いるのにいない日曜日/三好銀

いるのにいない日曜日 (BEAM COMIX)「この世の中に、ふたりぼっち」

偶然入った本屋で「いるのにいない日曜日」をみつけた。なんだか「マチブセ」されていたみたいだなあと。不思議な気持ちになる。時間の軸がぐにゃっと歪んだみたいな。へんな気持ちにつかまった。


「三好さんとこの日曜日」をはじめて読んだのは、もうどれくらい前になるんだろう。10年?うううん、10年は優に超え、もっとずっと昔のことなんだということを、あとがきを読んで気がついた。あれから、随分時間が経っていたんだってってこと。


「この世の中に、ふたりぼっち」


二人の日曜日の物語を読むたびに、わたしはそんな気持ちに捕まる。閉じている訳でもない。窮屈な訳でもない。のに。しあわせな、ふたりぼっち。どうしようもない、ふたりぼっちのしあわせな憂鬱に、捕まってしまう。本を開く前は、そんな二人が変わってしまっているのじゃなかろうかと、少し怖かった。本を開いて、少しも変わっていない様に嬉しくなって。あとがきを読んで、あの頃描かれて「三好さんとこの日曜日」に載りきらなかった分なのだと知って、あああっつと納得をして。結局苦笑いだったんだけど。


だけど、だけど


あの頃の続きだって構わない。真空パックされていただけのことだって構わない。この世の中のどこかに、しあわせなふたりぼっちが生き残っていたんだから。それは、わたしにとって、うれしいこと。しあわせなこと。すべてが生き絶えたとしても、生き残るものがあるってこと。そんな証のようなもの。どこかできっと生き残っているはずの、そんな贅沢な憂鬱があるってこと。そしてそれは、なくなったりしないんだってこと。どこかできっと「マチブセ」みたいに、わたしをひっそり待っているかもしれないってこと。それを信じてみたくなった夜だってこと。

ねことごろ寝マットで暖をとりながら、持ち帰った仕事を少しと、漫画に溺れる一日。

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天気予報のとうり、午後からは冷たい雨が降り始め、だんだん激しさを増していった一日。家にこもって、ねことごろ寝マットで暖をとりながら、持ち帰った仕事を少しと、漫画に溺れる一日。屋根をたたく雨の音が心地よい眠りを誘って、不思議な夢をたくさんみた。


意外にご近所さんな妹から「いい感じ。あんなのあったら通いたい」と、教えてもらった「深夜食堂http://www.meshiya.tv/)」。水曜の夜にひっそりやってる、このドラマの原作を読む。あんまり美味しくなさそうなんだけど、なんだかとっても食べてみたくなる食べ物と、時々流れる「あがた森男」の音楽と、なんともいえない余韻がいい。とおもったら、わたしの大好きな「山下敦弘」監督が関わっていた。うんうんと、納得しながら。漫画を読む。ドラマの場面と重なって、漫画の中の登場人物がゆらりと動き出す。漫画と映像。二つでひとつ。漫画だけでもドラマだけでも物足りないかもしれないとおもいながら読む。ソース焼きそばのあたりでぐぅっーとお腹が鳴った。

ずっと買いそびれていた、「バカ姉弟」の五巻を読む。土曜日の昼間にアニメ化されたのだけど、この独特な空気が土曜の昼間のお茶の間に相応しいのだろうか?と、半信半疑になりながら読む。きっと、毒や謎や暗闇は何処かに隠して、ほのぼのとあったかい感じにするのだろうな。

きっと、二人で充足しているから、世界を必要としないんだな……まだ。


五巻は、急な展開で少し戸惑ってしまう。もう少し留まっていたかった世界から、突然巣立ってしまったご姉弟。さみしさは拭えず、本棚から引っ張りだして、一巻に戻って読み返す。ご姉弟の、気高い獣のような姿に改めて惚れ惚れ。誰にも懐かずに、それでも愛でられ、日々成長していく姿が、やっぱり嬉しい。

