Seiho / Collapse
Collapse [ライナーノーツ封入・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC509)
- アーティスト: Seiho,セイホー
- 出版社/メーカー: BEAT RECORDS / LEAVING RECORDS
- 発売日: 2016/05/18
- メディア: CD
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既に4,000円ほどタワレコで買い物したあとに、このSeihoの新譜の試聴機を見つけてしまい、黄色い袋を片手に持ちつつ、Apple Musicに追加するかどうかを検討するためぐらいの気持ちでヘッドホンを装着してしまったが後、そのめくるめく「音の存在感」に一瞬で心を奪われ、実は6,000円以上でタワレコポイントが10倍キャンペーンであったことにも気づき、恐る恐るこのワインレッドのCDをレジに持って行きながら、「さっきのとこれで合わせて6,000円越えるんですが、ポイント合算してアレとかそういうのは…できない、ですよね、ですよねえ~大丈夫です~」と言いながら購入するほどの魔力、そいつを、この音楽は持ち合わせていた。
Apple Music。これは大変におそろしいもので、こいつが始まってから僕の音楽生活は一変した。いや、本質的には何も変わってないのかもしれない。物理的なCDを購入するという衣食住の一つのようだった生態系の循環に大きな変化が生じた。しかしそれによって遺伝子の構造が変わったわけではない。
無形か有形か。CDマスタリング(&専用プレーヤー)の音質、音圧を求めるか。その選択の分水嶺は未だに自分の中ではっきり定まっているわけではない。頭のなかにある欲望のスイッチはまだ砂の中に埋もれていて、素晴らしい音楽に出会うたびにその砂を掻き分けてより鮮明にスイッチを見定めようとしている最中。
そんな中で、このSeihoの新譜は、砂をかき分ける必要のないほどの「音の存在感」、或いはクリアな切実さ、モノのような重みと、砂の間をすり抜けるような飄々とした優雅さと大胆さで、手にすることの意味を、言葉無くして表明していた。
しかし、Seihoはおそらく別に、音がモノとしてメジャーに流通することを目的として活動してきたわけではあるまい。なんてったってインターネット生まれだ。いや、ポスト・インターネットと言いたいのは周りだけなのも知っている。それでも、音なるものの無形さに自覚的でないはずがないし、だからこそ有形化することの歪みと意味、その差に生まれる「アートなるもの」を肌感覚で知り、それは例えばジャケットの生け花のように触手的に「思索」しているだろう。
研ぎ澄まされ美しく掴みやすい音色が「花」ならば、それでも全体を掴もうとさせてくれないしなやかで詮索的な配置や所作が「生け花」というコンセプト、表現形態として、ここに微かに堂々と表徴されている。
あらゆる電子音楽の歴史の並列的な感覚。それはポスト(モダン)インターネットな人達にとっては言葉・国境を越えて共通する前提イメージであると思うんだけど、そこにどういったプリミティブさ、愛らしさ、郷愁を忍ばせるかという美的バランス感は、まるで電子音楽的なクラシカルな(マシニックな)価値観とは正反対をいくかのように大変私的で、ベッドルームどころか情緒、ナイーブさ、拡散しつつ収束する自我の運動まで、そのまま音の配置や分断された旋律という「所作」へ反映していく。それはこのSeihoのアルバムも例外ではないどころか、その内面運動を自らメタ視点で楽しみ、戯れる様子がとても生々しく、記録されている、ように聴こえる。
そして、リスナーがその戯れのプールを泳いでいる時にもまた、自由を覚える。それは共鳴なのか、研ぎ澄まされた音の水のような滑らかさから来るのか、いやいやこれこそがアートの本質だったのか。
Seihoは、タワレコポイントにも既存の生態系にも、新時代/旧来の電子音楽にも、どこにも還元できない新たな存在の証明を、僕の生活の中に一刺ししてくれている。その存在のこの生き物のような重さは一体何なのか。CDだからというわけではない。あまりにも優雅過ぎて、逆にそこに肉体美を見出すような重さ。水の中ではじめて、水より重い自分の身体を認知していくような、心地よい造形。
