2076話 続・経年変化 その40

読書 16 道具学 1

 「インターネット書店ではピンポイントの検索しかできないが、書店で本を探せばいままで意識していなかった本に出会うことがある」と言う人が少なくない。この説を全面的に否定はしないが、私のように職業的な「本探し人」は、ネットの本探しはピンポイント検索では終わらない。

 韓国の食文化を考えていて、料理や食事の道具から食文化を調べてみようと思った。韓国の道具に関する日本語資料はほとんどないから、まずは『ものと人間の文化史 食具』(山内昶法政大学出版局、2000)をチェックした。以前から知っている本だが、2900円+税の本だから、内容のレベルがわからないので注文する財力はない。あやふやな記憶では、古本屋か図書館で現物を見たことがあり、「買おう!」と決意するほどではないなという結論だったのだろう。その本がネット書店で安く売っていたので、今回は購入決定。さっそく読んでみたら、以前の危惧の理由がわかった。著者は食文化に疎いのだ。食文化とは関係のない西洋史の話題は豊富に出てくるのだが、肝心の食文化への記述は薄い。

 しかし、日本の食文化史についてもよく調べているので、参考になったこともある。折敷(おしき)のことだ。今なら「盆」とか「トレイ」と呼ぶだろう。定食がのっている盆だと言えばわかりやすいか。おそらく、昔は食器を直接床に置いて食べただろう。そのあと、板に食器をのせて食べるようになり、それが折敷になり、その下に足や箱がついて銘々膳になり、西洋の影響を受けて、テーブルの足を短くした座卓ができるというのが、日本の膳の歴史だ。板に食器をのせて食事するようすを、永平寺と韓国の寺の食事風景で見た。食器は床の位置にあるから、食器を持ち上げて食べる。箸とサジを使う食事法は、日本でも平安時代に伝わり、『枕草子』にも箸とサジの食事の様子が出てくるが、しだいにすたれていった。ただ、一部の寺ではサジも使う食事の仕方が残った。永平寺がその例だ。朝鮮でも、足がついた膳が登場する前は、床の高さにある板(折敷)に置いた食器を持ち上げて食べていた。床の高さに置いた汁椀の汁をそのまま浅いサジですくおうとしたら、服がびしょびしょに濡れる。多分、汁は日本人と同じように、木の椀に口をつけて飲んだのだろう。

 こういったことを知りたくて、食具の資料を探したのだが、日本以外のアジアの記述が少ない。法政大学出版局の「ものと人間の文化史」シリーズは魅力的なテーマが多く、全巻読破したくなるのだが、その内容をチェックすると、日本に関する記述で終わっているものがほとんどだ。執筆者が日本史や民俗学の学者から文化人類学者に変わればいいがと思ったことが何度もある。このシリーズは1960年代末から始まったのだが、「日本国内の諸事情研究」から、そのそろ地球規模を視野に入れて編集した方がいいのではないかと思う。そういう本が書ける人のひとりが、山口昌伴(やまぐち・まさとも)さんだった。

 山口さんの話は、次回に続く。

 

 

2075話 続・経年変化 その39

読書 15 建築 4

 タイで、建築のことをあれこれ考えていて、音楽と同じなんだと気がついた。日本の明治維新にあたる社会変革期は、タイでもほぼ同じ時代だった。現在のチャクリー王朝は1782年から始まるが、近代化が始まるのはラマ5世時代の1868年からだ。これは、日本では明治元年だ。

 タイに西洋文明が入ってきた。タイに入ってきた西洋の音楽や建築に、タイ人はどう対応したのかというテーマは、明治の日本人と同じなのだ。音楽では、西洋音楽のメロディーにタイ語の音韻をどう合わせるか、声調(音の高低)と音階の違いをどうするかといったことを悩んだ。作曲など音楽理論は、雇った西洋人教師に学んだ。

 建築も、西洋人建築家を雇い、バンコクに西洋建築を作っていく。日本では、日本人の建築家が、西洋人と同じような建築物を設計できることがすばらしいという価値観があり、赤坂の迎賓館(迎賓館赤坂離宮。1909年完成)をピークとする。東京駅も、日本在住の西洋人建築家は、寺院の屋根を思わせるような日本的な建築を構想したのだが、「日本風はみっともない。西洋風がすばらしい」という当時の価値観が勝ち、ヨーロッパの駅舎を東京に作った。

