木春菊日記

ゆるゆると気ままに

愛は無限にあふれくるもの

ずっと放置していたのですが気が向いたので。まず自己紹介からしたいと思います。

 

どこかの地方都市に住む女子大生です。

家族は父と母と妹と弟の5人と、柴犬が6匹います。

妹とは同じ大学に一緒に通ってます。

父の稼ぎはいいものの両親ともにお金の使い方が荒いというか大雑把で計画性がないせいで明日のお昼代も怪しいです。弟が産まれたのも計画性がないからだし犬が増えたのも計画性がないからだと思っています。あと家がめちゃくちゃ汚いです。常に。犬もいるから余計に。でも犬はかわいいです。猫もかわいいけど。

父方の祖母は要介護で老人ホームにいます。母方の叔父叔母たちとその子どもである従弟妹たちとは仲がいいですが、父方の親類とはほぼ交流がありません。母方の祖母は近年亡くなりました。祖父はどちらもおりません。

 

 

 

私は小学校は2年生くらいから行かなくなり、ほぼ保健室や支援室に通っていました。中学校はほんとに行かなくて1週間しか行ってません。高校は定時制で4年間ほぼ休まず通えましたが、大学に入った今もなんとなく学校への不信感というか居心地の悪さをずっと抱えています。

 

幼稚園の記憶はほとんどありません。年中からしか行っていないためもありますし、あまり楽しかった思い出もないのでしょう。ただひとつ覚えているのは、クラスの部屋の壁にあった子どもの荷物用の扉の無い木製のロッカーにずっと閉じこもって、部屋全体を見回していた風景だけです。同じ組の子が楽しそうに遊んでいる様子をじっと外から観察していました。母によれば、私の幼稚園のころの友達は3人程だそうで、それもおとなしい子ばかりで、おとなしく遊んでいたそうです。小さい頃は母に絵本を読んでもらうのが大好きだった記憶があります。おかげで今も本を読むことが大好きです。

小学校に通っていた記憶も、うっすらとしかありません。毎日通っていたという事すら思い出せないので、もしかしたら小1くらいの頃から行ってなかったのかもしれません。教室の風景や友達の様子など、思い出してみても違和感しかありません。ただ、勉強…というか新しい知識を得ることは大好きでしたし、本を読んだりテレビを見ることは大好きでした。ブロックや人形遊び、お絵かきばかりしていました。逆に運動が嫌いなのはこのころから変わっていません。

学校に行かなくなった、もしくは行けなくなった理由は、未だにわかりません。行きたくないと思った朝のことは少しだけ覚えています。前日に何かあったのかもしれませんが、それは思い出せません。あの朝、多分5月頃だと思いますが、両親に買ってもらったピンク色の、というより薄桃色の、今から思えばあの当時ですから目立って仕方がなかったでしょうに、そのランドセルを背負って、玄関で靴を履いたまま座り込みました。学校に行く時間になってもずっと座っていて、もう今日は休むと決めたのです。そして、登校時間が終わるまで座っていて、そのうちランドセルを置いて部屋の中に入って普通に一日を過ごしていました。母はどうしたらいいのかわからない様子でした。後から聞けば、私を学校に行かせようと無理やりをしたらしいのですが、確かに父がいる時(父は仕事の都合で1週間に二日ほどしか家にいません)には学校に送られたりした気がするのですが、なにぶん私は悪いことや嫌なことは忘れてしまう脳みそを持っているので、このころの両親の態度は思い出そうとしても思い出せません。まあ多分嫌なことをされたので記憶から抹消したのでしょう。行かなくなり始めたころ、一つだけ覚えていることがあります。当時私はブロック遊びに夢中で、比較的大きめのブロックで毎日遊んでいたのですが、それをどこからか母が持ってきたのか私が持ってきたのか定かではないのですが、玄関の床に置いて、文字を書いたのです。「がっこうにいきたくない」と書いたと思います。私はその登校ストライキを起こして玄関に座っている間中ずっと黙っていましたけど、母が何か聞いて来たりするので、多分そうやって言葉を伝えたのだと思います。両親が無理やり私を学校に行かせようとする期間は数カ月から半年、一年くらい続いたと思います。少なくとも一個下の妹が普通に通っていたのは覚えています。それが余計につらかったです。当時の記憶は家の中でしかなく、もしかしたらいじめられていたのかもしれませんが、クラスメイトの顔すら思い出せないので、もう私の表面の意識の中ではなくなっている過去だと思います。とりあえず、とにもかくにも「学校に行きたくない」と思ってしまい、学校に行かなくなりました。本などで読むと「学校に行けない」という不登校児の例がたくさんあります。私は「行きたいけど行けない」というのもあったと思いますが、大部分で自覚する感情は「行きたくないから行かない」という至極わがままな理由でした。行きたくない理由は、未だにわかりません。逆に、行きたい理由もわかりません。