しかし造形美ともまた違う。それは常に目の前で"Collapse"していると言うのだから。
これをApple Musicで聴くのもいいと思う。そのほうがらしいのかもしれない。でも僕は目の前で崩れ落ちていくナイーブな重みを、支える器が欲しかったみたい。インターネットに住まうひとりの人間、として。
Christian Fennesz・Werner Dafeldecker・Martin Brandlmayr / Till the Old World's Blown Up and a New One Is Created
Till the Old World's Blown Up and a New One Is Created
- アーティスト: Fennesz/Dafeldecker/Brandlmayr
- 出版社/メーカー: MOSZ
- 発売日: 2008/11/04
- メディア: MP3 ダウンロード
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大好きなCDを、このブログに貼り付けたかった。
もっと言うと、大好きなこのジャケットを。一枚の透けた紙を4つ折りすることでタイトルがこのように重なり、かつ紙の厚さによって単語が部分的に薄く、ぼけて見える、この繊細で、粋で、そして音楽の態度をまさしく表現したこの感動的なジャケットを、ここに貼り付けたかった。
Martin Brandlmayr と Werner Dafeldecker とChristian Fennesz。この界隈を好きな人にとっては、ごちそうさまですとしか言えないような人々による、じっくり熟成された「即興と解体と構築」。似たような名前の本を書いた批評家も居たような気がするけど、その批評家がこしらえたレーベルが、「音響系」を進んで世に売り出すことをしなくなってきたのも、この盤を出した頃からだったような記憶がある。
そういう時期的なものも相まって、この決定的な盤とジャケットは、90年代後半からゼロ年代に駆け巡った「音響」の試みとムーブメントに終止符を打つかのように、もしくは、音響系という「霧のトンネル(空洞)」から我々を抜けださせ、振り向いて目にする出口の光景のように、強く印象的に、僕の心の中で浮かび続けているのだ。きわめつけのこのタイトル付きで。
アルバムは2枚組で、disc2の3人それぞれによる小さなソロ楽曲がマテリアルとして存在し、それはどれも滋味があり心地よく「音楽」として聞けるのだが、それらを分解して再構築して、溶け合わせてなだらかにして、34分の1曲にしたdisc1は、すっかり固有の味を抜かれ、漂白され、掴もうとしては逃げてゆくような、静寂なる「音響」と化してしまった。
そこにあるのは、余白であり、一つ一つの素材の響き。ドラムやベース、ギターやビブラフォン、そして淡い電子音の、それらが「立ち上がってくる瞬間」と「消えていく瞬間」、そして「音が出ようとするまでの(瞬)間」を、交互に聴取させるその思想。それは、無音という音楽への望郷とも、新たな「most beautiful sound next to silence」の提示とも、はたまた電子音響やポスト・ロックという儚き音楽たちの有終の美とも、とれてしまうような、全てをやり尽くしながら、全てに等しく愛と計算を与える、一つの時代への回答。
このCDのリリースから5年経って、やっと改めて振り返ることができて、こうした音楽たちの存在した場が、生み出されてきた数々の響きが、やっぱり単なる空洞だったのでは、ということを思い知らされてしまうような、再確認と悲哀。
だけど、こうして空洞の中で耳を澄まして響きと同調し、自らも解体され場に溶け出し余白化ていくような体験は、決して儚いだけではない、いや、儚いと知ることこそ、最も輝かしい音楽体験だと思うことは、逆説的か、本質的か、どうか?
古い世界の爆破と生成は34分で成されても、爆破されていたことの認知は5年もかかった。この諦念みたいなものを基本ベースとして生きることが、次の新しい世界につながると信じて、いいんだよね。この音楽は希望、だよね?
