語ることばを手にする。

音楽も絵画も昔から人並みに親しんできたほうだ。しかし、自分がなんでその曲を、その絵を好きなのか、良いと思うのか
具体的に言語化できずずっともどかしさを感じていた。

そんななか、昨年から絵画教室に通い始めた。
絵は見るのは好きだけど、描くのは全くダメ。学校の美術はいつもお情けで評価をもらっていて、どちらかというと描くことに対して良い思い出はない。それぐらい苦手意識があるのに教室に通い始めた理由は、描いてみたら絵の見方とかわかるのかな?という興味があったからだ。
実際に通い始めて一年。今も描いていて楽しい!というより辛い気持ちが上回っているが、絵を見るときの目は少しずつ磨かれてきている気がする。素人ながらも、構成、配色、対比など自分が一つの絵としてまとまりを持たせるときに注意する点に関して目がいくようになった。自分で描くときはこういうところが全然できないのにこの人はそこをうまく描いているなあ〜とか、ここにこの色を入れるとこんなに輪郭が浮かび上がってくるのか!とか。自分が良いなあと思う点がちょっとずつ言葉にできるようになってきた。また一方で、こういう描き方ができる画家を探したいなあと考えるようにもなった。

絵を描くこと自体は本当にまだまだだが、自分の好きを言葉にできるようになったことは自分にとっての成長だと思う。いつか音楽についても語れるようになりたいので、次は楽器も…。(51/100)

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もう一つの勉強部屋。

田舎育ちの私は小学生の頃から電車通学。以来、大学卒業まで毎日電車に揺られ学校に向かっていた。高校生になると通学時間は2時間に。1日の中で通学に費やす時間がけっこうなウェイトになった。そんな環境だったものだから、小テスト地獄だった高校時代は、乗車中の宿題やテスト勉強は当たり前になった。家だと永遠にだらけてしまう一方で、電車に乗っていられる時間は有限だったので、集中力は段違いだった。それに周りの目があることもポイント。大変お恥ずかしながら、ちゃんと勉強やってるオーラを出して、「ちょっと偉いんだぞ!」と誇らしげな気分に浸れることもやりがいの一つだったりした。少々イタい思い出ではあるが、電車という空間を勉強部屋のごとく活用したことで、まずまずの成績を残せたのだと思う。

ときは経ち、社会人6年目。仕事とプライベートの時間が攻防戦を繰り返す日々を過ごしている。仕事が優勢のときは、帰ったらヘトヘトで勉強できず、一方でプライベートが優勢のときは、時間を無駄に弄ばしてしまうことがしばしばある。そんなとき、やはり自分の強い味方は電車なのだ。電車のドアがウィーンと開いた瞬間でスイッチオン。スマホでゲームをしたり、動画を見ている人に対してちょっと優越感を抱きながら本や新聞を開く。(←とても性格が悪いと思う)とにかく電車に乗っている間にいかにどれだけ多くのことをインプットできるかに全力を尽くしている。なんなら最近は乗り換えのエスカレーターの時間すら無駄にしない。今まで大江戸線は地下が深すぎて面倒!としか思っていなかったけれど、今は長いエスカレーターで本が読めるのがちょっと助かると思っているぐらいだ。
現在は在宅勤務できる環境が整っているが、通勤時間欲しさに出社しているという謎の現象が起きている。電車通勤をしなくなることは勉強部屋を失うことと同義なのだ。
明日は在宅勤務。ちょっとだけブルーな気持ちだ。(50/100)

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居心地の良さと美味しい記憶。

何事においても「こだわったらきりがない。」というけれど、自分にとってのこだわりはカフェやレストランの空間だと思う。
もちろん映えるような内装のお店は嬉しいけれど、それ以上にこだわりたいのは次の三つ。
席の間隔、椅子の座り心地、選曲と音響のボリューム。

席の間隔は言葉のとおりで、いくら素敵でも大衆食堂のようにぎっしりテーブルが詰まっているとそわそわしてしまう。「野外で生活を営んでいたときの名残か、人間は食事をしているところを襲われるリスクを本能的に感じていて、無意識的に壁側の席を選びたがる。」昔、高校生のときに英語の長文読解で読んだ文章をふと思い出したが、自分が感じるそわそわ感もまさにそのようなものなのだと思う。今日も某和食チェーンで食事をして、食後に少しおしゃべりでもしてから帰ろうと思っていたが、隣の人との距離が近すぎるのとその人の行儀の悪さが目に入って、淡々と食事を済ませて帰ってしまった。お店としては収容人数を増やしたり、回転率をあげることで利益改善に繋がるので理想主義的な話かもしれないが、空間を居心地よくして来店時の満足度を上げることで長く通い続けてくれるファンを増やす方法も是非取り入れてほしいと思う。

椅子の座り心地に関しては、そのとき自分がどのように過ごしたいかによるが、基本的に平べったくて硬いカウンターチェアのお店はいくら美味しいお店でも諦めてしまう。ゆっくりとその美味しさを噛み締めたいのに、先にお尻が疲れて帰宅したがるからだ。

