全ては表現活動

生きているだけで表現している。

表現から逃れられない。

自分の生を表現している。

 

糸紡ぎも絵を描くことも楽器を弾くことも、そんないわゆる表現、みたいなことじゃなく、全ては自分を生をやってみたい形、自然と発生してしまう形で表現してる。

 

人の悪口も、親切も、喜怒哀楽、普段の感情の起伏全てが表現。瞬間瞬間現れる感情、思い、考え、全ては自分というものから生まれてきたもの、表に出てきたもの。呼吸も病気すら生や命が表現されている。

 

だから絵を書いたりというのは二次的な活動なのだね。

 

そんなことを考えるのは、私がそう思えて来なかったから。最近はそんなこともなくなってきたけどそういうことで苦しい思いをした時期もあったな。

思う必要さえなく、私は生まれてからずっと瞬間瞬間私を表現してたじゃないか、ちょっと変な人が集まった家に生まれて苦労したこともあったけどそれすら色んな感情が生みだされた命の表現活動だった。

 

と、今朝の思いつきでした。

 

なんだかどこからかバカボンのパパの声が聞こえてきたのだった。

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なるべく細くと思うけどなかなか太めの並太から先へは辿り着けない。

ロムニーのグレーの糸を紡いで撚り止め中。

朝の雨

3月25日書いていたこと。

 

 

春が来て、まだ寒いけど春だと思う。

 

春が来て、このところ雨が多い。

母は天気に関することを時々言うので好きなのだけど「春に3日の晴れなし。」も好きな言葉だ。ブログにも何回も書いてるかも。

 

冬の間は雨の記憶が少なくて早朝の雨を眺めながら、電線につく水滴を見てきれいだな、って思う。空気のきれいさも静けさもあいまって。

 

空気が(気圧の?)高いところから低いところに流れて風、なんか理由はわからないけど雷、水蒸気で雲、重たくなって空から落ちてきて雨とか雪。重力で水溜りができて海(適当)。

 

神様が羊の毛を伸びるようにしてくれたから毛糸の服が着られる。糸紡ぎをしながらやっぱ神様いるわうまくできすぎてるわと。(これはどうやら改良の末そうなったらしい…)

道具や方法は考えられても材料を生み出すことは人にはできない。

全ては拝借しなければ私たちは裸ん坊で飢えて死んでしまう。

 

最近早朝に外を見ながら羊毛を紡ぐのが日課です。

 

 

宇宙の片隅で真ん中

更年期からか自律神経からか睡眠はあんまりよくない。

最近は眠たくなったら寝ちゃうので何時に寝たか覚えてない時もある。いいか良くないかは置いといて。

 

3時くらいに起きちゃう時も多い。

けど布団にいてせめて4時台までは布団にいるようにしている。猫の寝かしつけに応じたり(布団で掛け布団越しに私に乗りたい時)。

それから毛糸を紡ぐのがここのところの日課

まだみんな寝てそうな、一部の人は起きているだろう空気感がある時間。

この時間に紡いでいると色々思う。そしてその思いつきは結構お気に入りになったり。

 

こんな宇宙の片隅でひとり糸を紡いでるなんてと思いつつ、「ここは宇宙の片隅で真ん中で。」なんて思う。

私からみたら真ん中。ビッグバンもどっちに広がってるかわからないから片隅かどうかはわからない。私視点だと真ん中、宇宙視点だと宇宙のどこかの点。

 

いや。宇宙そのもの。宇宙を構成してるもののひとつ。いや、細胞の集合体。いや、細胞をさらに構成している原子とか。素粒子とか。粒の塊。

私ですらない。私なんて私が決めただけ。ただの意識。意識すら生き物かどうか定かでない。瞬間瞬間の点滅する光のような、そんな気もしてくる。

 

なんてな。

 

早い朝は静か。

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からっぽの方が。

からっぽでポカンとした瞬間は不思議と満ちた感じがする。

何かで満たそうと考えたり何かをしたりすると多分「満ちていない」という前提をいつのまにか自分にしてるのかもしれない。どこか何か足りない気がして何かで満たしたくて行動したりする。

 

なのでポカンと何もしてないと何もないのになんか全てがもうあるような気がする。

足りないと思わない、てことか。

 

それにからっぽなところってきっとないのだ。

何もないところがない。

ないが満ちてる。どこも満ちてる。空間には空気が満ちてるし。

この世界はみっちみちなのだな。

 

だからどっちでもいいんだな。

それはどこにある

心や魂はどこにあるか。

 

何となく多くの人が胸の辺りとかに何かを感じるんじゃないかなと想像する

 

でも考えたりするのは頭とか脳とかって言うのが一般的。

 

なんか変。

 

何かあって汗かいたり胸がドキドキしたり、それは脳が指令して自律神経が…みたいな話なんだろうか。

 