(ただ好きなジャケットを貼りたかっただけなのに、音楽を聴くことは儚く哀しい希望である、と言いだすハメになった)
2013年のよく覚えてるCD達(と、遠くへ行ってしまったCD達)
2014年にこんばんは。
毎年すっかりタイミングを逃して、やりたいと思いつつ出来ずにいた、「その年のベストアルバム」的なもの。2011年以降すっかりブログ活動も停滞し、CD購入活動さえも落ち着いてしまっていた昨今、並み居る音楽リスナーの方々にとっては何も目新しくないラインナップ程度しか聴きこめていないという事実を、意識の外に払いのけてまでも、総括しなければならない、という情熱は、もはや失われていた。否、怖気づいていた。
でも、かといって2013年を振り返るのに適した対象・媒介が他にあるかと言うと、それも見当たらず、単純に日記的に振り返ることが出来るほど愉快な年月を過ごしてもいないので、結局手近なところで音楽を振り返ることになった。そもそもここ、音楽ブログとして心機一転はじめようとして、結果やっぱりほとんど何も始まってない不作地帯だった。否、耕してすらいなかった。
今年は少しでも始めよう。ほんのちょっとでも聴いた音楽のことを書こう。そんな「今年は飲み物のちょい残しはやめよう」と同じくらいの固い決意表明の一環として、以下、書き出したりしてみました。
あくまで自分の聴けた範囲の中で、印象に残ったものの羅列になります。10枚に絞るとか器用なことも出来ず、ランク付けで頭を悩ますストレスにも耐えられなかったので、順番は発売日順です。
Mowgli(ボーナス・トラック4曲収録 / 解説・歌詞・対訳付き)
- アーティスト: Mister Lies
- 出版社/メーカー: Plancha
- 発売日: 2013/02/06
- メディア: CD
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ベースミュージック以降なるもののリズム感は瑞々しく、粒とスタイリッシュさを意識した音の構築、冷んやりと内省的なメロディは、心あたたまる満足感を余韻に残してくれる。WARP好きの人にもハマるはず。僕はツボ。
すさまじい圧迫感。暴風と共に生きて蠢く分厚いビート。脳みそがすり潰される快感に陶酔。
一発ライブ録音で圧縮・解放されるやくしまるさんの天真爛漫な私的終末空間。贅沢で理想的なベッドルーム・バンドサウンド。今年は相対性理論よりもこっち。
ポスト残響ロックという趣。 何も無い誰もいない部屋の中に居て、別の何処かから靄がかかって響いてくるドラムと持続音のみが、かろうじてここに空気があることを教えてくれる。
ダンス&アーバンソウルのパラレルワールド。電子音楽の響く街で、人の内側の反転世界で燻され続けていたもう一つの音楽の形が、ヘルメットの奥の目に見透かされる。
- アーティスト: Juan Atkins and Moritz von Oswald
- 出版社/メーカー: Tresor
- 発売日: 2013/06/28
- メディア: CD
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デトロイト・テクノとベーシック・チャンネルの融和。溶け合った末の微睡み。自分の心臓のbpmに最も一致している音楽はこれだと言い張る。
Flourish / / Perish (ボーナス・トラック収録/解説・歌詞・対訳付き/正方形紙ジャケット仕様)
- アーティスト: Braids
- 出版社/メーカー: Plancha
- 発売日: 2013/08/20
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深淵を感じさせる女性ボーカルと、その周りを力強く上品に飛び回る冷たくもマジカルな電子音には、驚きと共に胸躍るポップセンスが。
ねっとりと、お互いの温度を弄り合うような、ピアノとドローンと雑音のフィジカルな会話。教授の仕事の中でもとても即興的、なのにデザイナブル。
優しくもたれ合うピアノとギターと電子音。一つ一つの音色が温かく、きめ細かく、完全なコントロールで調和されているのに、堅苦しいどころか、爽やかな深呼吸ができる。日本だからこその感性にあふれた愛しい一枚。
世界を視野に入れたEDMへの挑戦と、言葉だけが形骸化した真のクールジャパンへの意志。人を驚かすことと踊らすことはアートとしてもエンターテイメントとしても両立することの証明。本当の「未来志向」の一つの収束点。
ATAK019 Soundtrack for Children who won't die, Shusaku Arakawa
- アーティスト: Keiichiro Shibuya
- 出版社/メーカー: ATAK
- 発売日: 2013/10/30
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緊張とレクイエム。反復と忘却。映画のサントラでありながら、ピアノとノイズの立体的な交錯の隙間から溢れ出る、明晰なのに形のない新しいフィールド。その超越した没頭体験は、霊的でさえある。きっとそこには私的な祈りまでも込められて。