 バンコクの王宮にあるチャクリー宮殿の場合はどうかと調べたことがある。西洋の宮殿にタイ寺院の屋根を付け足したような建物だ。完成までのいきさつは日本と違った。雇われた西洋人の建築家が、西洋の宮殿そのままのスタイルで設計したのだが、王室の保守派から反対されて、タイと西洋の折衷建築になったという。イギリス人建築家ジョン・クラニッシュが西洋の宮殿そのままに設計したかったのか、あるいは王室の西洋派が「西洋そのまま」を希望したのかというあたりは、残念ながら調べがつかなかったが、わかったことは『タイ様式』講談社文庫、2001)書いた。この文庫は、私の建築本である。

 西洋文明とアジアというテーマでいろいろ調べていくと、わかってきたことが多い。アジアでは、西洋文明はまず「マネ」から始まる。「西洋人のようにできる」「西洋人に認められる」というところから始まるのだが、そこから自分たちの文化を認識するのもまた西洋人の目なのだ。音楽だって、西洋人と同じように演奏できることが賛美だった時代が長くあった。

 食文化がわかりやすい。アジアの飲食店誕生は、世界的に見ても中国がとびきり古く、『食卓の文化誌』(石毛直道岩波書店、1993)によれば、「前漢の中頃からすでに都市には飲食店がひしめいていた」という。「前漢の中頃」というのは、紀元前100年頃ということで、日本では弥生時代だ。日本で飲食店が出現するのは江戸中期で、それでも世界的に見れば早い。

 東南アジアでは、中国人経営の飲食店を除くと、飲食店はホテルから始まる。西洋人に西洋料理を出すレストランだ。しばらくすると、食生活にバラエティを持たせたいと思う西洋人居住者や観光客相手に、民族料理を出す店ができる。ポイントは、エキゾチシズムである。バンコクやチャンマイなどに多くあった「タイ古典舞踊を見ながらのお食事」というレストランシアターである。同様のものは、ジャカルタにもバリにもある。外国人観光客を受け入れ始めた1990年代初めのビエンチャンに登場したレストランも、そういうスタイルだった。高級ホテルを除くと、飲食店はほとんどなかった。

 タイ人もインドネシア人も、普段自宅で食べているような料理に大金を支払ってレストランで食べようとは思わない。ある程度の家庭なら、自宅に料理人がいるから、宴会は自宅でやればいい。だから、民族料理店は西洋人相手に始まり、なかなか普及しなかった。こういう歴史の例外が、古くから外食産業が生まれていた中国と日本である。

 現代建築において、日本人が意識的に「日本スタイル」を意識するのは、1930年代から始まる帝冠様式だ。鉄とコンクリートのビルに和風の屋根をのせたスタイルだ。この様式誕生のいきさつはいくつもあるが、そのひとつは国際観光ホテルの存在だ。外国人客を受け入れるホテルを、鉄とコンクリートを素材にしながら、和風にしようと考えたのだ。つまり、西洋人に見せるための「和風」である。

 これは、例えばタイ風の家でタイ風の服を着たウェートレスが給仕するタイ料理店と同じだ。バナナの葉を皿にして出すインドネシア料理店も、西洋人に見せる「インドネシア」だ。

 エキゾチシズムとナショナリズム。フジヤマ・ゲイシャ。

 建築学科の学生はほとんど読まない建築の本をこまめに読んだら、驚くほどおもしろかった。そのきっかけを与えてくれたのが、藤森照信石毛直道の両氏だ。ほとんど知られていないが、石毛さんも『住居空間の人類学』(鹿島出版会、1971)という建築の本を書いている。もしかすると、私が初めて読んだ建築の本がこれだったかもしれない。

 

 

2074話 続・経年変化 その38

読書 14 建築 3

 最近の新聞折り込み広告は、墓地や有料老人ホームのものばかりで、かつていくらであった不動産広告がめっきり減った。近所の畑をつぶして、建売住宅を作る工事はいくらでも見かけるのだが、新築や中古の一戸建てやマンションの広告をさっぱり見かけない。不動産広告が好きなのは、買うための資料にしているわけではもちろんなく、新築の場合は業者の、中古の場合は持ち主の、それぞれの思想趣味がわかるからだ。

