街 は 劇場

劇場女優・街子です。

働くということ、生きるということ

かれこれ四か月、だらだらと続けていた就活に一つ目途が立ちそうな予感(あくまで予感)がしている。内定がもらえそうなのである。

 

その会社は少し変わっていて、いままでの人生観やこれからどんな人間になりたいかを面接で話した。かれこれ二、三回人事や役員の方と話しているけど、志望動機とか自己PRみたいなことはやってない。

 

わたしは志望動機が苦手である。そりゃ業界とか職種選びで調べたことは話せるし、それと自分のことを絡めて話だってできる。

けれど実際働いたわけじゃないし、「社会」「ビジネス」という枠組みのなかでなにが本当に得意かもわからない。ちょっと嘘っぽいな~と思ってしまうのである。

おそらく、わたしの大事にしたい「生き方」もそれに通じていて、何をするかではなくどういった「心持ち」で、どういう「志向」をもってやるかを重要視している。

 

就活を始めたころ二か月、本気で取り組めなかったのは、上記の「生き方」と「働く」ことを切断して考えていたからだと思う。というか切断しないといけない、通用しないとどこかで思っていた。

通用しないと思うなら、通じるように、伝わるようにもっと中身を練るなりすればいい。

「生き方」は絶対譲れないなら、それを分かってくれる会社にいけばいい。

 

 

伝える技術もいるし、頭もいるし、運だって重要になってくるけど「生きる」って本来そういうことで、決まるのが早いからいいとか、そういうのではない。少なくとも私の中では。

そういう「生き方」の志向がもっと洗練されて手足が生えて、今度は人のためとか、会社のためとか他人を大事にすることに用いることができればと思う。

わたしはそう働きたい。

 

 

「働く」ことは「生きる」ことの大きな切り口で、そこを抜かしても器用さがあればやっていけるんだと思うけど、できたらそこは押さえておきたい。

いまやっている論文の思考法を引き続き、「働く」ことに流用していけるように常に考えていたい。

その方が絶対、私自身おもしろく仕事できると思う。

でもこういう考えって、甘いのかな、といも思う。

しかしながらわたしの今までとして何度も打ちのめされてきたし、そのたびにべそかきながらでも鼻血が出ていても立ち上がって、そうしてるといい出会いがあったり気づきがあったりする。運がいいんだと思う。

それはこれからもそうだと思うし、そうやってゆっくりやっていきたい。

 

 

変化の話

言動やセンス等々から破天荒なイメージを持たれることが多い。(今はそうでもないけど、たまに尖ったセンスを見せつけるらしく“うわ…”となる)

変化をもろともしないというか、個性万歳みたいに思われるけど、性根はあんまりそういうことが好きではないことに最近気づいた。

 

嗜好も思考も、恋愛も人間関係も常に“正解”を求めて生きてきた。これを着て、この考えで、この思考法で、この道で、この人で“正解”、なんの波も立たず生きていける枠にはまることにこだわっていた。

 

枠には価値とか基準とかが同じく当てはまる。何か確固たる正解に自分を無理矢理にでも当てはまればもっとよりよく、穏やかに過ごせると信じていた。もっと生きることが楽になると思っていた。

美しくなりたいという以前の話にも通じるのだけれど、枠にはまらないことは悪であったし、はみ出した部分は切り落とそうとした。そうしてたくさん自分を傷つけて、その痛みこそ生であると信じてやまなかった。なんと情けない独り相撲か。

 

恋愛もそうで、一人の相手に盲目になるのが得意である。もっといえば盲目だと信じ込むことが得意である。この人しかいない、この人と一緒に居れば大丈夫、この人しかわたしを好いてくれる人はいない。そうした“絶対”とか“永遠”みたいなのにしがみつこうとする。だけど、その盲目は所詮まやかしというか、一抹の疑問(常識がないのにいいの?、話しが面白くないのにいいの?、等々)を心が囁いているけど、気づかないふりをして、いい彼女であろうとする。

でもそれは無理矢理自分の心を捻じ曲げたものだから、どこかでその反動がやってくる。爆発する。しかも結構経ってから。

スタンプカードみたいに目をつぶったことがたまっていって、いっぱいになったら爆発する。

しかもその爆発は急なもんだから、相手にはよくわからないし、伝わらない。何かわからないけどなんか怒ってる、の認識をされて、破局する。

ひどく自分も疲弊するし、相手もひどく傷つける。

 

 

結局、独り相撲で手遅れになって、破滅するのがこれまでの諸々の人生の基本形のように思う。

 

 

思考の癖として、二元論的なのである、とも最近気づいた。

いいか悪いか、善か悪か。どっちかであれば“判断”ができる。明瞭で明確で絶対的な。

 