また、ふかふかのソファーは大好きだけど、コーヒーを手に取るのによっこいしょと起き上がれないほど沈みこむタイプだとよろしくない。
理想はリラックスした姿勢で食事を楽しみつつ、おしゃべりもちょっとした作業もこなせる椅子と机の組み合わせ。この理想を叶えたカフェのひとつがマーガレットハウエル神南店だと思うので是非行ってみてほしいと思う。見た目はインダストリアルな素材の椅子と机なのだが、椅子は腰を優しく包み込むような絶妙なカーブを描いており、とにかく体がリラックスする。長居しようとしてついついポット入りの紅茶を頼んでしまうぐらい好きな空間の一つである。f:id:marikojikoji:20211212225341j:image

三つ目の選曲と音響のボリュームも居心地の良さに大きく関わる。かつてポルトガルを旅行したときこんな経験をした。その日はせっかくの海外旅行なのでと、街でちょっと良いレストランで夕食をとることにした。店内には繊細なメロディのクラッシック音楽が空間をやさしく包むように響きわたっており、ビシッとかっこよくスーツを着こなしたウェーターさんは流れるような手つきで食事を並べ、お隣では気品のある老夫婦でワインを嗜んでいた。完成されすぎているシチュエーションに、現地の人から見たら10代そこそこに見える私たちは肩をガチガチに緊張させながらメニューとにらめっこすることになった。しかし、お隣のご夫婦が食事を終え、親子連れと若者のグループが入店すると、音楽はビルボードのヒットチャートにありそうなポップ・ミュージックに早変わり。いきなり若者が集うカジュアルレストラン風のヤングな空間(?)に雰囲気が様変わりして「今までの緊張はなんだったの??」と思わず気が抜けて笑ってしまった。音楽ひとつで空間を変えることができるんだなと強く実感した一幕だった。もともと音楽には少しうるさい性格だったが、一層お店で流れる音楽を気にするようになった。いつか自分の忘備録も兼ねて音楽が良かったお店を書き連ねたいと思う。

音響のボリュームもお店でゆっくり過ごすうえではとても重要で、自分は店内でスピーカーを確認できると極力そこから離れた席を選ぶようにしている。たまに全力で良い雰囲気を出そうとしてジャズやAORを大音量で流すお店に遭遇するのだが、音量が大きすぎて相手に声が届かないうえに、ついつい音楽に気を取られるから頭が疲れてしまい、残念な気持ちでお店を後にしてしまう。店内の空調温度と居心地や料理との関係を配慮するのと同じぐらい、音響と居心地も真剣に考えてほしいと思う。ちなみに選曲とボリュームがちょうど良いお店としては、ブックカフェのFuzkueが大好きだ。おしゃべりやパソコンのカタカタ、ペンのカチカチなど読書空間を徹底的に追求するためのルールで静けさが保たれた店内にアンビエント音楽がスーッと染み渡っている感じがたまらなく居心地が良い。しばらく行けていないが、自分にとっては(実家とマンション除いて)東京で一番安心できる環境がFuzkue。興味のある方はお店のルールをよく読んだうえで是是非足を運んでほしいと思う。f:id:marikojikoji:20211212225421j:image

こうやって読み返してみると自分って面倒臭い人間だなと思うが、料理って食べる環境で美味しさの思い出も捏造されかねないと勝手に思っている。だから自分の美味しい思い出を守るためにもお店探しにはこれからも熱を注いでいきたいと思う。(49/100)

「資源」×「コミュニティ」

社内でサーキュラーエコノミーの新規ビジネスを手伝うようになって早10ヶ月。
普段の仕事では出会うことができない様々な業種の方や自治体、学校と接点ができるようになった。(サーキュラーエコノミー:廃棄物を出さずに資源を循環させる経済の仕組み)

最近、そのご縁で「資源」×「コミュニティ」という興味深い取り組みに出会うことができた。
そこでは自治体の市民センター内に、資源回収ステーションを設置。
集められたプラスチック資源は、参加企業の技術を生かして新たに製品として生まれ変わらせる。

面白いのはここからで、資源回収をきっかけに集まった人たちのなかでゆるい繋がりが生まれていることだった。
回収ステーション内には資源を使った工作スペース、不要になった洋服や食器を持ち込んだり、譲ってもらえるリユース市、コーヒーとお茶菓子でひと休みできるカフェスペースがあり、様々な年代・バックグラウンドを持つ人々が思い思いに時間を過ごすことができる。
ある女性はここでコーヒーを飲みながらおしゃべりをするのが楽しみで、休館日以外は毎日のように通っているとのこと。また、夕方になると放課後の子供たちが遊びに来て元気をもらえるとも言っていた。
彼女にとってこの場所は、もはやただの資源回収スペースではなく、一つの居場所になっているのではないだろうか。

自分の居場所を探したり、新しくコミュニティに参加しようとするのは、時に労力の要るものである。
(自分の地元もそうなのだが)田舎のような地域では、コミュニティは強力なセーフティーネットである一方で、その結束の強さゆえにちょっとしたことでも厳しい目を向けられるようなこともあり息苦しい場所にもなり得る。
一方で都会は、田舎のコミュニティのような息苦しさからは解放されるが、自分からきっかけを作るなどして動き出さない限りは、ずっと一人だ。会社や学校以外のコミュニティとなると、習い事やセミナーなどお金と引き換えでコミュニティに参加する、といったパターンことも少なくない。(←決して習い事やセミナーが悪いという意味ではない。)

