毒を喰らわば皿まで。

個人的な思い込みとかを、暇な時に書きます。

二つある

例えば間違えて同じCDを二枚借りてしまった時、TSUTAYAの店員に対して「何故言わなかったんだ」と憤る人と、「二枚借りちゃった、バカだなあ」と反省する人がいる。自分は大まかに言って後者のグループだから前者のグループとは多分仲良くなることは出来ないと思うし、何かのはずみで仲良くなってもいずれ疎遠になってしまうだろうという確信めいたものがある。

この事例自体は別に決定的なものではないのだが、価値観・考え方の違いの出方としては分かりやすい気がする。

いつの間にか

 縦書きのデザインだったのに、縦書きじゃなくなってた。これは憶測だが、縦書きの機能が削除されたのだろう。何かのキッカケで横になっただけで、何とかすれば縦になるのかもしれないが、そのモチベーションもなく、私の気持ちも文章と同じく横になるばかりである。

手からビーム【第一回】

 僕には取り柄が無かった。何をやっても人並みかそれ以下だった。もちろん、自分には何か才能があるはずだと信じて、それなりに自分探しもやってみたが、今にして思えばこの発想も人並みだった。最近では30年近く生きてきて見つからないのだから、おそらくこの先も見つかる可能性は低いだろうと見積もるようになった。それでも何かが得意だとか、これだけは誰にも負けないとか、どんなにくだらないものであろうとそういうものを持っている人が羨ましかった。

 過去形になっているのには、ちょっと込み入った事情がある。今の僕は、まあ「取り柄」と呼んでも差し支えのないものを手に入れてしまったからだ。本来喜ぶべきことなのかもしれないが、僕は戸惑っている。僕が人並みの頭で考えた「取り柄」とは、あまりにかけ離れているからだと思う。

 始まりは突然だった。あの日の夜遅く、いつものようにコンビニでのアルバイトを終えた帰りに、僕は家の近くのブロック塀の上に空のペットボトルが置かれているのを見つけた。僕はこの手のポイ捨てが嫌いだ。道路の脇に転がっているようなものより、むしろこうして「配置」されているほうが心をかき乱される。捨てた人間は無造作に捨てるのではなく、置くことで罪悪感を少しでも減らそうとしているのだろう。その小賢しさが透けて見えるようで、とても不快な気分になるのだ。

 何故僕はあの時、あんな行動に出たのか、何度思い返してもよく分からない。とにかくその時僕は、塀の上に置かれたペットボトルへ手の平を向け、不快な気持ちを吐き出すように力を込めた。一瞬の閃光の後、視界から空のペットボトルは消えていた。混乱してもおかしくない状況ではあったが、その時の僕は何が起こったのか理解出来ていた。何より、実感があった。

 僕の手からビームが出たのだ。              (つづく)

引っ越した。

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 はてなダイアリーからはてなブログにやってきた。Twitterを始めてからは長らくブログとは疎遠だったのだが、どうでもいい長文を書きたい欲が出てきたので時々書こうと思う。

 引っ越すにあたって真っさらで寂しかったというのと、個人的な思い入れで、ダイアリーの中から「小話」タグのついた文章を幾つか持ってきた。今は、こういうどうでもいい文を書き散らかしたい気分なのだ。この縦書のブログテーマも良い。どうでもいい長文を書くにふさわしい環境だ。素晴らしい。

久々に間違える。

 常々自負していることがある。僕はメシの量を間違えない。これはもはや絶対に近い。世の中に絶対などというものは絶対にないわけだが、その中でも限りなく絶対に近いのが、僕がメシの量を間違えないということだ。

 ここでいうメシの量を間違えないというのは、自分が欲しいと思った量と実際に食べられる量の差が小さい(或いは無い)ということである。とはいえ、僕も人間だ。若気の至りで間違えたことはある。それは認めよう。だが、ここまであからさまな過ちを犯したのはこれが初めてである。

 メガマック。奴をナメていた。完全にナゲットとポテトは余計だった。メガマックを完食したあとのナゲットですでに敗色は濃厚。ポテトに至っては惰性だった。生まれてこの方、ここまで惰性でポテトを食したことはない。屈辱である。広告と実物の見た目の違いに騙されてはならない。まるでレーションのごとき高カロリーはデータ通り。奴は間違いなく怪物(モンスター)だ。

 メガマックはおそらく食事ではない。「若さ」或いは「無鉄砲さ」などを周りにアピールするための小道具(アクセサリー)である。完食できなかったとき、人々は自らの「老い」と「分別」に気づくのである。若作りの年寄りが醜いのと同じだ。ファッションとしてのメガマック説。僕はこれを提唱したい。

僕。

一人称が統一されつつある。もちろんあくまでも僕の、個人的な話だ。

以前は「俺」と「僕」を併用していた。割合で言うと7:3くらいで「俺」優勢だった。ところが最近、とっさに出てくる一人称が「僕」だということに気づいた。実はこの日記を毎日書くようになったあたりから、基本的に一人称は「僕」にしようとなんとなく決めて、それを守っている。その影響が実生活にも影響しているのだと思う。

一人称は難しい。なんとなく「僕」というと、お坊ちゃん的な、ナヨっとしたイメージである。対して「俺」は、男らしさをかもし出す一方で、どこか野卑な、粗暴な印象を受ける。こうしてみると、「僕」と「俺」の間にイメージのスキマを感じないだろうか?僕自身、お坊ちゃんではないし、かといって男らしいというわけでもない。正直とっさに「僕」という一人称が出てくるようになったものの、その自分に違和感を感じてさえいる。かといって「俺」と言ったとしても、別の違和感を感じるに違いないのだ。この間を埋める一人称が欲しいところである。

「私」では堅苦しい。我、わし、自分、拙者、我輩、余、朕、麻呂、小生、手前……どれも使えたものではない。新しい一人称を作るのはどうか……実は意外と需要があるように思える。同じように思っている人が大勢居るはずである。

そこで僕はここに新しい一人称を提案する。「僕」と「俺」の間をとって「ぼれ」、もしくは「おく」でどうだろう。「ぼれ」はともかく、「おく」なら漢字も奥、億、臆、憶、屋とある。好きなのを使えばいい。

言語は生き物だ。定着すればそれが辞書に載り、やがて常識になる。「ぼれ」、「おく」が隙間を埋める一人称として認められるかどうかは君たちにかかっているのだ。

僕は使わない。

憧憬としてのスピード感

 生まれてこの方、スピード感というものに縁が無い。どちらかというと愚鈍な方だ。せめて死ぬまでに一度くらいは「スピード感があるね」とか「疾走感に溢れているね」とか「闇を駆け抜ける黒豹みたいだね」とか言われてみたい。転がるように生きたい。生き急ぎたい。

 普段の生活からスピード感を出していくにはどうすれば良いだろう。移動は基本小走りだろうか。軽妙なロックチューンを聴き続ければいいだろうか。カップヌードルは湯を入れて待たずに食うべきだろうか。チキンラーメンは袋からそのままいってしまおうか。

 スピード「感」とか疾走「感」ということは、実際にスピードが出ていなくても多分大丈夫だと思う。そう見えれば良いワケだ。その方向で考えていくと、結局は全身で風を受けているイメージ。これが重要に思える。

 とりあえず今日からは、風の吹いてくる方に向かって歩を進めよう。目的地へたどり着けるかは風次第だ。風次第……なんかカッコイイ。ちょっとスピード感が出てきた気がしないでもない。