Christophe Charles - hcdc
http://murmurrec.cart.fc2.com/ca105/903/
インダストリアル・ドローンとでもいうのか、機械の中にいるのか、それとも宇宙?聴く者の周囲の空気を重低音に変換し、漂う粒子を視覚化することが、音楽には出来るらしい。物理的に魂まで響いた。驚異的な1曲42分。
*それと、タワーレコード横浜モアーズ店の閉店
ごくごく個人的に、これが音楽環境の変化に多大な影響を及ぼした。
横浜在住の身として、CDに囲まれる場、新譜を手に取って試聴できる貴重な場であったのに、これが絶たれてからと同時に、すっかり新譜キャッチのアンテナ感度が鈍ってしまった。休日や帰宅途中にCD屋に寄れないというのは、購入機会が減少するだけでなく、新しい音楽と接するチャンス、情報、意欲にまで影響し、「常に新しい音楽が次から次へと生まれている、その"現場"が見えなくなること」の恐ろしさを、身をもって今、体感している。まるで現場など無いかのように、「好きな音楽」が更新されず停滞する危機感を感じている。
もちろん横浜店、品揃え的には渋谷・新宿店にはかなわず、ましてや音響系などちょっと名の知れたほんの一部しか置かれなかったのだが、それはそれで「飢餓感」を常に与えてくれていた。
気軽にCDを買えて、音楽と共に生活し、音楽から世界の一歩先を感じ取る、そのためにはやはり身体的な行動と現場環境が不可欠なのだった、自分にとっては。今や飢餓感さえも忘れてしまったことは、ある意味良い事と言えるのかもしれない。でも、アンテナが鈍り、未来へのカンを失うことは、悲しいことだと、心の底から声がする。音楽は心に作用し、自分が向かいたい未来の空気を先に纏わせてくれる。
なら、ネット通販にアンテナを最適化すればいいだけの話じゃないか。その通りなんだ、その交換が上手く行ってない、過渡期にあるだけの心情に過ぎない。しかし一体世の音楽好きの人々は、次々とレコード屋が消えていく今、この危機感、音楽の現場体感を、どうやって乗り越え、獲得しているのだろう。渋谷に引っ越せばいいのか。YouTubeやsoundcloudで発掘するためのアンテナを養えばいいのか。ライブ現場に足繁く通うことで代替昇華しているのか。なんだか、不安なんだ、CD屋に行く機会が一気に減っただけで、漠然と。もしこのままゆっくりと、音楽から離れていってしまったら、このブログ、マジいみねーなー・・・
・・・という想いを綴るのが、2013年の音楽のアレコレについて語るのに欠かせないな、と思った次第でした。
ちなみに、これを書きながら聴いていたのは、最後まで入れるのを迷ったATAK020でした。でもこれ、もう2014年の音楽にしよう。未来纏いすぎてる。
DAFT PUNK / RANDOM ACCESS MEMORIES
- アーティスト: Daft Punk
- 出版社/メーカー: Sony
- 発売日: 2013/05/21
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サンプリングされた思い出。
拾ってきたのは、当時の香り。
僕は残念ながら70年台~80年台の音楽に詳しくない(別に他の年代に詳しいわけでもないけど)。知識として知らないのもあるし、体感として分からないというのもある。生まれていなかったし、生まれても物心ついていたとは言えない。
知らないし、感じたことがない、はずなのに、それならばこの既視的な、暖かみの感情はなんだろう。このサウンドの懐かしさ。しかも、封を開けて一聴したときの、危うさみたいなもの。これはもしかしたら「ダサい」音楽なのではないかという危機感。
ディスコサウンド。AOR。レアグルーヴ、フリーソウル。きっと間接的に、断片的に、どこかで耳にしていたのだろう、僕が大きくなると共にメインストリームから消えていった音楽スタイルの、眩い夜の光とお酒の、その残響を。テレビとかで見聞きしたのかもしれないし、あらゆるアーティストの作品の中に、隠し味として散りばめられた、その香りを。生まれる前の音楽に触れるというのは、宝探しのようだ。その音が生まれた背景も、土壌も、その音楽が植え付けられた大人たちの若い頃の姿も、全てが想像の霧の中でありながら、しかし確実にその音楽自体は、妖艶に輝いている。歴史という迷路の中にあって、文脈の理解は困難で複雑だけど、確かにそれは美しく、またその美しさの裏に潜むものがすぐには見えないからこそ、さらにミステリアスに捉えてしまう。
なぜこの音楽は、こんな温かな気持ちで身体を揺らすことが出来て、そしてなぜ、現代にはそんな音楽が生まれ得ないのか?
ダフト・パンクは、やりたいことをやった、というよりも、ものすごい使命感に燃えて作品作りに取り組んだのではないかと、思ってしまう。今、あの古き良き音楽へのアクセスを促す、ハブとなる役割は、自分たちにしか担えないという確信と共に、古株から新世代まで、「ダンス・ミュージック・ミュージシャン」達が一堂に会して、全曲オリジナル曲ながら、当時の香りと思い出を、違和感なく再現し、総括し、その喜びと温かさのパッケージを、僕ら若い世代にプレゼンテーションする。何もミステリアスなことはない、踊れ、アクセスしろ!