地域の自治会のようなガチガチのコミュニティは苦手だけど、誰かとリアルで繋がっている安心感はほしいという人はけっこう多いのでは?と思っている。
「資源」をきっかけに、年齢やバックグラウンドに関係なく、ゆるく繋がれる場所。
資源だけでなく、人の心も循環するような豊かさを生み出す場所へとなってほしいと強く思う。(48/100)

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※写真は都内のお気に入りのコミュニティカフェに行ったときのもの

なんで建築が好きなんだろう。

建築に心を奪われ早3年。

出会いは安藤忠雄の回顧展。

それまで建物は作ったらおしまい。なんというか、"箱"のイメージが強かった。

しかし、そのイメージは一転。展覧会を通して、ある一つの建物がきっかけで周囲の環境を変わったり、人とのつながりや新たなコミュニティを生まれることを知り、衝撃を受けた。建築って街や人を変える力があるのかと。

それから色んな建築家の本を読んだり、実際に気になる街、建物へ足を運んでみたりした。

その街の歴史や建物ができるまでの苦労や、建物が建ったことで生まれた新たな人の繋がりに想いを馳せると、自分がどのように気持ちが高揚する。

コロナで自由に行動ができなくなって、改めてどうして自分は建築が好きなのか気がついた。

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(写真は安藤忠雄ではなく、妹島和世さんのすみだ北斎美術館)

 

旧素材こそ新しい。

鑑賞するたびに知恵熱が出ちゃう、杉本博司さんの作品。

頭疲れるけど、どうしても気になるので「新素材研究所・-新素材×旧素材-」を観に建築倉庫さんへ。

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展覧会の要旨をザックリまとめるとこんな感じなのかな。
「かつて人間が自然と上手に共生できていたころの旧素材(石や木に職人さんの手が加わったもの)。

これらを再解釈して、新しい価値を与えよう、新しい建築の美学を提示しよう!」

展覧会は模型や写真、渋カッコいい旧素材たちがずらり。

杉本さんは「旧素材こそもっとも新しい」と仰っていますが、頭がクラクラするほどカッコ良かったです。

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あと、今回の展覧会で自分の中の「建築モヤモヤ」がちょっと晴れました。
建築に造詣が深くはないけれど、現在は二つの潮流があるのかな?と思ってます。
①暮らしをつくる・提案する実験場としての建築。

②思想表現のキャンバスとしての建築。

杉本さんはどちらかというと後者に当たるのかなと思います。

ただ①にも②にも言えることがあります。

伊東豊雄さんの言葉を借りるならば、それは「建築がどんどん自然に開いている」ということです。

かつての建築は技術によって自然をコントロールして成立していたけれど、今は逆。

技術の力を借りて自然と共生できる建築が理想になりつつあります。

今まで、「暮らしの建築」と「アートの建築」は全く別物のように思っていました。

でも、根底には共通の問題意識が流れているのだな〜。と新たな気づきを得ることができ、ちょっとスッキリしました。

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鑑賞料は3000円と少しハードル高めですが、杉本ファンは是非お越しを。

(44/100)

グンマーの秘宝、太田市美術館・図書館。

「この企画展を逃したら、グンマーに行くことは当分ないだろう、、、。」

ということで、ずっと気になっていた太田市美術館・図書館へ行ってきました。

駅を降りて片目を瞑って顔を上げると、どこにでもある地方都市の殺風景なロータリー。なのですが、、、。

いざ両目を開くと、眩しいほど輝くガラス張りの建物が!!

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外壁を極力ガラス窓に置き換えたことで屋内にいても陽の暖かさを肌で感じられる素敵なつくりになっていました。

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建物については申し上げたいことが山々ですが、企画展のことを少し。

「ことばをながめる、ことばとあるくー 詩と歌のある風景」という企画展で、各フロア、1テーマの三部構成になっていました。

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一番印象に残ったのが、最果タヒさんの詩と佐々木俊さん、祖父江慎さん、服部一成さんのグラフィックがコラボレーションした作品でした。

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「美術館で詩を読むとしたら、その詩はどのような形を持つか」という問いが出発点になった本展覧会。

何だろう、言葉で表現するのが難しい。

詩を読むというより肌で感じるような不思議な体験で、詩集にジッと向かって読むときよりも、言葉がスーッと頭に、そして身体に浸透する感じがしました。

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ちょっと主旨から外れますが、「あっ、いいな!」と印象に残っている詩って、案外雑誌や、映画のワンシーンで引用されている詩のことってありませんか?不覚にも出会っちゃったよ!みたいな感じで。

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今回の展覧会では、詩が本の活字から解放されて、美術館の中を自由に泳いでいました。

そして、これをきっかけに詩の新たな楽しみ方が発見され、今まで詩にあまり馴染みがなかった人が詩と出会う取っ掛かりになったのかなと思います。

(43/100)