 といっても、たいていは「毎度おなじみの間取り」なのだが、ごくたまに目が止まる間取りもある。

 変な間取図の家を集めた本があるが、その手の本は信用していない。変な間取図の家は、著者や編集者が勝手に創作できるからだ。本当に「変だ!」というなら、不動産広告の現物を提示しないと信用できない。YouTubeには「超狭小」住宅などが実際の画像で紹介されているから、ネット情報の方がはるかにおもしろい。

 変ではないが、珍しい間取図が載っている不動産広告を見たことがある。場所や敷地の広さを見ても、元農家だということがわかる。母屋が、いかにも農家の家という広い純日本風住宅で、そばに納屋がある。別棟の建物は、1階がすべて駐車場のピロティ。2階は広い空間と流し台とトイレ。多分、事務所に使っていたのだろう。250坪ほどの土地代込みで9200万円。母屋の室内写真を見ると、「こんな家、住みたくないな」という田舎の家で、やたら玄関が広く、部屋は田の字型。「う~む」とうなりつつ、5分ほど遊べる。北海道なら、「牧場売ります」といった不動産広告があるだろうな。

 現実の間取図でも、書き間違いによって出入り口のない部屋や押し入れになってしまった例はある。あるいはテレビ番組「ビフォー・アフター」のように、増改築によって、とんでもない間取りになってしまったという例もある。

 そういう小ネタもおもしろいのだが、より興味深いのは、いわば民族建築学の分野に入りそうな間取りだ。

 例えば、北欧の家なら、サウナ室があるのは当たり前で、アパートにも共同のサウナ室がある。ソウルのアパートを訪ねたときは、本来のインタビューを離れて、家の中を見せてもらったことがある、アパートの地下には、それぞれの住人用の練炭置き場があった。1980年代のことで、今はどうだろう。北海道のアパート(団地)には、かつて各戸に石炭庫があり、屋上に煙突がある。沖縄では、新築木造住宅は少ない。そういう地域差が私には興味深い。

 前回紹介した『韓国現代住居学』にはアパート(日本風に言えば、マンション)の間取図が出ていた。浴室の説明は「シャワーを使うのが普通だから、浴槽は洗濯物置き場になっている」とある。建築の本なら、間取図に浴槽があるだけだが、住居学ならその建築の使われ方にも言及している。だから、興味深いのだ。

 タイの建築の本もだいぶ買い集めた。建築家自慢の住宅写真集は書店で立ち読みした。タイの建築家は主にアメリカの本を参考にして設計するから、当然浴室もアメリカのものと同じ様式に設計する。だから、浴槽もあるのだが、当然、タイ人は使わない。浴槽をいっぱいにするほどの熱湯を供給する設備もないから、タイでは外国人も(日本人以外)浴槽を使いそうにない。それでも、カリフォルニアの邸宅と同じような家が、「あら、ステキ!」とタイ人の成金を刺激する。実用性は、「かっこいい!」に勝てないのだ。

 タイの住宅間取図もよく見た。新聞の不動産広告を読んでいて気がついたのは、豪邸というほどではなく、大会社の部長くらいの収入を得ているような人の住宅には、使用人部屋がついているということだ。間取図をよく見ると、家の一角にある使用人部屋の出入り口は庭側にあるだけで、使用人部屋から直接住人の居室には行けないようになっている。家人が誰もいないときに、使用人が男を引き入れて一気に盗むとい犯罪があるから、勝手に住居部分に入れないシステムになっているというわけだ。

 高層マンションでも、台所の脇の食材庫のような空間が窓のない使用人部屋だ。台所も物置きのような場所で、その部屋の住人は、「こういう部屋に住んでいる人は、自分で料理なんかしないから、使いやすい台所なんかどうでもいいんですよ」と言った。

 使用人が同居する家は、もはや時代遅れで、「通い」になり、人件費高騰の結果、今では通いの使用人もなかなか雇えなくなった。

 

 