途中から母はいろんな本を読んだのか、相談に行ったのか知りませんが、多分どちらもだと思いますが、無理やり私を学校に連れていくことはしなくなりました。同時に、父も母に言われたのか何も言ってこなくなりました。それから私はある意味で心が晴れ、ある意味で心を休めるため、病んだのかなんなのか知りませんが、うちでずっと過ごすようになりました。もともと外で遊ぶのが好きでなかったですし、知り合いに会うと怖いのでほとんど毎日一歩も外に出ませんでした。父は出かけるのが好きで、よく週末に家族をショッピングモールや外食、大型公園などに連れて行ってくれるのですが、それには付いていきました。ちなみに、これは今でもそうです。

 

これからの時系列はわかりません。多分バラバラだと思います。思いついた順番ですが、全部小学校でのことです。

 

いつからか昼夜逆転生活が始まりました。夜中までバラエティやアニメを見る生活が続きました。アニメが好きになったのはこのあたりからです。今でもアニメ・ゲーム・漫画オタクの端くれをやっております。 

保健室登校が始まりました。どうやって始まったのかは覚えていませんが、おそらく母と担任と養護の先生が決めたのでしょう。保健室登校をしていた子は二人いて5、6年生で、女の子でした。保健室のベッドの下に隠れて、漫画を読んでいたのを覚えています。彼女らが卒業した後は、ずっと将棋やトランプをして過ごしていました。でも途中で養護の先生が変わったのが少しショックでしたが、新しい先生も優しくて安心しました。でもベッドの下に入ることはできなくなりました。

時系列がおかしいですが、多分4年生くらいの頃、やたら熱心な担任の先生が来て、手紙を書いてくれたり、みんなの前で私のことを知らせたりすることがありました。私も口車に乗せられ、数日、普通の学校生活をしましたが、どうにも耐えられず、また家に引きこもってしまいました。当時から私は「犬夜叉」が大好きで、(高橋留美子先生つながりでらんまも)その先生も「犬夜叉」が好きで漫画を持っているというので当時出ていた最新刊まで数十巻貸してくれたりもしました。(これは嬉しさ反面、自分で集める楽しみを奪われた悲しさもありました)でもその先生は結局一年きりで別の学校に行ってしまいましたし、今思ってもその先生が私自身好きだったのかと聞かれると、おそらく苦手なタイプだったと思わざるを得ません。不登校経験者なら誰しもあったことがあると思いますが、「熱血」で「熱心」な先生でした。子供のために良かれと思ってくれたのでしょうが、私を取り巻く環境は何一つ変わりませんでした。

あと、その先生と交換日記や手紙交換をしていたのですが、一つだけ「犬夜叉はかわいいし強いし優しいのに人間も妖怪も彼を差別して意地悪してる。わけがわからないし、かわいそう」という内容の手紙を書いて、でもこれは子供心に恥ずかしく、また偽善的だしこんな理想は子供の考えることで現実はもっと厳しいのだと思ったので、封筒にあけないでと書いて、厳重に置いておいたのです。それがある日なくなっていて、数日後にその先生から返事が来たのです。「確かにそうだね、でも(私)がもし、違う特徴を持った子に会ったとしたら差別をしないことができるかな?」みたいなことが書かれていました。でもそんなことはどうでもいいことでした。問題は、「あけないで」と書いてあったのにあけて読んだ先生と、先生に渡してと預けたわけではないのに見つけ出して勝手に渡した母です。裏切られたと感じ、どうにも許し難く、一晩泣いて、それ以降手紙や日記のやり取りはしなくなりました。(そして当時も今も、「違う特徴を持っていたとしても私は差別をしないし、してしまったとしてもしないように努力する」と思いました。でもそれを先生に伝えることはできませんでしたし、する必要もないと思います。)