 

しかし、いまは人生の出来事は往々にしてグレーゾーンが存在するし、なんというか、そんな二元論で判断するのは情緒に欠ける気がしている。

別段、決めなくていいことは決めなくていいし、好きなようにやればいい、その好きを探すのは楽しいけどこれと決めた鋳型に自分を当てはまることなどそもそもできない。

 

また少し生きやすくなった。

じめじめとした、しかしもうそろそろあけるであろう梅雨である。

 

 

 

 

物語化の話

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修論に向けての先生が書いてくれた板書

 

 

 

 

夏が来る。

大学院生になって一年半がそろそろ立つ。学部生の時を含めればかれこれ二年半ほど、三遊亭圓朝や怪談噺、幽霊や霊魂について考えている。

 

最近、物事の考え方が変わってきて、一個人がなにかを認識する時そこには「物語化」が必要不可欠であり、その物語がある理論になったり、歴史の読み解きになったり、あるいはビジネス等々、人を動かす原動力や想いにつながるのだと思っている。

 

これは傲慢な考えだったのだけれど、前までは来物ごとを「客観視」しなければ「正しく」認識できない、と思っていた。

裏返せば客観と正しさを持てると思っていたのである。

じゃあその客観と正しさの基準はどこから来るのか。絶対の基準などどこにあるのか。

 

昔、日本文学の講義で、「中庸なんてものはない、それは単なる思い込みで押し付けで、一つの暴力にもなりえる」といった先生が居て、その時は何にも思わなかったけど、いまではわかる。

 

 

 

わたしは上記のような物語化が得意で好きである。

自分史を語りたいし、そうやって過去と向き合って、今を解決し生きて来た。文系の論文なんてそれの最たるものだと最近気づいた。

だからこそ、大学院まで来てしまったのだとも、最近気づいた。

 

就活を引き続きして居て、物語化をウリに自分を売っている。物事の背景をイマジネーションすることととそこから物語のクリエイトするがわたしの強みです、と偉そうなことを言っている。

それは本当のことだし、それをできたら生業にしたいと思っている。

 

物語化という意識を持つと、なんでも点を線で結んで語ろうするから、当事者意識みたいなのがもてる。就活での逆質問とか前まで困窮してたんだけど、今はそこそこにできるようになって来た。

 

 

 

夏が来る。

修士論文も書かなければならないし、就活もしなければならないし、フリーペパーのバイトも受かったので、する。

忙しいけど、一つの生きるすべを手に入れて、少しだけ健やかに生きられる気がしている。

夏が来る。

 

 

 

 

 

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お花を部屋に飾り始めた。

 

 

『西埠頭/鵺』

 

1.はじめに

6月17日、明治学院大学のアートホールで行われた錬肉工房『西埠頭/鵺』を観劇した。
今公演は2部構成で第1部として仕舞い「鵺」が舞われた。この二つの演目を考えるにあたり「女性」という補助線を用いてみたい。『西埠頭/鵺』の舞踏家・上杉満代に注目し、感想の域を超えないが考えてみたい。
彼女の身体は悲しみや怒りをただただ一身にうけ、勝者でも敗者でもない「無」として舞っていた。

 

 

 

 

 

2.能『鵺』について

上杉の身体を考えるにあたり、両演目を切り結ぶ世阿弥の夢幻能『鵺』について整理し、分析する。今作は勝者の武勇譚ではなく敗北者である「鵺」の側から悲しみや孤独を描いている。そこには闇の中で苦しみ蠢く「排除された者」の怒りや不条理を感じる。それはひいては彼岸へと追いやられた死者たちの声へと繋がっていく。
能『鵺』のあらすじは以下である。

 

熊野から京都をめざしていた旅の僧が、摂津国芦屋の里(今の兵庫県芦屋市あたり)に着き、里人に宿泊先を求めますが断られる。僧は、里人から紹介された川沿いの御堂に泊まる。夜半、そこに埋もれ木のような舟が一艘漕ぎ寄せ、姿の定まらない怪しげな舟人が現れ、僧と言葉を交わす。はじめ正体を明かさなかった舟人も、「人間ではないだろう、名は?」と問いかける僧に、自分は怪物・鵺の亡霊であると明かし、近衛天皇の御代(在位1142年〜1155年)に、天皇を病魔に陥らせたところ、源頼政に射抜かれ、退治された顛末を語り、僧に回向を頼んで夜の波間に消えていく。
しばらくして、様子を見にきた里人は、改めて頼政の鵺退治の話を語り、退治されて淀川に流された鵺がしばらくこの地に滞留していたと僧に伝える。話を聞いた僧が読経して鵺を弔っていると、鵺の亡霊がもとのかたちで姿を現わす。鵺の亡霊は、頼政は鵺退治で名を上げ、帝より獅子王の名を持つ名剣を賜ったが、自分はうつほ舟(木をくり抜いて造る丸木舟のこと)に押し込められ、暗い水底に流されたと語る。そして、山の端にかかる月のように我が身を照らし救い給え、と願いながら、月とともに闇へと沈んでいく。