そもそもそんなにくっきり役割分担されてるんだろうか。確かに心臓には心臓にしかできない、肝臓には肝臓にしかできないことがある。

 

 

だとしたら心は自律神経か。

 

身体的反応と感情が連動してて、汗をかいてるから緊張感があるのか、緊張感があるから汗をかいているのか、実際はどっちが先なのかわからないんじゃないかと。

 

もしかしてどこか離れたところにあって、リモートコントロールされてる感覚器官が人体な可能性も…なくはない。私たちはパーマンで言うコピーロボット。お鼻をポチッと押すだけ。

 

適当なこと書いたけど、それくらい色んなことわからないで生きてる。50年以上わからない。

 

菌類みたいに走っている神経で考えてたりするかも。

 

どうでもいいけど菌類が現れたから植物が分解され酸素が濃くなりすぎなかったって話。

 

菌類が地球の神経回路みたいなこともあるよね。

 

絶対的な安心

まとまってないんだけど、大切なことだからメモしておく。最近「安心」というキーワードが私の中にある。

安心していることが、とても重要。

 

とても。

 

安心した状態から発せられる言葉や考え自体がもたらすもの。

ただの自分でここに存在していい根底からゆるされている感覚、とでもいう感じか。

 

安心してる人は何かできてるから安心してるわけじゃない、安心してるだけだ。

幸せな人は何かがあるから幸せなわけじゃないのと同じ理屈だ。全部私にとっては同じ理屈にしておくと簡単だ。

 

私がそう言うんだからそうなの!!

以上!

 

すみません。笑

 

 

私は自分の生まれ育った家で安心感を感じることはできなかった。いつも気を使って家族の機嫌を伺う子だった。結婚したら今度は夫の機嫌を伺ってきた。勝手に疲れて勝手に離婚した。安心を求めて結婚したのに。

 

でも今は少し違う。

うまく言えないけど、自分をゆるしたのかもしれない。多分それが進むともっと安心できるような気がする。

 

この間まで長いこと夢も見なかった。

見ていたのかもしれないけど睡眠時間が短く、常に緊張気味だったので覚えていることができなかった。スイッチ切れるように寝てスイッチ入ったように目が覚めた。

 

それが最近夢を見るようになってきた。夢を見たと言う寝覚めが戻ってきた、ということかも。

 

ただやたら安心しろっていうのも難しいことだとは思う。

 

でもたとえば何かができたら安心、という考え方があったとして、その考え方には終わりがない。次々何かすることって現れてくる。

終わりがないように思う。

いつも次のことを見てる。

 

全ての結果は自分の命が終わる時に判定が出る。それまで本当の結果はわからないのに安心できるだろうか。その時何かできてもまた次何かしなければ、となる。

 

だから今安心する。安心からスタートする。数を1から数えるみたいに。

 

私はなぜこんなに何もできてないのに安心してるんだろうな。我ながらお気楽だなと思う。

なんだか安心という状態にとどまるゲームみたい。どう考えるか、どう捉えるかのゲームをしてる。私はマイルールを決めてゲームしてるみたいだな。

 

全然説得力ないけど、とりあえず書くだけ書いたのでいいかな。笑

言葉で固定されたり

言葉は物事を固定するような気がして言葉に注意を向けてしまう。

そうすると余計固定されそうだけども。

でも意識していないとスッと自分の中に好ましくない言葉が入り込んでいることもある。

それは自分が受容体を作ってるだけなんだけど。

 

言葉は祝いにもなるし呪いにもなる。

 

でも日常的に言葉は使わなくちゃならない。

受容体をどうするか。

とにかく発する方より受ける方をなんとかすれば問題はあまり起こらない。

 

ていうか何も起こらない。

何もかも自分次第にまた戻るんだけど。

 

静電気が起こらずツルツルとした生地には花粉がつかない。それと同じことが心にも起こるんではないかな。

 

発する方と受け止める方のでことぼこが合致するとさらに強固に固定されたりする。

そこまで考えなくてもある程度の受容体があれば、言葉は簡単に固定させてしまうと思う。

 

それは誰かの心に少しずつ根を伸ばしていくかもしれない。

だったら素敵な花や草木が育つようなのがいい。

そういうことで考えると、普段から良い土になるように栄養を与えたりする自分の土作りは大事だろうな。

水をあげたりとか。

 

待てよ。

自分で自分の花を咲かせられた方がいいな。他の人に何もされなくたって。自分で養分を取り込み自分で成長する。外からされるのではなく、自ら外に取りに行ったり。自給自足か。

喩えだらけだけれど。

直接的な言葉より喩えの方が受け手は自由かもね。

 

書いてて思ったけど、私は何より固定されたりするのダメなんだと改めて。(^◇^;)

決めつけられるの考えてたら本当にゾッとしたので…あの父にしてこの娘ありだな。