめ知ってプレイする人との差である。
    • 「俺スト2やり込んでたから鉄拳もいけるっしょ」みたいなノリで「地方とはいえ首都圏へのアクセスもいいし近くに商業施設もあるから生活には困らないっしょ」といってるわけなので、苦労するのは目に見えている。
  • 田舎は「お金を払って得られるサービス」が圧倒的に少ない代わりとして土地が安い。土地が安いということは自分で拾い空間を確保してカスタマイズしやすいということである。また、その土地で自然にエンジョイ可能なアクティビティに関しては都市部よりやっぱり低コストで楽しむことができる。限られた選択肢が低コストで存在する、そういうゲームなのだと理解すべきである。

東京の会社でリモートワークしながら田舎に住んでいて、車があり、基本的にはインドア派で自分ちの敷地の外にあんまり出ない(関東に住んでた頃もほぼ生鮮食料品の買い出し以外で外に出ることがほぼなく、電車と人混みが大嫌いだった)自分のような人間とはなんか根本的に評価の基準が違って面白いと思う。

意識の(過剰な)高さについて

それは

  • 自分たちよりもはるかに先に到達した人の
  • 現在形での課題意識を
  • 適用できない我が身に当てはめていて
  • 結果的に、ものごとの優先度がおかしくなってる

ってことなんだろう。それは外形的に「意識高いね〜(笑)」などと揶揄されるような形式でなくても、いろんなところに潜んでいると思う。自分を振り返ってもありそう。同時に、自分が現実を捉えているつもりでやっているものごとが他の人に響かない場合、上のような「ズレた課題感」として認識されていることがありそう。

実際でそうであるのかというのと、実態とは関わらずにそのように見える、という話題がある。前者は本人の問題であるけど、後者がもし発生しているとするなら、現実の問題を直視できてない周囲の状況が危険という気はする。しかしそれは客観視できるもんなのか。

「昔・いつも・みんな」よりも「今・これから・私たち」を語らなければならない

経験が増えるとどうしてもパターンに当てはめたくなるし、それ個別最適だよとか、他の人はこうしてるよという差分が気になったりする。

これは今この瞬間に見聞きしている目の前の出来事についてのリアルに得られる情報よりも、蓄積され考え続けてきた経験と考察の量が上回ってしまっているためなんじゃないか、と考えていた。現実を原則のバリエーションとして捉えてしまっているから、原則や経験論に寄ってしまう。

意識的に、自分には「今・これから・私たち」の視点が弱いのだとバイアスを補正していく必要があるのではないか。

ベテラン勢が「昔・いつも・みんな」について語っているとき、それについての知見が求められているのだと感じているとき、現在についてじっと理解して考えることが足りてないように思う。原則や法則、パターンと同じくらい、今まさに目の前にある現在の状況、関わる人たちが見ている同じものを見る目線が必要なのでは?

温故知新はそれはそうだし、過去繰り返されてきた失敗を糧に工学は成り立っていくんだけど、別に我々は工学そのものをやってるわけではなくて、工学的手法を借りて、工学的成果を用いてビジネスとかものづくりに携わっているわけなので、過剰に手法と寄り添うのは危険なことだ。

今の私たちが、これからどうするのかを一人称で考えて実行していく当事者として振る舞っていきたい。知見とパターン認識の手法、リフレーミングのきっかけなどを当事者にもたらすだけの外部者になってしまっては、それはもう面白くないと思うからして。