ちなみに私の妹も小4くらいから行かなくなり、一緒に保健室登校や支援室登校をしだしました。ずっとすることは一緒です。友達みたいな存在です。

小学校6年生の後半になって、なぜか学校の方針で保健室登校ができなくなり、代わりに支援室というのが出来て、そこで近所の知り合いの支援員をしているおばさんを先生として、妹と毎日そこで遊びました。勉強はしませんでした。毎日絵を描いて話をして終わりました。そのおばさんというのが、一時期私が習字に通っていた先生で、先生と言ってもただの子供好きな近所の人という感じでした。習字もその人のうちで自由に書いて終わり、でした。支援室では給食は食べた気がします。ある時一度だけクラスメイトの女の子が来て、私が絵を描くのを好きだと知ると一緒に絵を描いてくれたのですが、そのこの絵があまりにも普通で、私の描いている絵と全然違っていて、とても衝撃的だったのを覚えています。その子は小学生の女の子によくある「可愛い服を着たお姫様」を描いていました。その時私が描いていた絵が何だったのかはよく覚えていません。

 

支援室登校は楽しく、これなら中学校も頑張れそうだと思いました。母も張り切って中学の制服や教科書を準備するので私も気持ちが高揚していたのだと思います。結果は、惨敗でした。新しい学校に入学すると、1週間は自己紹介やテストや測定があるのはあたりまえなのですが、私はそういった学校行事や授業以外のことが嫌で、「これを乗り切れば授業が始まる」と思っていたのに、いざ授業が始まる日には行けませんでした。1週間のうちで、初めてお弁当を持って行って昼ご飯を食べた日のことは忘れません。みんな周りがぎこちなくも親しくなりかけていたり、小学校の頃からの友達グループが出来ている中、私は一人で窓際の自分の席で母の作った弁当を食べました。とても美味しかったです。その時私には、この世で生きていくために不可欠な「友好のためのスキル」がないのだと思い知りました。何せ5年ほど同級生と話してなかったので、こちらから話しかけられるわけもなく、あちらから話しかけられるわけもありませんでした。私は極端に人見知りで、おとなしい、コミュニケーションが苦手な人間なのです。

 

中学生の時は完全に昼夜逆転し、CSで深夜までアニメを見て朝に寝て、夕方起きる生活でした。今思えば完全に破綻した生活だったのですが、今でも少し懐かしく、そして羨ましい日常でした。このころは、周りはどうあれ、私は楽しかったのです。好きなものだけを見て、誰とも会話せずに過ごせる。家族とは特に険悪になったりしませんでしたし、妹も似たような生活を送っていました。たまに中学校の支援室にいったりカウンセラーに会ったりしましたが、この生活がとても気に入っていました。

 

中3の秋、児童一時預かり所に預けられたことはおそらく一生忘れません。妹と一緒でした。たった2週間でした。でも、忘れません。私と妹をそこへ預けようとすすめた支援員の方も、未だに許す方法がわかりません。許す許さないというよりは、一生根に持つと思います。ご飯は美味しく、勉強は適度に楽しかったです。漫画が置いてあってそれを一日中読んでました。それ以外は悪い思い出しかありません。多分そんなに悪いところじゃなかったと思うのですが、何せ一度も入ることを自分から了承していないのに、入れられたというのが、母に裏切られたという思いでぬりつぶされました。「君たちは二人一緒で、しかも二週間だけだ、それに見たいアニメを録画するために間に一度だけ帰して あ げ る」という雰囲気が、とても嫌でした。入れられた理由はおそらく母の心理的負担だったからと思うのですが、それでも私は家にいたかったですし、入れられる理由はないと思いました。でも、「入るのは嫌だ」とは結局2週間経って家に帰るまで言いませんでした。言えませんでした。

 

試験を受ける高校が決まったのは、入試の一か月前でした。もっと後だったかもしれません。ともかく、勉強は1週間もしませんでした。定時制の高校でした。無事に合格し、入学できました。母が不登校の支援団体などからの情報でその高校を知り、教えてくれた時は、私は自分のことなのに他人事のように思いました。入試を受けても、自分が現実通うとは思っていませんでした。