2073話 続・経年変化 その37

読書 13 建築 2

 路上観察学会のメンバーのなかで、ふたりの著作をよく読むようになった。ひとりは林丈二だ。次のような本が、街歩きが趣味の私の指針になった。その初版をあげておく。

 『イタリア歩けば…』(廣済堂出版、1992)・・・イタリアに行く前に再読した。いいガイドブックになった。その成果は、このアジア雑語林の1059話、1065話、1076話、1094話でわかる。

 『フランス歩けば…』(廣済堂出版、1993

 『オランダ歩けば…』(廣済堂出版、2000)

 『ロンドン歩けば…』(東京書籍、2005)

 『パリ歩けば…』(河出書房新社、2004)

 その著作をまとめて読むようになったふたり目の人物は、藤森照信さんだ。面識はないが、敬称をつけたくなる人物だ。

 建物に関する本を乱読したから、雑多な知識は増えていったが、そろそろ基礎から建築を学んでみようかという興味が出てきた。一般向けの本ではあるが、建築や土木の技術書を買った。橋の種類や工法の本も読んだ。建築史を知りたくて、西洋建築史の本を買ったが、教会や城建築に終始していて、おもしろくなかった。そんななか、わくわくする本を見つけた。路上観察学会のメンバーとしてすでによく知っている大学教授が、わかりやすく、おもしろい本を書いてくれた。すばらしい入門書だ。

 食文化における石毛直道さんにあたるのが、建築史家の藤森照信さんだ。音楽における小泉文夫さんの3人に共通しているのは、西洋人の学者の名前を出して抽象論を展開するハッタリ学者ではないことで、語り口はやさしくわかりやすい。神田神保町の建築専門書店南洋堂に通い始めたころに出版された、この新書を手にした。

 『日本の近代建築 上: 幕末・明治篇』、『日本の近代建築 下: 大正・昭和篇』藤森照信岩波新書、1993)

 この新書をきっかけに、藤森さんの本を片っ端から買っていった。のちに高い専門書も出すようになるのだが、そのころは安い本も多く、読みやすく、わかりやすく、写真も豊富なので、大いに勉強になった。単著共著合わせて20冊以上読んでいるが、特に推奨したいのがこの新書と、『昭和住宅物語 初期モダニズムからポストモダンまで23の住まいと建築家』(新建築社、1990年)と『建築探偵日記 東京物語』(王国社、1993)と・・・、名著が多すぎて、う~む選定に困る。私の好みで言えば、安い本ほどおもしろい。それは建築の素人向けに書いているからだ。

 建築の本を多く買っているが、私が知りたいのは建築でも建築物でもなく、住居学に近いのかもしれない。人間は、家をどう使っているのかといった疑問だ。入口で履き物を脱ぐ習慣。寝る場所。入浴やトイレ。断熱や風通し。煙の処理。料理する場所。学問としての住居学は、衛生的で快適な理想の住まい研究なのだろうが、私が知りたいのは「過去と現状」なのだ。住まいの比較文化論、あるいは文化住居学などと名付けてもいい。そういう分野なので、実は類書が少ない。ある狭い地域を取り上げた民族建築学の著作はあるが、広くかつ深く論じた本は知らない。建築の本は、高名な建築家の作品を鑑賞する豪華本やおしゃれな雑誌(そう、あ~いう雑誌ですよ)ということになっていて、その手の本は書棚のお飾りがふさわしい。

 私の興味分野で、今までのところ最上といえる2冊は、いずれも韓国を扱った本だ。『韓国現代住居学: マダンとオンドルの住様式(ハウジング・スタディ・グループ、三沢博昭、エクスナレッジ、1990)は、定価5500円だったが、現在は定価よりも高くなっているが、「よーし!」と決意して買ってよかった。古民家から現代のアパートまで押さえているのがいい。国立民族学博物館が特別展示のために作った資料集『2002年ソウルスタイル 李さん一家の素顔の暮らし』(2002年)は、家にあるモノのすばらしいカタログなのだが、住生活という点ではその続編となる『普通の生活 2002年ソウルスタイルその後佐藤浩司、山下里加、INAX、2002)がすばらしい。室内の写真と見取り図、そして冷蔵庫や収納庫のなかまで見せてくれた李さん一家に感謝だ。