 

鵺とは、現実にはトラツグミという鳥のことを指す。能に出てくる鵺は、頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇(平家物語では胴体が狸)という妖怪で、鳴く声がトラツグミに似ているから鵺と呼ばれたという。西洋で言えばギリシア神話にでてくるキマイラ、現代SF小説なら遺伝子操作で生まれたモンスターという位置づけだろう。
こうした化け物退治では、退治する勇者を持ち上げて、めでたし、めでたしで終わるほうが一般受けもよいし、好まれるように思われる。しかし能ではしばしば、戦記物、化け物退治の物語などをベースに、敗者、退治される者を主人公にして、滅ぼされる側の視点を描き、その悲哀を通して人間世界の影、人生の暗い側面を突きつけるのである。
能の「鵺」では、鵺という化け物の亡霊が主人公になり、救いのない滅びへ至る運命を切々と語る。勇者・源頼政に退治され、淀川に流されて、暗渠に沈められた鵺が、山の端の月に闇を照らせよと願いを込める最後のシーンが印象的であり、『西埠頭/鵺』で繰り返された「水」の要求と舞台後方につるされた暗幕にうつる水がたゆたう動きを表したライティングとも呼応している。

 

 

 

 

3.死者たちの慟哭
次に練肉工房『西埠頭/鵺』を整理してみる。闇に押し込められた鵺のような悲壮で孤独な敗者・死者たちの冥界の蓋が開き、生きている我々に言葉を叫ぶ。その叫びは最終的に音へと分解され我々観客の身体をも包み込む。その叫びは見ている観客=生きているものに、助けを求めるでもなく、糾弾するのでもなく、ただただ己の境遇を呪い、怒っているだけである。そして彼らはまた闇へ溶けて行く。

冥界とも呼べる水中に漂う悲しく暗い鵺のその背後には、有象無象の、鵺のような敗者、非業の死を遂げたものたちが蠢いている。それらは非力で暗いところに押し込められている。


しかし、一度その蓋が開けば生きている我々に自らのすさまじいほどの醜さ、怒りを我々に見せつける。目をそらすことは許さない。じっとりとした、怒りに震える目でこちらを睨み、地を這うような声で激しく叫ぶ。そうした蠢く死者たちの身体を2部『西埠頭/鵺』で切に感じた。


注目すべきは上杉満代の舞踏である。呪詛のような死者たちの叫びを一身に、ただただ受け続け、後半それを一気に爆発させる。序盤上杉は何も語らない。死者たちの群の中で能面のような無表情で立っている。その存在感はすさまじいもので、目が離せなかった。上杉は死者たちが発する悲しみや怒りのに呼応するでもなく、ただ受けるのみである。
上杉はあの舞台では何者でもない「無」の役割を担っていた。行き場のない死者たちの声、慟哭を一身に引き受け舞踏へと昇華させていた。地獄のような死者の呻きの中、それを養分にして一輪花が開花したような、ある種の救いとして上杉の舞踏があったように思う。

 

 

 

 

4.終わりに
普段日常を生きていて、自分の中の、あるいは他人の中の醜いものや汚いもの、恐ろしいものは見ないで生きている。その方が楽であるし、苦しみも悲しみをも感じずに済む。しかし、見ていないだけであって、それらは我々のすぐそばで、追いやられた暗闇からじっとこちらを見ている。
『西埠頭/鵺』ではそうした目をそらしてきた累々の醜いものーー闇・冥界の死者たちが目前で、我々を正面から睨みつけ、呪詛のような悲しみや怒りを吐露する。我々は目を背けることはできない。こらえて、彼らの存在を受け止めなければならない。そこには同情や共感などうわべの受け止め方では済ますことのできない迫真があった。
そして舞台最後、静かに死者たち(もしかしたら生者でもあったかもしれない)が闇へ帰って行く。闇は相変わらず蠢いていて、こちらを睨む気配がある。しかし、この舞台で自らの暗闇とも見つめ合ったわたしの目は少し晴れたものになっている気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミッチーのライブに行って泣いた

ミッチーのライブに行ってきた。有楽町の東京国際フォーラム

 