悪人/吉田修一

悪人(上) (朝日文庫) 悪人(下) (朝日文庫) さよなら渓谷

吉田修一の「悪人」を読む。「さよなら渓谷」を読んだ頃から、ぐんと気になる作家になったこの人。そして、昔から「犯罪」というモノの裏側にあるモノを知りたいという興味が尽きないわたしである。「ある一線」という境界線を越えてしまう人と超えずにいる人の間の、相違点や類似点はどこにあるのだろうという探究心が尽きないわたしでもある。たとえそれが、あくまでもその作家が作り出したひとつの仮説にすぎないとしてもー。



「悪人」は、この11月という季節に似合う話だったかもしれない。どんよりとした、はっきりしない天気が続く。うすら寒いなあと感じる。全うな冬に入っていく手前の、定まらない季節。ぐずぐずとした空模様をなぞるように、わたしの目覚めもなんとなくぐずぐずとなる。夕べ確かにあった、わだかまりや疲れが、まだぐずぐずと同居していたりする。そんな時、読み終わったばかりの「悪人」が、わたしにべとっと張り付いてくる。


「祐一」をおもう。彼は、賢い人だとおもう。賢くならざるをえなかった人だと。その彼の、役割として担った賢さをおもう時。わたしはひたすら切なくなる。生まれもっての「役割」を、ひっそりと引き受ける彼は、人間としてとても賢くあるのだけれど、その賢さは、決して彼を幸せにはしてくれないのだなあと。賢いはずの彼が、賢さを忘れて、無邪気に愚かに「欲しい」「手に入れたい」とおもった人は、行方も告げずに逃げていく。そのときの彼をおもう。そしてやっぱり、わたしはひたすら切なくなる。


読み終わって、動かしがたい結末に辿り着き、やはりぐずぐずと気持ちは晴れない。無邪気に愚かに「欲しい」「手に入れたい」とおもったであろう「光代」は、それが叶わなくなってしまった今、生きていることに実感があるのだろうか。それでも生きていくことに、何かを見つけられるのだろうか。彼女も賢さを身につけて、ひっそりと生き延びていくのだろうか。曇った気持ちを抱えたまま、どうすれば、この物語の結末が晴れ渡るのか、見当もつかない。


「祐一」と出会えた「光代」と、「祐一」と出会わなかった「光代」。わたしだったら、どちらの「光代」で、ありたいのだろうか。と、そんなことをずっと考えている。

あなたの空には星が見えますか?

  

はてなさんから、あなたの日記に星が付きましたよ。とメールが来るのだけれど、みえない。目を凝らしても、やっぱりみえない。わたしのパソコンからは、星が見えないのだけれど。星はどこかでひっそり輝いているのだろうか。だとしたら、星をくれた人たちに、ありがとう。

自分が引き受けて、その人に代わって矢面に立つということ。

  
謝ることの難しさを思う。


謝るという行為にスムーズに辿り着けないとき、それはやっぱり「自分かわいさ」なのかな?と思う。その「自分かわいさ」なのかな?ということに思い当たったのも、実はついさっき。たった今のことなのだから。わたしってやつは、なかなかに頑な人間なんだと思う。

お願いした仕事を受けてくれたヘルパーがいるということ。
それを「ついうっかり」行かなかったということ。


それを知ったとき、わたしはまずわたしの怒りやがっかりや残念が先行してしまっていた。そのヘルパーを責める気持ちでいっぱいだったのだ。

夜中になって、まだ夜のご飯も食べてないと家族に助けを求めた利用者さんがいたということ。
急いで駆けつけてご飯を出しながら、やるかたない気持ちになっていた家族がいるということ。


まずはそのことに、会社の人間として、そのヘルパーの上司として、心から「申し訳ない」と頭を下げるべきだったのだな。そのヘルパーに仕事を任せているのは、わたしだから。謝るということは、決して万能ではないけれど。謝ってもらったということでしか、納められない気持ちもあるのだから。