 そういう話を始めると、『地球家族』(TOTO出版)の正続や小松義夫さんの『地球生活記』など紹介したい本が次々と出てくるが、これらは20年以上前に出た本で、その後は傑作の出版はない(と思う)。神保町に出るたびに、建築専門書店の南海堂に立ち寄るが、最近は収穫がほとんどない。

 

 

2072話 続・経年変化 その36

読書 12 建築 1

 建築の本の話を書こうかとネタ探しにアマゾン遊びをしていたら、見てはいけない雑誌を見つけてしまった。「建築知識」だ。紙面一新したことを知らなかった。おもしろい特集が多く、神保町の建築専門書店南洋堂に行ってバックナンバーをチェックしないと。建築関連の本は、まとめて古本屋に売却しようと思っていたのに、ああ、また深入りしそう・・・という話はともかく、まずは昔話から始めるか。

 大工の仕事ぶりに興味があったというのは、小学生の関心分野としてはよくあることだろう。近所に新築現場があれば、いつまでも作業を眺めている少年だったが、自分で何かを作りたいと思ったことはない。プラモデルでさえ、関心がなかった。

 高校を卒業して、建設現場の作業員をやった。そのせいで、香港に行っても竹の足場を組むのをじっと眺めていた。ビルに関しては、設計も建築にも興味はないが、住宅建築なら塀や駐車場工事も眺めている。モロッコのシャウエンと言えば、青い住宅の街として有名だが、そこでもいくつかの住宅建築現場を数時間は眺めていた。そこにモロッコらしさなどないのだが、退屈せずに眺めている。そういえば、ハノイでもビエンチャンでも、どこででも工事を眺めていた。

 ひとりで街を歩くが大好きな私だから、街で見かける物事に注目する。それが街の人であり、建築物であり、看板であり、道路を走る乗り物などだ。

 建築への深い関心は、まず「路上観察」から始まった。1986年に、こんな本が出た。

 赤瀬川原平藤森照信南伸坊路上観察学入門』 筑摩書房 1986年。著者のほとんどはすでに知っていた。散歩しながら、路上で見かける「なんだ、これ?」を見つける建築と美術の観察記だ。これは、おもしろい。次々に関連書を買い込むことになった。建築に興味を持つきっかけになったシリーズなので、ひとまとめにして紹介しよう。

 『京都おもしろウォッチング(とんぼの本)』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫井上迅扉野良人、新潮社、 1988年9月))

 『路上探検隊奥の細道をゆく』(赤瀬川原平・藤森輝信・南伸坊林丈二松田哲夫谷口英久、宝島社 、1991年7月)

 『路上探検隊讃岐路をゆく』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二杉浦日向子、宝島社、 1993年4月)

 『路上探検隊新サイタマ発見記』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二杉浦日向子松田哲夫井上迅萩原寛、宝島社 、1993年12月)

 『路上観察華の東海道五十三次赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫文藝春秋 文春文庫ビジュアル版、 1998年6月)

 『奥の細道俳句でてくてく』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫杉浦日向子太田出版 2002年8月)

 『中山道俳句でぶらぶら』赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫太田出版 、2004年5月)

 『昭和の東京 路上観察者の記録』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫、ビジネス社 、2009年1月)

 『ハリガミ考現学』(南伸坊実業之日本社1984)も読んだ。おもしろいことはおもしろいのだが、「宝島」のVOW、あるいは「ナニコレ珍風景」のようなものであったり、「見立て」の芸術論のようなものに食傷してきて、建築の勉強をちゃんとしておこうと思った。「見立て」の言葉遊びよりも、建築史の方がはるかにおもしろそうだった。

 

 

2071話 小休止 2

最近の読書 2

 須賀敦子の単行本未収録のエッセイを集めた『霧の向こうに住みたい』河出書房新社、2003、河出文庫2014)に洗濯の話が出てきた。ドイツでは洗濯物を煮るという話を2032話で書いた。イタリアの例がこの本にある。

 1960年代に、著者の姑が「大洗濯の日」という習慣があったという話をしてくれた。著者の夫はイタリア人だ。

 「田舎じゃあ、と彼女は言った。春になると一年に一回の<大洗濯の日>っていうのがあってねえ。一年に一回、朝早くから大鍋で洗濯物を煮るのよ。シーツやら、テーブル掛け、ナプキンも何もかも、前日から灰を入れた水に行けておいたのを、ぐつぐつ煮る」