それが不思議なことです。1年生の時は、中学生の最初のように、友達が一人もできませんでしたし、それどころかクラスメイト同士での会話もないようなおとなしい子ばかりのクラスでした。なのに、耐えられました。1年の秋になって、体育を見学しているとき、同じく見学している隣のクラスの子二人に話しかけられました。その子たちとは今でも、数少ない友人であり、心を開ける相手です。それから少しずつ、クラスの子とも話せるようになりました。2年に上がると、クラス替えで、でもヤンキーに絡まれたりしましたが、楽しく過ごすことが出来ました。3年生の時には例のクラスの子たちやその子の友達たちとも同じクラスになり、本当に、3、4年生の頃は今までの私の人生で一番楽しい時間を過ごしました。幸せでした。ほんの1年前のことなんですけども。

 

そんな感じで、4年間、ほとんど休まず学校に行けましたし、心も許せる友人もできました。

今私は、私が悩まされた、そして今も、とても馴染めそうにないと思っている、たとえ4年間休まず行けたとしても残っている学校へのこの複雑な感情を、どうか解決して、それを次の子供たちにも生かせればいいと思い、小学校教諭、幼稚園教諭、保育士の免許を取るために大学に通っています。大学にはまだ友人はいません。片道2時間かかり、言葉も違い、地元とは違い都会です。

 

でも授業は楽しいです。本を読んだり、映画を見たり、新しいことを知ることは本当に楽しいです。人間に産まれてよかった。感謝します。

現実はただのぐうたらで自堕落なだめおんなですが。

 

私は家族を愛しています。私の家族への想いは幼いころから変わりませんし、今までも、これからも変わることはないでしょう。変わらないと言い切ることはできませんが、よほどのことがないと変わらないと思います。そしておそらく、家族も私を愛してくれていると思います。それから、それと同じくらい、私は友人を愛しています。

 

人や動物を愛するとき、私は幸せを感じます。

私はまだ恋愛をしたことはありませんし、リアルなセックス行為に魅力を感じないので、もしかしたらアセクシャルなのかもしれません。そしてどちらかというと女性の体のほうが好ましいと感じるのでレズビアンなのかもしれません。

でもそんなことはどうでもいいのです。

私も、自分のことを社会的弱者だと思っていますし、私は弱い人間です。とても弱いです。弱いというのは、例えば、自分に向けられたものではないとわかっているのに他人の「舌打ち」にひどく落ち込んでずっと気にしてしまったりする感じです。私は自己評価が低いと思っていますし、他人からも言われます。

だからなのかわかりません。落ち込んでいる人を見たら、背中をさすってあげたくなります。声をかけてあげたくなります。でも現実世界では、恐れ多くて、恥ずかして、不安で、とてもそんなことはできません。だからネット上は、私にとってとても居心地のいいネット上では、弱くて、泣きたくて、つらくて、まるで繊細な花のような心を持った人のことを、でも、その人は本当はとても素晴らしいひとだと思うのですが、そんな人を見ると、愛しいなあと思ってしまいます。傲慢な人、勝気な人、強気な人、そこまでいかなくて、もっと普通に生活している人でも、そんな人が作るしわを寄せられて、生きづらくなっている人たち。私には何もできないし、私もその一人なのです。この世界の人間のルールやマナー、コミュニケーションにどうしてもついていきづらいのです。本当はすごく優しくて、それゆえに繊細で、傷つきやすいのです。

 

この世で生きるのは、なんて苦しい。冷静になって考えて、論理的に考えて、普通に考えて、死んだ方がましだと思います。安楽死施設が早くできないかとずっと思っています。誰も産んでくれなんて言ってない。なのに勝手に産み落とされて、広い広い、荒れ果てた人々の荒野で生きていかなければならない。それくらいには毎日死にたいと思っています。

 

 

でも同時に、この世界はなんて愛おしいのだと思うのです。

 

 

全体的に支離滅裂で、読んでくださる方がいるとも思いませんが、もしいらっしゃったらごめんなさい、読みにくくて申し訳ないです。でもつい筆(?)がのって、半生をつらつら書いてしまいました。

以上が私の歴史と、そして考え方です。読んでくださりありがとうございました。

また気が向いたらいろいろ詳しく書いていこうと思います。

 

最後に、ブログをはじめようと思ったのはまつたけさんのブログを見たからで、

自己を見つめなおす機会をくださったまつたけさんに感謝しつつおやすみなさいします。