ひとりのヘルパーが起こしたミスを、心から自分の責任と感じること。自分が引き受けて、その人に代わって矢面に立つということ。難しい。難しいけれど、きっと今のわたしの立場なら引き受けていかなければならないことなんだな。


できるのかな。果たして、わたしにできることなんだろうか。これからのわたしは「引き受ける」ことを身につけていけるのか。明日には明後日にはその先の毎日には、ちゃんとできてる自分になれるのか。と、他人事のように思ってしまうんだけど。

他人事のように思うだけじゃなくって。ちゃんと眠って明日になったら、ちゃんとやろう。やらなくっちゃ。って、自分に言い聞かせないと、いつまでたってもできないわたしの情けなさを、今夜は笑って許してやってください。嗚呼!

相変わらず、田辺さんの書く女はかわいい。

ほどらいの恋―お聖さんの短篇 (角川文庫) 「ほどらいの恋〜お聖さんの短編」田辺聖子著を読む。 「ジョゼと虎と魚たち」の原作を読んで以来、田辺さんの紡ぐ大阪弁の愛らしさと、食べ物の描写の達者さと、どこか憎めない男とその男を甘やかす女の書き方があったかくて、ファンになった。時々文庫本を購入して眠る前にページを捲る。


相変わらず、田辺さんの書く女はかわいい。


かわいいなあ。と、思うのだけど、こんな女をかわいいと思ってくれる男はどれぐらいいるのかしらん?と考えて暗澹たる気持ちになったりもするけど。同時にまあいいやとも、思ったりする。わからない男はそれまでで。こんな女をかわいいと思ってくれる男がいたら、そうしたら、仲良くなれば、それでいいじゃんと。そんなことを思ったりする。

 やさしい訴え (文春文庫) 「やさしい訴え」小川洋子著を読む。いかにも小川洋子が書いた小川洋子らしい物語を堪能した時間だった。あまりにも彼女の描く彼女の世界だった。美意識と言えば良いのか自意識と言えば良いのか、が、密生しているような一冊で。その、閉じたような、むんとした湿度の高さに軽い吐き気のようなモノを覚えながら。それでも、しばし、その世界に耽溺する。


少し的外れな感想になってしまうかもしれないけれど。「嫉妬」といモノは、いつだって小さくって愚かしくって、やっかいで。だけどだけど、どうにもならねえんだなあ。と、相田みつをのような一言で、感想を締めくくる。だってねえ、にんげんだもの。おとこだもの。おんなだもの。おとことおんなだもの。いきているのだもの。

三面記事小説 「三面記事小説」角田光代著を読む。実際に起きた事件の新聞記事から発想したいくつかの物語。角田光代という人は、同年代特有の引力を持っているなあといつも思う。ダメな人。ダメな女。ダメな男。を書かせたら生き生きするのだなあと思う。そして、そんな彼女の小説を読む度に、自分の中にオリのように溜まっていく、浄化しがたい何か、人には知られたくない何か、そんなコトドモをこれほどまでに明白の元に晒すということをしなくては、小説というものは書けないのかなあと、半ば、敗北感に近い気持ちで読んでいたりする。ええカッコしいの私には絶対にできないやと。


角田光代という人の小説を好きなのか、好きでないのかを考えると、いつも少しややこしい問題になる。だから、なるたけ考えないようにしているけれど「同年代」という括りをはずしても、やっぱり彼女の文章には独特の引力があるなあと、いつも思う。その引力に捕まりたくって、私は時々彼女の小説を読みたくなる。そして読む。



「永遠の花園」が、なんと言っても真骨頂という感じだった。ある年代特有の、女の子同士の間にある、濃密な空気がそこにあった。何にもなれないような。どこにも行けないような。あの頃の息苦しさが真空パックされたみたいに、そこにあった。もう随分昔にそこから抜け出したはずの私だったのに、簡単に捕まって、簡単にまた息苦しくなってた。