 洗濯を終えると、牧草に布を広げて干すという話に続く。これがイタリアの話だが、フランスにも同じ習慣があって、「フランスの作家マルグリット・ユルスナールの自伝を読んでいたら・・・」と話が広がっていく。ヤマザキマリ須賀敦子の文章はまったく違うが、ふたりとも「うまいなあ」と感心する。こういう見事な文章で綴られれば、どこの国の話でも、おもしろく読むことができる。

 内田洋子の『十二章のイタリア』(東京創元社、2021)を買ってあるのだが、韓国の本を先に読んだので、後回しになっている。先に読むことにしたのは『朝鮮半島の食』(守屋亜紀子編著、平凡社、2024)だが、この本の紹介は長くなるので、別の機会にする予定(忘れなければ・・・)。しばらく後でこの2冊に触れる予定。

 今回は、1554話から5回にわたってすでに紹介した『きょうの肴は場に食べよう』(クォン・ヨソン著、丁海玉訳、KADOKAWA、2020)に、きちんと紹介したい記述があるので改めてここで書く。

 「私は汁ものには目がない」と、汁ものへの愛を展開する章で、こう書く。

 「わたしは汁を口にする時はほとんどさじですくわない。熱かろうが冷たかろうが、みっともなくても器ごと持ち上げて飲んだり卓上でお玉ですくってたべるのが好きだ」

すでに紹介した本をまた取り上げたいと思たのは、ここ数か月に見た韓国の連続ドラマや映画で、韓国通を自任している方々が「韓国ではこういう食べ方はしません」と断言する食べ方、食器を手に持って食べているシーンが何度も出てきたからだ。このコラムでは、韓国人だって器を手に持って食べますよという話をくどいほど何度もしているのだが、私の主張などナノレベルの影響力もない。世に、韓国ドラマファンはいくらでもいるが、韓国人はどうやって食事をしているのかという点に、ほとんど興味がないようだ。何人かで鍋のラーメンを食べるシーンは毎度おなじみだが、器を持たずにどうやって鍋からラーメンを食べるのか考えてみるといい。丼に入った麺類、皿のジャジャンミョンの最期は、器を持ち上げて、唇を器につけて、最後の麺や汁を口に入れる。

 箸はおかずに、サジは汁とご飯に、それぞれ役割があると説明する人が多いが、食事には流れがある。箸でキムチを食べる。次に飯をひと口・・・というとき、箸を置いてサジに持ち代えて・・・、おかずにはまた箸に持ち代えて・・・なんて、めんどう臭いことをいちいちしない。汁を飲むとき以外サジは使わないときもあれば、汁をいっぱい、一気に飲みたくて、器を持ち上げてぐいぐい飲むこともある。ドラマではなく、食文化を取り上げた韓国のテレビ番組で、丼を両手で持って一気に汁を飲み、「うまいねえ。汁は、こうして一気飲みだよね」と、出演者が口々に言うシーンも覚えている。

 韓国文化に影響力のある人が、食事のマナーと現実の食べ方には違いがありますよという話をきちんとしてくれたらなあと、影響力皆無のライターは願っているのですよ。

 先日、韓国の弁当業者の仕込みのようすをYouTubeで見ていたら、ユブチョパプ(いなり寿司)の飯に酢を入れていた(なんと、サンドイッチといなり寿司の詰め合わせ弁当だ)。キムパップ(海苔巻き)は酢飯にしないのが普通のようだが(明洞のある食堂はキムパップに酢を入れるという情報アリ。珍しい例らしい)、いなり寿司は違うらしい。日本に大勢いる韓国料理ライターたちは、そういう料理文化を伝えてくれているだろうか。

タイムラグがあって、内田洋子の『イタリア十二章』を読了。合格点の作品。イタリア語を学び始めた大学生時代の話が興味深い。だが、「次はどの本を買おう」とならないのは、私がイタリアそのものに思い入れがあまりないからだろう。

 次回から、また「続・経年変化』の話を再開し、適宜、小休止をはさむことにする。

 