ミッチーのライブは友人と行くのだが、ライブのあと、いつも現実に引き戻される悲しみを感じ心身ともに疲弊してしまうのでその前に軽く飲酒をする。今日もした。

 

いつもより遠い席だったけど、ミッチーはミッチー然としていて、かっこよくて麗しくて美しくて完璧な生き物だった。歌って踊ってきらきらしていた。

 

ミッチーのライブではコールアンドレスポンスがあって、「愛してますか」のミッチーの問いに、「愛してまーす」と観客が答える儀式みたいなのがある。これは麻薬みたいなもので、そのあとミッチーが「俺も」とか「愛してるよ」とか決め台詞を言うと、もうそれが本当のことのように思える。麻薬である。

今日もこの儀式があって、いつもの、上記のやりとりのあとミッチーが「愛されてますか?」と聞いた。

 

わたしはすごくたじろいだ。

 

ミッチーに愛されてるとか愛されてないとかそういうのではなく、わたしは今生きていて、愛されていると感じていない。

同居してる家族にもそうは思えない(思えないのはわたしの問題で、家族はわたしに世話を焼いてくれているし、ご飯がなかったことも、お風呂が焚かれていなかったこともない。時間が合えば送り迎えだってしてくれる、いい家族だ)し、わたしを愛してくれる恋人もいない。

 

自分が愛されたくて愛されたくて愛されたくて堪らなくて、それが叶えられない可哀想な存在であったことを、わたしは気付いたのだ。気づきたくなんてなかった。

ただただかっこいいミッチーを観て、王子様の舞踏会を覗き見る庶民の女でよかったのに。

そんな事実突きつけられたくなかった。

 

わたしはすごくかなしい。愛されてないと感じるわたしの感受性を恨む。こんなに恵まれた環境に身を置けていることに感謝するべきなのに。まだ求めてる自分の貪欲さに辟易する。

 

 

題の通り、ライブ中に泣いて、まあなんとか持ち直してかっこいいミッチーを鑑賞した。

終わったあと、涙を拭った手の甲がきらきらしていた。久しぶりにきらきらするパウダーをはたいて、それが移っていた。

 

 

 

 

 

 

劇場は激情

 

前述の通り「感覚」で生きているので、その表出の一つである感情がしばしば暴走することがある。

 

街を歩いていて、すれ違う多くの人が様々な傷を抱えて、それでも懸命に生きていると思うと涙が出るし、誰かに道を尋ねられて教えて差し上げた後、別れ際にありがとうと言われるだけで涙が出る。

 

感情のシステムがちょっと過敏なので、優しくされると基本泣きそうになる。

だからカウンセリングの類いとかとても苦手なのである。

 

 

時々偏頭痛で心療内科で通っていて、緊張しやすいこと等をつげ、安定剤をもらっているが、もっと他に話すべきことがたくさんある。

自傷癖だったり(今は小さいものだけれど)、就活とかあまり関係なくイライラしたり虚無感とか、ひどいときの希死念慮みたいなのはずっとあること等々。

でも、話すのがめんどくさい。おそらく聞いてくれたカウンセラーはひどくショックをうけたみたいな顔して、優しく声をかけてくれるだろう。

そして、多分わたしは泣く。もうその一連がすでにしんどい。

 

 

こう冷静に考えられるのはそこまで逼迫した状況じゃないからこそだと思う。

 

 

しかし、あんまりひどい方は早く病院に行かれた方がいい。

それも良心的な、薬出して終わり、みたいなところではない、いいお医者へ。(昔精神安定剤といわれて出されたのが強い睡眠薬で日中使い物にならないほどねむくなってしまったことがある。)

なかなかそういうお医者を探すのは難しいが。

 

 

 

 

 

辞めたくないことについて

生き方について近頃考えている。

 

一社内定をいただけたけど辞退しようかと思っている。

会社の人はとてもいい人だし、福利厚生も悪くない。研修制度もしっかりしている。

でもそこで自分が、その人たちと働くことが想像できない。そして、あんまり楽しくなさそうなのである。

 

小娘が一端に片腹痛い感じではあるが、これまで生きてきた中で「あ、これちゃうな…」と予感したことはだいたいあたる。そして「これちゃう」を感じながら続けたことは、なにより自分が納得できずにダメになることが多い。

ひどく感覚的な人間なので、それがもはやわたしの生きる感覚であり、もっと言えば生き残る感覚のように思う。

 

上記のように感じるのは、おそらくそういう「感覚」ではなく「論理」で動く人が向いている会社だと感じたからだと思う。もちろん「論理」がないと何事もなし得ないことは分かる。しかし、その根元、基盤となる「感覚」をわたしは大事にしたい。(そして気づくのが少々遅い。)

 

気づけてよかった。