『Random Access Memories』というタイトルが100点満点なのも、ダフト・パンクが"手当たり次第"にアクセスしたとも、我々に"いつでも・どこからでも"アクセスさせるディスクを用意したとも見え、それが記憶とも、思い出とも読み替えられる、そんなコンピュータ用語のもじりで、しかもダフト・パンクの代名詞であるロボットの顔の横にフリーハンドで走り書きされるという、様々な対立性を象徴させながら、その実わかりやすくエモーショナルに訴えかける演出に成功しているところ。本当にオシャレ、だ!
正直いままで、本気でダフト・パンクにハマったことはなかったのだけど、今回のアルバムで初めて、このロボット達がやろうとしてたことが分かった気がする。これを聴いてから、改めて過去3枚のアルバムを聴くと、まったく新たな視界が広げてくる。それは、ダフト・パンクがずっと裏でアクセスし続けていた記憶の景色、香りが、やっと僕たちにもインストールされたからだ。
そんな風にして、過去の宝物を贅沢に絞り出して、全面に押し広げた作品なのに、ドロドロせず、どこかスッキリした、哀愁のような喪失感も、やっぱりいつも通りだけど、いつもより強い。
まるで自らを「ダンス・ミュージックの抜け殻」のように見せること、相変わらず「中の人」を感じさせず、イメージを空洞化させることで、過去と未来をつなぐワームホールのようなアイコンに仕立て上げる。のみならず、抜け殻化したロボットがこんな音楽を思い出すことで、逆に現在のダンス・ミュージック(EDM?)への挑発的な問いかけにも見える。
様々な挑戦と意欲と狙いが織り込み済みの、オシャレに整えられたこの使命感に燃えたアルバムを、僕は長く愛聴するのです。そして勉強します。顔真正面ジャケは自信の表れ、名盤の自己申告。「ダンス・ミュージックを教えてやろうか?」というそのマスクの下からの視線を感じて。「薄っぺらい」「ダサい」は、ダフト・パンクではなく、俺に言え!
KRAFTWERK / AUTOBAHN
- アーティスト: Kraftwerk
- 出版社/メーカー: Mute
- 発売日: 2009/08/20
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やっぱり仕切りなおしはコレから、かしら。
1曲目の「アウトバーン」は、22分もある。「ふぁんふぁんふぁーん あうとばーん」って言いながら、クラフトワークの4人が無表情で楽しそうに速度制限無しの道路を優雅にちんたら走る。無表情、なのに、楽しそう!
無表情なのにふざけてる。冷たいフェイスの下でケラケラ笑ってる。クラフトワークを見るといつもそんなイメージがよぎる。他に同じ印象を強く抱かせるのは、ドイツからチリに移住したATOM TMのおっちゃんとかだ。そう、どちらもドイツ人。そして最近ATOMさんがraster-notonから出した新作は、とてもクラフトワークっぽかった。革新性と保守性を両手に持ち、見事なバランスで軸を真っ直ぐ中心に捉えながら曲芸をやり遂げる人たち。その様はもはや年季の入った大道芸。その両極端なクリエイティビティの支点で媒するのは、実のところユーモアである、としか思えない。
1974年に、こんなに可愛らしくて、こんなに実験性豊かで、ミニマルなのに口ずさむ、ある意味カンペキな音楽が、なんてことないかのように気楽な風情で生まれていたというのが、泣ける。泣けるほど感動的な事実とサウンドだと思っている。
そこにある電子音の質感も、選ばれた音色への気遣いも、サンプリングのアクセントも、22分の中での抑揚の付け方も、どれもちゃんとしていて無駄がないのに、力んでない。ゆるやかに伸び縮みをくり返す宇宙のヒモ(strings)のようなしなやかな音響が折り重なる。当時の物理的な限界や電子音楽という事例から掬い上げられるバリエーションの量から考えても、奇跡的な選択と研磨の上に出来上がってしまった音響であり、それでいてどこか即興的室内楽でもあるように感じてしまう。
テクノのルーツでもいいし、ジャーマンプログレの一派でもいい、現代音楽でもあるし、サウンドアートの走りかもしれない。なんでもいいけど、とにかく愛おしくて、何回も聴きたくなる、揺れたくなる、外に持って行きたくなる。時代性というメインストリートを横目に延々とマイペースにぶっちぎり続けるアウトバーン野郎たち。
全季節、全天候、全時間対応できるような音楽こそ、僕にとって本当の名曲だと思っている。しかしこういう音楽があることを思うと、そこに更に「全時代」を付け加えたくなる。けど、それに対応しているかどうかは、30年くらい経たないと分からないっぽい。