 

2070話 小休止 1

最近の読書 1

 今連載をしている「続・経年変化」は、どうやら大河連載になりそうで、いつまで続くのか自分でもわからない。連載が続くと、話題が固定されてしまうので、適宜、小休止として別の話題をはさむことにする。今回は、最近読んだ本の話を2回にわたって書く。

 「女が書いた本は読まない」と決意しているわけではないが、読んでいる本のほとんどは男が書いたものだ。恋愛小説やファンタジーとか作者の日々のエッセイを読まないからかもししれない。なにごとにも例外があり、次の三人が書いた本はよく読んでいる。ヤマザキマリ須賀敦子、内田洋子の三人に共通するのは「イタリア」だが、イタリアが大好きだから彼女らの本を読んでいるというわけではなく、またイタリアに行く予定なので資料を探しているというわけでもない。須賀と内田のふたりは、以前この雑語林でタリアの話を書いていた時に参考資料として買ったのがきっかけだが、なんとなく肌に合うので、折に触れ、古本屋で見つけると買って読んでいる。ヤマザキマリは達者な文章に感心しているから読み続けている。以前まとめて読んでいた米原万里と比べてアクは少なく、理屈っぽさはない。

 まずは、ヤマザキマリの『パスタぎらい』(新潮新書、2019)と『貧乏ピッツァ』(新潮新書、2023)の2冊は興味深い記述が満載なのだが、ここではパンの話を書く。日本語のパンはポルトガル語の「パン」が語源で、スペイン語でも綴りは違うが発音は「パン」だ。イタリア語ではpaneパーネだ。

 「『美食国家』と言われるイタリアだが、なぜかこの国のパンはあまりおいしくない」という。私も、そうだなあと思う。スペインのパンもうまかったという記憶がない。ついでに言うと、モロッコのパンでもっともポピュラーな円形のボブズは焼いてから時間がたつと急激にまずくなる。一方、感動的にうまかったのは、ボブズと同じような円形のパンで、ハルシャという。見た感じはイングリッシュマフィンを大きくしたような姿で、原料はデュラム・セモリナ粉。焼きたてのこのパンを食べてみれば、私のいうことがわかるかもしれない。 「ヤマザキ・ダブルソフト」のようなふかふかパンが好きな人は好みではないかもしれないが、イングリッシュマフィン好きなら、たちまちこのパンが好きになるでしょう。

 話をイタリアのパンに戻す。ヤマザキマリはパニーノ(panino)の解説をする。パンを意味するパーネ(pane)に小さいことをさす縮小辞(-ino)がついて、小さいパンをさす。パニーノは単数形で、複数形がパニーニ(panini)。そうか、知らなかった。だから、あとは自分で調べてみる。

 この手のパンに切れ込みを入れて肉なのをはさんんだサンドイッチを、パニーノ・インボッティート(詰めたパニーノ)といい、ただ単にパニーノだけでもサンドイッチもさす。ただし、食パンのサンドイッチはパニーニを使っていないから、それをパニーニとは呼ばない。つまり、パニーノ=サンドイッチではないのだ。

 これがイタリアの事情だが、アメリカで焼き目をつけたものを、なぜか複数形にして「パニーニ」と呼ぶ。ピザと同じように、アメリカ式したイタリア料理が日本に入ってきて、パニーニという名称が特定のサンドイッチをさすことになり定着したようだ。

 ヤマザキの2冊の本に登場する数多くのイタリア料理は、日本で紹介される美しい写真の美しい料理ではなく、家庭のおかずやケーキだ。この新書には写真は1枚も載っていないが、具のないスパゲティや大皿に盛ったテラミスやモンブランの姿は想像できる。

 普段の家庭のイタリア料理は、テレビ番組「小さな村の物語 イタリア」(BS日テレ)で毎週見ている。「普段の食事」とはいえテレビの撮影をしているのだから、やはりちょっとごちそうなのだろう。「イタリア料理=おしゃれ」という女性雑誌の基本姿勢が崩れれば、「イタリアのいつもの食事」が見えてくる。誤った食文化を垂れ流す諸悪の根源は、おしゃれな女性雑誌だ。

 須賀敦子の話は次回に。